第5章 将軍家重の親政期

 享保の改革が終わってから、田沼意次が台頭してくるまでの間の、比較的短い期間を何と呼ぶかについては、日本史では、決まった表現がないようです。というよりも、何もなかった期間として、事実上無視されているのではないかと思われます。現在の高校の日本史の教科書をいくつか調べてみたのですが、私の見た限りでは、いずれも、享保の改革の後にはいきなり田沼時代が始まるように書かれていました。

 しかし、もちろんこれは誤りです。田沼時代が何時から始まるかは厄介な問題で、それについては、次章で改めて詳しく論じます。とにかく、享保の改革が終わった時点では、まだまだ彼は若輩で、幕政を左右するほどの実力を持っていなかったことは確かです。したがって、享保の改革以降をいきなり田沼時代とするのはかなり無理な説明です。高校生向けの簡略化された歴史とはいえ、何故文部省が検定で指摘しないのか、と思います。その程度の歴史知識しかないのにしては、随分大胆な検定をやっているではありませんか。首を捻りたくなります。

 この無視された時代が、何もなかった時代なら、そのような扱いでも構わないのですが、財政という観点から見た場合、この時期に、二つの重大な制度が創設されます。予算制度それ自体と、組織体としての会計検査院制度です。財政制度を支える二大制度が創設された時期を、すなわちわが国財政制度が世界に先駆けて、はっきりと近代的な制度に脱皮した重要な時期を、何もなかった時期として通り過ぎることは、本稿ではもちろんできません。一つの章を設けて論ずる次第です。

 この時期が、従来無視されてきたのは、幕政を主導するこれぞという有力な政治家が、老中クラスに見あたらないためではないか、と思います。その場合、将軍が実際の政治を動かしていると説明するのが妥当なのですが、この時期の場合には、担当する将軍が、無能・暗愚と定評のある家重(いえしげ)であるものですから、この前提を覆さない限り、時代を一つの基調で説明することができなくなります。説明しにくいところは無視して通るのが、間違いがない、というわけで、教科書レベルでは無視しているのだと思われます。

 しかし、オッカムの剃刀ではありませんが、一番単純な説明が正しい、と考えるべきです。すなわち、私は、この期間の政治の実権は、将軍家重自身が担っていた、と認めることが、もっとも自然な理解だと考えています。これは、かなり常識破りの考え方なので、以下に詳しく理由を説明したいと思います。

 とにかく、その様に考えるものですから、この時期そのものを、家重の親政期と呼ぶこととしました。具体的には家重が将軍位に就いた1745年から引退する1760年までが、本章で対象とする期間です。

 

1. 将軍家重の人物像

 幕府の年貢米徴収量は、1740年代から近世最高の水準に達します。特に1744年の年貢米徴収量は146万石を上回っています(このほかに、銀納分が12万3千両あまりあり、これも空前のレベルです)。吉宗が将軍になった1716年の年貢米徴収量は107万石に過ぎませんから、実に36%の増収です。これは吉宗が、神尾などを使って、徹底的な年貢増徴策をとった成果でした。

 しかし、こうした無理な年貢増徴策が幕府直轄領の農民の激しい反撥を呼びます。特に神尾直々の調査により、年貢が一気に倍増した畿内の農民は、「惣公無民」であるとして、各地の代官所、大阪、京都の町奉行所、さらに京都所司代などへ繰り返し嘆願を始めました。それでも埒があかないところから、翌1745年4月には、約2万人が大挙京都に上り、朝廷に、年貢減免の斡旋を願い出たのです。朝廷には何の実権もありませんから、それ自体は意味のないパーフォーマンスですが、為政者としての幕府の面目は、丸つぶれというところでしょう。

 この、江戸期を通じて例のない注目すべき訴願が行われた年の9月、吉宗は突然将軍位を退き、その長男家重がその後を襲って将軍位に就きます。

 吉宗は、体力的にはまだ限界ではありませんでした。が、彼の独裁は、老中クラスを飛び越して、庶民と直結するという形で実現していたのですから、このように、庶民の間での人気が落ちてくる、というのは非常に気になります。そのように庶民の怨嗟の対象となっている状態の下で、将軍であり続ける事に嫌気が差したことが、この時、将軍位を投げ出した理由ではないか、と考えます。享保の改革の途中にも、数年間にわたって中だるみ時期があったことで判るとおり、時々政治を放り出したくなる癖が、吉宗にはあるのです。

 しかも、この年貢米収入の大幅な伸びは、必ずしも幕府の歳入額の増加そのものをストレートにもたらすものではありませんでした。綱吉の改革でも紹介したとおり、販売量が増えれば価格は下落するのが市場経済の鉄則だからです。したがって、これにより逆に幕府財政構造そのものに、近い将来に大きな破綻が生ずることは、米将軍とあだ名されたほどに、商品取引に詳しい彼には十分に予見できていたはずです。

 一般に、日本史学者は、家光や家宣の突然の死が、次の世代の治世をぎくしゃくしたものにしたこと等も合わせ考えて、家重の治世に問題が生じた場合に、いつでも後見を果たせる段階での引退を考えたものと説明します。そうであるならば、大御所時代の家康や後の大御所時代を作った家斉のように、政治の実権を離そうとしなかったはずです。しかし、実際には、この時点以降の幕府の政策に吉宗の個性は余り認められません。私は、彼は本当に引退してしまったのだと考えています。覇気の喪失は、男の命を縮めます。引退のわずか5年後に彼が死去した、という事実そのものが、彼がこの時点で政治を続ける意欲を失っていたことの良い証拠だと考えるのです。

