第3章 新井白石と正徳の治
1708年12月、綱吉は麻疹(はしか)にかかり、翌9年正月に死亡します。享年64歳でした。あの衛生状態の悪い時代には、これは十分長寿といえます。
そもそも60過ぎまで麻疹にかかったことがなかったと言うこと自体、彼の生活環境がどれほど無菌状態であったかを端的に示しています。
前章で述べたとおり、綱吉は、江戸幕府歴代将軍の中で最強の権力を誇った将軍であり、やりたいことはすべて自由にやれた只一人の将軍といえるでしょう。
唯一、叶わなかった夢は、自分の血筋に将軍の跡を継がせるということだけです。
彼の子は、男子はもちろん、女子でさえ、すべて彼より前に夭折していたのですから、人の親としてみれば、不幸な最後だった、というべきかもしれません。
その後を継いだのは家宣(いえのぶ)です。
彼は、綱吉の兄綱重の子、すなわち綱吉からみれば甥に当たり、当時、甲府宰相といわれていました。
宰相というと、今日では総理大臣のことを意味します。しかし、この当時は、彼の就いていた宮廷における地位である「参議」の唐名が宰相であることから、こう呼ばれていたのです。
参議という地位は、百人一首の詠み人にも何人かいますが、太政大臣、左右大臣、大納言とともに議政官を構成する身分でした。
それ自体としては決して高い身分とはいえませんが、武士としては非常に高いランクに属します。
甲府藩では、綱吉の館林藩と同じように、かなり積極的な人材登用策をとっており、その一環として大量の土豪や浪人の採用を行っていました。
前章に触れたとおり、甲府の領主には、家宣と入れ替わりに柳沢吉保がなっています。換言すれば、甲府徳川家は、家宣が将軍後継者として西の丸入りした時点で、消滅したのです。
その結果、甲府藩の全藩士が原則的に幕臣に編入されます。
ある研究によると、御目見得以上だけで、幕臣に編入された者が、綱吉の将軍後継時の500名を遙かに上回る780名に達するといいます。
これらは、家宣が将軍に就くとともに、幕府における諸々の行政活動の中核集団を形成するようになります。
特に幕府財政の中核である勘定所の場合、全体で187名の職員のうち、64名までが甲府藩からの転籍組でした。しかも、そのうち8割までは、浪人出身者であったといいます。
家宣としては、こうして子飼いの勢力で幕政の要所要所を固めたのですから、その総仕上げとして、綱吉同様に、当然側用人を重視します。
綱吉政権における柳沢吉保の占めていた地位に座ったのは間部詮房(まなべ・あきふさ)です。彼は1666年生まれで、父親の代に甲府藩に召し抱えられました。
家宣は、藩主である間、一度もお国入りせず、ずっと桜田御殿で過ごしていました。
詮房は甲府藩当時、すでにこの桜田御殿の用人になっており、家宣の西の丸入りとともに、西の丸用人、そして将軍になるとともに側用人というように、一貫して家宣の用人としての道を歩みます。
また、側用人になると同時にただちに老中格とされます。さらに1710年には上州高崎5万石の城主となります。
このように柳沢吉保を上回るトントン拍子の出世ぶりのせいか、この人も、柳沢吉保同様に、従来の日本史の上ではきわめて評判の悪い人です。
幼い頃に猿楽師の喜多七太夫の弟子となったことから、生涯「能役者上がり」という陰口につきまとわれます。
また、容姿端麗であったために家宣の男色の相手という陰口もあります。が、家宣に召し出されたのは1784年で、もう20歳近く、当時の感覚では、とてもそういうお役に立つ年齢ではありません。
彼と身近に接した新井白石によれば、彼は性質がよく、君子人で、将軍補佐のため、誠心誠意尽くしたということです。他人を評価するにあたり、点の辛い白石の言うことですから、信じて良いと思います。
家宣及び間部詮房の下で、ブレーンとして実際に様々な政策を立案したのは、これまでにも、様々な統計資料の出所としてたびたび名を出した新井白石です。
本名は新井君美(きんみ)ですが、当時は、通称の勘解由(かげゆ)が普通には使われていました。今日、一般に知られている白石は号です。
白石の父、正済(まさのり)は長く浪人をしていましたが、白石が生まれた頃は、上総国久留里藩土屋利直に仕えていました。
白石が生まれたのは、1657年、父が57歳、母が42歳の時の子といいますから、今日でさえも大変な高齢時の出産です。
振り袖火事として有名な明暦の大火の翌日に、焼け出された避難先で生まれています。
幼い時は、主君利直から火の子と呼ばれてかわいがられたそうですが、史上有数の大火とともに生まれるというのは、なにやら彼の生涯を象徴するようで、興味深いものがあります。
幼い時から非常に聡明な子だったといいます。3歳(満でいえば2歳)の時に、既に字を書き、6歳で漢詩を暗誦したそうです。
そこで、主君は彼を非常にかわいがり、片時も側から離さなかったそうです。その一方、利直は、自分の嫡男直樹は嫌っていて、正月に父子対面する以外は顔を合わそうともしなかったというのです。
白石が20歳になったときに利直が死に、直樹が跡を継ぎました。
しかし、直樹を暗君とみて、白石の父は、一日も出仕せず、辞職しました。
当然、その子の白石がその跡を継ぐわけですが、直樹としては、自分が疎んじられていた父に白石が子供時代からかわいがられていたというのが気に入らなかったようです。
結局、白石は、1年ほど後に難癖を付けて追放されます。
もっとも、こうして浪人したこと自体は、早いか、遅いかの違いにすぎませんでした。人々の予想通り、直樹はすぐに暗君ぶりを発揮した結果、久留里藩は白石が23歳の時には、改易されて消滅してしまうからです。
白石が、儒学に興味を持ったのは17歳の頃だ、と自分でいっています。当時としてはもう少年とはいえない年齢です。
随分遅くなってから儒学を学び始めたわけです。
綱吉が政権を握って学問の奨励を行うようになると、武士の気風も変わるのですが、白石が幼年の頃は、当然に儒学を覚えさせるというような時代ではまだ無かったのでしょう。
当然のことながら、久留里藩には藩校のような手頃な教育機関はなかったらしく、始めから独習です。
そうして、上記の通り、21歳には早くも浪人してしまうわけですから、貧しくて師匠につくこともできません。
原典を人から借りては、ひとりで読んで勉強したらしいのです。
おそらく、このことが白石の、従来の儒学の視点にこだわらない独自の学問を形成させたのだと思います。
ついで26歳の頃に、推薦する人があって、大老堀田正俊に仕えることができました。
が、先に紹介したとおり、正俊は暗殺されます。白石が28歳の時です。
その頃、綱吉は正俊と意見が合わなくなっていたようで、当主が暗殺された機会に、堀田家はまず山形10万石に転封され、さらに翌年には福島10万石に転封されます。
堀田家の家禄そのものは、正俊の全盛時代に、正俊自身の意思で一族に一部分与した結果、10万石に減っていましたから、これは表面的には単なる転封であって減封ではありません。
が、この福島藩領はなるほど表高は10万石ですが、実高は5万石に過ぎなかったといわれます。
あれだけ厳しい元禄検地をした綱吉のやったことですから、実高が表高の半分ということは意識的な嫌がらせであったのでしょう。
この結果、堀田家は5万石分の収入で10万石相当の格式を維持しなければならない羽目に陥ります。
したがって、減封されるよりもはるかに財政的に厳しいことになりました。
