更新記録

 2010年度

 

更新記録は、一番上が一番新しく、下になるほど古いものになっています。

2011年 3月11日  このところ、突然体調が崩れることがちょくちょくあって気になっているのだがが、昨日も夕方から体調が悪くなってきた。

 今日は、本来なら学内学会で一日出校しているのだが、そこで急遽休みにした。こういう体調の悪いときには、論文を書いてもろくなことにならないと考え、一昨日に続いて最近書いた論文のアップロードを行うことにした。一昨日は久しぶりだったので、コツを思い出すのに苦労したが、今日はリズムに乗って、4本も論文のアップロードを行った。ついでに、同じ内容のものをフェイスブックにもアップロードしておいた。

2011年 3月9日  春休みというのに、何故か毎日出校しており、家に暢気に座っている日が滅多にない。今日は、その珍しい例外なので、一念発起して、5月以降に「会計と監査」誌に連載予定の私の原稿「市町村における議員定数等の適正水準について
−米国との比較法的検討−」を、論文のファイリングボックスにアップロードした。

 近時問題になっている地方自治体議員定数及び議員報酬を米国と比較したものである。資料の収集に大変手間を掛けたものなので、是非多くの人に読んで欲しいと願っている。

2011年2月 13日

 29日、母甲斐佳枝が死去いたしました。享年92歳。

 2年前に転倒し、頭を打ったところ、軽度の脳内出血を起こし、それが原因で痴呆症に陥りました。母という人格は、いわばその時点で死亡しており、以来、今日までの時間は、いわば私にその死を覚悟させるための準備期間のようなものだったので、その死によって特に精神的衝撃を受けると言うことは、理性や感情のレベルでは無かったのですが、不思議なことに深層意識には影響があったらしく、体調が崩れて苦労しました。

 母は、大正7年8月、甲斐春男及びセツの長女として熊本県で生まれました。兄 公徳、妹 公枝、弟 徳裕がおりましたが、既に全員が死去しております。

 祖父は、大分県竹田市の出身ですが、家が貧しく、小学校しか出ていない人でした(同じ小学校の遙かな先輩に滝廉太郎が、3年先輩に終戦時に割腹自殺をした阿南惟幾陸相がいます)。しかし、独学で警察官採用試験に合格し、その後も独学で巡査部長、警部補、警部と昇進試験に合格し続け、最終的には台湾警察局長(台湾全島の警察組織の長)にまで昇進していますから成功者といえるでしょう。その転勤に従い、母も熊本を振り出しに新潟、台湾、そして東京と移動しました。特に、少女時代を過ごした新潟は、大変楽しかったようで、そのため雪が大好きで、いつでも雪が降ると喜んでいました。母が死亡した29日も、葬儀を行った211日も、ともに雪が舞う日でした。これは何よりの手向けになったと思います。

 当時の高級官僚は、大正デモクラシーの影響で、いずれかの政党の息がかかっている人間である必要がありました。祖父は新潟県では、最初、新潟市警察署長になったのですが、政権交代で栃尾市(現在は長岡市の一部)警察署長に左遷されます。次の政権交代で、上述した台湾警察局長に栄転するのですが、その次の政権交代で、今度は警察大学校の寮(当時は杉並区天沼に所在していました)の舎監という地位に左遷され、東京に戻りました。その段階で、政権交代ごとに官吏の身分が激変することへの批判が高まり、官吏身分保障法という法律が出来て、政権交代による地位の変動が禁止されました。つまり祖父は大変運の悪いことに、左遷されたところで、身分が固定されてしまったわけです。

 上述のとおり、祖父は自分に学歴が全くないために大変苦労した人だったので、4人の子供達は全員大学を出す、と決心していました。しかし、母が女学校を卒業したのは、この左遷されて舎監になった時期で、当時、財政的にも苦しかったために、母は、女学校卒業後1年ほど、日本光学(今のニコン)でレンズの設計をやっていたそうです。しかし、何とかやりくりが付く目処が立った、と言うことで、昭和女子薬科大学に進学します。これも大変楽しい時代だったようで、さまざまな思い出話を聞いています。

