政党概念と財政憲法

甲斐素直

問題

 政党が民主政治において重要な役割を果たしていることにかんがみ、政党助成金の交付を受けるためには「党首を党員の選挙によって選出しなければならない」との条件を法律で定めたと仮定する。この法律の合憲性について論ぜよ。

司法試験平成15年度問題

[はじめに]

 政党に関する立法は多い。その中でも中核的地位を占めるのが、政治資金規正法と政党助成法である。政党に関する立法に関して聞かれた場合、したがって、解答のポイントは、現行のそうした立法とどの程度に違う立法例なのか、という点を把握することである。本文に詳しく述べるが、この二つの法律では、同一の政党概念を採用している。簡単に言えば、憲法21条にいう政治結社と明確に区分して、国会に一定の勢力を有し、あるいは有しうるものだけを政党と定めている。そして、政治資金規正法では、そうした政党に関する財政的自主性に厳しい制約を課し、他方、政党助成法は助成金を公布しているのである。本問は、当然そうした現行の法制を前提に、政党助成法に基づく規制を強化しようとする主張である、と理解できる。

 もちろん、諸君は学説として、このように政党と政治結社概念を峻別することを批判して、一元的な理解をするべきだ、と主張することは十分に可能である。しかし、少なくとも、そうした主張をする場合には、現行の政治資金規正法及び政党助成法はいずれも違憲となるという明確な意識の下に、鋭く根拠を積み上げなければ論文にならない。政党助成法が、そもそも国会に相当以上の勢力を有する大政党に特に有利な助成を行っていることすらも意識していないような論文を書いている限り、合格答案と評価されることはあり得ない。

一 問題の所在

(一) 政党概念の必要性について

 政党概念をどう定義するか、という問題の意義について考えてみたい。なぜなら定義は、常にその目的と結びついて下されなければならないからである。

 政党に関して従来の憲法学において説かれたところによれば、わが国の場合、憲法21条の結社の自由が政党の唯一の根拠なのであるから、凡そ政治的に影響を与える意図のあるすべての結社(政治結社)を念頭に置いて考えるべきだとされてきた。例えば戸波江二は、政党について次のように定義する。

「政党とは共通の政治的意見を持つ人々が、その意見を実現するために組織する政治団体である」(『憲法』新版355頁)

 これは政党を21条の政治結社と解する限り、妥当な定義といえるであろう(以下「21条説」という)。

 しかし、この21条の政治結社について、憲法学上、わざわざ「政党」として取り上げて、一般の結社と区別して論ずる実益はほとんどないといわなければならない。なぜなら、この定義でいう「政党」は、政治的理念を中心としているという以外の点では、一般の結社と異なる点はなく、したがって結社一般に関して認められる法理をそのまま適用することができるからである。

 憲法学で、他の結社と区別して政党を論ずるべき必要性は、一般の結社に関する法理では説明できない特殊性を持つ場合にはじめて生じてくる。本稿の関係でいえば、上述の政治結社一般に対して、財政活動を法的に規制することは憲法21条に違反し、また、国費を支出することは憲法89条に違反するので、いずれも許されないと解するべきであることは、自明であろう。

 そもそも、一般社会において政党という用語を使用する場合には、21条説のいうように広い意味で使うことはまずなく、通常は議会制民主主義を前提として、議会を基盤として活動している政治結社に限定される。その意味でも、上述の定義は過度に広汎なものということができる。

 現実に、政治資金規正法や政党助成法等一連の政党関連の立法では、詳しくは次項に述べるが、ほぼ共通の政党概念を使用している。そして、それは、上記社会常識的な政党概念、すなわち、議会制民主主義を前提に議会を基盤とする政治結社に限定して政党と呼んでいると解することができる。したがって今日の憲法学に要請されるのは、第一に、このような実定法上の政党と、21条に基づく政治結社との間における憲法学的相違点を明確にすることである。そして、第二に、そのような理論的な相違が、現行の実定法における区別的取扱い、すなわち財政規制と国庫補助を、合理性を持つものとして肯定できるか否かを明らかにするものでなければならない。

 その点からすれば、21条説に準拠した政党概念とは区分した、社会常識=実定法上の政党概念を憲法学的に確立しない限り、政党概念に関する定義としては役に立たない、と批判されなければならないのである。

