人権論 第3回

甲斐素直

    基本的人権と公共の福祉

一 公共の福祉に関する初期の学説の変遷

(一)法律の留保の代替物としての「公共の福祉」

 美濃部達吉:

公共の福祉=公益ないし公共の安寧秩序

判断権者 =国会

  公共の福祉を、基本的人権の外から制約する原理として把握する

「自由であるからといって自分の欲するままにいかなることでもなしうるというのではなく、他人の同様の権利及び自由を尊重しなければならぬことはもちろん、公共の安寧秩序を紊乱してはならぬ。国民の基本的権利はただこれらの制限の下においてのみ認められるのである。」美濃部『新憲法逐条解説』増補版、日本評論新社昭和31年刊、60頁=初版昭和22年

 こうした考え方に立った判例

  死刑合憲判決=昭和23年3月12日最高裁判決(百選262頁)

「生命は尊貴である。一人の生命は、全地球よりも重い。〈中略〉公共の福祉という基本原則に反する場合には、生命に対する国民の権利といえども立法上制約乃至剥奪されることを当然に予想しているものと言わねばならぬ」

  公衆浴場距離制限事件判決=昭和30年1月26日最高裁判決(百選 194頁)

 

(二)公共の福祉=訓示規定説

 基本的着眼点⇒公共の福祉という文言が、12条、13条という総論規定のほかに、22条及  び29条という個別規定にも現れているのはなぜか

 自由国家的な公共の福祉⇒単なる倫理規定に過ぎない

公共の福祉 =内在的制約に服する

社会国家的な公共の福祉⇒外在的制約に服する=政策的制約にも服する

「本条は、強力な保障を持つ権利と自由とを与えられた国民の側に、一定の倫理的な指針を示したものであり、『自由または権利に伴う、いわば個人の心構えとしての、内在的限界』を明らかにしているにすぎないのである。」

法学協会『註解日本国憲法』有斐閣昭和28年刊、335頁

  この説の今日の時点における問題

 この説は、13条全体を訓示規定と解せざるを得ないから、幸福追求権も、法的権利性を持たないこととなり、人権カタログに掲載されていない新しい人権の根拠として同条を使うことができなくなる。

 

(三) 内在的一元説

 宮沢俊義=内在的制約:実質的公平の原理=人権と人権の衝突の場面における調整原理

「これを交通信号にたとえていえば、自由国家的公共の福祉は、すべての人を平等に進行させるために、あるいは青、あるいは赤の信号で整理する原理であるに対して、社会国家的公共の福祉は、特に婦人・子供・老人または病人を優先的に進ませるために、他の人間や車をストップさせる原理であるとも言えようか。」

宮沢『憲法U[新版]』有斐閣法律学全集4、

昭和46年刊236頁=初版昭和34年

 この説の下では、公共の福祉はもはや人権の内在的制約と同義語であるから、独立に論ずる意義が失われる。

 比較衡量基準

 人権の衝突の場面において、両人権の重要性を比較し、より重要性の高い人権がその場面においては優越するとする基準

=個別的比較衡量ad hoc balancing

 博多駅取材フィルム提出命令事件=最高裁昭和44年11月26日決定(百選 158頁)

「公正な刑事裁判の実現を保障するために、報道機関の取材活動によつて得られたものが、証拠として必要と認められるような場合には、取材の自由がある程度の制約を蒙ることとなつてもやむを得ない」「このような場合においても、一面において、審判の対象とされている犯罪の性質、態様、軽重および取材したものの証拠としての価値、ひいては、公正な刑事裁判を実現するにあたつての必要性の有無を考慮するとともに、他面において取材したものを証拠として提出させられることによつて報道機関の取材の自由が妨げられる程度およびこれが報道の自由に及ぼす影響の度合その他諸般の事情を比較衡量して決せられるべきであり、これを刑事裁判の証拠として使用することがやむを得ないと認められる場合においても、それによつて受ける報道機関の不利益が必要な限度をこえないように配慮されなければならない。」

(四) 人格的自律説に基づく変容

反社会的な行動が人権の行使とは認められない。

⇒人を殺す権利や人の財産を奪う権利は、そもそも人権ではない。

 