 吉宗の長男家重は、1711年生まれですから、将軍位に就いたこの時は既に35歳。十分に責任のとれる年齢になっていました。ただ、子供の時の疾病のため、といわれますが、言語が不明晰で、長きにわたって小姓をつとめた大岡忠光だけしかその言葉をよく理解できませんでした。このことなどから、一般に暗愚な性格といわれます。

 それに反して、その弟の田安宗武(むねたけ)は聡明の誉れ高かったので、当時、重臣達の一部は、家重を廃嫡しようと画策したという話があるくらいです。

 しかし、今日の日本史学者までが平然と、家重を暗愚と呼ぶのは理解できません。もし本当に暗愚なら、政治のことは老中に任せきりにして、酒色にでも耽っていそうなものです。ところが、家重が将軍であった時代の治世を見ていきますと、将軍にしかできない決断を下していた事が、様々な事実から認められるからです。

 言語や運動能力に障害があると、とかく知能そのものが低く見られる悲劇は、たとえば松本清張の出世作「ある小倉日記伝」などに描かれているところです。家重の場合も、言葉は不自由でも、頭脳は怜悧であったと考えるべきです。通説に大きく反することなので、その根拠となる事実を、以下にいくつか示したいと思います。

(1) 側用人政治と将軍の指導性

 家重は、政権を握ると、久しぶりに側用人制度を復活させ、お気に入りの大岡忠光をその地位に据えます。

 そして、この時代が、側用人政治であったことは、彼が自らの意思で政治を行う有能な将軍であったことを意味しています。これまで、側用人を活用した綱吉以降の各将軍を紹介してきましたが、そこから明らかなとおり、側用人重視の政治を行うには、強力な将軍の存在が不可欠だからです。確かに幼児将軍家継のような例外もありますが、この時は間部がいったん強力な将軍であった家宣の下で権勢を確立した後のことであり、その間部=白石コンビでさえも、幼児将軍時代にはかなり無能な老中達に押され気味になったことは既に述べました。

 しかも、家重の側用人制度は、吉宗時代を単純に承継したものではありません。いったん積極的に否定的評価がされたために、吉宗によって廃止されていたものを、家重が再興したのです。

 確かに、吉宗の下で、側用人政治が実質的には、実現していたことは、前章に紹介したとおりです。御側御用取次制度がそれです。しかし、吉宗は、譜代勢力に対する遠慮から、最後まで実際に側用人という名称を使うことはしませんでした。しかも、その御側御用取次の持つ権威は、吉宗政権の末期には、強力な老中に押されて、かなり失墜していた、といわれています。

 強力な将軍といわれた父吉宗にできなかった側用人制度の復活を、吉宗時代の有能な老中達をほぼそのまま継承しながら、その権威を押さえて、名実共に実現できたということは、家重の並々ならぬ実力を物語るものです。

 しかもこの時代、すでに吉宗は神格化されていましたから、その吉宗の確立した政治方針を変更することに対する抵抗は、非常に激しかったはずです。このこと自体、家重が、その父を上回る強力な将軍であったことを示しています。

 もちろん、側用人の大岡忠光が、柳沢や間部ほどに強烈な政治力を持っている人なら、あるいは、将軍よりも側用人自身の功績とする方が正しいかもしれません。しかし、大岡について、政治力の強い人物だったという話は全く伝わっていないのです。それでいて、なお側用人政治だったことからは、将軍そのものの個性が見えてくるはずです。

 ちなみに、家重の側用人として有名な大岡忠光について簡単に紹介しましょう。1709年に300石取りの旗本大岡忠利の子として生まれます。吉宗の寵臣、大岡越前守忠相とよく似た名であることに明らかなように、彼とはかなり近い親戚です。1724年16歳の時に家重付きの小姓になったのが、忠光にとっての幸運の始まりです。家重が将軍になるに伴い、1746年に御用御取次になります。その後、寵愛を一身に集めて、1751年秋には石高が1万石を越え、大名に列することになります。さらに1756年には側用人になるとともに、武州岩槻2万石の藩主となりますが、1760年に現職のまま死亡します。常に家重の側にいてその相手をしており、ほとんど政治面には口を挟まず、権勢をはることもなかったといわれます。もちろん、綱吉時代の柳沢吉保や後の田沼意次のように、側用人のまま老中格になって、政治そのものに参加した、などというような行動はありません。

 当時オランダ商館長をしていたチチングが、大岡忠光の人となりを次のように書いています。

「家重は大岡出雲守という真実の友を持っていた。大岡出雲守はまことに寛大な人物で、他人の過失も咎めなかった。あらゆる点で大岡は上にあげた吉宗お気に入りの3人の家来(注:吉宗時代の有力な御側御用取次である加納久通、小笠原胤次、渋谷和泉の3人の意味する)をお手本にしていた。それで、その死後、大岡について次のような歌ができたのである。

  大方は出雲のほかにかみはなし

その意味は、要するに『出雲のような神はない云々』ということであるが、詠み人は、出雲の立派な性質のすべてについていうことは皮相なことであるとつけ加えている。『我々は皆、そのことをよく見て知っている』といい、また、『そして涙を流して彼の思い出に感謝を捧げるのだ』ともいっている。」

 引用しているものについて、チチングは歌と書いていますが、むしろ川柳のたぐいというべきでしょう。それはともかく、何とも出来の悪いこの句からでも、その名の知られぬ詠み人の哀悼の情だけは確かに伝わってきます。大岡忠光は、単に家重に阿諛追従することでこの地位に昇ったのではないことがよく判ります。

