第2章 綱吉と天和・貞享の治

[はじめに]

 封建体制の下においては、社会の変化にも長い時間がかかります。それでも、四代将軍家綱の時代には、幕府財政が最初の深刻な危機に見舞われていました。家綱には、知恵伊豆と呼ばれた松平信綱や叔父の保科正之等、優れた補佐役が揃っていた、といわれます。がどうも彼らは財政家としてはそろって無能であったようで、何の手も打てないままに、幕府財政は破局へと突き進むばかりでした。

 これに対して積極的に挑戦し、幕府の財政基盤を確立して、真の意味で徳川封建体制を確立したのが、五代将軍綱吉です。その意味で、彼こそが幕府中興の祖と言うにふさわしい人物です。

 綱吉という人は、生類憐れみの令を出したおかげで犬公方と呼ばれ、我々が習う日本史ではまことに悪評が高い人物です。そのためでしょうか、その功績に対しては、ほとんど評価をされていません。それどころか、黙殺といえる状態です。

 しかし、調べてみると、意外なほどに様々な改革を実行した将軍なのです。そして、おそらく徳川15代の将軍の中で、もっとも将軍の権力が強大な時代を築いたということができます。逆に言えば、そうした強大な権力があればこそ、生類憐れみの令のような、当時でさえも悪評の高かった法を、幕府直轄領であると、大名領であるとを問わず、全国的に強行することが可能だったのです。

 ちなみに、最近の研究によると、この悪名のつきまとう生類憐れみの令も、単に世継ぎが生まれないために行った暴政と見るのは正しくなく、実際的な狙いのある、意味ある政策だったといわれています。

 そもそも生類憐れみの令という名の単一の法令は存在していません。全体として同じような傾向のある一連の政策の総称として、後世そう呼ばれるようになったのです。個々の法令は、実はそれぞれ異なる狙いをもっています。一例を上げると、キリシタンの摘発ということがあるといわれています。ご存じのとおり、仏教徒は原則として菜食主義です。これに対して、当時のキリシタンは積極的に肉食する傾向があったので、肉食の禁止を徹底することにより、隠れキリシタンの確実な摘発を目指した訳です。

 綱吉は、その強大な権力で、独力で当時の社会を根底から変革させました。その結果、我々が知っている江戸期の様々な制度や風俗のほとんどは、この人の作り出したものといっても過言ではありません。

 今日においてさえも、我々の行動のかなりの部分は、彼の政策の結果誕生した習慣に支配されています。

 たとえば、悪名高い生類憐れみの令は、今日もなお、我々の生活をはっきりと拘束しているのです。それが一番よく判るのが犬料理です。

ご存じの方も多いと思いますが、お隣の韓国では犬料理を珍重します。実は、我が国でも江戸初期までは犬料理はごく普通のものでした。

日本人が犬を食べなくなるのは、生類憐れみの令によって新たに生まれた習慣なのです。江戸時代も、少し後になると、食い物がなければ犬を食え、と言われたと怒って、農民が一揆を起こしたりします。

今日でも、日本人で、犬を食べたいと思う人はまずいないでしょうし、韓国に行って犬を食べろと言われれば、かなりの度胸を必要とすることと思います。

 また、家族に不幸があると、その後1年間は喪中と称し、年賀状を出さない、というのは、今日におけるわが国のごく普通の習慣でしょう。これも、綱吉が、その文治主義の一環として定めた服忌令(ぶっきれい)の、今に残る名残です。

 一人の人間が導入した政策が、それまでの日本人の行動を根本から変え、しかも、その後の日本人の思考や生活を、これほどに大きく変えたという例は、おそらく外にはないと思います。家康や吉宗の政策でさえも、今日の我々の生活にまでは影響を与えているということはないはずです。綱吉がいかに巨大な存在だったか、ということが、このわずかの例からも判ると思います。

 綱吉は、明治時代にはある程度は高く評価されており、その治世は、享保・寛政・天保と並ぶ改革と理解する人が多数いました。表題につけた天和(てんな)・貞享の治というのは、その当時の呼称です。ただ、その明治時代の理解でも、その意義は、綱吉の初期政治にあり、以後は悪政の連続と理解しているようです。

 しかし、他の面については研究していませんから何とも言えませんが、財政面に限ると、最後まで優れた業績を上げた人と考えるべきだ、と私は考えています。

 

1. 綱吉の人と施策

 

 三代将軍家光は、1651年に病死します。そのため、病弱な子であった家綱はわずか11歳の時に四代将軍となります。当然、その政治は老中主導型のものとなりました。とくに保科正之や松平信綱が死亡した後、大老となった酒井忠清は、下馬将軍の異名をとるほどの権勢を振るいました。

その彼が、1680年に家綱が嗣子のないままに死亡すると同時ににわかに失脚したときは、世人は驚き、様々な噂が流れたものでした。

 有名なものとしては、彼が、鎌倉時代の北条氏と同様に、次の将軍は京都から宮家を迎えて就任させ、その下で引き続き権力を握ろうと動いたせいだ、という噂があります。以前の日本史では、宮将軍の画策は真実として取り扱っていました。が、最近では単なる噂で、真偽は不明とするのが通説のようです。

 その真偽はともかく、綱吉が、なかなか将軍になれなかったのは事実です。そして、酒井忠清の政敵堀田正俊が、ほとんどクーデター同様の強攻策で、綱吉を将軍に迎えたこともまた、間違いがない事実であるようです。

 綱吉は、第1章で紹介したとおり、家光の次男ですから、兄家綱に嗣子がない以上、理論的にはすんなりと将軍につける立場の人でした。その人が将軍に就くにあたって、こういうもめ事が起きたのでは、世間にとかくの噂が流れるのも、無理のない話です。

 綱吉は、その母が、我が子を名君にしようと英才教育を施した人です。そして実際、幼い頃から、その母の期待に応えて抜群の才能を示していました。

良い君主というものは、自分が多才である必要はなく、有能な人物を手足として持って、それに任せることを知っていることが重要、ということを良く知っていました。

そこで、館林藩主時代には、巷間に溢れている浪人の中から、有能な者を家臣に召し抱えるという政策を積極的に採っていました。

 綱吉が将軍になった後に、館林藩は結局廃藩となって、幕府直轄領に組み込まれます。したがって館林藩の家臣団約500人も、ほぼ全員が幕臣となります。

ある研究によると、そのうち、200人までが浪人出身者であったといいます。その後、29年間続く綱吉政権において、この館林家臣団は常に政権の中核に位置し続けます。新参者が、譜代の家臣より優遇されたのです。

 綱吉時代の初期は、綱吉擁立の功績もあり、またその有能さが綱吉の気に入ったのでしょう、堀田正俊の全盛期です。

正俊は、元々は上州安中で2万石を領していましたが、家綱時代に2度ほど加封されてこの時点で4万石となっていました。

綱吉は、これを下総古河に移封し、一気に倍以上の9万石を与え、翌年にはさらに4万石を与えて計13万石とします。

そして、単なる老中から、酒井忠清同様に大老という身分を与えます。

この綱吉の強い信頼を基礎に、正俊は幕政改革に邁進します。

 ちなみに、堀田家は、家光の乳母として有名な春日の局の縁者として、にわかに台頭した家柄で、館林藩からの転属組ほどではないにしても、やはり新興勢力といえます。

幕政に強い影響力を持つようになっていた門閥勢力を押さえて、将軍自身の力を強化するという観点から見た場合、非常に優れた補助者であったことは明らかです。

 しかし、この堀田正俊が84年に、江戸城内の御座の間(ござのま)で、若年寄稲葉正休(まさやす)によって突然殺され、その下手人の稲葉も、また、直ちに現場にいた他の老中によって討ち果たされるという事件が突発します。

 稲葉家も、堀田家と同様に、春日の局の縁者として台頭した一族で、いわば親戚筋です。その稲葉正休が、なぜ突然正俊を暗殺したのかは不明です。

また、回りにいた老中が、なぜ加害者を取り押さえて取り調べようとせず、直ちに殺してしまったのか、という点もはっきりしていません。

こうした不明朗さから、この暗殺事件は、むしろ稲葉正休が綱吉の意を受けて行った上意討ちではないか、といわれる程です。

 その真偽はともかく、綱吉は、この事件を徹底的に利用します。

この前から、正俊と意見が衝突することの多くなっていた綱吉は、これを機に、老中の力をできるだけ削ぐことに力を入れます。

正俊の遺児も、僻地へ左遷します。

それから以後の幕政は綱吉の絶対的な親政となり、実務面では、綱吉の側用人、特に柳沢吉保を中心に動くことになります。

従来の日本史的な見方だと、綱吉の悪政が行われるようになったとされる時期(俗に元禄時代と呼ばれます)に突入するわけです。

 しかし、私は、綱吉の統治時代は、一貫して綱吉の強力な独裁政治が行われていたのであり、その際の腹心が、天和期にあっては堀田正俊であり、元禄期に入ると柳沢吉保になるに過ぎないと考えています。

少なくとも、財政政策的には、完全に一貫したものが認められるからです。それを、以下では見ていくことにしましょう。

 

