ハワイ紀行第4

                       甲斐素直

ハワイの旗・モットー・歴史

[はじめに]

 ハワイ州憲法第15章は、ハワイに関するシンボル的な規定を集めています。その第1節は境界(BOUNDARIES)と題して、ハワイ州に含まれる島々を列挙し、第2節は首都がホノルルであると定め、第3節は州の旗を定め、第4節は公用語を定めています。そして、第5節ではハワイのモットーというのが書かれています。

 そのどれをとっても、ハワイ王国とその滅亡にまつわる様々な問題がその背後に隠れています。ここでは、そうした話を、紹介しましょう。

一 ハワイの旗

 ハワイ州憲法第15章第3節の定め方は非常に簡単です。

 「ハワイの旗を州の旗とする(The Hawaiian flag shall be the flag of the State.)」

 これだけです。あちこちの国の憲法で、国旗に言及していることはよくありますが、その場合には、たいていそのデザインまで明言しているのが普通です。例えば、ドイツ連邦憲法22条は、「連邦の旗は、黒=赤=金とする」と定めています。

 だから、当然の常識のように述べられるハワイの旗ってなんだろうと不思議に思いました。そういえば、ハワイ大学校舎や、ワイキキの主立ったホテルの屋根の上に、ユニオンジャックをあしらった奇妙な旗が翻っていたっけと思いだし、調べてみたら、やはりそれでした(写真@参照)。それにしても、なぜアメリカの州の旗に、イギリスのユニオンジャックが入っているのだろう、と二つめの疑問を持って、改めて調べてみました。

 このハワイの旗なるものは、カメハメハ大王が1816年頃に制定したのだそうです。ハワイ王国はそれまで国旗をもたなかったのですが、そのころすでにイギリスは、ユニオンジャックを掲げて行動していた訳です。たぶん、カメハメハはそのデザインが気に入ったのでしょう、無造作にそれを自分の旗として掲げたのです。独裁者である王としては、気に入ったものを自分のものとするのに、何のためらいもなかった訳です。びっくりしたのはイギリス人で、さっそくクレームを付けました。そこで、カメハメハは改めてイギリス人に、彼のシンボルとなる旗のデザインを依頼したわけです。そういう経緯ですから、左上にユニオン・ジャックが描かれているのは、当然ですね。それに白・赤・青の3色で、8本のラインが配されています。これは、ハワイの主要8島を表しているのだそうです。
 8島といわれて、最初私は混乱しました。普通、日本ででているガイドブックに紹介されているハワイ諸島は6島だからです。すなわち、北から順にあげれば、カウアイ(Kauai)島、オアフ(Oahu)島、モロカイ(Molokai)島、ラナイ(Lanai)島、マウイ(Maui)島、それにハワイ(Hawaii)島です。しかし、8島というのですから、もう二つ無ければいけません。改めて地図をよく見ると、カウアイ島の西にニイハウ(Niihau)島、マウイ島の南にカホオラウェ(Kahoolawe)島という二つの、ほかの6島に比べるとかなり小振りの、しかし、ちゃんと名前がついている島が載っています(Aハワイ州地図参照)。だから8島という訳です。

 では、なぜこの二つの島は、ガイドブックに普通紹介されていないのだろうと不思議に思って調べてみたら、更に面白いことが判りました。

 まず、一番北西の端にあるニイハウ島ですが、この島は、なんと全島が個人所有なのだそうです。ロビンソンという、まさに島の主にふさわしい姓をもつ人物が、1864年に、カメハメハ5世から島を買い取り、それ以来、その一家が全島を支配したまま今に至るのだそうです。もちろん、ロビンソン一家以外にも、土着のハワイ人はいます。アメリカの2000年度の国勢調査によると、全島で36世帯160人くらいだといいます。しかし、1990年度の国勢調査の際には42世帯230人という数字があり、それ以前は同じ程度の数字であることから考えると、近時急激に人口をへらしつつあることが判ります。

 しかし、場所的にも、ハワイ列島の一番北西の端で、他島と離れている上、ロビンソン一家が、他の島々との交流を禁ずる形で支配を行ってきたため、島で英語を話すのはロビンソン一家だけで、島民は未だに純粋のハワイ語だけを話しているのだそうです。