 なお、大岡忠相と大岡忠光とは、どちらも平の旗本から大名にまで出世したのですから、大岡一族のリーダーともいえる立場です。一方は新将軍家重の側近であり、他方は大御所吉宗の側近として、活動する時期も重なっているのですから、当然二人の間に何か交渉があっても良さそうに思うのですが、私の調べた限りでは、特に密接な交渉があったらしい形跡は見あたりません。これも、この二人が共に、血族関係で政治を左右すべきではない、という信条を貫いていたことの、間接的な証拠のように私は考えています。

(2) 吉宗の家重に対する評価

 家重という人は、その父、吉宗から、当時の将軍の親子関係が許す限りの最大の愛情を注がれた人です。吉宗は、天一坊事件などから、精力絶倫の人という印象が強く、多数の愛妾がいそうに思われます。しかし、実際には、家重が生まれた時点では、その生母お須磨の方一人がいただけでした。彼女が1713年、家重が3歳の時に死亡したので、家臣が代わりの側室を入れるように勧めると、家重を育てる必要があるので、お須磨の方と縁のあるものが好ましい、といいます。そういう女性がいることはいたのですが、「其かたちよからず、枕席に侍すべきさまにあらず」と吉宗の伝記に書かれるほどの醜女でした。しかし、吉宗はそれでよいとしたのです。これが田安宗武の生母です。

 この話でも判るように、吉宗は家重に非常な愛情を持っていました。将軍を辞するに当たって、人事の刷新を行っていますが、これは父親としての子に対する置き土産人事と考えられます。その内容は実に思いきったものでした。すなわち、吉宗が将軍であった時代に、その政治の中心にあって実力を発揮した松平乗邑(のりさと)が罷免され、さらに1万石を減封された上、西の丸下にあった屋敷を没収され、蟄居(ちっきょ)を命じられています。

 乗邑は、先に紹介したとおり、それまでの慣例を破って、奏者番、若年寄等の業務経験を全く持たない彼を、1722年に老中に就任させたという人物です。その後、1737年には勝手掛となり、勘定奉行に神尾春央を抜擢して、神尾とともに、享保の改革の後半の立て役者となっていた人です。この時期には、彼の威光の前に、御側御用取次の権力はすっかり衰退していた、といわれるほどに、権勢を振るいます。1736年に、吉宗の信頼の厚かった町奉行大岡忠相を、寺社奉行に栄転させるという形をとって、罷免したのも彼だといわれます。

 吉宗が、この乗邑を自分の辞職の道連れにしてやめさせたばかりでなく、厳しく処罰までしたものですから、世人は驚きました。当時、乗邑は、家重の弟の田安宗武擁立を目指して暗躍したので、詰め腹を切らされたのだ、という噂が流れたほどです。

 私の考えでは、このように高い能力と強い政治力を持つ人物を、そのまま在職させていたのでは、家重の主体性が失われる恐れがあると、父親として危惧したためです。換言すると、そのような重量級の老中さえいなければ、家重なら、十分主体性を発揮できると、親の目から見ても安心できるだけの、能力を持つ将軍であったことを示しています。

 一般には、吉宗も、家重について、世間でいわれていたとおり、暗愚であると考えており、ただ長男相続制という秩序を崩すことはできない、というだけの理由から目をつむって跡を継がせたのだ、と解する人が多いようです。しかし、そうであれば、親としては、むしろ将軍が何もしなくとも政治が無事に動いていくように、有能な家臣を残して補佐させようと考えるのがふつうだからです。例えば、家光は、11歳の家綱を残して死ぬ際、もっとも有能な松平信綱には殉死を許さず、家綱政権の中心として残しています。

 なお、朝廷嘆願事件のきっかけを作って、実質的に吉宗を隠居に追い込んだ勘定奉行神尾春央の方は、家重時代にもそのまま引き続き在職します。彼のような劇物さえ、家重なら使いこなせると考えたからに違いありません。実際、家重時代になってから、神尾は勘定所内における実質的な権限を大幅に削減されます。しかし、1753年に現職のまま死亡します。彼のような仕事の虫にとっては、荻原重秀よりは幸せな最後だったといえます。

(3) 新老中松平武元の能力

 家重の下で、1747年に松平武元(たけちか)が老中となります。1779年まで老中に在職し、現職のまま死亡します。あまり一般に名を知られていない人ですが、この人に対する日本史学者の評価は真っ二つに分かれます。

 擁護派は、この人はすぐれた財政家である、と主張します。すなわち、田沼意次の財政政策として知られているもののほとんどは、この人の功績であり、この人が1779年に死んで初めて田沼意次は好き勝手なことを始めるといいます。

 他方、否定する派の人にいわせると、この人のメインの仕事は、幕府及び将軍家の慶事及び弔事一切の取り仕切りであり、政治実務に拘わっている余裕などなかったはずだといいます。

 どちらもあまり明確な資料的根拠を示さずに議論しているため、門外漢としてはどちらとも決めがたいのですが、私自身は、後者の議論に分があると考えています。武元が老中在職時代の改革には、冒頭にあげた予算制度の創設や会計検査院の設置以外にも、以下に紹介するとおり、かなりドラスティックなものがあります。彼が優れた財政家ならば、それらを主導した人物として、もっとその名が世間に喧伝されて良いはずです。一般に彼の名が知られていないということは、こうした重要な改革で、何もしていない証拠と見る方が穏当です。

