財政危機の中心的な打開策である年貢の増徴と新田開発は、当然のことながら、いずれも農民の不満や怨嗟の対象となります。
また、長く続く不景気は、庶民の怨嗟の的となります。
米価の下落は、譜代武士の不人気を誘発します。
綱吉は生まれながらの君主ですから、どれほど庶民の不満の的となろうとも、全く気にしません。
あれほど不人気だった生類憐れみの令を最後まで貫いたことに、そうした生まれながらの君主の自信と驕りが端的に見られます。
これに対して、吉宗は庶民の人気が非常に気になる質です。
吉宗が作ったお庭番は、幕府情報機関の典型として非常に有名です。面白いのは、このお庭番が収集を命ぜられる情報は、真実が何かという点に関するものではなく、世間のうわさ話という点です。
そのことは、お庭番が調査を終えた後に提出する復命書が「風聞書」というタイトルになっている点によく表れています。
すなわち、吉宗にとって大事なのは、査察の対象となった幕府の官僚が本当に腐敗しているかどうかではなく、腐敗しているという噂が流れているかどうかだったのです。
そのくらいですから、庶民や幕臣の間で自分の人気が落ちる、というのは吉宗にとっては耐え難いことです。
そこで、改革の進行に伴い、庶民の不満が高まると、一時、改革を投げ出してしまったのです。
すなわち、上げ米制を廃止できるまでに幕府財政が回復し、享保の改革が一応成功の見通しが着いた1731年に、改革の名目上の中心人物である水野忠之に全責任を負わせて罷免します。
それと同時に、年貢の取り立てをゆるめます。
具体的に見ると、吉宗治世における年貢収納量の最低が1723年の130万5650石(銀納分も、米に換算して計算)です。
それが逐年増加し、1726年には幕府史上初めて150万石の大台を突破して150万0691石となります。
その際、水野忠之は1万石加増されています。
さらにその翌1727年にはなんと162万1980石となるのです。
それが、水野忠之が引責辞職させられた1731年以降、1737年までは大体130万石〜140万石、すなわち改革以前のラインで推移します。
だから、年貢の増徴は、まるで水野忠之の個人プレーのように見えたことでしょう。当然、吉宗の人気は無事回復したわけです。
改革の休止期と表題をつけましたが、全く制度改革が行われなかったわけではありません。
その一つとして、先に紹介した三分一銀納法をめぐる変更があります。
享保の改革で行った、代官と農民代表とが換金作物の米への換算率をめぐって毎年談合するというやり方は、農民代表を一々呼びだして交渉しなければなりませんから、代官によってどうしても換算率に関してばらつきが生じます。
その上、毎年のことですから交渉そのものに大変な手間がかかり、その結果を勘定所として吟味する仕事も大変だということで、1734年以後は、西日本を五畿内、中国筋、西国、街道筋、北国の5地域に分け、それぞれの地域相場を調査して一定の増銀を加える、という方法に変えました。
これは、よく言えば徴税コストの低減を図ったということですが、要するに面倒になって手を抜いた、ということです。
いかにも改革休止期に行われた変更といえます。
1737年(元文2年)に松平乗邑(のりさと)が勝手掛老中に就任します。
これが後期改革、すなわち私が元文の改革と名付けた一連の活動のスタートです。
ここで面白いのは、それと同時に、幕府の年貢徴収量は167万0819石に跳ね上がるのです。
前年の徴収量は133万4481石にすぎませんから、25%もの急増です。
どう考えても、コントロールされた数字とは思いませんか。
年貢徴収の厳しさは、松平乗邑が張り切っている性で、俺の責任ではない、という吉宗の庶民に対するアッピールが伝わってくるような気がします。
さて、享保の改革が示し始める様々な破綻に対して、吉宗政権が講じる対策の責任者として吉宗が担ぎだしてきた松平乗邑は、前任者水野忠之に勝るとも劣らない名門です。
なぜなら松平という姓は、元々は家康の姓であったことで判るとおり、徳川一門に属するからです。
