憲法人権論 第8

 甲斐 素直

プライバシーの権利(その1)

私法上の権利としてのプライバシー

 

一 アメリカにおける歴史

(一) その誕生

 論文「プライバシーの権利The Right to Privacy1890

ウォーレンSamuel D. Warren及びブランダイスLouis D. Brandeisの共同論文

ハーバード・ロー・レビュー第4巻第5号

「最近の諸々の発明や企業のやり方は、個人の保護、そしてク−リ−判事が“ひとりで居させてもらう”権利(right to be let alone)と称したものを個人に保障するために取られなくてはならない次なる段階への注意を換気している。スナップ写真そして新聞は、私生活や家庭生活の神聖な領域を侵している。そして機械装置が、『私室で世間に流布される』という予言を達成してしまいそうである。長年に渡り、私人の肖像が、正式に許可されずに流布しているという事態に対し、法は何らかの救済を与えなくてはならないと考えられてきた。新聞によるプライバシ−の侵害の弊害が、長い間痛烈に感じられてきた。」

(二) 判例及び法律による承認

 1 1902年 ロバ−ソン事件、“Roberson v. Rochester Folding Box Co:

原告は、自らの肖像が無断で宣伝のために使用されたことにより、精神的苦痛を受けたとし、損害賠償として1万5千ドルを請求し、被告に対してはいかなる形態においても原告の肖像を発行又は頒布することを禁ずるよう命じる要求をした。裁判では、原告の精神的苦痛という損害に対して賠償すべきかどうかという点が問題となった。ニュ−ヨ−ク州最高裁判所の判決では、四対三で原告の請求は棄却された。

 2 1903年 ニュ−ヨ−ク州議会はプライバシ−の権利を法制化

1条 個人、企業(firm)、法人(corporation)が、現在生存している人物の氏名・肖像・写真を、その人物(未成年者である場合には両親又は後見人)の書面による同意を得ずに広告又は商業目的で使用することは、軽罪である。

 3 1905年 ペイブジック事件、“Pavesich v. New England Life Insurance Co.

  ジョ−ジア州最高裁判所はプライバシ−の権利を始めて承認する。

 原告は、保険会社が保険に加入した人と、加入する機会を逃した人とを対して宣伝する目的で、無断で新聞広告に原告の写真を、粗末な服装で弱々しく見える男性の隣に掲載したとして訴え、勝訴した。

(三) 論文「プライバシ−」1960年、(California Law Review Vol.48 No.3

 プロッサ−William L. Prosserによる分類

 「諸判決から明らかになったことは、単純ではない。それは、一つの不法行為ではなく四つの不法行為の複合体である。プライバシ−に関する法は、四つの異なった原告の利益への四種類の別個の侵害から構成されており、互いに共通の名称でくくられているが、それら各々は、ク−リ−判事の言う“ひとりで居させてもらう”という言葉に含まれる、原告の権利に対する干渉を表わしていることを除き、ほとんど共通なところが何もないのである。」

(1)原告が一人で他人から隔絶されて送っている私的な生活状態への侵入。

(2)原告が知られたくない私的な事実の公開。

(3)原告について一般の人に誤った印象を与えるような事実の公表。

(4)原告の氏名又は肖像を、被告の利益のために盗用すること。

 

二 わが国における歴史

(一) 宴のあと事件判決=東京地裁昭和39928日=百選138

「プライバシーすなわち身体のうち通常衣服をまとつている部分、夫婦の寝室および家庭の内状、非公開の私室における男女の愛情交歓などその性質が純然たる私生活の領域に属し、しかも他人の生活に直接影響を及ぼさない事項については他人から『のぞき見を受け、その結果を公開されること』、もしくは『のぞき見』の結果であるかのような描写が公開されることから法律上保護される権利」

 同判決による成立要件

@ 私生活上の事実または事実らしく受け取られるおそれがあり、

A 一般人の感受性を基準にして、当該私人の立場に立った場合、公開を欲しないであろうと認められ、

B 一般の人には未だ知られていない事柄である。

 

(二) エロス+虐殺事件(東京高裁昭和45413日=百選140頁)

(三) ノンフィクション「逆転」事件(最高裁平成628=百選142頁)

(四) 私小説「石に泳ぐ魚」(柳美里=ユウミリ作)

東京地裁平成116月、東京高裁13215日、最高裁判所14924

「 被上告人は,大学院生にすぎず公的立場にある者ではなく,また,本件小説において問題とされている表現内容は,公共の利害に関する事項でもない。さらに,本件小説の出版等がされれば,被上告人の精神的苦痛が倍加され,被上告人が平穏な日常生活や社会生活を送ることが困難となるおそれがある。そして,本件小説を読む者が新たに加わるごとに,被上告人の精神的苦痛が増加し,被上告人の平穏な日常生活が害される可能性も増大するもので,出版等による公表を差し止める必要性は極めて大きい。

 以上によれば,被上告人の上告人ら及び新潮社に対する本件小説の出版等の差止め請求は肯認されるべきである。」

 

三 憲法学との交点

(一) 人権を制約するものは人権だけである。

⇒プライバシーが人権でなければ、表現の自由を制約することは説明できない

(二) 裁判所による事前救済=参照:北方ジャーナル事件(百選148頁)

国家による公権的介入である限りで、公法上の問題としての側面を持つ。

(三) プライバシーを侵害する表現の自由は、そもそも認められない。

⇒比較衡量の問題にはならない。

(四) もともと私人間で、私法上の権利として発達した。

  ⇒私人間効力は当然に認められる。間接適用説などを考える余地はない。

 

