ハワイ紀行第7回

ハワイ島旅行

甲斐素直

 我々が普通にハワイに行くというときには、オアフ島に行くことを意味します。しかし、ハワイについて研究してくると、ハワイ島という島の持つ重要性を考えざるに入られません。そこで、2006年に1週間、ハワイ島を訪問してきました。これはその際の紀行文です。

一 ハワイ島の地形

 ハワイ島は、ハワイ諸島でも一番大きな島です。伊豆大島や奄美大島の例を見れば判るとおり、ある諸島の中で一番大きな島は、日本では大島と呼ばれます。この発想はどうやら万国共通らしく、ハワイ州では、ハワイ島のことを普通はビッグアイランド(Big Island)と呼びます。その面積10,458 km2は、ハワイ諸島の全陸地面積の60%に達しますから、確かにビッグアイランドの名にふさわしい広さです。以下では、単にハワイといってしまうと、州全体のことか、この島のことか紛らわしいので、現地の人々に倣ってハワイ島のことは、原則として、ビッグアイランドと呼ぶことにしましょう。

 プレート・テクニクスという言葉をご存じと思います。大洋の真ん中から地殻を構成するプレートが湧きだし、大陸までもがそれに載って移動するという現象のことです。ハワイ諸島は、そのまさに生きた見本です。この島々は、年間10cmというスピードで、アリューシャン列島を目指して、せっせと移動している最中です(地図@参照)。

 プレートは、大洋の中央に位置する地殻の割れ目から流れ出します。その割れ目の特定の場所から、溶岩が噴出します。これをホットスポット(hotspot)と呼びます。最初、それは海底火山ですが、噴火がある程度継続すると、その尖端が海上に現れて、島になります。大西洋であれば、アイスランドがそれです。それに対して、太平洋では、ハワイ諸島がそれに当たります。

 島ができあがったところで、ある程度の期間溶岩の噴出が止むと、その島はプレートに載って移動して、ホットスポットの上からずれてしまいます。しばらくすると、同じ位置にまた溶岩の噴出が始まります。何もない海底に、新しい海底火山が生まれ、やがて島になります。ハワイ諸島は南東から北西に向けて、直線上に並んでいますが、これはプレートの動き及びそれに載った島の移動を示しています。だから北西の方にある島ほど古く、南東の方の島ほど新しくできたものです。

 具体的な島名でいえば、北西の端にあるカウアイ島やニイハウ島が一番古い島です。エルヴィス・プレスリーが、映画『ブルーハワイ』の中で、「愛の島、カウアイ」と歌い、この島で恋人との結婚式を挙げます。それはやはり、この島ができて以来の長い年月の間、浸食を受けるばかりで成長することがないために、きわめて複雑な地形になっていることと関係しているのに違いありません。何でも、カウアイ島と、そこから海上25kmも離れたニイハウ島は、500600万年前には一つの島だったというのです。きっとそのころは、今のビッグアイランドに負けないくらい大きな島だったでしょう。

 真ん中にあるオアフ島やマウイ島は、中くらいの年齢です。だから、オアフ島の場合には、そこにある火山、例えばダイヤモンドヘッドやパンチボウルは、すでに完全に死火山になっています。

 そして南東の端にあるビッグアイランドが、一番新しい島ということになります。ビッグアイランドくらいに大きな島になると、島のどこにあるかで、火山の状況も違ってきます。島の一番北西端にあるコハラ山(1670m)は、既に死火山です。昔は、この山も4000m級の高峰だったとか。活動が止むとともに、山の重さに海底が耐えかねて、ここまで沈んでしまったのだそうです。

 次に北西に寄った方にあるマウナ・ケア山(4205m)は休火山で、その山頂まで安全に登れます。この山の噴火は、昔はどろどろとした溶岩を吹き出す山でした。しかし、ホットスポットの真上からは移動してしまったために、今では激しく火山灰や噴石を吹き出すタイプの山に変わっています。火山灰や噴石は、溶岩と違って流れないために、山が高くなりやすく、目下のところは、ビッグアイランドの、そしてハワイの最高峰となっている訳です。しかし、やはり、自分自身の重さによって海底が押しつぶされ、その高さは徐々に減少しているそうです。

 これに対して、その南東側にそびえるマウナ・ロア山(4170m)は活火山であるため、山頂に人間が行くことは危険で、現在は6合目までしか登れません。マウナ・ロア (Mauna Loa) とは、ハワイ語で「長い山」の意だそうです。確かにその山を見ると、山頂が、最高点から南西の方向に向けて長い稜線を形成しています。山頂のモクアウェオウェオ火口は地球上で最も巨大な火口であり、その表面は大きく露出しているため、こんな形に見えるのです。マウナ・ロア山の体積は約42000立方kmもあり、現在の地球では、最も体積の大きい山だそうです。活動中の山の凄みということでしょうか。

 そして、更に南東側にあるキラウエア山は、位置的にはマウナ・ロアの巨大な山体の中腹にできた寄生火山のようなものです。現在、世界でもっとも激しく活動している火山といわれています。本を見ると標高1,247 mと書いてありますが、ひっきりなしに活動しているので、どこが最高点かはっきりしないのか、かなり詳しい地図を見ても、最高点の▲印はどこにも書かれていません。ただ、キラウェア・ビジター・センターのところが1213mの高さなので、その近所に最高点はあるのだろうと思います。

 実を言えば、現在のビッグアイランドは、ホットスポットの上から若干はずれています。キラウエア火山の沖合の海中には、既に新しい海底火山が成長中で、その山頂は現在では水面下100m位にまで達しているのだそうです。おそらく、将来はこの火山はビッグアイランドにくっついてその一部になってしまうでしょうから、ビッグアイランドがよりビッグなアイランドになるのは時間の問題と言える訳です。この海底火山には、ロイヒ(Loihi)という名があります。それが海上に現れたときには、キラウェア山よりも活動的な山として知られることでしょう。

