第1章 江戸初期の幕府財政
江戸幕府は、その滅亡に際して、各部門ごとの資料を、原則として、新政府の該当する機能を有する官署に引き渡しています。たとえば、江戸町奉行所というのは、基本的に江戸の民政を担当する機関ですから、その資料は東京都に引き渡されました。その伝でいくと、江戸幕府の財政を担当していた役所である勘定所(かんじょうしょ)の資料は、江戸幕府が滅亡したときに、大蔵省に一括して引き継がれたはずです。
しかし、財政だけはその例外で、ほとんど引き渡していなかったようです。やはりお金に絡む問題には、非常に生臭い部分がありますから、徳川氏が滅びるに際し、おそらく、かなりの証拠書類は、湮滅してしまったようなのです。
その証拠に、明治初期の大蔵省は、幕府の財政史料がないために悪戦苦闘するのです。日本という非常に大きな単位の行財政を、それ以前の経験なしにするのが大変なのは当然のことといえます。そこで、大蔵省では、その発足の直後から幕府の資料を求めて苦労しています。
『徳川理財會要』という本があります。その本の解題によると、この本が作られるきっかけになったのは、明治11年の段階で、時の大蔵卿大隈重信が、大蔵省記録局の中に理財會要調掛をおいて、徳川時代の財政に関する事跡の沿革を編纂させたことに由来するといいます。その調査方法というのは、同掛員を「各県に派遣して、編纂の資料を収集せしめ又徳川幕府時代財政の局に当たりたる人々につき旧聞を徴承し、或いは民間蔵書家の所蔵する古書類等を借り上げてこれを抄写し、同13年故佐野常民氏が大蔵卿になるに及び、当時華族部長たりし公爵岩倉具視氏に依頼し、旧藩各華族に令達して、古書旧記の参考となるものを借り上げて抄写する」というような方法です。もし、他の幕府機関の場合のように、そっくり資料が大蔵省に引き渡されているなら、このような苦労は当然必要なかったはずです。
その後、明治20年に、大蔵大臣松方正義は、旧幕臣の取り纏め役とでもいうべき勝海舟に、再度、江戸財政資料の収集を依頼します。海舟は、勘定所に関係した幕臣を集めて編集した本に、『吹塵録』と名付けました。その序に、次のような文章があります。
「本省先に幕府財務の実況を記するの書なきに苦しみ、これを勝伯に謀る。伯、為に此の書を編し、名づけて吹塵録という。記述詳明能く本末を悉くす。固より尋常の著を以て見る可からず。因て之を印刷に付し、他日の参考に便にす。別に附する所の図若干ありと雖も暫く之を略せり。
明治23年1月 大蔵大臣官房」
大蔵省が、幕府財政史料の不足に悩んでいたことが、ここにもよく表れています。
この書と前述の徳川理財會要との違いは、會要が幕府財政史の要点を、大蔵省の責任でまとめたという体裁の本であるのに対して、吹塵録は、生の資料を、体系的に纏めただけのデータブックだ、という点にあります。この中には、上は皇居造営の設計図から、下は一文銭の図柄に至るまで、手に入った資料であれば、何でも記録してあります。土木工事の際に、丸太を人力で運搬する場合の労働者数を積算するための丸太の長さと直径別の人数データなどという、本誌の読者の皆さんに関係の深いものもしっかり入っています。どんな資料でも、いつかは何かの役に立つと考えたのでしょう。吹塵録とは良くも名付けたものです。
會要の場合には、元がどのような史料によったのかが必ずしも判らないものですから、吹塵録の方が、歴史資料としての価値が高いものになっています。勝海舟という人は、江戸城明け渡しに見せた腹芸だけが取り柄ではなく、実務能力も非常にある人だったことが判ります。
徳川の財政史に対する研究方法は、このように、肝心の幕府勘定所の一次資料が明治初期の段階ですでに失われてしまっている結果、今日でも、すべて上記徳川理財會要や吹塵録の編集手段と変わりません。幕府の高級官僚の個人的に作った控えといった二次史料や、各地の公的機関の間接資料から構成したものになります。
高級官僚の残した記録として有名なものをあげると、新井白石の『折りたく柴の記』や、松平定信の『宇下人言(うげのひとごと)』があります。後者は、奇妙なタイトルですが、定信という漢字を分解したものです。子孫のうち老中になった者だけに当ててかかれた自伝ですが、堅く封がしてあって秘函とされていたため、実際には読まれることがなく、ようやく昭和3年になって一般に公開された、といういわく付きのものです。
このような資料は、書き手の自己弁護、ないし政敵への非難という要素が混入しますから、読むときに注意を要します。たとえば徳川綱吉の下で勘定奉行をつとめた荻原重秀は非凡な財政家と考えられますが、折りたく柴の記で白石が口を極めて貶しているために、歴史家も一般に奸悪な人物として彼をとらえています。同じように、非凡な政治家であった田沼意次の評判が歴史家の間で良くないのも、松平定信や彼の子分達が大量の文献をのこして彼を非難しているのに対して、田沼意次側の資料というものがほとんどない(おそらく松平定信が職権を濫用して湮滅したのでしょう)のが最大の理由です。
異色の著者による資料としては、蜀山人、大田南畝の書いた『竹橋余筆』もあげるべきでしょう。南畝は田沼意次の全盛期に狂歌作家として活躍しますが、寛政の改革が始まって、表現の自由に対する弾圧が始まると、あっさりと著作活動に見切りをつけ、勘定所の下僚として精勤するようになります。その業務の一環として、勘定所書類の抜き書きをしたのが、今日に重要な資料となって残っているのです。
本稿を、これから読んでいっていただくと、本章を含めて、これからの各章で、比較的些末な部分でぎょっとするほど詳しい数字を紹介できる一方、非常に基本的な部分でさえも資料がないために想像論を展開していることが、おわかりになると思います。それは、上記の理由から発生する史料のばらつきのためです。
こうした江戸財政史全体に対するハンディに加えて、本章が対象とする江戸初期には、さらにいくつかのハンディが加わります。
第1は、幕府の制度そのものが非常に流動的であり、そのため、機構が確立していなかったという点です。したがって、整備された資料が、そもそもはじめからとんど作られなかったようです。それでは、資料の残りようがありません。