(二) 実定法上の政党概念と本稿の用語法

 政治資金規正法は、政治団体という言葉と政党という言葉を区別して使用している。すなわち、政治資金規制法3条は、政治団体を定義して次のようにいう。

「@ 政治上の主義もしくは施策を推進し、支持し、またはこれに反対することを本来の目的とする団体

A 特定の公職の候補者を推薦し、支持し、またはこれに反対することを本来の目的とする団体

B 前二号に掲げるものの他、次に掲げる活動をその主たる目的として組織的かつ継続的に行う団体

 イ 政治上の主義もしくは施策を推進し、支持し、またはこれに反対すること。

 ロ 特定の公職の候補者を推薦し、支持し、またはこれに反対すること。」

 この定義が、ほぼ21条説にいう政党の概念に関する定義と整合性を有することはあきらかである。ただ、この法律は外形から規制することを目的としているから、先に例示した21条説の定義にある「共通の政治的意見を持つ人々」という主観的要件が欠落し、また「その意見を実現するため」という抽象的な表現を、意見実現の具体的な方法である「推進し、支持し、またはこれに反対する」というような表現に置き換えているに過ぎない。

 これに対して、政治資金規正法4条は政党を定義して、上記政治団体のうち、次に該当するものをいうとして、絞り込みをかける。

「@ 当該政治団体に属する衆議院議員または参議院議員を5人以上有するもの

A 直近において行われた衆議院議員の総選挙における小選挙区選出議員の選挙若しくは比例代表選出議員の選挙または直近において行われた参議院議員の通常選挙若しくは当該参議院議員の通常選挙の直近において行われた参議院議員の通常選挙における比例代表選出議員の選挙若しくは選挙区選出議員の選挙における当該団体の得票総数が当該選挙における有効投票の総数の100分の2以上であるもの」

 このような概念区別を前提に、政治資金規正法では、政党をもっぱら規制の対象とする。

 政党助成法2条は、政党の定義として、若干表現は変わるが、この政治資金規正法の規定を基本的に承継している。

 要するに、現に国会である程度の勢力を持っているか、少なくとも国政選挙で、選挙区や投票の方法で恵まれれば国会にある程度の勢力を持ちうる可能性を持っているものだけを、これらの立法では実質的に政党と定めているということが判る。

 すなわち、前に、社会常識的には、政党概念を「議会制民主主義を前提として、議会を基盤として活動する政治結社」と述べたが、これら実定法はそれを、具体的メルクマール及び数値に置き換え、それを充足するものだけを「政党」と呼んでいるのである。これらのメルクマール及び数値が政党概念を決定するに必要にして十分なものか、という点については議論の余地がある。しかし、このような何らかのメルクマールで、広義の政治団体と政党を区分する必要があることは確かである。

 以下、本稿においては、憲法21条にいう政治結社(先に挙げた21条説に該当する団体)のうち、議会制民主主義を前提として、議会を基盤として活動する(ないし活動しようとする)政治結社を「政党」と呼ぶこととする。また、政治資金規正法等の用語法とは若干ずれるが、政治結社から政党を除外したものを「政治団体」と呼ぶこととする。

 すなわち、憲法21条にいう結社の自由は、基本的には、個々人が有している政治的表現の自由を、集団的に行使する自由を意味する。政党が、国会議員ないし議員となろうとしている者という公的地位を有する者を中心に活動を展開するという点において公的性格を有しているのに対して、政治団体は私人の国家からの自由の集団的行使形態であり、議員を含まないという点で私的性格を有しているというところに、政党と政治団体には基本的な性格の差違が存在するのである。

 政党は、現行実定法上、その公的性格の故に、政治団体に比べて遙かに広範な規制を受ける反面、政治団体には認められない公的な様々な特権を与えられることとされている。この規制と特権が憲法上許容されるものであるか否かが、憲法学上、政党という概念を確定することにより論じなければならない問題なのである。

