意外! 夫婦岩の起源は邪馬台国にあった
ー夫婦岩は対馬を象徴していたー
はじめに
夫婦岩と言えば、伊勢・志摩の二見ヶ浦にある夫婦岩が有名である。海岸の二つの岩の間に昇る朝日を拝むと縁起がよいとされ、夫婦円満・縁結びの象徴としても知られ、多くの人々が訪れる。夫婦岩をみて疑問を持つ人はどれだけいるだろうか。絵になり写真になり正月のカレンダーなどにされている。私もそれで何の疑問も持たなかった。
ところが「邪馬台国五文字の謎」の小説を書くため北部九州を調べて驚いた。糸島にも二見ヶ浦の夫婦岩があり、伊勢湾のものより大きく立派な上に、二見ヶ浦地名だけでなく、近くに志摩(町)地名もあるではないか。そこで改めてその由来を調べてみて、夫婦岩は天孫降臨の証拠であり、邪馬台国九州起源を物語るものであることに気づいた。以下、どのように推理したか述べてみたい。
一、伊勢湾の夫婦岩の由来の謎
三重県・伊勢湾の二見ヶ浦の夫婦岩を調べると大小二つの岩に綱が渡してある。高さ 左岩十一メーター、右岩四メーター。この近くにある二見興玉神社(創建八世紀初、大江寺から1897年現在地へ移る)の伝承によると、双岩は海の鳥居であり二千年前に祭られ、その間からみえる沖合の海面下にある聖なる神石を拝むためのものであるという。その謂われは神代、ここに天孫降臨の道案内、猿田彦神や常世の神が現れたからと言う。
この神社由緒によると、この双岩は、元々、沖の神石を拝する鳥居であるという。つまり初めは「夫婦岩」ではなかったと言うことである。朝日を拝する習慣や、夫婦岩の呼び名の成立は、後世のものであろう。おそらく夫婦岩の呼び名は、伊勢参りが流行した江戸時代以降に広まったのではないだろうか。現代は海岸だけでなく、山や川、神社の境内などにも夫婦岩が祭られているが、その元は海岸の双岩祭祀であろう。こうして「夫婦岩」の起源は、その年代や神名からして邪馬台国や天孫降臨と関係あるといえる。
二、海中の神石を拝むとは?
今日「夫婦岩」と呼ばれている双岩の祭祀起源の謎を解く鍵は、その参拝対象の神石である。沖合はるか海底の神石とは何を意味していたのか。しかし、双岩が初めて祭られた時、古代人がこのような説明で納得し拝むだろうか。何しろ海中の神石は見えないのだから。本来、物事の始まりは具体的で何らかの必然性に基づくのが普通である。夫婦岩を通してみた沖合はるかに具体的に何があったのか。それが推理できれば夫婦岩の謎は解ける。
三、夫婦岩の起源を探る視点
天孫降臨は九州が舞台であり、対馬・壱岐の漁師・交易民である倭人が、紀元前に北部九州の糸島・博多に上陸・進攻して倭国・邪馬壱国を建てた歴史的事件を神話化したものである。この天孫降臨の視点で伊勢湾の夫婦岩を調べてみる。
はるか沖合を拝するというこの伊勢湾の双岩祭祀は二千年前の伊勢神宮の創建の頃に始まったとされる。しかし、伊勢神宮の成立は謎が多く、古事記に記載がなく 式年遷宮の最古の記録も六九〇年とされ、日本書紀に崇神天皇の代(紀元前5年頃)に成立と書かれてあるが、紀元前の成立ではないことは筑紫申真氏の研究でも明らかである。従って現在地での伊勢神宮の成立は七世紀末か八世紀初めであろう。伊勢湾の二見浦の双岩祭祀も起源は、その頃ではないだろうか。するとそれ以前の「夫婦岩」の祭祀はどこで行われていたのか。そこで思い当たるのは、九州・糸島半島の夫婦岩である。さらに常世の国とは、壱岐島のことという説がある。