 もちろん、普通に観光に行く訳にはいかず、だからガイドブックにも載らないということになる訳です。ただし、ロビンソン家は、1986年にニイハウ・ヘリコプター会社を設立しており、これを利用することによって、一度に数人程度の小規模な観光客なら、この島を訪れることが可能になっています。次のアドレスは、このロビンソン家のホームページのトップ頁です。そこを見ると、島の鳥瞰図が見られrます。

http://www.niihau.us/ 

マウイ島の脇にあるカホオラウェ島の方は、ハワイでは「奪い去られた島 the one that was taken away)」と呼ばれてきた、悲劇の島です。主要8島の中では一番小さく、現在は無人島です。ハワイの州昇格とともに、名目的にはハワイの領土になったのですが、アメリカ合衆国海軍が2003年まで支配権を保有してハワイ州に引き渡さず、海軍に限らずあらゆる軍が、全島を様々な兵器の試験場に使用していたからです。

 近年、ハワイ州の主権意識が高まり、返還要求が繰り返しなされた末に、ようやく2003年にハワイ州に返還されたのです。しかし、米軍が新兵器の実験を長年続けてきた訳ですから、大量の爆弾、弾丸、魚雷、手榴弾、地雷、炸裂弾、その他あらゆる種類の不発弾が埋まっています。米海軍に対しては、それをきちんと処理するようにという強い圧力がかかっており、すでに数百万ドルがそのために投下されたのですが、完全に無害化するまでには資金が続かず、現在は放置されています。ですから、ちゃんと人が住めるようになるのは、まだ大分先のことになるのではないでしょうか。ハワイ大学ロースクールで憲法を担当しているヴァン・ダイク先生によると、島そのものは、将来、ハワイ原住民の国が成立するまでの間という限定付きで、現在のところは州の管理に委託されているそうです。

 島のことを話したついでですから、ハワイ憲法第15章第1節の「境界」についても、ここで述べましょう。第1節は、こう始まります。

「ハワイ州は、州昇格法(Admission Act)が発効した時点におけるハワイの領土に含まれるすべての島、及びそれに付属する珊瑚礁及びそれらに属する水域によって構成される。」

 これに、二つの例外がつきます。

 長い方の例外ーミッドウェイ諸島やジョンストン島等々は含まれないーというのはまあわかります。ミッドウェイ諸島などは、ハワイ諸島の延長線上にあり、その意味で、地理的にはハワイと一体性があるのですが、歴史的には、ハワイ王国の支配に服していたことはないからです。

 よく判らないのが、短い方の例外です。「パルミラ島(Palmyra Island)を除く」ということが、上記ミッドウェイ諸島に関する記述とはわざわざ分けて書いてあるのです。実は、この憲法の書き方は、基本的に州昇格法2条の文言と同一です。パルミラ島というのは、環礁(Atoll)で、ハワイ諸島の南、1000マイル、だいたいハワイとサモア島の中間くらいの位置にある無人の島々です。つまり、パルミラ島という単一の島があるのではなく、大小50以上の島の集合体の総称です(Bパルミラ島地図参照)。

 パルミラ島は、歴史的には、ハワイ王国の領土とされ、1898年にアメリカのマッキンリー大統領が、ハワイを併合した際にも、この島々はハワイに属する島嶼とされたのです。地図を見ると、距離的にはジョンストン島の方がハワイに近いことが判ります。それなのになぜ、ジョンストン島などはハワイ王国の支配下に入らなかったのに、こちらが入っていたのか、よく判りません。多分航海技術や、海流の関係で、昔のハワイ人にとっては、パルミラ島の方が行きやすかったのでしょう。しかし、州昇格に際して特に除外されたのです。このような歴史的理由が、歴史的に一体性を持っていなかったミッドウェイ諸島などとは別の書き方がされた訳です。

 とにかく、わざわざ除外された結果、パルミラ環礁は、現在は、合衆国でどこの州にも属さない唯一の地域として、ワシントンD.C.の直轄とされています。2001年には、自然動物保護区(National Wildlife Refuge)になっているそうです。

