第4章 吉宗と享保の改革
1716年、将軍家継は急逝します。もっともわずか8歳(満でなら6歳にしかなりません!)の子供のことではあり、当時の衛生水準と医療水準を考えれば、別に異とするようなことではありません。
代わって将軍の地位に就くのは、紀州藩主吉宗です。吉宗は、綱吉を見習って強力な将軍として君臨しようとします。その治世も約30年と綱吉に匹敵する長期であるため、改革の内容は非常に多岐にわたり、改革の規模的にも、十分に綱吉の断行した改革に匹敵します。
従来の日本史が、江戸三大改革と称しているのは、享保の改革、寛政の改革、そして天保の改革です。
しかし、この中で、財政面に関して改革と呼びうるのは、最初の享保の改革だけといえます。
私は、綱吉の改革と、この享保の改革、それに9代将軍家重から11代将軍家治まで息長く行われた改革(一貫してそれに関与していた、という意味において田沼意次の改革と呼んでも良いでしょう)の三つを合わせて、江戸財政の三大改革と評価するのが正しいのではないか、と考えています。
ただ、問題はその内容です。綱吉の改革の場合には、その改革の内容は、幕府権力の強化、という一言で要約することが可能です。
これに対して、吉宗の場合には、それほど単純ではありません。
本稿の冒頭で、いわゆる改革という名の活動は、「社会が変化していく中で、為政者たちがそうした変化を無視、ないしは否定して、歴史の流れを逆転させ、江戸初期の封建体制に無理矢理戻そうと努力する活動のこと」だと書きました。
その意味では、享保の改革は、いわゆる改革には属しません。これはまさしく、社会の変化の方向を直視して、その変化に合わせて江戸幕府財政を切り替えようとする努力でした。ある点では、時代の先取り的な性格をもっています。
問題は、社会の変化は、封建制を崩壊させる方向に向かっていた、ということです。
このため、幕府財政の確立という方向に向けての吉宗の努力は、長期的に見た場合、むしろ幕府権力の基盤を突き崩す方向に機能していきました。
春秋の筆法を借りれば、江戸幕府を中心とする封建制を破壊したのは吉宗である、ということができるでしょう。その点が、この改革の大きな特徴です。
また、この改革の端々には、彼の強烈な個性が表れてきます。
その個性を抜きにしては、理解のできない政策も数多くあるのです。その意味で、吉宗の人となりを知ることは、その改革の内容を理解するうえで、きわめて重要です。
吉宗の生涯は幸運の連続と言っていいでしょう。
彼は、1648年に紀州藩主徳川光貞(みつさだ)の四男として生まれますが、兄の1人は早くに死ぬので、事実上の三男として育ちます。
母の出自は今日にいたるもはっきりしません。とにかく非常に低い身分の女性であったことは間違いありません。
そのため、吉宗自身も、間違っても晴れがましいところを歩けるような生まれとは考えられていませんでした。
だから、1697年、彼が13歳の時に、将軍綱吉が紀州藩江戸屋敷を訪問した時にも、彼の2人の兄、すなわち綱教(つなのり)と頼職(よりもと)は、表の間に、父光貞と並んで、将軍に挨拶しましたが、吉宗は次の間に控えさせられていたのです。
ところが、この時、吉宗に最初の幸運が訪れます。
綱吉は何が気に入ったのか、わざわざ吉宗に拝謁を許したばかりか、越前丹生に3万石を賜ったのです。
部屋住から一躍大名への出世です。
川口松太郎の「新吾十番勝負」ですと、吉宗はその後越前に入部したように描いていますが、実際にはそのまま江戸に住んで、越前には一度も行かなかったようです。
1698年に、光貞の長子綱教が紀州藩主となりますが、1705年に死亡します。
子がなかったため、弟の頼職が跡を継ぎます。ところが、彼もわずか4ヶ月後に急逝するのです。
こうして吉宗が一躍紀州藩主の地位に就くことになりました。彼が22歳の時のことです。二度目の幸運です。
1712年に、吉宗自身の知らないところで三度目の幸運が起きていました。
尾張公の徳川吉通(よしみち)は、吉宗や水戸家の当主と比べると、家康から数えての世代数では一世代上のため、御三家の中では、理論的には一番将軍に近い立場だったのです。
そこで、病気に倒れた将軍家宣は、幼児の将軍に跡を継がせることに危惧の念を持った時、白石に、尾張公を西の丸に迎えて後継者とするか、少なくとも後見とすることを諮問します。
この時、家宣の意思がとおっていれば、後継将軍はそのまま尾張家からでることになっていたかもしれません。
が、白石が、れっきとした後嗣がいるのにそうしたことをしてはかえって世が乱れると反対したといいます。
単に後見人に立てるという話に対する反対意見としては、随分不自然な理由です。おそらく本当の理由は、吉通の人物そのものにあったはずです。
実は吉通は、荒淫暴食を常とする一種の人格破綻者だったのです。
そんな人物を後見に立てるというのはとんでもないことですが、そんな親戚の悪口のようなことは家宣にはいえなかったのだと思います。
その後、吉通は荒んだ生活が祟って、1713年にわずか25歳の若さで死に、尾張家の持っていた世代的な有利さは失われます。
しかも、その跡を継いだ3歳の幼児五郎太も2ヶ月の在職で死ぬという二重の不運に、尾張家は襲われるのです。
