憲法人権編 第12回
甲斐素直
信教の自由
一 宗教概念について
(一) わが国における宗教概念の特殊性
「憲法でいう宗教とは『超自然的、超人間的本質(すなわち絶対者、造物主、至高の存在等、なかんずく神、仏、霊等)の存在を確信し、畏敬崇拝する心情と行為』をいい、個人的宗教たると、集団的宗教たると、はたまた発生的に自然的宗教たると、創唱的宗教たるとを問わず、すべてこれを包含するものと解するを相当とする。従つて、これを限定的に解釈し、個人的宗教のみを指すとか、特定の教祖、教義、教典をもち、かつ教義の伝道、信者の教化育成等を目的とする成立宗教のみを宗教と解すべきではない。」(津市地鎮祭名古屋高裁判決=昭和46年5月14日=から引用)
○ 欧米流の宗教は「特定の教祖、教義、教典を持ち、かつ教義の伝道、信者の教化育成」等を目的とする
○ わが国の神道の本質は「超自然的、超人間的本質(すなわち絶対者、至高の存在等。なかんずく、神、仏、霊等)の存在を確信し、畏敬崇拝する心情と行為」であるにすぎない。
⇒祭祀宗教
(二) 明治時代、神道は宗教ではない、とされた。
「いわゆる国家神道または神社神道の本質的普遍的性格は、宗教ではなく国民道徳的なものであり、神社の宗教性は従属的、偶然的性格である」
⇒明治15年、神官の教導職の兼補を廃し、葬儀に関与しないものとする旨の達を発し、神社神道を祭祀に専念させることによって宗教でないとする建前をとる
⇒その行事に参加することは臣民としての義務とされた。
事実上国教化し、国家神道の体制を固める
旧憲法28条の信教の自由「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」
安寧秩序や臣民の義務に抵触すると解された場合には、法律を要せず、警察命令によって取り締まることが可能と解釈されていた。
⇒大本教に対する弾圧(大正10年、昭和10年)
⇒ひとの道教団(現PL教団)に対する弾圧(昭和11年)
⇒日本キリスト教団第六部及び第九部に対する弾圧(昭和16年)
⇒創価学会に対する弾圧(昭和18年)
二 信教の自由の概念内容
(一)内心の信仰を表白する自由の保障
○ 表白しない自由⇒踏み絵の禁止
○ 表白する自由 ⇒信仰による差別待遇の禁止
(二)宗教活動の自由の保障
1 消極面⇒20条2項
儀式や祝典への参加拒否だけを規定
⇒神道は祭祀宗教であるため、その前段階である布教活動を持たない
通常の宗教が行う布教活動を、拒絶する自由も、当然にこの保障に含まれる。
2 積極面(国家に対する信仰の保障請求権)
@ 学校の体育において剣道か柔道を必修とすることと、格闘技を拒否する信教の自由
(最高裁平成8年3月8日第二小法廷判決=判例T 96頁)
1 高等専門学校の校長が学生に対し原級留置処分又は退学処分を行うかどうかの判断は校長の合理的な教育的裁量にゆだねられるべきものであり、裁判所がその処分の適否を審査するに当たっては、校長と同一の立場に立って当該処分をすべきであったかどうか等について判断し、その結果と当該処分とを比較してその適否、軽重等を論ずべきものではなく、校長の裁量権の行使としての処分が、全く事実の基礎を欠くか又は社会観念上著しく妥当を欠き、裁量権の範囲を超え又は裁量権を濫用してされたと認められる場合に限り、違法であると判断すべきものである。しかし、退学処分は学生の身分をはく奪する重大な措置であり、学校教育法施行規則13条3項も4個の退学事由を限定的に定めていることからすると、当該学生を学外に排除することが教育上やむを得ないと認められる場合に限って退学処分を選択すべきであり、その要件の認定につき他の処分の選択に比較して特に慎重な配慮を要するものである。〈中略〉 他方、前記事実関係によれば、被上告人が剣道実技への参加を拒否する理由は、被上告人の信仰の核心部分と密接に関連する真しなものであった。〈中略〉
4 所論は、代替措置を採ることは憲法20条3項に違反するとも主張するが、信仰上の真しな理由から剣道実技に参加することができない学生に対し、代替措置として、例えば、他の体育実技の履修、レポートの提出等を求めた上で、その成果に応じた評価をすることが、その目的において宗教的意義を有し、特定の宗教を援助、助長、促進する効果を有するものということはできず、他の宗教者又は無宗教者に圧迫、干渉を加える効果があるともいえないのであって、およそ代替措置を採ることが、その方法、態様のいかんを問わず憲法20条3項に違反するということができないことは明らかである。また、公立学校において、学生の信仰を調査せん索し、宗教を序列化して別段の取扱いをすることは許されないものであるが、学生が信仰を理由に剣道実技の履修を拒否する場合に、学校が、その理由の当否を判断するため、単なる怠学のための口実であるか、当事者の説明する宗教上の信条と履修拒否との合理的関連性が認められるかどうかを確認する程度の調査をすることが公教育の宗教的中立性に反するとはいえないものと解される。
A 宗教上の理由による輸血の拒否(平成12年2月29日 第三小法廷判決)
患者が、輸血を受けることは自己の宗教上の信念に反するとして、輸血を伴う医療行為を拒否するとの明確な意思を有している場合、このような意思決定をする権利は、人格権の一内容として尊重されなければならない。そして、患者みさえが、宗教上の信念からいかなる場合にも輸血を受けることは拒否するとの固い意思を有しており、輸血を伴わない手術を受けることができると期待して医科研に入院したことを内田医師らが知っていたなど本件の事実関係の下では、内田医師らは、手術の際に輸血以外には救命手段がない事態が生ずる可能性を否定し難いと判断した場合には、みさえに対し、医科研としてはそのような事態に至ったときには輸血するとの方針を採っていることを説明して、医科研への入院を継続した上、内田医師らの下で本件手術を受けるか否かをみさえ自身の意思決定にゆだねるべきであったと解するのが相当である。