第2のハンディは、そのわずかの資料もおそらく、明暦の大火その他、度重なる江戸の火災の中で、失われてしまっているものが多かった、ということです。実際、江戸後期の記録の中に、そのことを明記した上で、関係者の記憶から再現したのだという断り書き付きの初期の記録というものが、いくつも見つかっています。その手の資料は、往々にして、他の資料と矛盾することも多く、実態の解明をさらに困難なものにしています。
こうしたことから、特に1657年の明暦の大火よりも前の幕府財政については、はっきりしたことは何も判らない、というのが、現在の段階での一番正確な表現でしょう。その曖昧な中から、できるだけ確からしい部分を抜き出して以下に述べておきます。それが、次章以下で本格的に紹介することになる幕府財政改革の出発点となる基本的な財政制度を構成するものだからです。
なお、普通の日本史ですと、その時代の年号を示すことで、文の対象となっている時点を示すのが普通です。しかし、江戸時代の改暦は非常に頻繁なので、それを示していると、西暦を併記してもなお、時間の流れが見えにくくなると思っています。そこで、以下の文中においては、上述の明暦の大火とか享保の改革とかいうように、固有の名称として確立しているものを引用する場合は別として、時点を示すだけの場合には、すべて西暦で統一することとします。
大名の支配の及ぶ土地のことを、その頃は蔵入地(くらいりち)と呼んでいました。文字どおり、そこで生産される米が、それぞれの蔵に入ってくる土地という意味でしょう。江戸幕府は、もちろん佐渡金山や石見銀山に代表されるように、ゆたかな鉱山も持っていましたが、財政の基盤ということになると、封建体制として当然のことですが、その滅亡まで、一貫して、幕府の蔵入地からのからの年貢米収入でした。
徳川氏が江戸に城を構えた当時の蔵入地は、関東地方を中心に合計で120万石程度と推定されています。関ヶ原の合戦では、破れた西軍からの領地の没収高は622万石に達しました。徳川氏は、これを諸大名に対する論功行賞に使用したほか、この機会に徳川一門や譜代大名の創出を行います。が、それだけではなく、かなり徳川宗家自身も蔵入地を増やしています。その結果、この時期以降は240万石程度になり、また関東に偏っていたものが、この時以降、全国的に分布するようになりました。
私が幕府初期と呼んでいる時期は、将軍で言うと、家康、秀忠、家光、家綱の四代の統治期間です。この時期に、かなり大量の大名の改易、すなわち取り潰しが行われています。
幕府成立後、初代の家康存命中に改易・減封された大名は40家(外様26、譜代14)に達します。ついで、二代秀忠の時代に改易・減封になった大名は37家(外様25、譜代12)となっています。もっとも、この時代には、同時に、尾張、紀伊及び水戸の御三家などの創出も行っていますから、その改易が、直接すべて幕府直轄領の増加につながるわけではありません。
三代家光の時代に改易・減封になった大名家は計30家(外様23、譜代7)です。この時、家光は、次男綱重に甲府徳川家を、また三男綱吉に館林徳川家をそれぞれ創設させます。これは後の吉宗時代の御三卿と同様に、将軍家と御三家の中間の特殊な存在となり、五代及び六代の将軍はこの両家から出ます。とにかく、このような創設が行われる結果、この場合も改易・減封、即、幕府直轄領の増加というわけではありません。
最後の四代家綱の時代に入ると、生前に後継者を決めて幕府の認可を受けておかなくとも、臨終の枕元で養子を取ることを認める末期養子という制度が認められるようになります。この結果、後継者の不存在による改易は激減することになりますが、それでも32家(外様17、譜代15)が改易・減封の対象になります。処罰の対象となる譜代と外様の数が接近していることは、この頃の処罰は決して外様いじめを目指したものではなくなってきていることを示しています。
結局、初代から四代までで、領地を没収された大名は139という大きな数字になります。その過半数はもちろん外様ですが、一門や譜代大名も、後継者の不存在その他の理由から改易になるものはかなりの数に達します。他方で、取り潰された大名家が新規に家を建てることが認められたり、既存の大名の増封もありますが、それでも、この時期に、幕府蔵入地は急激に増加して、四代家綱が死亡する1680年の時点では、326万石に達していました。
幕府蔵入地には、この当時、幕府が代官を派遣して統治する領地、佐渡や長崎など遠国(おんごく)奉行を派遣して統治する領地、そしてその近隣の地の大名に土地の管理をゆだねる大名預所(あずけしょ)の三通りの管理形態がありました。中核になるのは、何といっても代官による統治地域です。この代官統治の蔵入地を、以下においては、幕府直轄領と呼ぶことにします。
これについては、天領と呼ばれることが普通でしょう。それは、幕府直轄領の農民が、他の大名領の農民に対してプライドを込めて自称したものであって、正式の名称ではありません。ただ、幕府直轄領か否かは、確かに農民の生活にかなりの影響がありました。幕府の場合には、公定年貢率が四公六民、すなわち40%であって、この点ですでに五公五民が普通の大名領より楽であり、しかも実際には、後述するように、代官所職員数がかなり少ないため、徴税活動の浸透率が低く、40%の徴収率に達することはなかなか難しかった様です。ずっと時代が下って、1843年に時の老中、水野忠邦が出した上知令の中には、三ツ五分という表現がでてきて、その頃になると、公定収納率そのものが35%に低下してしまっていることが判ります。これに対して、大名領では当初から五公五民、つまり50%の収納率であり、後には更に厳しくなっていきます。こうしたことから、幕府直轄領の住民、即、楽な生活、というニュアンスがありました。これがおそらく天領という言葉が使われた真の理由でしょう。
もっとも、代官は民政全般について管理権を持っていますから、その代官の個性によって生活が激変します。代官の圧政に耐えかねて、幕府直轄領の住民が一揆を起こしたことは、江戸期全体を通じて53件に上っています。
一般に、日本史の教科書等では、家康は、織田信長以来の楽市楽座政策を承継したので、商業や工業に対しては原則として不課税の原則をとっていたとされています。