こうした主家の苦労を見かねて、35歳の時に、白石は自発的に再び浪人しています。
堀田家に仕えている間も、書物の購入などに金を使っていたため、この時、家に残った財産を調べてみると、わずかに銭3貫、米3斗にすぎなかった、といいますから、わずかとはいえ俸禄をなげうって浪人するとは無茶な話です。
話は前後しますが、30歳になった頃に、初めて朱子学者木下順庵に巡り会います。
本来なら門下生となるためには相当の入門金が必要ですが、白石にはそれがありません。
幸い、順庵が白石の才能を見込んで、客分として出入りを認めてくれたことで、なし崩しに事実上の門下生となることができたのです。
順庵の門下生には、白石の外、雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)、室鳩巣(むろきゅうそう)等、後に有名な学者になる人が多く集まっていましたから、ここに入門できたことは、白石に切磋琢磨の機会を与えたことになり、その成長に寄与するものは大きかったことでしょう。
雨森芳洲については、あるいはご存じない方もいるかもしれないので簡単に紹介しておきます。
彼は町医者の子として生まれ、順庵の推挙により対馬藩に仕えて、対朝鮮の外交官として60年間も活躍します。
後に、白石が朝鮮通信使の待遇を改革しようとした際には、日本と朝鮮の間で苦労することになります。
白石が37歳の時に、木下順庵は、白石の才能を見込んで、甲府宰相家宣に推挙します。
甲府藩では最初、幕府お抱え儒者の林家に弟子の推薦を依頼したのですが、家宣(当時は綱豊と名乗っていましたが、混乱を避けるため、一貫して家宣と呼ぶことにします。)は、その頃、綱吉から冷遇されていたため、林家では家宣には将来性がないと見て、断ったので、話が順庵の方に回ってきたのです。
後に、白石の全盛期には、林家は白石の学識の前に圧迫されて、ほとんど公的活動が許されなくなることを考えると、運命の皮肉というものを感じます。
甲府藩の話は、始めは三十人扶持の俸禄という条件でした。
一人扶持というのは、一日米5合を支給する、という意味ですから、三十人扶持というと、1年間で米54石を支給されるという計算になります。
家禄としての石高は、五公五民という課税率を前提としますから、手取り石高の倍程度になります。
だから普通の武士に換算すれば、百石取り程度の身分と理解すればよいでしょう。25万石の大藩の家臣としては、かなりの軽輩です。
余り重視されていなかったことがよく判ります。順庵が掛け合い、ようやく四十人扶持になったといいます。
これでも順庵は不服だったのですが、白石が家宣の将来性を見込んで、順庵に推薦を依頼したのです。
家宣は、白石に実際に進講させてみたところ、既存の儒学の枠にとらわれない斬新な講義をするものですから、すっかり白石が気に入って重用するようになりました。
藩として与えている給料が安いことを承知している家宣は、折りあるごとに本や現金を与えて、彼の家計を支えるように努力します。
それ以上に重要なのが、側用人間部詮房が、彼の才幹にすっかり惚れ込んだ、という点でしょう。
そのため、詮房は、家宣存命中はもちろん、その死後も、問題にぶつかる度に白石の意見を求めるようになります。
その家宣が将軍になるにしたがい、白石も幕臣となりました。
が、彼はあくまでも儒者という地位にとどまりましたから、間部と異なり、1709年に500石を賜り、1711年になって1000石に加増されているに過ぎません。
身分的にも本丸寄合(よりあい)、すなわち無役のままで、最後まで通しています。
将軍家宣は、綱吉の跡を継いで側用人を中心とした強力な政治を展開しますが、健康に恵まれず、将軍就任のわずか4年後の1712年に死亡します。
50歳になっていましたから、当時の人としては、別に短命だったわけではありません。
問題は、その子家継がわずかに数えの5歳、満でいえば3歳の幼児だったことです。
普通であれば、4代将軍の時のように、老中が政治の実権を握って行くことになるはずです。
しかし、家宣が強力な側用人政治を実現するために、老中には選りすぐり?の無能な者を任命してありますから、彼らにはそれができません。
また、無能であるということは、自分たちが身を引いて、有能な老中を就任させるという知恵さえもないことを意味します。
そこで、引き続き間部が政治の実権を握り続けます。この結果、将軍の意思の全く反映しない完全な側用人政治、というきわめて変則的な事態がここに始まることになりました。
そして、間部詮房は、政治闘争面は別として、政策面に関しては完全に白石の進言にしたがっていました。
そこで、この正徳年間は、政策面で見る限り、一貫して白石の時代といわれます。
一介の寄合に過ぎなかった者が幕政を完全に左右していたのですから、地位と実際に行使した権力との落差に驚かされます。
今の感覚でいうと、総理大臣の秘書官と家庭教師が、舞台裏から完全に国政を牛耳っている状態でも想像すればよいのでしょうか。
結果は手段を正当化するとはいえ、かなり不健全な状況といえるでしょう。
しかし、この二人の誠実さ、言葉を換えれば、無私の心だけは否定することができません。
いくらでもお手盛りで自分に対する報酬を増やせる状況にありながら、そうした動きは全く見せていなかったからです。
白石は、あきれるほどの万能の超人で、彼の活動は、当時の学問の全般に及んでいますが、ここでは、その財政面における改革に注目しましょう。
白石は、儒者としては、様々の点においてきわめて例外的な人物ですが、この時代の財政家としての最大の特徴は、数字に明るいということです。
これまでも度々白石の調査数字を引用してきましたが、あらゆる問題に、実に周到に統計調査を行い、それに基づいて、合理的な思考で問題を解決していく点に、白石という人の優れた特徴が存在します。
家宣は、前述のとおり、政権を握るとすぐに、幕府行政機構の担い手を、全面的に甲府藩から幕臣に転籍した者に入れ替える、大幅な人事異動を実施しています。
しかし、勘定奉行自身は、外に適任者がいないことから、前代に引き続き、荻原重秀が留任し、その辣腕を振るい続けることになります。
前章に詳述したとおり、荻原は金貨の改鋳により、元禄期の幕府の財政危機を救いました。
が、この頃になると、経済規模に比べて通貨供給量が多くなりすぎたことから、インフレ傾向へと経済基調が変化していました。
しかし、当時の普通の人々には、そのような通貨常識はありませんでした。
そこで、物価上昇の原因は、品位の低い通貨に改鋳したことにある、ときわめて単純な論理で荻原を非難しました。
そこで、荻原は、1710年に、きわめて皮肉な方法で反撃にでます。宝永小判の発行です(「乾」の字の刻印があるところから「乾字金」とも呼ばれます)。
これは、金純度が慶長小判が86.79%であったのに対して、84.29%とほぼ同一の小判です(まだ技術が低かった時代なので、個々の小判における成分比のぶれに過ぎないようです)。
しかし、その重量は2.5匁で、慶長小判の4.76匁に比べると約半分です。
だから、含有される純金だけを取り出して重量を比べると、慶長小判の51%に過ぎず、悪名高い元禄小判よりもなお少ない、という小判です。
つまり十分に高品位でありながら、改鋳により幕府として出目が得られるという手法です。
品位の低さだけを取り上げて非難していた人が、非難の論理を失って当惑している顔が、目に見えるような気がしませんか?