 そこを卒業したのが昭和17年です。その前年1612月に太平洋戦争が始まっていました。母は、薬剤師の資格を得たお陰で、立川飛行場(現在は昭和公園になっています)の脇にあった陸軍航空技術研究所に、大学卒業と同時に判任官待遇で採用になりました。戦争というと、若い人を無差別に兵隊にして戦地に送ったように思われますが、戦後の復興のためには人材を弾丸の餌食にさせるわけには行きません。そこで、陸軍としてそうした人材を集めて研究業務に従事させていたのがここです。そのため、皆、軍人としての身分はもっていますが、所長も含めて、まともに軍人勅諭も暗唱できないような人ばかりが揃っていたそうです。それだけに、およそ軍隊らしからぬ大変楽しい職場だったようで、様々な思い出話を聞いています。数十人の予科練習生を部下に持っていたといいますから、かなり責任ある地位にあったはずです。その当時の部下の何人かは、戦後、かなり後まで母を慕って訪ねてきました。

 戦争の激化とともに、立川飛行場は米軍の集中的な攻撃対象となり、母も、目の前に爆弾が落ちてその爆発で吹き上げられた土砂に全身が埋まった、とか、道を歩いている時にグラマン戦闘機の機銃掃射を受けたが、身体の両側を弾痕が走っていって全くあたらなかった、とか、夜の間に研究所の建物の一つが焼夷弾攻撃を受けて、翌朝出勤したら、消す人もいない建物は完全に消滅して、釘だけが地面に等間隔に並んでいた、などという話を聞いています。しかし、最後まで物資の供給も比較的順調で、食糧等にはあまり困らなかったようです。研究所で、給与の一部として鰻の蒲焼きが山ほど配給になり、近所の家に配って喜ばれた、なんて話がありました。

 戦争が終了すると、祖父は警官を辞し、昭和20年暮れに祖母の実家である熊本県に引き揚げました。しかし、母は、弟の徳裕が、当時まだ日本大学理工学部数学科の学生であったため、その面倒を見るため東京に残りました。それからの数年間は、かなり苦しい時代であったらしく、その時期に関する思い出話はほとんど聞いた記憶がありません。

 結局、昭和25年になって、杉並区天沼に小さな薬屋を開きます。これは本当に小さな薬屋で、辛うじて糊口をしのげる程度で、ほとんど利益も上がりませんでした。確定申告で、生活保護基準を大幅に下回るような所得しか申告しないものですから、そんな馬鹿な話はあるまい、と税務署員が数人でやってきて、棚卸し調査、つまり全ての在庫を調べて、問屋の伝票と付き合わせる、という作業をやられたことを憶えています。確か2回くらいそういうことがあったはずですが、それで税務署も納得して、それ以降はその申請ですんなりと通るようになったのですから、いかに儲からない薬屋だったかが判ると思います。

 それほど薬屋からの収入が少ないのに、なぜ生活保護を貰わずにやっていけたかというと、表に出ない闇収入があったからです。母は、編み物に関しては超一流の腕前だったのです。

 森英恵というファッションデザイナーがいます。後に文化勲章を受賞していますから、名前をご存知の方も多いと思います。彼女は昭和26年に新宿に洋裁店「ひよしや」を開きました。日本にファッションもデザイナーも存在せず、あるのは注文服を作る洋装店だけだった時代にデザイナーを本職とした最初の人です。その彼女が、母の小さな薬屋の隣に、これも小さなひよしや支店を開いたのです。そして、母の編み物の才能に目を付け、そのデザインしたセーターやカーディガンの製作を注文をしてきたのです。英惠さん本人は編み物をしない人なので、自分のイメージを漠然とした絵にするだけで、それをどうやったら編み物として具体化できるかは知りませんでした。だから、英惠さんの編み物の現実のデザインは、母がやったと言っても過言ではありません。