 ビッグアイランドの山は、どの山も、盾状火山と呼ばれるタイプで、恐ろしく平らです。キラウエア火山と同じように、やたらと流れやすい溶岩でできたということがよく判ります。日本にはあまり見られない、こうした特徴ある山々の存在こそ、私がビッグアイランドに行きたいと考えた最大の理由です。

 

二 ビッグアイランドの町

 先に述べたとおり、ビッグアイランドは約1 km2という広さですが、実際に行ってみるまで、その大きさをきちんと理解していたとは言い難いところがあります。日本に引き直して、ほぼ四国の半分という方の数字を聞けば、広いと思います。しかし、私が活動している関東地方に置き直せば、辛うじて茨城南部や神奈川東部などまでを含む、東京への通勤圏とちょうど同じくらいの広さということになります。そして、私はその茨城南部から東京に毎日のように通勤しているのですから、その程度の広さには驚かないという意識がありました。あるいは、前にオアフ島のザ・バスについて紹介しましたが、あの交通の便利さを考えれば、やはり広さは大した問題ではないと思っていました。具体的には、この島のどこにホテルをとっても、大して変わらないだろうと高をくくっているところがあったのです。その結果、この島のカウンティ政府もハワイ大学のキャンパスも、島の東海岸にあるヒロに所在しているのに、西海岸にあるカイルア・コナに宿を取ったのです。

 もちろん、そうしたのにはそれだけの理由がありました。

 第一に、ヒロ空港はローカル空港であるのに対し、コナ空港は国際空港なのです。具体的にいえば、日航が日本から直接乗り入れています。その結果、コナ空港に降りることにすれば、日本を夜の9時に発った場合、朝の10時にはビッグアイランドに降り立っているのに対し、ヒロ空港に降りることを目指せば、ホノルル空港での乗り換えと、オアフからビッグアイランドまでのフライトとで半日つぶしてしまう結果、夕方にしか着けません。つまり、事実上、1日分の昼間の時間を使えるか使えないかの差が出てしまうのです。ビッグアイランドに行くことを目指している人間にとっては、ヒロ空港からビッグアイランド入りする道を選択することはかなり馬鹿げていると思える訳です。

 第二に、気候の良さです。ハワイ諸島は、貿易風帯にあります。貿易風というのは、赤道沿いに、年間を通して常に北東から吹いている風のことです。帆船の時代には、この絶対に当てにできる風は、貿易船の絶対の味方だったために、この名があります。そのため、ハワイ諸島では、東とか西という代わりに、風上(Windward)とか、風下(Leeward)というように呼びます。すなわち、日航が日本から直行便を飛ばしているコナ空港にほど近いカイルア・コナという町(というより、この町があるから、空港は、厳密に言えばコナにはないにも拘わらず、コナ空港という名称になっているのです)の、カイルア(Kailua)という言葉は風下側という意味のハワイ語です。中央に4000mを超える高山が二つもある島ですから、島の風上側にあるか風下側にあるかは気候に大きく影響します。すなわち、風下側にあるカイルア・コナの町は、湿った空気は中央の高山に遮られる結果、年間を通じて良い天気なのに対して、風上側にあるヒロの町は、合衆国全体でももっとも多雨の町として知られているそうです。3日滞在して、そのうち1日でも晴れたら、その人はすごく運がよい、といわれます。しかも、降るときには熱帯の雨ですから、結構土砂降りになるといいます。雨が多い町よりは、晴れの多い町の方が、旅人として限られた日数滞在するのには、絶対に良いに決まっています。

 第三に、歴史の厚みです。キャプテン・クックがこの地に到達するまで、ハワイ諸島は、石器時代レベルの文明しか持っていませんでした。その中にあって、ビッグアイランドにすむカメハメハは、西洋文明の価値を素早く見抜き、特にその軍事技術を積極導入することにより、1810年にハワイ諸島の統一に成功したのです。その彼が、首都をおいたのが、カイルア・コナです。かれの生誕の地は、島の北端にあるカパアウ(Kapaau)の町です。同じビッグアイランドでも、生まれ故郷そのものではなく、カイルア・コナに首都をおいたのは、やはり、その気候の良さが大きな要素だったのに違いありません。

 第四に、観光産業の厚みです。上記のような事情を受けて、ほとんどの観光会社がコナ側を拠点としているため、ヒロに宿を取ったりすると、自分で車を運転するという手段が執れない人間にとっては、ヒロの町以外、どこにも行けなくなるという危険があったのです。実際、ネットを検索すると、そういう悲鳴を上げている人がいたのです。

 結論的にいうと、上記の諸点はすべて正しかったのです。だから、その限りではカイルア・コナに宿を取ったことは正解と言えます。しかし、同時に上記の事実は、この島の西と東の没交渉ぶりも示していたのです。何しろ、島の人口は近年かなり急激に増加していますが、それでも162,971人(2004年国勢調査)にすぎません。その人数のほとんどが、ヒロかカイルア・コナのどちらかに集中していて、後の茫漠たる広がりの中にはほとんど人が住んでいません。その結果、ヒロもコナも、それぞれが一つの経済圏を形成し、互いに交渉を持つ必要がないのです。

 それですから、ヒロとカイルア・コナを結ぶバス便は、1日にたった往復1本しかないと言うのも無理はありません。1本でも、あれば上等なので、それを利用すればよいと思っていたのですが、問題はその発車時間です。カイルア・コナを発車するのは、なんと朝の545分発なのです。しかも、決まったバス停がないというのです。道路の脇に立って、公営バスが来たら、手を振れば、どこでも乗せてくれるというのです。そういうやり方は、どれが公営バスなのか見分けがつく人には、便利でしょう。しかし、様々な色の観光バスがうじゃうじゃ走っている道で、これ以外には見かけることのない公営バスをどうやって旅人は見分けられるというのでしょうか。