同様に、やはり慶長一分金のほぼ半分の重量で、ほぼ同一品位の宝永一分金も発行します。
両者合わせて1151万5500両と、ほぼ元禄金銀の発行量に匹敵する大量発行を敢行します。
これらの通貨は、額面通りに通用させようとすると、抵抗がありますが、品位そのものは非常に良いため、補助通貨としては人気が出ました。
つまり、一両ではなくその半分の二分金として、あるいは一分ではなく、その半分の二朱金として広く使われたのです。
このため、後に白石が慶長金と同じ大きさで改鋳しても、なかなか市中から回収ができなかったといわれます。
経済規模が拡大していたため、小規模取引が増加してきたのですが、それまで、こうした補助通貨がなかったので、乾字金は、まさにその間隙を埋める働きをしたわけです。
荻原以前の銀貨である慶長銀は、銀純度が80%という高品位でした。
それを荻原はまず、1695年の元禄の改鋳の際に64%に下げました。
しかし、これは元禄小判の慶長小判に対する品位の低下率よりも低かったので、低下率を同一にするために、宝永に入ると、まず1706年に50%に純度を下げたことは、元禄の改鋳の説明の中で述べました。
この50%品位の銀貨は「二つ宝銀」と呼ばれます。丸に宝という刻印が上下に二箇所打たれていたためです。
ちなみに元禄改鋳で作られた銀貨は、上下に丸に元の字の刻印が二箇所あり、元禄銀と呼ばれます。
1710年に宝永小判を改鋳する際に、銀貨を放置しておいたのでは、品位の低下率に差が出て、金貨に対して銀貨が強くなってしまいます。
そこで、重秀は独断で、すなわち将軍はおろか、老中の了解さえも得ないままに、同時に銀貨の品位を40%に下げました。
これを「永宝銀」または「永字銀」といいます。二つ宝銀と同様に上下に2箇所打たれた宝という刻印があり、それとは別に、中央部分に丸に永の字の刻印が入っていたことによります。
この後、荻原は、銀の品位を下げることに、ほとんど執念というべきこだわりを見せるようになります。
なぜそのような執念を持ったかという点を理解するには、当時は金と銀の2重本位制が地域によって異なる形で機能していた、ということを知ってもらう必要があります。
すなわち、江戸を中心とする東国経済圏は金貨本位制の経済であったのに対して、大阪を中心とする西国経済圏は銀貨本位制の経済であって、本位通貨が違っていたのです。
この金貨=銀貨相互の交換レートは、幕府としての公定レートは、このころは、金貨1両が銀貨60匁という事になっていましたが、実際には市場は絶えず変動しており、幕府といえども、この公定レートを強行する力を持ちませんでした。
金本位経済圏に位置する幕府としては、金貨の対銀貨レートが高いほど好ましいのはいうまでもありません。しかし、経済の中心は大阪にありますから、ややもすれば銀貨の方が強くなります。
そこで、荻原は、銀貨の質を悪くすることで、腕ずくで金貨の対銀貨レートを好転させる事ができるはずだ、とこの時、考えついたのです。
その結果、40%品位の永宝銀を発行したばかりのその同じ年のうちに、32%に下げた新銀貨を発行します。上中下三箇所に丸に宝の刻印があるところから三つ宝銀の名で知られます。この発行も重秀の独断専行によるものです。
翌1711年にさらになんと20%にまで下げた新通貨を発行します。4箇所に丸に宝の刻印があるところから、四つ宝銀の名で知られます。
総発行量を紹介すると、元禄銀(64%銀貨)が40万5850貫、二つ宝銀(50%銀貨)が27万8130貫、永宝銀(40%銀貨)が5836貫、三つ宝銀(32%銀貨)が37万487貫、そして最後の四つ宝銀(20%銀貨)が40万1240貫です。
これを合計すると、荻原が発行した低品位銀貨は146万1543貫に達し、慶長銀発行総量の120万貫を上回ります。その過半数の77万1727貫は、銀が32%以下の超低品位銀貨です。
このころには、長崎貿易のおかげで慶長銀は大量に海外に流出してしまっていたことを考えますと、これ以後、銀貨のほとんどは荻原の低品位通貨に変わっていったと考えて良いでしょう。
さぞ大阪圏の経済は混乱し、大阪商人に何かと泣かされていた勘定方のトップとして、荻原はさぞ溜飲を下げたことでしょう。
白石は荻原重秀という人物をなぜかひどく嫌い、徹底的に排撃します。
罷免すべきであるという意見書を家宣に提出すること、3度といいます。
さらには家宣の病床で、どうしても荻原を罷免しないならば、自分が殿中で刺し殺すと脅迫するので、家宣は折れて、1712年に重秀をとうとう罷免しました。
重秀は、翌年失意の内に死亡します。これについても、白石が暗殺したのだという説があるくらいの急な死でした。
その死後、白石は、さらに重秀の腹心の部下や銀座の年寄たちを、賄賂を受け取って貨幣改鋳を行った罪で摘発し、遠島などの処分を行っています。
ある研究者によると、この摘発は、逮捕と同日のうちに処罰の申し渡しが行われるなど、江戸時代の裁きとしては納得できない点も多く、白石の手による作為的な疑獄事件と見た方が良さそうだといいます。
そこで、こうした荻原時代の貨幣改鋳を元の慶長金銀における金銀含有量に戻すという、正徳の改鋳が当然、白石の大きな課題となります。
白石という人が、時代を超越した知性の持ち主であることが、この改鋳の持つ経済学的な意義を正確に認識していたことに見て取ることができます。
先に説明したとおり、確かに、元禄より前においては、通貨供給量が減って厳しいデフレが起きていましたから、荻原の改鋳により、通貨供給量を増加させることは十分に意味のあることでした。
しかし、荻原は一貫して通貨供給量を増加させてきたため、長崎貿易の破綻と相まって、このころになるとはっきりとインフレが起きて、諸物価は完全に右肩上がりの傾向を示していたはずです。
白石は、通貨改鋳の建議の中で、このことを次のように述べています。
人々は、通貨の質が下がったから物価が上がるのだと言うけれども、そうではなく、「真実は世に通じ行われ候金銀の数、そのむかしよりは倍々し候て多くなり来り候故にて候」、すなわち通貨量が単に倍々にも増えているためだと言います。
仮にその通貨が「上銀にて候とも其の数多く候はんには、必ず其価軽くなり候て万物の価は重くなり候」、すなわち通貨の質が非常に上質だったとしても、通貨供給量が多ければインフレになるものだ、というのです。
これを沈静化させるには、通貨供給量を減らしてやればよいはずです。すなわち、白石のいう改鋳とは、流通している低品位金貨3枚を回収して、代わりに高品位の貨幣を2枚を流通に置くことですから、通貨量の3割削減ということになります。
銀貨の場合、荻原が最後に出した四つ宝銀(20%銀貨)を慶長銀並の80%に換えるということは、4枚を1枚にする、ということです。いずれをとっても、かなりドラスティックなデフレ政策です。
これを一時にやったのでは、今度は経済に与える影響が大きすぎてデフレによる不景気が発生する恐れがあるとして、白石は、通貨の変更を20年くらいの長期をかけて徐々に行うように提言しています。
その結果、正徳の治の間に行われた改鋳量は、そう多いものではありません。正徳小判・一分金合わせて21万3500両といいますから、あわせて2545万1720両に達する元禄小判・宝永小判等の発行量の、わずか0.8%にすぎません。
白石政権下で、深刻な白石デフレが起きていた、という事を主張する日本史学者がいます。
が、この程度の発行量では、回収量も微々たるもので、それほど劇的に経済状況が変化するとは思われません。
白石自身は、自分の新通貨が流通しないことを気にして、新金強制通用令を出し、命令に従わない者は処罰するなどとしています。
が、彼の導入したデフレ政策は、通貨を回収して、通貨総量を抑制することで効果を発揮するものです。
したがって、新鋳造通貨が流通するかどうかは本質的な問題ではなかった、といえます。
前章で、荻原重秀の行った貨幣改鋳に関連して、白石が、我が国の貿易収支を初めて算定した事を紹介しました。
その要点は、当時の貿易は完全な片貿易であったため、我が国の国内通貨量のうち、金貨の4分の1、銀貨の4分の3が幕府創設から綱吉時代までの間に海外に流出していたことを、白石は論証した、という点にあります。
