憲法 統治機構論第11回
甲斐素直
司法権の概念
平成9年度司法試験問題
住民訴訟(地方自治法第242条の2)の規定は、憲法第76条第1項および裁判所法第3条第1項とどのような関係にあるかについて論ぜよ。また、条令が法律に違反することを理由として、住民は当該条例の無効確認の訴えを裁判所に提起できる旨の規定を法律で定めた場合についても論ぜよ。
平成13年度司法試験問題
下級裁判所の裁判権の行使に関し,「下級裁判所は,訴訟において,当該事件に適用される法令が憲法に違反すると認めるときは,その事件を最高裁判所に移送して, 当該法令の憲法適合性について最高裁判所の判断を求めなければならない。」という 趣旨の法律が制定された場合に生ずる憲法上の問題点について論ぜよ。
注:平成14年度も類題であるが省略する。
一 司法権の概念
(一) 戦前の通説
「司法と行政との間には性質上の区別を認めることを得ず。」
⇒「司法とは刑事、民事の裁判を意味す」
(二) 戦後の通説
「具体的争訟について、法を適用し、宣言することによって、これを裁定する国家の作用」
(清宮四郎『憲法T』新版、有斐閣昭和
56年刊、330頁)「(戦前の司法制度は)フランスによって代表せられる、ヨーロッパ大陸の諸国で発達した制度に由来するものである。これに対して、日本国憲法は、イギリスやアメリカの制度にならって、司法とは、民事及び刑事の裁判のほか、行政事件の裁判をも含めて、すべての争訟の裁判を意味するものとなし、この作用を行う権能を司法権といい、すべてこれを裁判所に属するものとした。」
(三) 判例
かつての判例は、裁判所法3条にいう「法律上の争訟」は、第一に当事者間の具体的権利義務又は法律関係の存否に関する紛争であり、第二に、法律の適用によって終局的に解決しうることをいう、と していた。
(例えば警察予備隊訴訟最高裁判決=百選414頁=参照)
『具体的争訟』
米国合衆国憲法
3条2節司法権の権限が「事件又は争訟
case or controversy」によって決せられる第一節 合衆国の司法権は、一つの最高裁判所、および連邦議会が随時制定し設置する下級裁判所に属する。最高裁判所および下級裁判所の裁判官は、非行なき限り、その職を保ち、またその職務に対して定時に報酬を受ける。その額は、在職中減ぜられることはない。
第二節 司法権は、次の諸事件に及ぶ。@この憲法、合衆国の法律および合衆国の権限に基づいて締結されまた将来締結される条約の下で発生するコモン・ロー上およびエクイテイ上のすべての事件。A大使その他の外交使節および領事に関係するすべての事件。B海法および海事裁判権に関するすべての事件。C合衆国が当事者である争訟。D二以上の州の間の争訟。二州と他州の市民との間の争訟。E相異なる州の市民の間の争訟。F相異なる州から受けた権利付与に基づく土地の権利に関する同じ州の市民の間の争訟。G二州またはその市民と他の国家または外国の市民もしくは臣民との間の争訟。
⇒司法権の権限は、具体的争訟に限定される
(三) わが国の現実の訴訟の類型
1 主観訴訟=当事者間に、具体的な権利義務ないし法律関係の存否(刑罰権の存否も含めて)に関する紛争があること。ほとんどの訴訟はこの類型に入る。
2 客観訴訟(当事者でないものが訴えを提起できる場合)
(1) 民衆訴訟(行政事件訴訟法第
5条)203条〜208条)@ 選挙訴訟(公職選挙法
A 住民訴訟(地方自治法
242条の2)等(2) 機関訴訟(行政事件訴訟法
6条)176条8項)地方公共団体議会の議決または選挙に関する訴訟(地方自治法
このほか、株主訴訟など、この類型に入ると思われる訴訟類型が増加しつつある。
二 具体的事件性について
1910年代のアメリカ最高裁判例は、憲法3条上の『事件・争訟性の要件』の構成要素として、『法に保護された利益の侵害があること』や『裁判所による執行可能性』をあげていた。ところが、1970年代以降は、その法的利益テストを『事実上の損害(injury in fact)を被っていること』に代え、さらに、執行可能性を不要とした。「
