ビアガーデン
甲斐素直
私は、この4月以来、ミュンヘンに住んでいます。私にとり、この町は知らない町ではありません。昔、人事院の留学生としてドイツに来た際に、1980年から81年に掛けて約1年、この町に暮らしたことがありますから、約18年ぶりの生活ということになります。しかし、いくら良く知っている町とはいえ、10年一昔という言い方を借りるなら、二昔も前の記憶ですから、とまどうことが多かったことは事実です。
例えば、ものの値段に関しては、昔のマルク建ての数字が記憶にありますから、何でもやたらと高くなっているような気がして仕方がありません。記憶をたどっていろいろなものの値段を比較してみると、だいたい何でも2倍になっているといえそうです。
ミュンヘンといえばビール、と思われる方も多いでしょう。実際、ビール消費量が我が国に比べてずば抜けて多いドイツの中でも、特に多いのがミュンヘンです。例えばドイツの食堂や酒場ではどこでもビールは500ccのジョッキで飲むのが普通ですが、ミュンヘンだけは1リットルのジョッキを使うのが普通です。そこで、この1リットルジョッキを例にとって説明すると、1杯が、昔はだいたい5マルクでした。それが今は、どこへ行ってもだいたい10マルク弱というところです。
20年掛けて2倍ならーその同じ期間に日本でどれだけ物価が上がったかは、恥ずかしながら知らないのですがー多分、物価の優等生といえるのではないでしょうか。しかも、以前は1マルクが130円強だったのに、今は、一頃に比べて大分円安になったとはいえ、1マルク80円弱です。だから、基本的に円で支えられている私の生活は、昔の物価水準と大差ないレベルの中で暮らせる、という理屈になります。
先に例に上げたビールのジョッキであれば、円換算をすれば、昔は1杯が650円だったのに対して、今は800円ですから、わずか2割の値上がりというわけです。しかし、感情というものは理屈ではなかなか説得できず、何となく高い値段に思えて、買い控える傾向が、いまだに続いています。
昔の生活と、今の生活の違いの一つは、住まいの位置にあります。前回は比較的市の中心に近いところに部屋を借りていたのに対して、今回は地下鉄の終点から3つ目という、市のはずれに住んでいます。換言すれば、市を取り巻く森に近い場所です。
皆さんは、ドイツ人が大変な森気違いであることをご存じでしょうか。第2次大戦にドイツが負けて、国土が英米仏ソに分割占領されていた時代のことです。イギリス占領軍は、ケルン市民に冬の暖房用の燃料を供給できませんでした。そこで、ケルン市民が凍死するのを防ぐため、市長のアデナウア(後の西ドイツ首相)に、ケルン市を取り巻く森の木を切って市民に供給するように命令したのです。これに対してアデナウアは、市民が何人凍死しようとも、森の木は一本たりとも切ることはできない、と啖呵を切り、これに対して、当のケルン市民が喝采した、という挿話は、ドイツ人の森気違いぶりをよく示しています。
森気違いという点では、ミュンヘンもケルンに負けてはいません。現在のミュンヘン空港は、前回の私の滞在中に着工されたものですが、成田空港の数倍という巨大なものです。その巨大な空港が、ミュンヘンを取り巻く森の一部を切り開くだけで、民有地は1平方米も購入することなく建設可能だった、といえば、森の規模が少しは想像がつくでしょうか。建設に当たっては自然破壊だと訴訟が起こされて、ずいぶんと揉めたものです。
市の中心に住んでいた頃は、外でビールを飲むとなれば、例えばホーフブロイハウスなどのビアホールに行ったものです。ここは、ヒットラーがミュンヘンで暴動を起こしたとき、その拠点にしたという伝説のあるところで、何と5000人の収容力があるとか。楽隊の演奏に合わせて、隣りに座った見ず知らずのドイツ人と肩を組んで歌いながら(歌詞を知らないからもっぱらスキャットでしたが)飲むビールの味はまた格別のものでした。
それが、森のそばに住んでいる現在、飲みに行くのはもっぱらビアガーデンということになります。日本でビアガーデンというと、デパートの屋上その他ひどく人工的な環境で、屋根がないというだけの理由からガーデンと名乗っている、という場合が多いと思います。
ミュンヘンのそれは全く違います。たいていが、あの広大な森が市街地と接する辺りの森の中に作られているのです。市街地にあるビアガーデンもありますが、その場合には、その敷地自体がちょっとした森になっているのが普通です。
あるドイツ人教授いわく、「カスタニーの木がなければビアガーデンではない」。カスタニーというのは西洋トチノキのことです。フランス語のマロニエという方が日本では通りがよいでしょうか。あのトチノキ独特の巨大な葉の陰で飲むビールの味は、同じビールでありながら、ビアホールとはまた一味違って、実においしいものです。
おいしい理由は簡単で、天気の良い日に自転車を出して、広い森の中を、緑の香りを胸一杯にすいながら何時間も走り回り、いわばその仕上げとしてビアガーデンに入るからです。のどが渇いていますから1リットルくらいはあっという間に消えて、飲んだ気がしないほどです。
ビアホールと同じビールと書きましたが、実をいうと、ビアガーデンにしかないビールもあります。ラードラーというのがそれです。これはドイツ語で自転車乗りという意味です。話によると、ある時、森の中のビアガーデンに自転車乗りの団体が押し寄せたことがあったとか。ちょうど折悪しくビールの在庫が底をつき掛けていたので、ビアガーデンの主人は苦し紛れに、ジョッキの半分まではレモネードを入れ、残り半分だけビールを入れて水増しするという方法をとっさに考えつきました。これがのどの渇いていた自転車乗りたちに逆に大好評で、たちまちのうちにこの飲み方が広がったのだそうです。
これならアルコール分は普通のビールの半分ですから、ジョッキ2杯飲んでもそう酔わず、帰り道でふらつかずに済みます。私自身は、レモネード入りのラードラーは、その甘い味がビールと合わないような気がして、あまり好きになれません。ビアガーデンによっては、炭酸水でビールを割る形のラードラーを出すところもあります。そうすれば、のどごしがさわやかで、ビールの味そのものにはほとんど影響が出ませんから、こちらの方が遙かに好きです。
皆さんも、ビールを飲みたいが、あまり酔いたくはない、というようなとき、このレモネードあるいは炭酸水割りのビールを、是非試してみて下さい。