しかし、十八松平とも称させるほどに多数の分家が存在したものですから、その紛らわしさを嫌って、家康は徳川の姓を名乗るようになったのです。
乗邑の松平家は、その十八松平のうちで、大給(おぎゅう)松平と呼ばれる家系の嫡流です。
大給家が松平宗家と分かれたのは、家康の五代前といいますから、血筋的にはそう近くありませんが、親戚ということで、大名に取り立てられており、この頃には6万石になっていたのです。
松平乗邑が老中に就任したのは、1723年のことです。
すなわち享保の改革が始まった直後ですから、もちろん吉宗の意思だけにより、起用されたことになります。
変わっているのはその経歴です。
普通、老中になるには、譜代の大名で、しかも特定の領地を持っていなければなりません。
ずっと後の話ですが、水野忠邦が、家中の反対を押し切って、表高に比べて実高の多い肥前唐津からわざわざ浜松への転封を実現した、という有名な話があります。
唐津藩は長崎防備の役割があるので、老中になれないという不文律があるからです。
実は、松平乗邑も、元々はその唐津藩主でしたから、そのままでは老中という目はありませんでした。
しかし、1690年に、わずか5歳で藩主の地位についたのが、結果的に見ると幸運でした。
唐津藩は、長崎防備のための実務を処理しなければなりませんから、藩主自身にかなり負担がかかります。
そのため、幼君が唐津藩主についた場合には自動的に他に移封されます。
幕末に活躍した老中小笠原長行の場合、その父が、彼が2歳の時に死亡しました。そこで彼をそのまま藩主にすると、長崎貿易でうまみのある唐津から他に移されるということで、聾唖の俳人であると届け出を行い、他藩から養子を貰うということで、唐津にしがみついていたほどです。
松平家の場合には、その年に志摩鳥羽6万石に移封になります。
綱吉の元禄検地に巻き込まれ、伊勢亀山、山城淀と次々に移封されます。
財政的にはかなり厳しかったことでしょうが、こうして日本の中央に領地を持ったおかげで、老中になる最低限の資格は満たしたことになります。
しかし、老中になるには、それに加えて、ある程度の実務訓練も必要です。
すなわち、まず寺社奉行か奏者番を振り出しに若年寄に昇り、ついで大阪城代か京都所司代を経て初めて老中になれるという不文律が、これ以前も以後もありました。
ところが、乗邑は、この前々年まで無職で、かろうじて前年6月、すなわち水野忠之が勝手掛老中になった翌月に大坂城代代理になったばかりという経験のなさです。
しかも、その大阪城代代理も老中就任を前提としての人事らしく、老中から出たその辞令には、「来春まで仮に城代を努めよ」とあったそうです。
すなわち、その段階から既に吉宗は、彼を老中にするために抜擢していた、ということが判ります。
先に説明したとおり、援立の臣の力を削ぐために、吉宗は意識的に老中の補充を行っていませんでした。
改革をスタートさせたからには、譜代が納得する程度に十分名門で、しかも彼のいうことをおとなしく聞く程度に若くなければいけません。
おそらく、乗邑はこうした難しい条件を満たしている数少ない人物だったのでしょう。
そこで、人物・識見とか行政能力を二の次にして、彼の起用を急いだのだと思います。
このような従来の慣習を無視した無理な起用には、しかし当然譜代勢力から文句が出ることが考えられます。
そこで吉宗は、門閥勢力の筆頭ともいうべき御三家に対しては、藩主が江戸にいた紀州家、水戸家には老中安藤信友を派遣し、藩主が国元にいた尾張家に対しては小姓組番頭を派遣して了解を取るという強引ともいうべき方法で、老中に就任させているのです。
その時、乗邑は37歳でした。
老中になると同時に、江戸に近い下総佐倉6万石に移封になります。
このように実務経験が全くない人間を起用したのですから、仕事をさせると最初のうちは、当然失敗ばかりです。
しかし、吉宗は乗邑が誤った決定をしても、老中の申し渡しは重大であるといって、そのとおり実施させたという話があります。
少々のことには目をつぶってでも、彼が欲しかったということがよく判る逸話です。