 更に怖いのが、俗にハワイ時間といわれる時間感覚です。正確に時刻表通りに走ってくれれば、それなりに対処のしようはあります。しかし、ザ・バスについて書いたように、時刻表を無視して気楽に走っていってしまう危険が非常に高いことを考えると、始発から終点まで行くというのならともかく、途中で乗って途中で降りるというバスの利用は、きわめて危険と言えます。行きに、時刻表よりも先に、さっさと通り過ぎられた場合には、乗車を断念するだけで済みます。しかし、帰りに捕まえ損なったら、翌日まで帰れません。それどころか、翌日になっても、確実に捕まえられると言う保障はありません。このような恐るべきバス以外に手段がない以上、結局、ヒロ行きは断念せざるを得ませんでした。

 ところで、先にカイルア・コナの長所を何点も挙げました。特に歴史的には、カイルア・コナは、ハワイ全体の首都だったことを考えると、それにもかかわらず、今のカウンティ政府が、なぜヒロにあるのか、不思議です。誰だって、季候の良いところに住みたいはずではありませんか。

 答えは、近代になってからの貿易にあるようです。コナ側の海にはこれぞという港がありません。だから、輸出の拠点にはならないのです。私がカイルア・コナに滞在している間、プライド・オブ・アロハという豪華客船が沖泊まりしていました。船客はどうやって上陸するのだろうと思っていたら、1ダースものモーターランチを舷側にぶら下げていて、ひっきりなしにそれで陸と船を結んでいるのです(写真B参照)。客船ならそれで済みますが、貨物船の場合に、それが直接停泊できる埠頭がないというのは、確かに致命的な欠陥になります。

 ヒロは、日系移民によって開発された都市なのだそうです。そのため、ヒロというのは広島県の意味から来たのだ、などという俗説があります。しかし、それは嘘で、実はハワイ語で三日月というような意味なのだそうです。ヒロ湾が三日月型をしていて、少なくともカイルア・コナに比べると遙かに勝る天然の良港になっているのです。そこを拠点として、海外との交易を展開した日系移民の経済力が、カウンティ政府やハワイ大学を、気候の不順なヒロ側に引き寄せたと言えそうです。

 

三 カイルア・コナ

 ハワイ諸島全体の名称とビッグアイランドが、同一の名称というのは実に紛らわしいものです。こういうことになった原因は、諸島全体を始めて統一したカメハメハ大王が、先にも述べたとおり、ビッグアイランドの出身だったからです。そこで、彼は、自らの王国を、その生まれた島の名を取ってハワイ王国と名付けました。当然、これがそのまま諸島の名前になったのです。

 統一後、彼は首都をこのカイルア・コナの町に置きました。首都が、オアフ島に移転したのは、統一後30年ほども経ってからのことです。

 カイルア・コナの町のメインストリートは、おおざっぱに言って、大文字のLの形をしています。横棒が海沿いに走る道で、縦棒が山に向かって登っています。

 海岸沿いの横棒は、いわば観光客用の通りです。レストランとか土産物店とかコンビニはずらっと揃っていますが、銀行も郵便局もそしてスーパーマーケットも、この通りには見あたりません。

 それに対して、山に登っていく縦棒はまさに地元民のための通りです。ファースト・ハワイアン・バンクやアメリカン・セーヴィング・バンク、バンク・オブ・ハワイなどの銀行が軒をそろえ、それに郵便局までが並んでいます。そして日系人が経営者というKTAという大型スーパーを筆頭に、ショッピングセンターが何軒も複合的に立ち並び、その間にはウェンディやバーガーキングといった日本にもおなじみのファーストフード店や、地元のファーストフード店が揃っています。

 海を見ながら、ハワイアン音楽の流れる中を優雅に食事をしたり、いかにもビッグアイランドという土産物が欲しければ、海岸沿いの横棒に並ぶ店が最適です。それに対し、安く食事をし、安く日常的なものを買いたければ、山に登る縦棒の店が最適と言うことになる訳です。これほど接近して、これほど性格の違う繁華街が併存しているのは、ここだけではないでしょうか。

 話が少し横道にそれました。このL字の、縦棒と横棒の接するところに、現在はキング・カメハメハというホテルが建っています。このホテルの敷地が、昔、カメハメハ大王がその政府を置いた場所の後なのだそうです。史跡保存などという発想の無かった時代に、さっさとその遺跡は取り壊されて、ホテルに化けてしまったという訳です。

 今日になると、さすがにそれは拙いと思われたようです。そこで、その敷地の一画に、カメハメハ大王が、その晩年を過ごしたカマカホヌ(Kamakahonu=亀の目)といわれる建物が現在、元通りに復元されて建っています(写真C参照)。本当にかわいい茅葺きの家です。海の上に立っているという点を除くと、日本の縄文時代の竪穴住居を思わせます。キャプテン・クックによって、突然西欧近代文明に接するまで、ハワイの文化水準はこのレベルだったのだ、ということを痛感します。

 そのすぐ傍に、フリヘエ宮殿(Hulihe'e Palace)と呼ばれる、こちらは近代的な建物があります(写真D参照)。カメハメハ大王は、ハワイ諸島を、現在の郡と一致する4つの地域に分け、それぞれに総督をおいて支配させました。このフリヘエ宮殿は、ビッグアイランドの第2代総督であったクアキニが、自宅として立てたものです。しかし、彼の子孫が絶えたことから、姻族関係にあった王家の所有となり、特にカラカウア王はここが気に入って大幅に改修し、夏の別荘として愛用しました。そこで、この建物が宮殿と呼ばれる訳です。