 ハワイ大学ロースクールのヴァン・ダイク先生に、なぜ州昇格条約上、このような特別扱いを、州昇格に際してわざわざ行ったのかについて伺ったところ、上述した1000マイルという距離が考慮され、除外するのが無難とされたのだそうです。しかし、どうせ無人島なのですから、除外規定を入れなくとも構わなかったのではないかと私は思っています。

 

二 ハワイのモットー

 国家のモットーが、わざわざ憲法に書いてあるのは珍しいと思います。第5節は、「ハワイのモットーは、"Ua mau ke ea o ka aina i ka pono" である」とだけ宣言しています。確かに第4節で、ハワイの公用語は、英語とハワイ語であると宣言しているのですから、ハワイ語を、その英訳を載せることなく、いきなり宣言しても悪いことは、全くありません。しかし、ハワイ語を解しない者にとっては、誠に不親切な規定であることもまた疑う余地がありません。

 調べてみたところ、これは文字通りローマ字読みに 「ウア・マウ・ケ・エア・オ・カ・アイナ・イ・カ・ポノ」と、発音すれば良いようです。その意味は、直訳すれば、「大地の命は正義によって守られる」ということだそうです。しかし、その訳語を聞いても、なお意味がわからなかったので、例によってハワイ大学ロースクールのヴァン・ダイク教授に助けを求めたところ、「我々は、我々の国土(と水域)を、注意深い管理者として守るために働かねばならない」ということなのだ、と教えてくれました。なんでも出典は、1843年にイギリスに占領されていたハワイ王国に、主権が返還された際、当時の君主、カメハメハ3世が述べたスピーチの一節なのだそうです。

 ハワイ州憲法は、このモットーを、その前文でも使っています。すなわち、憲法前文は、次の文章から始まります。

「我々ハワイの民は神の導きに感謝し、我らがハワイの島嶼国家としての伝統と特異性に心をいたし、"Ua mau ke ea o ka aina i ka pono"というハワイのモットーに宣言された哲学を充足するよう努力する。」

 出典となった事件と、この前文の文言を合わせ考えると、そこには被侵略民としてのハワイ人の怨念が現れているように思われます。当の侵略国家であるアメリカの州としての憲法に、それが出てくるのは少し奇妙な気がしないでもありませんが…。

 

三 ハワイの歴史

 ここで、簡単にハワイの歴史を紹介してみましょう。

 ハワイ諸島にポリネシア人が住み着いたのは非常に古いことだと考えられますが、文字に書かれた歴史は、1778年に大探検家のキャプテン・クックが訪れたことに始まります。クックは当初大歓迎を受けますが、その後、住民との小競り合いが原因で殺害されてしまいます。

 この当時は、まだハワイ諸島には統一的な政権はなく、個々の島どころか、一つの島の中にさえも多数の豪族が割拠している状況でした。ハワイ島の豪族であったカメハメハは、イギリス人の軍事顧問と最新の武器を導入し、その軍事的優位を背景に、1810年にハワイ諸島全域を完全統一に成功し、カメハメハ1世として王朝を開きます(在位1795年〜1819)。カメハメハ大王と呼ばれるのは、この人です。写真Cは、ハワイ州最高裁判所の前に立つカメハメハ大王像です。もっとも、この像はこの像は大王自身ではなく、ハンサムな友人をモデルにしたものであるとか。

 その跡を継いだのがカメハメハ2世(在位1819年〜1824年=幼名リホリホ)で、大王の長男です。1820年に宣教師団が来航し、キリスト教が奨励された結果、ハワイの文化は受難の時代を迎えることになります。彼は外交訪問中のロンドンで麻疹により急死してしまいます。

 カメハメハ3世(在位1825年〜1854年=幼名カウイケアオウリ) は、2世の急死後、10歳で即位します。成人後の1840年に憲法公布、1845年に議会の召集、と積極的に近代化施策を実施したことで有名です。また、砂糖キビのプランテーションも登場し、土地改革が行われたこともあり、ここに土地の所有という概念が始めてハワイに生まれます。しかし、イギリスやフランスが、帝国主義的な侵略の野望をむき出しにするようになり、1843年にはイギリスが、1849年にはフランスが、それぞれハワイの領有を宣言しました。先にモットーの出典について述べたとおり、国土が外国により一時的に占拠されてしまうという事態も起こります。

