6. 享保の機構改革

 上げ米の制は、所詮一時しのぎの手段にすぎません。

それどころか、長期にわたって放置した場合には、幕府の権威の失墜は必死です。

吉宗としては、この苦肉の策で稼いだ貴重な時間を利用して、抜本的な対策を講じ、幕府財政を改善させねばなりません。

 吉宗という人が偉かった点は、それを可能にするためには、従来の機構ではだめだということを理解していた点です。

そこで、各種機構改革にまず着手します。

(1) 足高の制

 将軍の独裁を実現するには、譜代か否かという身分に関わりなく、有能な者を起用して、重要な職務を行わせる体制を確保することです。

そのための重要な手段が、1723年に導入された足高(たしだか)の制です。

 有能な人間を発掘して、これに実務を任せることにより、門閥勢力を押さえて将軍の独裁をはかるという綱吉の発想は正しい、といえます。

しかし、そうした人間に、役職相当の俸給を支給する手段としては、封建制の下においては加増することしかありません。

その結果、その能力に応じてやたらと加増してしまうと、その子孫は、能力の有無に関わりなく、それだけの禄をはむ事になり、第二、第三の門閥勢力を作り出すに過ぎない、ということに吉宗は気がついたのです。

そこで、特定の役職に任官中は、その役職にふさわしい俸給を支給しますが、その役を降りた後は、元の家禄に戻すという制度を導入したのです。

 日本史の教科書などでは、これを今の役職手当と説明しているものが多いのですが、間違いです。

綱吉の財政改革で説明したとおり、今の役職手当に相当する役料という制度は、江戸時代でも、かなり早くから誕生しており、綱吉の段階で、既にきちんと制度化されていました。

 確かに足高の制では、役料を増加させると書いてあるものですから、役職手当と思うのも無理はありません。

しかし、これにより導入されたのは、今の俸給表の発想と同じで、官職と俸給を連動させるが、それはあくまでもその人が生きている間に限って、ないしはその官職にある間に限って高い俸給を支給する、という制度です。

したがって、その実体は本俸の増加と理解すべきです。

 勘定奉行について、特にこれは重要でした。

というのは、勘定奉行は、幕府財政の要であり、また、財政を理解するには、長い財政関係の業務経験が必要だからです。

ところが、前述の通り、勘定奉行は3000石の旗本が就任する職とされていました(なお、役料は700俵です)。

しかし、普通、勘定方に3000石取りの旗本はいません。

このため、生え抜きの勘定方の起用は、なかなか難しかったのです。

 足高の制は、この本俸と、格式の差を埋める機能をもちます。

仮に、500石取りの家柄の旗本が勘定奉行に任命されたとします。

するとその格式である3000石と500石の差、2500石相当が、その在任期間中に限り、足されることになります。

もっとも、実際に3000石取りの旗本になるのではありませんから、領地を与えられる、ということはありません。

それ相当の蔵米が支給されるということになります。

4公6民という公定租税率で支給されますから、実際に領地を与えられるよりもはるかに得です。

手取りは1200石ということですから、1俵を4斗と換算すると3000俵が支給になる計算です。

それとは別に役料700俵も、もちろん支給になります。

元の500石取りだと500俵の手取りですから、一躍7倍強の給料となるわけです。

 この足高の制を導入したおかげで、1730年以降になりますと、勘定吟味役経験者など、勘定所内部から勘定奉行へ登用される例が増えます。

特に千石未満、特に上記に例示した500石取り程度のものからの登用も増えてきます。

後で紹介する元文改革の立て役者神尾春央もその一人です。

このため、勘定方は、低禄の幕臣の登竜門と化し、有能な若者はこぞって勘定方を目指すことになります。

(2) 勘定方の機構改革

 享保の改革は、財政改革を目的として行われたのですから、その中心となるべき勘定方は、そうした重荷に耐えることができるように、この時期に大幅な機構改革、正確に言えば拡充が行われています。