 小さな建物で、大して見るべきものもありませんが、二階に上る階段の踊り場にカメハメハ大王が愛用した槍が何本も飾ってあります。フリヘエ宮殿の中では写真撮影が許されないので、お見せできないのが残念ですが、一番長いものは6.6mもあるという長大なものです。しかし、技術的には粗末なもので、金属はおろか、石の穂さえもなく、先が尖らせてあるだけです。まさに縄文時代の武器です。カメハメハの敵も当然同じような武器しか持っていなかったはずです。そうした時代に、近代的な火器と戦略、戦術を持ち込めば、統一がきわめて容易であったろうと痛感させます。それにつけても、縄文レベルの石器文化に属する人間でありながら、そうした近代技術と戦術・戦略を受け入れるだけの頭脳の柔軟性を持っていたカメハメハは、天才ではないかと思います。

 

四 キラウェア山

 今回、ビッグアイランドで絶対に行きたいところが、2カ所ありました。世界でもっとも活動が激しい火山といわれるキラウェア山と、ハワイ諸島の最高峰であるマウナケア山です。今回は、そのうち、この節ではキラウェア火山に行った話をしたいと思います。

 キラウェア山は、世界で最も大きな火山といわれるマウナ・ロア山の南東部側面と、向かい合う位置に存在しています。しています。マウナ・ロア山のどっしりとした大きさ及び4,169 mとそびえたつ勇姿に比べると、1213mのキラウエア山は、いかにも貧弱です。

 マウナ・ロア山は有史以来、30回を超える噴火が起こっているといわれます。かなり活動的な活火山といえます。しかし、キラウエア山と比べると、影が薄くなります。キラウェア山の噴火は、20世紀中だけに限っても、実に45回が記録されているのです。特に、19831月から始まった噴火は、幾度かの活動の不活発化はあるものの、現在も続いているという息の長いものです。活動性という点から言えば、比較にならないほど、キラウェア山が活発であることが判るでしょう。

 このように、きわめて活発な活動をしているにもかかわらず、キラウエア山は世界一安全な火山とも言われています。現在の噴火は、南東地溝帯にあるプウ・オーオー火口から溶岩が流れ出すという形で続いているのですが、これは、地下の溶岩トンネルなどを伝って流れており、海岸近くになって始めて地上に現れます。そこで、その溶岩トンネルの出口あたりに行けば、その赤い溶岩がゆっくりと流れるところを目にすることができるという訳です。ここに、そうした溶岩が流れるところを確実に発見し、安全に客を案内する観光事業が成立することになります。

 そこで日本にいる時に、溶岩観光を売り物にしている会社をインターネットで探して、ビッグアイランドに滞在する間の、特に予定を入れていないいずれかの日のツァーに参加したいと申し込みました。ところが、回答を1週間も引っ張られたあげく、いったんは断られたのです。つまり、このツァーは最少催行人数が2名であるところ、いずれの日にも1組の申し込みしかないので、それがドタキャンになった場合、私1人のために催行しなければならず、採算がとれないからというのです。その上で、ビッグアイランドに到着したら、改めて電話してくれ、という注文でした。

 それで、ビッグアイランドに降りて、ホテルについて一息ついたところで電話したら、翌日ならOKという返事でした。ちょっと慌ただしい話ですが、もちろん受諾しました。

 その日のお客は、私自身を1家族と数えれば、3家族7人のツァーでした。このツァーは、カイルア・コナから出発したのですが、車が、島の最南端であるサウス・ポイントに至る分かれ道を過ぎたあたりから急に雨が降り出し、なるほど風上側は雨が多いと感心しました。ついでにいえば、このサウス・ポイントという地名は、その名のとおり、単にビッグアイランドで最南端というだけではなく、合衆国の最南端なのだそうです。つまり、フロリダ最南端よりも南にあるということです。

 ハワイ火山国立公園(Hawaii Volcanoes National Park)は、キラウェア山の作ったカルデラの中にあります。入り口にゲイトがあって、10ドルの入園料を取られます。我々にとっては、もちろんツアー料金に含まれています。入園券の代わりにかなり大きな火山周辺の地図をくれるところが気が利いています。キラウエア火山のカルデラは、周囲18kmあって、我が国の阿蘇のカルデラほどではないにしても、なかなか迫力があります。中央には蔵王のお釜を思わせるハレマウマウ(Halemaumau)火口が広がっています。直径約1km1924年に爆発するまでは、この半分程度の大きさだった代わりに、溶岩湖で、いつでも赤い溶岩がちゃぷちゃぷ(?)していたそうです。今では、中はただの岩の原です。

 普通の溶岩観光だと、この後、この火口から南東に延びるチェーン・オブ・クレーターズ・ロード、つまり、小規模なクレーターが、一線に並んでいる線に沿って走る道路を終点まで走り、溶岩原にはいります(…とビッグアイランドのガイドブックに書いてあります)。しかし、私の参加したツアーを主催する観光会社に言わせると、それはあまり良くないコースなのだそうです。何度も説明したとおり、ビッグアイランドの風は常に東から西に吹いています。したがって、火口から南東に延びる道から入っていくということは、風下側に出てしまうことになります。その結果、火山からの有毒な噴気を浴びやすく、灼熱の溶岩が実際に流れているところまで入って行くのは困難だ、というのです。そこで、この私が参加したツアーでは、逆の風上側から溶岩原に進入するというのが売りです。それにより、かなり確実に赤い溶岩が見られるというのです。これこそが、先に述べたとおり、何度も断られても、私がこのツァーに参加することに拘り続けた理由でもあります。