しかし、少なくとも一部の業種については、かなり早い時点から、租税徴収を行っていたことが、僅かに残る理財會要の記録の中に見えています。
記録に見える一番古い例は堺市の朱座、すなわち朱製造の同業組合に課したもので、従来年に銀800枚だったものを、1606年から年1700枚に増税するというものがあります。この場合、始まりがいつかは判りません。
また、1665年から、銀座、すなわち銀貨製造業者の組合に対して、年に銀1万枚の租税を課していたこと、そして納付期日は毎年7月とされていた、という記録があります。
上記二つは、座という特権的な組織に対して課税しているので、一般的な工商税ではありません。その限りでは、教科書は正しそうです。
しかし、次のものはどうでしょうか。
1668年の記録に、江戸及び関東地方の染め物屋に対して1592年以来、染め物の甕1つ当たり年に米1斗を課徴していましたが、最近は米の値上がりが激しいので、今後は米1斗の代わりに銭200文を納めるように規則が変更された、という記述が見られます。この場合には、染物屋という業種全体に対して、何らの特権無く課税されているわけです。
1658年の記録には、江戸市内における商工税則を定めたという記述が見られます。古着屋と茶屋の営業を行う場合には、許可が必要で、その鑑札を受けるに当たっては税金が年に1両といいます。また、床屋の営業許可については、鑑札を受けるに際し税金が年2両、その床屋の弟子についてはやはり鑑札が必要で、その際年1両の税金です。これらの場合には、特定の業種が許可制になっていて、その許可を受けるに当たり、免許税が課されていたわけです。
また、近畿圏の場合には、当時既に運河による水運が発達していたのですが、その船からも税金をとり立てています。1603年に既に取るようになっていたのは確かですが、1616年になって税制が整備されました。それによると、米穀を運搬する船の場合には、積載する米穀100石について銀6匁の割合で税金を納付させる、とあります。
どの場合も、税額は、座に対する特権料に比べると、かなり低額ですが、その分、特定業種のすべてを課税対象とする、大衆課税型の特徴を示しています。冒頭に記したとおり、この当時の記録は元々無いのか、あるいはその後の火災で湮滅してしまったのか、いずれにせよほとんど残っていません。
しかし、これらの例が存在していることから見ると、実際には、かなり様々な業種から、この場合と同様に、毎年幅広く租税の徴収が行われていた、と推定する方が良さそうです。ただ、その広がりがどのようなものであったかは、全く判りません。
したがって、楽市楽座という基本方針を江戸幕府が承継していた、というのが正しいのかどうかは疑問です。あるいは、楽市楽座とは、完全な無税のことではなく、このような低額大衆課税という意味だったのかもしれません。
秀吉は、貨幣高権の重要性を認識し、金貨銀貨の発行権を独占していました。家康も、同様に早くから貨幣鋳造権を幕府が独占することの重要性を認識し、関ヶ原の合戦により覇権を確立直後の1601年に、早くも金貨及び銀貨の鋳造を開始しています。
この時発行した金貨は3種類あります。大判、小判及び一分金です。
慶長大判は、44.1匁の重量があり、金の純度は68.11%でした。金純度のことを品位といいます。これについては発行量は不明です。その後、家綱の時代になって再度慶長大判の名のあるものを発行していますが、これは金67.27%と若干品位が下がっています。が、このころの金貨には出来にばらつきがありましたから、単なる調査対象貨幣の個体差に過ぎないでしょう。こちらの方は発行総量が約1万5千枚と吹塵録では推定しています。
いずれにせよ、これは実用の通貨ではなく、賞賜、贈答などの目的に使われたようです。建前としては、小判10両で大判1両です。が、次に述べるとおり、小判の方がずっと良質の通貨だったので、実際の交換レートは小判8両2分程度で大判1枚というのがやっとだったようです。
慶長小判は4.76匁の重量があり、金86.79%で残りは銀という驚異的な高品位通貨でした。本当は純金で作るつもりだが、それでは消耗が激しいので、不純物として銀を混ぜたという説明が、吹塵録にあります。慶長一分金は、1.19匁で金品位は小判と同一です。両者合わせて、綱吉が最初の改鋳をするまでの間に1472万7055両が発行されています。4分で1両に相当します。
銀貨は2種類発行しています。慶長丁銀と豆板銀です。
丁銀というのは、なまこ型をした銀の棒で標準重量は43匁ということになっていましたが、その前後に10匁内外のばらつきがあったようで、重量は一定していません。したがって、使用に当たっては、一々秤に乗せて重量を確認することが必要になります。
豆板銀というのは、よく時代劇で小粒といわれているもののことで、板状をしています。重量は1匁〜10匁でこれも一定していません。丁銀の補助通貨として考案されたもので、この時初めて発行されました。この慶長豆板銀が発行されるまでは、適当な重量の丁銀がないときは、それを切っていましたが、これによりその必要性をなくした、という点で、非常に重要なものです。
品位は丁銀も豆板銀も銀80%です。これは綱吉時代の改鋳までの間に、120万貫が発行されています。金貨、銀貨については、こうした大量発行によって、通貨高権の確立に成功したといえます。
幕府創世期には、大名によっては、自ら通貨を発行した例もありました。しかし、幕府はまず、1625年に実態調査を行った上で、1627年に紙幣(「楮鈔」という表現を使っています)の通用の停止を命じます。
金貨や銀貨を作っていた場合には、この禁止令は適用されませんでしたが、1635年に定められた参勤交代制により、参府滞在を義務づけられた大名は、否応なく品位が一定していて広い通用力を持つ幕府通貨を使用せざるを得ず、統一通貨体制に組み込まれていくことになります。
たとえば加賀藩は、藩祖前田利家の入国以来、金銀貨を鋳造し、藩内限りで通用させていましたが1664年から幕府製造の通貨に切り替えることにしています。
その後は、各藩が、新たに自藩内限りの通貨を発行したければ、幕府の許可が必要な状況へと自然に変化していったようです。すなわち、記録にある限りでは、金銀課の製造を幕府が公式に禁止したことはなさそうです。