二 憲法訴訟論による議論の変容

(一) 法律の合憲性推定原則

 合憲性の推定:「(米国で)最近一般的になったと言われる方式によれば、法律はそれが禁止・制限の対象とする『害悪が存在しなかったこと、もしくは救済が不適当であったことを示す』反対の証拠が提出されない限り有効と推定される」(芦部信喜)

説明:手続法では、あらゆる論点について、誰がその証拠を提出すべきかが予め決められる。これを「立証責任」という(挙証責任ともいう。)。立証責任を負う者がその立証に失敗した場合には、裁判所は、その証拠があれば証明されるであろう事実と反対の事実が証明されたものとして取り扱う。法律などにより、一定の事実が推定されている場合には、それと反対の事実を主張するものが挙証責任を負う(例:民法162条⇔186条)。したがって、法律に合憲性の推定が働く場合には、それが違憲であることを主張する者(国民)が挙証責任を負うことになる。この結果、公共の福祉による人権の制限、等を論ずる必要が消える。

 

(二) 立法事実と判決事実 (裁判所が紛争解決に当たり明らかにするべき事実)

  1 判決(司法)事実 adjudicative fact

     係属事件の解決目的で確定されなけばならない直接当事者に関する事実

⇒裁判所は、当事者の主張を通じてその事実の有無を判断する(当事者主義)。

 ⇒裁判所は自分で職権探知してはならない。

  2 立法事実 legislative fact

 法律を制定する場合の基礎を形成し、それを支えている背景となる社会的、経済的事実

⇒当事者はそれについて知識を持っていない

⇒当事者主義は機能せず、裁判所は司法確知の手法により自ら事実を探求しなればならない。

⇒裁判所に事実の判断が付かない場合には、立証責任の分配法則に従って決定される。

 

(三) 二重の基準理論

  1 統治機構の根本をなす民主主義との関係:経済的自由権に関する不当な立法は、民主主義がきちんと機能している限り、その発生を抑制できるが、これに対して精神的自由権が抑制されている場合には民主政治そのものの健全性が期待できないので、裁判所の積極的な介入が要請される。

   ⇒合憲性推定原則の例外として、精神的自由権の場合には、「合憲性の推定が排除され、むしろ違憲性の推定原則が妥当すると考えなくてはならない」(佐藤幸治)

  2 経済的自由権に関する裁判所の能力の限界:経済的自由権の抑制に当たっては、社会・経済的政策の問題が関係することが多く、専門的な行政知識を必要とするので、そうした面における人的、物的資源に乏しい裁判所としては審査能力に乏しいところから、特に明白に違憲と認められる立法を除いては立法府の判断を尊重すべきである。

 

 3 判決の実例

 小売商業調整特別措置法違反事件=最高裁昭和47年11月22日(百選 200頁)

 公衆浴場距離制限事件=最高裁平成元年1月20日

「公衆浴場法に公衆浴場の適正配置規制の規定が追加されたのは昭和二五年法律第一八七号の同法改正法によるのであるが、公衆浴場が住民の日常生活において欠くことのできない公共的施設であり、これに依存している住民の需要に応えるため、その維持確保を図る必要のあることは、立法当時も今日も変わりはない。むしろ、公衆浴場の経営が困難な状況にある今日においては、一層その重要性が増している。そうすると、公衆浴場業者が経営の困難から廃業や転業をすることを防止し、健全で安定した経営を行えるように種々の立法上の手段をとり、国民の保健福祉を維持することは、まさに公共の福祉に適合するところであり、右の適正配置規制及び距離制限も、その手段として十分の必要性と合理性を有していると認められる。もともと、このような積極的、社会経済政策的な規制目的に出た立法については、立法府のとつた手段がその裁量権を逸脱し、著しく不合理であることの明白な場合に限り、これを違憲とすべきであるところ、右の適正配置規制及び距離制限がその場合に当たらないことは、多言を要しない。」

 

説明:ここでは、公共の福祉という概念を使って司法権の限界を画するという実体法的な考えは完全に姿を消し、代わって、裁判所が判断を行うに当たって、どのような基準によるべきかという手続き法的な考え方に道を譲っている。