こうした一連の幸運の末に、この1716年、吉宗はとうとう将軍職に就きます。
このとき、御三家は理論的には横一線で並んでおり、なぜ外の2家を押しのけて吉宗が政権を握ることができたのかは、今もはっきりしません。
しかし、この時だけは単なる幸運ではなく、自ら呼び込んだ運命だったようです。
吉宗は、将軍になった後、お庭番という将軍直属の隠密組織を創設したことに端的に示されるように、早くから情報に非常に敏感だった人です。
したがって、この決定的場面でも、徹底的に情報を収集し、その分析の上に立って戦略を巡らすことで、将軍位を獲得したのです。
すなわち、尾張家や水戸家に対して情報戦で勝利したことが、その最終勝利につながった、と言えるでしょう。
尾張家では、後に、情報戦において紀伊家にあまりに遅れを取ったため、単なる努力の差とは思えず、誰かが紀伊家に内通していたためだったのではないか、と魔女狩り騒動まで起こしています。
それほど決定的な差を、吉宗はこの時の情報戦において示したのです。
とにかく、その時点で、後継者決定に関する限り、新井白石は、何の権限も認められません。幕府の正式職制に属していない悲しさです。
したがって、キャスティングボードを握っていたのは老中陣でした。
そこで、吉宗は、豊富な情報量を利して、彼らに何らかの公約を与えることで、その支持を勝ち得て、この横一線の競争から抜け出したことは間違いありません。
それがどのような公約であったのか、ということは、明確なものは残っていません。
しかし、吉宗のその後の行動で、公約の内容はかなり正確に推定できます。
すなわち、吉宗は将軍になると、しばらくの間、じっと我慢の子を続け、彼を支持した老中達(これを「援立の臣」と呼びます)がすべて退陣するまでは、享保の改革に本格的に着手しないのです。
それどころか、将軍の独裁という観点からは、不利になる一連の措置を執るのです。
好きこのんで不利なことをする者がいるわけはありませんから、それこそが選挙公約だったはずです。
しかし、そのように律儀に選挙公約を守るということは、譜代幕臣の間での吉宗の人気を高める上で絶大な効果がありました。
そのように人気を高めた上で、やおら改革に着手したものでしたから、改革さえも幕臣の間で、非常に高く評価されるということになりました。
先に述べたとおり、実際に幕府中興の祖は綱吉と見るべきでしょう。
しかし彼は、徳川氏の公式歴史書である徳川実記においてでさえ、暴君という感じに書かれています。
これに対して、吉宗は、中興の祖とされ、名君と言われて、死後間もない頃から神格化されます。
これは、綱吉が将軍家の権威を高めるため、先に紹介したような様々な手段で幕臣を強く押さえつけたのに対して、吉宗は譜代の幕臣に対する徹底した人気取りを行ったおかげでしょう。
綱吉は、生まれ落ちたときからの君主であり、名君となるべく教育されたものですから、自分の考えた正義を実施することが政治と考え、その過程で家臣の感情を忖度(そんたく)する、というような軟弱な神経は持ち合わせていませんでした。
これに対して吉宗は、本来ならば冷や飯喰いの部屋住みという、家臣の情けにすがってやっと生きていくような脆弱な基盤から育ってきたものですから、どうしても彼を擁立する家臣の人気を取ろうという意識が働くのだと思います。
お庭番とか目安箱を設けるということに現れる民衆に対する迎合傾向も、人気に敏感という彼の弱点の現れと見ることができます。
実はお庭番が彼から収集を命ぜられる情報とは、問題となっている事柄に関する真実の情報ではありません。
「風説書」というその名称に示されているとおり、調査対象に関して世間に流れている噂の収集なのです。
その結果、大衆の人気を失ったことが判ると、腹心の老中を無造作に罷免する、というような極端なことさえも何度かやっています。
このことは、彼が民衆の間での自分自身の人気を気にしていたということの裏返しと見ることが出きるでしょう。
もちろん、直接民衆と結びつく、ということは、ナポレオンやヒットラーを見れば判るとおり、独裁の条件でもあるのですが。封建制の下でそれをやったというのは非常に珍しいということができます。
吉宗の治世は、上述のとおり、1716年から1745年まで約30年に及びますが、大別すると、四つの時期に分けることができると考えます。
初期は、援立の臣に遠慮して、じっと我慢をしていた時代です。援立の臣達が死んだり引退したりする1722年までがそれに当たります。
中期が、いわゆる享保の改革と呼ばれるものの中心的な施策の行われた時代です。老中水野忠之が、幕政の中心となって活動した時期ということもできます。1722年から1731年までと見ることができるでしょう。
その後、1737年まで、小さなものは別として、大勢としては、改革は一休みします。改革休止期と呼べばよいでしょうか。
末期は、この享保の改革が破綻を見せ始め、その対策に追われるようになる時代です。
年号が享保から元文と変わっていますから、私はこの時期を「元文の改革」と呼んでいます。
