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*1 この定義によるときは、常識的な自然科学、社会科学の分類と若干の差異を示す。例えば、社会学や経済学等は、いずれも普遍妥当する法則を追求する科学なので、自然科学に属することになる。

*2 日本を全体社会というとき、出てくる疑問は、なぜ世界全体を一つの全体社会ということはできないのか、ということだと思う。なるほど国際社会という言葉があるくらいだから、世界全体を一つの社会と考えることも可能だと言えるだろう。しかし、前章で述べたとおり、法は共通の価値観を基礎としている。したがって、法の社会的基盤というときの社会は、この法規範の基礎をなす共通の価値観を有する人の集合と把握することになる。今日の場合、残念ながら、まだ世界全体が共通の価値観を有しているとはとうてい言えない。例えば、アジアだけをとらえても、かなり多様な価値観の存在が認められる。したがって、現在我々の周りの全体社会は、日本となる。

*3 日本では、全体社会説をとっても国家説をとっても大差が生じないので、この議論の実益が判らない人もいると思う。しかし、それは日本が全体社会と国家がほぼ一致しているという珍しい国だからである。一国の中に複数民族が住み、それごとに異なる価値観を有している場合には、その価値観に応じて一国に幾つもの全体社会が併存しているのが普通である。複数の全体社会から成立している国で、個々の全体社会に自治権を認めない場合には、構成員が少数の全体社会は、常に多数派の全体社会の法規範を国家の定めた規範という形で押しつけられることになるので、問題が発生する。ソヴィエトやユーゴなど連邦国家が相次いで分裂を起こし、その過程で程度の差こそあれ流血の惨事が発生したが、これこそが国家説の持つ問題点である。なお、日本でも、全体社会と国家には幾分ずれがある。例えば国の法は妊娠中絶は堕胎罪として処罰するとしている(刑法212条以下)のに、社会ではまったく犯罪視されていないなどの差異が生ずる。この場合、国家説を採れば処罰され、全体社会説をとれば処罰の対象とはならないという差異が生まれる。また、民法175条が物権法定主義を明言しているにも拘わらず、法的根拠のない根抵当権が、社会の支持を根拠にして、早くから認められていたのも、その例といえる。

*4 可能性と蓋然性という2つの言葉は少なからず紛らわしい。明治の文豪、夏目漱石は、もともとはイギリス留学までした英語教師であったが、ある時、授業中に、この2つの英語の概念区別について聞かれて、「私がこの教壇の上で逆立ちをする可能性はあるが、蓋然性はない。」と答えた、という有名な話がある。つまり、可能性はあることが理屈として起こるかどうかを問題にしているのに対して、それが実際に起こるか確実さの度合いを問題にしているのが蓋然性である。

*5 日本語の「強制」という言葉には嫌がるのを無理に強いる、というニュアンスがあるから、積極的強制を強制に数えることには違和感がある。これは、法学が基本的に欧州で確立した学問を輸入し、翻訳したという出発点から来る弱点である。すなわち強制は、英語ではサンクションSanctionといい、賞賛と罰という2つ意味の両方がある。1語で賞罰という意味にも使える。そこで英語で特にどちらの意味かを明確に示したいときは、消極的強制をネガティブ・サンクションnegative sanction、積極的強制をポジティブ・サンクションpositive sanctionと呼ぶ。

*6 一般予防効果は法的強制とは言えないという説がある。すなわち「このような意味での心理的強制は、予告された本来の制裁手段が人の心理に投影された暗い陰のようなもので、それ自身独自の法的強制として考えられるべきものではない」(加藤新平「法哲学」有斐閣、法律学全集369頁参照)という。どちらが妥当か、考えてみよう。

*7 無効というのは法的制裁ということはできず、したがって法的強制制度として見ることはできないとする説がある(加藤・前掲書370頁参照)。ただし、そこで例示されているのは、会社の設立とか遺言などのように方が一定の様式を定め、これを守っていない場合は無効とする制度である(このように一定の様式を守ることが必要な行為を「要式行為」という。)。確かに要式行為の場合には、社会的な制裁としての意味は弱い。しかしこれらが要式行為とされたのは、法がそれらの場合に当事者を慎重にさせたいという趣旨からである。つまり要式行為は、人に不用意な行為は行わないようにさせるということを目的としている。注意を喚起する手段として一定の様式を強要し、それに反する場合は無効とするのだから、これもまた、れっきとした法の強要性の現れである。否定説は、強要性を反社会的な行為に対する制裁に限定して考えすぎている。

*8 類型の立て方によっては、例えば憲法の定める天皇に関する規定や、日銀法の定める日銀総裁に関する規定のように、特定の時点では対象になる者が特定の1人だけとなる場合が出てくる。しかし、その場合でも、その地位につくすべての者に等しく同一の指図、命令が存在しているので、二重の一般性を有しているということができる。

*9 議会の立法に一般性を要求するのは、日本やドイツに特有の考え方である。英米では、プライベートアクトprivate actといって、特定人に特定の利益や不利益を与える行為(行政行為)を、法律の形式で議会が制定することが有効とされている。
*10 代表的な純粋法学者ケルゼン Hans Kelsenの言葉である。全体を紹介すれば「法は疑いもなく、ただ一般的規定のみから成るのではない。法は個別的規範、即ち繰り返しのない状況での或る個人の行動を規定する規範、それ故或る特定ケースにのみ妥当し、ただ一度だけしか遵守されず適用されない規範を含む。かかる規範は、それの創設の基礎となった一般的規範と全く同じ意味において、全体としての法秩序の部分なのであるから『法』である。」(加藤新平・前掲書337頁より引用)