これに対して、銅貨について江戸幕府が貨幣高権を確立することは、かなり大変でした。これは、こうした庶民用の通貨については、秀吉は関心が無く、なんら対策を講じていなかったためです。家康は、自力での貨幣鋳造能力を持っておらず、秀吉の人的物的資源を承継して通貨の鋳造を行っていたために、秀吉の貨幣政策の欠陥も、そのまま承継することになったのです。具体的に言うと、金貨や銀貨については、秀吉の下で貨幣鋳造を担当していた後藤庄三郎等をそのまま起用して、鋳造をさせていましたが、銅貨については、鋳造スタッフから探す必要があったのです。
そもそも、その当時、わが国には銅貨のきちんとした製造技術がありませんでした。室町幕府は、銅貨を国内生産せず、中国から永楽銭をを輸入してそのまま国内に流通させていたからです。もちろん、それだけでは不足したために、かなりの私鋳銭が出回っていましたが、それは「びた銭」と呼ばれました。「びた一文負けられない」なんていう表現の中に、悪貨の代名詞として今日までその名が残っているほどに粗悪なものでした。
家康は、1606年になってようやく慶長通宝を鋳造します。また、秀忠も19年に元和通宝を鋳造します。いずれも1文銭ですが、どの程度の発行量かは判っていません。が。あまり大量ではなかったらしく、一般的には依然として永楽銭が主流でした。どうやらこの頃の徳川幕府は、銅貨は、作るのがやっとで、とても大量鋳造するどころではなかったようです。
1636年に、家光は寛永通宝を鋳造します。これは1文銭で重量は1匁ありました。しかし、これも代替わりのプレゼンテーションに過ぎず、依然大量鋳造はできませんでした。
こうした時期に、個人的に銅貨の中から粗悪なものを選りだして廃棄されたりすると、社会の中の通貨の絶対量が不足して、悪政のデフレが起きかねません。そこで、幕府は度々撰銭(えりぜに)禁止令を出しています。
この後に技術的なブレイクスルーが起きたらしく、1660年代に入って、寛永通宝の大量鋳造が始まります。すでに家綱が将軍である時代に入ってからのことです。この正確な発行量は、やはり判っていませんが、新井白石によると、16年間で197万貫を発行している、とのことです。この段階にいたって、ようやく銅貨の統一が可能となり、幕府が通貨のすべてについて高権を確立するに至ったのです。
幕府財政の中央管理機構は、発足当初から勘定所と呼ばれていたようです。これに対して、地方管理機構は代官所と呼ばれていました。そして、現業部門は御蔵と呼ばれていました。このそれぞれについて、判っている限りのことを、以下に説明しましょう。
幕府直轄領の中央での統括・管理が、勘定所の基本的な業務です。この場合の管理とは、今日の税務署のように徴税業務に専念せず、その直轄領に関するすべての活動、すなわち民事に関する立法、司法、行政のすべてにわたって管理するという意味です。これを一口に民政と呼びます。
江戸町奉行所が、江戸における同様の役割を担う機関ですが、一般に時代劇では、刑事警察活動と司法活動しか行っていないように描かれています。確かに、この最初期には、庶民からみた場合、その二つが、民政活動の中心ということができたでしょう。ただ、江戸も時代がたつにつれて、水道事業やゴミ・屎尿処理、生活困窮者の救済、非行少年の更生施設の運営など、今日でいう社会福祉行政が重要なものとなって現れてくるようになります。
勘定所ないしその支配下にある代官所にとっても、そうした事情は、町奉行と同様で、幕府直轄領内の立法、司法、行政のすべてを一手に把握していました。しかし、中心になるのは、公租の徴収と訴訟であるのはいうまでもありません。
勘定所が、いつ頃からできて、どのような活動をしていたのかは、先に述べたような理由からはっきりしません。1606年の日付の文書には、すでに「勘定所」という名称が現れています。おそらく1603年に幕府が成立した時か、ないしそれ以後のかなり早い時点に江戸に創設されたと考えてよいでしょう。ただし、その頃は、幕府直轄領に配置された代官がそれぞれに活動していたはずですから、必ずしも統一的な組織にはなっていなかった、と考えて良いでしょう。したがって、この日付で示される勘定所が、後の勘定所と同じ権限を持つ機関であったとはいえません。
勘定所のトップとしての業務は、徳川家が関東に入部する時期から幕府が成立するまでは、年寄、すなわち後の老中に当たる地位にあった者、特に本多正信の職権の一部であったろうと思われます。しかし、実質は、大久保長安などの地方奉行がかなり処理していたと思われます。
1604年に大久保長安が「所務奉行」に任命されました。この所務奉行という言葉が具体的に何を意味するのかは、江戸時代でも少し時間がたつと判らなくなっています。しかし、通説は、代官頭(だいかんがしら)を意味する、と理解しています。代官頭であるとすると、その地位には、外に伊奈忠次、彦坂元正、長谷川長綱の3名がいました。しかし、その中で大久保はとりわけ財政面に明るかったことから、彼が代官頭になった後は、事実上、勘定所業務の統轄を担当していたようです。そこで、彼を初代の勘定所のトップとする見解もあります(先に名をあげた徳川理財會要はその見解を採っています)。
大久保長安という人は、もともと甲斐の武田氏の猿楽師という家柄ですが、主家滅亡後、徳川氏に仕え、特に小田原城主大久保忠隣(ただちか)の庇護を得て、大久保の姓を名乗るようになります。徳川氏の検地の中心となって活躍したほか、五街道の整備や石見、佐渡その他の鉱山の開発に優れた能力を発揮して幕府財政基盤を築き、「天下の総代官」と呼ばれた人です。その活動内容を見ると、まことに異能の人というに相応しく、何でもこなしています。とうてい、後年の勘定奉行の範疇に収まる活動ではありません。その広範な活動の一環として、実質的に勘定所のトップもこなしていた、という程度に考えれば良さそうです。