白石は、机上の空論を述べている学者ではありません。問題を見いだせば、必ずそれに対する現実的な解決策を模索する人です。
長崎貿易がぶつかっていた問題は、金銀に代わる貿易決済手段である銅が、先に触れたとおり、思うように集められない点にあります。実は、これには構造的な原因がありました。
幕府は、国内の銅価格とは全く別に、輸出用の銅価格を決定していたのですが、これがやたらと国内価格に比べて安いのです。
例えば1711年の荒銅(精錬してない銅)の国内相場は、100斤につき上品で銀194.5匁〜196.4匁、下品でも121.3匁〜123.3匁でした。
ところが幕府は、一律105匁で買い上げるというのですから、鉱山側としては、できるだけ出荷しないようにするのは当然です。
なぜ国内相場を無視した低額に押さえていたかというと、実際に外国との取引価格は、棹銅(精錬した銅)100斤について、対中国の場合115匁、対オランダの場合でも123匁だったからです。
しかし、この低調達価格でも長崎会所は大変な赤字でした。なぜなら、荒銅を棹銅にするには、精錬費用が100斤につき銀200匁くらい必要だったといいます。
つまり、長崎会所は輸送費用等を度外視した原価だけでも合計で銀300匁以上の費用のかかったものを115匁で売っていた訳です。その差はすべて会所の負担となります。
何でこんな不利な取引を行っていたのかについての、わが国側の事情については、余り研究者にも判っていないらしく、いろいろな説がありますが、納得のいく説明は見あたりません。
たとえば、初期の頃は、銅が比較的浅いところから豊富に産出したので、価格が安かったのですが、その後、段々と鉱山が枯渇し始め、坑道が深くなっても価格が据え置かれた、という説が通説のようです。
これについて、作家の佐藤雅美が「幕末住友役員会」という小説の中で傾聴すべき説を唱えています。
綱吉が、貿易総額を規制したのに対して、長崎会所では銅の値段を抑える代わり、オランダや中国商人からの購入額も値切っていたのだ、というのです。
これにより、実際には貿易量が増大しているにもかかわらず、総枠規制の中に収まっているよう見せかけることが可能になります。
たぶん、これが真実であろうと私は思っています。だとすれば、この、長崎が市を挙げて行った詐欺に、新井白石もまんまと騙されたことになります。
このように、品質の良い銅が、低価格で、しかも安定して供給されたので、外国商人は、銀よりもむしろ銅の方を喜ぶようになりました。
このわが国側の価格がものすごい利益を相手側に与えていたことは、銅以外では取り引きできない、といって商品を売らずに帰国する中国船まであったということからも判ります。
オランダの場合、欧州まで船のバラストとしてですが、はるばる運んでアムステルダム市場で売却して儲けが出ていたほどです。
逆に言うと、日本銅がこのように魅力ある価格設定になっていたことが、外国船を日本に引き寄せていたわけです。
よほどの利潤が上がらなければ、制約の多い日本にわざわざ貿易にくるものがいるわけがありません。
とにかく、こうして、調達価格が、国内相場に比べて極端に安かったことが集銅を非常に困難にしていた理由です。
このために、長崎貿易そのものがこの頃行き詰まりを見せていました。
白石は、現場の人の意見を大事にする人です。そこで、この問題に対する対策を立てるようにと家宣に諮問された際にも、まず、長崎奉行に意見を求めています。
この当時は長崎奉行は3名いましたが、うち2名までは事なかれ主義の人物だったらしく、従来の方式に特に改革すべき点はない、と具申しています。
残る大岡清相はかなり詳細な意見書を提出してきました。白石は、この大岡の意見書をベースに改革案を起案したのです。
これが幕末まで続く貿易制限令となる、有名な海舶互市新令(正徳新令、長崎新令とも呼ばれる)で、1708年に施行されました。
これは基本的には、貿易用に調達されて長崎に回される銅(「長崎廻銅」と呼ばれます)の不足によって悪化した貿易事情を改善し、合わせて従来の幕府の貿易政策の不備を含めた対外関係の行き詰まりを抜本的に是正することを狙ったものです。
規定内容は22綱目に及ぶ詳細なものですが、その特徴を紹介すれば次の点が上げられます。
わが国の片貿易という基本的状況そのものは変わりがない以上、長崎に入る船の数を制限し、かつ、貿易額そのものにも制限を加える、という方法以外に、適切な対策がないことは明らかです。
具体的には、中国船については年間30艘、貿易額は銀6000貫に制限します。
ただし、そのうち銅300万斤相当分については、銅で決済しなければなりません。
6000貫以上の貿易については、俵物、諸色で取引することを認めますが、それについても上限は9000貫相当額とします。
先に説明したとおり、対中国貿易では、銅100斤を銀115匁と換算していましたから、銅300万斤は銀3450貫に相当します。
残りは丁銀120貫(ただし、二つ宝銀)と俵物で決済していました。
この原則6000貫、上限でも9000貫というのは、綱吉の改革で紹介した1685年に制定された定高仕法に規定されていた制限額と同一です。
しかし、定高仕法の場合には、様々な例外が許容されていたため、実質的には、実に1万6000貫相当の取引が認められていました。
これに対して、新令は例外を許容しませんでしたから、取引高を半分近くにまで削減したことになります。
また、船数については、70艘というのが定高仕法の制限でしたから、これは半分以下に削ったことになります。
さらに細かいのは、出港地別に、例えば南京船は7艘で1艘当たりでは銀200貫まで、台湾船は4艘で1艘当たりでは130貫まで、という調子で隻数と取引高の制限を定めたことです。
中国船は、民間の船が各地の港からバラバラにやってくるので、総数規制だけでは、個々の船にとっては、その年の制限を突破しているかどうかは着いてみないと判らない、という欠陥があったのです。
このように港ごとに船数を規制すれば、行っても無駄かどうかは、出航の段階でよく判ります。
これは非常に効果を上げました。
中国船の来航数をみると、新令が実施された1708年には103艘もやってきた中国船が、翌1709年には57艘に激減し、さらに1715年には20艘にまで減少したのです。
以後、大体40艘ないしそれを若干下回る程度の数に落ち着くことになります。
また、オランダ船については年間2隻、貿易額は3000貫に制限しました。
ただし、それ以外に脇荷物400貫という例外が認められていましたから、実際の制限額は3400貫です。これについては定高仕法と特に変更されていません。
そのうち、銅による決済分は150万斤です。
銀に換算すると1845貫匁分が銅で支払われたことになります。
また、オランダとの貿易は実際には金立てで行われていました。後に幕末になって大きな問題になりますが、わが国と欧米諸国では、金貨と銀貨の公定レートが大きく違っていました。
そのことがある程度判っていたのでしょう、普通の1両60匁という公定レートの代わりに、1両68匁という特別のレートで制限額の換算が行われていました。
したがって、金5万両が実際の支払い額になります。
オランダ船については中国船に比べるとやたらと制限が厳しいように見えるかもしれません。
が、これは中国船が比較的小型のジャンクであるのに対して、オランダ船が大型帆船であるため、1隻当たりの積載量の違いからきたものです。
この中国及びオランダに対する銅決済分を支えるため、白石は、長崎には年400万〜450万斤の銅を回すことにします。
50万斤の幅を認めたのは、諸国の銅山の産出高等にはどうしてもばらつきがあるため、厳密に定めても意味がないからです。
実際に調達可能な量を念頭に置いて制限額を定めたという点にも、実務家としての白石の特長をみることができます。
単に規制を厳しくするだけでは、密貿易を誘発するだけです。
実際、この時期、密貿易は第2のピークを迎えていました。
例えば1707年には19件、新令の施行された1708年にも7件の密貿易が摘発されています。