 A 公事方の新設

 1721年に、公事方と勝手方に分かれます。

勘定所の業務の中心は、これまで何度も述べてきたとおり、幕府直轄領の管理です。

この管理という言葉には、単に年貢の徴収ばかりでなく、民政安定事業のすべてが含まれています。

三権分立制のない時代ですから、その重要なものとして裁判所としての機能があります。

捕物帖によくでてくる刑事裁判所としての機能ばかりでなく、民事訴訟も受け付けます。

 ところが、元禄期以降における我が国経済の発展から、非常に訴訟件数が増加してきた結果、勘定所が、他の業務の傍ら処理する程度では、訴訟の処理が著しく滞るようになってきたのです。

逆にいうと、訴訟処理に人手を取られて、租税徴収等の本務が滞るようになってきた、ということだったのかもしれません。

 勘定所に係属した訴訟件数そのものは判っていません。

しかし、江戸市民だけを対象に、同様の機能を果たしていた江戸町奉行所に関する件数は判っています。

それによると、1718年に持ち込まれた訴訟件数が3万5790件で、そのうち3万3037件までは金公事(かねくじ=金銭を巡る紛争)だったといいます。

吟味方与力がどんなにがんばっても、新規係属事件の3分の2は翌年回しになっていたというのです。

迅速な裁判は、どんな時代にも、裁判の信頼を確保する上で重要なことですから、訴訟の遅滞がこれほど大きくなったということは深刻な事態です。

 江戸市民からの民事訴訟だけでこれほど多かったとすれば、全国400万石に達する膨大な幕府直轄領を管轄区域とする勘定所の事件数が、これを大幅に上回っていたことは間違いありません。

 このように、幕府の全裁判機関が、金公事のためにパンクしかかっていましたから、吉宗は訴訟の絶対的な件数を減らすべく、まず1719年に、有名な「相対済まし令」を発します。

訴訟を一々幕府に持ち込まず、できるだけ債権者・債務者間で話し合って決着するように、というお触れです。

学者によってはこれを単純に米価の暴落に苦しむ武士の救済策と見て、後の松平定信の寛政の改革で出された棄捐令(きえんれい)のように、債務を踏み倒して良い、という内容と理解している人もいます。

しかし、金公事に関する裁判は受け付けない、といっているのではなく、単にそれに先行して当事者間の話し合い義務を課しただけと見るべきです。

要するに、訴訟として提起されたものを一時的に押し返すだけのものです。

したがって、これは所詮時間を稼ぐ策に過ぎません。

 そこで、抜本対策として、勘定所の機構を全面的に改革した、というわけです。

従来の本務を行う部門を勝手方とし、それとは別に、裁判を専門に担当する公事方を新たに新設した訳です。

勘定奉行と勘定吟味役は、それに伴い、それぞれ4名に増員され、2名づつに分かれて、1年交代で公事方と勝手方を勤務しました。

 なお、公事方は役宅で執務するのに対して、勝手方は、先に紹介したとおり、江戸城本丸内の御殿勘定所(単に殿中ともいいます)と大手門内の下勘定所の2ヶ所に分かれて執務しました。

この訴訟の山を片づけているのに、勘定所が、トップの奉行及び吟味役そのものを倍増して対応しているということは、その係属事件数がいかに大変なものであったかをよく示しています。