 カメハメハ4世(在位1854年〜1863年=幼名アレクサンダー・リホリホ) は、アメリカ嫌いで、英国国教会の導入などを行いましたが、一連の近代化政策や侵略により王権は弱くなり、また、欧米からハワイ人が抵抗力を持たない伝染病が入ってきて流行したことなどにより、ハワイ人の人口減少問題が極めて深刻になってきます。

 カメハメハ5世(在位1863年〜1872年=幼名ロト)は、4世が子供を残さず、9年で死亡したため4世の兄が跡を継いだ人物で、だから4世より年上なのです。この王は、弱体化した王権を強化しようと、カメハメハ3世が制定した革新的すぎる憲法を廃止したり、親英的な政策をとったため、当時、事実上ハワイの経済を牛耳っていたアメリカ人の反感を買うようになります。しかし、4世と同じく在位9年で死亡し、ここにカメハメハ王朝は途絶えました。

 そこで、誰を王位につけるかの決定は議会にゆだねられました。激しい選挙戦の末、有力な首長のひとりであったルナリオ(1835年生まれ〜1874年没)が選出されました。しかし、わずか在位2年で没しました。

 そこで、議会は、彼と王位を争ったカラカウア(1836年生まれ〜1891年没)を圧倒的多数で国王に選出した結果、彼が第7代国王として即位しました。ワイキキのメイン・ストリートであるカラカウア・アベニューは、彼の名にちなんだものです。その通りが始まるところ(クヒオ・アベニューとの交差点)に彼の銅像が建っています(写真D参照)。

 彼の時代に、ようやくハワイ人としての愛国心が叫ばれるようになり、伝統文化・芸能の保護が行われるようになりました。例えば、今現在、ハワイの州歌とされている「ハワイ・ポノイ(ハワイ固有の人々)」というハワイ語の歌は、このカラカウア王が、人々の愛国心を鼓舞しようと作詞したものだそうです。また、写真Cに示したカメハメハ大王像も彼の戴冠式にあわせて建てられたものです。しかし、伝統文化に関しては、もはや大部分が忘れ去られ、既に手遅れという状況でした。

 彼は、カメハメハ王朝末期の王と異なり、初期においては、政治的には親米で、1875年にはアメリカとの間に互恵条約を締結し、アメリカとの間の関税を撤廃します。これは、我が国が明治期に悩んだのと同様の、互恵とは名ばかりの不平等条約でした。具体的には、真珠湾の使用権をアメリカに独占的に認め、また、アメリカとの間の関税をゼロとしたなどの内容だそうです。その結果、砂糖等の生産を独占的に支配していたアメリカ人勢力はいっそう強まり、国王は、政治的には完全に無力となってしまいます。

 そこで、アメリカ勢力を排除しようという努力の一環として、1881(明治14)年に世界旅行を行って、各国に働きかけをしました。その途上、日本にも来て、日本との間の不平等条約を世界で始めて廃棄し、同時に日本からの移民を要請しました。現在、ハワイに居住する膨大な数の日系人の移民は、この時から始まったのです。また、日本の皇室との婚姻政策により、日本との政治的統合を目指したことでも有名です。すなわち、姪の、この時5歳のカイウラニ王女と15歳の山階宮定磨親王(後の東伏見宮依仁親王)の婚約を行おうとしたのです。しかし、当時の日本は、ハワイ以上にアメリカを恐れなければならない状況にあったので、この提案を受け入れる余裕はありませんでした。受け入れていたら、少なくとも太平洋戦争が、真珠湾奇襲で始まることはなかったかもしれません。

 リリウオカラニ女王(1838生まれ〜1917年没) は、カラカウアの妹で、1891年に53歳で王位に就きます。名曲「アロハ・オエ」を作曲したことでも知られるように、高い知性を持つ彼女は、白人支配からハワイ人に政権を取り戻すべく、精力的に活動します。しかし、上述のアメリカとの不平等条約を撤廃しようと強硬手段にでたところ、アメリカ系実業家達グループは、アメリカ海兵隊の支援を得て1893117日、クーデタを起こし、彼女をイオラニ宮殿に幽閉して、ここにハワイ王国は滅ぼされてしまったのです。その彼女の像が、州政府ビルの真向かいに建ててあるのは、非常に象徴的といえるでしょう(写真E参照)。