 彼が老中職にあった時期は、一貫して側用人政治の時代です。そうした時期の老中には、積極的に無能な人間が選ばれることは、白石の改革などを通じて詳しく説明したとおりです。また、でる杭は打たれる、というたとえの通り、有能であれば、あれほど長期に在職しているのですから、当然側用人や将軍自身との軋轢が起きなければおかしいというべきです。そうした話が伝わっていないことを考えれば、その長期の在職自体、慶事、弔事の取り仕切りというような無難な仕事に専従していた証拠ということができるでしょう。

(4) 郡上藩の百姓一揆

 家重の強い指導性が現れる、一つの事件を紹介しましょう。郡上藩の百姓一揆に関する裁判事件です。

 郡上藩は、長良川沿いの八幡町に城を構える小藩(時代により石高がかなり変動しますが、この当時は3万8800石)で、この時は金森頼錦(よりかね)が藩主でした。彼は、幕閣のエリートへの登竜門といわれる幕府の奏者番就任を狙っていた、といわれます。金森家はもともと綱吉によって天領にされた飛騨の領主でしたから、一説によると、この旧領への復帰を狙っていたともいわれます。

 どちらの説が正しくとも、その実現のためには各方面への贈賄等が必要で、その資金を獲得する必要がある、と頼錦は考えたようです。とにかく、はっきりしていることは、1751年から、郡上藩内における年貢徴収法を、それまでの定免法から有毛検見法に切り替えて年貢を増徴しようとしたことです。神尾春央がやったそれは、一気に幕府の年貢収入の倍増をもたらしたことは、前章で紹介したとおりです。当然のことながら、これに驚いた農民は抵抗し、多数集合の上、嘆願書を提出しましたので、一部家老は検見法の採用を中止しようとしました。

 しかし推進派の家老は、老中本多正珍(まさよし)及び若年寄本多忠央(ただなか)を介して美濃郡代青木次郎九郎を動かし、郡上藩内の庄屋36人を集めて有毛検見法実施を承伏させようとしました。いかに隣接するとはいえ、私領の年貢問題に幕府役人が介入したというのは前代未聞のことです。追いつめられた農民は、1754年には数千人が決起するという大騒動になり、さらに一揆の総代は老中酒井忠寄(ただより)に駕籠訴し、それとは別に目安箱にも投書するという挙に出ました。

 このため、幕府も評定所での裁判がさけられなくなりました。評定所というのは、これまでも何度か触れましたが、江戸幕府における最高裁判所で、裁判官は、老中、寺社奉行、江戸町奉行、勘定奉行、大目付及び目付から構成されます。

 裁判の結果、金森頼錦は断絶となりました。さらに注目すべき点は、この裁判では、幕府の要職にある者が幕府の名をもって藩政へ私的介入を行ったことを理由として、幕府の役職者の中から、厳しい処分を受ける者が大量に出たことです。

 すなわち、老中本多正珍は役儀取り上げの上、逼塞(ひっそく)。若年寄本多忠央が遠州相良1万5千石の領地没収の上、作州津山松平越後守へ永預(ながあずけ)。大目付曲淵英元(まがぶちひでもと)が役儀取り上げ小普請入りの上、閉門。勘定奉行大橋親義(ちかよし)が知行取り上げの上、奥州中村相馬弾正弼へ永預。・・とここまでは、いずれも評定所の裁判官ばかりです。このほか、美濃郡代青木次郎九郎が役儀取り上げ小普請入りの上逼塞等、いずれも軽い場合でも政治生命がたたれるという厳しい処分が並びます。

 ここで刑罰の内容について簡単に説明すると、「預け」とは、その身柄を親戚などに預けることです。流罪より形式的には軽いのですが、他所に送られて行動の自由を奪われる点では一緒です。それに「永」がついていますから、終身刑ということです。「閉門」とは、門を閉ざして家に籠もり、謹慎させることです。自宅禁固といえばよいでしょう。「逼塞」は、門を閉ざして家に籠もる点では閉門と同じですが、日中の出入りが禁じられるだけで、夜間の外出は許されていましたから、この中では一番軽い処分です。小普請入りは、本来は配置転換であって、刑罰ではありませんが、綱吉以来、小普請組に入ると役料が入らなくなるばかりでなく、更に所得税が付加されることになっていますから、事実上財産刑を受けたのと同じような機能がありました。

 処分を受けた役職者の顔ぶれを見ると、幕閣の中では、財政再建を伝統的な年貢増徴策を通して行おうとする派が重点的に対象になっている、と言われます。つまり、幕閣内の派閥抗争が、この事件を契機として決着した、というわけです。したがって、これ以後、重商主義路線が政権の主導権を握ることになります。

 家重には、重度の言語障害がありますから、綱吉の越後騒動の時と違って、自ら評定の場に出席して親裁を行うという行為に出ることはできません。しかし、代理人を出席させています。すなわち、この裁判の時はじめて、田沼意次に評定所への出席を命ずることになるのです。これ以降、田沼意次は、次第に幕閣の実力者として君臨するようになります。

 常識的にいって、裁判所の判決で、その裁判官自身を大量に厳重処断するというのは異常というべきです。したがって、大量の裁判官処分を行ったこの判決では、明らかにその上級裁判所の介入、すなわち実質的に将軍の親裁があったと見るべきでしょう。そのことは、将軍が十分に老中以下を押さえている存在だということを証明していると理解すべきです。