*「君を待つ松浦の浦の乙女らは常世の国の海人乙女かも」万葉集八六五
* 常世=「壱岐に常世の社有り」(壱岐風土記) :今も壱岐の天の手長男神社境内に現存
夫婦岩の沖合に常世の神が現れたと言う伝承は 糸島の海岸なら地理的にあう。さらに天孫降臨は九州・糸島のことである。糸島の夫婦岩はまさにそれにぴったりの所にある。糸島半島の夫婦岩が本来の起源ではないだろうか。
四、糸島の夫婦岩と岩戸岩窟
福岡県・糸島半島・志摩町に二見ヶ浦があり夫婦岩がある。高さ、左岩十六メーター、右岩十一メーターで、沖合百五十メーターにあり堂々としている。起源は、古来よりとされているだけであり、未詳である。
しかし、近くの岩窟には、神直日神など三神(警固三神と見られる)が祀られ「岩戸宮」と呼ばれている。神直日神などの警固三神は、天孫降臨の際、対馬・壱岐から軍船団を操って糸島に上陸を成功させた航海の神、住吉三神と同時に生まれた神である。
○住吉三神 表筒男命 対馬 豆酘
中筒男命 壱岐 筒城
底筒男命 糸島(伊都) 筒原(雷神社あり)
○警固三神 神直日神(かんなおひのかみ)
大直日神(おおなおひのかみ)
八十枉津日神(やそまがつひのかみ)(伊豆能比?) *紀・記に違いあり
*警固三神と共に対馬の厳原(伊豆ヶ原)にあった「伊豆」の名が九州・博多に出現している。
この神域にある桜井神社(創建、寛永二年・一六二五年)は、藩主、黒田忠之公によって造営された筑前国の守護神で、与止妃大明神(竜宮の乙姫様・豊玉姫)を祭っている。この神社の創建の謂われは、慶長十五年(一六一〇年)の六月一日より二日暁にかけて雷鳴轟く大豪雨が降り、岩戸神窟が初めて開いたという。おそらく、豪雨で岩が崩れて岩窟の入り口が開いたのだろう。それで感じるものがあり、やがて藩主が社を建てたという。(写真提供 百嶋様)
五、双岩は竜宮への入り口?
糸島の「夫婦岩」は、宇良宮(浦の宮)とも呼ばれ「竜宮の入り口」との伝承があり、古代より祭られ、当地、汐斎浜の御神体である。近くの岩戸岩窟(奥宮)は前述のように桜井神社創建以前のはるか昔からあったと考えられる。今では、これらは桜井神社の摂社であるが、摂社の方が古い神様を祭っている。毎年五月の初めに「夫婦岩大注連縄掛祭」が斎行される。重さ1トンの大注連縄を数十人の氏子が磯伝いに持ち渡り、双岩の間に差し渡し三十米の注連縄を張る。ここの二つの岩はイザナギとイザナミを象徴しているとの伝承があり、ここが夫婦岩の元祖ではないか。ところがここは西を向いているので朝日でなく夕日を拝む。つまり夫婦岩で共通するのはとにかく海上の太陽を拝むことである。太陽を拝むということはアマテル神(天照大神)を拝むことに通じる。
そこでもしやと思って地図を見ると、糸島の夫婦岩から沖合を拝めば、その方向の海上はるかには、ちょうど対馬があることに気付いた。アマテル神は、対馬起源の神である。(小船越にアマテル神社がある)さらに対馬には竜宮伝説・磯良伝承があり、磯良石と真名井の井戸がある。対馬は竜の島でもある。鳴滝は龍神信仰の地。対馬の北島は竜の頭に似ている。また、対馬二島は横にしてみれば、二匹の竜が口を開けて対峙している形(浅茅湾)なのも興味深い。伝説を残した対馬の古代人はこれらを意識していたと考えられる。こうして夫婦岩の謎を解く糸口が見えた。
六、夫婦岩は対馬を象徴していた
