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大分県の国宝臼杵石仏は九州王朝の大規模磨崖仏遺跡である
そこには古の造立年号=正和4年(AD529)が刻んであった |
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多元の会・日本ペンクラブ 角田彰男
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はじめに
私は約20年前、九州初旅行で臼杵石仏を参観し驚いた。何とそこには私が子供の頃から親しんでいた昔話「炭焼長者」の原典⇒長大な炭焼小五郎=真名野長者伝説があった。しかし、伝説で黄金を得たという長者の金山は臼杵や旧三重町辺りから発見されず永く謎だった。この伝説は6世紀の実話が源と感じた私は、古田先生著「古代史の十字路」からヒントを得て現地調査を重ね背景に九州王朝の存在があるとして執筆し、拙著
歴史推理小説「炭焼長者黄金の謎」ー別府温泉の意外な前史を解くー原書房刊として世に問うた。古田先生に御推薦頂いて以来3刷9年、本書の読者から著者に多大の反響を頂いた。
その中で驚いたのは万葉歌2「香具山の歌」の歌詞「とりよろふ」が戦後も現地で遣われているとの臼杵・別府の読者の情報と、愛知の読者から臼杵石仏に九州年号があったとの情報を頂いた事である。こうして私は万葉歌の作歌舞台跡と臼杵石仏遺跡が九州王朝下の貴重な遺跡との認識の広まりを感じつつ以下これらを順次紹介し標題について考察を深めたい。
1 古田武彦先生の著書「古代史の十字路」から頂いたヒント
<第3章 豊後なる天の香具山の歌><第6章
天国の香具山を…(爆発する山、鉱山)>
〽大和には 群山あれど *とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は
鴎立ち立つ うまし国ぞ あきつ島 大和の国は (万葉歌2番) *定説の奈良の香具山とすると解釈不能の謎の修飾詞
<先生の分析>海無県の奈良の香具山にしては「カモメ」「海原」の詞が現地と合わないし、謎の修飾詞「とりよろふ」の修飾語が付いている山なのに山自体が目立たない。この歌の作歌地は、あきつ島=豊秋津から豊国の海人族拠点の別府湾周辺であろう。香具山は別府の鶴見山ではないか。別府湾岸に聳え立つ山頂に「火の迦具土の神」を祭った鶴見山こそ海人(アマ)の香具山であろう。山頂には青、黒、赤(別府にある海地獄、血の池地獄などと同源、同類の成分を持つ)の3つの池がある。鶴見山は火山で天の香山=鉱山(銅 鉄 硫黄など産出 *金も)であり古代人は鉱山としての神聖な香具山を崇敬していたのである。
<先生の著書からのヒント>
香具山は別府鶴見山で鉱山であり山頂に3つの池がある。→ 私は、このヒントから探索し長者の*金山=別府金山を見つけ伝説解明の手掛かりを得た。
2
炭焼長者小五郎伝説の謎解き(* 御参照 :巻末の伝説あら筋 とHP「炭焼長者黄金の謎」)
小五郎が黄金を採った金鉱は別府金山と目星を付け諸資料や古地図情報を元に伝説を合理的に分析・推理してみると、古代の鶴見山辺りには下記のように長者ゆかりの地名・事物があったことが判り伝説の謎は、次々と解けるに至った。
◎金鉱(鶴見山の別府金山 今でも高品位の金鉱が眠っている)
○鶴見山は大噴火前は三重連山
(鶴見岳1375+αm・内山1275m・伽藍岳1045+αm)であり3つの山が連なる三重山だったと考えられる。
→これが「三重の里」の起源
○内山
鶴見岳の傍らで北に連なる山(小五郎の炭焼小屋があった所と推定)
○松原 現在の別府市松原町(今の松原温泉:松林の浜辺と良港があった)
◎山頂の三つの渕(池)→美肌効果があり皮膚病を治し、飲むと気分爽快、頭脳明晰に感じる効用のある泉
(多様な効能を持った別府温泉の成分を含む)が湧く *鶴見山頂の3つの池は867年鶴見山大噴火で消失。
○臼杵の満月寺、臼杵石仏(約59体)水銀を採取した丹生郷の記念石碑
○三重・内山連城寺、千体薬師、千手観音(豊後大野市三重町内山の寺院)
こうして小五郎は鶴見山で黄金を得て長者となり水銀採掘した臼杵に石仏を刻み、 晩年、生地の玉田近くに帰省し、三重・内山の地名を移し隠居して故郷に錦を飾ったと言える。
3 推理小説「炭焼長者黄金の謎」を読まれた読者の反響
私は、まず長者の金山は別府金山として伝説に出てくる地名と豊後の古代地理情報を照合し小五郎と玉津姫の出会いの場と実在性を探る中で、この伝説は暗に九州王朝後期(6、7世紀)の事績を含んでいると推理し、九州王朝を巻末に浮上させる展開を図った。ただ、年代の決め手に欠け臼杵石仏の造立年を絞りきれない恨みを残していた。
