4. 中期=享保の改革

 吉宗が将軍に就任した時の老中、要するに援立の臣は、土屋政直、井上正岑、阿部正喬、久世重之、それに戸田忠真の5人でした。

この中からまず、1717年に阿部正喬が辞任し、ついで翌1718年に土屋政直が辞任します。

そして1720年に久世重之が、1722年に井上正岑がそれぞれ死去します。

 この時まで待って、初めて吉宗は、本格的に改革に着手します。

この時点では、最後の援立の臣である戸田正真は現職の老中としてまだ存命中でしたが、既に72歳の高齢であり、しかも無能な老中の中でも特に消極的で無口な人であったといいますから、それが残っていても吉宗としては特に問題はなかったのです。

(1) 勝手掛老中の任命

 改革開始ののろしとして吉宗が断行したのは、就任時の選挙公約の一つの破棄です。

すなわち1722年5月15日に、約束を覆して勝手掛老中の制を復活させます。

任命されたのは、水野忠之です。

実をいうと、それは井上正岑の死の2日前のことで、既に危篤に陥ってからのことです。

ひょっとすると、正岑の死は、吉宗の違約を怒っての憤死かもしれません。

 吉宗政権における享保の改革の中心人物となった水野忠之は、三河国岡崎5万石の藩主です。

水野氏は、徳川家康の母の実家です。

要するに、家康から見ると、いとこに当たる血筋です。

そして、岡崎といえば家康誕生の地ですから、そこを領している忠之は、家柄からいえば、どこからも文句のでない譜代中の譜代です。

 吉宗は、彼を、まだその施政の初期に属している1717年に老中に起用します。吉宗が自らの意思で任命した最初の老中です。

しかも、彼以外は、その後しばらくの間は、全く新規の老中を任命することはしませんでした。

 先に述べたとおり、その間に援立の臣達は次々と欠落していきましたから、彼が勝手掛老中に任命されたこの時点においては、老中は、彼と戸田正真の二人しかいませんでした。

だから、勝手掛老中の復活は、実質的には、老齢で出仕もままならなくなっていた戸田正真をラインからはずす、というだけの意味しか持ちません。

これは誰が見ても自然なことです。しかも、何といっても忠之は名門中の名門ですから、一般の門閥勢力からは、この公約違反に対して、何の文句も出ませんでした。

おそらく、そのために、吉宗は不便を忍んで、老中の補充をあえて行わないでいたのでしょう。

 こうして、以後、水野忠之を中心として、あるいは彼を傀儡に立てて、という方が正確でしょうか、とにかく吉宗の改革政治がスタートすることになります。

(2) 上米の制

 それにしても、公約を破るのは、もう2〜3日待って、井上正岑がはっきり死んでからでも良かったのではないか、と思いませんか。

実は、そのわずか数日でさえも待てない事情が、この時の吉宗にはあったのです。それは、幕府財政の完全な破綻です。

 元々、吉宗が承継した時点においてすでに幕府財政は、新井白石と無能な老中達の対立により役人の志気が全体に低下している中で、かなり逼迫していたはずです。

 それなのに、吉宗は、無能な老中達のいうがままに、無造作に次々と白石の改革を否定していきました。

特に問題なのは、朝鮮通信使の接遇を元に戻したことです。

この時にどのくらいの費用がかかったかは判りませんが、節減に努めた白石の時で19万両かかったのですから、それをはるかに上回ったことは確かです。

そのほか、将軍の代替わりとなれば様々な経費がかかります。

 そうした中で、前項に説明したように、白石の慎重なタイムスケジュールを無視して急激なデフレ政策を採れば、景気が一気に落ち込むことは判り切っています。

 不景気になれば、冥加金、運上金その他、景気に連動する租税収入が落ち込むのは当然です。

年貢米収入は、本来は景気とは関係なく、豊作か不作かで左右されます。

しかし、この頃になると、幕府財政は完全に貨幣経済化していますから、この米をいったん換金しなければなりません。

したがって、デフレに基づく米価の下落によって、幕府収入は大幅な実質減になったのです。

 江戸城に奥金蔵というものがあります。

これは要するに幕府の非常用金庫で、毎年の経常収支で黒字が出るとここに入れ、特別の支出があるとここから支出するという性格のものです。

この奥金蔵は、明暦の大火でそれまでの金蔵が消失したので、1661年に新築されたものなのですが、その時には384万7194両もあったのです。