彼とコンビを組んだ勘定奉行神尾春央(かんおはるひで)は、乗邑とは反対に、足高の制のおかげで、能力だけを頼りに微禄の身からこの地位にまで昇進した人物です。
彼は本来の勘定方ではありませんが、腰物方、細工頭、賄頭、納戸頭など将軍の目に触れやすい財政畑を歩いていたおかげで、1736年に勘定吟味役に昇格し、さらに翌年異例の抜擢を受けて勘定奉行に昇格したのです。
先に説明したとおり、勘定奉行の基準家禄は3000石ですが、彼の場合、奉行に昇格した際に特に加増を受けて500石取りになったといいます。
奉行に就任することにより、これと基準家禄の差2500石分を支給され、さらに役料700俵が与えられたのですから、本来の家禄の10倍近い収入になったわけです。
なお、その7年後に彼は1000石、さらにその8年後には1500石取りの身分に栄進しています。
手取額は依然として3000石ですが、子々孫々にまで保障される本俸額の増加ですから、本人はさぞ喜んだことでしょう。
それでも、基準家禄の半分にすぎない軽輩にとどまったわけです。
なお、この元文改革を始める前年の1736年に、吉宗は、勘定所の機構の再編を行っています。
勘定奉行は、公事方、勝手方の区別なく、全員で、郡代、代官及び大名預け地を分割して支配する体制が採られることになったのです。
各地域ごとの責任者を明確にしたわけです。
以下には、彼らを表面に押し立てることによって、吉宗が行った改革を紹介しましょう。
享保の改革の中で、吉宗が換金作物の栽培を奨励した結果、特に先進農業圏である畿内を中心に、西日本の幕府直轄領では、田を畑作に変更して換金作物を作るということが広がりました。
勘定奉行神尾春央は「胡麻の油と百姓は搾れば搾るほど出るものなり」の放言で知られるとおり、非情なまでの年貢取り立てを実行した人物として知られています。
ここに、胡麻の油という比喩が出てくること自体、この時代における換金作物の広がりが判ります。
享保の改革時には、吉宗は定免法と三分一銀納法の廃止という脅しで年貢の増徴に努めたことは上述したとおりです。
このやり方の致命的な欠陥は、実際の農家収入を全く把握しないままに、交渉だけの力で年貢徴収量の増加を図っている点です。
したがって、農民側が事前に広域で談合することにより、かなり効果的に幕府の要求を抑えることが可能だったはずです。
そこで吉宗は、別の年貢米増徴策を導入しています。
有毛検見法(ありげけみほう)という年貢の査定方式です。
これは、1722年頃から既に一部で試行的におこなわれていますが、本格的に実施するようになったのは、神尾春央が勘定奉行になった以降のことです。
それまでの検見法は、石盛り(こくもり)、すなわちかなり以前の検地の際に、その田に付けられた、上田、中田等の等級にしたがって、基本となる収穫量を認定し、毎年の検見でそれを補正して年貢徴収量を決定していたのです。
これに対して、有毛検見法は、石盛り及び上中下等の田畑の等級をまったく無視して、坪刈り、すなわち田圃の中の平均的な作柄の部分を一坪実際に刈り取って、その中の米の量を把握し、それを全体に延長して生産量を把握した上で年貢を課す方法です。
神尾は、この有毛検見法を導入する根拠として、検地施行時よりもだいぶ年月がたったが、その間の火災や水害のため、年貢徴収の基礎台帳が紛失して田畑の等級が不明となり、年貢賦課に困るものが出てきたためだ、と申し渡し書の中で述べています。
しかし、これは農民に対する説得の論理にすぎないと見るべきでしょう。
実際は、検地以後の農業技術の進歩により、中田が上田に変わったり、同じ中田であっても反当収量が増加していることなどは、査定から漏れ落ちていたこと、さらに、それまで栽培されていなかった換金作物に対する直接的な査定方法を持たないなどの欠陥が生じてきたのです。
特に大阪周辺の村は、農業技術が進んでいたこともあって、その地域の担当者神尾春央が直々に乗り込んで、有毛検見法を厳しく適用した結果、年貢高が一気に前年の倍近くに跳ね上がった村もあったといいます。
もちろん、長期に渡って、このような徴税コストの高い査定方式を続けることはできません。しかし、それによる実績を基礎に定免法を導入すれば、かなりの増徴をはかることができることはいうまでもありません。