綱吉時代の密貿易は、長崎市民が犯人でしたから、市民の行動の自由を制限することで押さえることができたことは、前章で紹介しました。
それに対して、この当時の密貿易は、主犯は長崎市民ですが、補助者にはよそ者が参画している場合がぐっと増え、したがって逮捕者を長崎市民とよそ者に分けると、よそ者の数の方が多い、という状態になってる点に大きな特徴を示します。
もちろん、こうしたよそ者の利用が、長崎市民の行動の自由に対して加えられている制限をかいくぐるための手段であることはいうまでもありません。
犯行が広域化したということは、取締が困難になるということを意味します。
そこで、白石は、そのための策を立てます。すなわち、中国船に対する信牌(しんぱい)の発行です。これこそが、新令の最大の特色です。
信牌は、割符(わっぷ)とも呼ばれます。
来航した中国船のうち、新令に違反しないことを制約した者だけにこれを交付します。そして、以後は信牌を持たない限りわが国との貿易を認めない、という制度です。
この制度には、巧みに飴とむちが組み込まれていました。
すなわち、信牌を持っていれば、制限金額を銀30貫までは増額して、全量を買い取るという特典がつきます。
そのかわり、積載量に定高より30貫以上の過不足がある場合には、以後の来航を禁ずるとか、指定された正規の航路以外を通ることは認めないとか、粗悪品、不正品を積載してきた者は、以後の貿易を認めないというような様々の条件を受け入れなければいけません。
もちろん密貿易をした者は信牌を取り消されます。その結果、かなり効果的に密貿易の取締ができるわけです。
もっとも、信牌を発行するのは幕府そのものではなく、単なる通事とされました。
これは中国政府側の抵抗を恐れたからです。
すなわち、中国の伝統的な政府貿易の形式は入貢貿易です。
中国の臣下の国が貢ぎ物をすると、中国側ではその忠誠心を愛でて貢ぎ物以上の物を下賜する、という形式の貿易です。足利義満が臣下の礼をとって行った貿易などが有名です。
中国では、信牌とは、この入貢国に対して与えるものだったのです。
したがって、幕府が中国船に信牌を発行すると、中国をわが国の入貢国としたかのように見えるので、貿易摩擦の発生が予想されたのです。
実際、そういう事件が起きました。
信牌を与えられなかった中国商人達は、本国で訴訟運動を展開します。
すなわち、信牌は日本の年号を使用しているので、信牌を受けた船頭は日本に忠誠を誓って清朝に反逆する者だと政府に訴えたのです。
そこで中国政府では信牌を没収したため、多くの船が日本に来られなくなったのです。
もとより白石はこうした事態のあることを予想して信牌を幕府発行とはしておかなかったのですから、早速適当な便船で、抗議書を中国に送りました。
中国側では、結局1717年になって、康煕(こうき)帝の勅裁によりわが国の信牌の発行に文句を言わなくなりました。
なお、中国では、同年から再び海禁(つまり鎖国)政策に転じます。
おそらく中国側としても、日本の信牌を利用することで、貿易状況のチェックが可能になるという点に、信牌の許容策を導入した理由があると思われます。
吉宗が将軍に就任したのが1716年のことですから、この時には、もう白石は政権から遠ざけられていました。
他方、信牌を受けられなかった中国商人達は、九州各地、特に福岡、小倉、萩の3藩の領海が接する辺りに回航して、日本側の密貿易船を半ば公然と待ち受けるということを始めました。
多いときには十数艘も滞船していた、といいます。
幕府では当初は手を拱いていましたが、1718年に3藩合同の軍を出動させて追い払いました。
その後、何度か出動させ、最終的には1726年に追い払うのに成功したのです。
何故このように長く出動を遅らせたのかはよく判っていません。
海上の3藩の境界という難しい場所であるために、関係する3藩の足並みをそろえるのに時間がかかったということもあるでしょうし、家宣が死亡して、権威が低下しつつある間部詮房の命令では、各藩がなかなか動こうとしなかったという事情もあるでしょう。
しかし、国際紛争を未然に防ぐため、康煕帝の勅裁が降りて中国側が信牌の運用に文句を言わないということが確認できるまで待っていた、というのが真の理由ではないかと、私は考えています。
ところで、白石が新令の制定を諮問されたきっかけは、長崎廻銅の量の減少により、長崎貿易が不振となり、このため長崎市民が困窮しているという報告が長崎奉行から出されたことです。
それなのに、貿易制限を強化したのでは、困窮の救済にはならないはずです。
白石の答申した新令が長崎市民の救済になる、という逆説を理解するには、それまでの長崎貿易の状況を理解する必要があります。
定高仕法によると、正規の貿易は長崎廻銅をベースとして行われなければなりません。
ところが、この長崎廻銅が不足する結果、貿易量が恒常的に制限額以下で推移するという状況が生まれていました。
前章で述べたとおり、長崎貿易では、諸利益のうち11万両は長崎会所に残し、残りはすべて長崎運上として幕府が徴収するという制度がとられていました。
この11万両が、会所と市民に分けられるのです。細かく内訳を書くと、長崎会所で外国からの輸入品をわが国商人に売って得た銀(金7万両相当)、つかい銀(小遣い銭)、落銀(長崎市民に落ちる銀)、間銀(あいぎん=手数料)、役料(役目に対する報酬)などです。
このうちから、7万両が地下(じげ)分配金として、長崎市民に配分されるはずなのです。
ところが、貿易実績が上がらないのですから、このような市民への配当も来ません。
幕府の方も、それでは長崎運上が入らないはずですが、そこは法令を作る方ですから、対策の立てようがあります。
すなわち、貿易できずに帰る積み戻り船の船荷から、貿易制限の枠内での「追売」を認めて、貿易利潤の補填を図ったのです。
これは会所の査定額で一方的に買い上げ、二割増で日本商人に売り出したので、夥しい利潤があったといいます。
この追売は、幕府が長崎運上確保のために別枠で行うので、長崎市民への配当はありません。
要するに、貿易総額が減少する中で、長崎運上に当てる追売を確保する方針を幕府が維持したので、本来の貿易は圧迫されてますます先細りとなり、運上額そのものは増加しているにも関わらず、長崎市民への貿易利潤の配分は減少する、ということが起きたのです。
白石は、貿易額及び貿易船の入港数を低く設定することと、銅輸出額を実際の輸出能力にあったものに改訂することにより、追売のような不健全な貿易形態を廃止します。
また、長崎市民が貿易を支えるために負担している様々な活動のための経費は、従来は、貿易決済後の実績によって配分していたのです。
それを幕府からの前貸しの建前にして、貿易実績が上がると否とに関わりなく、配分することにしたのです。
* * *
この海泊互市新例は、その後幕末まで続く幕府の基本政策となります。
これを消極的な貿易無用論と理解しては間違いです。
この政策は、二つの点で、国内産業の保護育成策なのです。
一つは、俵物を正規の輸出品にしたことです。
これにより、全国的に煎り海鼠や干し鮑の増産が行われるようになっていきます。
今一つは、輸入品の国産化です。
我が国において、片貿易が長く続いていた理由は、白糸(上質の生糸)、各種絹織物、綿布、鹿皮、砂糖などの海外産品に国内需要があるにもかかわらず、封建政権は、その基盤である米の生産に力を入れ、そうした農産品の国内生産を許さなかった点にあるのです。
そこで、そうした農産品は国産化を推進すべきである、というのが白石の結論でした。
惜しいことに、白石時代は長く続きませんでした。
が、この農業政策の大転換が必要という発想は、次の享保の改革における農業政策の中心となっていきます。
中国産生糸ほどの高品質のものが、幕府の政策が転換されたからといって、直ちに国内生産可能になるわけはありません。
他方、国内の生糸需要は依然として根強いものがあり、長崎新令は、その道をふさいでしまったわけです。
そうした膨大な需要を、長崎貿易に代わって支えたのは、対馬藩を経由しての日朝貿易でした。
前章で簡単に触れたとおり、朝鮮人参については宗家と朝鮮王家との間の公貿易という形をとっていましたが、それ以外に日朝間には私貿易という形態の貿易が存在していました。
