ポツダム1945
ドイツの首都ベルリンの郊外、ポツダム市にあるチチェーリエンホーフは、ドイツ帝国最後の皇太子ヴィルヘルムが、その妻チチェーリエとの新婚生活を送るために、1912年に建設されたものですから、城としては新しいものです。英国の田舎家風の外観を持つこの城の名は、その妻の名から取ったものです。ドイツが第一次大戦に負け、皇帝一家が逃走した後も、皇太子妃チチェーリエはここに住み続け、さらに後にはヴィルヘルムもここに来て、1945年まで住んでいました。しかし、この城の名が世界史に残ることになったのは、彼ら本来の住人よりも、1945年7月にこの城で開かれた英米ソ三国の首脳会談のためです。
なぜここが会談場に選ばれたのか、私は不思議に思っていました。ポツダムには、フリードリヒ大王が自ら設計に当たったといわれるサン・スーシ宮殿をはじめとして、多数の豪華な宮殿があるのに、よりによってこの一番地味な城を、この歴史的な会談場に使用したからです。
今回、現地に行って納得しました。それは明らかに警備の都合でしょう。この城はその周囲の半分は湖で、残る陸路も、今現在でさえも非常に人家が少ない場所です。ここなら、軍を展開して安心できる警備ラインを自由に引くことができたでしょう。
日本にとっては、この会談の際に発せられたポツダム宣言は余りにも重要ですから、我々はややもすれば、この会談は対日政策の討議のために開催されたような錯覚を覚えます。しかし、この会談の狙いは、ドイツの戦後をどうするかにありました。
この会談では、それまでに開かれていたテヘラン、ヤルタ両会談に比べ、英米二国は、ソ連に対して不利な立場にありました。
イギリスではこの会議の最中に下院議員選挙が行われる予定で、その結果次第では、対独戦争を、一貫して引っ張ってきたウィンストン・チャーチルの引退が予想されていました。その可能性が非常に高いことは明らかだったので、野党党首クレメント・アトリーは、随員という資格で最初から会談に参加しました。実際、選挙でチャーチルは負け、途中からはアトリーがイギリス代表として会談に臨むことになります。
アメリカも、長いこと同国大統領として君臨してきたルーズベルトがその4月に死亡し、副大統領だったハリー・トルーマンが大統領に昇格していました。これは彼にとり始めての本格的な国際会談だったのです。その上、トルーマンは、交渉に当たって今一つ不利な点を抱えていました。彼は、何としてもソ連に、対日戦への参加を承諾させなければならなかったのです。
米軍に膨大な死者を強いた血みどろの沖縄戦の結果から、米軍では、来るべき本土決戦における米兵の死者は、少なく見積もっても50万人、悪くすれば100万人を越えると見込んでいました。この膨大な死者を少しでも減らすには、ソ連の対日参戦を確保する以外にはない、というのがトルーマンの判断でした。その回答を引き出すためなら、少々の譲歩はせざるを得ない立場にトルーマンはあったのです。もちろん原爆はこの時点ではほぼ完成に近づいており、この会談の最中に最初の実験が行われます。しかし、それは直接日本を降伏させる武器というよりも、ソ連に対日戦というバスに乗り遅れるのはまずい、という圧力をかける道具くらいに思われていました。
この点で、日本の運命は、この会談において、ドイツの運命と分かち難く結びついていました。というのは、スターリンは、まことに虫の良い要求を出していたからです。それはポーランドの西側の国境線をいわゆるオーデル・ナイセ・ラインにする、という要求です。ご存じの通り、かってスターリンはヒトラーと密約を結び、東西から同時にポーランドに侵入して、その領土を山分けにしました。スターリンは、その時ソ連がぶんどったポーランドの東半分は、第2次大戦後もそのままソ連領土として保有し続け、それにより減少したポーランドの領土を、オーデル河及びその支流のナイセ河で作られるラインより東のドイツ領をポーランドに与えることで補填しようというのが、この要求の意味です。ソ連の領土拡大のつけの勘定をドイツに支払わせようということに他なりません。
会談は、当初、1945年7月15日に始まる予定でした。英米両国首脳は、ちゃんとその日までにベルリン入りをしていました。しかし、スターリンは、時間の制約がある英米の足元を見たのでしょう、16日になってようやくソ連を出発します。そのため、会談の開始は17日の夕刻にまでずれ込みました。そして、途中から予想通りチャーチルが消えて、三巨頭会談から、事実上二巨頭会談に変化したことなどから、スターリンは、ほとんどすべての要求を英米に飲ませることに成功します。ドイツの戦後の悲劇はここから始まるわけです。
日本の戦後を決めたポツダム宣言については、いつ誰がどのように起草し、三巨頭の間でどのように検討されたのかは、判っていません。折に触れて日本問題が話題になったことは確かですが、対日宣言が、議題となって論じられたことはないのです。
そもそも対日宣言が出された7月26日は、宣言を出す日としては妙な日です。この日には会談は開かれていないからです。
この宣言には三人の名が連ねられています。すなわち、トルーマン、チャーチル、そして中華民国総統の蒋介石です。蒋介石については、無線で了解を取った、と注がついています。では、ほかの二人はちゃんと署名したのでしょうか。少なくともこの日には不可能です。
チャーチルは、下院議員選挙の結果をロンドンで知るために、前日の7月25日にポツダムを後にしています。この26日にその選挙戦敗北が決まったため、夕刻には国王に、首相辞任を申し出ているのです。だから、確かにこの日の日中であれば、チャーチルが英国首相といえるのですが、たとえ無線によってであれ、了解を与えるような立場になかったことは確かです。
トルーマンは、この日の朝7時に飛行機でフランクフルトまで飛んで、そこで米軍の閲兵を行っています。だから彼の場合も、朝飯前の一仕事として慌ただしく署名したのでない限り、この日、宣言に署名することはできなかったはずです。
要するに、対日ポツダム宣言とは、その名義人となっている3人の誰もがポツダムにいない日に発せられたものなのです。おそらく、これも原爆と同じように、スターリンに対日参戦を促すための道具の一つであったに過ぎず、日本がそれに応ずるとは考えられてはいなかったので、このように安直な取扱いがなされたのでしょう。会談の最終日、8月2日に英米ソ三国共同で発表された詳細なプロトコルにも、日本に関することは全く現れていません。
この宣言に最後のチャンスを見い出し、降伏を受け入れたところから今日の日本の発展が生まれたことを考えると、まさにそれは運命の決断だったといえます。これを拒絶していれば、この会談の流れからして、後は和平の機会はなく、米軍とソ連軍は南北から攻め込んだでしょうから、日本もドイツと同じ分断国家となったでしょう。
なお、チチェーリエンホーフは1995年以降、一泊数万円の超高級ホテルとなっています。皆さんが今後ポツダムを訪れる折りに資金に余裕があれば、ここに泊まって往時を振り返るのも、一興でしょう。