二 政党の概念

(一) 政党に関するトリーペルの四段階説

 古典的な国民主権原理に基づく議会観によれば、議会とは国民の一般意思を表す組織体であった。しかし、制限選挙が廃止され、普通選挙が実施されるようになることにより、議員は「全体の奉仕者であって、一部党派の代表者ではない(ワイマール憲法1301項)」という理念に反して、その選出母胎である選挙区の特殊利益の代表者としての地位を占めるようになる。その結果、議会には、その選挙の時点における国民の間の利害対立の図式がそのまま持ち込まれるようになってくる。それに伴い、議会は、国民全体の利益を図る場というよりも、社会における利害対立を、国民全体の利益の実現という観点から調整する場であると観念されるようになる。

 議会が利害調整の場ということになると、それに先行して、国民個々の持つ利害を明確、かつ集中的に議会に反映させることが必然となる。それには様々な方法がありうるが、その機能をもっともよく果たしうるものとして、現実の歴史において発達したのが政党であった。

 トリーペル(H.Triepel)は、このような議会と政党の歴史的関係を整理して、政党に対して国法は、@ 敵視(Bekampfung)、A 無視(Ignorierung)、B 承認及び合法化(Anerkennung und Legalisierung)、という段階を経て、最終的には C 憲法編入(verfassungsmassige Inkorporation)という段階にいたるという説を唱えた。ここで言われていることは一つの理念型であり、すべての国家がこのような段階を通るということではないが、それが憲法と政党の関係のすぐれた分類であることは確かである。そして、トリーペルが問題にした政党とは、まさに本稿で政党と呼んでいるもののことであって、政治団体は含まれていない、という点に注意する必要がある。政治団体については、議会との関係を考える余地はないから、このことは当然のことである。

(二) 政党概念の理念別分類

 ドイツ憲法などでは、明確に政党を憲法編入しているが、その場合、憲法的規制の対象になるのは、したがって政党であって、政治団体ではない。この政党が、政治団体と異なるどのような性格を有するかについて、以下、ドイツにおける学説を参考にしつつ、わが国において考えられる説を、理念型に分けて整理してみよう。

  1 社会的団体説

 これは、政党という用語を21条説にいう政党として理解し、本稿にいう政党と政治団体の区別を認めない見解ということができるであろう。すなわち、政党の持つ本来的な地位は、結社の自由に基づく団体としての政党であって、ここでは個人の自由権の延長線上で理解されることになる。この立場では、政党がその根を社会においていること、利益集約的機能や提起機能を果たすこと等が重視され、一つの任意的非営利集団、すなわち社会団体であるとされる。

 この面を強調する場合には、政党に対する国家からの干渉は可及的に制限されねばならないから、政党に保障されるべき設立の自由、活動の自由、内部統制の自由、解散の自由等が強調されることになる。わが国で、憲法21条説に基づいて政党を説明する論者の場合には、基本的にこの説を採るはずと思われる。

 社会団体説による限り、国家として政党に干渉することは許されないから、例えばその政治資金を規正することはもちろん許されないが、それと同時に「公の支配に属しない団体」に公金を支出する事は許されない(憲法89条)から、政党に対する国家補助もまた論外と理解するべきであろう。

  2 公的性質説

 これに対して、政党と政治団体との異質性を強調し、政党について、憲法上の特権的地位とそれに伴う特殊な制約を肯定しようと考える場合には、その政治団体との異質性の表れとして政党の公的性格が強調されることになる。公的性格の強度をどのように理解するかにより、次の二つの説に分類することができる。

  (1) 国家機関説

 憲法編入を要請するに至った政党の新しい地位は、政権担当能力という面に端的に現れてくるところの国家機関としての側面であるとして、この点を重視する見解である。この側面を重視する場合には、憲法典上の公的機関としての政党は、その根拠たる憲法秩序に適合されることが要請される。現行のドイツ基本法の下で、自由と民主主義の名により、自由=民主主義を否定する政党は存在してはならない、として、共産党や国家社会主義党(ネオナチ)を違憲=非合法化したのは、この国家機関としての性質に鑑みてのことと理解できるであろう。あるいは、イギリスでは、野党の組織する影の内閣(Shadow Cabinet)の閣僚に対しても国庫から報酬が支払われるが、これも政党の持つ国家機関としての機能を肯定すればこそ認められることといえよう。