2. 綱吉の財政機構整備

 綱吉の推進した幕府機構の整備は、実に多方面に及びますが、以下では、後世にまでも大きな影響を与えた重要なものを紹介します。

(1) 勝手掛老中制度の創設

 綱吉よりも前の幕府では、老中の集団指導体制を採用していました。

集団指導体制というと聞こえがよいのですが、逆に言えば集団無責任体制で、要するに、誰でもどの問題にでも口を挟みますが、責任を追及しようとすると、直接の責任者は誰もいないという体制です。

いまの憲法上の用語で説明すれば、主任の国務大臣というものが存在していなかったのです。

 綱吉は、その老中の中から特定人を選抜して、これを勝手掛老中としました。

勝手掛老中とは、勘定所の主任の国務大臣の意味です。

すなわち幕府財政に関する専任者です。

今日の感覚で言えば、大蔵大臣制度を作り出したということになります。

もっとも、この時点における幕府財政は、完全に米に依存していましたから、その意味では、農林大臣を作り出したと言うこともできるでしょう。

これにより、幕府財政に問題が生じたときには、勝手掛老中は、将軍からその政治責任を追及されることになりますから、安易に他の老中に雷同することなく、勝手掛としての主張を貫くことになります。

 勝手掛老中は綱吉が政権を握った80年に、直ちに創設されました。

その初代は大老堀田正俊の兼担でした。

その後も、老中首座が兼担した例がかなり多く、その権力の裏付け的な機能を果たしました。

その意味からは、老中首座を、同等者中の第一人者という立場から、はっきりと首相として、他の老中より一段高いところから指導力を発揮できる体制を作り出す手段でもあった、ということができるでしょう。

 その後98年には、若年寄の中にも勝手掛が創設されます。

若年寄とは奇妙な名称ですが、幕府創設当時は、老中のことを年寄と呼んでいましたので、これに準ずる地位を意味する名称と理解すればよいでしょう。

江戸城中にあって旗本、諸職人、医師などを管掌し、日常的な小普請、小作事を行う幕府の重職でした。

その中から一人だけが財務担当とされたのです。

(2) 側用人制度の創設

 従来の歴史観ですと、「側用人による政治の壟断」というようなことがいわれます。したがって、側用人制度を創設したこと自体、綱吉の悪政の一つに数えられます。

 しかし、家柄による無能者の政治を排して、能力本位の人事を可能にしたのがこの側用人という令外の官なのです。

今日の能力本位人事を正当とする視点からする限り、当然のことであり、それを封建制度の中で実現したという点で、まことに画期的な施策というべきです。

 それまでの政治体制では、老中や若年寄、奉行などになれるか否かはすべて家格で決まっていました。

しかし、たまたま幕府創世期にその分野で能力を示したからといって、子孫まで必ずそうした能力を持つとは限りません。

したがって、こうした硬直的な人事体制をとっていたのでは、無能な人間により、幕政がゆがめられるようになるのは必然です。

先に紹介したとおり、堀田家や稲葉家のような新興譜代といわれる人々が、幕政で大きな力を持つようになったのも、門閥勢力の無能が大きな原因となっています。

 綱吉ほどに強力な将軍でさえも、従来の老中や若年寄に無位無冠の有能な者を据えるということは不可能でした。

そこで、これらの制度は特に変更しないことにより、門閥勢力の不平を抑えつつ、家柄等に関わりなく有能な人間を登用する手段として、側用人制度を創設した訳です。

 ここで、簡単に江戸城の構造を説明しましょう。

江戸城中は、将軍の私邸というべき「大奥」、公邸というべき「中奥」、そして登城した諸大名が詰めている「表」と呼ばれる三つの部分から成り立っています。

中奥にある将軍の執務室を御座の間といいます。将軍は、大奥に帰らない時は、ここで寝ます。

 堀田正俊の暗殺事件が起きるまで、老中は、この御座の間の一画にある大溜(おおだまり)というところで閣議を開いていました。

ところが、この将軍の執務室兼寝室で暗殺事件が起きたのだから大変です。

 これを絶好の口実として、綱吉は老中の閣議専用の部屋である「御用部屋」を別途、中奥の中に設置し、老中はそちらに詰めることに決めました。

その後は、何か用があるからといって、気楽に御座の間に立ち入ることは、老中といえども許されなくなったのです。

 こうなれば、当然、将軍の意思を老中に伝達し、あるいは老中による閣議の決定事項を将軍に上奏するための連絡係が必要になります。これが側用人です。

 なぜ只の連絡係が強い力を持ちうるかというと、一つの理由は、いつも御側にいますから、随時将軍の諮問に答えて答弁することができるからです。

老中を閉め出した御座の間で、将軍は自分のブレーンだけを集めてミニチュア閣議を開いているわけです。

将軍の力が強い場合には、この非正規の閣議の方が最終決定機関となり、老中の開く閣議は、この決定を後追い承認するだけのものとなるのです。

その意味で、側用人というのは、米国大統領の特別補佐官と同様の役職と考えれば、今日の我々には理解がしやすいでしょう。

 今一つの理由は、閣僚の意見を将軍に取り次ぐという、側用人の設置目的たる権限の行使に当たって、裁量権を持っていたからです。

気に入らない人や、話は、将軍に取り次がない自由があるのです。迅速に話を取り次いでもらいたいと思えば、普段からご機嫌を取っておかなければならないのは当然のことになります。

 こうした側用人の権力は、将軍の権力が強いほど大きなものとなるのは必然です。したがって、側用人政治というものの実体は、将軍中心政治ということになります。

 しかも、側用人は、今までになかった新しい役職ですから、どのような家格の者を据えなければならない、という既存のルールがありません。

将軍は、自由に、その才能を見込んだ者を登用することができる、という点が、将軍独裁体制にとって最大のメリットとなります。

 初代の側用人は、牧野成貞(なりさだ)です。

この人は、綱吉が館林藩主時代の家老であったのですが、幕臣に転じた際に、綱吉はこの地位を創設して任命したのです。

ただ、この人の時代は、堀田正俊の大老時代とダブり、いわば正規の閣議がそのまま正常に機能していた時代ですから、その存在はあまり目立ちません。

 綱吉時代の側用人は全部で13名もいますが、その後も、綱吉時代の側用人は、生え抜きの幕臣ではなく、館林藩士から幕臣に転じたものが登用されます。

従来の幕府慣行に対抗して、独裁体制を築こうとする綱吉としては、気心の知れた側近で身辺を固めたいというのももっともでしょう。

 その中で、もっとも地位家柄の低い所から出発して、もっとも高い地位にまで到達したのが、柳沢吉保(よしやす)です。

 柳沢吉保は、館林藩25万石時代には、160石取りの家臣の子でした。

百石級の家というのは、武士としては決して低い方ではありませんが、上級武士とは間違ってもいえない家格でした。

しかし才能を見込まれて綱吉の小姓をつとめ、小姓番頭まで進み、綱吉が将軍になるともに幕臣となり、1688年に一気に8千石加増されて1万石の大名になると同時に側用人に就任しました。

その後、91年に武州川越7万2千石の藩主となるとともに老中格、97年にさらに2万石の加増があって大老格となりました。

さらに、1701年にそれまで保明(やすあき)という名であったのが、将軍の名の一字をもらって吉保となるとともに、松平姓を賜ります。

 犬公方のエピソードに良く知られているとおり、綱吉は嗣子に恵まれませんでした。

そこで1704年に甲府藩主家宣(いえのぶ)が綱吉の養子となって西の丸入りします。

これと入れ違いに、吉保は、甲府15万石の藩主となります。甲府は、幕府最後の拠点として幕府が従来から重視しており、原則として徳川一門が藩主となる土地でした。

松平姓を名乗って甲府城主になったということは、事実上の一門待遇になったということを意味します。

 このように、才能があればどこまでも昇進し、また、責任ある仕事をするようになるつれて、職務内容に応じた地位に昇格し、給料も上がっていく、ということは、今日の我々の目から見れば、当たり前すぎるほど当たり前のことで、別に不思議なことではありません。

 しかし、職務内容も、俸給も、生まれ落ちた家によって自動的に決まってしまうという人事政策に慣れ親しんできた人々にとっては、この側用人制度というものは非常に衝撃的なものであったことは、想像に難くありません。

このため、江戸時代のインテリの書いた文書は、どうしても「側用人による悪政」という視点から描かれることになります。

 それどころか、明治以降になっても、日本史というものは、旧来の門閥勢力の視点そのままに、側用人の横暴という形で彼らを見ていたものです。

驚いたことに、第2次大戦後になってもこの基調は変わりませんでした。おそらく本稿の読者の皆さんにとっても、高校以下の日本史で学んだのは、そういう側用人観だったのではないでしょうか。

 そういう目で見るものですから、柳沢吉保という人は、従来の日本史の上では非常に悪名の高い人です。

しかし、当時における彼の悪名は、絶対者である綱吉の批判がはばかられるため、その代用品として批判されたという面があり、彼自身が実際に政治を壟断したという批判は、あまり行われていなかったようです。