夫婦岩の沖合はるかの神石とは、すなわち対馬を意味していたのである。対馬は、倭人の源郷である。古代対馬の倭人はまず、壱岐へ広がり一大国を建てた。一大国王は、おそらく壱岐から先祖の島、対馬島を望んで拝礼していただろう。(晴の日は壱岐から対馬がよく見える)その後、大陸との交易を通じて鉄器などを手に入れ壱岐・対馬は日本列島随一の先進地となり、島々の勢力を結集して糸島・博多へ進攻し倭国を建てた。これが神話の天孫降臨である。
*筑紫(筑紫の国 福岡県)の日向(前原市の高祖山麓の日向地名)の高千穂(高祖山)のクシフル岳(高祖山の山頂の一つ)に天降りましき。
やがて北部九州の王(邪馬壱国王→邪馬台国王)となった一大国王=倭王は、今度は、糸島海岸に立って先祖の地、対馬島の方向をはるかに望んで拝礼したことであろう。だが、糸島から対馬は直接見えない。そこで倭王は海岸の双岩を対馬に見立て拝礼するようになった。これが「夫婦岩」の起源であると推理できる。二つの岩の本来は、対馬の二島を象徴し、それを拝んだと考えられる。対馬はアマテル神と、倭王の先祖の島だから。「夫婦岩」は、こうして倭王の一族が拝んだのが始まりだろう。
ここで面白いのは三重県の伊勢・志摩は九州・糸島の伊勢・志摩地名を移したと思えることである。糸島には古くから伊勢(伊勢田など)も志摩も地名としてあった。さらにこの伊勢地名も元々は対馬ゆかりの地名と考えられる。
司馬遼太郎が書いているが九州にある地名はたいてい対馬にある。豊・佐賀など。対馬にある地名が九州に来ている。そして九州にある地名が本州に来ているようである。だから伊豆半島の伊豆の源も対馬。対馬に厳原があるが、厳というのはあて字で、本来はその地にあった「伊豆ヶ原」という神聖な場所である。そこから伊豆の地名がきた。
伊勢も本来は「伊(豆)の瀬」で、勢は、好字の当て字であろう。伊勢は伊豆と関係ある神聖な地名と考えられる。夫婦岩祭祀の歴史的背景には、天孫降臨という、対馬・壱岐から倭人が北部九州に上陸して倭国を建てた歴史的大事件があったと考えられる。糸島の夫婦岩の存在からもこれがうかがえる。
天孫降臨の中心勢力は壱岐であるが、壱岐の倭人の祖先の地は対馬島である。倭王一族が夫婦岩を拝すれば、当然、臣下も敬い、次第に倭人達が拝む習慣が出来たと考えられる。その後、倭王の系統は長く続いたが、白村江の敗戦後、混乱の中で近畿に移る際に、政変や直系の断絶などがあり、先祖の霊地が不明になり、やがて忘れ去られたと考えられる。
七、夫婦岩の綱渡しの意味
夫婦岩は、初め倭王によって対馬を拝するものとして祭られたが、その後、歴史の変転の中で倭国の都は近畿へ移り、諸神社も夫婦岩も東へ祭られるようになった。ところが伊勢湾の夫婦岩の拝礼方角に対馬島はないため、代わりに海中の神石を拝すると替えられたと考える。その証拠に二見浦の興玉神社の傍らには対馬の神「わたつみの神」が祭られている。
夫婦岩に太綱を渡すのは、細長い地峡でつながった対馬二島の姿を意味しているだけでなく、古代、二島が協力して偉業を成しとげた島民の絆を象徴していると考える。太い綱は夫婦の絆以上に深い意味があったのである。
終わりに
対馬は漁師と神々の島、漁には晴天が大切。太陽・アマテル神を祭るのは対馬発祥の祭祀古俗である。従って日本人が夫婦岩から太陽を拝むのは順当であろう。しかし、願わくば、その起源や本来の意味に思いを馳せて拝してほしいものである。
2007.3.8記 2008.2.29補足
