臼杵石仏<第2部>
あることをどのように確かめたか ー現地臼杵の満月寺五重塔を再調査してー 角田 彰男(「 多元的古代研究会 」 会員) 林 伸禧 (「古田史学の会・東海」 会員) |
満月寺五重塔の年号正和4年乙卯卯月5日には、干支乙卯がついているので鎌倉年号とされてきたが、臼杵石仏にあった年号と卯月5日まで一致しているのは偶然だろうか。これは鎌倉期の年号か良く調べる必要がある。
満月寺五重塔の正和四年乙卯卯月五日は鎌倉年号か? |
この塔の年号文字は、軟弱で風化されやすい凝灰岩に彫られた石文であり、文字幅数センチで、彫りの深さ数ミリと浅い。凝灰岩に彫られたこのような石文は数百年も雨・風に晒されれば風化して読取り困難になる。ましてや西暦529年に彫られた九州年号なら約1500年の雨風で風化し判読できないはずである。だが、この石文は良く読めるし、年干支乙卯付きなので鎌倉年号と信じられてきた。だがそれは本当か。更に次の2つの資料で詳しく調べてみる。
画像2 郷土史家 菊田徹氏「臼杵史談」86号の満月寺五重塔の記録とその実測図
五重塔と仁王像 ※この五重塔は明治初1868年頃まで満月寺多層塔として2基あったが、洪水で崩れた近くの*深田川修理に1基の屋根部分を壊して使用した。その約百年後1971年同岸から屋根破片多数を発堀回収し1976年五重塔として復原した。
※臼杵市満月寺境内の多層塔(後の五重塔)の基礎と初層は、永い間、地中に残ったとみられる。これは左図の満月寺境内の*仁王像の太腿から下が1.3m程地中に埋もれており推理できる。
画像3
この塔銘を記録した江戸期1741年「寺社考」(奉行 太田重澄著)を示す
出典「満月寺と臼杵石仏」
臼杵市教育委員会刊2019年
この正和四年卯月五日には年干支が無いので干支は元々刻まれてなかったと言える。よってこれは臼杵石仏にあったのと同じ九州年号である。(塔銘と寺社考では願主と施主の表記が違っているのは、おそらく銘文が地に半ば埋もれ読み取り難かった為と思われる)
① 満月寺跡の発掘調査と九州年号から考える寺の成り立ちと五重塔
戦後発掘により、数多く発見されたのは柱列跡であり、それに土壙跡・井戸跡、特殊遺構などが続く。そして弥生式土器や土師質土器などの日常雑器類や中国製陶磁器などの遺物が多く出土した。又、多くの鉄器片や鉄滓の伴う鑿などの鉄器を鍛える工房跡が出土した。これらは草堂形式の屋根を持つ掘立柱建物跡とみられる。ここで多くの仏師が生活し、外で石仏を彫っていたとみられる。更にその近くから礎石建物3棟跡が重複しつつ出土し、こうして発掘された諸々の建物跡遺跡は計28棟分にも達した。これは満月寺が平安より遥か昔の九州王朝期から存在し、それに相応しい規模と考えられる。この中には旧建物の建替期に石の上に石を重ね、傘上げしている礎石列出土跡もある。この付近には瓦も多く出土し、これらは鎌倉頃の礎石建物の屋根用と考えられる。こうして考えると満月寺は西暦529年の開鑿前から存在し、石仏を彫る仏師達の宿舎を含め広い範囲に多くの建物(六坊?)で構成され、日夜、石仏開鑿を支援していた様である。当時、臼杵石仏は炭焼長者が大和朝廷発足前の九州王朝の下で磨崖仏の開鑿祈願した大事業であり、その結果、満月寺と長者屋敷の双方から数百メートルの位置に臼杵磨崖仏が完成した。
ここで五重塔の九州年号が1500年後の現代までなぜ残ったかを考えてみる
石仏開鑿後、雨風に晒され五重塔は土砂で少しずつ埋まっていったとみられる。だが初めの170年余は傍に満月寺が存在したので塔の維持・整美はされたと考えられる。 しかし701年以降、九州から奈良の王権交代の煽りを受けて旧王朝の年号、正和4年を刻んだ五重塔は逆境の中で奈良時代からは自然状態にさらされ次第に地中に埋まっていったとみられる。だがその後、平安後期から近畿天皇の力が低下し、鎌倉から南北朝にかけて九州年号の研究も現れるようになり何とか寺は維持されたようである。
戦国に入ると、やがて僧たちが寺を去りはじめ、満月寺は戦国末には焼けて復興されず、江戸初期まで釈迦堂として残ったという。江戸の太平の世になると、臼杵藩の神社仏閣や廃寺の現地調査が行われて満月寺(廃寺)の現状、並びに境内の多層塔の正和四年卯月五日の年号(*江戸期奉行が半ば埋もれていた塔初層の覆土を掘上げて読み、年号等を書き取ったとみられる)が採録され「寺社考」に記載された。こうして満月寺の多層塔は奈良から戦後1976年の五重塔として復元完成まで堆積により塔の下部まで長く埋もれていたと考えられる。これは同境内の仁王像が太腿まで地に埋もれている事から推定できる。こうして五重塔(初層)の年号は地中に永くあったので風化されず残ったといえる。よって五重塔の九州年号は約1500年後の現代まで残った。こうして九州年号が現代まで残った事が合理的に説明できる。
正和四年卯月五日の年号に、いつ頃乙卯の年干支が付いたのか?