もっとも最近の連邦最高裁は、『事件・争訟性の要件』の内包・外延の曖昧さを避けるためか、この要件によるよりも、一般に『司法判断適合性』(
justiciability)という用語に依って司法権の限界を求めてきている。司法判断適合性とは、裁判所が実体問題とその意味合いを理解し、その問題を適正に解決する上で必要な知識と視野を当事者に提示させることによって、司法的介入を、(ア)紛争解決に必要な範囲に限定し、(イ)他の部門の憲法上の権限を剥奪しない状況に限ろうとする試みであって、その一部は憲法上の要請であり、他の一部は政策的な配慮から来るものである、といわれている。」
(阪本昌成『憲法理論T』補訂第
3版、成文堂2000年刊393頁より引用)○ 1970年代以降の変化⇒納税者訴訟、クラスアクション等
○ ここにでてきた司法判断適合性とは、具体的には、当事者適格、成熟性、ムートネスなど一連の法理により決定されることになる要件のことである。
ポイント
@ こうしたアメリカ法の変遷は、具体的事件性概念をわが憲法解釈で採用する根拠として、アメリカ法の継受ということができなくなったことを意味する。
A 従来の通説・判例にしたがう場合、客観訴訟では憲法判断は許されない。
が、現実の憲法訴訟における客観訴訟の重要性を考えると、これは否定すべきである。
次の三通りの対応策が存在しうる。
対応策1:司法権の概念の内包は従来のまま維持しつつ、法律により裁判所に付与された権限についても違憲審査を可能である、とする論理を導く
対応策2:司法概念そのものを拡大してその中に客観訴訟の概念を導入する
対応策3:司法権概念そのものを捨てる。
実際に、この三つのすべてに対して、それぞれいくつかの説が存在している。以下、代表的な学説を紹介する。
(一) 佐藤幸治説(法原理機関説)
「司法権の観念が歴史的に流動的なものだとしても、それが立法権や行政権と異なる独自のものとされるゆえんは、公平な第三者(裁判官)が、関係当事者の立証と推論に基づく弁論とに依拠して決定するいう、純理性の特に求められる特殊な参加と決定過程たるところにあると解される。これにもっともなじみやすいのは、具体的紛争の当事者がそれぞれ自己の権利・義務をめぐって理をつくして真剣に争うということを前提に公平な裁判所がそれに依拠して行う法原理的決定に当事者が拘束されるという構造である。」
(『憲法』第3版、青林書院平成7年刊、295頁以下より引用。以下同様)
この場合、客観訴訟についてははどう考えるのか。
「裁判所が司法権を独占的に行使するということは、他方、裁判所は司法権のみを行使すること、換言すれば、裁判所が本来的司法権ならざる権能を行使してはならないこと、を直ちには意味しない。本来的司法権を核として、その回りには法政策的に決定さるべき領域が存在している。いわゆる『客観訴訟』の創設とか非訟事件の裁判権の付与などがそれである。裁判所法3条も、『その他法律においてと国定める権限』という。が、法律により、裁判所に対し、本来的司法権ならざる権能を付与することについては、憲法上の限界があると解される。すなわち、付与される作用は裁判による法原理的決定の形態になじみやすいものでなければならず、その決定には終局性が保障されなければならないと解される。〈中略〉行政事件訴訟法は、個人の具体的な権利・義務に関する訴訟(主観訴訟)を中心に、個人の権利利益の侵害を前提としない『客観訴訟』と呼ばれる、機関訴訟と民集訴訟を例外的に認めている。この客観訴訟は、司法権の当然の内容をなすものではなく、法政策的権利から立法府によって特に認められたものであると解される。」
(二) 浦部法穂説(公権的裁定説)
「もともと裁判所というものは、権力支配の秩序維持のための国家機関として、社会に生起する個別的な紛争の公権的裁定を、その任務として与えられているものである。要するに、全体の統治=支配機構の中で、特に個別的な紛争の公権的解決を通じて秩序維持に仕えることを任務としている。だから、それは、はじめから、個別的紛争の存在を前提にして機能するものであり、そして、そこでは、公権的に裁定する必要性の認められる紛争だけが取り上げられることになるのである。」