 今のように、政府収入が減れば国債を発行して賄えばよい、という時代とは違います。

経常支出が経常収入を上回れば、この奥金蔵の金に手を着ける以外にはありません。

 ところが、その非常用の資金が、1722年には、わずか13万6618両に過ぎなくなってしまっています。

この当時の財政赤字がそれほど大きくなっていた、ということを意味しています。

すなわち、非常用資金に手を着けている、ということは、毎年の歳入では、まったく歳出を賄えない状態に陥っていた、ということです。

これほど財政が逼迫してしまっては、幕臣に対して、俸給、すなわち蔵米を渡すにも困るほどになったようです。

 要するに、吉宗政権のこの時期に発生した財政危機は、門閥=譜代層の人気を得るために行った、初期の無原則的な行財政運営の必然の結果だったということができます。

 そして、1722年には、改革の開始をもう数日の遅延も許されない、ぎりぎり待ったなしの状況に、吉宗は陥っていたのです。

 同年7月3日に、短期的な対策として、上米(あげまい)の制が導入されます。

先に紹介したとおり、水野忠之が勝手掛老中になったのが5月15日のことですから、ほんの一月強の時間でこの、屈辱そのものというべき重要な新制度が走り出したのです。

吉宗にとって一日を争うきわどい時期だったということがよく判ります。

 上米の制の御触書を口語訳して、次に紹介してみましょう。

「旗本・御家人の数が、将軍の代を重ねるにつれて、段々と多くなった。

蔵入地からの年貢収入も、以前よりは増加しているが、切米、扶持米その他経常支出と比べると、結局毎年不足している。

特に今年の場合には、切米を支給することも難しく、行政費用にも差し支える状況となっている。

そこで、幕府では、和泉守(水野忠之の意味)に命じていろいろ詮議を重ね、年貢の増強と新田開発等の政策によってこの財政危機を切り抜けることにした。

しかし、それは急場の間に合わない。

そこで、これまでこのような沙汰はなかったが、万石以上の大名より米の上納をするようにと命じようと思われた。

そうでないと、御家人を数百人も解雇しなければならないので、恥辱も省みず、命じられたのである。

1万石について100石の割合で上納しなさい。

その代わり、江戸滞在を半年ずつ免除されるので、国元でゆっくり休息するようにとの仰せである。」

 つまり、これは、万石以上の家禄を持つ諸大名に対して、石高1万石について100石割合で米の上納を命じるという制度です。

綱吉の時代であれば、宝永山の爆発時の臨時不動産税に見られるように、特別の代償なく命ずることが可能でしたでしょう。

しかし、このころには幕府の権威は揺らぎ始めていましたから、幕府としては頭ごなしに命ずることはできません。

このままでは、数百人も解雇する外はない、なんてみっともないことでも正直に言うほかに、大名の協力は得られなくなっているのです。

また、租税として課することはできず、代償の提供が必要でした。

そこで、参勤交代の年限を半減するというのです。

参勤交代は、幕府権威の象徴のようなものですから、これを代償にするということは、幕府がかなり追いつめられていたことを示しています。

この上米量は年間で18万7000石あまりになり、切米総額の半分に相当したといいます。

 なお、ここに出てきた切米というのは、以前に出てきた蔵米と同じ意味で、知行取りではない幕臣に対して、給与として、浅草の御蔵から米の現物給付を行う、その米のことです。支給は、春、夏、冬の3回行われました。

扶持米というのは、切米のことも意味することがあります。

が、この場合のように、切米と並べて使用するときは、本俸に加算される各種の手当てとして理解してよいでしょう。

当時は、管理職手当や出張手当なども、建前としては米で支給されていたのです。

実際には、家族が実際に食べる分だけは米でもらいますが、それ以外は初めから現金でもらっていました。

 上げ米制は、幕府財政が一応の好転を見た1731年に廃止されますから、ちょうど10年続いたことになります。

    *     *     *

この上げ米制を実施していた期間が、ほぼ、享保の改革の実施期間と見ることができます。

本稿が関心を持っているのは、本来財政改革だけなのですが、この改革における財政改革は、経済政策における改革及び機構改革と密接に結びついて行われています。

そこで、以下では、経済政策、機構改革、財政改革の順に説明したいと思います。

 