 新井白石がその自伝「折たく柴の記」の中で、柳沢吉保について次のように書いています。

「天下大小事、彼朝臣が心のままにて、老中はただ彼朝臣が申す事を、外に伝へられしのみにして、御目見などといふ事も、僅に一月がほどに、五、七度にも過ず。」

 要するに、老中は名のみの存在で、老中が綱吉に会えるのは月にせいぜい5〜7回程度に過ぎず、実際には柳沢吉保が伝える上意を他に伝達するだけが仕事になってしまっている、というわけです。

従来の日本史学者は、この文章を、白石が、柳沢吉保による悪政を批判したものと読んでいます。

しかし、次章で紹介するように、正徳の治において間部詮房とくんで同じようなことをやっている白石が、吉保が老中と将軍の間のスクリーンになっていること自体を批判するはずはありません。

したがって、吉保によって伝えられる綱吉の政治を批判した文章と読むのが正しいと考えます。

 このように、有能であるにもかかわらず、吉保は円満な人柄だったようで、そのため、綱吉の死後も特に弾圧されることもなく、その子孫は大和郡山15万石で幕末まで栄えていくことになります。

 ただ賄賂に関する廉潔性だけはあまりなかった人のようです。

彼と賄賂にまつわる話は枚挙にいとまがないほどにあります。

何よりも、今も残る東京駒込の六義園を見ますと、単に藩財政の豊かさでは説明できないほどの、彼の財力がしのばれるのです。

 しかし、これも、彼が特に腐敗していたことを意味するものではありません。

江戸初期の老中達も、彼同様に、盛んに賄賂を収受していました。

ある老中が、硬骨漢からそれを非難されたのに対して、これは大名の財政力を低下させるのに役立つから受け取っているのだ、と反論したという有名な話があります。

それなのに、吉保にだけ賄賂の話がたくさん残っているのは、単に彼のような成り上がり者に対する当時の嫌悪感が示されていると考えればよいでしょう。

(3) 勘定所の充実と吟味役の設置

 A 勘定所の機構整備

 綱吉は、財政活動の中心となる勘定所についての整備を積極的に進めます。

 その組織のトップの役職名が、それまでの「勘定頭」という名称から、その時点は不明ですが、この綱吉の治世のいつか、比較的初期の段階で、「勘定奉行」に改称されます。

それ以降、寺社奉行、江戸町奉行と並ぶ三奉行としての地位が確立して行くわけです。

 もっとも、三奉行の中ではもっとも格が下とされます。

江戸時代の身分制は、士農工商とされて、建前的には農民が上で、工商業者が下とされています。

しかし、実際には商人や職人の方が農民よりも大事にされていたことが、この、町民担当の町奉行の方が、農民担当の勘定奉行より上席という制度の中にうかがえます。

これは幕府だけでなく、ほとんどの藩に共通する特徴でした。

 1685年に、勘定の中に、評定所留役を担当する者が設けられます。

評定所は、幕府の最高裁判所というべき機関で、留役は、今でいう裁判所書記官に相当します。

民事訴訟の評定所への上告件数が増加してきたために、実務に通じている者が必要になったので、それを勘定所から出向させることになったのです。

この後、評定所における実質審理は、この勘定所から出向している留役が担うことになります。

その意味では、今日の最高裁判所調査官に類似している制度と説明する方が、正しいのかもしれません。

 さらに、1690年に、勘定所の主戦力である勘定が、それまでの12名から、20名へと大幅に増員になり、その翌年、改めて詳細に事務分掌が定められます。

 B 勘定吟味役制度の創設

 綱吉による財政面での機構整備で、最も重要なものは、1682年に「勘定吟味役」を創設したことでしょう。

 勘定吟味役の事実上の創設は、二代将軍秀忠の時代だという説を立てている者もいます。

確かに、綱吉以前にも、勘定頭副役(そえやく)等の名称で、このような業務を行っているものがいたことは間違いありません。

しかし、それらについては職務内容が必ずしもはっきりせず、また、常設の官職であったかどうかもはっきりしません。

 勘定吟味役は、綱吉によって最初に設置されたときは、勘定頭差添(さしぞえ)役という名称でした(勘定副奉行とする記録もあります)。

それまで勘定組頭だった佐野正因及び國領重次の二人が起用されています。

 綱吉の時代に入っても、勘定奉行は、当初は家柄により選ばれていました。

そのため、勘定方としての実務経験は皆無の者が就任していました。

今日の国務大臣と、その点では同じです。

どこの省庁でも、その結果、事務次官がかなりの程度、実質的な最高責任者として動いています。

差添役とか副奉行という名称からすると、このポジションが設置された意図も、この、今日の事務次官と同じで、勘定奉行に対する監査機関というよりも、実務者の最高責任者として、置かれたのではないかと、私は考えています。

つまり、側用人と同様に、従来制度の枠組みを変更しないままに、有能者を起用する手段というわけです。

 しかし、そのような無能な勘定奉行ではとうてい綱吉の厳しい期待に応えられません。

その結果、堪忍袋の緒を切らした綱吉は、1687年に、時の勘定奉行千石正勝に逼塞を命じると、その後任に佐野正周を起用します。

彼はそれまでは勘定組頭の地位にいた人物です。これが、幕府史上最初の、勘定方出身の勘定奉行です。

そして、その勘定頭差添役には、後に勘定奉行として辣腕を振るう荻原重秀が就任します。

 こうして、勘定奉行が実務出身者がなったことが、勘定頭差添役制度を変質させていったのではないかと考えます。

とにかく、このころから、勘定頭差添役が本格的に会計検査機関として機能するようになったのは間違いありません。

このように、機能が変化したことが、これが吟味役と改称された理由であろうと、私は想像しています。

 勘定吟味役は、差添役を踏襲して、職制上は勘定奉行の次席とされます。

が、実際には、勘定奉行を経由せずに直接老中に会計検査報告を提出するという権限を保障されているので、むしろ独立した会計検査機関と考える方が妥当です。

すなわち、幕府における最高財政監督機関です。

どうも荻原重秀は、この吟味役としての権能をフルに活用して、勘定方として始めて勘定奉行の地位に昇った佐野正周を失脚させたようです。

 ただ、この段階では、会計検査院の設置とまでは言えません。

勘定吟味役は、独任制の機関で、部下を持たないからです。

今日でいえば、地方自治体の監査委員が知事部局の職員を補助者に使用して知事部局の会計検査を実施しているのと同様に、勘定奉行配下の職員を補助者として使用して、勘定奉行の検査を実施していたわけです。

 その検査権限は、今日の会計検査院のように事後検査に限定されず、事前ないし同時検査も可能という広汎かつ強力なものです。

たとえば、国庫金の支出は、決裁書に勘定吟味役の連署がない限り、老中の命令でも不可能です。

こうした強力な会計検査権限は、現代においても、たとえば欧州のルクセンブルクでみられます。

小国の場合には、相当合理性のある制度といえます。

当時としては、世界的にみても最高水準の財政監督制度でした。

 もっとも、このような強力な権限のすべてを、綱吉時代の勘定吟味役が有していたかどうかは、よく判りません。

勘定吟味役制度は、この後1699年に、時の勘定奉行荻原重秀が廃止に追い込みます。

多分、後輩の優秀な奴に、自分が失脚させられてはかなわない、と考えたのでしょう。

 この制度を、新井白石が、1712年に、まさに荻原重秀を失脚させるための道具として復活させます。

それ以後は、幕末まで連続して続き、今日の会計検査院へと発展していくことになります。

 したがって、これらの権限のかなりの部分は、白石の改革以降の新制度という可能性もあります。

勘定吟味役という名称自体、綱吉時代に既に使われていたのかどうかはよく判りません。

白石が再設置したときに、この名称だったことは確かですから、もしかすると、白石が作り出したものかもしれません。

(4) 能力本位の官僚制

 綱吉は、上述のとおり、老中、若年寄という大名級の役職については、側用人や勝手掛という制度の導入によってその力を削ぐ方針をとりました。

これに対して、旗本以下の幕臣の就く地位については、門閥勢力からの抵抗が少なかったためと思われますが、遠慮会釈無く、能力本位主義を導入します。

 その中心は勘定所です。

勘定奉行は、三奉行の中では一番格が低いとされていました。それだけに改革もやりやすく、また、なんといっても財政面を一手に掌握していますから、幕府財政に対するインパクトも大きいです。

そこで、ここについては、完全に能力本位主義を採用します。

 直轄領からの年貢米収入は、何といっても封建体制下における幕府の最大の財政基盤なので、代官が年貢を未進したり滞納したりしないように、また、直接民政を担当するものとして、非違、不正を働かないように、という観点からの監督は、幕府当初からかなり厳しく行われていたことは、先に紹介したとおりです。

その結果、綱吉が登場する以前の約80年間に、切腹2名を含めて、処罰を受けた代官は22名でした。

 綱吉は、将軍就任前から幕府直轄領の管理状況については危機感を持っていたらしく、将軍についた直後の80年に第一回の地方査察を、また、87年に第二回の地方査察を、それぞれ、勘定所に命じて実施させます。