その状況について対馬藩では「私貿易帳簿」というものを作成しており、1684年以降のものが現存しています。
それによると、朝鮮経由の中国生糸の輸入がこの頃から急増していきます。
対馬藩は、長崎貿易よりも安い価格で朝鮮から生糸を輸入するようになり、独自のルートで西陣などへ供給するようになりました。
その結果、日朝貿易による生糸の輸入量は、1730年くらいまでは長崎貿易の量を凌ぐようになります。
この日朝貿易の決済手段は相変わらず銀でした。
このため、長崎からの銀の流出が止まっても、対馬から毎年、1000貫〜2000貫というレベルで銀の流出が続いていたことになります。
元禄銀の場合には、品位の低さを補うため、一定のプレミアムをつけることが必要だったようです。
そして、三つ宝銀や四つ宝銀の場合には、プレミアムをつけても受け取りを拒否されました。
このため、1710年から1714年までは、勘定奉行荻原重秀の特別の計らいにより、品位80%という特別良質の銀貨が、年に1417貫だけですが、鋳造されます。
これは、建前上は、朝鮮人参輸入の確保という名目でしたから、「人参代往古銀」という名称でした。
これを幕府は、普通の劣位貨幣と同価で対馬藩に渡していました。
つまり形を変えた輸入補助金というわけです。
その後、重秀の失脚により、これは製造されなくなりますが、白石が作った正徳銀は信用が高かったので、そのまま問題なく取り引きされました。
この対馬からの銀の流出は、白石も抑制することができませんでした。
対馬藩には、幕府に代わって対朝鮮外交を担当する、という大義名分があり、日朝貿易の独占による利潤は、外交を円滑に進めるための経済的保障という性格があったためです。
次章に詳しくは紹介しますが、1730年代に行われる元文改鋳により、銀貨の品質が再び著しく低下し、特例によって「人参代往古銀」は製造されます。
しかし、この時は、宝永の時と違って、幕府が対馬藩に必要経費を請求するようになったことから、輸入量は急減します。
最終的に日朝貿易による銀貨流出が終わるのは、1750年代のことになります。
朝鮮人参について国産化が成功し、また、国産生糸の品質が向上して、中国産生糸に対する国内需要がほとんどなくなったのが、その理由です。
なお、その後も対馬藩による日朝貿易は続きます。
その場合、日本からの主力輸出品は、長崎貿易を通じて日本に入ってきた東南アジア産の胡椒、水牛の角、すおう等です。
李氏朝鮮は、日本以上に厳しい鎖国を実施していましたから、このような奇妙な三角貿易の必要性があったのです。
この場合の朝鮮からの輸入品は、3分の2までが木綿で、これは国内市場で売却されました。
残り3分の1は米です。対馬はご存じのとおり、山がちの島で、米といえども自給自足ができません。
そして距離的にははるかに朝鮮に近いので、日本国内から輸入するよりも安上がりだったのでしょう。
この機会に、鎖国時代の今一つの貿易ルートであった薩摩藩による琉球貿易についても説明しておきましょう。
鎖国というのは、わが国の場合、国交を持つ相手を制限する、ということであって、貿易量そのものを制限するものでなかったことは、第2章で説明しました。
このため、薩摩藩による琉球貿易も、制限外として認められていました。
琉球貿易は、琉球が独立国という建前の下に、中国などと貿易をし、他方、薩摩藩に対して琉球が朝貢貿易の形で船を派遣するという形で行われていました。
銀貨が貿易の決済手段だったことは日朝貿易の場合と同じです。
1715年に、白石は、従来認められていた銀1206貫の限度額を906貫に抑制しています。
薩摩の方が対馬よりも制限が厳しいのは、小藩である対馬に対しては、外交費用相当の援助という要素があるためです。
琉球貿易の詳細については、薩摩藩ははっきりした資料を今日に伝えていないので、確かなことは判りませんが、薩摩藩は、この禁令は余り守らなかったようです。
貨幣の改鋳や長崎新令は、いずれも大事なものですが、これらは幕府財政を豊かにしてくれる力は持っていません。
通貨改鋳策に至っては、経費分だけ幕府財政を締め付けることになるはずです。
そこで、歳入の増加策が必要となるのですが、ここまできますと、天才白石といえども、封建社会の常識から抜け出すことはできませんでした。
すなわち、年貢米をいかに増加させるか、という点を考えるしか、能がないのです。
ここでも、白石のきわめて数理的な頭脳は、統計解析によって問題の所在を突き止めようとします。
彼によると、幕府直轄領の税率は4公6民、すなわち税率40%のはずです。
それなのに、実際には28〜29%程度で、30%を切っているといいます。
その租税徴収率の低さが、幕府財政が苦しい原因だ、というのです。
そこまでは正しい計算なのですが、白石は、江戸生まれの江戸育ちで、農村の生活に理解がありません。
そこで、このように年貢徴収率が低いのは、幕府の代官やその手代が地元と結託して、賄賂を取るかわりに税率を下げる等の便宜を図っているに違いないという結論になります。
これは当時の幕府の公式見解そのもので、御触書にも「近年は村々からの年貢収納量が段々と減少してきて、昔の半分ほどになっているのに村々は少しも豊かになっていない。
それは村々が年貢を負けて貰うために代官諸役人に賄賂を贈っているからで、年貢量は減少するが、村々が支出する総領は、賄賂分を合わせると結局昔と同じになるからだ」ということが明記されていました(御触書寛保集成)。
この当時の年貢の徴収は、検見取(けみどり)法というやり方でした。
すなわち、代官以下の地方(じかた)役人が個々の村を回って、米の出来具合を個別に確認しては、村ごとの年貢総量を決定する、という方法です。
そして、確かに、収穫高の査定に当たる地方役人が、村側の饗応の多少によって査定に手心を加えるということはかなり横行していたようです。
余り接待しすぎたために、役人の方がつけあがって、家族親戚まで連れてきて饗応を楽しんだ、という話まで残っているほどです。
白石は、先に荻原重秀が廃止した勘定吟味役を1712年に再度設置して勘定所自体の綱紀を引き締めるとともに、勘定所に命じて、綱吉時代にもまして厳しい地方検査を開始します。
具体的には、全国を十の地域に分け、それぞれに3名で構成される巡察使を派遣して虱潰しに査察を実施したのです。
3名の中には、彼として信頼できる甲府藩からの転籍者を必ず1名は入れていたといいます。
この結果、彼が事実上の権力を握っていたわずかの期間に、処罰された代官は10名に達します。
期間当たりの処罰数としては空前のもので、綱吉の元禄期以上に代官が厳しく取り締まられた時期ということができます。
しかも実際には、事務処理が遅れて、処罰が享保以降にずれ込んだ例もかなりあるようですから、実質的処罰件数ははるかに多いと見るべきです。
そして空席になった代官のポストに送り込むのもまた、甲府藩からの転籍組です。
こうした締め付けの甲斐あって、1713年の年貢米徴収量は、前年に比べて43万3400俵も増加したと白石は自画自賛しています。
この年、年貢米の量は、石数でいうと411万石あまりです。増加はその後も続いて、14年、15年といずれも412万石を突破しています。代官締め付け策は一応の効果はあったというべきなのでしょう。
しかし、白石が見落としていた重大な点があります。
それは、幕府代官諸経費に関する構造的な要因から、まともに代官が仕事をしていたら、必ず赤字になってしまうという点です。
年貢の未収分の相当部分は、そうした代官の赤字補填のために流用されていたものだったのです。締め付けると、そうした分が増加するのです。
しかし、現場の声が彼のところまでは上がってこなかったために、そこまではこの天才でも、洞察することはできなかったのです。
したがって、この問題の真の解決は、享保の改革に譲られることになります。
白石の事績を紹介して、朝鮮通信使の待遇改訂問題を避けてとおるわけには行かないでしょう。
ご存じのとおり、日朝関係は、秀吉の朝鮮出兵によって決定的に破壊されます。