 本欄では、あまり特定の企業名をあげたくないのですが、この会社のア・ア・ツァー(A.A.Tour)という名称は、紹介する必要があります。私は、この名は、電話帳の最初に乗せる狙いで適当に作った言葉かと思っていたのです。ハワイ語で溶岩(正確にはそのうちでごつごつと固まったもの)のことをア・アというのだそうで、まさに溶岩観光専門の、しかも日本人客専門の会社だったのです。

 もっとも、正確を期するために説明すると、ア・アという言葉は、同じ溶岩でも比較的ゆっくりと流れて、ごつごつとした岩状になるものを言います。これは大規模な噴火のときにしか起こりません。しかし、島中、どこにでも非常にありふれています。それに対し、キラウェア山から流れ出ているような、速めに流れて表面が滑らかな溶岩の方は、ハワイ語ではパホエホエというのだそうです。この会社が売り物にしているのは、そちらの方の溶岩ができるところなのですから、本当なら、そういう社名にするべきです。しかし、それでは長すぎるし、発音しにくいので、ア・アの方を選んだとか。

 それにしても、溶岩が、その形状によって全く呼び名が変わる、というハワイ語も面白いですね。溶岩がそれだけ身近の存在だ、ということです。おそらく、大西洋で同じような状況にあるアイスランド語でも、きっと同じように火山関係の言葉は細かく分かれているに違いありません。 閑話休題。

 この会社でも、一応キラウェア山のカルデラの中を車で走り、噴気口等も一応見て回ります。しかし、ほかの会社では、車を止めて、歩いて見物に行かせるのに、この会社は、そういった景色は車窓からちらっと見るだけなので、ちょっと詰まりません。これは、その後に時間がかかるから、そういうところで時間の節約をしているのです。

 すなわち一通りの火口観光が終わると、車はヒロに向かうハイウェイに出て、ひたすら走ります。もともとは、海岸線沿いに道路が走っていたのですが、1980年代にキラウェア山が噴火して溶岩流が流れ出した結果、ビッグアイランドの南の海岸沿いに走っていた道路が溶岩の下に埋もれてしまいました。その東端にあったカラパナ(Kalapana)という町が一つ消滅してしまったほどの溶岩流でした。そのカラパナ側から溶岩原に進入するというのが、この会社の売りです。現在では、その地域には、そこに所有地を持っていた人でなければ立ち入りが禁止されています。その数少ない立ち入り権限を、この会社はなぜか持っているという訳です。

 だから大きく回って走らねばならず、それに結構時間がかかるのです。昔のカラパナに入っていくと、ラバズ・エンド(Lava's end)、つまり溶岩の端という名のドライブインがあります。普通だと、道路はそのすぐ先で進入禁止になります。しかし、我々は、その溶岩流で寸断されたハイウェイを、車で行けるところまで、激しく揺られながら入り込みます。ある程度でこぼこをならして道にしてある溶岩の上をちょっと走ると、また無傷の道路に出ます。そしてすぐにまた溶岩原という繰り返しを何度か経験し、最後にどうしてもいけなくなったところに、車がUターンできるだけの広場が作ってありました。

 そこからが、いよいよ溶岩原へのチャレンジです。溶岩原歩きは、考えていた以上にハードな道でした。私は、日本の山のように、岩にペンキか何かで道の印くらいあるだろうと思っていたのですが、文字通りなにもありません。この会社以外にこの地区に入り込むツァーはないのですから、他に全く人影もなく、文字通り道もない、ごつごつの溶岩の上を歩き続けるのです。30分ほど歩いたところで、ようやく溶岩の山の上に赤い柱が立ててありました(写真参照)。それが、全行程を通じて、唯一の目印でした。

 溶岩原の端に、一カ所、黒い煙の上がっているところがあります(写真G参照)。その周りに、空中から溶岩観光をするためのヘリコプターが盛んに舞っていました。そこに行くのか、と思っていたら、そこには行かないというのです。その煙は、溶岩ドームが崩落して煙になっている場所で、地上からでは非常に危険なのだということです。

 それとは45度くらい違う角度の方にガイドは歩き出しました。前後左右、何の目標も見えない一面の溶岩源の中で、一体どうやって溶けた溶岩の所在を見つけるのだ、とガイドに尋ねたら、熱い溶岩流の上は、陽炎のように空気がゆらゆらしているので、それを目標に歩くのだ、ということでした。といわれても、何せ灼熱の太陽の下ですから、私の目にはどこもかしこもゆらゆらしているように見えて、かなり近くに行くまで、溶岩流の上の空気の揺らぎには、気がつかなかったのですが…。

 歩くこと1時間でたどり着いた活動中の溶岩流は、先端のごく一部だけが赤く、それ以外は既に白くなっているものでした(写真H参照)。眺めていると、その白い壁の一部が、内部からの圧力に負けて破れ、赤い溶岩が流れ出し、すぐに白く固まっては、またどこかが破れて流れる、という繰り返しでした。その溶岩からの輻射で汗が噴き出ます。風上から黒い雲が流れてきて、雨がバラバラと降ってきました。雨が激しくなると、水蒸気爆発の恐れもあるということで、たどり着いた赤い溶岩の場所には5分もいずに引き返すことになりました。しかし、何しろ目標の流れる溶岩を見られたのですから、皆、足取りは軽く、行った時よりも短い時間で車に帰り着くことができました。

 少し古くなった溶岩は、流れている時に表面を覆っていた薄い膜に相当する部分が、簡単に剥離してざらざらになっています。斜めに傾いた溶岩の上に飛び乗った際、その砕けたかけらに足を滑らせ、手をついてしまいました。会社が分厚い革の手袋を貸してくれていたので、外傷は負いませんでしたが、おかげで左手の小指を軽くねんざしてしまい、その晩は痛い思いをしました。

