ベルリンの光と陰

 私は、まだベルリンに壁が厳然とそびえ、その崩壊など夢にも描けない時代に、一度ベルリンを訪問したことがあります。今回、20年ぶりにまたベルリンを訪問しました。1990年10月3日に東西ドイツの統一条約が発効し、二つのドイツは一つの国家となりましたから、統一後、7年が経った時点ということになります。

 また、この1998年という年は、ベルリン空輸50周年にも当たります。すなわち、1948年6月23日、ソ連は突如として西側と西ベルリンの間のすべての陸路を閉鎖し、東ベルリンからのエネルギー供給と、ソ連占領地区からの食料品の供給を打ち切ったのです。これに対して西側諸国は、空の架け橋Luftbruckeと呼ばれる大空輸作戦で西ベルリンを支えました。8月3日にはソ連の独裁者スターリンは東ドイツの首都としてベルリンを承認するよう演説をしますが、これに対して、アメリカ大統領トルーマンはミュンヘン会議(イギリス首相のチェンバレンがヒットラーと妥協して平和を維持しようとしたが、逆にヒットラーの膨張を促進する結果となった会議)の二の舞は演じないと演説して、西ドイツの建国断念や西ベルリンの放棄を拒否しました。結局、封鎖期間はソ連が折れる1949年5月12日まで、一年近くに及びました。

 新旧、二つの時代のベルリンを見て、今更ながら日本の幸運を思いました。ベルリン空輸と壁の建設に象徴されるベルリンの悲劇は、ドイツが多数の国によって占領されたことに端を発しているからです。

 往時を知るものとしては、ベルリンが一つになり、自由にどこにでも行ける、というのは、何となく奇妙な感じがしました。

 以前訪問した折りには、ブランデンブルク門を見るのは一仕事でした。私は、高架線のティアガルテン駅で降り、広大なティアガルテン(この言葉はベルリンでは動物園ではなく、自然公園の意味です)を徒歩で横断して、可能な限りブランデンブルク門に接近して、まず門上に立つ馬の尻を見ました。そして再びティアガルテン駅に引き返し、外国人としての特権で、ベルリンの壁を高架線を使って越えて、フリードリヒ街駅まで行って、そこから再び徒歩で、今度は馬の顔を拝みに行ったわけです。

 今、ブランデンブルク門に行くのはきわめて簡単です。ツォー駅から110番のバスで行っても良いし、地下鉄のウンターデンリンデン駅から歩いても近いものです。特に門の中に、ちゃんと旅行者案内所まであったことには、今昔の感を覚えました。

 ベルリンの壁が、どこかに一部残っているという話があり、私はそれを見つけようと、かっての車による東ベルリンへの入り口、チェック・ポイント・チャーリーを中心に渦巻き上にずいぶん歩き回りました。が、昔の監視塔を見つけただけで、壁そのものはとうとう見つけられませんでした。

 壁があったあたりは、どこもかしこも建設工事の真っ最中だったのです。一口に壁と呼びますが、それは単なる塀ではありません。監視塔から越境者を発見しやすいように、その前に幅広く無人地帯を設け、幾重にも鉄条網を張り、その中に軍用犬を放したり、地雷原を設けたりしてあった広大なものです。今、それはすべて撤去され、その後には、ニョキニョキとビルが建ちつつありました。まさに新生ベルリンの息吹というものが感じられました。今回見ることのできた壁は、土産物店で売られているちっぽけなかけらだけでした。

 ベルリンは、壁に囲まれた西ベルリン時代にも、その人口は200万人を超え、当時の西ドイツ最大の都市でした。それが、東ベルリンも吸収した今日では、350万人に達しています。現在、ベルリンは連邦首都と法律には明記されていますが、それは名ばかりで、現在のところ、実際の首都機能は依然としてボンにあります。しかし、ヒットラーに焼き討ちされて以来、廃墟になっていた帝国議事堂の修復が1998年中には完成する予定であり(私が去年の秋に見た感じでは、工事は少々遅れており、1999年にずれ込むのは必至と思われましたが、今頃はどうなっているでしょうか)、それにより連邦議会が移転してくるなどの要因から、21世紀初頭には、現在の倍の人口になるとドイツ政府では予想しています。

 しかし、こうした光の当たる部分とは裏腹に、ミュンヘンから行った私の目に感じられたのは、ベルリンの貧しさでした。具体的にはインフラ整備が大幅に立ち遅れており、また治安がかなり悪い状態です。

 以前訪問した際には、東ベルリンきっての繁華街の一つ、ウンターデンリンデン通りの建物にさえ、第二次大戦時の弾痕が明瞭に残されていました。今回は、さすがにそういう建物はなくなっていました。しかし、例えばポツダムなど、ちょっと外に出ると、一面に弾痕の残された建物がまだ残っていました(例えば昔のプロイセン会計検査院の建物がそうでした)。

 また、ドイツの誇る自動車専用道路アウトバーンは、スピードの上限がない、というというのが大きな特徴で、普通の乗用車で150kmくらい、ポルシェやベンツともなれば200km以上で走るのが常識です。しかし、ベルリンの周囲のアウトバーンには、何と速度制限の標識が立っており、最高でも120kmまでしか許されていません。運転手に尋ねたところ、西と違って東のアウトバーンは道路の幅員が狭いので、速度制限が必要なのだ、とのことでした。

 この例に端的に見られるように、東ドイツでは、時間が止まっていて、「戦後」というものが1990年にようやくスタートした、という感じが至る所にありました。

 治安の悪さは、キャッシュ・ディスペンサーを見れば一目瞭然です。ミュンヘンなど西側のドイツの町では、どこでも街頭にむき出しで置かれていて、24時間利用でき、非常に便利でした。ベルリンでは、そもそも街頭にはほとんどなく、ようやく見つけたそれは、機械が頑丈な防弾ガラスの部屋にしまわれ、その部屋に入るには、まずドアにキャッシュカードを挿入して開ける必要がある、というものでした。

 また、高架線や地下鉄に乗ってもよく判ります。どの電車も、窓ガラスに一面に白く傷を付けるというやり方で落書きがされていて、満足に外が見えません。ミュンヘンなら、落書きをするなら、たいていはペンキのスプレーで一瞬にしますが、ベルリンでは、大変な根気で、何回も同じところ擦ることでそれをやっているのです。

 要するに、同じ非行少年でも、金がなくて時間ばかりが余っていることが歴然としています。この原因は、旧東ドイツ地域における深刻な失業問題にあります。

 1998年9月の労働統計を見ると、ベルリンにおける失業率は全体で15.5%です(ちなみに日本の失業率は3〜4%程度です)。ところが、25歳以下だけに限ると23.1%に跳ね上がります。

 さらに深刻なのが、外国人労働者の失業率で、32.8%となっています。ベルリンは、トルコ第3の大都会という呼ばれるくらいトルコ人の多い町で、その数は現在では50万人に達します。その多くは、ドイツで生まれ育った若者達です。

 ドイツでは、日本のように新卒を採用して企業内で訓練することは好まず、完成された労働者を採用したがるのです。このため、若年失業者は、実績を積む機会がないから就職できない、というトンネル状態にあるのです。これでは若者に非行に走るな、といっても無理というものでしょう。