しかし、神尾の凄腕にも拘わらず、実際の年貢収納率は公定租税率の40%には届かなかったといわれます。
幕府直轄領の住民にとって既得権化している低税率の壁をうち破ることの困難さが、この点にも見られます。
経済政策は、本来は勘定所の管轄です。
しかし、勘定奉行神尾春央以下、年貢の増徴に狂奔していますから、その余力がありません。
そのため、この分野の中心人物は、享保の改革期と同様に、江戸町奉行大岡忠相です。
先に紹介したとおり、御免株の設立という手法を通じて江戸の物価に挑戦し、失敗した大岡忠相は、しばらくして、江戸の物価を低下させるためには、金貨と銀貨の交換レートを改善しなければならないということに気がつきます。
当時の通貨に、金貨、銀貨、銅貨という3種類があり、江戸を中心とする東国経済圏は金貨中心の経済であったのに対して、大阪を中心とする西国経済圏は銀貨を中心とする経済であって、本位通貨が違っていたことから問題があったことには、これまでも触れてきました、
この金貨=銀貨相互の交換に際しては、幕府としての公定レートは金貨1両が銀貨60匁という事になっていました。
しかし、実際には市場は絶えず変動しており、綱吉時代の最盛期の幕府といえども、この公定レートを強行する力を持ちませんでした。
前述の通り、吉宗は白石の通貨政策を承継して、以来20年以上も一貫して通貨供給量の抑制政策を続けています。
その結果、激しいインフレだったのが、デフレに変わり、それが深刻化してきます。
これも前述した通り、換金作物の奨励策を採っていますから、吉宗政権下の20年間で、経済規模はかなり急速に拡大しているからです。
デフレ経済の下においては、貨幣価値が高まり、物価は下落するはずですが、このような二重本位通貨の下では、経済の中心地大阪の本位通貨である銀貨が強くなる事を意味します。
したがって、銀貨の金貨に対する交換レートが高くなります。
その結果、交換差損の分だけ江戸の物価は高くなる、というメカニズムが発生することになります。
大岡忠相が問題意識を持った当時、金貨1両が銀貨50匁だったといいます。
公定レートに比べて2割も銀貨が高かったことになります。
勘定奉行として苦労している荻原重秀や、何の権力も持たず、説得力だけで行動していた新井白石なら、たぶん違う手段をとったでしょう。
しかし、町奉行として権力的に行動することになれている大岡が採用した対策は、無造作に商人を呼びつけて、レートを公定レートにするように、と命令することだったのです。
何度か繰り返して命令を下し、最後には、これに自分は職を賭けているのだ、と啖呵を切ったそうです。
が、もちろん、そのような命令を聞く商人はいません。
市場価格を無視して、2割も高い交換率を使用したら、自分が倒産するだけのことだからです。
そこで、大岡は、両替商の主人に出頭を命じます。
当然のことですが、主人の替わりに番頭などが出頭してきます。
すると、大岡は烈火のごとく怒って、彼らを小伝馬町の牢獄にぶち込むという、権力者意識丸出しの、乱暴な手段をとります。
この両替商に対する弾圧が原因となって、結局大岡は、1736年に、寺社奉行へ昇格という形をとった失脚をすることになります。
すなわち、寺社奉行は、大名にしかなれないという意味で、間違いなく昇格ですが、実権はあまりない閑職です。
仕事人間の忠相にはさぞ堪えたことでしょう。
彼の残した日記には、寺社奉行になってからも、評定所などにせっせと出席して相変わらず仕事中毒ぶりを発揮していたことがあらわれています。
なお、昇格最初は足高制により大名格とされていました。これ自体、かなり異例の話です。が、後に吉宗があわれみ、実際に大名にして貰えました。
大岡は、幕府の財政を預かっていた訳でもないのに、かなり早くから通貨の改鋳を主張するようになり、それもかなり執拗に主張し続けます。
おそらく、通貨不足がデフレを深刻化させ、不景気に庶民が悩んでいた事を良く知っていたからでしょう。
たとえば、1722年に、幕府が紙幣の発行に踏み切るという噂が江戸市内に流れたことがありました。