 こうして、家重期においては、万事に家重自身が指導性を発揮していたと考えられます。

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 最後に逆説的な事実を指摘しておきます。家重が暗愚とされて幕臣の間で評判が悪いということは、幕臣にとって困る人物である、という意味に他なりません。しかし、彼が本当に巷間いわれるように、口も効かずにおとなしく大奥で座っているだけの将軍ならば、これは譜代の家臣にとってはむしろ理想的な将軍というべきでしょう。その反対で、従来の慣行を無視して積極的に活動し、家臣を弾圧する結果につながることも厭わないために、暗愚という評判が立つのです。それは、大名や旗本を遠慮会釈なく弾圧して徳川家の財政基盤を確立した綱吉が、幕府の公史の中でさえ、あしざまに悪口が書かれているのと同じ理由です。

 松平乗邑が本当に田安宗武を擁立しようとしたのだとすれば、それは宗武の方が、乗邑にとり、より取り扱い易い人物だったからに他ならないと考えるべきです。吉宗が、股肱(ここう)の臣というべき乗邑をあれほど厳しく処罰したのも、そうであればよく理解できます。

 家重が、ある時公務中に、その言語障害のために、トイレに行きたいという意思を側近に徹底できず、小便を漏らした、という事件がありました。普通であれば、こうした殿中の機微が市中に漏れることはありません。しかし、この話はかなり早くから市民の知るところとなり、小便公方の綽名が付きます。このことは、殿中の大物が、家重と戦っていたため、積極的に秘密漏洩戦術に出ていたことの間接的な証拠といえます。

 

2. 家重の財政改革

 家重の時代には、吉宗型の年貢米の増徴というオーソドックスな財政対策が、明確にその壁に突き当たっていることが表面化しました。当然、それに代わる新しい財政政策が導入されなければなりません。家重は、郡上一揆裁判を通して、新しい財政政策に切り替えるという基本姿勢を明確に示しましたが、それがどのようなものかはまだ見えていませんでした。そこで、家重は、新しい方向を求めて模索を繰り返すことになります。

 ここでは、財政面におけるいくつかの出来事を紹介しましょう。成功したものばかりでなく、失敗したものもありますが、いずれも家重の非凡な個性を示しています。

(1) 吉宗の年貢増徴策の破綻とその対策

 吉宗としては、たとえ幕府直轄領で一揆が頻発するという副産物を生みだしたにせよ、年貢徴収高を史上最高にした、ということで引退の花道を飾ったつもりでいたことでしょう。

 しかし、この膨れ上がった年貢徴収量そのものが、かえって家重時代に、幕府財政を空前の窮地に追い込むことになったのは皮肉という外はありません。

 この時代の幕府は、すでに完全に貨幣経済に立脚して運営されていましたから、年貢米は、それ自体としては価値がありません。これを大阪に送って、堂島の米市場で売却して現銀に換えて初めて、様々な諸施策に使用することができるようになります。したがって、史上最高の量の年貢米を、幕府は当然に毎年大阪に送り込みます。

 同時期に、同じように財政難に苦しんでいた諸藩が、やはり吉宗を見習って年貢増徴策を採用し、これまた幕府と同様に、現銀収入を得るために大阪に米を集中させました。

 越年米(えつねんまい)という言葉があります。市場に流入しながら、売買されずに年を越してしまった米です。今日の言葉でいえば、市場に需要がないために発生した滞貨の量を示していると考えて良いでしょう。したがって、これが大きくなれば当然に米価の停滞ないし低落が考えられますから、その量を追うことで市場動向をある程度把握することができるわけです。

 この時期、かってないほど大量の米が集中的に大阪に送り込まれた結果、大阪堂島米市場の越年米高は1752年には189万俵とそれまでの最高水準に達しました。しかし、その翌1753年には、この記録をあっさり更新して、なんと248万俵にまで達してしまったのです。

 吉宗は、市場を創設して、その価格の操作により米価をコントロールできると考えていたわけです。が、市場は生き物で、その創造主の言うことを、いつまでもおとなしく聞いてはいませんでした。市場経済の下においては、需要が増加しないままに供給が増加すれば、商品の価格は低下するのが必然です。

 このように膨大な量の米が大阪に集中した結果、幕府の買い支えは全く功を奏せず、米の価格はそれ以前の半値近くにまで暴落します。量が3割増えても、価格が半減すれば、幕府収入が激減するのは当然のことでしょう。そこに買い支えのための費用が上積みになります。そのため、家重政権には、吉宗の思惑とは逆に、逆に深刻な財政危機がもたらされた訳です。

 米という、市場に流通する商品の中のただ一つにだけ、幕府財政が依存しているというのは、市場経済の下においてはかなり異常な体制といえます。この封建制そのものの持つ限界が、商品経済の発達と享保の改革による年貢米の増収により、露呈するようになった、ということができます。

 この深刻な事態に対して、家重は様々な対策を導入しています。いずれも、家重という人の発想が、当時の日本人としては、時代を先取りした透明性をもっていたことをよく示すものです。

 A 予算制度の導入

 家重の採用した第一の対策は、予算制度の導入です。吉宗の亡くなる前年である1750年から実施されているので、この改革が、大御所吉宗の影響はほとんどなく、家重自身の主導性の現れと評価できるのはまず確実です。

 これにより、享保の改革期のような、単なる一般的な倹約から、きちんと目標を設定しての倹約策に切り替えられたわけで、その財政上の意義はきわめて大きなものがあります。歳入をきちんと積算し、それに基づいて、各部局に予算高を割り当て、歳出をその範囲内に押さえさせようという内容のもので、非常に近代的な予算制度でした。