5. 享保の経済政策における改革

 この享保期には、社会そのものが大きな曲がり角にさしかかっていましたから、財政政策は、それ単独で行うことは不可能です。

すなわち、広範な経済政策が存在して、はじめて財政改革は可能になります。

そこで、具体的な財政政策を紹介するに先立って、まず経済政策における改革を見てみましょう。

(1) 土地政策

 これについては、これまでほとんど触れていませんから、江戸初期から大急ぎで振り返ってみましょう。

 封建経済というものは、基本的に健全な自営農家からの収奪に基礎を置いています。

換言すれば、土地が商品化し、流通するような状態が発生しては、封建経済は崩壊せざるを得ないのです。

江戸幕府はこの点を正確に理解していました。

そのことが端的に現れているのが、1643年に出された「田畑永代売買禁止令」です。

売買を禁じることにより、農地の商品化を防ぎ、未来永劫に安定的な年貢米徴収を可能にしようとしたわけです。

 そのためには、農村が貨幣経済に巻き込まれてはいけません。

肥料を入会(いりあい)の山から無償で採取している限りは、農村は自給自足が可能ですから、貨幣経済が入り込む余地はありません。

しかし、江戸初期において、領主は、より多くの年貢米収入を求めて、せっせと荒れ地を切り開いて新田を開発しました。

こうした過度の新田開発により、入会の山野が失われてくると、肥料を得るために、農村は嫌でも貨幣経済に組み込まれていくことになります。

 手元に金がない状態で、資金が必要な事態が発生した場合、自営農民としては、その有する唯一の資産である農地を質入れして借金をせざるを得ません。

その返済期限が経過しても借金が返済できない場合、質流れという問題が発生します。

これは幕府から見た場合、田畑永代売買禁止令の脱法手段ということになりますから、初期においては質流れは禁じられていました。

しかし、それでは農民として金融を受ける手段を失い、かえって問題が深刻化します。

 そこで最初に行われた改革が、綱吉による「質地取扱に関する12箇条の覚え」で、1695年のことです。

これにより、農地の質入れの場合には、質地証文の文言通りに、質流れによる農地所有権の移動が起こることが認められました。

ただし、この触れでは、質入れ主の土地請け戻し請求権は無期限に留保され、何年たった後でも、借りていた資金を返済しさえすれば土地所有権を取り戻すことができました。

なお、この当時、土地を担保の借金というのは無利子というのが普通でした。

利子相当分は、質にとった土地の生産物から得るわけです。

 吉宗は、貨幣経済の浸透状況を見て、治世の初期の段階で、早くも思い切った改革を始めます。

すなわち、1718年には、土地請け戻し請求権の期間を10年に制限し、また1721年には質地請け戻し請求権者の資格を制限して、質流れが容易になるようにしました。

貸し主に有利な方向への大幅な制度改正です。

 ところが、こうした進歩的な政策が「援立の臣」である井上正岑の逆鱗に触れました。

そのため、1722年4月に、逆に「質流れ禁止令」が出されました。

これは、綱吉以来認められていた質流れを全面的に禁止し、かつ小作料率を制限する(言葉を換えていえば金利を制限する)という内容のものですから、農村に大変な衝撃を与え、質地騒動と呼ばれる大規模な一揆を引き起こしてしまいました。