 また行きたいとは思いませんが、一度は絶対に行く価値のあるツァーと思います。

五 マウナ・ケア山

 マウナ(Mauna)は山という意味の、そしてケア(Kea)は白いという意味の、それぞれハワイ語だそうです。つまり、直訳すれば、白山という訳です。毎年11月頃から3月頃にかけて雪や氷によって山頂が覆われることから名づけられたということです。ヨーロッパの最高峰のことを我々はモンブランと呼びますが、これはフランス語で、やはり白山の意味です。同じ山を、イタリア語ならモンテ・ビアンコ、英語ならホワイト・マウンテンと呼びます。世界のどこに行っても、雪が積もる高峰に対する命名の仕方は一緒のようです。

 ハワイの人々は、マウナ・ケア山を、世界の最高峰だと誇っています。ハワイ諸島は、太平洋の平均水深6000mの深海から、海底火山の噴火によって形成されました。つまり、山の麓から計った、この水深プラス海抜標高が山の本当の高さと考えた場合、マウナ・ケア山は、実に10203mの高さがあるという計算になるそうです。すなわち、エベレスト(チョモランマ)山を抜いて世界で最も高い山ということになるのです。

 話は飛びますが、我々の太陽系での最高峰は何か、ご存じですか。それは火星にあるオリンポス山(Mount Olympus)です。マウナ・ケア山が1mを超えるというのと同じ論法で、周囲の地表から計測すると、実に約27000mという高さに達しているそうです。火星の海抜高度に相当する平均重力面というものを考えて、それから計測しても25000mになると言いますから、大変なものです。このオリンポス山も、マウナ・ケア山と同様に、盾状火山です。

 つまり、我々は、オリンポス山がどんな感じの山かを、マウナ・ケア山を見ることで、知ることができます(写真I参照)。オリンポス山の場合、平均斜度は数度に過ぎず、おかげで裾野の直径は550 km以上もあるといいます。これほど巨大化したのは、ハワイ諸島はプレートの移動に乗って、逐次移動していくので、そこに山の高さの限界が生ずるのに対し、火星ではプレート移動が起こらないため、ホットスポット上に一つの火山がとどまり続けたためではないかと考えられているそうです。

 この盾状火山の平らさという条件が、登山という点から見ると、素晴らしい利点を生じさせます。4000m以上の頂上まで、普通の自動車で、楽々と登ることができるのです。おかげで、カイルア・コナの町を2時半に出発して、日没を見、星座観測を楽しんでも、なおその夜の10時過ぎには戻ってこられるという、非常に短い日程での登山が可能になります。

 赤道直下の大洋の中心に位置する島にある4000m級の高峰という、マウナ・ケア山とマウナ・ロア山の持つ地理的条件は、大気観測や天文観測にとって重要な位置を占めてます。先に、マウナ・ロア山は、活火山なので6合目までしか上れない、と書きました。その6合目、すなわち海抜3400mの北側の斜面に建設されてのは、マウナ・ロア太陽観測所で、ここは、太陽観測において優れた結果を残しています。また、アメリカ海洋大気庁のマウナ・ロア天文台では、同じく局地的な大気の影響を受けない高度に位置していることを利用して、全地球的な大気の観測を行っています。例えば大気中の二酸化炭素の割合の計測は1958年から行われており、地球温暖化に関するデータが収集されています。残念ながら、こちらの方は一般の登山は禁止されています。

 私が利用した旅行社は、このマウナ・ケア山登山観光の草分けといわれる太公望という会社でした。登山専門の観光会社が、まるで魚釣り観光会社のような名称を使っているのがおかしいですね。しかし、魚釣り関係の観光ツアーはやっておらず、山専門なのです。ここは、日本人客専門の旅行社です。聞いたところでは、マウナ・ケア山観光を取り扱う旅行社は、現在は全部で8社あるのですが、そのうち4社までが日本人客専門とか。ビッグアイランドにおける日本人観光客の割合は、オアフ島などより遙かに高そうです。やはり、日航がコナ直行便を日本から飛ばしている威力なのでしょうか。ガイドに聞いても、その辺の事情はよく判りません。

 ほぼ、3時にカイルア・コナの町を出発して、フアラライ山(Hualalai)中腹の道を北上します。ちなみにフアラライというハワイ語は、恥ずかしがり屋という意味だそうです。いつも雲がかかっていて、山頂が見えることが滅多にないからです。風上側から流れてくる雲が、この山に引っかかるので、カイルア・コナの町がいつでも好天に恵まれる訳です。

 この中腹の道は、そのまま走っていけば、北回りでヒロにつながる道です。しかし、マウナ・ケア山に行くには、途中からサドルロードというのに入ります。4205mのマウナ・ケアと、4169mのマウナ・ロアの中間の鞍部を走る道なので、この名が付いています。これはかねてから、興味を持っていた道です。なぜなら、ガイドブックに、この道はレンタカーで走ることを、各レンタカー会社が禁止していると書いてあったからです。

 走り出してみると、納得しました。一応舗装はしてあるのですが、補修が十分ではないため、がたがたで、特に路肩の方の痛み方が激しいのです。そこで、我々の乗った車も、一番痛みの少ない道路部分を走るべく、センターライン・オーバーというような生やさしいものではなく、完全にセンターラインを跨ぐようにして走っていきます。それでさえもがたがた揺れて、乗客の中には車の天井に頭をぶつける者もでる始末です。確かに、センターラインを走るしか、安全走行手段がないことは、よく判ります。

 鞍部を走っているのですから、地図の上では直線に書いてあるところでも、決して直線道路ではなく、右に左に微妙に曲がっていますから見通しがあまり利きません。互いにセンターラインに乗って走っている車が、コーナーで出会えば、何が起こるかは容易に想像がつきます。レンタカー会社が乗り入れを禁止するのも尤もです。後にガイドに聞いた話では、レンタカー会社が禁止する原因は、保険会社がサドルロードを走る車に対しては、付保を拒否しているということにあるのだそうです。ほかの乗客は気にしていないようでしたが、私はしっかりとシートベルトを締めました。