 白人たちは、こうしてハワイの実権を掌握した後、アメリカにハワイの併合を求めました。しかし、アメリカはこの時点ではハワイを戦略的に重要とは考えていなかったこと、イギリス留学中の妙齢の美女となっていたカイウラニ王女が急遽アメリカに駆けつけ、すばらしい英語でクーデタ側の非道を訴えて、世論をハワイ王国寄りに動かしたことなどから、クリーブランド大統領は併合を受け入れず、逆に王政復古を求めました。

 しかし、クーデタの首謀者に寛大な措置を希望するアメリカに対し、リリウオカラニ女王は、首謀者の死刑及び財産没収を主張して譲らなかったことなどから、アメリカの支持を背景にしたハワイ王朝の復活案は挫折します。アメリカが併合しなかったことから、やむを得ず、クーデタを起こした白人たちは、1894年に、判事のサンフォード・ドールを大統領とするハワイ共和国を建国しました。

 1898年に、クリーブランドに代わってアメリカ大統領に就任したマッキンリーは、米西戦争の影響で太平洋に活動拠点を得る必要を痛感したことから、前代とは方針を変更し、ハワイ併合を承認しました。リリウオカラニは復権を目指してアメリカにわたり活動しますが、失敗に終わり、逆に王位の破棄を完全に認めさせられています。こうして、ハワイ人による国家は終焉を迎えました。

 カラカウア・アベニューと並ぶ、今ひとつのワイキキのメイン・ストリートであるクヒオ・アベニューは、ジョナー・クヒオ・カラニアナオレ王子(1871年生まれ〜1922年没)の名前に由来します。彼はカラカウア王の妻であったカピオラニ女王の甥でした。ハワイの主権復活を願っていた彼は、アメリカへの併合後もリリウオカラニ女王の王位復活を試み、失敗して反逆罪で1年間投獄されたりしました。ハワイが、準州としての地位を認められるようになると、1902年から1922年までハワイ代表としてアメリカ議会へ派遣され、ハワイ人のための土地を確保する法律を議会に通過させるなどの活躍をしたため、「ケ・アリイ・マカ・アイナナ(庶民の味方)」と呼ばれました。その死後、所有地をホノルル市郡に寄付しました。それが、ワイキキビーチの東半分を構成しているクヒオビーチです。そこに、彼の銅像もあります(写真E参照)。また、「カラカウア・アベニュー」と並ぶワイキキのもう一つのメインストリートである「クヒオ・アベニュー」は、彼の名前に由来します。

 この被侵略と衰退の連続というべき歴史を知り、そしてアメリカへの抵抗を主導した王族の銅像が市内各所に配され、またその名がメインストリートに付されている現実を見ると、ハワイのモットーの重みが感じられると思います。ちなみに、ハワイ語を公用語であるとするのも、このハワイ州憲法により始めて実現したことで、それまでは公用語は英語だけだったのです。

 なお、アメリカ連邦政府は、このアメリカ人クーデタが起きた1893年からちょうど100年経った記念の日に、次のような謝罪決議を行っています。以下、公式の要約文を紹介します。これもかなり長いものですが、フルテキストは、これよりはるかに長文かつ具体的・詳細なものです。

1893117日のハワイ王国の打倒から100年経ったことを記念し、ハワイ原住民に対し、ハワイ王国をアメリカ合衆国が打倒したことに対する謝罪を行う。

 1778年に最初のヨーロッパ人が到着する以前に、ハワイ原住民は、きわめて高度に組織され、洗練された言語、文化及び宗教を保有し、共有地に基づく自己充足的な社会システムを保有していた。1826年から1893年まで、合衆国はハワイ王国の独立を認識し、ハワイ王国との間に、通商と航海に関する条約を締結していた。

 しかるに、1893117日、合衆国政府は、ハワイ王国の主権と独立を侵害し、合衆国市民を含む非ハワイ人系居住者からなる少人数のグループとの間の共謀により、固有で合法的なハワイ政権を打倒することを企てた。リリウオカラニ女王は、抵抗に伴う流血の危険を知らされると直ちに、仮政府ではなく、合衆国政府に対して彼女の権限を委譲する次の声明を発した。