先ほど数字をあげた町奉行所の方は、特段の機構改革は行っていないのですから・・。

 B 事務分掌の改革

 1722年に享保の改革が本格的にスタートすると、勘定所の機構改革も、さらに大幅に、本格的に実施されることになっていきます。

 すなわち、1723年に、それまで組織を関東と上方に二分してきたのを廃し、勘定奉行の下における統一的な組織に編成替えします。

今日の局長級のポストに当たる勘定組頭及びその部下の勘定を5つの部門に分けて、それぞれ定員を定めています。

この時は、勘定組頭10名、勘定127名の計137名です。

 1728年にはさらに14の部門に分けられ、詳細な事務分掌が定められます。

1733年には勘定は181名に増員されており、勘定助10名も配置されて、勘定所は計201名となっています。

 なお、1740年になると、評定所留役が計8名となります。

訴訟事務が増大し、勘定所関係で評定所に係属する事件数も増えていることが判ります。

 この一連の機構整備の中で、特に重要なのは、次に述べる財政改革に対応した一連の官職の新設です。

しかし、これについては、それぞれの財政改革と関連して説明したいと思います。

 なお、吉宗という人は、余り会計検査には理解のなかった人のようです。

彼の治世においては、勘定吟味役は、当初急増し、ついで漸減します。

初期においては、門閥・譜代迎合人事のため、勘定奉行に勘定方の実務経験のない者が多数就任しました。

その結果、勘定吟味役が、かっての差添役に逆戻りし、実務における最高責任者として活動することになったのです。

そこで、任命される者がかなり増加します。それが末期(本稿で言う元文改革期)になると、勘定吟味役であった者をどんどん勘定奉行に起用するようになるのですが、その欠員補充はあまり行わない結果、勘定吟味役の人数が減っていきます。

このことから、勘定奉行に実務能力があれば、勘定吟味役は要らない、というのが吉宗の、一貫した発想だったことが判ります。

会計検査担当者と思っていなかった証拠です。

 

7. 享保の財政改革

 こうした様々な制度改革によって、吉宗は、幕府官僚機構を自分の意のままに動かすことが可能になります。

そうした官僚群を駆使して行った享保の改革においてみられた財政面の改革を、以下に見ていくことにしましょう。

(1) 新田開発

 改革の初期段階において、吉宗が非常に力を入れたのが、新田開発です。

享保の改革を研究する日本史学者は、一般にこのことを吉宗の積極姿勢の現れとして高く評価しているようです。

しかし、私の考えでは、これこそが徳川封建体制を崩壊に導いた重要な第1歩になったのです。

しかも年貢米収入の増加には、短期的にはまったくつながらなかったのです。

その意味で、享保の改革における最大の愚挙ということができるでしょう。

 そもそも、田畑というものは、連作を実施すれば、あっという間に地力が低下し、まともに作物を作ることはできなくなるのは、常識といえるでしょう。

 ヨーロッパにおける封建制の場合には、この対策として三圃農業が行われていたことは有名です。

すなわち、農地を3分して、ある土地で冬作として小麦等の穀物を栽培すると、翌年は、その土地は夏作として大麦や燕麦など飼料穀物を栽培し、さらにその翌年は休耕することで、連作障害を避けて地力を回復させるという方法です。

 しかし、国土の狭い日本では、3分の1もの農地を常に休耕しておく程の余裕はありません。

そこで、戦国から江戸時代もこの頃までの日本の場合には、土地を休耕させるかわりに、入会(いりあい)の山野から大量に草などを刈り取ってきて、田の中に鋤き込むという方法で地力の回復を図っていたのです。

