平成14年度秋期行政科研究室入れ替え試験

 

 近年、日本の教育の在り方をめぐって様々な議論が起こっている。例えば平成12年度『我が国の文教施策』(教育白書)では、次のような問題意識に立って、教育改革の必要性が指摘されている。

 

 我が国の教育は、第二次世界大戦後、生まれや家庭の収入、出身階層などにかかわりなく能力、適性、意欲に応じて平等に教育の機会が保障されるべきという教育の機会均等の実現を基本理念として掲げ、教育を重んじる国民性や世界でも1,2を争う国民の所得水準の向上などともあいまって著しい普及を見、奇跡とも呼ばれるほどの我が国の発展の原動力となってきました。

 その一方で、少子化や核家族化、都市化の進展とともに、これまで子どもたちに対人関係のルールを教え、自己規律や共同の精神をはぐくみ、伝統文化を伝えるといった役割を担ってきた家庭や地域社会の「教育力」が著しく低下し、このことが、いじめや不登校、青少年の非行問題の深刻化などの様々な問題が生じる背景となっています。また、これまでの学校教育はどちらかと言えば、知識を一方的に教え込む教育に陥りがちであり、思考カや豊かな人間性をはぐくむ教育や活動がおろそかになっていました。それに加え、教育における機会の平等性を重視する余り、本来多様な子どもたち一人一人の個性や能力に応じた教育を行うという点に十分に配慮されてこなかったことなど、反省すべき点も少なくありません。

 

 また、最近では、小中学校における平成14年度からの新たな学習指導要領の実施に伴う学習内容の大幅な削減に関連し、ゆとり教育と子どもの学力について論議されている。

 

 以上の点を参考にしながら、以下の設問に答えよ。

@ あなたが受けてきた教育を振り返り、あなた自身の体験あるいは周囲で起きた出来事を紹介しながら、日本の教育の問題点について述べなさい。

A @で指摘した問題点を含め、現在の日本の教育が抱える諸問題の解決のための方策の方向性及び具体的な方法についてあなたの考えを述べなさい。なお、その際予想される反対意見や障害についても言及し、その対応策も併せて述べなさい。

 

 

問題解説

甲斐素直

 

 私自身は、今回の問題は、記述が平明であるため、問題分析が容易である上、近時、ゆとり教育を巡ってはマスコミなどでも活発な論議が展開されているため、高得点の答案の続出という事態を予想していた。ところが、現実には、まともな問題分析をしている答案自体がほとんどない上、記述内容も問題及び近時の議論を無視した落第答案が続出する、という事態になっている。これでは、国T,国U両試験を通じて、合格者はとうてい期待できそうにない。諸君の猛省を求める。

 試験の手引きに、長文の問題それ全体が問題文なので、問題の要求している論点を確実に拾うことが大事だと強調しておいたにもかかわらず、問題文は無視して、いきなり小問に答えようとした人が相変わらず目立つ。これでは合格答案には本質的になり得ないことを、しっかりと心に銘記してほしいものである。

本問の場合、問題文のほとんどを教育白書からの引用が占めているので、その解析が勝負である。

まず第1パラグラフからみていこう。

 

 我が国の教育は、第二次世界大戦後、生まれや家庭の収入、出身階層などにかかわりなく能力、適性、意欲に応じて平等に教育の機会が保障されるべきという教育の機会均等の実現を基本理念として掲げ、教育を重んじる国民性や世界でも1,2を争う国民の所得水準の向上などともあいまって著しい普及を見、奇跡とも呼ばれるほどの我が国の発展の原動力となってきました。

 

 ここでいわれていることは、戦後日本の教育の機会均等政策は成功した、ということである。手引きに、公務員としての立場から書け、と強調しておいたが、このように問題が成功した、と書いている場合には、それを所与の条件として論文を書け、ということである。だから、それに異を唱えるような回答は、もちろん、公務員として不適切である。批判を急ぐあまり、このパラグラフが存在することを無視しているような答案が目立ったが、問題文のあらゆる部分が、回答の要素であることを忘れてはならない。

 第二パラグラフをみよう。

 

 その一方で、少子化や核家族化、都市化の進展とともに、これまで子どもたちに対人関係のルールを教え、自己規律や共同の精神をはぐくみ、伝統文化を伝えるといった役割を担ってきた家庭や地域社会の「教育力」が著しく低下し、このことが、いじめや不登校、青少年の非行問題の深刻化などの様々な問題が生じる背景となっています。また、これまでの学校教育はどちらかと言えば、知識を一方的に教え込む教育に陥りがちであり、思考カや豊かな人間性をはぐくむ教育や活動がおろそかになっていました。それに加え、教育における機会の平等性を重視する余り、本来多様な子どもたち一人一人の個性や能力に応じた教育を行うという点に十分に配慮されてこなかったことなど、反省すべき点も少なくありません。

 

