憲法人権論第25

                          甲斐素直

未成年者の人権

問題  Xは公立Y中学に在籍していたところ、Y中学の校長Zが、男子生徒の髪型について「丸刈り、長髪禁止」とする校則を制定、公布した。そこでXは、憲法13条に違反するとして本件校則の無効を主張した。かかるXの主張は正当といえるか。

類題

 日本国憲法が保障する基本的人権は、未成年者についても成年者と同様に妥当するものと考えるべきであるか。妥当しない場合があるとすればいかなる場合であるか。その理由も含め、具体的に論述せよ。

平成12年度国家公務員T種法律職問題

一 未成年者の人権

(一) 福祉主義との関連

  1 未成年者は人権の享有主体であることに問題はない。したがって、人権制限は、福祉主義の要請から理解しなければならない⇒パターナリズム

  2 児童の権利に関する条約の批准により、無制約な制限には歯止めがかかった。

 論文を書く場合には、同条約への言及がどの範囲で可能か、あるいは必要か、必ず検討すること

米国における動き

60年代:いわゆるキディリブの潮流

「愛の名によって刑罰を与えるのはやめよう」

1969年 ティンカー事件:公立学校の生徒は「一歩校門を入ったら、言論又は表現の自由等の憲法上の権利を失うものではない」

⇒児童の権利に関する条約の成立に貢献

⇒荒れる学園

判例の揺り返し現象

 1986年:学校当局による持ち物検査を是認、

 1987年:生徒総会における発言の中止を是認、

 1988年:高校新聞の検閲を是認

⇒現在も、児童の権利に関する条約を批准していない

  3 選挙権・被選挙権は、公務としての側面から一定以上の行為能力が要求されるのであって、未成年保護制度としての人権制限論として捉えてはいけない。

(二) 児童の能力の画一的取り扱いの可否

  1 本来、児童の能力は個人差があるので、年齢で、画一的に取り扱うことは問題。

  2 人の大きな集団を一律に取り扱う場合には、個別に審査することは不可能なので、 その場合に限って画一的取り扱いが許されることになる。

  法分野ごとに、必要とされる能力に差異がある以上、それを無視した画一的な取り 扱いは許されない⇒成年年齢は法分野ごとに異なる

  例 14才(刑事未成年=刑法41条)

15才(労働年少者=労働基準法56条)

18才(少年=児童福祉法4条、天皇等の成人年齢=皇室典範16条)

 医師法、弁理士法等のように、国家試験によって個別に能力の判定を行っているにも関わらず、20歳以上という画一的な資格要件の定めには、違憲の疑いがある?

二 憲法13条の幸福追求権の意義

 児童の権利を論ずる場合には、多くの場合に、個別の人権カタログには整合しなくなる。そのため、13条からのアプローチが必要となる。

(一) 包括的基本権の法的権利性について

 否定的な見解の例

「具体的権利となるためには権利の主体とくにそれを裁判で主張できる当事者適格、権利の射程範囲、侵害に対する救済方法などが明らかにされねばならず、これらは13条のみから引き出すことはむずかしい(伊藤正己『憲法』新版、229頁)」

(二) 本質論の展開

  1 もともとは天賦人権=自然権と考えていた。(米国独立宣言第2節参照)

  2 法実証法主義を採る今日の法学で、自然権として人権を説明することは不可能

「今日多くの国では、人権を承認する根拠として、もはや特に神や自然法を持ち出す必要はなく、『人間性』とか、『人間の尊厳』とかによって根拠づけることでじゅうぶんだと考えている。」(宮沢俊義『憲法U』新版、有斐閣法律学全集4、78頁)

「人権を承認する根拠に造物主(神)や自然法を持ち出す必要はもはやなく、〈中略〉『人間の固有の尊厳に由来する』と考えれば足りる。」(芦部・憲法74頁)

  3 今日の憲法学者の多くは、必ずしも『人間の尊厳』だけで、人権が説明できる、とは考えていない。

  ⇒自明の理というだけでは、同様の直観論に対抗できない

(三) 本質に関する人格的利益説と一般的自由説の対立

  1 人格的利益説(主要論者:芦部信喜、佐藤幸治、佐藤功、種谷春洋等)