浦部法穂『全訂憲法学教室』日本評論社2000年刊319頁以下
この場合、個別的紛争というには、次の二つの要件が充足される必要がある。
「第1は、法的に解決可能な紛争が具体的な形で存在していることである。法的に解決可能な具体的紛争とは、要するに、特定の者の法律上の地位・利害に関わる紛争である。〈中略〉第2は、その紛争が現実に存在していることである。つまり、その紛争が、特定の者の法律上の地位・利害をめぐる争いという形をとっていても、それが仮定的なものであったり、将来起こるかもしれないというものである場合には、現実の問題としてその紛争が生じたときに取り上げれば十分であって、そうでないのに裁判所が裁定する必要はない、ということである。」
(三) 高橋和之説(法の支配説)
「アメリカ合衆国憲法3条1項および日本国憲法76条1項の司法権は、その概念内容としては事件性の要件を含んではおらず、したがって、司法権がいかなる対象に及ぶかは、合衆国憲法3条2項に対応する規定を欠く日本国憲法においては、別途検討する必要があるということになろう。」
「付随審査制においては『事件』の存在が前提となるということになる。しかし、ここにいう「事件」とは具体的事件に限定されない。司法裁判所に適法に係属した『事件』なら『抽象的』事件でもかまわない。たとえば、行政法学上民衆訴訟、客観訴訟と呼ばれている訴訟も含まれる。それらの『事件』の解決に付随して必要な限度で違憲審査をするのが付随審査制である。実際、日本の違憲審査制はこのような理解で運用されてきている。ゆえに、日本の違憲審査制が司法審査型であることは、司法の概念が事件性の要件を含まねばならない根拠とはならないのである。」
「司法権の観念」樋口陽一編『講座憲法学』第6巻、日本評論社1995年刊13頁以降より引用
(四) 戸波江二説(ドイツ憲法説)
現在のドイツボン基本法では、憲法裁判に加えて、通常(民事及び刑事)、行政、財政、労働及び社会の各裁判権をすべて司法として一元的にとらえ、それぞれについて最高裁判所を設置するという形式を採用している。その意味で、裁判所に司法権Rechtsprechungが一元的に帰属する観点からは、わが国現行憲法と同様の構造となっている。したがって、ドイツ憲法と同じような構造で司法権を把握することは可能である。
「なぜ事件性が司法権の本質的要素とされるのかという問題について、理論的な根拠を提示する学説もある。それによれば、紛争の当事者がそれぞれ自己の権利義務をめぐって主張を行い、公平な裁判所が法に従って判断を下すという構造こそが司法権にふさわしいものであると説かれる。たしかに、近代の裁判はそのような訴訟構造を前提として発展してきており、歴史的にみて司法権は事件性を前提にしているということができる。しかし、問題はそのような訴訟構造の枠を超えた事件を裁判所が審理判断することができないかどうかである。そして、客観訴訟が法律で定められ、『念のため』判決のように訴訟要件を欠く訴訟で実体判断がなされていることなどを考慮すれば、事件性の要件、は、例外を許さない絶対的な要件ではないと解される。すなわち、事件性の要件は、事件性の要件をみたさない訴えを裁判所が拒否するための正当化理由となるが、逆に、裁判所が事件性を欠く訴えについて個別的に審理・判断したり、法律が事件性の要件を欠く訴訟を定めたりしたとしても、それらの事件を裁判所が審理・担当すべき十分な理由がある場合には、『司法』権を裁判所に属せしめた憲法76条に反することにはならないと解される。事件性の要件を欠く訴訟のうちで、どのようなものを裁判所の審理の対象とすることができるかは、法を適用して紛争を解決するという司法にふさわしいかどうかによって判断されよう。」
戸波江二『憲法』新版、ぎょうせい、平成12年刊、427頁以下参照