老中松平乗邑(のりさと)、勘定奉行神尾春央のコンビで知られる強圧的な政治が行われた時代に当たります。1737年から吉宗の引退する1745年までがそれです。
これらの時期について、以下、順次見ていくことにしましょう。
吉宗政権の初期は、従来の政策の破壊に終始する時期です。
綱吉政権以来、一貫して側用人に押さえられ、さらに近年は新井白石という怖い先生がいたためにストレスのたまっていた老中達は、積年の恨みを晴らすべく、良い、悪いの別なく、一律に従来の制度の廃止要求を吉宗に突きつけてきました。
援立の臣達は、綱吉や家宣が、側用人政治の邪魔にならないようにと、特に無能な者を選んで就任させた連中です。
もっとも家柄はよいし、態度振る舞いは普通なので、最初は、吉宗も、それほど無能な連中とは思っていなかったようです。
しかし、接すれば接するほど、その度し難い無能ぶりに、仰天したという話が残っています。
しかし、この無能ぶりは、吉宗にも幸いしました。
無能な人間というのは、物事の本質を把握できませんから、表面的なところだけを見て文句を言います。
だから、表面さえ糊塗してやれば、実質は変更しなくても判らないのです。
また、彼らの要求は、一般に形式面がほとんどでした。おとなしく飲んでいても、そう問題のあるものではなかったようです。
結局、吉宗の初期の政策の中で、実質的に将軍にマイナスの影響が及ぶのは、次の諸点に過ぎませんでした。
綱吉及び家宣が将軍になったとき、それに伴い館林藩士及び甲府藩士が大量に幕臣になったこと、そして、その中にはかなり大量にそれ以前は浪人であったものが混じっていたこと、そして、綱吉も家宣も、家康以来の譜代の幕臣を虐待し、自分の連れてきた新参者を中核として将軍中心政治を実施したことは、これまでに述べてきたとおりです。
当然のことながら、譜代勢力としては、このような新興勢力の優遇というのは我慢がならないものだったに違いありません。
吉宗政権の初期は、こうしたこれまで政権の中核にいた新参者に対する逆差別の時代です。
吉宗は、内容は伴わないのですが、大向こう受けする派手なパーフォーマンスを連発して逆差別をアッピールすることで、一気に譜代層の人気を獲得します。
例えば、吉宗が将軍職に就いた直後、紀州から来た用人内藤某が殿中不案内のため、老中列座のところをとおったことに気が付かず、無礼があったというので早速紀州に帰し、これを案内していた茶坊主も処罰した、という話があります。
また、ある時、大奥の老女が縁故のものの登用を吉宗に願ったところ、吉宗は老中に申し出るように指示しました。
そして、老中に、たとえ上意(すなわち吉宗の意向)であっても、この件は然るべからず、と拒否させた、というのです。
そのほか、譜代の大名だけを集めて特に謁見を行ったり、饗宴を行ったりします。
ほとんど実質のない優遇策ばかりです。
わずかに実質を伴うものとしては、たとえば、譜代の旗本は養子を認めるが、新参者の場合には、実子がなければ家は断絶になるといったものがあるにとどまります。
が、こうした政治的配慮は、一つ一つはいかに下らないことでも、重ねて実施すれば、人気取りには非常に役に立ちます。
綱吉、家宣、家継とかれこれ40年近くも続いてきた側用人制度に対する門閥勢力の不満はかなり高いものがあったはずですから、その廃止という公約はかなり受けたに違いありません。
これは、新参者による、譜代に対する圧迫のシンボルみたいな官職ですから、幕臣の間での人気に非常に神経を使う吉宗としても、この廃止は単に援立の臣に対する公約以上の重要性があります。
このため、その将軍としての治世が終わるまで、側用人を復活することはありませんでした。
そして、老中はいつでも将軍のところにきて話ができる、ということにしました。
しかし、老中を御用部屋に押し込めるというやり方を変えたわけではありませんから、将軍と老中の間の連絡員が必要という事情に変わりはありません。
そこで、吉宗が行ったが側衆(そばしゅう)の強化です。
側衆というのは従来からある官職で、将軍の側にいて、その雑務を担当する者です。
吉宗の時までは、側衆は業務的には既決書類の取次しかできないこととされていました。
吉宗は、その中のエリートを御側御用取次(おそばごようとりつぎ)とします。
御側御用取次は、規定役高5000石ということですから、旗本が就任できる官職としては最高位の職ということになります。
参考までに、主要な役職の規定役高を紹介しておくと、書院番頭及び小姓組番頭が4000石、町奉行、勘定奉行それに大目付が3000石といったところです。
つまり、旗本の就ける地位の増加なのですから、譜代の旗本にはそれだけで受けたに違いありません。
なお、老中及び寺社奉行は、大名であることが資格ですから、旗本が就くことはできません。
御側御用取次は、職務内容的に見ますと、未決や機密の事項を取り次ぐことが主な職務です。
が、将軍側近として、その意を受けて政務にも関与しました。したがって、かなり側用人に近い制度です。
ただ、側用人は1万石以上の領地を持つ者が就任する大名級の職で、老中に準ずる待遇を与えられます。
これに対し、御側御用取次は、上記の通り、旗本が就く職とされている点で側用人よりは一格低い地位、ということは、幕府の階級組織の中では、大きな相違となります。
