久々にお茶のお稽古に行ってきた。
3月以来だ。
今年になってまだ2度目。
今年はなんだかんだ忙しいせいか、ひどいね、これは。

この日のお点前はお茶箱でした。
お茶箱とは、茶碗/棗(「なつめ」お茶入れのこと)/茶杓(抹茶をすくうさじ)/茶巾(お茶碗を拭く布)/茶筌(「ちゃせん」しゃかしゃかとお茶を点てるための竹製のけばけば)/振出(中に金平糖とかそういう細かい系のお菓子が入ってる)/袱紗(「ふくさ」棗や茶杓を拭く布/通常は腰から下げる)をセットしてお点前畳まで持ち込む為の箱で、我々はこの箱を使うお手前を「お茶箱」と呼んでいます。
大体毎年、1年に1回、7月にやっているのだけれど、最近、月に1回しかお稽古が出来ない人が増えてきて、1回やったきりだとわけわからぬまま終了してしまうので、今年は6月7月の2ヶ月でこのお点前をお稽古することに。

お稽古に行ったらお弟子がその時間は私しかいなくて、2回お点前できた。
しかし、1回目のひどいことと言ったらない。
さすがに、忘れている。
段々調子を取り戻しはしたものの、頭で考えてしまうと身体が動かず、間違える。
むしろ、身体が勝手に動くがままにやったほうがいいらしい。

「自転車の乗り方と一緒で、身体が覚えているのよ。」とは先生の談。

何でもそうなのかもしれないけれど、お茶のお点前の一つ一つの行為には意味があって、ただなんとなくそうした、と言うのはないのです。
お点前の部分部分は全て理由があって、その理にかなうように出来ています。
だから、次の行動を起こすときに、「次に○○がしたいから、今、こういう動きをする。」と理解して覚えていくわけです。
これが慣れてくると、明確に頭で考えるのではなく、身体が自然に反応して動いてくれるのですよ。
でも、先述のとおり、さすがに久しぶりすぎて、起こしてあげないと寝てるのね、私の茶道センス。

それでも2回目は何とか調子を取り戻しつつ、存分にお点前を楽しみました。
やっぱり好きだぁ。
お茶は楽しい。
お芝居を観たりどこかに遊びに行ったりする、わあわあきゃあきゃあという「動」によるエネルギーではなく、落ち着いた雰囲気の中、心を沈めて得る「静」のエネルギーを蓄えることが出来る。
ご自服しながらの先生との会話も楽しい。

いつもいつも、お稽古が終わった後は「来てよかったぁ〜。」と思うのだけれど、でも、仕事やらなんやらかんやらで、なかなか毎週というわけにいかないんだよね。
それが残念であるよ。

高校1年生からやっているので、かれこれ13年目をやっているわけだけれど、まだまだですなぁ。
師範免状持ってるけど、いや〜、まだ人に教えられるスキルはありませんよ。
いつの日にか、私が大好きなこの文化を、後世に伝えるための一端を担うことが出来たらいいなぁ、とは思うけどね。
たとえ、人に教えることになったとしても、完成されるものではないだろうね。
私自身は一生「弟子」でい続けるだろう、きっと。

というわけで、茶道センスが少しでも残っているうちに、自宅でも一服点ててみた。



つまり、この写真はお稽古で撮ったのではないのです。
また、茶筌と茶碗を一緒に撮ってみたけど、実際のお点前ではこんな配置になることはありません。

「結構なお点前でございました。」


って自分で言うなよなぁ。