追記 書き終えて気づいたこと
夫婦岩は二見ヶ浦・志摩とセットで東西に揃っている。ところが伊勢湾の夫婦岩は伊勢神宮とも結びついて存在している。これは夫婦岩は二見・志摩・伊勢神宮がセットであったのではないかと考えられる。すると夫婦岩の近くに古伊勢神宮が合った可能性が考えられる。そこで糸島・志摩町周辺を調べると最近、*「一の町遺跡」が発見されている。ここには弥生の農耕儀礼用の祭殿らしき跡が発見されており巫女がいたのではないかと考えられる。この辺りが古伊勢神宮の発祥地ではないだろうか。興味は尽きないというところで今後の研究課題であろう。
*福岡県志摩町の「一の町遺跡」で、弥生中期後半(1世紀)としては国内最大級の建物を含む大型建物群跡などが見つかり、同町教育委員会が25日発表した。近接地では既に別の大型建物遺構も出ており、福岡大の武末純一教授(考古学)は「中国の史書、魏志倭人伝などにある『斯馬(しま)国』の拠点集落だった可能性が極めて高い。大型の2棟は祭殿か貯蔵関係の管理棟と考えらる」とする。高床式とみられる掘っ立て柱建物の1棟は南北12.4メートル、東西7.9メートル。4メートル間隔で並ぶ直径30―35センチの丸太柱12本が支える総柱建築で、建物の東側が急激にくぼみ、わき水の流路とみられることから町教委は「農耕儀礼関連の建物」とみる。平屋とみられる別の一棟はほぼ同じ面積。四隅の主柱を結ぶ外周部分を掘り下げ、柱を並べて建物の強度を高める「布掘り」と呼ばれる建築技法を使っていた。(2003.2.25 日本経済新聞より)
資料 全国の主な海の夫婦岩調査
・三重県二見町二見浦 伝 二千年前・伊勢神宮創建頃 元祖とされる。興玉神社、竜宮社あり。
・福岡県志摩町二見浦 不明
古代より汐斎浜の御神体とされる。伝 竜宮の入口 浦の宮とも言われる。
近くに警固三神の出現した岩戸岩窟あり。
・愛媛県北条市鹿島海岸 1185年 源平合戦頃が起源 伊予の二見 竜神祭祀
・高知県夜須町手結岬 不明 江戸期頃か 双岩の高さが同じ。
・ 新潟県相川町七浦海岸 不明 江戸末期地図に記載。二見半島
女岩に注連縄を掛ける。
女岩洞窟に縄文からの遺物出土。*古事記の変形伝説あり。↓
*イザナギとイザナミが島産みに疲れたので、猫を使い、男女の分身をつくって代理出産させたところ、天神の怒りに合い分身はこの夫婦岩の男岩と女岩にされたという。猫石もある。この伝説は猫の渡来した9〜10世紀頃出来たと推定できる。従って相川の夫婦岩もその頃の成立だろう。
・青森県風間浦村海岸 大正頃、恵比寿祭祀 二見岩 伊勢湾の例に肖った。
・下関市豊北海岸二見港 江戸末期(約一六〇年前) 〃
・大分県上浦町海岸 一九六九年 豊後二見とも呼ぶ 〃
・石川県富来町能登海岸 古くから機具岩とされる。 機具を投げた伝説有、別名で夫婦岩
最後にアンケートにご協力戴いた各市町の役所、観光協会、博物館の方々に御礼申し上げます。
主な参考図書
古代史をひらく 古田武彦著 原書房
古田史学会報 第四十八号(ネットより)
海神と天神 永留久恵著 白水社
稲荷信仰と狐とネズミと 柴田健著 東アジアの古代文化ニュース300号記念論文集より
邪馬台国五文字の謎 角田彰男著 移動教室出版
古事記 日本書紀 万葉集
ウイキペデア電子百科事典
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