 あくまでも第1パラグラフにある成功を前提としての反省点である。反省点は複数が指摘されている。

まず、「家庭や地域の『教育力』が著しく低下し」ているということである。つまり、これが、本問題が答えることを要求している「日本の教育の問題点」の第一である。最初に書いてあり、しかも、この問題に投入された行数も一番多く、しかも、以下に紹介する他の論点については、「また」及び「これに加え」という引き出しで書かれていることからみても、これが出題者の意識として、最重要の論点であることは間違いがない。

 次に、詰め込み教育の傾向が強かった、ということである。

 第三に、教育の機会均等が、子供の多様性を無視して強行される傾向が強かった、ということである。

 だから、ここまでで、3つの論点が明確に提示されていることになる。書かれた回答からいうと、驚いたことに、第一の家庭・地域の教育力の低下という問題を見落としている者が圧倒的に多かった。行数の多さ一つをとってみても、見落とせる論点とは思えない。手引きで、論点と考えた点にはアンダーラインを引くように指導しているのに、それを無視するからだと思う。ここでも諸君の猛省を求めたい。

 

 また、最近では、小中学校における平成14年度からの新たな学習指導要領の実施に伴う学習内容の大幅な削減に関連し、ゆとり教育と子どもの学力について論議されている。

 

 本問題文の冒頭に、この問題で引用している教育白書は平成12年度のものと明記されている。他方、この箇所では、教育白書の反省を受けた文章として、平成14年度からのゆとり教育が紹介されている。つまり、この問題文中に明示されている時系列から判断する限り、ゆとり教育というのは、文部官僚が、この12年度の白書で自ら提起した問題に対する答えとして、自ら出した回答ということになる。したがって、この文部官僚の答を正しいものとして評価するかどうかが、本問が答えることを求めている第4の論点ということになる。

 問題文の中に、このように時系列がきちんと示されて、詰め込み教育は過去のものとなり、現在の教育ではゆとりの行きすぎが議論されているというのに、単純に、自分の過去の経験からいきなり「わが国の教育は詰め込み教育である」という決めつけを行って、それを前提に議論を展開している例が目立った。このような問題文の完全な無視、あるいは社会の現状の無視に立った回答は、当然のことながら合格答案たり得ない。

 以上の情報をもとにして、小問が提示されているのである。

 

@ あなたが受けてきた教育を振り返り、あなた自身の体験あるいは周囲で起きた出来事を紹介しながら、日本の教育の問題点について述べなさい。

 

 小問@の要求しているのは、当然に本文で明確に示された4つの論点について、自分自身もしくは自分の周囲で起きた出来事を紹介しながら書け、と読まねばならない。本文を無視して単にこの小問@の文章から思いついた話を書いたりしては、評価の対象とはならない。先に触れたとおり、多くの人は、問題文の分析に失敗したらしく、詰め込み教育か、せいぜい子供の多様性の無視という議論だけを取り上げていた。4つある論点の二つだけしか答えないのでは、たとえまともに回答していても、半分しか得点できない、ということになり、この段階ですでに落第答案であることが約束されることになる。

 また、子供の多様性という場合にも、ほとんどの答案では落ちこぼれの問題だけが取り上げられていた。しかし、それは問題の反面にしかすぎない。これまでの教育というものは、できない子ができるまで、できている子には足踏みをして待たせておく、というものであった。その結果、そうした優秀な児童が発展の芽を摘まれ、無理矢理型にはめられて行くという現象を招き、我が国が科学競争力という面で欧米諸国に比べて不利になっている、という重大な問題が無視されている。楯には、常に両面があるのだ、ということを、このような論文を書く際には、心に銘記しておいてほしいものである。

 

A @で指摘した問題点を含め、現在の日本の教育が抱える諸問題の解決のための方策の方向性及び具体的な方法についてあなたの考えを述べなさい。なお、その際予想される反対意見や障害についても言及し、その対応策も併せて述べなさい。

 

 この小問Aは、小問@で諸君が自分自身で行った問題提起を受けて、書かれなければならない。この小問は、それ自体が複雑な構造を持ち、その分析が必要である、という点でかなりの難問である。

 第一に要求されているのは、問題解決のための方向性と具体的方法である。特に方向性という言葉と、具体的な方法という言葉が、「及び」でつながれているのであって、「または」ではない、という点を注目しなければいけない。すなわち、基本的な理念とそれを受けての具体策の両者の提示を求めているのであって、どちらか一方だけではいけないということである。たとえば、家庭の意見をもっと聞け、と書くだけではだめで、どういう方法で聞くべきか、というところまで踏み込まねばいけないのである。父母会を強化するのか、家庭訪問を充実させるのか、といったところまでが要求されるわけであるが、このような具体性ある記述は全くと言っていいほど見られなかった。

 しかも、小問2は、それでおしまいではない。第二に、この方向性及び具体的方法に対して、どんな反対や障害があるかを分析しなければいけない。上記の例の場合だと、家庭の意見を聞く、という方向付けに対する反論、たとえば、そもそも問題では家庭や地域の教育力の低下が指摘されている訳で、そのことからすれば、聞いても意味がない、という反対意見が当然あり得る。また、方法として、父兄会は地域ボスの支配の場となっていて、家庭と学校を結ぶ場としては役に立たない、とか、家庭訪問は近時増加している夫婦共稼ぎの家庭などにとっては大きな負担だとかいう反論、障害が考えられるであろう。