『神の恩寵とハワイ王国の憲法に基づき、その女王であるリリウオカラニは、ここに、この王国の仮政府を樹立するよう要求する特定人に対し、私自身とハワイ王国の憲法に基づいた政府に対して行使されたすべての行動に関して、厳重に抗議する。

 私は、アメリカ合衆国全権大使ジョン・L・スチーブンスが合衆国軍隊をホノルルに上陸させ、地方政府を支援するであろうと声明したことによる圧倒的な武力に屈服する。

 武力によるあらゆる混乱、特に生命の損失を回避するため、抗議と上述の武力による強制の下に、合衆国政府がその代表者達の行動を取り消し、私をハワイ諸島の憲法に基づく主権者の地位に事実として復権させるその時まで、合衆国政府に対しわが権限を委譲する。

 1893117日 女王リリウオカラニ』

 合衆国の外交及び軍事による積極的な支援及び介入がなければ、リリウオカラニ女王の政府に対する反乱は、民衆の支援がないことと不十分な武力のために失敗したであろう。

 18931218日のグローヴァー・クリーブランド大統領の議会に対する教書では、完全かつ正確に、反乱者の違法行為を報告し、その行動は、『議会からの授権を得ることなしに、合衆国代表である外交官が参加して行われた戦争行為である』と述べ、それにより平和で友好的な政府が打倒されたと認めている。クリーブランド大統領は、さらに『本質的な悪がなされた。我々の国家の性質及び虐げられた人々の要求に基づき、我々は事態の修復に努めなければならない』とし、ハワイ王国の復権を求めている。

 ハワイ原住の人々は、決して彼らの人民ないし国土に対する固有の主権を、合衆国から回復するという要求を直接放棄したことはなく、また、王国や意見表明権を放棄したこともない。

 ハワイ原住民の健康と福利は、本質的に国土に対する深い感情と結びつきにかかっている。19世紀及び20世紀初頭のハワイにおける経済的社会的な長期変動は、ハワイ原住民の人口及び健康と福利に破壊的影響をもたらした。

 ハワイ原住民は、彼ら固有の領域と彼らの文化的アイデンティティを彼ら固有の精神的、伝統的信仰、習慣、行動、言語、そして社会的制度を守り、発達させ、そして将来の世代に伝えることを決意した。

 それ故に、アメリカ合衆国議会の上院及び下院はここに集い、決意した。

議会は、

・合衆国人民の行動により、1893117日にハワイ王国が打倒され、ハワイ原住民の自己決定の権利が侵害されたことを謝罪し、

・ハワイ王国の打倒という悪事を承認したことの責任を、合衆国とハワイ原住民の和解のために認め、

・合衆国大統領に対しも、ハワイ王国打倒という悪事を承認し、合衆国とハワイ原住民の和解を支援するように要求する。」

 この決議は、合衆国公法103-150号として議会を通過し、19931123日にクリントン大統領が署名して(写真G参照)、正式に発効しています。

 こうした怨念の歴史を見れば、ハワイ州の憲法の中に、アメリカから侵略された国家としての主張が書かれるのも無理はないといえそうです。

 こうした動きの行き着くところとして、現在、アメリカ議会では、ハワイ選出のダニエル・アカカ(AKAKA)上院議員が、同僚であるイノウエ上院議員と共に、ハワイ先住民政府再編成法(Native Hawaiian Government Reorganization Act of 2005)を提出し、成立させようとしています。これは、アメリカ本土のアメリカ先住民と同様に、一定範囲の自治権を認めようとするものです。これは独自の領域を認め、そこに独自の憲法の制定をも認めるものです。これが、ハワイ州にとってきわめて重要な法律であることは確かです。

 しかし、私には、仮にこの法律が成立したとしても、少々手遅れ気味の措置ではないか、という危惧があります。ハワイ原住民人口は、それにサモア、トンガ、グアムなど他の太平洋の島々から来たポリネシア人人口を加えても、1990年の時点ですでに162,269人にすぎず、それが2000年の時点になると、5万人近く減って113,539人と、著しい減少を示しているからです。もっとも、ハワイ系の混血の人々まで加えると、25万人程度の数字になります。

 また、独立性を保てるようなテリトリーというのですが、それはどこになるのでしょうか。まさか、不発弾に覆われた不毛のカホオラウェ島ということはないと思うのですが。