幕府の法令では、そういう山野は「秣(まぐさ)場」と呼ばれています。

 新田を開発するということは、江戸初期においては、それまで耕地でなかった沖積平野を開拓する、ということですから問題がなかったのです。

しかし、そうした未開発の原野が消滅した元禄以降になると、新田開発は、要するに、こうした入会の山野を耕地化するというに外なりません。

したがって、新田が増加すればその分だけ、農村が自給自足的に農業生産力を維持することが困難になるわけです。

 綱吉にはそのことが判っていましたから、1687年には新規の新田開発を禁止する触れを出しています。

吉宗にもまたこのことは判っていましたが、背に腹は代えられない、と考えて、この禁を破り、久しぶりに積極的な新田開発に乗り出したわけです。

それでも、1721年の段階の触れでは「新田のできることはよいことだが、大概本田畑かその秣場のさわりになるから、そのような時は許可しない方がよい」としています。

 しかし、上げ米制を始めるほどに幕府財政が逼迫してくると、なりふり構わず、新田開発の乗り出します。

新田開発が、上げ米の制の触れの中に公約として明示されていたことは既に紹介したとおりです。

新田開発を促進するという趣旨の有名な高札が、普通の掲示場所ではない、江戸の中心ともいうべき日本橋に、わざわざ立てられるのが、1722年7月26日のことです。

これは富裕な町人の資本を導入して、大規模な新田開発を行うつもりでいたからです。

 下勘定所の中に設けられた新田方は、この新田開発の中核となる組織です。

1721年に早くも設けられています。

組織は、勘定奉行1名、組頭2名、勘定5名といいますから、発足時から堂々たる陣容です。

新田開発というのは、かなり息の長い事業にならざるを得ませんから、それに力を入れる以上、機構を整備せざるを得ないのです。

 例えば沼地を干拓するという場合、単に干拓が終われば業務終了というわけではありません。

干拓地は後々まで排水に悩まされることが多く、また入植した農民に対する面倒も見なければなりません。

そうした長期にわたるアフターサービスが必要になりますから、干拓が済んでもすぐに代官に引き渡すことはなく、入植農民に対する扶食(食糧支援)、年貢の徴収などは、新田方組頭の名義で行っていました。

 なお、実際の干拓の実施は、普請役という組織がやはり新設されており、そこに属する技術者集団が実施していました。

普請役については、後述する国役普請の項で改めて詳しく説明します。

 このように、吉宗政権としては、新田開発には非常に力を入れたのですが、はっきり言って、成功したとは考えられません。

新田開発による弊害は、様々の形で発生しているのに対して、目に見える効果は、特に上がっていないからです。

 弊害としては次のようなものを指摘することができます。

 第1は、秣場を破壊した結果、そこから肥料を自給自足することが不可能となったために、農村が金肥に頼らざるを得なくなったという点です。

このため、農村に貨幣経済が急速に浸透していくことになります。

このことは、「田畑永代売買禁止令」の事実上の撤廃という事態にまで進んでいきます。

これが封建制の根底を突き崩すことになっていくのです。

 第2は、農民の絶対数が増えたわけでもないのに、耕地面積が増大したわけですから、人手不足が深刻になったことです。

せっかく造った新田に入植者がいないという事態が頻発します。

 例えば、幕府が最初に着手したのは、お膝元の武蔵野新田です。

ここの場合、1724年から25年にかけて秣場の開発割り渡しを行いました。

そして、3年間の鍬下年季(要するに租税免除期間)を設け、さらに1728年〜30年には入居者には家作料と農具代を支給するなどの優遇措置をとりましたが、実際に開発されたのはその一部だけで、10年たってもまだ未墾の土地が多かったといいます。

 このように、新田開発を優遇して租税の減免などの措置を執るものですから、新田開発は、なかなか年貢収入には結びつきません。

武蔵野新田の場合、実際に年貢収入が上がるようになったのは、1740年以降だということです。

 しかも、こうした新田に対する優遇措置のために、それに惹かれて入植する農民は、従来からの田畑を放置して来ているという場合が増加します。

放置しないまでも、新田開発の方に力を入れるというような逆転現象は普通のことです。

ですから、休耕田が増加し、後の時代になると、放置された結果、元の原野に戻ってしまった田畑の開墾に、わざわざ租税の減免措置を執るなどというような馬鹿な話までが起きてくるのです。

 したがって、新田開発が幕府財政に与えた影響は、マイナスはあってもプラスはなかったと私は考えています。

しかし、年々の年貢米徴収量は、享保の改革開始後からはっきり増加傾向を見せるわけで、そのことを新田開発と単純に結びつけて、新田開発を高く評価するのが、従来の日本史の通説ということができるでしょう。

しかし、年貢徴収量の増加は、次に紹介する年貢増徴策の効果と考えるべきです。

(2) 年貢増徴策

 幕府の財政危機を救うには、何としても歳入を増やす必要があり、この時点では、それは年貢米の増徴しかありません。そこで、吉宗はあの手この手を駆使して、増徴を図ります。

 A 定免制の導入

 吉宗の時代より前は、毎年の年貢の徴収量は、検見(けみ)法、すなわち、毎年田畑の実際の収穫量を調査し、それに基づいて納税額を算定するという方法で決定していました。

 この方法は、一方において作柄調査のための人件費がかかるという点において徴税コストが大きく、他方、白石が疑ったように、検見の際に役人に贈賄することで納税額引き下げが可能という弊害が、幕府から見た場合にありました。