 この結果、関東郡代として隠然たる勢力を誇っていた伊奈忠利が、職務怠慢という漠然たる理由で、80年に改易となります。

これが、綱吉により処罰を受ける代官の第1号です。処罰に聖域なし、という象徴のような処分だったのでしょう。

 これを皮切りに、それまでとは比べものにならないほどに激しい代官粛清の嵐が吹き荒れます。綱吉治世下の29年間に、職務怠慢、公金浮き貸し、行状不良、収賄、年貢滞納等の理由で、改易、流罪、追放、死罪等の処罰を受けた代官は、なんと51名に達っしているのです(うち、切腹5名、斬罪1名)。

このうち11名は、本人の責任ではなく、その父祖の代における非違等で処罰されています。

代官の総数は、幕府直轄領の増減や統廃合に応じて絶えず変動するので確定的なことは言えませんが、この当時の代官は全国で60名程度であったと推定されています。

したがって、よほど厳しく自分の行動を律していた例外的な人物以外は、すべて処罰されたと見た方が良いでしょう。

処罰理由別に見ると、30名までが本人又は父祖の代における年貢滞納です。

財政再建策の一環として実施されたことがよく判ります。

 少し脱線すると、水戸光圀が隠居して黄門と呼ばれるようになるのは90年のことで、この綱吉による代官粛正の、特に第2期のものとちょうど時期的に重なります。

黄門は、生類憐れみの令に逆らって隠居させられたものですから、庶民に人気がありましたが、水戸藩から外へ出かけたことはまず無かったといわれます。

このことから考えますと、いわゆる水戸黄門漫遊記に述べられた代官の非違・不正の取り締まり活動は、実は勘定所による地方査察という形で実施されていたものを、庶民に人気のあった水戸黄門に託して描いたと言えるかもしれません。閑話休題。

 さらに、処罰を受けたのではありませんが、代官から外されて小普請入りをした者が何名かいます。

これについては悉皆的なデータがないので、正確な数字が判りません。

こうした要素を加えると、前代まで世襲してきた代官のほとんどが、綱吉時代の間に罷免されたと考えても、間違いないでしょう。

 綱吉は、こうして罷免された世襲代官の後任代官については、原則として中央から派遣するという方針を打ち出します。

以後、官僚たちは、任地から任地へと転勤しながら、その功績に応じて昇級、昇格していくことになります。

今日のわが国における、上級官僚が本省採用されて全国配転する一方、中級以下の官僚が地方採用されて、その地域にとどまるという慣行は、あまり他の国に見られないものですが、もしかすると、この綱吉の改革に端を発するものなのかもしれません。

 荻原重秀は、そうしたこの新人事に伴う抜擢組のエースともいうべき存在です。

荻原家は、もともとは100石程度の石高で二条城詰めをしていた家柄でした。

が、重秀は長男ではないので、家は、その兄が継いでいます。だからふつうなら部屋住みと呼ばれ、どこかに養子にでも行かない限り、一生兄のすねをかじって暮らす身分でした。

しかし、幸運にも、1674年に分家を立てることが認められ、幕府に召し出されて勘定方につき、その末席に位置することになります。

 さらに幸運なことに、その後に綱吉の勘定所改革が始まったため、彼は、その政策にしたがい、各地を転々とします。

その間、畿内における検地奉行としての功績や上州沼田の真田氏の廃絶に伴う領地受け取りなど、様々な場面で能力を発揮してその都度、昇格、昇級してします。

最終的に、96年に、柳沢吉保に登用されて、とうとう勘定奉行にまで上り詰めます。

その後は、その有能さを買われて、次の家宣時代にまでまたがって、30年間も、幕府財政を一手に掌握し続けることになります。

 荻原重秀の生涯の不運は、家宣時代の重鎮であった新井白石という優れた人物に、なぜかひどく嫌われたことです。

このため、30年間勤め上げた地位から追われ、その翌年に憤死とも暗殺ともいわれる謎の死を遂げることになるという悲運に合います。

そればかりか、今日に至るまで、悪名を残すことになってしまったのです。

 私は、白石のファンですし、なにより重秀が、勘定奉行として活動するのに邪魔だとばかり、せっかく創設された勘定吟味役を廃止に追い込んだ、という点が、元会計検査院職員として許せない、と思っていますから、重秀悪玉説に基本的には賛成です。

が、彼がきわめて有能な在世移管であったことは否定できない事実です。

特に、荻原重秀の仕事で一番悪名高い貨幣の改鋳については、元禄時点における評価としては、白石の非難の方が間違っており、重秀が正しいと考えています。これについては、後に詳述しましょう。

(5) 役料

 江戸幕府の当初の制度では、何かの役についてもつかなくても、幕府からは特別の支給はありません。

したがって、役職に就いたことにより特別の支出が必要になっても、それは、基本給たる知行や俸禄でやりくりしなければなりません。

このため、非常に苦しむ者が増えたので、1665年に、役職に応じてある程度の手当が出るようになりました。これが役料です。

今日でいうなら、管理職手当に相当するものと考えればよいでしょう。

 綱吉は、1682年にこれをいったん廃止します。

役職が世襲的に決まっている状況下では、それぞれの家の禄高はその仕事に応じて決まっているはずだから、このような経費の支給は不要である、と考えたのでしょう。

あるいはもっと露骨に、ろくに仕事もできない連中が、その職を温めて幕府財政を窮地に追い込んでいるのが許せなかったのかもしれません。

彼らを財政的に窮地に追い込むことにより、職を辞するように圧力をかけたと見るのがよいのかもしれません。

 理由はともあれ、上述のように、能力本位に低い身分のものを抜擢する、という政策を導入したものですから、とても基本給だけでは、その仕事に応じた支出を賄うことができない、という明確な理由のある者が現れてきます。そこで、1689年にこれを復活します。

 そして、1692年には法制を整備して、役職ごとに基準石高を定め、俸禄高が不足する場合には、一定額を補填するという制度を導入しました。

後で見るように、綱吉は、無能な人物には徹底的に弾圧するのですが、有能な人物に対しては、優遇することも忘れない人だったのです。

 

3. 幕府収入の増加策と支出の減少策

 

 綱吉は、幕府の権威を確固たるものとするための絶対の前提として、幕府の財政基盤を確立するために様々なことを実施しました。

たとえば、家康が関ヶ原の合戦や大阪の陣の時に、軍資金として諸大名に貸し付けた金の返還要求などもしました。

一世紀近くも前の貸し金なのですから、今日であれば時効ではないか、と抗弁したくなる話です。

また、江戸初期には近畿地方でだけ徴収していた運河通行の船からの租税徴収を、関東地方でも行うという細かい税収確保策も行っています。

 しかし、もっとも基本的には、全国の大名を徹底的に搾り上げるという手段によって、綱吉は幕府財政の確立を図ります。

その具体的な姿を以下に見てみましょう。

(1) 大名・旗本の改易・減封

 封建国家における歳入の増大策としては、支配農地の拡大策を取るのが一番確実な方法です。

そこで、幕府直轄領をできるだけ拡大する方針を、綱吉はその治世を通じて貫きます。

その具体的な手段は、彼のような強力な将軍以外には絶対に不可能なほどの強引なものでした。

 すなわち、激しい粛清の嵐が吹き荒れたのは、決して代官だけではありません。

大名にもまた改易や減封の嵐が吹き荒れることになります。

綱吉時代に改易・減封の処分を受けた大名は、実に46家で、関ヶ原の合戦の後の大量処分を別格とすれば、一代での処分件数としては、家康や秀忠を抜いて、歴代第1位の記録です。

当時の大名家は全部で二百数十家ですから、5〜6家に1家の割で、綱吉に処分された計算です。

 ちなみに、吉宗は、かなり強力な将軍であった、と一般に思われています。

しかし、その吉宗でさえも、綱吉とほぼ同じ将軍在位期間中における処分件数は、わずか12家に過ぎません。

 しかも、綱吉による処分の内訳を見ますと、秀忠や家光の時代で改易理由のエースだった後継者の不存在は、わずか5件に過ぎません。

その外に、当主が刃傷事件を起こしたための改易が赤穂藩主浅野長矩など3家あります。

おそらくこの8家は、外の時代でも改易等の処分は免れないでしょう。

 しかし、残り38家は、将軍が綱吉でなかったら、まず処罰されるには至らなかったような、軽微な理由から処分されているのです。

 代表的なものをあげると、お家騒動が起きたりしたために、藩政不良といわれて処分されたり、その宗家に連座して処分されたのが、徳川一門の越後松平家を筆頭に13家もあって、一番多い処罰理由です。

特に越後松平家を改易にした越後騒動は、綱吉が、直々に裁判を行ったということで、非常に有名になったものです。

先に代官粛正のトップに関東郡代に対する処罰を行ったことを紹介しましたが、越後松平家に対する処罰も、大名処罰に聖域なし、という象徴として、一連の処罰の冒頭に実施されたのです。

 次に多い処罰理由が、当主が幕府の役職に就いていて、あるいは就くのを拒んで、綱吉の不興を被ったという、文字どおり綱吉の気分によって処分されたというもので、10家あります。