 その時期は、日本映画の黄金時代でもありました。映画会社からひよしやにセーター等の注文が来ると、それが母の方に丸投げされます。母の編み物は超人的に早いのですが、それでも製作が間に合わず、撮影所から迎えの車が来て、その中で編みながら撮影所に行ってセットの間に座って編み続けた、なんてことがありました。また、ある時には、セーターの前身頃しか編み終わっていない段階で撮影ということになったものですから、女優さんのシャツにそれを安全ピンで留めて、カメラは女優さんを前側からだけ撮影した、なんて話を聞いたこともあります。昭和30年代の日本映画を注意深く調べれば、かなり大量に母の作品が写っているのが見つかるはずです。

 しかし、ひよしやはさらに大きく発展し、だんだん、そのような一点物の注文は受けなくなりました。その結果、天沼の支店は閉鎖となり、ひよしやとのつきあいもそれに伴い立ち消えてしました。

 叔父の徳裕は、先に述べたとおり、日大理工学部の学生でしたが、陸上競技部に属し、走り高跳びをやっていました。そこで、家の近くの日大二高のグラウンドを借りて練習していたのです。そのついでにサービスとして、同校陸上競技部の選手に簡単な指導をしました。人の才能と言うものは意外なところにあるもので、叔父は陸上競技のコーチとしては天才だったのです。叔父が指導すると、選手の能力がぐっと伸びるものですから、二高では驚いて、教職の資格のない叔父を先ず数学の代用教員として雇用し、ついで正規の教員としました。野球みたいに、学校が潤沢に予算を出してくれるスポーツでもないのに、叔父の名を慕って全国から選手が集まり、インターハイ優勝2回というのは大変輝かしい記録と言えると思います。今でも、私の姓を聞くと、年輩の人の中には「日大二高の甲斐先生と何か関係がありますか」と聞く人がいて、びっくりさせられます。聞くと、高校時代は陸上競技の選手だったというような人たちです。

 母の薬屋は、荻窪駅から日大二高に行く途中のメインストリートにありましたから、通学コースでもあります。そのため、陸上競技部の選手は、皆店に出入りしていました。母は、いわゆる姉御肌で、先に書いた予科練のことからも判るとおり、そういう若い人から大変慕われる人でした。叔父の選手の育て方が上手かったお陰で、二高の陸上競技部選手の多くが大学でも陸上競技を続けました。そのため、例えば箱根駅伝で大手町のゴールに行ったり、インカレで国立競技場に行ったりすると、どこの大学チームにも何人か二高出身者がいて、挨拶に来たものでした。ある時、早稻田大学が、二高出身のある優秀な選手を是非採りたいと考えたのですが、本人がうんと言わないものですから、何とか説得してくれないかと、河野洋平(後の参議院議長)と小掛照二(後の日本陸上競技連盟副会長)が母を訪ねてきたのを憶えています。二高の選手を動かしたかったら、先ず母を口説け、ということが、その程度に当時の陸上競技界には知られていたのです。

 昭和38年に薬事法が改正されました。30年代後半から俗に乱売屋と言われる大規模雑貨店舗が出現し、そこが薬を信じられないほどの低価格で販売するようになっていたのです。普通の薬屋が問屋から仕入れる値段よりも、そうした乱売屋の小売値段の方が安いのですから、既存の薬屋はどこも乱売屋に歯が立ちません。そこで薬剤師会では、国会に働きかけ、薬販売店間の距離制限と、薬販売面積の最低限を設けることで、何とか乱売屋に対抗しようとしたのです。このような既存店舗の利益を守るための法改正というのはもちろん論外の話です。特に距離制限については、昭和50年に最高裁判所の違憲判決が出ました。

 前述の通り、わが家は大変小さな薬屋だったのです。そのため、この薬事法の違憲な改正中の面積制限に引っかかり、営業が禁じられてしまいました。

 そこで、母は、薬屋を止め、代わりに手芸品店を開きました。ようやく闇の仕事と本来の仕事が一致したわけです。何しろ母の手芸の腕前は超一流で、しかも人に教えるのが上手なものですから、手芸品店は薬屋よりは繁盛したと思います。