 約2500mの地点に、このサドルロードとマウナ・ケア山に至る登山道との分岐点がありました。そこでガイドはわざわざ車を止めて、道ばたにある溶岩のケルンを、ハワイ原住民の祭壇だと紹介して、乗客に写真を撮らせたりしました。

 その後、ちょっと走って2500m地点にあるオニヅカ・ビジター・センターに着きます。このオニヅカという名前は、スペースシャトル・チャレンジャーが爆発した際、それに乗り組んでいて殉職したオニヅカさんが、このビッグアイランドのコナ出身の日系人であったことから、彼を記念して付けられたものです。センターの入り口のところに、彼の顔のレリーフがありました(写真J参照)。

 オニヅカ・ビジターセンターは、天文学関係の文章を読んでいるとよく出てくる非常に有名な施設だけに、もっと大きなものを想像していたのですが、意外に小さなものでした(写真K参照)。実は、天文学関係者がオニヅカ・ビジター・センターと呼ぶのは、私が訪問したビジター・センターではなく、その後に広がる天文学関係者専用の宿泊施設のことだったのです。そちらは、確かにかなりの規模がありました。しかし、もちろん私のような一般のビジターはそちらで泊まったりすることはできず、この小さな建物と、その周りの駐車場で休憩できるだけです。

 ここで約1時間の休憩。その間にトイレに行ったり夕食をとったりします。といっても、ここに食堂があるということではなく、ガイドが持ってきたお弁当を食べるということです。この会社の場合には、うどんとおにぎりを用意していました。食べていると、よその旅行社の車も、どんどん到着してきて、ビジターセンターはすっかり混み合い出しました。

 ビジター・センターに、登山の注意なるパンフレットが、英語と日本語のものがそれぞれありました。それを見ると、「山頂の空気は大変希薄なので、16歳以下の子供、妊婦、呼吸不全の人、心臓不全の人、過度に肥満な人は〈中略〉3000mより上には登らない方がよいでしょう。登山をする24時間前は、スキューバダイビングは避けなければなりません」とあります。改めて、4000mというのは厳しい環境だと痛感しました。

 私は、ここで日本から抱えていった冬物の衣類に着替え、ズボンの下にはスキー用タイツを穿きました。旅行社が、このビジター・センターの段階で、冬物のアノラックを各人に貸し与えてくれます。この冬装備、完全に正解で、これだけしっかり用意をしていたから、特に震え上がることもなく、登山を楽しめたと言えます(写真L参照)。

 かつてマウナ・ケア山には、更新世の氷期に1年を通じて氷冠を持っていたことが判っています。赤道直下の島だというのに、当時はそこから氷河が流れだしていたのです。今は、氷河それ自体は影も形もありませんが、それでもその痕跡として氷河特有のU字渓谷が、マウナ・ケア山の斜面に残っています。そして、かつての氷河末端部分にはモレーンと呼ばれる石の堆積があって、往時をしのばせます。マウナ・ケア山とはそういう山なのです。少々の寒さは当然といえます。

 ビジター・センターを出発した後も、ガイドは、ちょっと走ると、ここが景色がよい、とか、ここにはハワイとヒマラヤにしかない珍しい草(銀剣草)が自生しているとか言っては車を止め、乗客を降ろします(写真M参照)。これはひょっとして高度馴化をさせようとしているのか、と聞いたら、実はそうです、と白状しました。この頻繁な停車のおかげか、特に気分が悪くなることもなく、無事に山頂に着きました。

 山頂に近づくと、それまででこぼこの瓦礫の道だったのが、きれいに舗装された道路に変わります。埃が舞い上がって、観測のじゃまにならないようにするためだ、ということです。しかし、山頂に着くと、また未舗装に戻ります。埃防止なら、天文台に近い地区ほどしっかり舗装されそうなもので、おかしな話です。しかし、山頂が未舗装な理由はガイドに聞いても判りませんでした。

 厳密に言うと、我々が行くことができるのは、マウナ・ケア山の最高点ではありません。マウナ・ケア山の最高点であるプウ・ヴェキウは、山頂部にある多数の噴石丘のうちの1つです(写真N参照)。しかし、それへの登山は禁止されています。先に「ケア」というハワイ語は白いという意味だ、と説明しました。この言葉には同時に、清浄とか神聖という含意があります。日本語で、白に同じような意味があって、例えば修験者の白衣が浄衣と呼ばれたりしますが、このあたり、同じ太平洋の民族として似た発想があるようです。ハワイ人の信仰では、この最高峰の持つ神聖さは、それこそギリシャ神話のオリンポス山と同様に、神々の住む場所と考えられていました。そのため、かつては山それ自体が神聖なものと考えられ、王族しか登山の許されなかったのです。そこで、今日でも、ハワイ人の信仰に敬意を表して、プウ・ヴェキウへの登山は一般人には禁止されているのです。まして、天文台を作るなど、もっての外です。だから、この山頂だけは手つかずのきれいな姿をしています。

 したがって、普通にマウナ・ケア山の山頂と呼んでいるのは、厳密に言えば、最高峰に次ぐ高さを持つ噴石丘の頂という意味です。しかし、ここの方が、西の方に関する限り、眺めを遮る余計な頂がないだけに、眺望が素晴らしいのです。その山頂に立つと、一面の雲海から、マウナ・ケア山はそびえ立っていることが判り、なるほど大気圏から宇宙に突きだした山と呼ばれるのももっともと痛感しました。