他方、農民側から見ますと、そうした検見役人が村方に来る際に、その接待コストが必要という点で、見えない税金の部分がありました。

 また、時代が進み、農作業も複雑化してくると従来の検見法は、うまくそれに適合できなくなってきます。

すなわち、稲作は、それまでは晩稲一本槍でしたから、一つの村に一度検見に行けば済みました。

しかし、消費者ニーズに合わせた形で、早稲や中稲も栽培されるようになってくると、収穫期が長期化します。

検見をしないで収穫をさせては、脱税を許すことになります。

そこで、同じ村に何度も頻繁に検見を行わない限り、せっかくの作物の収穫期を逃し、かえって台無しにする恐れが起きてくるわけです。

したがって、従来の検見法に固執していると、徴税コストが大幅に跳ね上がることになります。

 そこで吉宗は、1722年から定免(じょうめん)法を導入します。

その年の作柄を見て年貢率を決定する代わりに、一定の期間(これを「定免年季」といいます)は、一定の年貢率に固定するというものです。

ただし、このルールを一律に強制すると、凶作の際の負担が大きくなるので、同時に破免(はめん)制を導入しました。

これは、凶作の際には、定免法を廃止し、元の検見法を暫定的に使用するという方法です。

 この定免法は、代官所業務という観点から見た場合、徴税コストを大幅に削減する効果があります。

したがって、必要経費を支給する方法に切り替えた吉宗としては、その支給経費の削減効果も合わせて発生させたに違いありません。

 また、村方に対して、その経費の削減にもなった点を強調して、従来の租税率より若干高めを設定して、年貢の増徴という効果も合わせて発生させています。

しかも、定免年季が切り替わるごとに、徐々に税率をアップさせるという、できるだけ農民の抵抗の少ないやり方で、長期的に見て、年貢の増徴を図ろうとしたのです。

 なお、高校の日本史の教科書などを見ると、吉宗は、従来の4公6民を5公5民に切り替えた、と書いてあるものがよくありますが、誤りです。

前章にも書いたとおり、この当時の幕府には4公6民を強制する力も失われていました。従来の公定税率を強制する力もないものが、税率アップを実現することが出きるはずはありません。

実際、吉宗政権時代、最後まで4割の徴収率にさえ届かなかったのです。

 それでも、このような厳しい税率のアップは、幕府としても厳しい代償を支払わねばなりませんでした。

すなわち、吉宗が登場する以前の段階では、天領は税率がひどく低かったので、百姓一揆は大名領の専売みたいなものでした。

そこで、幕府としては、百姓一揆の発生を、大名統制を強化する良い手段として歓迎していたほどです。

しかし、このように強力な増税策を導入した結果、幕府直轄領でも、吉宗以降は百姓一揆に悩まされるようになります。

 大規模な一揆が起きると、大名領のように潤沢に職員がいればともかく、最小限の人員で運営している代官所では到底抵抗できません。

そこで、そのような事態に対処するため、幕府は、1734年には、代官所でことが起こり、緊急を要するときは、周辺の大名は幕府の許可なしに兵を動かして良い、という触れを出しました。

軍事は一手に幕府が統制する、という江戸幕府封建制崩壊の、今一つの大きな一歩となります。

 B 三分一銀納法の廃止通達

 本来、年貢は米と決まっています。

しかし、畑で米以外のものを栽培している時に、それを課税対象外とする必要はありません。

そこで、畑作の場合には、米の代わりに貨幣で納付させるという方法が採られました。

これを総称して石代納(こくだいのう)といいます。

関東地方では田方(たかた)米納畑方永納、東北地方では、半石半永(はんごくはんえい)制など、各地方で様々な貨幣による徴税方法が工夫されました。

三分一銀納(さんぶいちぎんのう)というのは、西日本の幕府直轄領で採られた徴税法です。

江戸期の西日本は、東日本とは比べものにならないほどの先進経済圏でしたから、その地域でどのような徴税法を採用するかは、幕府財政そのものを左右するほどの重要性がありました。