これは形式を重視する譜代層には大事な点です。
実際、吉宗は、お気に入りの御側御用取次に対してさえも、最終的にも1万石どまりに押さえて、大幅加増はせず、柳沢吉保や間部詮房のような、いわゆる出頭人といわれるほどに重用する者を出しませんでした。
また、何といっても吉宗自身の強烈な個性が目立った時代ですから、その前の時代の側用人のように、一世にその名が喧伝されるほどの大物は、最後まで出ていません。このことも、非常に譜代の人々に好評でした。
中期の、改革が始まった以降に入ると、少しトーンが変わってきます。
1724年に、奉行達に対して、奉行より申し上げることは、まず老中に申し出るように、という命令を下します。
これで老中がつんぼさじきに置かれることはないと、老中達は喜んだことでしょう。
しかし、この命令には、重大な但し書きがついていました。将軍が側衆をもって尋ねたことは別だ、という点です。
その結果、援立の臣が絶えると、吉宗から、改革を目指して積極的に奉行達に対して様々な下命が発されるようになります。
それに答える場合には、奉行や目付は法令等の原案を作成すると、まず御側御用取次に上申します。
それを受けて、将軍が採否の方針を決定しますと、その旨が奉行等に降りてきますので、そこで改めて老中に上申するという運びになります。
その場合には、老中は、単なる追認機関に過ぎなくなっているのです。
この結果、御側御用取次の権威というものは、時とともに、だんだんと大きなものになっていきます。
援立の臣の一人、老中久世重之が、御側御用取次が老中の決定事項を独断で決定したことを叱責して、老中列座の席に呼び出して陳謝させたという逸話があります。
援立の臣であり、地位的も問題なく上位の老中が、下の身分の御側御用取次を叱責する、というのは、犬が人を咬んだというのと同じようなもので、普通なら、ニュースバリューのない話です。
それが逸話になりうるのは、援立の臣が残っている段階で、すでに、普通の老中はむしろ御側御用取次に迎合して、そのご機嫌を取っていたからなのです。
そうした中での、久世の行為は、人が犬を咬んだという程度に、人々を驚かせたからに違いありません。
末期に入ってくると、もうその権威は絶大なものとなってきます。
ある時、町奉行大岡忠相が、吉宗の採用した政策に異議があり、クレームを付けようとして、御側御用取次の有馬氏倫(うじのり)に取次を依頼しました。
これに対して氏倫は、その話は確かに承ったので、気が向いたら取り次ぎましょうという趣旨の答弁をしたという話もあります。
皆さんもご存じのとおり、大岡は吉宗の寵臣といえる人ですが、その大岡の意見具申でさえも、気分一つで取り次がないことができる権威が、そのころになると御側御用取次にはあった、ということを、この話は示しています。
もちろん、この職に就くのは、吉宗が紀州藩士から転籍させた者に限るのは、いうまでもありません。
ちなみに、吉宗が、紀州藩から幕臣として転籍させた者は、江戸幕府の公式歴史書である徳川実記では、40数人となっています。
が、これは御目見得以上の者だけに限ってのことです。
本当の総数は計204名に達します。つまり、御目見得に届かない下僚を中心に転籍させた、という点に、この時の人事異動の大きな特徴があります。
吉宗が大量の新参者で幕臣を刺激しないように配意しつつ、かつ、自分の支配権を確立するに必要な実務家層を引き抜いて、実質を確保したわけです。
その典型がお庭番で、彼らは、身分は御目見得ではないにも関わらず、庭掃除という形式を通じて、実際には頻繁な接触を保っていました。
一つの大名家全体が幕臣となった綱吉や家宣の時と違って、紀伊家そのものは、その後も御三家としてちゃんと残った事を考えますと、204名という数字はかなりの数といえます。
勝手掛老中は、老中の集団合議制を否定し、それを将軍から勘定所への指揮命令系統の中に組み込むことが狙いですから、側用人制度と同様に、従来の門閥勢力から見れば、面白くない制度だったに違いがありません。
そこで、吉宗は、要求に従い、これを廃止します。
しかし、この公約だけは長く守ることはできませんでした。
将軍の方から見れば、側用人に頼ることができない以上、改革の実施には、老中をラインの中に組み込まなければならないのは、必然の要求となるからです。
したがって、これは、初期の公約の中で、一番最初に破られる公約となっていきます。
吉宗政権の中期及び末期の改革は、いずれも勝手掛老中の任命という形式を採って始まることになります。
吉宗の初期の政治は、援立の臣に対する遠慮の下での試行錯誤ですから、かなり無理なものが目立ちます。
吉宗は、間部詮房については、側用人を罷免した後、高崎に比べると僻地の、越後村上5万石に移封しますが、それ以上特段の処分はしません。
その子の代で越前鯖江5万石に再度移封され、彼の子孫は幕末までその地で栄えます。幕閣に関与する者も出ています。安政の大獄の際には、間部詮勝は老中として上京し、京都における志士の弾圧の指揮を執ったことで有名です。