その中には老中板倉重種や側用人喜多見重政までが含まれています。

これも、彼の将軍集権という政治姿勢を端的に示すものでしょう。

 驚いたことに、当主の発狂という理由が何と9家もあります。

精神医学が発達していなかった当時において、発狂というのがどのような状態を意味しているのかは判りません。

仮に当主が今日的な意味でのれっきとした精神病者であったとしても、正常な後継者がいる限り、代替わりをさせれば済むことであって、処分理由になるとは、とても思われません。

やはり単なる難癖程度のものも多かったのではないかと思われます。

 秀忠、家光時代の大名処分が、外様大名を中心に行われたものであるのに対して、綱吉時代の処分は、譜代29家、外様17家となっていて、圧倒的に譜代に厳しいものになっている点にも、大きな特徴があります。

「狡兎死して走狗煮らる」ということわざがありますが、幕府も安定期を迎えたことにより、外様の危険よりも、体制内部にあって直接将軍の権威と競合する門閥勢力の方が問題となる時代となっていたのです。

そして、その問題に真っ向から取り組んだのが綱吉だったといえます。

 同様の問題は、幕府の官僚機構を直接構成している旗本についても存在しています。

そこで、綱吉時代は、旗本に対して処分の嵐が吹き荒れた時代でもあります。

綱吉によって処罰された旗本は、100家以上に上るといいます。

もっとも絶対数は大名に比べると倍ですが、旗本は全部で5000家以上もありますから、率だけから見る限りでは、嵐というほどのものではなかったかもしれません。

(2) 元禄検地

 こうした改易や減封によって没収された石高は、総計で161万石に上ります。

日本の耕地は、この当時、全部で2450万石と推定されますから、7%弱の土地が、没収になったことになります。

 家康以降四代将軍までの時期には、どこの大名でも積極的に新田開発を行っていました。

ちなみに太閤検地の際には、日本の総石高は1845万石余と算定されました。

したがって、その時から、綱吉の時代までの間に、わが国耕地の生産力は全体で3割強も増加したことになります。

 改易ないし減封によって没収された土地は、いったん幕府直轄領とされました。

これに対して、綱吉は必ず検地を行わせました。

検地というのは、非常に手間暇のかかるものですが、その実施は、近隣の大名に命じていますから、幕府の懐は痛まない、という仕掛けです。

 検地を行うと、その大名が領国経営にまじめに努力していればいるほど、その土地の名目上の石高(表高=おもてだか)に比べて、かなりその石高が増加します。

これを打ち出しと称します。新田開発はやり易いところとやり難いところとがあります。

おそらく、綱吉は、打ち出しの大きそうなところを狙って、集中的に改易や減封をしたに違いありません。

 仮に、10万石の藩が改易になったので、ここを検地した結果、打ち出しが5万石あったとします。

そこで、この領地は15万石に相当すると判定されると、綱吉は、これを5万石分の領地と10万石分の領地に分割し、5万石分は、そのまま幕府直轄領にします。

10万石分の方には、他から別の、表高が10万石の大名を移封します。

そこで空いた領地については、これをまた幕府直轄領に編入した上で、検地を行います。

 こういう手順を繰り返していくので、全国的に大名の移封の嵐が吹き荒れることになります。

そして、その大名の長年にわたる汗の結晶は、その都度、合法的に幕府の直轄領へと化けていくわけです。

 杉本苑子に「引っ越し大名の笑い」というユーモア味あふれる好短編があります。

54年の生涯の間に、何と7回も移封させられた松平直矩という殿様を主人公とした作品ですが、この記録的な移封のうち最後の3回までは、直矩の晩年の10年強の間に立て続けにさせられています。

すべて綱吉時代です。

 こうして全国的に改易と移封を繰り返すことで、幕府は、この時期、全国的な検地を実現します。

検地を実施すること自体が、中央権力の力の程を示していることは、太閤検地で良く知られるとおりです。

綱吉は、元禄検地を実施することで、その権力の大きさを全国の大名に見せつけるとともに、その過程で直轄領を大幅に成長させることになります。

1687年がその頂点で、幕府直轄領は、その年、434万石に達します。

その一方で、諸藩の財政は、この時期以降、急速に悪化していくことになります。

(3) 元禄地方直し

 こうして大量の直轄領を手に入れた結果、第一段の財政改革である歳入増加策は、これでほぼ完成です。

1687年の末から翌年の春にかけて、幕府は大名預所であった蔵入地のほとんどを引き上げて代官支配に編成替えし、幕府の自由に運用できるような状態にします。

 そこで、この広大な直轄領を原資に、綱吉は、第二段の財政改革として、歳出の節減策を積極的に導入するのです。

 このころの政府は、小さな政府ですから、歳出の多くは人件費でしめられています。

したがって、歳出削減の手段は、人件費の削減です。

先に旗本に対する粛清の嵐が吹き荒れたといいました。

それ自体が、人件費削減効果を持っていました。

しかし、1687年以降に綱吉の導入した削減策は、旗本のうちの、高給取りのすべてを狙い撃ちにしたものです。

 すなわち、この87年、幕府は元禄地方直しと呼ばれる法令を発しました。

500石取り以上の旗本には、全員に知行地を与えるという内容です。

この時に、500石取り以上の旗本がどの程度いたか、正確なところは判りません。

が、1722年の調査によれば、全旗本の約40%がこれに相当します。

この当時も似たようなものと考えられます。

 この当時、旗本の俸給の支給方法には3通りありました。

すなわち、全額を知行地の形で与えられている者、知行地と蔵米の2本立てとなっている者及び全額を蔵米で与えられている者です。

 この法令では、全額蔵米取りはもちろん、知行地と蔵米取りの2本立ての者も、その合計が500石以上に該当している場合には、すべて知行地に一本化するということになりました。

具体的な知行地ができ、支配できる農地や農民が与えられるということは、一見旗本にとり、有利に見えます。

しかし、実はこれは旗本にとり、大幅な支出増を意味します。

 蔵米は、幕府の派遣する代官が支配している土地から収納の上、輸送費用を幕府が負担した上で、浅草の米蔵まで運んできます。

その途中での損耗も幕府の負担です。

その点、知行地は、そこでの行政は旗本の責任であり、年貢の徴収、輸送、売却も、当然旗本の負担で行われます。

したがって、蔵米を知行地に変換することで、幕府としてはかなりの経費が節減できることになります。

 元々全額を知行地という形で与えられていた旗本も、嵐の外にいたわけではありません。

大名の転封に当たる知行替えをほぼ全員が受けています。

その後は検地が行われ、その中から広大な山林や多額の運上金が期待できる地域は、すべて幕府直轄領に編入されることになります。

この時期以降、旗本の財政もまた、急速に悪化することになります。

 こうして、綱吉の治世の終わる頃には、旗本の知行地が増えた分だけ幕府直轄領は減って、合計401万石に落ち込んでいますが、減少分については蔵米の支給が不要になることで十分に補いがつき、さらに、良質の土地に組み替えが進んでいるという結果が生ずるのです。

この時点における旗本領の総計がどのくらいかはよく判りませんが、新井白石は、合計260万石と推定しています。

その他勘定所の支配に服さない遠国奉行支配下の領地等を含めますと、幕府の支配地は680万石〜700万石くらいと白石は計算しています。

 先に述べたとおり、この時代の日本全体の石高は2450万石と推定されますから、幕府領は全体の3割近くに達したことになります。

(4) 小普請金

 蔵米取りの旗本や御家人は、この嵐の外にいたかというと、とんでもありません。

現に幕府の役職について働いている者をいびると、職場の志気が低下しますから、そんなことはしませんが、無役の者は、当然に綱吉による弾圧・搾取の対象となります。

 幕府の旗本や御家人のうち、老幼、病弱などの理由から無役の者を小普請といいます。

なお、同じ無役でも、石高が3000石以上か、身分が布衣(ほい)以上のものは「寄合」と呼ばれます。

 小普請を無役というのは、厳密にいうと正しくありません。

小普請とは、小規模な普請、すなわち建物などがちょっと壊れたりしたときの修理作業などを意味します。

したがって、本来ならば、そうした作業に小普請組の人々は従事すべきなのです。

そこで、綱吉以前には、実際に小普請組から作業員を提供させて修理作業を実施していたのです。

しかし、戦国時代の武士と違って、この頃になると、武士は、建築作業に自ら本格的に携わった経験などは持っていません。

したがって、城の修理に駆り出しても、素人の日曜大工程度の技術では余り役に立ちません。

そこで、家綱時代の1675年に、既に、作業員提供に換えて金で納めることもできるという制度が導入されていました。

 綱吉は、これをさらに徹底し、最初から金納を命じることにしたのです。

それも、修理作業の有無に関わらず、小普請組から、毎年一律に、その石高に応じてスライドする方式で小普請金を取り立てる、ということにしたのです。

1689年に触れを出し、翌年から実施としました。

 対象となるのは、禄米が21俵以上のものといいますから、かなりの軽輩まで皆対象になったわけです。正確には、

 21俵〜50俵の者は金2分、

 51俵〜100俵の者は金1両、

 101俵〜500俵の者は100俵につき金1両2分、

 501俵以上の者は100俵につき金2両

を毎年徴収する、というものです。

ちゃんと累進課税になっているところが、今日の所得税を思わせて、すばらしいではありませんか。

 この新制度により、綱吉の時代にどのくらいの歳入が生じたのかは資料がなく、判りません。

が、1714年及び15年、すなわち新井白石が事実上政権を担当していた最後の2年間についていうと、小普請組が5組3184人おり、これからの徴収金が、金3万4190両及び銀8貫386匁6分あったということです。