 私が高校2年の時に、2度目の法律との遭遇が起こります。話としては地主が死んで、相続人が土地を第3者に売ったというだけのことです。借地借家法という法律があって、借地人や借家人は大変保護されていることは皆さんご存知と思います。ところが、この法律にはとんでもない穴があります。借地人から家を借りている場合に、地主が変ると、新しい地主に借家人は対抗できないのです。つまり、土地所有権が売買されると、その上にある家は撤去しなければならないものですから、これを俗に地震売買と呼びます。わが家がまさにその典型例で、法的にはどうにもなりません。

 私は、子供の頃からSFファンで、したがって大学は理系に進学するつもりで、高校でも理系進学コースに属していました。学年でトップの成績を取っていましたし、クラスメイトの中には東工大に進み、同校の教授になったのがいますから、私もそのまま頑張っていれば、同様の人生を歩んだのではないかと思います。

 しかし、この、わが家が失われるか、という危機に直面して、私は、借地借家法の本を買ってきて熟読しました。どのくらい真面目に熟読したかというと、その後、借地借家法に関してだけは全く勉強することなく、司法試験に合格した、という程度に勉強したのです。その結果、法律学というものの面白さに目覚め、方向を転換して法学部に進学し、今日に至ることになります。

 法的には手が付けられない、ということが判ったものですから、私は、立ち退きにあたってどれだけの利益を引き出すか、という条件闘争に切り替えました。これはかなり苦しい戦いでした。新しい地主というのは、大変な反社会的性格の持ち主で、こちらが留守の間に屋根に上って穴だらけにして激しい雨漏りを起こさせるとか、便所の汲み取り口をあげて、中の甕を叩き割るなど様々な嫌がらせを繰り返し、頑として話し合いには応じなかったからです。

 それでも数年間を引き延ばし、その間に資金を貯め、移転先を探して、埼玉県新座市の中古の建売住宅を380万円で購入しようとしました。問題は、当時の母にはローンさえ組めれば住宅を買える程度の資力はあったのですが、前からの癖で、税金の申告額を押さえていたものですから、金融会社がローンを組むのに応じてくれない、という点にありました。結局、不動産会社が、家を売りたい一心で、私がその会社の社員であるとするインチキの源泉徴収票を作成して、それで住宅ローンを組んで購入できたのです。

 新座市と書きましたが、そこは東京都との県境からほんの100mほどしか離れておらず、事実上は練馬区大泉学園の風致地区と呼ばれる地域の一角で、周りに小売市場や豆腐屋などがあって、小さな商店街を構成しているところでした。そこで、家を改造して、また手芸品店を開店したのです。ここもまずまず繁盛したと思います。

 やがて私は、会計検査院職員となって霞ヶ関に通うようになりました。バスで大泉学園に出て、そこから西武池袋線で池袋に出、地下鉄丸ノ内線で霞ヶ関に行くわけです。交通機関に乗っている時間は、それぞれほんの十数分です。だから理屈としては1時間かからずに行けるはずなのですが、現実問題としては、乗り継ぎに時間が掛かるために最低でも1時間半以上はかかり、雨や雪など、天候が悪くなるとさらに余計に時間が掛かります。私は若い頃から体力の無いのが悩みで、低い負荷でも毎日かかると過労で倒れてしまいます。この当時も何度か倒れてしまいました。そこで、何とか同じくらいの通勤時間で、乗り換え数が少なく、かつ座って通勤できるようなところがないか、と新しい家を探しにかかったのです。