 しかし、わが国のように、政党が憲法編入されておらず、また二大政党制が確立しているわけでもない段階で、憲法上の政党の地位として、このような説を唱えうるか否かは疑問のあるところといえよう。

  (2) 媒介機関説

 政党を媒介機関とする説は、上述の政党=国家機関説の持つ硬直性を排除しようとして工夫されたもので、この範疇に属するいくつかの学説があるが、いずれも、公と私のいずれかという画一的分類を排除し、その中間の独特の法領域にある団体として理解する。程度の差こそあれ、わが国での理解は一般にこの範疇に属する理解といって良いであろう。

 この点に関する代表的な判例の見解として、八幡製鉄政治献金事件における東京高裁昭和41131日判決を見てみよう。

「憲法の定める代議制民主制の下における議会主義政党(以下政党という。)は、代議制民主制の担い手として不可避的かつ不可欠の存在であつて、国民主権の理念の下に(1)公共的利益を目的とする政策、綱領を策定して、国民与論を指導、形成する(2)政治教育によつて国民の政治意識を高揚し、国民個人を政治社会たる国家の自覚ある構成員たらしめる(3)全体の奉仕者たる公職の候補者を推薦する(4)選挙により表明された民意に基いて政府を組織し、公約を実行する等の諸機能を営むことを本来の任務とし、まさに公共の利益に奉仕するものである。代議制民主政治の成否は、政党の右の任務達成如何にかかるといつても過言ではない。」

 この引用文一行目にある政党の定義が、本稿の政党の定義と同一のものであることは明らかであろう。その上で国家と国民を媒介する四つの機能を指摘しているのである。

 以上のことから結論的にいえば、憲法編入されていないわが国においては、政党の本質としては社会団体説か媒介機関説のいずれかが許容できるものと考える。

三 政党に対する規制と憲法

(一) アメリカにおける政党規制

 わが国現行憲法は、アメリカ法の強い影響下に制定されたものであることが知られているが、そのアメリカ憲法には、政党に対する規定は現在も全くない。そして、結社の自由に関しても明確な文言的保障は存在していなかった。

 しかし、19世紀末期以来、政党に対して強い法的規制が行われるようになっている。当時、政党幹部の政治腐敗や不当なボス支配が進行したことを受けて、旧弊な体制打破のため、全国的に革新主義と呼ばれる運動が起こり、政党内部の意思決定に直接民主制的手法を導入すること、すなわち、各種公職の候補者の指名方法として党大会による指名に代わって、公職候補者を直接党員が選挙で決めるという直接予備選挙(direct primary)制度を普及させていった。そして、それに対するボスの抵抗を排除するため、法律によって予備選挙を導入するというやり方が採られるようになった。当時それが可能であったのは、結社の自由が憲法上の権利として確立していなかったということが決定的であった、といわれている。

 こうした政党レベルにおける予備選挙の公的統制の結果、黒人が州における予備選挙から排除された事件において、連邦最高裁は修正15条(黒人の選挙権制限の禁止)違反とした。すなわち、予備選挙における勝者が党の候補者として一般選挙の投票用紙に印刷されるというシステムにより、予備選挙が候補者間の選択手続き(選挙)の「不可欠の部分」になっているという点が根拠となった。この判決において、政党は単なる自発的結社=私的団体ではもはやなく、予備選挙は公的選挙の一部であるという見解が打ち出されたのであった。

 このアメリカの場合を見る限り、政党に対する政党内民主主義の要請は、憲法編入の有無を問わず、政党政治が一定の発達を見せると、そこに肯定されるようになってくることが判る。

(二) わが国実定法における政党

 わが国の国会が展開している立法では、明確に媒介機関性を重視している。衆参両院選挙において比例代表制という政党を抜きにして考えることのできない選挙制度を導入し、あるいは政党財政に対して政治資金規正法等による拘束を導入し、他方、国庫補助等の制度を導入している。当然、上記のような学説を採る場合には、こうした立法は違憲と評価するべきことになるはずである。