 隣のマウイ島の主峰ハレアカラ(3055m)も指呼の間にそびえています(写真O参照)。元国立天文台長の小平さんの書いた、すばる天文台建設の経緯を紹介した『宇宙の果てまで』(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)という本に、マウナ・ケア山頂の天文台銀座ができた理由が書かれていました。それによれば、そのマウイ島の山の上にある天文台からハワイ大学の学者が眺めていて、いつでもマウナ・ケア山が雲の上にあるのを見て、あそこに天文台を作ればよいと考えついたのが、きっかけとのことです。こちらから、マウイ島があれほどはっきり見えるのであれば、マウイ島の山頂にいた人に、その考えが湧いたのも無理はないと、納得のいく眺めでした。

 山頂における大気の密度は海面付近の4割程度ですから、ほとんど成層圏といって良いところです。つまり、対流圏の普通の気象の影響を受けないのです。その結果、1年のうち快晴の日が300日以上あるという素晴らしい天候に恵まれることになります。その上、北緯20度という低緯度に位置していることから、北半球と南半球の両方の天体を観測することができるという点も、ここが天文台銀座として発達した理由です。しかし、一カ所にこれだけの天文台が並んでいるのを見るのは、本当に壮観の一語に尽きます(写真P参照)。

 日没が終わると、それからが、この登山の、もう一つの売りである天体観測の時間です。私は、当然山頂でするのだと思っていたのですが、それは別の場所でするのだということで、各旅行社の車は一斉に下山にかかります。ガイドの話では、マウナケア山では、オニヅカ・ビジター・センターより上は、サイエンスリザーブ・自然保護区、ハワイアンの聖地として管理されている為、日没後30分以内に一般車は山頂付近より出る決まりになっているのだそうです。そこで、このような一斉下山が起こる訳です。

 もう暗くなっているというのに、ヘッドライトを最小限の明るさにしか付けず、手探りのように降りていきます。これも、天文台の観測に迷惑をかけないため、このように規制されているのです。

 天体観測には、それぞれの旅行社ごとに、そのための場所を持っているようです。比較的山頂に近い道ばたに陣取っている会社もありましたが、我々の旅行社の場合には、オニヅカ・ビジター・センターのすぐ下の駐車場を確保していました。

 私としては、もっと高いところで星が見たかったので不平を言ったら、次のように説明されました。天体観測はおよそ1時間程を屋外で過ごす事になるが、寒さのため、どうしてもお手洗いが近くなる人が出る。しかし、山頂を除けば、オニヅカ・ビジター・センター以外に、山の上に洗面所はないということが第一の理由、山頂付近は空気が薄い為人間の視力が落ちるとされていることが第二の理由ということでした。

 第一の理由について言えば、オニヅカ・ビジター・センターの洗面所は、昼間から赤色灯になっていました。登山の途中、まだ昼間に入ったときには面食らったのですが、夜に入った時には十分に納得がいきました。赤色灯にしておかないと、トイレに入った後、しばらくは目が眩んでしまって、望遠鏡に目を付けても、満足に星が見えないからです。

 第二の理由についていえば、空気が薄いということよりも、空気が非常に乾燥してい性ではないかと私は思います。我々の角膜は、絶えず湿り気を与えてやらないと上手く働かないからです。現実問題として、山頂では人間の眼はよく見えないという問題は、山頂の天文台にとっては、より深刻な問題です。そこで、麓のハワイ大学ヒロ校の校内に、観測センターを設け、たいていの観測はそこからリモートコントロールして行っていると聞いています。

 肝心の天体観測ですが、運の悪いことに、この日は十六夜で、早い時間に満月と全く遜色のない巨大な月が昇りました。山頂にいる時には、明らかに我々より下に月がありました。月より高い場所に立つという経験は、このときが初めてです。その強烈な光のおかげで、私が当てにしていた天の川も殆ど判らず、残念でした。それでも、口径30cm位もあるコンピュータ制御の反射望遠鏡を旅行社では用意していて、連星だの散光星団だのを見せてくれて楽しめました。

 現実の夜空を指し示しながらのガイドの説明で、よく理解できたのが「ホクレア(Hokule'a)」という言葉の意味です。ハワイの古代式の航海カヌーにこの名が付けられているのを筆頭に、普通の店の名にも、ホクとか、ホクレアという言葉は結構目につきます。ホクというのは星、レアは喜びという意味です。したがって、ホクレアはハワイ語で“喜びの星”という意味になります。具体的には牛飼い座のα星であるアークチュルス(アルクトゥールス)を意味します。

 この星が、古代ポリネシア人の航海ではきわめて重要でした。ホクレアは、天の赤道からみた緯度で、ほぼ20度の位置にあります。ということは、古代ポリネシア人がカヌーで太平洋を航海していて、ホクレアが、真上の位置になったら、船が北緯20度の線に到達したと言うことを意味します。そこで、仮に西からハワイに近づいていた場合であれば、ホクレアが真上にあるように東に向けて航海すれば、必ずハワイ諸島にたどり着けることになります。この星を、天球の上から正確に見分けられるか否かが、航海の成否、ひいては命が助かるかどうかを左右していた訳です。だからこそ、この星は、喜びの星と呼ばれて、あがめられたのです。

 先に言及したハワイの冒険カヌーであるホクレア号は、この古代の伝統的な航海術“スターナビゲーション”によって針路を決定して航海しうることを実証するために作られたのです。この船については、「ホクレア号が行く―地球の希望のメッセージ」(ブロンズ新社2004年刊)という本が刊行されていますから、興味のある方は是非お読みください(写真O参照)。

 カイルア・コナに帰り着いたのは11時を過ぎていました。疲れました。しかし、その時間になると、ビッグアイランドは涼しくて、冬物の衣類のままでも、辛くはありませんでした。いつものことながら、ハワイは、日本に比べて涼しいところだと思います。