そこで、町奉行所では、わざわざ名主を通じて、幕府は決して紙幣を発行したりすることはない、と江戸中に触れさせています。
大岡の執拗な主張に負けて、吉宗が改鋳に踏み切るのは、先にちょっと触れましたが、1736年の事です。
通貨の大量発行をしようにも、その原資が無くなっていますから、この元文の改鋳は、荻原重秀の元禄の改鋳同様、それまでの貨幣の品位をかなり思い切って低下させる形で行わざるを得ません。
元禄や宝暦の改鋳は、それに伴う幕府財政の建て直しが大きな狙いでした。
しかし、大岡忠相は幕府の財政担当ではありませんから、出目には興味がありません。
そこで、彼の指揮の下に実施されたこの時の改鋳では、ひたすら通貨供給量の増加が狙いでした。
これが結果として、江戸期における改鋳でももっとも成功した改鋳といわれる原因になります。
具体的には、市中に流通している旧通貨の回収に当たり、新貨と同レベルの増歩を認めたので、回収が非常にすんなりと進んだのです。
また、その後のインフレも最小限で抑えられました。
小判の重量は、3.5匁とします。
これは、宝永小判=乾字金の2.5匁よりは重いのですが、慶長、元禄、正徳、享保と、長らく続いてきた小判の基本寸法の4.76匁にくらべると4分の3以下の重量しかありません。
しかも、金の純度は65.71%と、正徳・享保小判の86.71%に比べると4分の3以下に減っています。
したがって、その中に含まれる純金の重量で比べますと、この直前まで発行されていた享保小判がほぼ4匁、悪貨に改鋳したとして、日本史の上に荻原の悪名を高めた元禄小判でさえも2.73匁もあったのに、これはわずか2.3匁となっていて、宝永小判の2.1匁はわずかに上回るものの、ずば抜けた悪貨であったことは間違いありません。
直前の通貨である享保小判の金の品位と比べると57.5%に下がっています。
同様に一分金も、重量0.875匁です。これも、宝永一分金よりは幾分重いのですが、慶長から享保まで続いた一分金重量の1.19匁に比べますと、小判と正確に同様の割合で小さくなっています。
金の比率も小判と同一です。
この元文小判・一分金の発行総額は1743万5711両に達します。
単一通貨としては、空前の量です。
荻原の改鋳を、悪貨の鋳造として悪罵を浴びせかける日本史学者が、それに十分匹敵する悪貨改鋳を断行した大岡を、なぜ名奉行として褒め称えるのでしょうか。
それには、ある程度は理由があります。元禄改鋳は、通貨の混乱を引き起こしたのに対して、元文改鋳はそれを沈静化させたからです。
元禄改鋳が通貨混乱を引き起こしたのは、歳入確保の目的のため、社会の必要を無視して過大な通貨を供給したので、インフレを引き起こしたからです。
それを解消するため、享保金銀を発行するという形で吉宗は激しいデフレを引き起こし、新たな混乱を生み出してしまいます。
これに対して、この元文改鋳は、空前の大量発行であったにもかかわらず、通貨の安定を実現します。
すなわち、元文金銀は、その後1818年まで82年間も、改鋳されることなく通用し続けるのです。
それは、享保の間に起きた経済規模の拡大と、通貨発行量がちょうどほどよく噛み合ったからに他なりません。
しかし、それは大岡の功績というより、偶然というべきでしょう。
大岡は、同時に、丁銀及び豆板銀も改鋳します。
白石以来、幕府は一貫して慶長銀並の80%純度の銀貨を発行してきていていました。
大岡の新しい銀貨の銀純度は46%で、享保銀からの下げ幅は金貨と正確に同一です。
日本史学者には、大岡の貨幣改鋳を、前項の金銀レートの固定問題と結びつけて、金の対銀レートをよくするために行ったのだ、と主張する者がいます。
金貨重量を軽くしていることを看過して表面的な品位の低下だけを見たため、金の品位低下の度合いが、銀よりも少ないと錯覚したためでしょう。
しかし、改鋳という手段により腕ずくでレートの変更をしようと考えたのであれば、少なくとも、低品位化の程度を、金に比べて少なくとも2割以上は悪くしなければなりません。
この元文銀の発行量は、52万5465貫です。