 しかし、私は駆け出しのサラリーマンでしたから、その当時の所得では900万円台の中古住宅(駅に歩いて行ける範囲だとどうしてもその程度しました)を買うためのローンを組むことはできない、ということが判ってきました。制度の詳しい説明は省きますが、いろいろ制度を調べたところ、住宅金融公庫融資を利用すれば、900万円の土地は購入することが出来るということが判りました。そうなれば、上物は、新座の家を売れば何とか建てることができます。つまり、900万円の中古住宅は買えないけれど、900万円の土地を買って、その上に900万円で住宅を新築することはできる、という何とも不思議な状況がそこには存在していたのです。

 そこで、霞ヶ関に最小の乗り換えで行けるところ、ということで、地下鉄千代田線の奥になる常磐線と、日比谷線の奥になる東武線の沿線で、良い土地はないか、と探しにかかりました。詳しい説明は省きますが、現在、住んでいる牛久に、安く良い土地が買えたのは大変運が良かったと思います。抽選で外れること5回、6回目の最後の挑戦であたったのです。

 問題は、この牛久の土地が、1年以内に住宅を建設すること、という条件付きの土地だったことです。土地ローンと住宅ローンの双方をまとめて果たして支払うことが、当時の資力で可能なのか。それが問題でした。幸い、公務員というのは、将来、どの程度の割合で昇進・昇級するのかが、給料が法律で決まっているお陰で明確に判ります。計算してみると、すぐは無理だけれど、3年後になれば、何とかなるという答えになりました。そこで、手品の種になったのが、私の国外研修です。公務員になって以来、希望していたのですが、ようやくその頃になって2年間のドイツ留学が決まったのです。私が、在外研修手当だけでドイツの生活を賄えば、留守宅にでる給料で、母の生活と土地及び住宅ローンは支払える、という計算になるのです。そして、その2年が終わった頃になれば、給料だけで何とかやりくりは付くというわけです。

 その結果、私は、普通なら新たな活動を控えるドイツ留学直前の時期に、大慌てで今住んでいる家を建てることになりました。私としては、当然母はまた手芸品店を開くことを希望すると思っていたのですが、もう楽をしたいというので、商店構造にはせず、普通の住宅として建設したわけです。昭和54(1979)年のことです。

 以来、牛久に住み着き、結局、母は牛久で死亡したことになります。母は、金儲けの才能こそありませんでしたが、手芸をはじめとして様々な分野に一流の能力を発揮し、なかなかに面白い人生を送ったと思います。何とか、その一代記を書かせたいと思ったのですが、文章を書くことにはあまり興味が無く、多くの面白いエピソードが失われてしまったことは残念です。

  30日  寒い日が続いているが、皆さん、いかがお過ごしだろうか。

 講義が終わっても、大学教授というのは案外雑務があり、ほとんど毎日のように出校している。学生諸君も良くしたもので、私が研究室にいると、何故判るのか、OB・OGも含めて意外に沢山の諸君が訪ねてきて、出校目的の雑務の方が後回しになるほどである。

 さて、明日から2泊3日のゼミ旅行。帰った後にはまたいろいろと雑務が控えているので、一日繰り上げて、本日、問題及びレジュメをアップロードした。

2011年1月 15日  あけましておめでとうございます。

 普通、私は正月は箱根駅伝を見て、というより、魅入られて過ごすのですが、今年は、我が日大は1区、2区で一瞬夢を見せてくれたものの、あとはほとんどの選手が区間最下位かそれに準じた記録を連発してくれたお陰で、他の追随を許さない最下位独走を演じてくれました。あそこまで悪いと、余計な希望を持つ可能性もなく、テレビを横目に、心静かにパソコンを叩いて仕事をすることが出来、正月としてはなかなか能率の上がった年となりました。

 あそこまで下がれば、後はあがるだけと言われた同僚教授もいましたが、それは甘いというものです。この下には予選会落ちというのもあるわけです。在原業平の歌に『世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし』というものがありますが、それをもじれば、来年は『箱根路にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし』となるかもしれません。

 さて、昨日のゼミで、今年の正規の講義は全て終わりました。そのレジュメをアップロードしました。後はゼミ旅行だけと言うことになります。

2010年12月 26日  前回の更新から、完全に1ヶ月の間が空いてしまったので、私自身が驚いている。それというのも今月に入って、ずっと土曜日はもちろん、日曜日も家にいない日が続いているためである。