 それに対して、世論はこうした一連の規制立法を手ぬるいと批判することはあり、また、政党助成法の規定を少数政党に対して不利すぎると批判することはあっても、真っ正面から否定することはあまりない。このような世論に、政党の性格に関する国民の法的確信が反映していると考えるならば、わが国の現実は、媒介機関説的に理解するべき段階に至っている、というべきであろう。憲法学説としては、この現実をどのように理論づけるかが問われていると言わなければならない。

 政党を分類して、公的性格、すなわち媒介機関性ないし国家機関的性格を有するものは、その公的性格の故に補助の対象になると考える。厳密にいうと、媒介機関的性格を理由とする場合には、補助を与えても良い、ということになり、国家機関的性格を理由にする場合には、その国家機関として負担している費用については、その実費を国家は補償する義務がある、という差違が生ずる。反面、媒介機関性を理由とする補助の使途に関しては、憲法忠誠の範囲内における財政監督権にとどまるのに対して、国家機関性を理由とする損失補償の場合には全面的な財政監督権が現れると考えるべきであろう。憲法忠誠の問題を中心に、次節で改めて論じたい。

四 国会中心財政主義と政党内民主主義

(一) 政党と財政民主主義

 憲法は、公の支配に服しない慈善・博愛・教育の事業を行っている団体に対する公的資金の支出を禁じている(憲法89条)。ここにいう慈善、博愛がそれぞれどのような意味かについてははっきりしない。しかし、民法34条は、「祭祀、宗教、慈善、学術、技芸」というものを例示して公益法人という概念を考えており、この例示と憲法89条が示す、宗教、教育、博愛、慈善は相当程度に重複しているところから見て、ここで規定されている組織、団体は、民法で言う公益法人と同様に、特定の者ではなく、社会全体の利益を目的として活動するものを言うと考えてよいであろう(以下「公益団体」という)。

 89条にもかかわらず、学校法人等の公益団体に対して、公金を支出することに関しては、かつては違憲説が有力に主張され、今でも主張する者がある。しかし、今日では、何らかの論理を使用して、それを合憲とするのが一般的である。

 代表的な説としては、まず財政統制説がある。すなわち、憲法83条は国会中心財政主義を定めているが、89条は、それを公益団体について確認したにすぎないと解する説である。この説は、83条に基づく国の財政監督を要求していることを公の支配という言葉の意味と考える。この説の最大の欠陥は、経常費補助に関して発生する。たとえば私学補助は、その大半が経常費補助として実施されている。そして、経常費補助に関して財政監督を実施する場合には、補助対象団体の全経費に関して監督が可能となる。そのような監督が大学に対して行われた場合には当然23条の保障する大学の自治に対する侵害となるのであり、許されない。

 現在、もっとも有力に唱えられているのは、公的性質説である。すなわち、教育基本法6条は、学校教育法に基づく教育は公の性質を持つと規定しているが、89条の公の支配を、この公の性質と読み替え、公教育については、積極的に公的補助を必要とする、と解する。この説は、教育以外の公益団体に関する補助に関して沈黙している点に大きな欠陥を有している。従来、わが国においては、私学補助の合憲性だけに問題意識を持ち、コンメンタール等においても、89条における教育概念が詳細に論じられることはあっても、慈善及び博愛についてはほとんど論じられてこなかった。しかし、本稿で取り上げている政党以外にも、近時、例えば国内、国外におけるNPOないしNGOと呼ばれる団体の活動はきわめて活発になりつつあり、これら組織を通じて多額の国費が使われるようになっている状況である。

 さらに、89条に関して、教育団体に対する国費の支出を同条のみが禁じており、したがって同条に抵触しなければ、教育団体に対する国費の支出は自由に行うことができるという錯覚の下に、説が存在していることである。先に、財政統制説で説明したとおり、わが国財政憲法の下で、公益団体に補助金等を支出するにあたっての最大の問題は、むしろ83条にある。憲法83条は、国会財政主義を定めており、その結果、国のあらゆる支出は最終的には国会の財政管理下になければならない。この結果、国費から経常支出を受けた団体は、すべてその財政のすべてについて国の財政監督を受けなければならない。その結果、公の性質と読み替えただけでは、私立大学に関して、そのような強力な国の財政監督を行うことは、明らかに憲法23条の保障する大学の自治に対する侵害である。