 当時の徴税法は、代官所では、村ごとに納税総額を決定するだけで、実際に誰がいくら納付するかは、それぞれの村の自治組織が決定する、というやり方でした。

西日本のように商品経済が発達しているところでは、従来から耕地面積中に占める畑作、すなわち換金作物の栽培面積が大きかったのが特徴です。

それが全耕地面積のどれくらいあるかは、当然その村ごとに違うでしょうが、徴税の手間の軽減のため、幕府では、西日本に関しては、村落全体の石高の3分の1は畑であるとみなし、そこにかかる年貢は米ではなく、銀貨で納めることを認める、という方法を採用していたのです。

これを三分一銀納法といいます。

 その3分の1の耕地で、どれだけの収穫を得ているかは、理論的には検見法により決定することになります。

しかし、換金作物の場合には、米の早稲や晩稲以上に収穫期がばらつきますし、それを市場で、農民がいくらで売却しているか、という情報を確実に把握するというようなことは、代官所の調査能力の限界を超えます。

そこで、これについては従来から事実上定免制が採用されていました。

つまり、村ごとに、一定の換銀率が定められ、実際の収入の如何に関わりなく、定額を納付すればよい、とされていたわけです。

 市場経済の発達と、農業技術の進歩により、農家の収入は確実に増加しています。

それなのに、換銀率は長く据え置きになっています。

当然、もう少し上げられるはずです。

しかし、頭ごなしに、そのはずだから、今後いくらにする、と通達できるほどの実力は、もはや幕府には失われていました。

そこで始めた嫌がらせが、タイトルに上げた、三分一銀納法の廃止通達なのです。

 すなわち、1722年8月に、幕府は三分一銀納法を廃止し、その分を米で納めるように、という通達を発します。

これは農民にとっては非常に迷惑なことです。

米を作っていない畑の収穫を米で納めるためには、まず畑の作物を売って銀に変え、次に市場で米を購入して、改めて幕府に納付しなければなりません。

 実はそのように、農民を困惑させることが、この法令の狙いなのです。

この通達の中に、ちゃんと種明かしまで書いてあるのです。

口語に直して紹介すると

「三分一銀納部分を米納にする事は、百姓側に入用も多くかかり迷惑することになるので(百姓達は多分、元通り銀納にしてくれと願い出て来るだろうが=筆者注)、そのような願いがあってもそうはいかないと申し聞かせなさい。

それでもなお米納は迷惑だと百姓が願い出た場合に初めて銀納を申しつけるように。

その場合にも、いままでの換算相場よりも増銀にならない場合には、これを許可してはならない。

増銀を何度もせり上げ、もうこれ以上増銀できないという線まで行ったときには、その値段で良いかどうか、勘定所に伺いを立てなさい」

と書いてあるのです。

 要するに、農民を困惑させて、年貢の銀をたくさん納めさせるための駆け引きとしての三分一銀納法の廃止だったのです。

このように、代官が腕によりをかけてせり上げた換算率を、勘定所では国ごとに比較検討して、国ごとの換算率を決定するという方法を採りました。

要するに、報告した数字で、同じ国の中の自分の能力の序列が歴然となってしまうわけです。

そこで、代官達は、自分の成績を上げるためにもせり上げに狂奔せざるを得なかったのです。

(3) 国役普請の創設

 財政危機を救うには、歳入を増やすだけではなく、歳出を抑制する必要があります。

その一番簡単な方法は、公共土木工事費を抑制することであることは、今も昔も変わりがありません。

 前章で、公共工事の方法としては、公儀普請、大名手伝い普請、自普請の3通りのやり方があると述べました。

本来、大規模公共工事については、公儀普請か手伝い普請で対応し、特定の領地内にとどまる小規模工事は自普請で対応する、というものであったわけです。

 しかし、上げ米制を採るほどに幕府財政が破綻してしまったのですから、公儀普請を行う余力は幕府にはありません。

これまでなら、そういう時には大名に手伝い普請を命じれば良かったのです。

しかし、この時期では、何といっても上げ米制を導入している弱みがあります。

参勤交代制を緩和するというような犠牲を払わなければならないほどに、幕府の権威が低下しているときに、特定大名に多大の負担をかける手伝い普請を命ずる、等ということができるわけがありません。