すなわち、このお触れの伝達を受けた越後国頸城郡下の村々などの村役人達が、これは自分たちに不利だと握りつぶして一般農民に伝達しなかったのです。

ところがそうしたお触れがでたことを一般農民が知り、村役人を突き上げたことに端を発して大騒動になりました。

結局、代官所の手には負えなくなって、近隣藩の兵力を借りて鎮圧した、という事件です。

幸いにも、井上正岑はその直後の5月17日に死亡しますから、吉宗はこれ幸いとこの逆行法令を直ちに廃止します。

 この農地の流通制限の緩和という政策は、なぜか従来の日本史ではあまり重視されておらず、高校の教科書には片鱗も見えません。

しかし、いわゆる享保の改革は、この政策に依存する形で行われた、といっても過言ではありません。

 すなわち、年貢の増徴は、幕府が、農村の大農層と結びつき、彼らの手を借りて小規模農民を搾取する、という形で行われていったのです。

このため、1722年には早くも身代限り法が設定されています。

これは、小作料を滞納した場合には、その農民を身代限りにする、という法です。

 身代限りとは、簡単に言ってしまえば今日の破産手続きのことです。

具体的には、債務者の財産を没収し、強制換価して債務の弁済に充当するという方法です。

 吉宗時代の末期、元文改革の時期に入ると、この傾向はさらに強化されます。

1740年には、小作料は年貢と同様に扱うという地主保護が初めて、正式の制度となるのです。

こうして、明治に向けて、大土地所有の傾向が促進されていくことになります。

 農地の商品化自体は、確かに必然的な時代の流れです。

井上正岑のように、一片の法令を発することで、その流れを、一気に綱吉よりも前の状態にまで戻そうとしても無理があります。

しかし、吉宗の享保の改革なるものは、単に時代の流れとして受け入れる以上に、積極的にその流れを押し進めるものです。

 農村における経済資本の強化こそが、幕府財政の危機を救うものだ、という認識を、いったいどこから吉宗が持ったのかは判りません。

しかし、これについては、試行錯誤の形跡が見られません。

吉宗の一貫した意思の下に実施されているのです。

このように、時代を正確に読みとり、それに的確に対応するという天才的な着想を吉宗がどういう経緯で得たのか、知りたいものだ、と思います。

誰かこのことを献策したブレーンがいたのでしょう。

 ただ、このことは、封建制の根底を成している自作農の崩壊の方向に積極的に機能しているのです。

その意味で、徳川封建体制の崩壊の方向に大きく一歩を踏み出した政策であったことは、否定できない事実です。

本章の冒頭で、「春秋の筆法を借りれば、江戸幕府を中心とする封建制を破壊したのは吉宗である」と述べましたが、それは以上のことを念頭に置いてのことです。

(2) 農業政策の大転換

 日本型封建制の基盤を作っているのは、ご存じのとおり、各領地における米の収穫量です。

したがって、幕府も含めて、領主は、農民に原則として米以外のものを作ることを禁じます。

代表的なものとしては、1628年に出された「田畑勝手作りの禁」という法令があります。

そこでは幕府直轄領でも大名領で共通で、田畑にタバコ、木綿及び菜種の栽培を禁じています。

 前述のとおり、長崎新令を吉宗はさらに強化して実施しますが、規制が厳しくなるほど、新令を潜脱する不正貿易が増加します。

これに対しても、吉宗は、厳しい禁圧策を取ります。

 しかし、こうした不正貿易を根絶するには、抜け荷商品に対する国内需要を消滅させるのが抜本的な対策となるのは、前章で指摘したとおりです。

そこで、吉宗は、適地適作で、様々な産物の国産化奨励を行うという方針に切り替えたのです。

 また、そうした輸入品は、換金作物という性格をもっています。

先に述べたとおり、農村に貨幣経済が浸透してくると、担税者である農民の経済力を少しでも増強してやる必要があります。

 こうして、上述の田畑勝手作りの禁は、正式には解除されてはいないにも関わらず、なし崩し的に積極的な殖産興業政策が導入されることになるのです。

 上げ米の制の紹介で、新田開発が公約されたことを紹介しましたが、この時の新田開発にはそれまでにない特徴があります。

それは、武蔵野新田82ヶ村に代表されるように、畑地新田が登場してきたことです。

米の作れない畑をわざわざ幕府が新田開発する、というのは、これ以前には考えられなかったことで、適地適作政策が前提にあるから実現したことです。

 1734年に幕府が命じて諸国物産調べを行っています。

これも適地適作政策の浸透状況の調査として理解することができます。

 この適地適作政策は、必ずしも急速に浸透したとはいえません。

例えば幕府のお膝元ともいうべき関東地方で、幕府は、積極的に菜種栽培の奨励を行います。

しかし、農民の方では、度重なる幕府の奨励にも関わらず、収穫が増えれば、どうせこれにまた重い課税が行われるのだろうと疑心暗鬼になって、作付けしてもろくに肥料もやらない有様だったといいます。

関東地方の農村における貨幣経済の浸透の遅れが、こうした反応を導き出したものと思います。

したがって、幕府領に関する限り、この政策の中心は、西日本になります。

 この吉宗の方針の転換によって、この時以降、各地に様々な名君が出現することが可能になります。

彼らは、いずれも換金作物を、地域の特産品として栽培することを推進し、それを藩の専売とすることで、藩の財政建て直しに成功しました。

たとえば肥後藩主細川重賢(しげかた。1720〜85)、米沢藩主上杉治憲(はるのり。号鷹山=ようざん。1751〜1822)、秋田藩主佐竹義和(よしまさ。1775〜1815)らが、藩財政の建て直しに成功したのは、本を質せば、この吉宗の基本政策の大転換のおかげ、ということができます。