白石の場合にも、1000石という家禄と寄合という身分は残りましたから、その意味では、間部と同じ扱いです。
が、白石として、是非残してほしい幕府儒者としての地位から罷免します。そればかりでなく、彼の施策を基本的に否定してかかるのです。
すなわち、先に、無能な老中達のご機嫌をとるため、吉宗が様々な公約を出したらしい、という話をしました。
この吉宗の「援立の臣」達は、怖い先生である白石が大嫌いでしたから、このチャンスとばかり、吉宗に、白石本人を排斥させるとともに、白石の政策も排斥させたのです。
吉宗はこれに安易に迎合します。この結果、初期の段階では、かなり機械的に白石の政治の否定が行われます。
たとえば、武家諸法度がそれまで主として漢文で書かれていたのを、白石は内容にも時代変化に応じた修正を加えつつ、全文を和文で書き下します。
これは、漢文の素養が低かった当時の武士の知的水準にも適合した正しい変更だったと思われます。
しかし、これについても、一言半句も違えることなく元に戻すことを吉宗は命じます。
おそらく、元のものでは吉宗自身も読むことはできなかったでしょうが、それに拘束される気のない吉宗としては、それが何語で書かれていようと、どうでも良いことだったに違いありません。
また、白石が、朝鮮通信使の接遇を大変な苦労をして改め、費用を減らしたのは有名な話で、前章でも紹介したとおりです。
しかし、吉宗は無造作にいずれも元に戻します。もっとも吉宗は、その意味するところを理解していなかったのだと思います。
結果として、そのために幕府の財政は破綻し、吉宗はその穴埋めに大変な屈辱を味わうことになるのですが、それは後の話です。
白石としては、単なる浪人に戻されるよりも、こうした業績の否定の方が辛かったでしょう。
しかし、吉宗によって、白石が、儒者から罷免され、業績が否定されたことを、後世の我々は感謝する必要があります。
自分の意図や考えを後世に残そうと、白石は著作に邁進するからです。
「折りたく柴の記」を初めとする彼の著作のほとんどは、これから後の白石の不遇の時代に書かれることになります。
従来の日本史学者には、こうした行きがかりから、享保の改革を、正徳の治の全面的な否定という形で理解するのが普通でした。
しかし、これは初期政治と、享保の改革そのものを混同しているところから起きる誤りです。
1722年に本格的に始まる享保の改革における、財政面での措置を検討していくと、そのほとんどが、むしろ正徳の治の承継、発展という性格をもっていることが判ります。
また、初期の段階でも、施策の内容が、幕府の権威を高める方向の改革である、ということが吉宗に理解できた場合には、援立の臣達に抵抗して、承継するという方針を打ち出しています。
その具体例を、以下に見てみましょう。
前章で、白石の長崎新例を説明した際に言及したとおり、享保の改革まで、幕府の基本政策は、主食である米と麦の増産にありました。
ところが、そのために様々な生活物資、特に生糸・絹織物や綿布を海外から輸入することになり、金銀の激しい流出に見まわれたのです。
吉宗は、白石の長崎新例を継承し、貿易制限額内の決済に当たっては銅を、それを越える分に対しては俵物や諸色による支払いを行います。
さらに抜け荷による金銀の流出を防ぐため、その取り締まりを強化しています。
しかし、真の対策は、そうした輸入に頼っている農産物の国産化であることは、白石が指摘していたとおりです。
そこで、そうした抜本的な改革も行われます。それについては、別に項を立てて論じたいと思います。
吉宗は、通貨政策に関しても、白石の政策を原則的には承継しました。
すなわち、白石の正徳小判等をそのままの品位・重量で鋳造、発行を続けるのです。これを、白石の正保金銀に対して享保金銀と呼びます。
したがって、正徳小判・一分金が発行された1714年から享保の終わる36年までは、白石のデフレ政策が、基本的に継承されていったことになります。
享保が終わった1736年になって、町奉行大岡忠相の指導下に、いわゆる元文改鋳に着手します。
が、それについては、末期の元文改革の一環として、大岡の他の施策と一括して、後述します。
ただ、白石のデフレ政策の継承といっても、吉宗は、かなり過激な形でそれを実施します。
おそらく吉宗には、急激なデフレの進行が、国民経済に、ひいては幕府財政にどのような影響を与えるかは理解できなかったに違いありません。
そこで、白石が20年もかけてゆっくり改鋳を実施することを命じたのは、馬鹿馬鹿しく思えたのでしょう。
また、財政状況の厳しい中で、白石がいうように手持ちの銀を吐き出す、という気もありません。
そこで、吉宗の下で、幕府はわずか5年で改鋳を終えます。
したがって、この急激なデフレに伴う大変な不景気に、吉宗政権は襲われることになります。
このことも、吉宗に享保の改革を実施するよう駆り立てる大きな要因となっていきます。
もっとも、この時に行われた享保小判・一分金の総発行量がどのくらいであったかは判りません。
吉宗は、このほか、慶長大判と同じ重量・品位で、享保大判も1725年に発行します。こちらの方は、8515枚と判っています。
綱吉の低品位元禄大判3万1795枚に比べてかなり少ないのです。