家康は、1607年以降は大御所として駿河に城を築いて隠居します。しかし、実際は政治の実権を離さず、君臨していました。従って、彼の在世中は、幕府の構造自体が、江戸と駿河の二元支配構造になっていました。そのため、財政管理体制もかなり混乱していたようです。勘定所も、江戸と駿河の双方にあったと考えられています。しかし、力があるのは、当然のことながら、大御所家康の君臨する駿河政権の方でしたから、勘定所も、駿河の方が力がありました。
この駿河政権の下の勘定所のトップには、1609年以降、松平正綱が当たっていました。当初、3千石取りでしたが、会計面における優れた業績から加増を重ね、最終的には相模の国甘縄2万2100石の大名にまで出世をします。なお、この正綱自身には代官としての経歴はありませんが、彼の実父の大河内秀綱は、徳川家が三河にいた時代に代官を務めており、関東入部後も代官頭伊奈忠治の家老格の代官でした。したがって正綱も代官業務のなんたるかは子供時代から良く知っていたはずです。ちなみに、この正綱の養子になったのが、松平信綱、すなわち後に知恵伊豆と呼ばれて老中として幕府政治を自在に切り回した人物です。
この松平正綱の次席として、曽根吉次が活躍しました。綱吉の時代に、会計検査官の元祖として勘定吟味役という制度が誕生しますが、この時代、曽根は、そのいわば先駆けともいうべき業務を行っていた、と考える人もいます。
他方、江戸政権の方の勘定所のトップには、伊丹康勝が任命されていたといいます。任命の時点ははっきりしませんが、正綱よりは後のようです。この人も、大久保長安と同じく、武田の遺臣で、家康の下で、父親も代官として働いていました。康勝自身も、秀忠に近侍し、長安の下で代官などを務めていました。彼もその後、順調に出世し、家光の下で、甲斐の国徳実1万2000石の大名になっています。
すなわち、長安も含めて、初期の勘定所のトップにいた人々は、いずれも代官出身者かその一族でした。代官業務の実務経験が、勘定所業務に必要欠くべからざる時代だったことが判ります。こうした能力のことを、当時は「地方巧者(じかたこうしゃ)」と呼んでいました。
1616年に家康が死ぬと、松平正綱はその財産整理の中心となって活動します。家康の遺産は金だけで総額200万両に上ったといわれます。これは、一説によると、尾張、紀伊両家に30万両づつ、水戸家に10万両が分与され、残りは江戸政府が引き継いだといいます。これが家綱時代までの幕府財政の基礎となります。
以後、松平正綱は、統合された勘定所において、伊丹康勝とともに、そのトップとして活躍していくことになります。正綱が伊丹を後継者として推薦したという記録もあることからみて、正綱の方が上席だったようです。こうしたことから、日本史の通説では、松平正綱を勘定頭の初代に当てています。
ただ、注意しなければならないのは、それは今日的な感覚でいう発令による地位というものではない、という点です。この時代は、ある問題を処理する能力を持った人が、個人の才能の程度に応じて様々な業務に関与し、その命令に応じて人が動くという状況があれば、その人がその部門のトップと認識されるという具合だったのです。だから、勘定所があっても、そのトップという職が法制的に存在していた、と法的に言うことはできないのです。このため、松平正綱がいつからいつまで勘定所のトップとして業務を処理していたのか、正確なところは判りません。先に名をあげた大久保長安を初代と考える場合も、同じことです。
1623年に秀忠は、将軍職を家光に譲って引退し、江戸城西の丸に入って大御所と称します。ここに再び大御所と将軍の二元政治が始まりますが、財政的に秀忠がどの程度独自の基盤を持っていたかははっきりしません。しかし、大御所時代の家康ほど、はっきりした独自の財政基盤を持っていたと考える必要はなさそうです。
1630年に、先に、松平正綱の次席として名をあげた曽根吉次は「関東の勘定頭」に任命されます。これが勘定頭という役職名が現れる最初のようです。但し、名称は関東でも、実際には全国各地の同種業務に関与していました。この当時の徳川幕府官職の通有性と言えるでしょう。この曽根という人物も、大久保長安や伊丹康勝と同様に武田の遺臣で、この地位に上がるまでの間、各地の代官職を務めています。また、後、1641年には総勘定頭という名称を与えられています。
1632年に秀忠が死亡することにより、家光による本格的な親政がようやく開始されます。この頃には、幕府の取り扱うべき業務量がかなり増加していましたから、職制を整備し、権限を明確化する必要が認識されるようになってきます。
まず1634年に、後に「老中職務定則」及び「若年寄職務定則」と呼ばれるようになる規則が作られます。それまで、家光政権の下では、年寄は酒井忠世、土井利勝、酒井忠勝の3人でしたが、これだけでは業務が停滞するようになったので、年寄の権限の一部を松平信綱らの六人衆(これが若年寄の起こりとなります。)及び町奉行に分割したのです。この段階では、後に勘定奉行の職権となるような様々の権限は、そのまま年寄の権限として残っています。松平正綱が、実質的に勘定所のトップとしての職務を果たしていた、と述べましたが、逆に言うと、彼が、年寄並という権威を持つようになっていた、ということを意味しているのです。決して、後の勘定奉行のように、老中の下にあって、その指揮監督を受ける地位と考えるべきではありません。
この翌1635年に、今度は、後に「老中並諸役人月番の始及分職庶務取扱日定則」と呼ばれる規則が作られます。これは幕閣における事務分掌を定めたものです。しかし、この場合も、その後のように官職があって、それに対応して職務があるというのではなく、職務に対応してその任に当たる人が列挙されている構造になっています。それらの人には、肩書きとしての官職はありません。
この中で、後の時代の勘定奉行の権限に該当するものを探していくと、例えば、「金銀納方」というのがあります。これには年寄の酒井忠世に加えて杉浦正友、酒井忠吉外2名の留守居役が名を連ねています。この留守居役という官職は、その後だんだん有名無実化して閑職となり、もっぱら上司の逆鱗に触れたり、老齢になって実務能力が低下した高級官僚の左遷先となりますが、このころは、大奥、すなわち、将軍の私的生活に関する万端の指揮命令を下す重要な職でした。それと兼任しているということは、まだ幕府の行政活動などにかかる公会計と、将軍の私会計が未分離の状態であったことを示しています。