 いや、近代を飛び越して、現代的な予算制度という方が正しいかもしれません。なぜなら、その後に誕生した欧米の近代予算制度は、夜警国家理念に基づいた歳出中心の、すなわち歳出に必要な歳入額は増税等で当然に賄うことができるということを前提とした予算制度であったからです。

 我々日本人にとっては、限られた歳入でどのように歳出を賄うか、という発想は自然のもので、明治初期の予算から、既にはっきりとそのような目的で予算は編成されています。しかし、欧米の場合には、こうした発想は、主として第2次大戦後の現代予算制度まで待たなければ、表れてこないからです。

 我々財政に志す者としては、この予算制度の導入という一事だけからでも、家重の名を忘れることがあってはならないでしょう。

 なお、比較のために世界の予算の歴史を簡単にみるならば、イギリスにおいて1664年に、特定の収入をオランダとの戦争目的にのみ使用するように議会が決議しているのが、予算制度の濫觴とされていますから、家重の予算制度の導入は、それよりは若干遅い時期です。しかし、フランスやドイツには、まだ予算らしきものはまったく無く、米国に至っては国も生まれていませんでした。また、イギリスの場合にも、ここで予算と呼ばれているものは、特別の租税収入だけを対象にしたもので、幕府のそれのように、毎年行ったものでもなく、また、毎年のすべての歳入、歳出を統制したものではありませんでした。

 家重の創設した予算は、毎年度、年度別に歳入、歳出を定め、政府活動の全面にわたって予算統制を行ったものですから、整備された年度単位の予算制度としては、おそらく世界で最初といえるでしょう。イギリスの場合には、こうした年度単位のきちんとした予算制度は19世紀の末になってようやく完成します。

 実をいいますと、本稿の冒頭に述べたように、勘定所資料が明治政府に引き継がれなかったという理由から、この予算制度については詳しいことが判っていません。今日伝わっているのは、すべて、何らかの要職にあった人が個人的に残した記録だけであるため、すべての年度が判るわけでもなく、すべての項目が判っているわけでもありません。

 私の手元にあるもっとも悉皆的(しっかいてき)な資料は、村井益男が近年ハーバード大学の日本史関係資料の中から発見した、石河政平(1843年から55年まで勘定奉行を勤めた)の手元資料中にあった勘定所の、1844年分にかかる金銀受払勘定帳です。

 これをみますと、予算の全体は大きく定式収支(今日の言葉では経常収支にほぼ相当すると考えられています)と別口収支(毎年度発生しない臨時の収支をとりまとめたものと考えられています)に分かれます。

 内容を細かくみますと、定式収支の歳出の一部が別口収支の歳入にあがっている場合もあります。これは、相互に資金の流れのある別個独立の会計であることを示しています。わが国特別会計制度は、類似のものが欧米諸国に全く見られず、その由来に謎がありますが、あるいは特別会計の萌芽が、この二本立ての勘定方式に認められるのではないかと考えています。

 B 勘定吟味役制度の充実

 家重の施策として重要なのは、その監督機関たる勘定吟味役についての機構を大幅に整備した点にあります。

 まず1758年に、勘定吟味役に直属の部下を置きます。部下は、勘定が5名、支配勘定が5名の計10名です。翌1759年にはさらに勘定1名、支配勘定2名の3名を追加して、13名としています。こうして、ようやく勘定吟味役は、検査活動に当たっての手足を得たのです。

 それまでも、勘定吟味役は、独任制の機関であるとはいえ、完全に単独で活動していたわけではありません。勘定所の次席としての地位において、検査業務の遂行に当たり、適宜、勘定所職員を使用することは当然できたはずです。しかし、検査対象になる業務を行っている職員が、検査業務を行うのでは、その検査の透明度に、疑問があるのは明らかです。今日の会計検査の用語でいいますと、検査担当者のクリーンハンド性を確保することが、そのようなやり方ではできないわけです。

 家重の改正は、単に、勘定吟味役にその直属の部下が与えられた、というに止まらず、吟味役が、その部下に関して、勘定奉行からは独立した人事権を得た、ということを意味します。すなわち、これらの職員は、建前的には勘定所に属しますから、その人事異動は、勘定奉行の権限です。しかし、その際に、勘定吟味役の同意が必須の要件とされたのです。

 こうして、検査官+専属の部下が存在するようになったのですから、この時をもって組織体としての会計検査院の創設と見るべきでしょう。その意味では、今日のわが国会計検査院につながる制度の創設は、綱吉ではなく、家重の功績と考えるべきです。

 諸外国における会計検査院の創設は、いずれも独裁者と緊密に結びついています。欧州主要国の会計検査院の創設を、その古い順からあげれば、プロイセン会計検査院の創設者がフリードリヒ一世であり(1714年)、オーストリア会計検査院のそれがオーストリア中興の女帝マリア・テレジアであり(1761年)、フランス会計検査院のそれがナポレオン一世です(1807年)。国の会計が、自分の利害と緊密に結びつくという感覚を持つのは、独裁者の特徴だからでしょう。現在では、国民主権国家における独裁者である国民が、会計検査院を必置の機関としていくことになります。こうした世界的な傾向を通して、この会計検査機関の充実を評価すれば、家重がかなり独裁傾向の強い将軍だったことの、今ひとつの証拠となります。

 綱吉が会計検査院制度の創設者と考えた場合には、わが国の創設は、これら諸外国の会計検査院のどこよりもずば抜けて古いことは明らかです。しかし、家重まで遅らせて考えても、プロイセンに次いで古い会計検査院の歴史をわが国は持っていることになります。こうした会計検査院制度の持つ歴史の厚みが、明治以降において、非常に早い時期から、会計検査院の活発な活動を見る原動力となります。