 以上のようなことから、私は第3の説を採る。すなわち、89条は、むしろこの83条の例外規定として把握されねばならないと考える。憲法89条は、83条の例外として、その団体が公の監督(と同条の「公の支配」という言葉を読み替える)に服している場合には、その使途に関する83条の求める財政監督を行うことを免除している規定と理解するべきである。実際、私学補助の実施に当たり、会計検査院による使途に対する検査は実施されていない。

 現行の政党助成法もまた、私立大学に対する補助と同様に、その財政に対する国の財政監督を排除している(同法37条参照)。このような定めは、仮に政党が89条所定の団体に該当しないと考える場合には、憲法83条違反と解さなければならない。

 こうした、公益団体による活動について、89条との関連で、かつて私は次のように論じたことがある。

「およそ福祉主義ないし生存権的基本権の対象となる諸活動は、自由権の実質的確保を内容としているものであるから、福祉主義にしたがって国の介入を要求する前段階として、国の介入を許さない自由権の存在を想定することができる。そして、特に慈善や博愛の事業は、その団体が、活動の基調としている世界観、すなわち社会のあるべき姿に対する価値観の反映として実施されるものなのであるから、これに対応した自由権は、思想ないし信教の自由と密接な関係をもっていると考えることができる。すなわち、2重の基準の原則において、営業の自由など、経済権的自由権に類する、政策的制約の可能な権利と理解するべきではなく、内在的制約以外には国の干渉を禁ずる性格の自由と解すべきである。その意味において、大学の自治の場合と同じく、その具体的活動形態について国が全面的な干渉をすることは禁じられなければならない。すなわち、本条後半に掲げられた事業は、いずれも国がその活動内容に過度の支配を及ぼすことを禁じられている事業であるという意味で、共通の性格を有していると見ることができる。」

 このように89条を理解した場合、媒介機関性を有する政党は、このうち、博愛の事業を行う団体に該当すると考えられる。なぜなら、政治団体と異なり、媒介機関性を有する政党は、特定の世界観の下にすべての国民のために活動する団体であるから、憲法19条に準拠して理解することができるからである。したがって、89条に列挙されている団体に該当し、適切な国民の監督下にあれば、政党助成金の個別の使途に関する財政監督に服する要はない、と解する。

 そこで問題となるのが、政党に対して、憲法89条の要求する適切な監督とは何か、という点である。現行の政党助成法が提供している統制が、その一部であることは間違いない。しかし、それは、それが政党としての実質的要件を満たしていることを前提に、財政統制に関する形式的要件しか定めていない。しかし、それ以前に、政党法が存在すれば当然に定められるはずの、組織や運営に関する要件が存在し、それもここにいう監督手段として理解することができるはずである。それは、現行の民主主義憲法の下で、組織、運営にあたって、憲法秩序の下にあることの要請といえるはずである。

 それは結局、憲法忠誠と言い換えることができると考える。すなわち、憲法99条は、天皇その他の公務員に憲法忠誠を要求しているが、媒介機関としての性格は、政党にもまた公務員に準ずるものとして憲法忠誠を要求していると考えることができるからである。憲法を誠実に遵守する団体に対してしか、公金を支出することは許されない、と表現してもよい。そして、憲法忠誠の具体的内容として、もっとも今日重要なのが、民主主義理念を政党内においても遵守すること、すなわち政党内民主主義である、と考える。このことは、ドイツや韓国の憲法では明文で要求しているところであり、また、アメリカにおける憲法刊行の要求しているところでもある。それを日本でも要求することができないか、ということがここでの問題の中心である。

(二) 政党の媒介機関性と政党内民主主義

 政治団体、すなわち単なる私的団体であって、国民多数から見た場合、何らの公的役割、あるいは国家基幹的役割を果たしていないもの(21条の保障する結社の自由を享有する純然たる私的団体)にあっては、私人の思想信条の自由の延長線上にある結社の自由と理解して、それに対する公的規制は極力排除されるべきである。したがって、その内部自律に国家が介入することは、自由権に対する侵害として許されない、という結論が導かれることになる。