 他方、水害は、そういうときでもお構いなしに襲ってきます。

というよりも、そうした財政難のため、本来行うべきメンテナンス工事の手抜きをしているときこそ、大きな水害が発生する、というのが正しいでしょう。

 そこで考え出されたのが、国役(くにやく)普請です。

試行的なものはその前から1〜2ありますが、正式に制度として定められたのは、1720年のことですから、上げ米制導入の直前期ということになります。

援立の臣の目を盗んで導入した新規施策の一つというわけです。

 これは、工事のやり方そのものは公儀普請と同じで、幕府が主体となって実施します。

しかし、費用に関しては、幕府は、初期の段階では、5分の1、財政の逼迫がより厳しくなると10分の1しか負担しなくなります。

そして、残額は広い意味での受益者負担、すなわち、当該河川の流域である国の、すべての農地に一律に課税して費用相当額を徴収する、というやり方です。

その国にある限り、幕府直轄領だけではなく、大名領、旗本領の別なく、一律に賦課徴収されます。

 吉宗登場よりも前の段階においては、公儀普請は原則的にその地を管轄する代官の業務でした。

代官の行う民政活動の一環と位置づけられていたのです。

利根川の、銚子への付け替えのような大工事でさえ、関東郡代伊那氏の指揮下に実施されたのは、その典型といえます。

 しかし、先に吉宗の初期政治の中で述べたとおり、代官は収入と支出のアンバランスが激しく、とてもこうした付加業務までも行う余力はなくなっていました。

そこで、吉宗は、下勘定所の中に土木工事専門のセクションを設けました。

 個々の川普請における最高責任者となる者を、初期には「川通奉行」、後には「四川奉行」と呼ばれます。

代官並という格付けですから、幕府職制の中では高級官僚です。

なお、四川とは関東地方の幕府直轄領を貫流している江戸川、鬼怒川、小貝川、下利根川の4つの河川を意味しています。

 正式発足は1725年のことですが、幕府職制の特徴として、その前からもちろん準備的な活動が行われていました。

発足にあたって困ったのは、その責任者をどこから起用するかということです。

これまで勘定所自身が土木工事を行うということはありませんでしたから、こうした土木工事の指揮監督能力を持っている者は、それまでの勘定所職員にはいなかったからです。

 そこで、新組織の発足にあたっては、その中核となる土木工事技術者は、幕府の内外を問わず、広い範囲から抜擢したようです。

初代の4人は、勘定から1名抜擢された外は、御徒(おかち)からの抜擢となっています。

御徒という言葉は、山手線御徒町駅にその名が残っていますが、後の言葉でいえば歩兵の意味です。

諸藩でいえば、足軽に相当する最下級武士を意味する徳川氏の用語と思えばよいでしょう。

御徒からの起用といっても、元々の直参の中に、そういう技術者がいた、ということではありません。

例えばその一人、吉川三郎右衛門という人物は、もとは浪人だったのが、この時、御徒に新規採用になり、能力を発揮したものですから、最終的には勘定組頭にまで出世しています。

 その下で普請の実務に当たる者として、「普請役」という職制も1724年に新設されました。

当初12名でした。その内訳を見ると、7名は紀州藩からの引き抜きです。

紀州には険峻な地形が多いこともあって、この時代にもなお、紀州藩は有能な土木技術者を保有していたのでしょう。

残り5名は、関東地方の豪農からの抜擢です。

例えば加納久右衛門という人についてみると、下総の国で先祖代々にわたって数百町歩の新田開発を行っていた豪農で、その能力を買われて抜擢されたわけです。

普請役は1726年に在方普請役と名称が変わるとともに、普請役見習いもおかれました。

技術者を自力養成する必要が認識されたのでしょう。

 国役普請制度の特徴は、このやり方で工事を行う川と、その費用を負担すべき国々が、「国役割合川々定」という通達により、あらかじめ指定された点です。

例えば、武蔵、下総両国内を流れている利根川、荒川の場合、普請にかかる総工事費が3000両未満は国役としない(要するに幕府が全額を負担する)が、金3000両〜3500両の場合には、武蔵、下総、常陸、上野の4ヶ国から取り立てると決まっています。