「人権は、『すべての人間が、無条件にかつ不可変的に、等しく保持する、基本的な重要性を持つ種類の道徳的権利』と解したい。〈中略〉権利やルールが上から、例えば全能の主権者によって与えられる法体系のごときものを想定するのでなければ、法的・実定的権利の基礎として『道徳的権利』を想定しなければならないのではないか。」

(佐藤幸治『現代国家と司法権』有斐閣、496頁)

  ⇒人間を道徳的、合理的存在と見て、その内包を道徳哲学的に探求する

  ⇒自律的な個人

「前段の『個人の尊厳』原理と結びついて、人格的自律の存在として自己を主張し、そのような存在であり続ける上で必要不可欠な権利・自由を包摂する包括的な主観的権利である」(佐藤『憲法』第三版445頁)とした。さらに人格的自律を敷衍して「それは、人間の一人ひとりが”自らの生の作者である”ことに本質的価値を認めて、それに必要不可欠な権利・自由の保障を一般的に宣言したもの」(同448頁)

 より根元的な「『秩序ある自由の観念に含意されており、それなくしては正義の公正かつ啓発的な体系が不可能になってしまう』ものであるとか、『基本的なものとして分類されるほど、わが国民の伝統と良心に根ざした正義の原則』であると説かれ、どの権利が基本的であるかを裁判官が自己の個人的な観念に基づいて決める自由は存しない」

(芦部信喜、『憲法学U』348頁より)。

  2 一般的自由説(主要論者:阿部照哉、内野正幸、阪本昌成、戸波江二等)

 「人間存在の特異性は、人格的であるとか、理性的であるとかいった、超越論的な共通点にあるのではない。人間は感じ方から生活様式まで、それぞれに異なって、独自的な存在である点に人間の特異性があるのである。法や憲法典の存在理由は、人間を人格的存在として平等に扱うことにはない。その存在理由は、各人が、有限知の中で、それぞれの個別性を基礎にしながら、自由にその自己愛を最大化できるよう共通の条件を整備することにある。」「自由の価値と意味は、自由が侵害されてはじめてわかる。自由は個別的に侵害されて、その姿を徐々に現すのである。」「憲法典の制定目的は自由の保障にある。」           (阪本昌成『憲法理論U』成文堂、6973頁)

(四) 人権のインフレ化に対する考え方

  1 人格的利益説からのアプローチ

「確かに幸福追求権という観念自体は包括的で外延も明確でないだけに、その具体的権利性をもしルーズに考えると人権のインフレ化を招いたり、それがなくても、裁判官の主観的価値判断によって権利が創設されるおそれもある。(改行) しかし、幸福追求権の内容として認められるために必要な要件を厳格に絞れば、立法措置がとられていない場合に一定の法的利益に憲法上の保護を与えても、右のおそれを極小化することは可能であり、またそれと対比すれば、人権の固有性の原則を生かす利益の方が、はるかに大きいのではあるまいか。この限度で裁判官に、憲法に内在する人権価値を実現するため一定の法創造的機能を認めても、それによって裁判の民主主義的正当性は決して失われるものではないと考えられる。こう考えると、幸福追求権の内容をいかに限定して構成するか、ということが重要な課題となる。」   (芦部信喜『憲法学U』341頁)

