憲法 第10回
甲斐素直
教育を受ける権利
一 歴史
(一) 明治憲法下の教育
あえて「教育権」を憲法保障から除外する
⇒国家の手による強力な教育統制の必要性を認識
⇒明治憲法制定の翌年に「教育勅語」を発布
→これを頂点として、国家の手による統一的な教育システムを築いた。
=教育は純然たる行政活動と理解された。
「校舎の管理というような作用は純然たる経済的な作用で民法の適用を受けるけれども、児童の教育及び懲戒ということは、むしろ権力的作用たる性質を有するもので、たとえそれが違法に行われたとしても、国または市町村がその事業主として民法による賠償責任を負うものではないことは、なお警察官が暴行を為し、刑吏が囚徒を凌虐しても、国が賠償責任を負うのでないのと同様である」
(美濃部達吉、日本行政法上巻137頁)
(二) 戦後の改革
1 教育の地方分権
「教師各自が画一化されることなく、適当な指導のもとに、それぞれの職務を自由に発展させるためには、教育の地方分権化が必要である」(米国教育使節団報告書)
2 「国」とは、具体的には地方教育委員会である!
「教育に関する地方自治の原則が採用されているが、これは戦前におけるような国の強い統制の下における全国的な画一的教育を排して、それぞれ地方の住民に直結した形で、各地方により実情に適応した教育を行わせるのが教育の目的及び本質に適合するとの観念に基づくものであつて、このような地方自治の原則が現行教育法制における導要な基本原理の一つをなすものであることは、疑いをいれない。」
最高裁昭和51年5月21日=旭川学力テスト大法廷判決=百選300頁参照
したがって、文部科学省自体には、学力テストを実施する権限はない。
「文部大臣は、地教委に対し本件学力調査の実施をその義務として要求することができないことは、さきに述べたとおりであり、このような要求をすることが教育に関する地方自治の原則に反することは、これを否定するとができない。」
3 教育憲法⇒教育基本法の制定
二 概念
(一) 権利の主体
原則=教育を受ける権利の主体は、教育を受ける者本人である。
「国民各自が、一個の人間として、また、一市民として、成長、発達し、自己の人格を完成、実現するために必要な学習をする固有の権利を有すること、特に、みずから学習することのできない子どもは、その学習要求を充足するための教育を自己に施すことを大人一般に対して要求する権利を有するとの観念が存在していると考えられる。」
旭川学力テスト判決より引用
例外=本人が幼年者・若年者である場合
→自分がどのような教育を受けるのが適当かについて十分な判断能力を持たない
⇒親(親権者)がその教育内容を決定する権限を持つ
形式的根拠=民法820条
実質的根拠=家族を、人格権の拡張としての人格的共同体と把握した場合に、 その必然的結果として導かれる。
(二) 権利の内容
1 自由権(的側面)としての教育を受ける権利
私人として、自分の受ける教育の種類、内容を自由に具体的に決定できる権利
⇒教育を受ける自由に対して国家から干渉されることはない。
⇒私教育=教育の私事性
親が子に行う家庭内の躾はその典型である。
2 請求権(的側面)としての教育を受ける権利
この自由を個人の力で実現できる範囲には限度がある
⇒国として、各人の能力に応じた教育を受ける権利を保障する義務を負う
⇒公教育
○ 成人における教育を受ける権利(教育基本法7条)
大学、大学院、図書館、博物館、公民館、公会堂等における活動
○ 幼・若年者の教育を受ける権利
「子どもの教育は、子どもが将来一人前の大人となり、共同社会の一員としてその中で生活し、自己の人格を完成、実現していく基礎となる能力を身につけるために必要不可欠な営みであり、それはまた、共同社会の存続と発展のためにも欠くことのできないものである。この子どもの教育は、その最も始源的かつ基本的な形態としては、親が子との自然関係に基づいて子に対して行う教育、監護の作用の一環としてあらわれるのであるが、しかしこのような私事としての親の教育及びその延長としての私的施設による教育をもつてしては、近代社会における経済的、技術的、文化的発展と社会の複雑化に伴う教育要求の質的拡大及び量的増大に対応しきれなくなるに及んで、子どもの教育が社会における重要な共通の関心事となり、子どもの教育をいわば社会の公的課題として公共の施設を通じて組織的かつ計画的に行ういわゆる公教育制度の発展をみるに至り、現代国家においては子どもの教育は、主としてこのような公共施設としての国公立の学校を中心として営まれる」
(旭川学力テスト判決より引用)
(三) 公教育の特徴
福祉国家理念の下に、児童生徒の教育を受ける権利を保障する目的で行われる教育は、国立、公立、私立学校の別を問わず、すべて公教育である。
→教育基本法6条「法律に定める学校は、公の性質をもつ」
公教育は、私教育にない様々な制約に服する。
1 教育の機会均等(基本法3条)
(1) 男女共学(基本法5条)←憲法14条の必然的結論
(2) 特殊教育施設
特殊学級及び聾学校、盲学校、精神薄弱児施設等の設置義務
⇒非障害者との統合学級の必要性