これから考えて、おそらく享保小判等の方の発行量も、正徳小判等と同様に、元禄小判等の発行量に比べると、そう多くはなかったと思われます。
前節に述べたとおり、初期は基本的には援立の臣に振り回された反動政治の時代です。
しかし、この時期にも、吉宗は、援立の臣達の逆鱗に触れない範囲内で、早くもいくつかの積極改革に手を着けています。
ここではそれについて見ることにしましょう。
これは、吉宗政権の初期に行われた政治の中では、後に詳しく説明する土地政策に関する改革と並んで、後世にまで大きな影響を与える非常に重要な積極的な内容を持つ改革です。
もっとも、これに関しては、試行錯誤の結果たどり着いたのであって、始めから行おうとして行われたことではありません。
中期の改革の項で詳しく説明しますが、初期の段階において、白石の政策の機械的否定から来る悪影響で、幕府財政は急速に悪化していきます。
そこでなんとか収入を増やさなければなりません。
封建政権における歳入増収策というと、年貢の増加策しか考えず、年貢の増加策としては、代官の尻をたたくことと考える点では、初期の頃の吉宗の発想は、白石と全く違いはありませんでした。
そこで、白石同様に、吉宗もまた、代官の綱紀粛正に乗り出します。
吉宗が将軍に就いた1716年からの10年間で処罰された代官の数は29名に達していますから、白石以上の厳しさです。
もっとも、白石時代に摘発されて、処罰だけが吉宗になってから行われた、という例も結構あるようです。
また、処罰の内容は閉門とか家督相続の延期など、結構軽いものもあり、綱吉時代のような死罪は一人もいません。
まだまだ、そう強腰で幕臣に望むことのできる時期ではなかったのです。
処罰理由としては、22名までが年貢の滞納等で、これは綱吉や白石の時以上に高い率を示しています。
白石による粛正により、不心得な代官が一掃されていたことが、この構造的要因を浮き彫りにする上で力があったものと思われます。
ここにいたって、ようやく吉宗は、年貢滞納という事態の原因が、代官の質の低下にあるのではなく、代官業務の構造的な要因によるものであることに気づき、その究明に乗り出しました。
江戸初期の財政に関して説明したとおり、代官所経費は、年貢の口米・口永で賄うことになっています。
これが1616年に定められたきり、この時まで100年以上放置されていて、その間の社会構造の変化に対応していないという点が、代官が年貢米を流用する原因として大きいのです。
代官の正規の経費である口米・口永は、年貢の付加税という形式をとっていますから、凶作で年貢が減ればそれに連れて減ります。
また、豊作で米の値段が下落すれば、実収入はやはり減少します。
ところが、代官所は、単なる徴税機関ではなく、民政安定も任務としています。
そうした経費は、豊作か凶作かに拘わらず、常に必要です。それどころか、凶作の時には民政安定のためにはよけいに支出を必要とすることになるはずです。
また、こうした経常支出は、昔なら、米その他の現物支給や農民の労力奉仕の命令という形で賄うことが可能でしたから、現金はあまり必要としませんでした。
しかし、市場経済の農村への浸透とともに、現金を支出しないと、実施が不可能な状況が生ずるようになってきています。
そして、経常経費というものの本質的性質から、年間を通じて必要です。
ところが年貢は秋の収穫シーズンにしか入ってきません。
そこで、端境期は、軽輩で自分自身には資金力がない代官としては、代官所として借金をすることで、その費用を賄うほかはありません。
秋の収穫シーズンになれば、こうした借金を優先的に弁済せざるを得ません。
だから、凶作等のため年貢米収入が少なく、口米ではこの借金を返済できないということになれば、その分が、年貢米に食い込むことになります。
さらにその結果として、幕府に納めるべき年貢米が所定の量よりも不足し、上納が遅れる(というより、ないから納付できない)という事態が起こる訳です。
この当時には、口米や口永だけで経常費を賄うことのできる代官所は日本中からなくなっていました。
代官はまじめにつとめればつとめるほど、借金の山で首が回らない、という事態が起きていたのです。
調査の結果このような事実を把握した吉宗は、1716年から、それまでの口米支給仕法を廃止しました。
それに代えて、地域に応じて代官所の必要経費を算定し、それを幕府から支給する方式に切り替えました。
これ以後は、代官で処罰される者の数は激減し、その後の20年間でわずか4名といいます。
吉宗治世の初期において存在する唯一の財政政策は、倹約令です。
援立の臣のような無能な老中達にとって、金がなければ、新たな歳入源を考えるよりも、支出をとにかく抑制すれば良い、という発想しか出てきません。
そして、武士だけが倹約を心がけるのは面白くありません?から、倹約を一般の町人にまで押しつける、というのが、この時の基本政策ということになります。
無能な人間が政権を握ると常にこうした発想が生まれるらしく、寛政の改革や天保の改革の際にも、同一の政策が採られています。
一般町人に倹約を効率よく押しつけるにはどうしたらよいと思いますか?