2009年秋出版以来 大分をはじめ各地の書店で本書を販売頂いた。翌年より私は九州の人脈を通じて首都圏・関西圏の大分県人会系7団体を訪問販売して廻った。こうすると本の反響が直接感じられるのは、前著「邪馬台国五文字の謎」(移動教室出版刊)以来の経験済みあったから。こうして読者から頂いた反響を幾つか箇条書で紹介したい。
この中で私が特に驚いたのは、万葉2番歌「香具山の歌」の作歌場所を別府湾岸辺りとする古田先生の分析結果を現地から裏付ける臼杵出身のY.0様の証言が得られた事と更に本年5月、愛知県の読者の林様より臼杵石仏造立が九州王朝時代の決め手となる古文書の情報を提供頂いた事である。これは本文の最終章で紹介し考察したい。
<読者の反響例>
①2013年6月 臼杵出身の読者Y.O様より…「我々の方言は古代語に由来する由緒正しい方言である。だから、もっと自分たちの方言に自信を持とう。
*臼杵では「とりよろふ」(=集まり揃う、整う)が今も
方言として日常的に会話に遣われているという。
別府や日出町でもこの語を解する人が少なくない
*私は改めて古田先生の分析の正しさに驚嘆しました。
②2015年3月
読者で本書取材協力者 別府金山所有者、生永社長様より「金鉱天然サウナ」建設祝賀の完成式にテープカットをするので著者を招待
したいと、(原書房出版社を通じて埼玉の著者への電話を頂いた)
*大分合同新聞社と西日本新聞社が取材・報道
③2017年2月 別府の社長 生永様(奥様)より……NHK「ブラタモリ」#63別府編の現地ロケと放映2017.2.11の予告を頂いた(電話)。金鉱天然サウナと共に別府金山の映像が史上初めて全国放映される。
④2017年6月 横浜市の読者 秋𠮷 貢次様より……大分県と瀬戸内海を舞台とする炭焼小五郎の愛娘「はんにゃ姫」をヒロインにして伝説の皇子(山路)と姫のラブロマンスを映画化したいと連絡・会報で公表さる。
⑤2018年5月
愛知の読者 「古田史学の会・東海 」 林 伸禧様より…臼杵石仏に九州年号が記されていたという江戸時代の国学者 鶴峰戌申(地元臼杵出身)の残した古文書「臼杵小鑑」の情報が寄せられる。
4 臼杵石仏の九州年号 ―正和4年 卯月5日―
小五郎は伝説では6世紀に黄金を採り豊後の長者になった。その娘を差し出せと都から度々勅使が来たが長者は財力と武力ではね返した。又、神道派の守谷大臣の軍が攻めてきたが長者は大兵を出してはね返した。これから私は終末で九州豊後は近畿の天皇軍をもはね返す強大な九州倭国、すなわち九州王朝であったとまとめた。ただ、出版時に古田先生が「臼杵石仏に九州年号があったのではないか。だが、それは後年削られてしまったのかもしれない」との評を頂いたが私は、それを見つける術をもたなかった。実際は目の前にあったのだ。
吉川弘文館 賀川光夫編「臼杵石仏に五輪塔2基に承安2年壬辰(1172年)と嘉応2年庚寅(1170年)、更に満月寺の五重塔(石塔)に正和四年(古記録では干支無し)と3つ年号があった。この中に九州年号があったのだが私は鎌倉期にも重複してあった正和年号が九州年号とは全く気づかず本書に記載できなかった。処が今年5月古文書に造詣の深い愛知の林
伸禧様より下記情報を頂き、私は大いに驚いた。頂いた情報によると鶴峯戊申は臼杵石仏には九州年号があったとして次のように記述していたのだ。
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彼の「臼杵小鑑」完成は西暦1814年だからその頃、臼杵石仏の十三仏に正和四年の九州年号が刻まれていたと考えられる。前出の研究書では正和年号には干支の記載が無く、鎌倉時代の1315年にも九州年号と同名の正和年号があったので鎌倉期の年号としたのであろう。あるいは九州年号は通説の学者により全く無視されたのかも知れない。私は、この鶴峰戌申の古文書の裏付けを取りたいと考え図書館で諸資料を検索してみた。すると幸いにも次の文章を発見した。1927年(昭和2年)大雄閣出版の小野玄妙著「大乗仏教芸術史の研究」の424頁には次の様に書いてある。(一部抜粋)
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おそらく上記の正和四年卯月五日という九州年号は古代から幕末まで臼杵石仏に記されていたが明治維新を機に皇国一元史観論者により削りとられたのではないだろうか。これが事実であれば日本古代史の改竄であり真実を隠蔽する事は許しがたい行為である。
大正10年頃に小野先生が臼杵石仏に調査に入った際、臼杵には崖壁に記された正和年号卯月五日を記憶していた古老が少なからずいたので、それを聞いた先生がこの事実を著書に記載した貴重な記録であろう。