また、「関東中御代官方百姓等御用訴訟」の担当者には、松平正綱、伊丹康勝、伊奈忠治、大河内久綱、曽根吉次の5人が名を連ねています。ここでは訴訟権限だけが定められていますが、これはこの年に明確化された幕府の最高裁判所というべき評定所の審理規則の制定と絡んで規定されたためと理解されます。実際には、この5人が、それ以外の勘定所のトップとしての業務も、実際に処理していた、と推定されています。なお、大河内久綱はここで初めて名が出てきましたが、松平正綱の実兄で、その養子信綱の実の父です。
勘定所そのものの機構がきちんと整備されてくるのは、1638年からです。この年に、幕府は、幕府直轄領の支配を、上方と関東方の二元支配とすることを決めます。そして勘定所の実務に携わる「勘定」12名が初めて正式におかれます。上方4名、関東4名、それに作事方(土木事業担当)4名とそれぞれ同数づつ配置したと考えられています。もっともこれまでそうした雑務を年寄等がいきなりやっていたはずはありませんから、これは正式発令に過ぎないと考えるのが正しいでしょう。
1642年になって、ようやく正式に、勘定所のトップを務める者に対して「勘定頭(かんじょうがしら)」という名称が与えられます。この官職が最初に発令されたのは、先に名をあげた伊丹康勝、杉浦正友、酒井忠吉、曽根吉次の4名という事になったとされます。
つまり、先に金銀納方担当とされた杉浦と酒井の2人と先に関東百姓訴訟担当とされた伊丹と曽根の2人の計4人というわけで、ようやく、権限的に後の勘定奉行とほぼ一致したものが登場してきたわけです。このうち、杉浦はこの後も留守居役も兼任していました。しかし、この兼任は、1651年に彼が勘定頭から退いた後は行われていません。この時期が、幕府公財政を勘定所が担当するという概念が確立した時期と考えられます。
この前後の時期を、一般に日本史学者は「慶安幕政改革」と呼んでいます。すなわち、まず1648年に将軍の身の回りを世話する納戸役制度が確立します。そして、1651年には納戸方、細工方、台所方などの権限を定めた「御役方御条目」が制定され、狭義の将軍財政と公的な幕府財政の関係が定められることになります。留守居役杉浦正友の勘定頭兼任の廃止はまさにそれを象徴する人事といえます。
ちなみに、この1651年という年は、家光が死んで、家綱が将軍となった年でもあります。
但し、この後も、留守居役の財政への関与は続きます。金銀の出納事務は、後に述べる御金奉行の権限になりますが、これはこの後も留守居役の支配に属していました。また、通貨を製造する実務を担当していた金座や銀座もまた、留守居役の支配に属していました。これらが勘定頭の支配に変わるのは、綱吉が政権をとった後の1689年のことです。この時にいたって、幕府財政機構は、勘定頭によって全面的に掌握されることになります。
従来、勘定頭の業務を行っていた5人のうち、この時発令のなかった伊丹と曽根以外の3人について述べると、松平正綱は地位が高いために別格となっていたのであって、職権がなくなったのではない、と考えられています。伊奈忠治は、後に説明する関東郡代の職に専従することになり、明確に勘定頭業務から退いています。また、大河内久綱は、これ以前の1638年に既に退職していました。
1659年になると、勘定の指揮下に立つ「支配勘定」24名がおかれます。業務量がいよいよ増加してきたので、正規の職員を増加させる必要が生じたのでしょう。
そして1664年に、「勘定組頭」6名の発令があります。これは、勘定の上役で、勘定所実務の筆頭として機能します。
1674年には、勘定組頭は倍の12名に増員され、役料100俵が支給されます。管理職であることが認められたわけです。
勘定所には、後になると、江戸城本丸にある御殿勘定所(あるいは単に殿中という)と、大手門内にある下(しも)勘定所という二つの執務場所がありました。しかし、いつ頃からこのように二つの執務所があるようになったのかは判っていません。また、先に述べたとおり、これとは別に、上方にも支所が置かれていました。勘定所業務そのものが、その対象区域を上方と関東方に二分していて、勘定組頭も、上方御勘定、関東御勘定というように人員が振り分けられていました。当時の通信事情によるものでしょう。この結果、勘定所は二元構造を持っていたことになります。この構造は享保の改革まで続きます。
こうして一応機構が完成した時点での、その業務分担を紹介すると、殿中の勘定所は、今日の感覚でいえば官房に当たり、勘定所内の人事担当部門、勘定頭より老中、若年寄又は将軍に伺うべき書類の下調べ等の総務担当部門、それに歳出入を管理する部門などから構成されていました。これに対して下勘定所は、代官から将軍等へ上申されてくる書類を調べる部門、同じく代官からの帳簿類の検査・検討を行う部門、幕府からの租税や貸し金を担当する部門などから構成されていました。幕府の人事の特徴として、それぞれの部門には、複数の勘定組頭が配置されています。
一口に、代官といいますが、正式には郡代と代官の二種類がありました。業務内容的には同一ですが、郡代の方が、幕臣としての身分が高く、布衣(ほい)、すなわち六位相当の身分を持つ者でした。これは勘定所でいうと、後に設置される勘定吟味役の身分と同格です。
幕府創世期には、先に大久保長安に関連して名称をあげた代官頭という制度がありました。しかしその中からまず彦坂元正が失脚し、ついで大久保長安の生前の不正を弾劾されて、その一族が失脚します。これらの支配地域を吸収する形で伊奈家が成長し、1618年以降、関東郡代とされます。もっとも、この関東郡代は、規模といい、格式といい、由来といい、普通の郡代とは全く別格というべきものでした。
それ以外の郡代の場合には、基本的には代官とさほど違いはありません。どこが郡代の統治領なのか、ということは時代によってかなり変動します。ここで取り上げている初期の段階では、関東の外に、摂津河内、尼崎、丹波、三河がそれぞれ郡代とされていました。郡代の支配地は、一般に10万石以上といわれますが、他方に、10万石を越える代官領もあり、これは確定的な基準ではありません。