3500両以上の場合には、さらに安房、上総を加えて取り立てる、というようにされています。

 低額工事は公儀普請で実施する、というところに、この国役普請が苦し紛れに編み出された方法であることがよく判ります。

国役普請の場合も、いったんは幕府がすべて支出し、費用が確定してから、指定の国々から負担金徴収を行うわけですから、実施段階では公儀普請と全く違いはありません。

 この方法はしばらくの間はうまくいきました。

しかし、段々と幕府立替額が大きくなり、財政の圧迫要因になってきたことが一つの問題となります。

これに加え、巨大な金が動くところに必ずつきまとう不正事件が発生するようになってきます。

そしてとうとう1731年に、武蔵国幸手領の水路普請で普請役二人の不正が発覚して処罰され、担当の四川奉行も指揮が粗略であったとして逼塞を命じられる事件が起きます。

 このことをきっかけとして、幕府では四川奉行制度及び国役普請そのものを見直し、翌1732年にこのいずれも廃止します。

この背景には、前述のとおり、1731年に上げ米制が廃止になっているので、その分、大名に対する遠慮が減ったということがあるはずです。

 ただ、普請役は廃止にならず、大規模工事の場合には、勘定奉行自身が責任者となり、その指揮監督の下に工事を実施するようになりました。

 その後、1742年になると、再び大名に対して手伝い普請を命ずることが再開されます。

この年の7〜8月に関東地方で洪水が起き、多くの村が多大の被害を受けた状況から自普請で対応することもできず、国役普請は廃止されていたことから、結局、被害のなかった西国筋の、肥後細川家、長門毛利家、備前池田家など10大名(合計石高190万石)に手伝い普請を命じたのです。

この時は請負に出すことが、荻原重秀の失脚の際の命令で禁じられていたため、どの藩も、多数の藩役人を現場に送り込んで直営の形で工事が実施されました。

(4) 藩札の発行許可

 幕府創世期以来、藩による紙幣の発行は禁止されてきましたが、上述のように、長いこと幕府は正保以来のデフレ政策を続けていましたから、各藩は、藩内に流通する通貨の不足に悩むようになってきました。

 国内金属資源が限られているのですから、通貨の大量発行のためには、硬貨に拘る限り、改鋳しか方法がありません。

が、改鋳は、通貨不安をかき立てるものであることは、その時までの経験で判っていますから、何か、中間的な解決策が有れば、それを優先させるのが妥当です。

 そこで、幕府は1730年に、再び藩に紙幣の発行を解禁することにしました。

もっとも、各藩とも潜りで紙幣の発行を続けていたところがかなりあったらしく、そのような慣行があった地方に限っての許可です。

したがって、積極策と言うよりは、現状追認といって良いでしょう。

しかし、現に存在している藩札を、正規に承認することにより、通貨供給量の実質増につなげるということには意義があります。

 藩札発行の許可は、勘定奉行から個別に受ける必要があります。

その場合、紙幣の発行は無期限に認めるのではなく、その藩の禄高が20万石以上の場合には、25年間、それ未満の藩の場合には15年間とされます。

この期間が経過して、なお紙幣を通用させたい藩は、その都度、勘定奉行に問い合わせなければならない、とされます。

要するに、現状を追認する代わり、発行状況を幕府で把握できるようにしようとしたのです。

 綱吉の時代であれば、そのような禁令違反が発覚すれば、おそらく改易になったでしょう。追認とは、幕府も弱くなったものです。

 実際には、それまで発行していなかった藩でも、慣行があると称して、新規の許可を得たところがあるようです。

家重の時代の触れに、新規の許可があったという旨の記述が行われていることから、それが判ります。

 この藩札解禁以後、各藩の財政が厳しくなるに連れて、藩札の発行は怒濤のように増加し、幕末には、ほとんど発行していない藩はない、といわれるまでになります。

それが明治になって、政府が、金貨等の代わりに兌換券を発行することを容易にする下準備となっていきます。