00墨俣城
平成12年11月11日,岐阜12:12-大垣12:23岐阜バスセンターまで歩いて2分。流通センター行きに乗り墨俣まで22分。昼間は1時間1本なので注意が必要。
墨俣城(200円),歩いて8分,晴れて暖かい。
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一夜城物語(リーフレットより) 尾張の織田信長は,父信秀の時代からの懸案である美濃攻めに苦悩していた。永禄3年の田楽狭間で,今川義元を討ち取った信長は,その勢いに乗じて,直ちに美濃攻めに向かう。佐々成政・佐久間玄蕃の兵を加え,森部に戦うが,増水のため退路を断たれ,敗退する。同4年にも,軽海城の織田信益救援のため一四条に進出する。しかし,信益が討ち死にしたため,佐々成政・小坂孫四郎の築いた墨俣城に引き上げ、洲俣を引き払う。かくて洲股の作事は永禄3年より両3度の信長出馬があるも,洲俣抱え難く,破毀し,永禄5年に引き退く。誠に苦悩の戦いであった。さて,永禄元年,信長に仕えた木下藤吉郎は,永禄6年,足軽鉄砲隊100人組の組頭に仰せ付けられ,臨戦の機会を得て,武者となってからの状況は一変した。 |
| 永禄7年,犬山攻めの陣触に先立ち,藤吉郎は,信長へ献策があり,伊木山。鵜沼調略に成功する。同7年9月には,稲葉山焼き討ち,新加納築城に成功してからは,信長より1600貫の後給地を賜り,益々の信頼を深めていく。その後,信長は東美濃の城を次々と攻め落とし,新加納に築城するも,難攻不落の稲葉山城に近づくことが出来ず,すでに断念した墨俣城を考慮せざるを得なくなった。「交通の要である洲俣を制するものは美濃を制し,美濃を制するものは天下を制す」と言われている。「墨俣は死地なり,死地また生地なり」正に生死を賭けた戦略上の要の地である。日頃、秀吉の献策が成功し、その進言を重視していた信長は、木曾七流の川並衆を支配する野武士の頭衆である蜂須賀小六等と交わり,その信用を得ていた藤吉郎に密かに墨俣築城を命じた。これは,信長の武将たちが失敗した難関である。藤吉郎は一命を軽んじ,その任に当たる。永禄9年春越方に松倉城(川島町)に前野又五郎・坪内玄蕃・同喜太郎等の坪内党を訪れ,協力の申し出をするが,新加納城を失うことを恐れて受けず。 |
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そこで又五郎の仲介で、宮後村の蜂須賀屋敷へ罷り,小六と直談に及ぶが,小六は多くを語らず,聞き入るのみで,遂に場明けず,一旦帰る。再び正月,藤吉郎は坪内一族の外に、ねねの兄木下家定・弟小一郎を同道して,密かに小六に相談があり,築城計画を打ち明ける。すでに状況は一変し,稲葉山城は織田方の城により包囲され,西美濃3人衆もまた信長公に味方する。この際,過去の失敗を省み,一夜の内に多人数を以って,馬柵を幾重にも堅固にこしらえる。境川は天の我に与えたる運材の道である。松倉瀬上より馬柵の用材を一人一肩一本,千人にて千本運び入れ叶うというもので,敵が働かざる間に,馬柵を完成させること。これが第一に為すべきことである。「貴辺の合力があれば,二千有余の人数を集めることは至難の業にあらず。この機会を失えば,この世に出る機会もなしと存ずる次第,なにとぞ御諒承下され」と頼み入れらるる。 |
小一郎の頼みが加わるが,小六,暫時口を閉ざして語らず,しばらくして口を開き,「洲俣のこと御引受け申す」と。かくして洲俣陣の首脳である藤吉郎・小一郎・小六・長康の命を賭けた同盟関係が成立する。同年5月,莫大な数量の築城諸材を七曽八曽の山で狩り出し,飛騨川を筏で流し,松倉(川島町)にて製材する。押し出しの時期は永禄9年9月12日午前2時。のろしを合図に松倉瀬上より,資材部隊は総大将稲田大炊介の指揮で,境川を川舟・田舟を使い綱で引く。残りは一人一本ずつ肩に荷って,洲俣まで城材を運ぶ。総勢約千人。戦闘部隊は、前野村・宮後村・清須より,藤吉郎・小六・長康・松原内匠(大工・棟梁の組頭)等は、小越の渡し口より押し出す。