この点に関する限り、援立の臣達の発想は実にユニークです。
倹約させる一番良い方法は、商品が購買意欲をそそらないようなつまらないものであればよい、というのです。
確かに理屈です。そこで、購買意欲をそそるような新規の商品を開発することを禁止する、という政策が採用されることになります。
1720年5月に老中から三奉行に下した指令では、食物はもちろん、衣服、諸道具、書籍、菓子、玩具等あらゆるものに関して、新規の商品開発を行い、それを販売することを禁じています。
翌1721年8月には、こうした新規商品を開発したりするものが出ないように、江戸の諸商人及び職人に組合を結成させています。
当時、商人や職人の同業組合を株仲間(かぶなかま)といいました。
そして、この場合には、幕府の命令による株仲間の結成なので、これは御免株(ごめんかぶ)と呼ばれます。
その命令内容は実に細かく、扇屋、菓子屋、雛人形屋等、幕府から考えて、嗜好品と思われる96種の商品について、組合結成を命じているのです。
相互監視システムによる文化の発達の抑止という、いかにも全体主義的な不愉快な発想がここには見られます。
江戸時代の租税は原則として農民が負担していましたから、町民は楽だったと思うかもしれません。
しかし、租税という名称が付けられていなかっただけで、実際には町人もかなり大きな負担を背負っていました。
ただし、その負担はもっぱら受益者負担の形式を採っていた、という点が、農民との違いです。
実は、徳川幕府は、社会資本の整備や経済困窮者に対する援助政策など、各種の福祉政策を、意外にまじめに実施しています。
同じ時期の欧州各国と比べると、当時のわが国は福祉大国といっても良いほどの手厚さです。
しかし租税収入は、幕府の経常費を維持するのがやっとという状況ですから、そうした福祉政策の財源は他に求めなければなりません。
そこで幕府は、福祉政策の財源は、受益者負担の原則に基づき、地元の町に負担させるという方式を標準的に採用していたのです。
結局、今日の目的税的な負担が町人にもかかってきていた、ということができます。
一例として橋の建設・維持にかかる費用をみてみましょう。
徳川幕府は、大井川などの主要街道の大河については、防衛上の見地から架橋を認めなかったのは有名です。
しかし、江戸や大阪の市中ではもちろん多数の橋が架けられています。
それらの橋には、幕府の直轄する公儀橋と、橋筋の町が自前で管理する町橋という区別がありました。
公儀橋は、江戸で160橋、大阪で12橋といいます。
残りはすべて町橋です。水の都といわれた大阪の場合、橋の数は江戸よりはるかに多かったはずですから、橋のほとんどは町橋だったことになります。
江戸時代の橋の寿命は、大体20年と幕府では見積もっていました。
しかし、木造ですから、経年劣化ばかりでなく、洪水や火事による補修工事もかなり必要だったはずです。
したがって、案外頻繁に架替工事の必要が発生するわけです。
公儀橋といっても、橋の維持管理費を幕府が全面的に負担しているわけではありません。
架替や補修のための工事費のうち、材木代、釘かすがい代および大工手間賃は公儀負担ですが、人足の労務費については、地元負担でした。
大体工事費の1割程度になります。一度にとられると負担が大きいので、これを5年くらいに分割して徴収したようです。
したがって、工事の頻度とあわせ考えると、いつでも費用徴収が行われていたことになります。
租税と見られる、というゆえんです。
この場合、費用は店持ち商人の間口(まぐち)割り負担でした。
すなわち店の間口が大きくなるほど負担額が増えるわけです。
特に負担の大きかったのが角店(かどみせ)です。道路の四つ角に位置する店のことで、普通に店を作れば、いやでも間口は倍になります。
その代わり、その分だけ商売に有利だということで、いまでも不動産評価額は普通よりも幾分は高いようです。
当時は、こういう角店は、今日よりも重視されていて、間口割りではなく、普通の店に比べて、はるかに多額の特別の負担が課せられていました。
間口が大きかったり、角店だったりすれば、それだけ商売が大きいということであり、したがって収入も多かったでしょうから、一種の累進課税方式が採られていたことになります。
江戸時代の商家は一般に、間口をできるだけ狭く押さえ、ウナギの寝床のように奥行きのある構造を持っているのが普通でした。
これは、このような租税負担額をできるだけ押さえるための商人の知恵です。