2 義務教育の無償(基本法4条2項)→世界人権A規約13条2項
義務教育費国庫負担法(昭和31年法)、
義務教育諸学校施設費国庫負担法(昭和33年法)
3 教育の中立性
教育は不偏不党の立場から行われねばならない。
政治的中立性(基本法8条)
宗教的中立性(基本法9条)
三 教育内容決定権の所在
(一) いわゆる「国家教育権」説
文部省の主張(高津判決より)
「教育を含む国政全体が国民の厳粛な信託によるものであつて(憲法前文)、公教育における国の教育行政についても民主主義政治の原理が妥当し、議会制民主主義のもとでは国民の総意は国会を通じて法律に反映されるから、国は法律に準拠して公教育を運営する責務と権能を有するというべきであり、その反面、国のみが国民全体に対し直接責任を負いうる立場にあるのである。」(昭和49年東京地裁高津判決=家永訴訟)
(二) いわゆる「国民の教育権」論
教師の側に教育内容を決定することを論証しようとする一群の学説の総称
「国民教育権説」という名の単一の説はないことに注意!代表的なものを紹介すれば
1 教育人権論=杉本判決で採用
「教育の外的な事項については、一般の政治と同様に代議制を通じて実現されてしかるべきものであるが、教育の内的事項については、その特質からすると、一般の政治と別個の側面をもち政党政治を背景とした多数決によって決せられることに本質的に親しまず、教師が児童、生徒との人間的なふれあいを通じて、自らの研鑽と努力とにより国民全体の合理的な教育意思を実現すべきものであり、また、このような教師自らの教育活動を通じて直接に国民全体に責任を負い、その信託にこたえるべきものと解せられる。」⇒「下級教育機関における公教育内容の組織化は法的拘束力のある画一的、権力的な方法としては国家としての公教育を維持していく上で必要最小限度の大綱的事項に限られる」
この他に、教育主権論、教育本質論、 憲法23条論等がある。
これに対する反論=高津判決より
「国民が教師に対し直接その子供の教育を付託し、その責任を追及しうる方法は現行制度上認められていないのである。したがつて、教育基本法の右文言は、前叙の事実をふまえた上、ただ教育が国民にとり重大事であることにかんがみ、国民と教育との間に中間的な介在を経ないで直結されるべきことを明らかにし、両者の間に特別の親近性が存在することを宣明したに過ぎないものであつて、これは教育者や教育行政関係者の心構えを述べたにとどまり、これから直ちに法的効果が生ずるというものではないと解するのが相当である。」
(三) 最高裁の見解(旭川学力テスト判決)
1 教師が教育内容決定権を持つという見解一般に対して
「子どもの教育が、専ら子どもの利益のために、教育を与える者の責務として行われるべきものであるということからは、このような教育の内容及び方法を、誰がいかにして決定すべく、また、決定することができるかという問題に対する一定の結論は、当然には導き出されない。すなわち、同条が、子どもに与えるべき教育の内容は、国の一般的な政治的意思決定手続きによつて決定されるべきか、それともこのような政治的意思の支配、介入から全く自由な社会的、文化的領域内の問題として決定、処理されるべきかを直接一義的に決定していると解すべき根拠は、どこにもみあたらないのである。」
2 国だけが教育内容決定権を持つという見解に対して
「教師が公権力によつて特定の意見のみを教授することを強制されないという意味において、また、子どもの教育が教師と子どもとの間の直接の人格的接触を通じ、その個性に応じて行わなければならないという本質的な要請に照らし、教授の具体的内容及び方法につきある程度自由な裁量が認められなければならないという意味においては、一定の範囲における教授の自由が保障されるべきことを肯定」できる。
3 結論としての中庸説
教育を受ける権利は「教育を施す者の支配的権能ではなく、何よりもまず、子供の学習する権利に対応」するものであり、「もっぱら子供の利益のために、教育を与える者の責務として行われるべきもの」であって子供が「自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入、例えば誤った知識や一方的観念を子供に植え付けるような内容の教育を施すことを強制するようなことは、憲法26条、13条の規定上からも許されない」
四 教科書検定
検定は、学校教育法の改正により、特に文部省の権限とされている→22条
判例⇒事前抑制の禁止に該当しない
最判平成5年3月16日=第一次家永教科書訴訟 百選T 192頁
⇒教科書裁判で問題になっているのは教育を受ける権利という社会権であり、国の積極的介入が求められるため、表現の自由などの規定が、常に直接的に適用になる訳ではない
「国に一定の教育内容を決定する権能を認めることができるとすれば、文部大臣による教科書検定もあながち違憲とは言えない。しかし、個々の検定措置については、思想内容に干渉し、学説の強制に当たるものはありうるのであって、そのような検定措置は、思想・表現の自由を侵害し、あるいは検閲に該当するとして違憲と判断されねばならない。」
戸波江二新版270頁