ポポフの無線通信アンテナの発明から30年後、1925年、八木秀次によって日本で世界に先駆け指向性アンテナの原理が発見され、八木アンテナが発明されました。アマチュア無線で良く使われているお馴染みの八木アンテナです。これが、いまでは、どの家にもあるテレビアンテナになっています。3本の素子を基本にして平行に並べ電波を効率良く受信・発信する構造のアンテナです。簡潔にして無駄のない八木アンテナは、はじめからほとんど改良の余地のない高い完成度をもち、超短波用アンテナとして外国の模倣を許さないものでした。八木アンテナは、八木秀次が私財を投じてかろうじて特許を取得したものの日本の科学界には西洋崇拝が強く「日本人の発明で重要なものはあり得ない」として当時の日本では、受け入れられませんでした。八木アンテナは、一部に知られただけで、それを記載した八木の論文は、日本では忘れられてしまいました。また、その特許も国から延長が認められず消滅してしまいました。そもそも*テレビやアンテナについての当時の日本の研究・開発は、世界的にリードしていたにもかかわらず科学界や国から認められず埋もれてしまい、大変惜しいことでした。特に精神主義をふりかざす軍人は、八木アンテナレーダーの有用性を頭から認めませんでした。しかし、彼の八木アンテナの論文は、海外で評価され超短波用高性能アンテナとして認められていきました。(*1926年に高柳健次郎がブラウン管式テレビの実験に成功している)
その後、1941年太平洋戦争が起き、シンガポールを攻め落とした日本軍は、そこのイギリス軍のレーダーアンテナが八木アンテナであると知らされました。アメリカ軍も八木アンテナを装備し、攻め寄せる日本の飛行機を300km前からレーダーでキャッチし迎え撃ちました。アメリカ軍は闇夜でもレーダー射撃で正確に日本艦を撃沈し、日本軍は痛いめにあってやっとレーダーの威力とその重要性に気付きました。しかし、もう後の祭りです。日本はアメリカに破れ、無条件降伏しました。八木アンテナがアメリカのレーダー等に使われ日本が負けたことについて当時の世間は、発明者の八木秀次に冷たく当たりました。
八木秀次の世界的な発見・発明である八木アンテナを敵である英米は認め、それを活用し戦いに勝利しました。反対に日本は、日本人である八木秀次の発明を理解せず軽視しその結果敗北し、挙げ句の果てによけいな発明をしたとばかりに冷たくしました。自国の優れた発明を使いこなせなかったことを棚に上げて八木秀次個人を責めるのは、天につばをするようなものです。当時の政府要人や帝国陸海軍は、大和魂などの精神主義に陥っていたため先端科学を理解できず惨禍を招いてしまったのでしょう。そしてそれは、日本人の短絡性と同時に当時の社会の半封建的後進性を示しています。
まだ、この話にはおまけがあります。
八木アンテナの特許を政府は消滅させてしまい、また外国特許保有の財政支援もせず冷遇したため日本の八木アンテナの特許権は失われてしまいました。
ところが戦後まもなくテレビが世界中に普及した時、八木アンテナも同時に全世界に普及しました。なぜならVHFテレビ電波を受信するには八木アンテナ以外にないのですから。もし、この時代この特許を日本が確保していたらおそらく世界に数億台のテレビと同数売れた八木アンテナから莫大な特許料が日本に入り、日本の戦後復興は大いに助けられたことでしょう。そしてもう一つ、もし、八木アンテナ発明と同時期の高柳健次郎の電子テレビ実験成功を評価し、研究支援を行ってテレビの発明・実用化に成功していたならば、日本は、テレビとテレビアンテナの両方を発明したことになります。そうなれば、その恩恵は測り知れないものになっていたでしょう。2001.1.19 戦後、初代日本アマチュア無線連盟会長 八木秀次博士25回忌に記す。 参考書籍 「電子立国日本を育てた男」 松尾博志 著 文芸春秋社
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(↑上山昭博氏の20世紀の発明品のカタログより)