四 プライバシーの権利の限界

 プライバシーが成立する場合における侵害表現の受忍義務。

(一) 公的地位を有する者

 公的地位の程度に応じて、プライバシーに対する侵害を忍受すべき場合が生ずる。

 例:名誉毀損罪に関する事件

「私人の私生活上の行状であっても、その携わる社会的活動の性質及びこれを通じて社会に及ぼす影響力の程度などのいかんによっては、その社会活動に対する批判ないし評価の一資料として、刑法230条の21項にいう『公共の利害に関する事実』にあたる場合があると解すべきである。」

雑誌『月刊ペン』事件(最判昭和56416日=百選4146頁)

 

(二) 事件それ自体を公表することに歴史的又は社会的な意義が認められる場合

ノンフィクション『逆転』事件(最判平成628日=百選142頁)

 

(三) 芸術性はプライバシーの権利に優越するか?

 1 『宴のあと』事件判決

「小説なり映画なりがいかに芸術的価値においてみるべきものがあるとしても、そのことが当然にプライバシー侵害の違法性を阻却するものとは考えられない。それはプライバシーの価値と芸術的価値(客観的な基準が得られるとして)の基準とは全く異質のものであり、法はそのいずれが優位に立つものとも決定できないからである。それゆえたとえば無断で特定の女性の裸身をそれと判るような形式、方法で表現した芸術作品が、芸術的にいかに秀れていても、この場合でいえば通常の女性の感受性を基準にしてそのような形での公開を欲しないのが通常であるような社会では、やはりその公開はプライバシーの侵害であつて、違法性を否定することはできない。もつともさきに論じたとおりプライバシーの侵害といえるためには通常の感受性をもつた人がモデルの立場に立つてもなお公開されたことが精神的に堪え難いものであるか少くとも不快なものであることが必要であるから、このような不快、苦痛を起させない作品ではプライバシーの侵害が否定されるわけであり、また小説としてのフイクシヨンが豊富で、モデルの起居行動といつた生の事実から解放される度合が大きければ大きいほど特定のモデルを想起させることが少くなり、それが進めばモデルの私生活を描いているという認識をもたれなくなるから、同じく侵害が否定されるがそのような例が芸術的に昇華が十分な場合に多いであらうことは首肯できるとしても、それは芸術的価値がプライバシーに優越するからではなく、プライバシーの侵害がないからにほかならない。」

 2 『エロス+虐殺』事件判決

「人格的利益の侵害が、小説、演劇、映画等によつてなされたとされる場合には、個人の尊厳及び幸福追求の権利の保護と表現の自由(特に言論の自由)の保障との関係に鑑み、いかなる場合に右請求権を認むべきかについて慎重な考慮を要するところである。そうして、一般的には、右請求権の存否は、具体的事案について、被害者が排除ないし予防の措置がなされないままで放置されることによつて蒙る不利益の態様、程度と、侵害者が右の措置によつてその活動の自由を制約されることによつて受ける不利益のそれとを比較衡量して決すべきである。」

 3『名もなき道を』事件(東京地裁平成7519日判決)

「実在の人物を素材としており、登場人物が誰を素材として描かれたかが一応特定できるような小説ではあるが、実在人物の行動や性格が作者の内面における芸術的創造過程においてデフォルムされ」ているか、「実在人物の行動や性格が小説の主題に沿って取捨選択ないしは変容されて、事実とは意味や価値を異にするものとして作品中に表現され、あるいは実在しない想像上の人物が設定されてその人物との絡みの中で主題が展開されているため、一般読者をして小説全体が作者の芸術的創造力の生み出した創作であって虚構であると受け取らせるに至って」いる場合には、プライバシー侵害や名誉毀損は成立しない。

 4 『石に泳ぐ魚』事件東京高裁判決

「小説が実在の人物をモデルとして創作されることを否定することはできない。現に実在の人物をモデルとする小説は多い。そして、小説が現実に依拠して作成されたとしても、それはあくまでも虚構の世界に属するものであるということができる。

 しかし、そのことをもって、公にされた小説において、モデルとして同定できる実在の人物のプライバシーに関わる事実を、そのまま記述することが、当然に許されるわけではない。現実に題材を求めた場合も、これを小説的表現に昇華させる過程において、現実との切断を図り、他者に対する視点から名誉やプライバシーを損なわない表現の方法をとることができないはずはない。このような創作上の配慮をすることなく、小説の公表によって他人の尊厳を傷つけることになれば、その小説の公表は、芸術の名によっても容認されないのである。他者の実生活は、文学作品の形成のためであっても、犠牲に供されてはならないのである。」

〈中略〉

「 文学作品が人間を描き、これが多数の人々に読まれることは、人々の人間存在についての認識の内容を豊かなものとする。このことの社会的価値を否定してはならないことは、控訴人らの主張するとおりである。しかし、小説を創作する際、他者の人格的価値、特に、障害を有する者をモデルとする場合はその者の心の痛みにも思いを致し、その名誉やプライバシーを損なわないよう、モデルとの同定の可能性を排除することができないはずはないのである。このような創作上の配慮をすることなく、小説の公表によって他者の尊厳を傷つけることがあれば、その侵害に対して法的に責任を負うのは当然のことである。ことは人間の尊厳にかかわるのであって、芸術の名によってもその侵害を容認することはできない。他者の実生活が、文学作品の形成のために犠牲に供されてはならないのである。」