B 殉職した自衛隊員(本人は無宗教)を護国神社が合祀する自由と、キリスト教徒である妻の信教の自由
(最大昭和63年6月1日=判例T100頁)
「 私人相互間において憲法20条1項前段及び同条2項によって保障される信教の自由の侵害があり、その態様、程度が社会的に許容し得る限度を超えるときは、場合によっては私的自治に対する一般的制限規定である民法1条、90条や不法行為に関する諸規定等の適切な運用によって、法的保護が図られるべきである。しかし、人が自己の信仰生活の静謐を他者の宗教上の行為によって害されたとし、そのことに不快の感情を持ち、そのようなことがないよう望むことのあるのは、その心情として当然であるとしても、かかる宗教上の感情を被侵害利益として、直ちに損害賠償を請求し、又は差止めを請求するなどの法的救済を求めることができるとするならば、かえって相手方の信教の自由を妨げる結果となるに至ることは、見易いところである。信教の自由の保障は、何人も自己の信仰と相容れない信仰をもつ者の信仰に基づく行為に対して、それが強制や不利益の付与を伴うことにより自己の信教の自由を妨害するものでない限り寛容であることを要請しているものというべきである。このことは死去した配偶者の追慕、慰霊等に関する場合においても同様である。何人かをその信仰の対象とし、あるいは自己の信仰する宗教により何人かを追慕し、その魂の安らぎを求めるなどの宗教的行為をする自由は、誰にでも保障されているからである。原審が宗教上の人格権であるとする静謐な宗教的環境の下で信仰生活を送るべき利益なるものは、これを直ちに法的利益として認めることができない性質のものである。」
3 刑事事件と宗教
@ 牧会活動による犯人蔵匿 (名古屋簡裁昭和50年2月20日=判例T 90頁)
「形式上刑罰法規に触れる行為は、一応反社会的なもので公共の福祉に反し違法であるとの推定を受けるであろうが、その行為が宗教行為でありか窮公共の福祉に奉仕する牧会活動であるとき、同じく公共の福祉を窺極の目標としながらも、直接には国家自身の法益の保護(本件の刑法103条の保護法益は正にこれに当る。)を目的とする刑罰法規との間において、その行為が後者に触れるとき、公共の福祉的価値において、常に後者が前者に優越し、その行為は公共の福祉に反する(従ってその自由も制約を受け、引いては違法性を帯びる)ものと解するのは、余りに観念的かつ性急に過ぎる論であって採ることができない。後者は外面的力に関係し、前者は内面的心の確信に関係する。両者は本来社会的機能において相重なることがなく、かつ相互に侵すことのできない領域を有し、性格を全く異にしながら公共の福祉において相互に補完し合うもので、同時的又は順位的に両立しうる関係にある。何故ならば、そもそも国政の権威は国民に由来し、その権力は国民の福利のために行使されるべきものであり、両者はともにそのことを目標とするものであるからである。従って、右のような場合、事情によってはその順位の先後を決しなければならなくなるが、それは具体的事情に応じて社会的大局的に実際的感覚による比較衡量によって判定されるべきものである。この場合宗教行為の自由が基本的人権として憲法上保障されたものであることは重要な意義を有し、その保障の限界を明らかに逸脱していない限り、国家はそれに対し最大限の考慮を払わなければならず、国家が自らの法益を保護するためその権利を行使するに当っては、謙虚に自らを抑制し、寛容を以てこれに接しなければならない。国権が常に私権(私人の基本的人権)に優先するものとは断じえないのである。」
A 加持祈祷による傷害致死 (最大昭和38年5月15日=判例T 86頁)
「 被告人の本件行為は、被害者泉世志子の精神異常平癒を祈願するため、線香護摩による加持祈祷の行としてなされたものであるが、被告人の右加持祈祷行為の動機、手段、方法およびそれによつて右被害者の生命を奪うに至つた暴行の程度等は、医療上一般に承認された精神異常者に対する治療行為とは到底認め得ないというのである。しからば、被告人の本件行為は、所論のように一種の宗教行為としてなされたものであつたとしても、それが前記各判決の認定したような他人の生命、身体等に危害を及ぼす違法な有形力の行使に当るものであり、これにより被害者を死に致したものである以上、被告人の右行為が著しく反社会的なものであることは否定し得ないところであつて、憲法20条1項の信教の自由の保障の限界を逸脱したものというほかはなく、これを刑法205条に該当するものとして処罰したことは、何ら憲法の右条項に反するものではない。」
(三) 宗教における結社の自由の保障
1 消極面=結社への参加の拒否の自由
⇒オウム真理教による誘拐、薬物によるマインドコントロール
2 積極面
@ 結社の自由(最高裁平成8年1月30日第一小法廷判決=百選T 88頁)
解散命令によって宗教法人が解散しても、信者は、法人格を有しない宗教団体を存続させ、あるいは、これを新たに結成することが妨げられるわけではなく、また宗教上の行為を行い、その用に供する施設や物品を新たに調えることが妨げられるわけでもない。
A 結社内における自治権
部分社会の法理
宗教的結社の自由の中核である教義等に直接関係する部分における内部紛争については、それが法律上の係争の形式を採っていると否とに関わり無く、司法権といえども介入できない⇒百選U 408頁、410頁