これまでの経過を次の年表を示す。これによると1976年まで年号に年干支はなかった。(臼杵史談86号は1971年まで年干支はなかったに含める)
〇満月寺五重塔の銘文に年干支が現れるまでの年表 *年表は寺社考、臼杵市史(下)等を基に菊田徹氏にお聞きして作成した。(林氏) (*写真の横書干支は右から読む)*深田川=満月寺の前近くに流れる川
和 歴 |
西 暦 |
記 事 |
寛保元年 |
1741年 |
太田重澄は『寺社考』で「右塔銘 正和四年 卯月五日 施主阿闍梨隆存敬白作圓秀」と記録(年干支無し) |
明治初年頃 |
1868年頃 |
満月寺境内に多層塔2基があった。当時、洪水で *深田川岸が崩れたので多層塔の*屋根部分を壊して使い岸を補修したという。(塔の基礎と初層は境内の地中に残ったままと見られる) |
昭和46〜 47年
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1971年 1972年
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昭和46年(*深田川)河川改修、同47年木原石仏(*仁王像)周辺の発掘調査により多層塔の屋根の破片が多数出土したので、これを接着し欠損部を補足し、新たに相輪を刻み、造立当時の原形復元に努めた。 |
昭和51年 |
1976年 |
五重塔として復元完成。(刻銘の一部が判読不能により正和四年□卯月五日と記録した。1字分空白 干支なし) |
昭和52年
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1977年
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4月8日 満月寺五重塔として臼杵市の有形文化財に指定される。(現地立札より確認) |
平成4年
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1992年 |
臼杵市史(下巻)出版 *この本の121頁に五重塔銘文が何故か突然乙卯の干支入りで「正和四季乙卯卯月五日…」と印刷されている。又、年→季の誤りがある。 |
平成7年 |
1995年 |
臼杵史談86号発行 五重塔銘に「正和四年 卯月五日」の記載があるが年干支はない(これは1976年当時の状況で記述した為という) |
平成20年 |
2008年 |
河合哲雄氏がHP「石仏と石塔」に五重塔の写真をアップされる。それには「正和四年 乙卯卯月五日…」と年干支が横から彫られている。 |
この年表から正和年号に年干支乙卯が現れるのは1992年臼杵市史(下)と判明した。次に塔を撮影した河合氏のHP2008年アップの画像と2020年、再度臼杵を訪れて五重塔の年号の乙卯を近接撮影してきた角田写真を詳しく見て後年干支が追刻された痕跡を調べてみたい。
再度の満月寺五重塔の調査 画像4
2008年河合様HP石塔と石仏より↓ 2020年2月16日角田撮影近接写真↓
写真によると正和四年卯月五日は縦書きに彫られているが、年干支乙卯は横から割り込む様に横書きで彫り込まれている。その彫りは年月日に比べ乙卯は鑿の彫りがやや深く、彫り幅もやや広い。特に乙(異体字=乚)の字幅が太い。又、卯(俗字=⽍⼙)と乙はどちらも左右の縦の枠線を割ってはみ出ている。これは後から干支を彫り込んだ為と考えられる。正和4年の年号に乙卯が付いて出現したのが1992年の臼杵市史(下)であることは年表から確かであり、塔の石文年号に乙卯が追刻されたのもこの頃であろう。こう推理すると正和4年卯月五日が九州年号である事は確かと言える。
最後までお読み頂き有難うございます。以上の発表文書は角田と林の2人がこの3ヶ月をかけて資料・写真などの収集を行い、メールで協議を重ねて作成したものです。この発表を読まれてのご感想はいかがでしょうか。本会の会員・例会参加の皆さん・研究者の皆さん、御感想や御意見をお寄せくださるようお願い致します。
参考図書 著者 出版・発行 「大乗仏教芸術史の研究」
小野玄妙 金尾文淵堂or大雄閣 *中村不折画伯も小野玄妙氏に近い見解を表明していた。 「臼杵小鑑」 鶴峰戌申 国会図書館蔵 「臼杵史談」第86号 板井清一 臼杵史談会 「臼杵石仏」 賀川光夫編 吉川弘文 「古代史の十字路」 古田武彦 東洋書林 「石塔と石仏」 河合哲雄氏主催HP 「東海の古代」225号 林 伸禧他 古田史学・東海 「炭焼長者黄金の謎」(歴史推理小説)角田彰男 原書房2009年刊 「満月寺と臼杵磨崖仏」 臼杵市教育委員会 2019年刊 |
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