小判に換算すると、1年当たり、1万7千両程ですから、馬鹿にならない額です。

 つまり、小普請入りを命じられると、役料が入らなくなるだけでなく、本俸である家禄までが減ってしまうわけで、経済的な打撃は非常に大きなものとなります。

このため、小普請入りが、単に役職を免ずる以上の、処罰としての機能を、この時代以降においては、持つことになりました。

 ついでに紹介しておくと、吉宗の時代になると、寄合からも寄合金と称して、100俵について2両の割合で徴収するようになります。

幕臣の数そのものも、この後、家宣や吉宗が将軍になる際にもかなりの増加を示しますから、小普請入りも増加するため、1841年になると、これによる歳入額は、年間2万7千両にまで達します。

 

4. 元禄期の幕府財政

 

(1) 幕府の財政状況

 綱吉が将軍に就任した時点での幕府の財政がどの程度にひどい状況だったかは、正確には判りません。

しかし、1650年代に、すでに「公儀の御使用入るを計りて出るを校れば、早、出る方多く成て御蔵の金を毎年一、二万両程づつ足す也」という話があったということが、荻生徂徠の著にあります。

すなわち、毎年度の経常赤字が1〜2万両だったというのです。

したがって、綱吉政権が発足した時点では、既に数十万両の累積赤字が発生していたことは確実です。

 であればこそ、綱吉は、これまで紹介してきたように、大幅な財政改革に邁進したのでしょう。

 しかし、逆に言えば、この時期には封建制の矛盾がまだあまり大きくなっていませんでしたから、綱吉のように抜本的に統治機構を整備し、歳入増、歳出減の荒療治を上述のように果敢に実施すれば、この程度の赤字財政を建て直すのは容易だったと思われます。

 実際、ある研究によると、元禄地方直しを断行する前年の86年の頃は、歳入116万両、歳出88万両と推定されていますから、年間30万両近い黒字がでるという、まことに健全な状態に変化していたようです。

 そうした豊かな資金力を背景にして、綱吉は積極的に文治主義を推進します。

その一環として、朝廷に対する尊崇の姿勢を見せることが行われるようになります。

朝廷の権威を高めることにより、将軍そのものの権威を高めるという手法です。

 朝廷では、財政難から221年間も実施することができなかった大嘗祭を1687年に挙行しますが、もちろん幕府からの資金提供があったからこそできたことです。

そればかりか、荒廃した御陵の修復なども積極的にするようになります。

 家光の乳母というだけの資格で、春日局が天皇に拝謁を強要していた時代から比べると、大変な変化といえます。

ただ、こうした朝廷に対する尊崇の姿勢は、先に述べた功利的な理由の外に、幼い頃の英才教育の結果、尊皇思想に綱吉が染まってしまったという点も度外視できないでしょう。

 儀礼というものをうるさく言うようになると、その性質上、時がたつにつれて、だんだんと細かなものとなっていきます。

浅野長矩の吉良義央に対する刃傷事件も、勅使下向の際に、幕府が、細部にまで過度に神経を使いすぎたことから起きたことは、皆さんもご存じの通りです。

 こうした、儀礼を確保するための経費というものは、細かな部分にまで儀礼が確立されればされるほど多くが必要になります。

したがって、時が経過するにつれて、仕掛け人の綱吉本人にもコントロールできないままに、幕府負担分も急速に膨れ上がっていきます。

 また、生類憐れみの令に代表される宗教に対する傾倒から、寺社の造営などに膨大な費用が必要となってきます。

ある研究によると、綱吉時代になされた寺社の造営・修復は、実に106件に及び、そのための費用は総計70万両にも達するのではないか、と推定されています。

 さらに、館林藩から幕府に編入された500名もの家臣団による人件費の増加も、幕府財政を悪化させる上で、かなり影響があったようです。

もちろん、家臣団に対する家禄が、館林藩時代のままに据え置かれていれば問題は起こりません。

しかし、柳沢吉保の15万石を筆頭に、何れも大幅に増俸になっているのですから、かなりの悪影響を発生させるのは当然といえます。

 こうして、94年頃には、年貢徴収量は403万俵に達して、幕府歳入史上最高の記録となっているにもかかわらず、歳入総額は、116万両と86年当時と変わっていません(おそらく市場に大量の米が流れ込んだために、米価が下落したせいでしょう)。

他方、歳出は127万両に達するものと推定されていて、その僅か数年前とは一変して、年間10万両以上の赤字財政時代に突入していました。

 こうした窮状に対して、綱吉からエースとして起用されたのが柳沢吉保で、そのため94年に、側用人でありながら、初めて老中格に昇格します。

そして、この吉保によって抜擢されて、幕府財政を任されたのが荻原重秀です。

彼は既に、勘定吟味役としてその辣腕を振るっていましたが、96年には、いよいよ勘定奉行に就任します。

(2) 荻原重秀の財政対策

 A 貨幣の改鋳

 荻原重秀の採用した基本的な対策は、従来の通貨を回収して貨幣を改鋳することです。

これは基本発想そのものはきわめて単純です。

この時はすべての金貨について改鋳していますが、それまでの基本通貨である小判を例に説明しましょう。

 慶長小判は純度84.29%であったものを、改鋳して、重量は同一の4.76匁ですが、金の純度を57.37%に落としました。

こうすると金貨の場合、従来の通貨を回収すれば、47%、すなわち約5割も発行数量が増えます。

だから、経費を無視して考えれば、この発行数量の差だけがそのまま幕府財政の歳入に化けるという話なのです。

 1695年から1710年までの10年間で、改鋳した金貨の発行量は1393万両あまりといいますから、差益金も莫大なものです。

もちろん、実際には改鋳のための経費が必要ですが、これは1%に過ぎず、大勢に影響ありません。

また、慶長小判は、長年の間にすり減ってかなり量目が不足するものが増えていた、といいますから、そうした減少分は考える必要がありますが、それもまた意外と少なかったようです。

新井白石の調査したところによると、差益金は、441万2228両だといいますから、上記の割合で単純計算した結果とほとんど変わりません。

 同時に銀貨もすべて改鋳しています。

慶長銀は純度80%であったものを64%に落としました。

したがって25%発行数量が増えます。

こちらの方は、1695年から1706年までの間に40万貫を改鋳していますから、幕府収入を単純に計算すると計8万貫あまりとなりますが、実際にはこれから金貨への混ぜものにいくらかが回されます。

 只、この最初の改鋳では、金貨に比べて、銀貨の純度の引き下げが小さかったため、金貨に対する銀貨の、民間における実勢交換レートが悪くなりました。

それを是正するために、1706年には、銀貨の純度をさらに50%に下げて改鋳をやり直しています。

これにより純度の引き下げ幅は銀貨も金貨とほぼ同様になり、実勢レートも、ほぼ公定レート並に回復しました。

もちろん、こうした純度の引き下げにより、その後はさらに歳入量も増加したはずです。

 その額を、これまた、白石の調査に基づいて紹介すると、6万9918貫225匁となります。

この時点では、金1両が銀50匁に相当するというのが幕府の公定レートですから、これにより金貨に換算すると139万8365両余の収入となります。

もっとも、この改鋳後間もなく、幕府は公定レートを1両60匁に改訂します。

このレートを使用して換算するなら、116万5303両余ということになります。

 したがって、金貨銀貨を合わせた収入総額は、少ない方の額で計算しても557万7532両ほどとなります。

改鋳期間中、平均してこの額が流れ込んだとすれば、単年度当たり改鋳による歳入額は40万両を軽く越えることになります。

幕府財政が、これで立派に立て直されたことは、おわかりいただけるでしょう。

 問題は通貨供給量の増加が、日本経済に与えた影響です。

基本的に、通貨改鋳以前の我が国は、通貨供給量が過小のデフレ状態にあったと考えられます。

その理由は、日本全体の経済規模の拡大に加えて、海外貿易による通貨の流出にあります。特に後者の影響が深刻です。

 この次の時代の幕府財政を担う新井白石が、非常に興味ある計算を行っています。

白石は、その天才的な頭脳で、貿易収支の不均衡に伴う通貨の不足を計算したのです。

 貿易が、長崎という小さな窓だけを通して行われていたことから、我々は、その量も少ないように錯覚します。

しかし、実際には、わが国の年度当たりの貿易量は、鎖国以前よりも、鎖国後の方が大きいのです。

つまり、鎖国とは、単に貿易管理の手段であって、貿易の禁止措置を意味するものではなかったのです。

 このことを踏まえて、日本史学者大石慎三郎は

「”鎖国”とは一度取り込まれた世界史のしがらみから、日本が離脱することではなく、圧倒的な西欧諸国との軍事力(文明力)落差のもとで、日本が主体的に世界と接触するための手段であった。つまり”鎖国”とは鎖国という方法手段によるわが国の世界への”開国”であった」