 12月5日の日曜日には、ルクセンブルクで開かれている国際会議に、日本にいながらスカイプで講演する、という初めての経験をした。私の耳は、最近、マイクを通した声だとまともに聞き取れない状態になっている。家のテレビも、音は聞こえる程度に大きくして聞いているのだが、実際問題として字幕を出していないと何を言っているのか判らない。日本語でさえそうだから、スカイプ経由の英語の質問が聞き取れるかどうか、講演する前から不安だったが、案の定、よく判らなかった。適当に答弁すると、相手は『判った』と言って引き下がってくれたが、果たして質問と噛み合った答弁をしたのか、いまだに不安である。

 11日、12日には10号館1階の1011講堂で第3回日本宇宙エレベータ学会を開催し、大会幹事であると同時に基調講演も行う等をしたので、これまた大変忙しい思いをした。

 19日には付属校推薦の入学試験を行った。

 という訳で、日曜日に家にいるのは久しぶりである。今年もずいぶん押し迫ってきているが、明日は早稲田大学で開かれる中日公法学シンポジウムで、第1セッションの司会をすることになっている。早稲田で朝9時に始まるので、家を7時には出なければならない。今年は最後まで忙しい年と言うことになりそうだ。

 さて、更新を怠けていたことの言い訳が終わったところで、本日の更新目的について説明すると、12月3日以降の4回分のゼミのレジュメ4本の一挙アップロードである。上記の様な理由から、本日も余り暇がないので、ゼミで行った際のレジュメを単純にアップロードしたに留まり、全く加筆修正を行っていない。特に最後にものは、学生諸君に難しすぎたのか、年末で彼等も忙しいのか、1本も答案が出てこないので、私が適当に、学生諸君が疑問に思うであろうところの論点を取り上げて説明している。だから、これで本当に学生諸君が判ってくれるのかどうか、少々心配している。

 明日の学会が終われば、私もようやく正月の支度を始めることになる。早い話、まだ年賀葉書さえ買っていない。まだ間に合うか、心配している。

 よいお年をお迎えください。

2010年11月 26日  もう11月も終わる。何かと気ぜわしいが、不思議なほど寒くならない。やはり温暖化の影響か。

 先週のレジュメをアップロードする。今週はゼミの面接のため、論文作成練習はお休みである。

2010年11月 10日  今週は、学生諸君が結局問題を作れず、私が作る羽目になった。それをアップロードするついでに先週のレジュメもアップロードした。
2010年10月 31日  目下、鳳凰祭、つまり学部祭である。昨日も、本当であれば、出校して仮装行列の審査員を務めるはずであった。心配した台風も、足が遅く、午前中の雨は大したことはなかったから、普通なら出校したはずである。ところが、緊張の糸が切れた性だと思うが、一昨日から体調が悪くなり、昨日の朝は動こうとすると腹痛がして思うに任せない。結局、審査員はドタキャンという最悪のことをし、結局、一日寝て過ごした。正直、今日になっても、あまり体調は改善されていないが、パソコンの前に座るくらいは問題がない程度になったので、さしあたり今週のゼミの問題をアップロードした。
2010年10月 24日  前回のアップロード以来、大変間が開いてしまった。弁解をすれば、大変忙しかった、の一語に尽きる。

 まず9月27日から10月4日まで、ドイツ公法学会に出席するため、ベルリンに行っていた。

 帰国すると、連日のように、私と入れ替わりにドイツ・ベルリン自由大学から来日されていたホフマン・ホランド教授の日本における講演に付き合い、送別会を行った。他方、その間、同時並行で、法学研究会の立論論旨の改善及び質問作成作業に付き合った。