正徳銀・享保銀の発行量が白石以来の22年間ですでに33万1420貫に達していることを考えますと、大岡の発行量は、大勢に影響を与えない程度の微量であるといわざるを得ません。
また、この時点では、まだ市中には、荻原の一連の超低品位銀貨が多量に出回っていたはずのことを考えますと、むしろ中程度の品位の通貨発行とさえいえるでしょう。
そう考えると、この銀貨の改鋳の方は、むしろ金の対銀レートを暴落させないための予防措置程度の意味しかないと思います。
しかし、この改鋳の結果として、不思議なことに、金の対銀レートが強くなり、この時期、1両が銀60匁になったといいます。
金貨の方が銀貨よりもよけいに発行されているのに、銀貨の方が弱くなるというのは、経済の理屈に反します。
おそらく、史上に残るような低品位金貨に驚いて、人々が享保小判等の退蔵に走ったために、市場で金貨が品薄になる一方、銀貨の方は、上述のとおり中程度の品質だったので、比較的抵抗がなかった結果、金貨に比べると相対的にだぶつきを示したためではないでしょうか。
ともあれこの改鋳により、経済は再びじりじりとインフレの方向に向かって行くことになります。
今まであまり触れませんでしたが、江戸時代は銅本位制を採用していた時代でもありました。
すなわち、金貨や銀貨に対する銅貨の交換レートは、公定レートは金貨1両が銭4貫文ということになっていましたが、実際は、常に独自に変動していたのです。
金貨や銀貨が改鋳によって価値が下落すると、改鋳されていない銅貨の交換レートが跳ね上がるのは当然です。
したがって、改鋳が行われる度に、銅のレートは跳ね上がります。そうなれば、それが生活上の基本通貨である庶民に対する影響となって現れます。
この元文の金貨・銀貨の改鋳の際には、1両が、3貫文〜2貫800文にまで、銅貨の価格が上昇した、といいます。
このような場合、大岡忠相の発想は常に同一です。
銭の両替商が結託して、銭を溜め込んでいるために上昇しているに違いない、と決めつけ、まず銭の買い占めや貯め込みを禁ずるお触れを出します。
しかし、市場原理的な理由で上昇している価格がそうした一片の通達で下がるわけがありません。
すると、次にくるのは、摘発です。江戸市中の一斉捜索を行い、銭を蓄えている者13人を逮捕し、うち、3人を遠島にしました。
もちろん、このような強硬策は、経済の流れを左右する役には、まったく立ちませんでした。
実を言えば、銅貨に関するデフレは非常に深刻でした。
吉宗が換金作物の栽培を奨励した結果、農村が急速に貨幣経済の中に組み込まれていったからです。
荻生徂徠が、吉宗の諮問に答える形で書かれた「政談」という意見書がありますが、その中で、徂徠は、自分が子供の頃には農村では一切のものを米や麦で買っていたが、近頃は何でも銭で買うようになっている、という趣旨のことを書いています。
そのように農村にまで貨幣経済が浸透しているのでは、通貨供給量の大幅増加が必要なことは明らかです。
したがって、大岡のような腕ずくの対策が役に立つわけもなく、真の解決策は、銅貨の大増発以外にはあり得なかったのです。
それがおいそれとできなかったのは、銅貨が長崎貿易の主役になっていたからです。
前にも述べたとおり、貿易用の銅の供給さえ、幕府では思うに任せない状況だったのですから、銅貨の増発どころの状況ではありませんでした。
大岡忠相が、寺社奉行に昇格という形で失脚した後、1739年に、ようやく幕府は現実的な対応を行います。
一文銭を、それまでの銅に換えて鉄で作るという新機軸を打ち出したのです。
銅が長崎貿易のため不足するのだから、銅以外の素材で一文銭を発行するというのは非凡なアイデアでした。
銅貨は、純度100%であったため、改鋳という手段が執れなかったのですが、それを外の素材に換えることで実現したのです。
それまでの銅貨の発行総量は、白石の推定ですと197万貫です。
この時の発行量は、わずか10年ほどの間に約600万貫、すなわち枚数でいうと60億枚も発行したのです。
銅貨の亡失や貯蓄、さらに海外への流出などもあることを考えると、おそらくこの時期、実際に国内で通用していた銅貨の流通量はせいぜい100万貫程度でしょう。