 ⇒幸福追求権の保障範囲は「人格的生存に不可欠な重要事項」に限定されることになる。

 ⇒服装、髪型、喫煙、飲酒、オートバイに乗ること等には直接には及ばない

  ただし、それらの自由への恣意的制限がなされた場合には、「個人の尊重」原理や平  等原則に違反することはあり得る。

「喫煙の自由は、憲法13条の保障する基本的人権の一に含まれるとしても、あらゆる時、ところにおいて保障されなければならないものではない。」最高裁昭和45916

  2 一般的行為自由説からのアプローチ

 「国家権力に対して個人の自由な領域を確保するという自由権の本来の意義に照らして、個人の自由な行動が広く保障されるとし、そして@人権保障の範囲を限定すると、実質的に人権保障を弱めることになる、A人格的価値に関わらない行為については、相対的に弱い保障を認め、緩やかな審査基準を適用すればよい。〈中略〉およそ、国家権力を制限して個人の権利・自由を擁護することを目的とする近代立憲主義の理念に照らせば、個人の自由は広く保護されなければならないと解される。散歩、登山、海水浴、自動車の運転など、たとえ個人の行為に人格的価値が認められない行為であっても、国家は正当な理由なく制限してはならないのであって、その意味で、憲法上の保護は個人の自由な行為に広く及ぶと解するのが妥当である。また、髪型や服装などの規制は、一般社会では本来許されないが、在監関係や学校関係では特別に制限されており、その場合に、それらの行為が憲法上保護されないとすることは、すこぶる不当であろう。」(戸波江二『憲法』新版176頁)

三 校則の法規範性

(一) 校則による人権制限の問題点

 学校当局によって、被制約者側(含む父兄)の同意なく一方的に決定されている

⇒今日、特別権力関係論によって、それを説明することは許されない?

 ⇒それに依っていると見られる判例

:丸刈り強制判決(熊本地裁昭和601113日=百選46頁)

    バイク通学禁止(千葉地裁昭和621030日)

(二) 教育法学における通説的な理解に依れば、それは在学関係は契約と理解される

⇒校則は、契約条項の一部を構成することになる。したがって児童生徒の側の明示又は黙示の同意を有効要件とすることになる。

⇒それに依っていると見られる判例:バイク・パーマ(東京地裁平成3621日)

 「内容が、単なる指導方針の域を超えて、服装や髪型等の極端な細部に渡る規制や、登下校の時間指定などが含まれており、学園秩序の域を超えた人権侵害を明確に形成するほどのものとなっている」

四 仮に問いが「Xは本件校則の無効を主張して裁判所に訴えた。裁判所としてはどのように判断すべきか。」というものであったならば、考えるべき問題点。

(一) 部分社会論

学校は、一つの部分社会であり、したがって裁判所として、その内部紛争には介入できない、とする議論。

 ⇒髪型規制は校外での日常生活にまで及ぶもの、という点を根拠に否定できる?

(二) 立法事実論

 「青少年保護のための有害図書の規制について、それを支持するための立法事実として、それが青少年非行を誘発するおそれがあるとか青少年の精神的成熟を害するおそれのあることがあげられる。が、そのような事実について科学的証明がされていないといわれることが多い。たしかに青少年が有害図書に接することから、非行を生ずる明白かつ現在の危険があるといえないことはもとより、科学的にその関係が論証されているとはいえない。

 しかし、青少年保護のための有害図書の規制が合憲であるためには、青少年非行などの害悪を生ずる相当の蓋然性のあることをもって足りると解してよい。もっとも、青少年の保護という立法目的が一般に是認され、規制の必要制が重視されているために、その規制の手段方法についても、容易に肯認される可能性があるが、もとより表現の自由の制限を伴うものである以上、安易に相当の蓋然性があると考えるべきでなく、必要限度をこえることは許されない。しかし、有害図書が青少年の非行を誘発したり、その他の害悪を生ずることの厳密な科学的証明を欠くからといって、その制約が直ちに知る自由への制限として違憲なものとなるとすることは相当でない。」

 最判平成元年919日=岐阜県青少年保護育成条例事件における伊藤正巳の補足意見。

(三) 審査基準論

  1 人格的自律説を採る場合

  ⇒髪型の自由は人権とは認められないから、そもそも審査基準論は問題にならない。

⇒総合的に見て、自己決定権の侵害になる場合がある(髪型規制=自己決定権の侵害というような書き方をしてはいけない)。

  2 一般的行為自由説をとる場合

⇒人格的自律に関わるような重大な権利ではないから、緩やかな、狭義の合理性基準で判断することになる。

五 問題が、公立中学ではなく、私立中学であった場合

人権の私人間効力⇒民法90条違反といえるか。