 この場合、そのような国家による干渉を禁ずることから来る当然の結論として、そのような団体に対して公的資金を支出してはならない。

 これに対して、媒介機関として政党を考える場合には、その公的性格から、公的資金の支出は許される。しかし、その場合、主権者たる国民として、政党に憲法忠誠を要求しうる結果、具体的には、政党がその内部的にも民主主義の理念に照らし、健全に運営されていることを要求する権利がある。そうした団体に関して、結社の自由規制につながるという理由から、規制を否定することは、政党政治に本質的につきまとう不正・腐敗から民主主義を防ぐ重要な手段を自ら放棄するに他ならないというべきである。

 すなわち、今日の政党国家において、一般国民の有する選挙権は、実際にはどの政党を選ぶかの選択権に過ぎない。したがって、政党の内部における候補者選出過程が民主主義的に行われる保障が存在しなければ、選挙だけがいかに民主主義の理念に性格に則って行われようとも、為政者の選出にあたって民主主義的に行われていることにはならないからである。

 したがって政党のその媒介機関性を重視するならば、政党の内部意思形成にあたっも、当然に民主主義的要素が重視されることになる。少なくとも、そのような民主主義的な適正手続きが政党内で保障されていない限り、公的資金による助成を行うことは許されない、と解する。

 日本新党繰り上げ当選事件において東京高裁は次のように述べた。

「 政党によるその所属員の除名について、その政党の規則、綱領等の自治規範において、除名要件に該当する事実の事前告知、除名対象者からの意見聴取、反論又は反対証拠を提出する機会の付与等の民主的かつ公正な適正手続が定められておらず、かつ、除名がこのような手続に従わないでされた場合には、当該除名は公序良俗に反し無効であると解すべきである。前記の日本新党による被上告人の除名は、日本新党の自治規範である党則の規定に除名について民主的かつ公正な適正手続が定められておらず、かつ、民主的かつ公正な適正手続に従ってされたものではないと認められるから、無効である。したがって、これが有効であることを前提としてされた本件当選人決定は、その存立の基礎を失い、無効に帰するものというべきである。」

 ここでは、アメリカで、政党に対する公的規制の一環として、政党内民主主義を要請した姿勢と同一のものが顕著に認められる。すなわち、単なる社会団体ではなく、媒介機関と見ることを背景とした判決ということができる。

 これに対して、最高裁平成七年五月二五日判決は次のように述べて政党内自律権を重視した。

「法が名簿届出政党等による名簿登載者の除名について選挙長ないし選挙会の審査の対象を形式的な事項にとどめているのは、政党等の政治結社の内部的自律権をできるだけ尊重すべきものとしたことによるものであると解される。」

 これは、先に挙げた理念型でいえば、社会団体説のレベルの理解ということができるであろう。つまり、媒介機関と見るか、社会団体と見るかが結論の差を導いている。

(三) 政党と政治団体の限界

 ここで問題となるのが、典型的な政治団体と政党との間には明確な差違があるが、それは極限的場合においては、両者は一致する、という点である。すなわち、現行の政治資金助成法や政党助成法が、政治団体との区別に使用しているメルクマールは、基本的に相対的なものに過ぎない。例えば、国政選挙における得票率を何%に設定しようとも、それにわずかに届かないために、政党と扱われない政治結社は必ず現れるのである。逆から言えば、その基準を超していようとも、その団体が必ず媒介機関性を有するという保障は存在しないことになる。

 さらに言えば、政党が憲法編入されていないわが憲法の下において、すべての政党に、憲法忠誠を要求することはできない。現行憲法下で言いうる最大のことは、公的資金の支出を受けたいならば、憲法に忠誠を誓う義務がある、というところまでであると考える。すなわち、政党内で民主主義的・適正手続の保障を行いたくないのであれば、政党助成を受けるべきではない。受けるのであれば、内部的にすべての面で、民主主義の理念に則った適正な手続を採るべきである。

 例えば日本新党事件であれば、問題となった比例代表議員として名簿に登載されていた党員の除名は、国民の日本新党に対する投票行動の基礎に対する強い影響を有する以上、民主主義的手続により行われることが当然要求されるのであって、党首の個人的意思を優越させることは許されない、というべきである。同様に、党首の選出は、政権の獲得を党の目標としているような政党にあっては、同様に民主主義的手続が要請されるというべきである。