違いは、その支配者に就任する者の身分と考える方が確かでしょう。先に述べたとおり、郡代は幕臣としての地位が高いのに対して、代官は、ほとんどが100石〜200石取り程度の軽輩でしめられます。勘定所でいうと、勘定ないし支配勘定級の身分となります。それどころか、この当時には、その土地の土豪や豪商が当てられている例もあります。特に商品経済の発達している上方でこれが目立ちます。その場合には100俵〜200俵の役料が支給されるだけになります。
しかし、業務内容的には差異がないので、以下では、特に、郡代と代官を区別することなく、両者の総称として代官という語を使用します。
代官は、建前的には一代限りの職ですが、このころは事実上世襲制でした。一人の郡代や代官の統治する地域は、25万石から4万石程度までにかなりばらつきがありますが、いずれにしても、中堅どころ以上の大名領に匹敵する広さがあります。
代官所の経費については、口米(くちまい)ないし口永(くちえい)と称される年貢に対する付加税で賄うことになっていました。1616年に制定され、享保の改革まで続いた規則によると、関東方の場合には年貢米3斗7升について口米1升を課することが認められていました。上方の場合には年貢米1石について口米3升が認められていました。また、金納の場合には、何れの場合も100文について口永3文とされました。この付加税方式による代官所の独立採算制は、享保の改革まで続きました。
代官所の職員の名称は必ずしも一定しませんが、手代などと呼ばれていました。あくまでも代官の雇い人であって、幕府の吏員ではありませんでした。したがって、何かの問題を起こして代官が罷免されるときには一緒に辞めることになります。後には、固定的な階層が生まれてくるようですが、このころは、代官が農民の中から適当な者を選んで採用していたようです。
その俸給は、上記の口米等で賄う必要があるので、どの代官もできるだけ人数を切りつめていました。したがって、職員数は3〜8人が普通で、何かの理由で多いところでもせいぜい十数人止まりでした。同じ石高の大名領や、今の官庁の観念から考えると、およそ考えられないくらいの少人数で、管轄区域内のあらゆる業務の処理をしていたのです。
家康は、代官と徳利は最後には首を吊すものだ、という趣旨の警句をはいています。徳利(とくり=とっくりとも言う)は、最近の若い人は知らないかもしれないので一言すれば、陶製の酒を入れる容器で、胴が太く、首が細くなっており、持ち歩く時はその細い首の部分に縄を巻いて下げました。つまり、代官は、その身分の割に、現地では非常に巨大な権力を行使することができ、監視体制が不十分であるだけに、どうしても不正が発生することは避けられず、最後にはそれがばれて処罰されて首を吊されることになるものだ、という訳です。
トップがそういうつもりで見ているのですから、代官制度の歴史は、代官の行動や会計に対する検査の歴史という観を示します。幕府は、1610年に既に代官所の賦税に関する会計の監査を行っています。その後、1619年、1631年にも年貢を年内に必ず幕府に納めるように命ずるとともに、前任の代官が徴収しなかった分については後任の代官が必ず責任を持って徴収するよう命令する通達を発しています。
しかし実際にはなかなかそれが徹底しないことから、年貢の収納を、個々の代官がバラバラに実施する体制から、勘定所が統一的に掌握する体制に切り替えるのは1649年のことです。先に、慶安幕政改革という言葉を出しましたが、これもその一環です。その後さらに法制面を整備し、各年の年貢は、3月に中勘定(要するに予算を算定)し、正規の決算はその1年後に行うということになりました。また、年貢を納めるに当たって、代官が一方的に徴収するのではなく、納入者自身に、課税台帳に間違いない旨の判形をさせるように、ということも決まります。このルールは享保の改革まで続きます。
他方、代官自身の非違不正の発見の努力も根強く続けられます。それが発見された際には非常に厳しい処分が待っています。家康から家綱までの4代の間に不正行為により処分された代官は合計で22人を数えます。処分の内容は、切腹2名、流罪4名、改易4名という調子で、非常に厳しいものです。
勘定所の下の現場機関として、金蔵や米蔵があります。米蔵は普通、単に御蔵と呼ばれていました。経済の発達が、関西圏の方が早かったため、これらの現場機関も関西から先に整備され、後に関東となっています。
上方には、一番最初に1617年に淀御蔵奉行の発令が、また翌1618年に伏見御蔵奉行の発令が、そして翌1619年に大阪御蔵奉行の発令が、それぞれ記録上確認できますから、江戸よりも早くから御蔵が設置されていたことは確実です。淀、伏見の二つの御蔵は、その後、1621年に大阪御蔵奉行の管轄下に移行します。また、二条城が造営されるのに伴い、1625年には二条御蔵奉行が設置されています。
これらの蔵奉行は、この当時は、それぞれ大阪町奉行及び京都町奉行の支配に属していました(後には勘定奉行に直属することになります)。こうした現場機関は、どうしても不正経理の温床となり易いものです。そこで、その出納は、蔵奉行が検査する外、大番組蔵目付、城代下士、両定番与力、両町奉行配下の蔵目付の合計5つの機関が検査に当たりました。これを、五ヶ所目付と呼びます。こうした点から言うと、会計検査は江戸幕府の場合、その発祥と同時に行われている、と言って良さそうです。
江戸の場合には、浅草に1620年に御蔵が置かれます。鳥越丘を崩して、隅田川右岸を埋め立て、石垣を築いて土止めをし、船入りのために8本の堀割を設け、それぞれに水門があったといいますから、堂々たるものです。この時代にどのくらいの面積があったかは判りませんが、将軍家斉時代の記録には、総坪数3万6648坪(約12万1000u)とあります。
なお、江戸城の門の一つに和田倉門というのがあるのはご存じと思いますが、この和田倉というのは創建が古く、徳川氏の関東入部直後の頃に立てられたものと思われます。それを移設したのが、浅草の御蔵というわけです。もっとも、明暦の大火後、一時期、もう一度和田倉に蔵が設けられたことがあったようです。