自家存立の必須の条件として日朝友好を熱望していた対馬の宗家は、徳川家康が日朝関係の復旧に意欲があるのを幸いに、日朝間にあって、懸命の工作を行いました。
その結果、1607年に初めて朝鮮から使節がわが国を訪れ、1609年に、対馬と朝鮮の間で己酉条約が成立して、ようやく両国間に講和が成立しました。
その後、1617年に朝鮮政府は、徳川幕府による日本統一の賀使を、1624年には家光の将軍位襲職の賀使をそれぞれ派遣してきたので、ようやく日朝修好の実が備わるようになってきます。
そして、1636年に、通信使という名の使節の最初の者が送られてきます。
以後、将軍の代替わりの都度、通信使が訪日することになります。
通信使という名称を使うか否かは問題ではありませんから、以下、1607年以降のすべての訪日を、朝鮮からの使節として一律に論ずることにします。
これら使節の訪日の趣旨そのものは、日朝友好ということで、全く結構なことです。しかし、これが幕府財政上の大問題にならざるを得ないのは、ひとえにその規模のためです。
1607年の第1回の来日の際には、秀吉の朝鮮出兵の後遺症が双方に色濃く残っているときでしたから、朝鮮側としては各分野のトップクラスの人間を多数送り込んで、徹底的に日本側の情報を収集することを目指したのだと思います。
その結果、この時の使節団の総数は467人に達しました。
この規模が、規模に関する先例を作ってしまったのです。
江戸まで使節が来たことは全部で11回ありますが、それを見ると、1624年の第3回が300人と少ないのを例外にすれば、正使以下の一行の人数は、最大500人(これが実は新井白石の改革の時です。)、最小でも428人(第2回)、平均470人程度となっています。
使節団は3艘の船に分乗し、これに3艘の副船が献上品その他の荷物を載せて従います。
これが釜山から対馬、壱岐経由で下関に入り、瀬戸内海を抜けて大阪に上陸します。その後、船を管理する人間を100名程度残して、残り全員が陸路、江戸に入ります。
だから使節団だけで3百数十名という規模です。
これに、対馬藩から、使節側1名当たり、2名程度の割合で随行者がつきます。すなわち約700名です。したがって、行列の本体規模が大体1000人に達することになります。
建前として、日朝双方は対等ということになっていますが、江戸幕府としては、朝鮮は入貢してきているというポーズを国内的に取っています。
そこで、この入貢国を厚遇することにより、ひいては幕府の権威を高揚することができると考えているのですから、この大人数の、日本国内に入ってからの経費はすべて日本側の負担です。
滞在期間は、建前としては半年ですが、悪天候その他の事情から行程はどうしても遅れがちになり、普通は大体1年近い期間が必要になります。
海上にある間は、それでも大して手間も費用もかかりません。
しかし、大阪に上陸して陸路を進み始めると、当然この1000人という大行列の荷物を運ぶ人足が必要となります。旅行用の荷物に加えて、進貢用の荷物、それに貿易用の物資ですから、決して少ない量ではありません。
さらに、道案内として諸国の大名から人数がつきます。それやこれやで、行列は大体3000人くらいの規模に膨れ上がります。
これが半年がかりでしずしずと進んでいく訳です。一行の威儀の盛大さ、道中における饗応、接待の手厚さはまさに人の目を驚かせるものがあったのです。
しかも、娯楽の少ない時代のことですから、見物や交流のため、多くの人々がその道筋にやってきます。
当時の街道は、東海道にしても中山道にしてもささやかなものですから、これほどの規模の行列にゆっくりと進まれては、機能が麻痺してしまいます。
そのためと思うのですが、通信使が来る度に、幕府では「吉道」と呼ばれる特別の道を、通常の街道とは別に整備します。
このように見てくると、通信使の応接に巨額の費用がかかり、そのため、幕府財政が傾く恐れがある、ということが判っていただけると思います。
家宣が将軍に就いた時には、それを祝って1711年に第8回目の通信使が来ています。先に述べたとおり、空前絶後の規模の通信使です。
その際に、新井白石は、末代までの語りぐさになるほどの努力を払って、極力この経費を切りつめました。
しかし、記録に残っているのは、従来朝鮮側の国書の宛先を「大君」としていたのを、朝鮮と対等に「国王」に直したとか、使節が将軍に拝謁する際に御三家が同席していたのをしないことにした、というような形式面の話ばかりが多く、具体的にどこでどのような経費を削減したのかはよく判りません。
朝鮮は、朱子学の大義名分論を大事にするので、大きな論争点になるのは、実質的な待遇の良し悪しよりも形式的な面に集中するためです。
しかし、白石の方では、本当の狙いは幕府の財政難の救済にあったはずですから、できる節減は全部やったはずだ、ということだけは確かです。
それでも、陸路に当たる兵庫=江戸間の、京、大阪を始めとする各地の道普請あるいは修復、人馬割り等々の入用は、総額金19万2301両、米5385石に達しています。
また、この道中のために使用された人馬の数は、行きの場合には、通しで使った人足が310人、寄せ人足1万0691人、馬9754匹です。
帰りの場合には、通しで使った人足は同じく310人ですが、寄せ人足は1万2707人、馬8161匹という膨大な数字に達しています。
帰りの人足が若干多いのは、贈り物や土産で荷物が増えたためでしょうか。
したがって、諸大名が負担した分も含めた全体の経費がどのくらいに達したのかは判りません。が、想像するだけでぞっとするような金額になるはずです。
この数字が、その前回や、再び元に戻した次回に比べてどの程度の節減になっているのかはよく判りません。いつものことながら、幕府記録の喪失のためです。
白石だけがこうした記録を後世に残してくれたわけです。
川普請、すなわち治水事業に関しては、これまで言及してきませんでした。
しかし、江戸幕府は、その初期から積極的に治水事業を展開してきたことは、皆さんもよくご存じのことと思います。
例えば、江戸湾に注いでいた利根川を付け替えて、いまのように銚子に注ぐようにする、というような大規模工事は、既に初期段階で、関東郡代の手により実施されたものです。
一口に川普請といいますが、この時点までの実施方法は、その主体によって、公儀普請、大名手伝普請、自普請の3種がありました。
公儀普請とは、幕府自身が費用を負担するとともに自ら実施するものです。
自普請は、領主自身が行う領主普請と、農民が自ら実施する狭い意味の自普請の2種に分けることができます。
これに対して、大名手伝い普請というのは、幕府が諸大名に手伝いを命じるという形で、公共工事を大名を実施主体として実施することをいいます。
その場合、幕府は、工事材料の支給だけを行います。
江戸幕府は、本来軍事政権ですから、大名に軍事行動を行うように命令する権限があります。
家康時代、すでにその形態が変化し、江戸城等の城の建築を大名に命ずるという形が行われるようになりました。
これが手伝い普請の原型です。
川普請に関しても、その一環として、徳川幕府が成立した翌年の1604年に、松平忠利が三河国矢作川の川普請を命じられた、という例があります。
しかし、その後、1世紀の間は川普請について、大名に手伝い普請を命ずるという例はありませんでした。
綱吉の時代になって、この手伝い普請が復活します。
すなわち、1703年に大和川改修を姫路藩本多家等5大名に、1704年に関東地方の利根川、荒川の改修を秋田藩佐竹家等4大名に、1708年に富士宝永山噴火に伴う相模国酒匂川等の改修を白河藩松平家等5大名に、それぞれ命じた例が登場します。
家宣時代に入ってからも、1710年に伊勢国長島の新田堤の手伝い普請を上野国厩橋藩酒井家等3大名に命じた例があります。
ここに見たとおり、いずれも複数の大名に命じています。
この時に復活した手伝い普請は、荻原重秀の存在なくしては考えられません。
小普請組が実際の工事能力を失っていた、という話を綱吉の治世の一環として紹介しましたが、それは大名においても同じことです。
そのため、この時期の手伝い普請は、実際には町人や有力農民の請負で実施されていました。