と論じています。

 鎖国とは鎖国という名の開国だ、という逆説が正しいかどうかは、本稿では問題ではありません。

大事なのは、そう言いたくなるほどに活発に行われた貿易が、完全な片貿易だったという点です。

すなわち、この当時の貿易とは、海外からの物資の輸入に対して代金を支払うばかりで、わが国からの輸出品はまったくなかったのです。

このため、貿易が盛んになればなるほど、わが国通貨が激しく海外に流出していったのです。

マルコ・ポーロの、黄金の国ジパングという伝説は、この当時、紛れもない真実だったのです。

 大久保長安の活躍により、全国の山から金がわき出していた時代は、このようにむちゃくちゃな貿易でも問題は起こりませんでした。

しかし、各地の金山が枯渇するに連れて、問題は深刻になっていきます。

実は、その当時は誰も気が付いていませんでしたが、家綱期における経常赤字も、この通貨の流出によって引き起こされていたのです。

 新井白石が使用することができた貿易統計が整備されたのは1648年以降だったらしく、それから1708年までの60年間を対象として、白石は、貿易収支を計算しています。

それによると、この間に、金貨が239万7600両、銀貨が37万4229貫、それぞれ海外に流出しています。

この数値から、江戸幕府の始まりからこのときまで107年間の通貨流出量を推定すると、我が国金貨の4分の1、銀貨の4分の3が流出してしまった計算になると、白石はいいます。

今日の学者の研究でも、この白石の計算はだいたいにおいて正しいようです。

 これほど通貨が流出してしまっては、たとえ経済が停滞していても、国内流通量が減少して、デフレが発生してくるのは必然でしょう。

しかも、一方で、江戸幕府創設以来の新田開発その他による国内経済規模の成長と、通貨経済の浸透という要素を加味すれば、この当時、かなり深刻なデフレであったことは間違いありません。

 重秀は、こうした状態の中で、金貨及び銀貨の供給量を大幅に増加させたのです。通貨量が大幅に増加すれば、それに応じて経済が健全に成長を起こすのも当然のことです。

世にいう元禄文化の花が開いたのは、こうした通貨供給量の増加に刺激された経済の成長に支えられてのものです。

 従来の日本史の学者は一般に、この改鋳を、幕府財政だけを考えて、国民経済にしわ寄せをしたものとして非難しています。

が、以上のように、この改鋳こそが、元禄という、今日に至るまで華やかな文化の代名詞になっているような国民経済の発展を生んだものです。

その意味で、白石の尻馬に乗って荻原を非難するのは、歴史的事実に反する観念論と思います。

 ただ、役人の悪い癖で、一つの政策がうまくいきますと、社会情勢の変化も何もお構いなしで、どこまでもそれを押し進めます。

白石の計算値と、貨幣の新規発行金額とを比較すれば一目瞭然ですが、銀貨の方はまだ不足気味ですが、金貨の方は、元禄期も終わりに近づくと供給過多になっていると思われます。

すなわちインフレ基調への転換が起きてくるのです。

ところが、重秀はそれを無視してさらに通貨の増発を行います。

その結果、元禄バブル経済が誕生したのです。

 B 国役金=臨時不動産税

 綱吉というきわめて強力な将軍の下でなければ絶対に考えられないもう一つの財政上の事件が、この時代に起きています。

すなわち、幕府領、大名領の区別なく、全国一律に不動産課税を行うという破天荒の租税措置が行われているのです。

 きっかけは、1707年に富士の宝永山が大噴火し、大量の噴石で麓の村々は大被害を受けたことにあります。

その災害復旧工事を進めるため、幕府では、翌8年に、被災地を小田原藩領から幕府直轄領に変更します。

それとともに、災害復旧費用に当てるためという理由で、諸国大名領であると幕府直轄領であると否とを問わず、全国の農地に対して石高100石について2両づつの割合で諸国高役金を課したのです。

 臨時に不動産税を課したわけです。

幕府直轄領だけならともかく、大名領までも含めて全国一律に租税を課したのは、封建制の下ではそれまで考えられなかったことです。

中央集権に一歩を進めたものということができます。

 納税義務者は農民ですが、早期納付を確保するため、幕府への納付は大名に立て替えさせています。

このとき集められた資金は49万両弱と推定されています。

 先に何度か、この時点におけるわが国農業生産力は合計2450万石余に達していた、と述べました。

その数字は、この租税の歳入総額から逆算したものです。

過不足なく、全国から不動産税の徴収が可能であったのも、先に紹介した元禄検地のおかげといえるでしょう。

 なお、この臨時租税は、目的税とされていたにもかかわらず、重秀が実際に災害復旧に使用したのはせいぜい6万両程度で、後は一般歳出に振り向けられたようです。

このため復旧は遅れ、富士山麓の村が、この災害復旧工事を完全に終えて、被害から立ち直るのは、幕末近くになったということです。

 C 各種雑税の創設

 荻原重秀は、社会における通貨不足を感じて、元禄改鋳を実施することができるような人でしたから、従来の農業以外の分野での新たな産業の出現、換言すれば担税力の発生を認識することもできました。

そこで、各種の新税を創設しています。

 1697年に、綱吉は、酒の醸造に対して課税する旨の法令を出します。

この法令は、儒教的倫理観と中央集権制という綱吉の持つ特徴が実によく表れていますから、適宜口語訳しつつ、次に紹介してみましょう。

「代官及び領主地頭に令知して曰く、

 其の一、近来酒家が多いために、妄りに酒を飲み、乱行に及ぶ徒もまたすこぶる多くなっている。

そこで、今回、酒の醸造元に運上(租税)を賦課することとした。

それによって酒の値段を高くすることで、下民が酒を節制するようになり、乱行を防ぎ、刑罰を免れさせようとの恩旨に出たものである。

この課税のために、酒家が減少することはもちろん期待するところである。

 其の二、運上は、江戸及び公領地においては政府に、私領地においては地頭に上納すべし。

 其の三、運上額は、従来の発売価格に、さらに二分の一を増加させる額を標準にとする。

酒質の良し悪しに応じて価格もまた高低の差があるので、多少の過不足が生ずる場合があるであろうが、大体この標準にしたがって課税するべきである。」

 以下には、細かい課税方法が規定されているだけなので略します。

綱吉は、堅物で、1689年には幕府内部での酒の供用を禁じ、また、庶民に対して暴飲を禁じ、醸造元を処罰する等の法令を出していたのです。

が、効果がでないので、酒税を課することで、禁止効果を上げようとしたのです。

もちろん、こうした一挙両得的な発想は、荻原重秀の得意とするところです。

 普通の将軍ならば、こうした新税の賦課は、幕府直轄領を対象とするところでしょうが、綱吉だと、当然のように、全国一律に課税し、ただ、大名領においては、大名に納付しなさい、という点が加わるに過ぎないのです。

 江戸初期の工商業課税のところで挙げた例に明らかなとおり、これまでの工商業税は、すべてどれだけの売り上げがあるかに関わりのない定額方式でした。

この酒税で、おそらく幕府としては始めての定率課税方式が導入されたことになります。

これも、荻原重秀という人の頭脳の柔軟さを示すものとして評価しべきでしょう。

どのくらいの歳入があったのか正確なところは判りませんが、新井白石によると、幕府収入に限っていえば、年に6千両になったということです。

 D 長崎貿易の統制と長崎会所

 先に新井白石の貿易収支に関する計算を紹介しました。

綱吉政権では、彼ほど明確に計数的に問題点を把握していたわけではありません。

が、同様の危惧を海外貿易に関して抱いていました。

 そこで、輸入規制策を導入します。

1685年に出された定高(さだめだか)仕法がそれです。

同法は、長崎に入る船の数自体を制限し、かつ、貿易額にも制限を加えます。

具体的には、中国船は年間70隻、貿易額は銀6000貫に、同じくオランダ船は年間2隻、貿易額は銀3000貫に、それぞれ制限して通貨の流出を減少させようとしました。

 この時点までの外国船の来航数は、オランダ船の場合、多い年で9隻、少ない年で3隻、この当時の平均は4隻というところですから、2隻というのは大幅なカットになります。

これに対して、中国船の場合には多い年でも43隻、少ない年にはわずか9隻、大体20数隻が来ていた程度でした。

したがって、それまでの実績を前提とする限り、中国船に関しては、隻数規制という意味は事実上はないはずだったのです。

 問題は、中国と日本の貿易政策の齟齬にありました。

オランダと中国とでは、わが国鎖国令の例外として通商を行っていたという点では同じですが、国交の仕方には、根本的な差異がありました。

すなわち、オランダとは正式の国交があり、長崎にはオランダ商館が置かれ、新規に着任したりすると、江戸まで商館長が出向くなどの措置が執られていました。

また、貿易の相手としては、オランダの国策会社である東インド会社が独占していました。したがって、割に規制のしやすい相手であることは確かです。

 これに対して、江戸幕府と中国(清)とはまったく国交はなく、純然たる私貿易として中国船がくるのを是認する、という型の貿易でした。

このため、中国政府と幕府は互いにどのような貿易政策を採用しているかについては関知しておらず、したがって、相互の調整を行う、などということはありませんでした。

 このため、幕府が新しい貿易体制を採用した、その前年である1684年に、中国政府の方では、貿易制限法である遷海令を廃止し、なんと自由貿易主義に切り替えていたのです。