 A 絹の国産化

 絹は、こうした吉宗の輸入作物国産化奨励策の一環として、ようやく全国各地で生産されるようになります。

これ以前には、わが国に養蚕技術が全くなかったため、輸入品の第一は生糸でした。

秀吉の朝鮮出兵も、その目的は、生糸貿易ルートの確立にあったという説があるくらいです。

面白いことに、生糸から布を作る技術に関しては、わが国は、戦国期に既に世界的に見ても一流の段階に達していました。

宣教師の報告でも、その水準を褒めそやしているほどです。

 国産の生糸もないわけではありませんが、生産量はわずかなものでした。

当時の国産生糸がどのような品質のものだったかは、はっきりしません。が、田畑に桑を植えることが法的に禁じられていた以上、今日の山繭に相当するものだけがあったのではないでしょうか。

1800年代に書かれた養蚕書によると、この享保期には、生糸生産量が江戸初期の4倍に達したといいます。

が、元が低いのですから、全体としてまだまだ大したものではありませんでした。

 しかし、享保の改革により、吉宗が積極的に奨励するようになった後は、各地で爆発的に生産量が増加します。

その結果、江戸期後半には、従来とは完全に逆転して最大の輸出品目に成長し、さらには明治以降の我が国の文明開化をも支えてくれることになります。

 B 木綿の国産化

 木綿も、絹と同様に、吉宗の奨励策により広がった換金作物と考えられます。

元々木綿は日本には育たない植物で、何度か導入が試みられますが、戦国期までは、全て失敗に終わります。

したがって、室町時代では、わが国の代表的な輸入品でした。

しかし、それまでの典型的な衣料であった麻や苧(からむし)に比べ紡績効率が良く、また保温性などにも優れていたため、希少かつ高級な衣料として、軍事その他多方面で人気を博します。

その結果、様々な努力により、徐々に国産化も進んだことは確かです。

 日本史学者の中には、1628年に幕府の出した、農民を統制する「土民仕置覚(どみんしおきおぼえ)」という法令の中で、一般の農民は「布、木綿ばかり之を着るべし」としていることから、このころ既に、衣料として一般化していたと見る人もいます。

しかし、この法令が本当に農村の実体を捉えていたものか、疑問です。

というのは、ここで木綿と併記されている「布」というのは、粗末な絹布を意味するからです。

前述の通り、生糸の国内生産はその時点では全く行われておらず、その後も一貫してわが国輸入品の第1の座を占めていることから考えて、この法令がでた当時には、どのような品質のものであれ、農民が農作業用に絹布を着ることができたとは思えません。

 また、同じ1628年に出された法令である「田畑勝手作りの禁」では、前述のとおり、田に木綿を作ってはいけない、と定められて、明確に栽培禁止になっていることも、合わせ考えるべきです。

 先に述べたとおり、木綿はわが国の気候風土に適合していない、栽培の難しい植物なので、それを国内生産するには、米とは比較にならないほど大量の肥料と人手を必要とします。