 なお、家重は、勘定所の充実も、注目すべき形で行っています。1755年に、支配勘定見習いという職制を新たに導入しているのです。今日の会計検査院の役職名でいえば、調査官補というところでしょうか。十人扶持が支給されたといいます。財政という特殊な知識、技能を要求される業務においては、新人の研修が重要だ、ということを、家重は承知していたのです。

 C 酒造りの解禁・奨励

 吉宗は、米の先物取引所での架空の需要で市場操作することにより、米の価格を高水準に維持できると考えていましたが、それは圧倒的な年貢米徴収量の前に破綻しました。

 その結果、家重は、実際の需要をより多く作り出す必要を痛感しました。そこで、米をより多く消費させるという政策の一環として、1754年に幕府が出したのが、酒造勝手造り令です。

 それまでは、幕府は、酒は主食の米を無駄に消費するものと見て、その生産に対しては長いこと厳しい規制をしてきました。しかし、ここで政策を180度転換させて、酒の製造を奨励し、それによる米需要を創出しようとしたのです。

 このような大きな政策転換が、弱体な老中達の決断によって実現するはずはありません。しかも、吉宗の死後3年目であることを考えれば、大御所による政治と考えることは絶対に不可能です。したがって、これも家重の指導性の現れと理解するのが、唯一妥当な解釈になるはずです。

 この禁令解除を受けて、全国各地で酒造りが始まります。特に大きく発展したのが灘地方の酒造であり、今日に至る地場産業の基礎が築かれることになります。

 なお、酒税は、荻原重秀が創設したことは先に触れましたが、吉宗がはっきりしない理由から廃止し、この時にはまだ廃止のままです。しかし、その後しばらくすると、幕府の大切な租税収入源となってきます。その時以降においては、米の価格の上昇と合わせて二重の財政効果を発揮するという優れた施策といえます。

 もっとも、この対策は、予算制度や会計検査院制度と同じことで、現に発生している財政赤字を短期的に解決する上では、ほとんど効果を発揮するものではありません。長期的展望には非常に強いが、短期的展望に弱い、という点が、家重という人物の特徴のようです。彼は重度の言語障害のため、人とあまり話をすることができません。そこで一人で沈思黙考するという習慣から、このような傾向が生まれたのだと思います。

 短期的な対策はあまりなかったのですが、米の価格問題そのものは、一つの不幸により解決されました。1755年に東北地方から関東、北陸にかけて凶作となったからです。秋田藩で3万2千人、南部藩で2万人も死んだという大飢饉になったといいます。しかし、これが家重には幸運をもたらしました。その影響で、家重施政期の後半には、米価は平年程度に戻り、幕府としても愁眉を開くことになります。

(2) 藩札としての金兌換券の発行禁止

 先に説明したとおり、藩が紙幣を発行するのは、江戸初期に禁止されていました。が、1730年に吉宗が、従来の慣行を追認するという形で認めたのをきっかけに、慣行のない藩でも願い出れば認めるようになっていました。

 この場合、紙幣は兌換券ですから、当時の日本のように、金貨、銀貨及び銅貨の三重本位制を採用している国では、金兌換券、銀兌換券、銭兌換券の三種類がありえます。実際あったようです。

 家重政権では、1755年に、ある大名から、金兌換券、銀兌換券の2種類の発行許可申請があったのを機会に、諸大名に対して、以後、金兌換券及び銭兌換券を発行することを禁じました。ただし、以前に幕府の許可を受けて金兌換券等を発行していた藩は、その許可期限内に限り、そのまま通用させて良いとします。その場合でも、許可期間が満了した後は、延長は認めないとしました。

 1759年には、前回の布令を再確認するとともに、従来慣行のあった地方及び1730年以降に新規に許可を得て銀兌換券の発行を行ったものについては、今後も許可するが、これまで発行していなかった藩に、新規に認めることはしないという法令を出しました。兌換券発行例がどんどん増えていったら、将来何らかの支障が生ずるかもしれない、というのが、そこに示されている理由です。

 この場合も、吉宗が全面許可したことを原則禁止に切り替えたのですから、重要な政策の転換です。しかも、吉宗は、この時期にはすでに事実上神格化されていましたから、その決定事項を覆す、などということは、一介の老中に決定できる事ではなかったはずです。家重の指導性発揮の一場面と見るべきでしょう。

 おそらく、このような形でなし崩しに藩札の発行を認める場合には、幕府の貨幣高権が揺らぐことを恐れたことが、この禁令の意味でしょう。特に、通貨の中でも、金貨を中心に動く幕府としては、金兌換券の乱発により、金本位制度まで揺らいではたまりません。また、庶民の通貨である銅貨が影響を受けるのも、民政安定という観点からは非常に困ることです。その点、銀貨の方は、銀兌換券の乱発により、銀本位制が崩壊しても、幕府に対する影響はもっとも少ないので、これだけを例外的に許容するという姿勢を示したものと思われます。以後、藩札といえば銀札という常識が、幕末まで続きます。

(3) 薩摩藩による木曽三川分流工事

 公共土木工事については、大名手伝い普請といって、特定の大名に工事の実施を命ずるというやり方があったが、享保の改革中は停止されていたが、幕府の権威が回復した元文改革の時期になって復活したことは、前章に紹介しました。また、綱吉時代においても、吉宗時代においても、手伝いは、常に複数、それもその工事規模に応じて3〜10家程度の大名に協同で実施するように命じていたことも、前章までに紹介したとおりです。