これらは、初めの頃は、勘定所の支配を受ける機関とは考えられていませんでした。すなわち、そのころは、米に蔵米と城米の区別があり、それぞれに、その管理責任者として浅草蔵奉行と城米蔵奉行が置かれていました。
蔵米は、旗本や御家人に対するサラリーが主たる使途です。が、その他の一般行政費の原資にも充てられるものです。
これに対して、城米は、兵糧米の備蓄等に当てられるものでした。実際には、この城米は、全国各地の城に城詰米という形で備蓄され、飢饉の救済その他に機動的に利用される性格のものでした。江戸に非常の事態が起きた際には、全国から江戸にこれを送る含みがあったことは当然です。
広い目で見れば、蔵米も城米もいずれも軍事用の米という認識から、蔵奉行は、大番組(将軍直属の軍団。大番頭はこの時期には老中自身)や小十人組(将軍の親衛隊)の出役になっていました。奉行の数は、時代によって違いますが、例えば1642年には、大番組から2名、小十人組から4名の計6名が、浅草蔵奉行と城米蔵奉行にそれぞれ任命されていますから、合計12名も蔵奉行がいたことになります。
これが勘定所の支配を受けるべき機関であるという認識ができて、勘定の地位にある者から発令されたのは、綱吉の時代に入った後の、1687年が始めてのことです。その時には、奉行の定数は10名となっていましたが、そのうち半数の5名が、勘定の職にある者から発令されたのです。しかし、かなり後まで、大番組等からの発令も続きます。幕府という軍事政権の下では、兵糧米という認識を捨てることはできなかったのでしょう。
蔵の管理の実務を担当する職員としては、御蔵手代、御蔵番、御蔵小揚などがいます。
御蔵手代は、1665年に24名が置かれます(但し、これは資料によりはっきりと発令が確認できる最初であって、これ以前からいたことは、後に触れるように、1642年に既に手代の中から処罰されたものが出ていることから、確実です)。実務上の必要が高かったのでしょう、その4年後の1669年には早くも32人に増員されます。その後も、1674年に48人、綱吉が政権についた後になりますが、1687年には56人とうなぎ登りに増加しています。
御蔵番はこの当時は大体10名程度だったようです。御蔵小揚には、さらに小揚頭、杖突、平小揚等の名称の職員がいましたが、1665年の資料では、小揚頭10人、杖突20人、平小揚280人で、合計310人となっています。何によらず、少人数でこなす幕府職員の中にあってずば抜けた数ですが、重たい米俵の人力による運搬業務ということであれば、やむを得ないということでしょう。
不正経理の危険性は大阪の蔵の場合と同様に、ここにも存在します。そこで、その出納については、蔵奉行自身によるほか、やはり勘定所や大番組目付等による厳重な検査が実施されていました。
不正が発見された場合の処分は実に厳しいものです。この当時における最大の不正事件は、1642年に発覚しています。事件の詳細は判りませんが、城米蔵奉行3名及び城米方手代6名の計9名、それに浅草蔵奉行4名及び蔵方手代3名の計7名、合計で16名が、全員斬罪に処せられています。
なお、関東圏の米は、始めから浅草御蔵に集中していたのではなく、最初期には、大久保長安などの代官頭や有力な奉行が、それぞれにその管理地内に蔵を設置して、自分で管理していたようです。1598年頃のものと見られる「慶長江戸図」を調べると、合計11ヶ所も蔵が見つかったといいます。しかし、大久保長安一族の失脚等に見られる代官頭の権力の消滅とともに、徐々にこうした蔵が廃止され、浅草御蔵に一元化されていくのです。しかし、完全に浅草御蔵に集中されるのは、吉宗が政権を握る時期まで待たねばなりません。
このように、米蔵の設置は、関西が関東より早いと言っても程度の差に過ぎないのに対して、金蔵の場合には、関東はかなり遅れます。
大阪御金奉行は1625年には発令されています。先に、代官として土地の豪商等が起用されている例があったと述べましたが、これら豪商は、年貢米を現地で売却して現金化し、それを幕府に納付していたことが判っています。但し、現地の裁量で販売価格を決定することを認めてしまうと、代官が高く売っておいて安くしか売れなかったと報告して差額を両得するような不正行為の温床となる恐れがあります。そこで、幕府の方では、一々販売価格の指定をしていたということです。
こうした現金による年貢の納付は、幕府として現金収入を得る目的から実施されたものです。しかし、いまだ市場経済の未発達な当時において、大量の年貢米を売却することは近畿圏においても容易なことではありませんでした。そのため、畿内の農民の負担はかなりのものがあった、といわれます。
これに対して、江戸で金蔵の出納をつかさどる御金奉行の正式設置を見るのは、ようやく1646年のことです。4名が発令されています。同年に御金同心4名も発令されます。もちろん、その前から実際に金銀を貯蔵する場所はありましたから、その管理をする人もいたはずですが、独立の官職として発令するほどの業務量はなかったということでしょう。
このように江戸での発令が遅かったのは、関東圏においては、まだ市場経済が未発達で、現地での販売がほとんど不可能、という事情があったからです。明治政府は1873年に地租改正を行い、それまでの年貢米に換えて現金で納付するという制度を導入しますが、これに対して、茨城県などでは大規模な農民一揆が勃発しています。すなわち、明治になってもまだ、関東地方では地元での米の換金がままならず、金納を強制されることによって大幅に負担が増大するような経済状態にあったということなのです。明治に入ってからでさえその調子なのですから、関東地方の租税が、江戸初期にほとんどすべて現物で納められていたのは当然です。だから、御金奉行の設置の必要も、関東ではなかなか生じなかった、ということになる訳です。
* * *
何れにせよ、幕府の職制というものは、この時期はまだまだ流動的です。今日的な、官と職務が対応しているという頭で、この当時の業務を理解しようとすると、非常な混乱を起こすことになります。我々が、江戸時代の官職として、日本史の時間に習ったものは、ずいぶんしっかりした組織ですが、そのほとんどは、次章で紹介する綱吉の強力な中央集権政治以降に、ようやく確立していったものなのです。