田の畦や農家の庭先などに片手間に植える程度では、おいそれと育ってはくれない植物なのです。

そうした状態下で、木綿が農民の日常着になるほど、一般に普及するほどの生産量があった、とは思えません。

 江戸初期において、どの程度木綿の国産が行われていたかを示す史料は全くありません。

しかし、戦国時代同様、この時代も、木綿がオランダや中国からの輸入品だったことは間違いありません。

朝鮮からの輸入品では、文句なしの第1の輸入品でした。

綿布に対する貿易需要が大きいということからみても、国内生産が非常に少なく、とても農民の衣料になるような状態ではなかったと考える方が妥当でしょう。

柳田国男は、元禄の初めの江戸において、木綿は「優雅な境涯を連想する」ほどの高級品だったと述べています。

 このように見てくると、吉宗が木綿増産にゴーサインを出すことによって、木綿の本格的な国産化がようやく緒についた、と考えるのが妥当です。

それ以降、木綿は田で栽培されるようになります。

 人の姓で「半田(はんだ)」というのがありますが、これは実は木綿栽培をした田の異名です。

半田は別名掻揚田(かきあげだ)とも呼ばれます。

田は元々は平らですが、そのままでは木綿が栽培できないので、田の土を掻き揚げて畦状に盛り上げ、そこに木綿を栽培します。

溝になった部分は、それまで通り水稲を栽培するわけです。半分だけ水田なので、半田というわけです。

まさに日本的集約農業の極致とも言うべき農法でした。

 では、こうして大量に生産されるようになると、木綿は安くなっていったでしょうか。そうはならなかったはずです。

 なぜなら、木綿を作るには、繰り返しますが、田の掻き揚げに代表される膨大な労力と、大量の肥料が必要です。

江戸初期には、肥料は普通堆肥で、それは山野から(まぐさ)を刈ってきて生産していました。

ところが、吉宗は、年貢増収策の一環として、初期の頃には積極的に新田開発を行わせました。

新田が作られた場所は、普通、それ以前は草刈り場として活用されていたところですから、新田が開発されるにしたがい、堆肥をつくるのが急に難しくなってきます。

この頃の民政家の一人田中丘隅(きゅうぐ)が書いた「民間省要(せいよう)」という本には、草一本抜くにも毛を抜くときのように大切にしても、十分な堆肥を作れない村が増えている、と書かれています。

 堆肥が作れないとなれば、肥料を買うしかありません。

この当時、金肥(きんぴ)、つまりお金で買う肥料の中心は干鰯(ほしか)でした。

したがって、木綿が大量に国内生産されるには、まず第一に、漁業が大規模化して、鰯が日常消費量を超えて、大量に漁獲される状況が生まれなければなりません。

干鰯の代表的な供給地であった房総半島の九十九里浜の場合、地引き網を利用しての鰯の大量漁獲が始まるのは、1700年代に入ってからだとされています。

それに加えて、干鰯を生産し、産地に供給する業者の存在が不可欠のものでした。

そうした江戸干鰯問屋が成立したのもこのころです。

 干鰯の需要は、かなり急速に高くなったらしく、先に挙げた民間省要では、以前は干鰯は1両で50〜60俵は来たのに、1720年の頃には7〜8俵くらいしか手に入らない、と書かれています。

つまり20年程度の間に10倍近くも跳ね上がったわけです。

このように高価な金肥を使わざるを得ない上にきわめて労働集約的に労力をつぎ込まなければならないという生産構造から考えて、木綿の値段は、必然的に、一貫してかなり高かったはずです。

前章で、日朝貿易では、1780年以降の輸入品の3分の2は木綿だったということを紹介しました。

これは、朝鮮からの輸入品が十分に価格的に引き合うほどに国産品が高かったことを示しています。

 全国的に大量に作られるようになった幕末にいたっても、そう安い商品ではありませんでした。

そのことは、明治になって貿易が自由化されるとともに流れ込んできたイギリス製の綿製品、要するに舶来品に、価格的に全く太刀打ちできず、木綿の国内生産があっという間に衰退し、消滅した事実が、端的に示しています。

 C 吉宗は木綿が大好き

 巷間言われるところによれば、吉宗は幕府の倹約策の実施を、自ら模範を示すため、着物は木綿しか着なかったといいます。

しかし、これは、当時の木綿を、今日の綿製品価格と絹製品価格のイメージから把握した誤った考えであることは、上述の説明から明らかでしょう。

 吉宗の時代には、木綿は、間違いなく絹と同様の高級品だった時代なのです。

したがって、もし、倹約令の範を示す目的であれば、当時もっとも安い衣料だった麻等を、1年を通して着ていた方が、はるかに効果があったはずです。

 したがって、仮に木綿を着ることによる宣伝効果を狙ったと考えるなら、むしろ、農業政策の大転換を端的に示すパーフォーマンスとしての性格をもっていたと考えた方が妥当でしょう。