これに対して、店借り人は、こうした負担はありませんでした。
すなわち低所得階層は、免税になっていたのです。
この点でも合理的な租税制度といえます。
その代わりに、当時の町は大幅な自治権が認められていましたが、税負担を免除されている者は、町の運営に対する発言権も認められませんでした。
代表無ければ課税なし、という有名なスローガンがあります。その逆もまた真で、課税無ければ代表なし、ということだったのです。
町橋の場合には、維持管理費の全額が地元負担です。
橋の維持管理費を負担する地元の町を「橋掛り」といいます。橋が老朽化してくると、まず橋の両側の一番橋寄りの家(「橋詰」といいます。当然4軒あります。)の主人が集まって工事を発議します。
この発議を受けて、橋掛りの町々の町年寄り(今の言葉でいえば町会議員)が集まって工事の実施を議決します。
そこで、町奉行所に申請して工事許可を受けます。
それに基づき、工事が行われ、完成すると、決算報告が出ます。
これに基づき、地元の町に費用が割り振られるわけです。
橋は、普通、二つの町を結ぶ形で架けられます。
この、直接橋で結ばれている二つの町をそれぞれ「橋元町」といいます。
工事費の2分の1は、橋本町が負担します。
残りは、橋に近い町から遠い町に向けて、順に10%づつ等比級数的に逓減しながら割り当てられます。
こういう割付方式を「段落之割方」と呼んでいました。
橋元町では、町に割り当てられた経費負担の4分の1(したがって全工事費の8分の1)を橋詰めの4軒に、残りはその他の店持ちの商家で負担します。
橋詰めの店持ちというのは、よほど裕福でなければやっていけないことが判ると思います。
地元の町では、こうした費用負担を少しでも減じるために、有料橋にしている場合も多かったようです。
橋番をおいて、地元外の者から通行料を徴収するわけです。
隅田川に架かる永代橋は、1698年に、将軍綱吉の50歳の長寿を祝って架けられた橋で、その段階ではもちろん公儀橋でした。
しかし、吉宗時代に財政が逼迫したものですから、公儀橋としては維持しきれず、1721年に町橋に移管されます。
そこで、以後は賃取り橋として運営された、といいます。
享保の改革の一環として、吉宗、あるいはその腹心の部下というべき大岡越前守忠相が江戸の町火消しを設けたことは、高校の教科書などにも必ず取りあげられていることで、非常に有名です。
江戸町火消し制度は、1718年に定められます。
当初45組あり、後に3組加わって48組になります。
しかし、教科書には、なぜかその火消し組織の維持管理費は誰が負担したのか、ということは全く書いてありません。
火消しの人数は、最終的には総数1万名に及んだといいますから、大変な費用が必要だったはずです。
実は吉宗は組織を作らせただけで、費用負担は、やはり江戸の町々だったのです。
その方法は、橋の場合とほぼ同じですから、詳細は省きます。
江戸の町の治安維持についても同じことです。
時代劇では、町奉行所の定回りあるいは隠密回りの同心が出てきて、颯爽と捕縛活動を行っていますから、彼ら、あるいは彼らから鑑札を貰っている岡っ引きなどが治安維持活動の主役のように思うかもしれません。
しかし、実際には各町の治安維持の主体は、その町の自警団でした。
町内に必ず、自身番と呼ばれる番屋が設けられ、ここを中心に町方の公用や雑務の処理、犯罪者の逮捕、拘留等の活動が行われていたのです。
要するに、留置場までも備えた警察署を、各町で設置し、維持、管理していたのです。
最初の頃は、商家の主人達が交代で詰めていたのですが、そのうちに雇いの番人が詰めるように変わりました。
奉行所や同心は、この自身番に、捜査の際の捜査本部を設置したり、逮捕した犯人を連れ込んで尋問したりしていました。
もちろん、本格的な取り調べは、奉行所の方に移送することになります。
* * *
こうしてみてくると、こうした様々な社会福祉政策の費用はすべて、その福祉の対象となる地元の町が負担していたことが判ります。
それを商人がすべてその店舗規模に応じて負担していたのですから、租税は無いどころか、かなり大きなものだったはずです。
ただ、農民の場合には、収入額が、他の米の出来具合を見れば一目瞭然であったので、今のサラリーマンと同じように、非常に高い捕捉率となっていました。
これに対して、商人の捕捉率は、今日の自営業者と同じで低いために、相対的に軽い租税負担で済んでいた、というに過ぎないのです。
クロヨン問題の江戸時代版と言えるでしょうか。