したがって、鉄銭の発行により一気に低額通貨の流通量は6〜7倍程度に跳ね上がったことになります。
この大量発行によって、あれほど騰貴していた銭相場もようやく落ち着きました。
この鉄製の銅貨?は、1867年といいますから、江戸幕府が滅びるときまで、その後も少量づつ製造が続けられました。
最終的に、発行総数は63億3261万9404枚に達しました。
そして、明治になって、1873年に明治政府の新貨条例で流通が止まるまで、庶民の間の通貨として使用され続けました。
ですから、今日、江戸時代の寛永通宝を我々が見る場合、その多くは、この鉄銭でしょう。
テレビ時代劇で、家光の時代に生きていた柳生十兵衛が、この鉄銭を眼帯代わりにしていて、笑ってしまうこともしばしばです。
この時初めて作られる鉄銭を、家光時代に生きた十兵衛が目につけられるはずはありません。
序でにいえば、第1章で述べたとおり、家光の時代の寛永通宝は、製造量が極端に少なく、ほとんど流通しませんでしたから、十兵衛が本当に銅銭を眼帯に使用していた、とすれば、それは寛永通宝ではなく、輸入銅貨だった可能性の方が高いと思います。閑話休題。
この元文の改鋳は、白石の正保金銀のような高品位通貨にも不可能だった通貨の長期安定を実現にしたという点で、非常に重要なものです。
しかし、金貨銀貨についてだけ見ると、何らそれまでの改鋳と変わった点はありません。
元文改鋳を、それまでの改鋳と違うものにしている最大の点は、この庶民の通貨である鉄銭を潤沢に発行した、という一事にあります。
これによって通貨の基盤が安定したために、上位通貨の安定がもたらされたのです。
つまり、それまでは、金銀を貯め込むよりも、銅貨を貯め込んだ方が儲かるという異常な状態が続いていたのですが、鉄銭によって初めてそれが解消し、通貨が安定的に流通し始めたわけです。
いかに長く市井に暮らそうとも、庶民の見えていなかった白石には、この銭の安定という視点が欠落していたのです。
鉄銭発行の企画者が大岡であったのであれば、その視点を有していた、という点では、大岡忠相は、名町奉行と褒めることができるでしょう。
しかし、一片の命令で社会を変えられると考え、それがうまくいかないとすぐに強権を発動したがるあの権力志向的な体質は、とても庶民派ということはできません。
実際に鉄銭を考え出した無名の人物こそが、元文改鋳の立て役者として褒め称えられるべきなのです。
論者のよって立つ視点の如何により、享保の改革の評価は異なってきます。
財政面で見る限り、元禄期に綱吉が確立した路線を白石が継承しましたが、享保の改革も、その路線を引き継ぎ、発展させたと言うことができます。
そして、この時点における幕府財政の健全化、という観点だけから見ると、吉宗は十分に成功した、ということができます。
先に、奥金蔵に蓄えられている金銀が、1722年にはわずか13万両余に減少した、という話を紹介しました。
しかし、年貢の厳しい増徴策などが功を奏して、1736年には100万両ちょうどと大幅な増加を見せます。
ただ、換金作物の奨励に始まり、元文の改鋳に終わる彼の施策は、一貫して、自営農を崩壊させ、農村の自給自足経済を終息させ、代わって貨幣経済が農村に全面的に浸透する道を開くことになりました。
高校の教科書などには、享保の改革は、封建制の崩壊を遅らせる効果しかなかった等と書いてありますが、話は逆で、むしろ封建制の崩壊をより促進したという方が正しいのです。
その意味では、享保の改革なるものは、幕府中興の活動というよりも、幕末の始まり、とでも評価した方が良さそうです。
彼の施策のうち、特に貨幣経済の浸透が原因となって、息子の家重、孫の家治などは、そうした享保の改革が結果として起こす事態に対する対策に追われることになる訳です。
その意味で、この享保の改革は、米中心に幕府財政を考えていればよい、という古き良き封建時代に終わりを告げ、新しい市場経済の時代を作り出す改革となった、ともいえます。
このように、いろいろな意味で、まさに歴史の分岐点となった大改革でした。