 10月9日10日は上智大学で、日本の公法学会が開かれた。夜は財政法学会の企画委員会。10日の日は、連日の疲れから会場で爆睡してしまった。公法学会にちゃんと出席していながら、一つの質問もしなかった、という私としては大変珍しい記録を作ってしまった。

 10月11日は、獨協大学で、全国憲法研究会が開かれた。前日の反省から、今日は張り切ったので? 全報告者に質問をぶつける、という逆の意味で珍しい記録を作った。

 10月16日には、日本宇宙エレベータ学会の条約法研究会を主催したので、その際の叩き台となるレジュメづくりに、その前の数日は塞がってしまった。

 その間、引き受けている原稿書きやゲラの校正等も追いかけてくるわけで、我ながら、良くダウンせずに持ったものと感心している。

 そういうわけで、今週の週末は、指折り数えると5週間ぶりに家でゆっくりとしてパソコンの相手をしていられる週末となり、たまったレジュメのアップロードに取りかかったという次第である。

 普通であれば、レジュメは、講義中に諸君がよく判らなそうな顔をした所などを加筆修正してアップロードするのだが、今回はその余裕がない。

2010年9月 17日  昨日のゼミのレジュメをアップロードした。
2010年9月 16日  さすがに新学期ともなれば、今月初め頃の厳しい暑さも薄れ、酷暑の夏もようやく終わりに近づいたという感がある。本日は、明日の問題をアップロードした。
2010年7月 10日  最近、土曜日も日曜日も何か用があって出かけているような日々が続いて、少々へばっている。今日も、午後に、日大法学部主催の予備司法試験セミナがあり、明日は故北野弘久教授の追悼会がある。久しぶりに、月曜日には予定が入っていないので、その日は休めるはず。夏休みを控えてのカウントダウンというところか。

 今日の午前中は急ぐ用事が無いため、久しぶりにホームページのアップロードを行っている。まる1ヶ月ぶりなのだから、我ながら驚く。お陰で本日は一挙4本のレジュメのアップロードである。

2010年6月 14日  天気予報は、今日あたりから梅雨入りと言っている。どうなることか。

 来週のゼミの問題が決まっていなかったので、それと一緒に金曜日のゼミの問題についてもアップロードしようと考えていたため、ずれ込んで今日になってしまった。

2010年6月 5日  気温は高いのだが、湿度が低いせいか、背広を着ていても過ごしよい快適な日々が続いている。年中こういう気候だと実に素晴らしいのだが。

 昨日のレジュメをアップロードする。昨日のものも、先週同様、朝から大慌てで作成したものであるので、その後、若干の加筆を行っている。

2010年5月 29日  やたら暑い日が続いていたと思っていたら、この数日、大変涼しい。というより肌寒く感じている。

 昨日のゼミのレジュメをアップロードする。昨日のレジュメは、朝、ゼミ生諸君がメイルで提出してきた論文に接してから、急に書き換えたので、細部に目の行き届かない表現があった。そこで、そのあたりを全面的に手を入れているので、細かな差ではあるが、ハードコピーとは違ったものとなっている。

2001年5月 23日  初夏を思わせる強い日差しがこの2〜3日続いて、ひょっとするともうすぐ夏休みではないか、なんて錯覚を覚えるほどだったが、今日は涼しくなっている。

 金曜日のゼミのレジュメをアップロードする。

2010年5月 16日  冬に戻ったというほどではないが、涼しい日がこの2〜3日、続いている。わが家の飼い犬は、このところ、抜け毛が激しく、ブラッシングをしてやるのに大変時間をとられる。年間を通じてブラッシングをしてやっていれば、向こうもブラッシングをされるのになれるだろうが、今のシーズンだけやるものだから、嫌がって、なかなか最後までブラシをかけさせてくれない。毎年のことながら、犬を飼うことにうんざりする季節である。