 そこでこれを受けて、第三にその対応策、すなわち反論に対する再反論、障害に対する除去策などを書く。ここまで書けて初めて合格答案となるための最小限度の条件を満たしたことになる。最小限度と書いているのは、もちろん、こうした問題の要求している形式的要件のさらに先に、内容がどこまで意味にあるものとなっているか、という問題が待っているからである。

 

 最後に、諸君の多くが無視した論点である「家庭や地域の教育力の低下」という点に触れておきたい。書けなかったのは、君たち自身が、この教育力の低下世代であり、しかも諸君自身としては実害を感じなかったために、ここで提起されている問題の意味それ自体が理解できなかったためではないか、と考えられるからである。そういう観点から、基本的なところから説明する。

 

 昔は、例えば、テレビ漫画「さざえさん」にみられるように、家族構成が大きく、複雑であった。例えばカツオ君は、かなり老齢の両親及び年の近い妹の他に、親といっても通るような、かなり年上の姉であるサザエさんとその配偶者マスオさん、同じく年上の従兄弟であるノリ平及びその配偶者タイコさん、あまり年の違わない甥であるタラちゃんなどを持っている。この結果、家庭内でさえも、さまざまなジェネレーションに属する人々との、かなり多様な社会的交渉が求められている。あるいは日本家屋構造の開放性などから、カツオ君は、家庭内の行動の自然な延長として、隣のイササカ先生や裏のおじいちゃんの家に上がり込んで、さまざまな生活上の相談などをしたり、されたりしている。このようにして、かつては、家庭や地域社会が自然と、年長者や年少者との交渉の仕方を子供達に教育する機能を有していた。これを単純化すれば、家庭や地域による「しつけ」と呼んでもよい。

ところが近時は、諸君自身がそうだと思うが、核家族化が進み、しかも少子化傾向から兄弟を持たない者が激増しているため、家庭内には、単純な親子関係しか存在しない。しかも、地域社会が崩壊しているため、子供達が近所の家であるというだけの理由で、同年代の子供のいない家庭などに遊びに行く、ということもなくなっている。こうしたことから、近時の子供には、他のジェネレーション、他の社会的身分に属する人々との間で、適切な社会的行動を行う能力が低下しているという問題が発生しているのである。これがいじめや不登校、その他の他者に対する思いやりの欠如として現れる。例えば、老人やホームレスを、自分とは関係のない単なる「存在」としてみているから、人を殺したいという衝動に駆られた時、ほとんど罪の意識もなく、それらの人々を攻撃する、という極端な行動に出る者さえも現れるのである。

 

このように、家庭や地域の側からの児童に対する働きかけがなくなった以上、可能な手段は、学校の側から積極的に、そうした教育効果を発揮するような活動をおこなうことである。これが決め手だ、というものはまだないが、いくつかのやり方が試行されている。

老人を、小学校における教育補助者として採用して、竹とんぼの作り方やメンコ遊びのやり方を指導させることにより、伝統文化を伝えるといった役割を担ってきた老人と児童との交流を図るという方法を採用している自治体はすでに多くある。

さらに進んで、小学校と、幼稚園及び老人集会所を同じ敷地内に建設するという試みを展開している地方自治体がかなりある。これにより、学校内での日常生活の中で、自然に様々なジェネレーションの人々との交流が促進されることを期待してのことである。

もちろん単に小学校と幼稚園・老人集会所を併設するだけでは、あまり世代間交流の効果は期待できない。そこで、こうした施設をまたいで、老人や幼児も含めた疑似家族的なグループを作り出し、そのグループ内の年長者は、年少者の保護者、相談相手となるようにして、児童に、自分自身の家庭や地域では経験できない社会生活を経験させる、という工夫を採用しているところもある。

普通の小学校でも、学校側の指導により、小学校内で学年をまたいで疑似兄弟的にグループを編成し、一人っ子に上下の年齢の児童との社会生活を経験させるという工夫を採用している例は多い。通学班は、諸君の多くが経験したであろう。これの場合、第一次的な狙いが登校時の安全確保にあることは間違いないが、副次的には、同じ地域に住む児童の間に、この疑似兄弟的な連帯を作り出すという狙いがあることもまた、事実である。

近い将来において、高校における必須の教育活動とすることが論議されているボランティア活動は、こうした他のジェネレーションの人々や他の社会的身分に属する人々と、社会的交渉を行う経験を通じて、対人関係のルールを教え、自己規律や共同の精神をはぐくむことを狙ったものとして理解することができる。現に国や地方自治体がその公務員を採用するに当たって、ボランティア活動経験の存在は、必須の考慮項目とされているが、これも、公務員には自己規律と、共同の精神が不可欠のものであることを考えれば、当然のことといえるであろう。