ただ、その点では、国産の絹を愛用してみせても同じ意味を持ったはずなのです。

 確かに、ある老中が絹物を着て吉宗と会ったところ、全く口を利いてくれないので、あわてて木綿物に着替えたという話はあります。

しかし、以上のように絹生産の奨励策を採っていた吉宗が、そのように絹物を嫌ったというのも奇妙な話です。

 功績のあった部下に将軍お召し物を下賜するということは、江戸時代における標準的な表彰方法でした。

吉宗は、その下賜用の着物だけは絹で作らせていたのです。

もし、吉宗が木綿だけを着ていた理由が、木綿愛用を部下にアッピールする目的であったのなら、下賜用のお召し物も木綿で作らなければ、意味はないはずです。

この話は、吉宗に、絹の愛用をアッピールする意思もまた十分あったことを示しています。

 この当時の国産絹は粗悪でした。そのため、一目見れば、輸入品の絹か、国産品の絹かの見分けがつく状態だったのです。

したがって、その老中は輸入品を着ていたことが逆鱗に触れたのではないか、と私は想像しています。

 したがって、吉宗が木綿をもっぱら愛用したのは、単に彼が、着て暖かく柔らかい木綿の方を好んでいたと見るのが、一番素直なのではないかと考えます。

先の拝領用の羽織さえも実際には袖を通さず、脇に積んでおいて与えたといいます。

このエピソード自体、倹約の1例として従来語られてきましたが、これはその好みの反映と考えるのがやはり素直な理解でしょう。

綿製品といえども久留米絣のように、非常に高級な物が存在しています。

吉宗が、粗末な服を着ていた、というのはおそらく、国産の綿製品の質がまだ劣悪だったためではないでしょうか。

    *     *     *

 このように、換金作物の栽培を促進すること自体は、長崎貿易による貴重な金銀の流出を防止する、という意味で、きわめて重要です。

しかし、それが農村に貨幣経済の流入を促進する政策であったことも否定できません。

すなわち、自作農と並ぶ封建制の根底である農村の自給自足経済は、この時以後、急速に失われていくことになります。

(3) 米価の調整

 綱吉時代の紹介でも少し述べたとおり、米というものは商品ですから、豊作になると、値下がりします。

したがって、せっかく苦労して年貢徴収量を増やしても、単に市場に任せておくと値下がりする結果、幕府歳入はほとんど変わらないか、年貢米が増えた分、かえって減少する、というようなことが起こります。

 そのように、米が値下がりすると困るのは、米を俸給の基礎としている大名やその家来です。

もちろん、幕臣も同じことです。

それでも、吉宗が登場する以前は、物価変動は、武士の生活にはあまり影響を与えませんでした。

なぜなら、物価の中心は米の価格だったからです。

すなわち、米の売却価格が下がると、それに連れて諸物価も下がるので、結果として武士の生活水準は一定に保たれたからです。

 ところが、吉宗は換金作物の奨励ということを行いました。

その結果、享保の改革が広範囲に浸透すればするほど、物価水準と米の価格が乖離するという現象が起きてきます。

すなわち、年貢増徴策により、米の収入が史上空前のレベルに達すると、それに対応して米価は下落します。

ところが、それは米の独歩安で、諸物価の方は下がらない、ということが起きてきたのです。

こうなると、米価の値下がりは、大名や旗本御家人など、武士の生活を直撃します。

 吉宗は、幾度も指摘したとおり、譜代層の人気に敏感な人です。

そこで、吉宗は、彼らの生活を救済するため、市場に対する米の供給量が増加しても、米価を人為的に高くできないか、ということを考えます。

そこで様々な手段を講じます。

 重要なのが、米に関する商品取引所を設置して、空米(からまい)取引、すなわち実需の伴わない投機的な売買を行うことを公認した、ということです。

それまでの幕府の政策では、投機行為は厳格に禁止されていたことを考えると、180度の政策転換といえます。

1725年に堂島に設置された米会所がそれです。

しかし、大阪商人が市場の幕府管理を嫌ったため、1730年以降は、商人主導型の堂島米市場として発展していくことになります。

 吉宗は、単に投機を公認しただけではありません。

幕府自身が積極的に市場介入をして、投機をあおる、という行動に出ます。

すなわち、米の相場を一定以上に支えるために、全国の商人に命じて一定の資本の蓄積を行わせ、価格が下がるようだと買い出動して値段を支えるという手段を用意したのです。

これが買米令です。

例えば1730年には、年貢米60万石は籾のまま貯蔵しておいて市場には出さず、他方、60万石を市場で購入するというような買い支え活動を行っています。

 このように強力に米価の維持を図ったため、吉宗は米公方とあだ名されたといいます。

しかし、先に紹介したように、強力な年貢米増徴策をとっている一方で、このように人為的に価格維持政策をとっても、おのずと限界があります。

吉宗の改革の最終的な破綻は、ここから生じてきます。

しかし、それが表面化するのは次代将軍家重の時代に入ってからのことですから、それについては次章で説明したいと思います。

(4) 消費者物価の抑制と株仲間

 消費者物価の抑制については、米の価格という一点で操作する以外に、消費者物価全般を押さえ込むという方法があるはずです。

 吉宗政権の異常なところは、本来財政全般にわたって権限を有しているはずの勘定所が、後に紹介するように、ほぼ年貢増徴策に専従してしまっている点です。

 したがって、消費者物価の抑制というような、本来なら全国的視野から行われるべき経済政策を、江戸市民に対する民政を担当するのが業務であるはずの、町奉行大岡忠相がもっぱら担当していました。