請負人の選定は入札で行われましたが、その実施は幕府勘定所の所管でした。
手伝いの大名はそれには全く関与していません。
入札ですから、当然安価な札に落ちたはずです。結果として豪商や豪農がもっぱら請け負っていました。
普請に関して、手伝いの大名を指導して、彼らの担当する場所を振り割り、派遣すべき家臣数を決定し、落札した請負人や出すべき費用を通知したのもすべて勘定所でした。
老中や若年寄が普請の担当者として指定されたこともありましたが、実際には普請の開始から終了まで、江戸での実務はすべて荻原重秀が中心になって行っていたのです。
現場の指導者は、したがって、その地域の郡代や代官でした。当然、現場には代官等の手代が多数常駐して実際の指揮を行ったのです。
その結果、手伝いの大名は一応指定された場所に家臣を派遣しましたが、その数はきわめて少なく、実際上は、費用をその領地の石高の割合で負担するだけのものになっていました。
このように、荻原重秀主導で復活した手伝い普請ですから、新井白石の手により彼が失脚すると同時に、この手伝い普請も廃止になります。
1713年に幕府が各地の代官に向けて発した通知の中で、
各地の町人等が請負人となって行う工事は、施工者が、その地の案内を知らず、あるいは利得を得ることを狙って、十分堅固に工事を行っていないにも関わらず、代官所の手代などは、贔屓や賄賂のために、十分監督を行っていないという弊害があるので、今後は普請において請負人を使用することを停止する、
という旨のことが書かれています。
賄賂による工事の歪みだけを問題にして、請負をいきなりやめるというのは、問題のある発想といえるでしょう。
こういうところに、白石の儒者としての形式主義的発想の限界があったということができそうです。
このため、これ以降において手伝い普請を命じられた大名は、家老を惣奉行に任命し、現地に元小屋、出張小屋などの工事事務所を設け、多数の家臣等を長期にわたって現地に駐在させる必要が生じたため、施設建設費や藩役人の出張・滞在費が跳ね上がる、という結果になりました。
工事技術を失っていたはずですから、施工にあたってもさぞ苦労したことと思います。
冒頭にも述べたとおり、白石は、身分はあくまでも一介の儒者で、彼の政策はすべて老中からの諮問に対する答申という形で表明されます。
しかし、間部詮房としては側用人の活動の自由を確保するために、老中にできるだけ無能な人間をそろえています。
このため、自発的に政策を起案する能力が幕閣にありません。
部下が老中に指示を求めに行ったところ、今日は白石が休みだから何をしたらよいのか判らない、という返事があったという話が残っているほどです。
そのため、白石の答申した政策はすべてそのまま実現されたので、あたかも白石が政治の実権を握っていたかのような現象が生じるのです。
このような状態でしたから、老中達にとって、白石は怖い教師のような存在でした。
白石は病弱な人でしたから、結構欠勤が多かったのですが、そうすると、今日は鬼がいないからのんびりできる、と老中が言ったという話も残っています。
このように、無能な老中をそろえたことは、政治面では側用人や白石が存分に腕を振るえるので、好都合なのです。
が、重要な役職に意識的に無能な人間を据えているのですから、当然のことながら日常業務においては、弊害が発生します。
大きな問題の一つは、奥右筆(おくゆうひつ)の専横です。
右筆というのは、武家の書記役をいいます。綱吉が、1681年に、これを表右筆と奥右筆に分化させました。
すなわち、前章で紹介したとおり、綱吉は、それまで将軍の執務室の一画である大溜にいた老中を、御用部屋に追い出しました。
したがって、将軍についている書記とは別に、御用部屋専属の書記役が新たに必要になったのです。
そこで、従来通りの物書きとしての職務を担当していたものを表右筆と呼び、これに対して、御用部屋詰めの書記役を奥右筆として新設したわけです。
これは、本来は、余り偉い職ではありません。
平の奥右筆の場合で役高200俵、組頭でも役高400俵の布衣相当職です。
その業務は、本来は、役人や大名などからの書類や届けを整理し、老中や若年寄が下した決済を文書化するだけの仕事のはずです。
重要な問題なら、白石のところに諮問が来ます。
しかし、あらゆる問題について白石が関与することは不可能です。そこで、些事は老中や若年寄限りで処理されます。
ところが、綱吉時代以降、意識的に老中を無能な者にするものですから、これを補佐する奥右筆の実質的な権限がだんだんと膨れ上がり、老中の秘書官兼特別補佐官的な職務をこなすようになっていきました。
すなわち、老中や若年寄の決済を要する書類の場合、前もって先例を調査・検討する事が要請されるようになります。
ところが、先例を現在の問題に当てはめるといっても、ぴったりくるような例はあまりありません。そうなると、老中の諮問に応じて当否の判断を示す、ということまで、奥右筆の権限に入ってくるようになるのです。
こうなると、諸大名としては、老中に直接交渉するよりも、奥右筆に適当に工作をする方が話が早く、しかも安上がりになります。
つまり、奥右筆に賄賂を送っておけば、御用部屋での審議状況は筒抜けになる上に、先例や諮問意見を適当に操作することにより、老中の決定そのものを左右することが可能になるのです。
その結果、奥右筆を長く勤めている者は、非常に裕福という通り相場ができてきたほどです。
もう一つ深刻な問題が幕府評定所業務の停滞です。
先に、評定所留役に勘定所から出向するようになったことを紹介しました。裁判官である老中に判断能力がないために、この留役が、奥右筆と同様に、実質的にの判断が非常に評定所の決定に大きな影響を与えるようになります。
したがって、彼らに賄賂を送るなどすれば、有利な判決を引き出すことも可能になるわけです。
また、上司である老中が無能ということは、ちゃんと仕事の監督が行われないということですから、評定所留役達は、午後も早々に仕事をやめてしまうようになりました。
したがって、裁判そのものが非常に遅滞するようになりました。
そこで、白石は再三意見書を提出し、綱紀粛正の命令を何度も発させています。
勤務時間も申の刻、すなわちいまの時間でいえば夕方の5時までは勤務するように命じたのですが、人々は2時くらいには仕事をやめてしまい、後は定刻まで白石の悪口などを言いながら、ただ評定所に詰めている、という状態だったといいます。
また、不正行為のあった役人は追放し、また訴訟が100日たっても決着しない場合には将軍にそのことを報告しなければならない、ということを決めさせています。
しかし、家宣が死ぬと、こうしたことはすべてずるずると元に戻ってしまったのです。
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家宣の死は、詮房=白石コンビに非常に大きな影響を与えます。無能な老中達にとっては、このコンビなくしては実際の政治は不可能なのですが、嫌いなので、徹底的にサボタージュ戦術に出るのです。
白石が出した建議について、長く放置したあげく、「このことは世に行はるべからず」と付箋をつけて彼に戻すなどの嫌がらせが行われます。
白石だけではありません。間部詮房の活動も阻害されるようになります。
評定所においても詮房が出席したときは簡単な事件のみを行い、問題の多い事件は、彼の出てこない日に審理するのです。後日にこれが彼の耳に入っても、既に決着済みだからどうにもならない、というわけです。
確かに、白石の2大改革である通貨の改鋳と長崎新令は、家宣の死後に行われています。
しかし、この場合には、家宣の生前に、すでに路線がしかれていたことが成功した理由といえるでしょう。
家宣の死後においては、新規施策は、すべて無能な老中達によって阻まれた、といっても過言ではありません。幕府の公職に就いていない白石による改革の限界は、このような点に明確に存在していた、といえそうです。
間部詮房や新井白石が、もう少し自身の名利を追求する人間であったならば、自ずと実権が伴ったでしょう。
その結果、幼児将軍の時代にも改革が可能になったはずです。これもまた、大きな歴史のifということです。