 このやり方が、家重の時代には、大きく変化します。1747年に2件の手伝い普請が実施されています。すなわち、美濃・伊勢両国の川普請が陸奥国二本松藩丹羽家に、甲斐国の川普請が因幡国鳥取藩池田家に、それぞれ命じられています。いずれも単独です。また、この場合には、いずれも町人請負が認められています。このことは、正徳の治以後における大名手伝い普請に関する前例をことごとく破った新機軸です。

 さらに大きな例外を作り出したのが、1753年に薩摩藩島津家に命じられた川普請です。これは、木曽川、長良川、揖斐川の、いわゆる木曽三川の合流点での水害復旧工事と、三川の分流工事です。これほどの大工事が、薩摩藩一藩に命じられたのはもちろん全く前例がありません。同藩では、これを原則的に直営で、例外的に難所だけは町人請負で実施するという方法で行いました。

 この工事については、様々な小説や戯曲に取りあげられていますから、ご存じの方も多いと思いますが、有名な難工事となりました。当初の工事費見積もり総額は、14〜5万両ということでした。が、実際に始めてみるとはるかに工事費がかかり、最終的には40万両にも達することとなりました。

 工事を実施したところが崩壊して度々手戻りが起きるものですから、工事費が嵩むように、と幕府が工事の妨害工作をやったとまで、言われている程です。しかし、これはちょっと信じられません。工事費が嵩むことは薩摩藩にとって痛手ですが、手伝い普請は、工事材料は幕府支給が建前ですから、妨害工作をすればその分だけ、幕府の財政を圧迫することにもなるからです。

 おそらく、薩摩藩が工事費を節減するために工事には素人の武士達による直営工事分を増加させたことが、かえって傷を広げることになったのだろう、と私は想像しています。もっとも、本当に妨害工作が行われていたとすれば、それはそれで、将軍家重の下における幕府の権威を象徴する、といえるでしょう。が、そのような客観的必要性はなかった時代だと思います。

 薩摩藩では、この資金を上方商人からの借り入れで賄いましたが、これはその後長く同藩の財政を苦しめることとなり、1827年の調所広郷(ずしょひろさと)による財政改革の断行まで回復することはありませんでした。また、工事の間に出た、薩摩藩士の犠牲も80名を数えます。そこで、工事責任者の平田靭負(ゆきえ)は、工事完成後に、お家に迷惑をかけた責任をとって自刃する、という惨憺たる結果となります。

 この工事は、当初見積もりのまま完成したとしても、非常に大きな財政上の犠牲を、薩摩藩に強いるものでした。幕府創設の当初は、江戸城の建設を初めとして多くの御手伝い普請がありましたが、このような大規模工事に対する御手伝い普請を単独の大名に命じた例は、以上に見てきたとおり、これまで幕府に前例のなかったことです。

 なお、薩摩藩の次の手伝い普請は1766年の、やはり美濃、伊勢、尾張、甲斐等の国々の河川改修工事ですが、この時からは、工事の実施主体は幕府勘定所で、大名は御金御手伝い、すなわち請求書の回ってきた工事費を負担するだけ、というやり方に変わります。工事の検収には勘定吟味役が直接派遣されているなど、完全に幕府主体の工事となっています。この時以降、幕末まで、川普請は御金手伝い普請と変わっていきます。このことについては、詳しくは次章で説明します。

 薩摩藩の実施した木曽三川工事が、江戸時代全体を通じて、いかに異例のものかが判っていただけると思います。江戸時代のように慣習がものをいう社会で、このように前例のない、これほどの負担を、仮に老中が命じようとしたのであれば、よほどの実力者でない限り、失脚の恐れがあります。また、実力者の場合でも、薩摩藩は、賄賂攻勢で回避することも十分に可能だったはずです。事実、多くの老中が、この前でも後でも、有力諸侯との軋轢が原因で失脚しているのです。

 その意味で、これほどの雄藩にこうした前例のない大工事を強いることが可能であったのは、この時の幕府が、賄賂も効かず、失脚することもないリーダー、すなわち将軍のイニシアティブの下に動いていたことの、今一つの証左となります。

(4) 国役普請の再開

 国役普請は、吉宗が治水事業と幕府財政難対策の必要性から考え出した方法でした。そこで、享保の改革が終わるとともに必要性が失われて、廃止されたことは先に紹介しました。

 家重は、1758年12月に、これを再開します。享保期と同様に、その流域の大名領や旗本領までが、国役金賦課の対象となりました。ただし、どの程度の実績があったのかはよく判りません。

 これは、当時の幕府財政が、吉宗が上げ米の制を取り入れた時同様に厳しい状況にあったことを示しているものと考えます。家重が上げ米の制を導入していないのは、今回の財政危機は、米のだぶつきが原因となっているからに他なりません。

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 家重は、本章の冒頭に述べたように、暗愚とされ、彼の治世の業績は、前半は吉宗の大御所政治の功績とされ、後半は、田沼の功績とされて、正当に評価されていません。しかし、以上に述べたとおり、吉宗引退の後の政治のトーンは明確に吉宗時代とは変わっています。死の直前にあった人物が、これほどの柔軟な発想の転換ができたと考えるのは無理というものです。

 また、家重時代は、まだまだ田沼意次は小物で、幕政を左右するほどの実力を持っていたと考えるのは無理でしょう。したがって、ここに紹介してきた様々な施策は、すべて家重のリーダーシップによるものと認めるのが、一番素直な見方だと考えるのです。