 昨日も、財政法判例研究会を、日本大学法科大学院で開催したため、暇がなく、今日になった。

 一昨日のゼミのレジュメをアップロードする。信教の自由は、神道というものが、今日の学生諸君からはあまりに遠いものになっているために、一方においては神道の宗教性の特徴を理解して貰うために時間が掛かる。他方において、日本における政教分離が、国家と宗教の分離という極めて特殊なものであることを理解して貰うために時間が掛かる。みんな、百地先生から国家と宗教団体都分離という概念については教えられているはずなのに、論文を各段になるとすっかり忘れているのだから困ったものだ。

2010年5月 9日  一昨日金曜日の夜に名城大学でドイツ憲法判例研究会があり、昨日は愛知大学で全国憲法研究会があった。全国憲では、政権交代を巡る憲法問題を英米独仏の4ヶ国について紹介する形で議論が行われ、なかなか面白かった。

 おかげで、7日のゼミのレジュメのアップロードが今日にずれ込んだ。

2010年4月 24日  夏日が訪れたと思ったら、完全に冬に逆戻り。冬服をまた引っ張り出してきるは目になっている。機構の不順振りには参っている。

 本日は、日大理工学部でノーベル賞受賞者の益川さんの講演があるので、午後に聞きに行く予定である。私は、天皇陛下とも直接にお話をしたことがあるが、ノーベル賞受賞者を直に見るのはこれが初めてなので、楽しみにしている。考えてみると、社会科学を研究することのつまらないことは、ノーベル賞を貰える見込が絶対にない、という点ではないだろうか。

 さて、昨日のゼミのレジュメをアップロードした。

2010年4月 17日  冬を思わせる季節外れの冷たい雨が一日振りしきる嫌な天気である。

 大学は、第1週が無事に終わり、昨日から2週間目に入った。ゼミの方はなんとか滑り出した感がある。1年生の諸君は、まだ大学というものがわかっていない感じが強いので、講義よりもそちらの方に力を入れた指導を行っていかねばならないと考えている。

 昨日のレジュメをアップロードした。

2010年4月 10日  私にとって、法科大学院の新学期は7日水曜日から、そして法学部の新学期は昨日、9日からいよいよ始まった。昨日は、元々過密な日程なのだが、割り振られた部屋に問題があり、どの時間も教室を変更したりする手間がかかったのでいよいよ忙しかった。

 昨日のゼミのレジュメをアップロードする。

2010年4月 5日  第3回のゼミの問題をアップロードした。また、昨日、1月15日に実施した昨年度の新司法試験第1問の解説をアップロードしたが、ソフトが狂っており、旨く開けないことが判ったので、改めてアップロードし直した。
2010年4月 4日

   前にもぼやいたことだが、Biglobeが昨年暮れよりFTPソフトの操作を非常に面倒なものに切り替えた。お陰で、ついつい更新が面倒で、2010年第1四半期はとうとう更新記録を一度も更新しなかった(実際に更新しなかったわけではないが)。

 私は、自分のホームページとは別に、日本財政法学会の方のホームページの管理も行っている。こちらは、至って気楽に更新ができるので、この第1四半期だけでも6回更新している。

 新学期になって、いよいよ新しいホームページを作らねばならない羽目に陥って、何とかFTPを簡略化できないかと考えた。最初に考えたのが、昔使っていたffftpをもう一度使えないか、と言うことだった。しかし、調べてみると、これはw95やw98には対応しているが、XP以降には駄目だとある。その上、ハッカーの攻撃に脆弱性があって、勝手に書き換えられるなどの欠点もあるのだとか。

 それでさらに考えたのが、同じBiglobe なのに、なぜ法人向けのホームページと同じやり方で更新作業ができないのか、と言うことである。そこで、そっくりまねをしてやってみたところ、何と同じように頁が開いたではないか。苦労することはなかったのだ。

 そういうわけで、今後はさくさくFTPができることになった。本日までの総アクセス件数141、801件である。昨年第3四半期の開始時点における件数は136,872件。半年間で4929件あったことになる。ろくに面倒を見ていなかったのに、結構アクセスしてくださっていたわけだ。

 FTPの簡易なやり方を確立したので、これからはせいぜい真面目に更新したい。