当然の事ながら、江戸の利益という、狭い窓からこの問題を考えるので、長い目で見た場合には、問題のある施策が多かったようです。

 大岡という人は、名奉行として名高く、時代劇の主役として、いまだに抜群の人気です。

しかし、少なくとも経済官僚としての大岡は、権力志向が強い不愉快な人物です。

すなわち、経済の流れを円滑にする形で物価の安定を図るのではなく、強権的に抑制する形で物価安定を行おうとする傾向が強いのです。

 人は誰でも、他の人が頭を働かせて儲けているときに、自分が立ち後れて儲けられないのは嫌いです。

だから、商人の間に適切な相互監視システムを作って、大きく儲けている者がいたら、外の仲間に、それを抑圧できるような力を与えてやれば、自ずと適正利潤の範囲で物価は動くに違いない、というのが大岡の発想でした。

要するに、援立の臣達が、倹約令の徹底に使ったのと同じシステムを、嗜好品ではなく、生活必需品に拡張しようという発想なのです。

 今も大して変わりませんが、当時、様々な生活物資の供給過程には、三つの段階がありました。

問屋、仲買、そして小売りです。そこで、大岡は、日常生活関連商品について、この3段階に応じて、強制的に同業組合(株仲間)を作らせ、相互監視させるというやり方を導入しようとしたのです。

封建制の中心的商品である米の場合は特に複雑で、上方産の米と関東産の米では別の組合というような制度になっていました。

 株仲間が、十分に商品価格監視機構として機能するためには、商品は、この株仲間に属している者にしか売ることはできない、という独占的権利を官が与えなければなりません。

そうでなければ、頭の働く者ほど、このような組合に加入したがらないからです。そこで、その独占権を官が承認しました。

 本来、独占企業やカルテルの禁止を徹底する方が物価の安定につながる、というのは今日の常識ですが、幕府もそのことは承知していて、従来はそうした独占的株仲間を厳しく取り締まってきていました。

しかし、相互監視の便宜という姑息な目的のために、カルテル結成権を承認した点に、大岡の施策の異常性があります。

いかにも彼らしい陰湿な手法といえます。

 嗜好品と違って、この場合には、商人の側の抵抗も強く、なかなかスムーズには進みません。

最初の命令は1724年に出され、その時には22品種について株仲間を作らせようとしたのですが、様々な曲折の結果、何とか1726年になって、ようやく15品種についてだけ、業者状況の把握だけは形式が整います。

しかし、この場合にも、法令の中に、仲間とか組合という文字が一切見えません。

例えば新規営業や所替えの届け出にしても、株仲間ができたのであれば、そこを通じて行われるはずですが、個々の業者が直接奉行所に届け出るように定められています。

 このあたりの事情については資料がなく、想像するしかありません。

私は、業者側は、独占組織としての既存の株仲間の承認を得ようとしたのに対して、奉行所側では物価抑制メカニズムとしての株仲間を考えたために、要するに同床異夢であったために、細部の構造に差異が生じて話がまとまらなかったことが、こうしたずれになって現れているのだと考えています。

 従来は海の上には関所はありませんでした。

しかし、彼は江戸に入るためには必ず寄港する浦賀に関所を作り、ここで商品の流通量を監視する、というシステムを作って、株仲間の相互監視の適正さを監視するようにしました。

 しかし、このような手法による価格統制がうまくいくわけがありません。

今日の言葉で言えば、大岡忠相は、業者に対して談合を行うための合法的な場を提供してやったにすぎないからです。

 1732年に近畿以西を襲ったイナゴの害のために、同年暮れから江戸の米価もぐんぐん上昇しました。

その機に乗じて、上方問屋では、大量の米の買い占めをしました。

たとえば上方問屋組合の代表者高間伝兵衛の店では18万石の米を溜め込んでいたといいます。

このため、1733年1月に江戸市民の怒りが爆発して、米問屋は数千の市民によって襲撃されます。

この後、大都市における名物となった「打ち壊し」の一番最初の事件がこれです。

 こうして、物資の入荷をコントロールすることで、消費者物価を抑制しようとする試みは失敗に終わることになります。