この結果、中国船による渡航ラッシュが突如として始まります。

 すなわち、中国船の来航数は、遷海令があった1684年には24隻に過ぎなかったのが、定高仕法を制定した初年の翌1685年には85隻と、早くも制限を突破します。

そして1686年に102隻、1687年に137隻、1688年には実に194隻に達していました。

そこで幕府では、妥協策として、この1688年以降は、中国船の受け入れ数を80隻に増加させることになります。

中国船の方でも、積み戻りを命ぜられるのは商売としてうまい方法ではありませんから、ある程度自主規制をしたのでしょう、1689年以降は、大体80隻内外で推移していくことになります。

 わざわざ荷物を満載してやってきて売れないからといって、おとなしく帰る商人はいません。

そこで、来航数と制限数の差はすべて抜け荷、すなわち密貿易になっていったと見るべきです。

実際、この時期、摘発される事件数もぐっと増加しています。

摘発例を見ると、この時期の抜け荷の特徴は、長崎に住むものが主犯となっているケースがほとんどです。

長崎奉行所の職員が主犯格となっている場合も結構目立ちます。

貿易相手とのコネの有無が抜け荷に重要な役割を果たしていたことが判ります。

 貿易相手方は圧倒的に中国船です。

オランダ船の場合には、個々の船員が行った例はありますが、組織ぐるみの大規模な犯行というケースはありません。

そこで、幕府では強力な対中国密貿易対策を展開し始めます。

それまで中国人はキリシタンではない、ということで、長崎市内における行動の自由を認めていたのが、1688年以降は唐人屋敷を設置して、長崎滞在中はそこに囲い込むことにします。

また、中国船は季節風に乗って貿易にくるため、その来航が春・夏に集中します。そこで、貿易をする日本人に対する対策としては、その期間中は、長崎市民は、他出を厳しく制限されたほか、夜中には住む町から出ることを許されなくなりました。

 抜け荷の主たる犯行手段は沖買い、すなわち港の外での荷物の受け渡しです。

そこで、漁師が夜間に出漁したり、一般の船が夜間に入出港するのを禁ずるなどの規制が敷かれました。

また、長崎市内や近村での船の新造、売買、貸借が一々チェックされました。

 こうした一連の規制のために、長崎は火が消えたようになり、多くの市民が困窮するようになります。何とか従来並に貿易量を増やす方法がないかと、模索が始まります。

 突破口が開けたのは1694年でした。

ある商人が貿易制限を上回る中国船、オランダ船の商品について、銀1000貫相当に限り、銅を対価として支払う条件で買い取ることを考え出したのです。

この願い出は、運上金1500両を納めることで許可されました。

1696年には、同じ商人は、取引規模を拡大し、運上金1万両を納めることを条件に、銀5000貫相当について銅による支払いを許可されます。

 この枠外貿易手段に着目した、長崎の町年寄、高木彦右衛門が中心となって、1697年(一説によると1698年)に長崎会所が設立されます。

それまで取引は、相対取引、すなわち個々の商人によって分散的に行われていました。

これを、同会所の下に集中させて貿易窓口の一本化を図ったのです。

 そして、高木彦右衛門に対して、俵物(たわらもの=鱶の鰭、干し鮑など中国料理に欠かせない日本の特産品を俵に詰めたもの)及び諸色(しょしき=昆布、するめ、寒天、樟脳、鰹節など)を代金として決済することを条件に、銀2000貫相当の枠外貿易が、2万両の運上を納めることにより、認められました。

 こうした新しい局面の出現に敏感に反応したのが荻原重秀です。

1699年に荻原重秀は自分自身で長崎まで出張し、貿易事情を調査します。

その結果、長崎貿易等からあがる諸利益のうち11万両は、長崎会所及び長崎市に残し、残りはすべて長崎運上として徴収するという制度を制定しました。

また、長崎奉行を3名から4名に増員し、その地位も京・大阪奉行よりも上席に改めました。

さらに、新たに長崎吟味役を江戸より派遣して、長崎会所の会計検査に当たらせることとしました。

 この長崎運上という制度は、名称は運上ということで、租税の一種という位置づけですが、非常に変わっています。

これまで、運上といえば、原則的な定額法にせよ、例外的に酒税で取られた定率法にせよ、政府がある割合で租税を徴収すると、残りはすべて業者の収入になるというものでした。

そのかわり、取られる額が大きくて赤字になっても面倒は見ない訳です。

 それに対して、長崎運上は、会所に一定額の利潤を残して、後はすべて幕府に入れるというのですから、完全に逆転しています。

厳しい会計監査を実施する点と合わせみると、むしろ今日の株式会社における株主に対する配当を思わせます。

幕府が全株を握っている会社というわけです。

長崎会所については、その詳細の研究がまだあまり進んでいません。が、オランダとの貿易においては独占的相手方として東インド会社が存在しているのですから、日本側関係者が、その詳細を知らないわけがありません。

おそらくそれにヒントを得た日本版東インド会社ではないか、と私は考えています。

 この運上金は、1703年に6万7057両余、1704年には7万2425両余となっていますから、かなり大きな額です。

 さて、このような会所を窓口として、一元的に官営貿易を行う場合の最大の問題は、輸出代金に充てる銅をいかに確保するか、という点です。

その点をクリアするため、1701年になって、大阪に銅座が作られ、長崎会所は年に銀1500貫を貸し付けて銅の集荷を行うことになります。

すなわち生産地から大阪に送られる銅を、銅問屋及び銅吹き屋から銅座に申告させて、一元的に買い上げたのです。

 しかし、初めのうちは銅の確保は十分に行われず、ために許可されただけの輸入を行うことができない、という事態が起きました。

このため、輸入商品の価格も高騰し、通貨供給量の増大と相まって、物価一般の上昇という結果を招いていたのです。

元禄バブルの崩壊と、不景気の到来が、こうして長崎貿易の破綻をきっかけに、日本経済を直撃し始じめたのです。

 E 朝鮮貿易

 対朝鮮貿易は、対馬の宋氏の独占事業でしたから、幕府の歳入には全くつながりません。

しかし、この場合にも、わが国通貨の流出が問題になるという点は、長崎貿易と変わりがありませんから、それに対する制限の状況などもあわせて紹介しておきます。

 1687年に幕府は、対馬藩に対して、朝鮮との今後の貿易額を1万8000両に限定し、かつ無益の諸物品は一切これを貿易することを禁じます。

 当時の日本にとって、朝鮮貿易での最大の輸入品は、朝鮮人参でした。

朝鮮側では、このような貿易制限を不愉快に思ったのでしょう、1689年に、今後は日本に朝鮮人参の輸出は行わない、と通知してきます。

あわてた宋氏が、使節を派遣して陳情した結果、従来通り輸出を受けることができるようになったといいます。

 1700年になって、宋氏からの陳情で、幕府は貿易制限額を3万両に増加させています。

おそらく、この13年の間に限度額に達してしまったのでしょう。

吉宗が政権をとった後の話ですが、幕府は、宋氏に朝鮮人参購入費の補助のために1万両の貸与を行っています。

宋氏の経済が貿易制限のために破綻したためですが、同時に、朝鮮人参は、当時の日本にとって、なくてはならぬものだったことがよく判ります。

    *    *    *

 綱吉について、初めは名君でしたが、後になると、政治に飽きて勝手なことをするようになったと、昔私は高校で習ったものです。

この見方は、おそらく今日でも、平均的な綱吉観といえるかもしれません。

 しかし、ここに紹介した諸活動を見れば明らかなとおり、他の行政分野はいざ知らず、財政分野に関する限り、綱吉は不退転の決意で、幕府財政基盤強化のために、将軍在位期間を通じて努力したといえます。

 その結果、綱吉という人は、大名にとって、あるいは旗本・御家人にとって、さらに一般庶民にとって、疫病神以外の何者でもなかった、といえるでしょう。

しかし、徳川家にとっては、まさに中興の祖というべき存在です。

 もし、この時期に綱吉が登場して、一手に憎まれ役を引き受けてくれなかったならば、徳川家は、財政基盤を整備することもできず、人材を登用するすべも知らないままに、ずるずると衰弱していったと思われます。

他方、諸大名は、新田の開発その他で蓄積した実力を背景に、もっと早くから幕府の覇権に挑むようになっていたことでしょう。

おそらく、その結果、江戸時代はもっと早い時点で終わっていたに違いありません。

 そうなっていた場合、日本が、その後にどんな歴史を歩んだかは判りません。

しかし、絶対に確かなのは、吉宗を中興の祖と呼び、綱吉を蔑視する今日の日本史研究は、どこかが狂っている、ということです。