5 結論 ―臼杵石仏は九州王朝期に彫られた大規模磨崖仏遺跡であるのは確実である。―
これまで通説では平安後期〜鎌倉期頃の造立とされてきた臼杵石仏だが今春、林様の調査によって臼杵石仏に九州年号の正和四年が記されていた事が、臼杵出身で江戸期の国学者 鶴峰戌申の古文書から明らかになった。さらにその裏付けとなる小野玄妙の著書からも臼杵石仏付近の崖壁に正和四年卯月五日と書いてあったとの文が見つかった。これにより国宝
臼杵石仏は少なくとも大宝元年(701年)より古い九州王朝時代に彫られた大規模磨崖仏遺跡であるのは確実となった。これは伝説の語る年代にかなり近付いたといえる。
本書では臼杵石仏の配列や六朝風裳掛座を備えた造像形式は平安初期に空海によりに定式化される以前の古式の姿であるとした。これは、つまり大師等所伝の経軌図像と同一でないので、それ以前の上代の創建と考えられるという小野玄妙の説に拠ったものである。この度、見い出された九州年号は正しくこの説を裏付けるにふさわしい発見である。
*正和四年卯月五日の年号は満月寺の五重塔(石塔)にも記されているが、明治初めの洪水の際に、この五重塔は解体され堤防修理に使われてしまったそうだが、約百年後の戦後に回収され復元されているという。そこで私が2020年2月に埼玉から大分臼杵に出向き、臼杵石仏付近の再調査を行い、現地満月寺の五重の塔から正和四年卯月五日の九州年号を確認することができた。よってこの金石文に刻まれた九州年号は、実に貴重な古代遺跡と言える。(年号の正和四年の後に、乙卯 卯月五日とあるのは江戸後期以前にはこの乙卯は彫られてなかったので、これは後代のものと言える)
こうして臼杵石仏は法隆寺を凌ぐ歴史を有する日本の文化遺産として紹介()できる価値のある我が国最古の現存する貴重な大規模仏教遺跡である。終わりに本書を読まれて数々の反響を寄せて頂いた多くの読者の皆様に心より感謝申し上げる次第である。
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(参考図書)「臼杵史談」(第86号)臼杵史談会編 「臼杵石仏」賀川光夫編 吉川弘文館
「古代史の十字路」古田武彦著 東洋書林
*真名野長者(炭焼小五郎)伝説のあらすじ(参考)
昔、豊後三重(豊後大野市三重町玉田)に孤児で炭焼の翁に拾われた子がいた。やがて翁の後を継ぎ、若者は貧しい炭焼の小五郎となった。ある日、顔にアザのできた大臣の娘、玉津姫が都からの旅で豊後の三重の里の有名な松原に着いた。そして小五郎の家を訪ね、嫁にしてくれという。我家は貧しいから嫁にはできないと言うと、これで米を買って来てくださいと姫は持参の黄金を渡した。彼はそれを持って出て途中、淵(池)の鴨に手中の黄金を投げたが外れて鴨は逃げ、黄金は沈んだ。それで手ぶらで戻った。姫はそのわけを聞き、あきれてあれは黄金です。あれさえあれば米も魚も買えるのにと言った。それを聞いた彼は、あんな黄色い石は、山の三つの淵(池)や炭焼窯辺りにいくらでも転がっていると言ったので、姫は驚き見に行くと落ちている小石は尽く黄金だったので二人でそれを拾い集めた。更に淵(池)の水で顔を洗うと姫のアザが治った。彼も、その淵(池)で水浴すると知恵のある美男子になった。そこで二人は結ばれ、屋敷を建てた地名から「真名野長者」と呼ばれた。やがて般若姫という娘が生まれ、美しく成長すると都から姫を差し出せと勅使がやって来た。長者は一人娘だからと断ると都から無理難題を押しつけられた。しかし、長者は財力と武力で度重なる天皇の要求をはね返す。するとやがて都から姫に恋いした皇子が「山路」と名を変え単身下ってきて長者屋敷の牛飼いとなる。やがて山路は機会を得て松原に集まった群衆の前で流鏑馬の腕を披露し、長者に気に入られ姫との結婚に成功する。娘夫婦の新居を臼杵に建て暮らすうちに、姫は身ごもるが、突然、使いが来て山路は都に呼び返される。それで皇子は、やむなく「ここを大内山とせよ」と書き付けを残して去る。それで三重の内山の地名が定まった。やがて赤子を生んだ般若姫は1年後、都に戻った皇子の後を追い臼杵港から船出するが、瀬戸内海(山口県
大畠の瀬戸)の大風で難破し亡くなる。 悲しんだ長者は黄金を寄進し百済から蓮城法師など迎え、蓮城寺や満月寺を建て亡き姫の供養をする。すると神道派の守屋大臣が外来の仏教寺院を建てている長者は我国の神を蔑ろにするもので許せぬと、都からの軍勢で豊後に攻め下る。しかし、長者は大兵を出し数度に渡って撃退する。やがて悲しみを抱え年老いた長者は、もはや現世の楽しみも尽きたので、この地に仏縁を残したいと石仏の造立を発願し、困難を克服し遂に完成させ後世に残す。これが大分県臼杵市深田の国宝
臼杵石仏である。臼杵市には、今も長者の第81代御子孫の草刈 稔氏が住まわれている。