終章 寛政の改革と幕府財政の崩壊

 日本史学者の間では、松平定信という人は、非常に人気の高い人です。そのため、寛政の改革は、教科書などでは、基本的には肯定的なトーンで語られるのが普通です。

 確かに寛政の改革の中には、優れた施策がいくつも見られます。しかし、財政改革という観点から見る限り、それは時代錯誤以外の何ものでもありません。

 その意味で、江戸財政改革史は、田沼時代で終わりを告げることになります。本章を終章とした理由です。では、なぜ寛政の改革は、財政改革ではあり得ないのかを、以下に見ていくことにしたいと思います。

 

1. 田沼意次と松平定信の死闘

(1) 松平定信略歴

 田沼意次が、武士の最下級から、才能と努力だけを頼みによじ登った人物とすれば、その政敵、松平定信は、吉宗の孫ですから、徳川封建体制の中ではエリート中のエリートといえます。

 定信の父、田安宗武(むねたけ)は、吉宗の次男で、兄家重より遙かに才能に優れていると、当時いわれ、幕臣の多くは、彼が吉宗の次に将軍に就任することを望んだといわれます。家重登場と同時に、吉宗の股肱の臣、松平乗邑が失脚しますが、巷説によると、これは彼が宗武擁立を狙って陰謀を巡らしたのが原因です。

 しかし、吉宗は、長男家重をそのまますんなりと将軍とし、宗武には田安家を起こさせました。この田安家に加え、吉宗三男の宗尹(むねただ)が一橋家を起こします。また、家重の次男重好(しげよし)が清水家を起こします。この三家を、紀伊、尾張、水戸の御三家に対して、御三卿(ごさんきょう)と呼びます。御三卿は、家光の創設した館林徳川家や甲府徳川家と同じように、御三家に比べて時の将軍により近い血筋です。したがって将軍位継承にあたっても、より上位にあります。御三卿は、館林徳川家などとは違い、領地を持たず、幕府からそれぞれ10万石相当の現物支給を受けます。したがって、大名としての取扱は受けない、という変わった家柄です

 定信は、田安宗武の六男(七男という説もあります)として、1758年に生まれます。1772年(73年という説もあります。)に、幕命により、定信は、奥州白河松平家の養子となります。本来なら、冷や飯喰いの末子なのですから、そう文句のないところでしょうが、彼本人は、田安家よりも家格の低い松平家に養子に行かされることに、かなり不満があったようです。というのも、その時点で田安家の当主であった長兄治察(はるさだ)には嗣子がなく、また、この長兄と定信の間の兄たちも既にいなかったため、田安家の中では定信は推定相続人と考えられていたからです。そこで、自伝「宇下人言(うげのひとごと)」の中でも、名はあげませんが、この養子縁組みを推進した従兄一橋治済(はるさだ)に対する不平不満を書いています。

 そして、定信が松平家の養子ということになって間もない1774年に、田安家当主の治察(はるさだ)は危惧されていたとおり、病気で死亡しました。嗣子がいないため、田安家は相続人不存在の状態になりました。実はこの時点では、まだ定信は田安家に暮らしていて、松平家には移っていないのです。そこで田安家では、養子縁組を解消して、定信を当主としたいと希望しました。しかし、幕府では、養子縁組が成立している以上、定信はもはや田安家の人ではない、と決定し、彼の相続権は否定されたのです。田安家は、このために、一時的に廃絶状態となりました。

 その後、今度は将軍家治の嗣子である家基(いえもと)が死亡します。そこで一橋治済の四男(もっとも上はすべて死んでいて、家督相続者です)である家斉が、1781年に家治の養子となり、将軍家を継ぐことになりました。白河松平家に養子に行かなければ、定信が田安家の相続人になっていたことは間違いありません。そして、田安家は吉宗の二男、一橋家は三男という家格及び定信の方が、家斉より年齢的にも上という要素を加味して考えますと、定信が田安家を嗣いでいれば、そのまま将軍になっていた可能性は、非常に高いといえます。

 なお、田安家は最終的には、一橋治済の子が養子に入って再興されることになります。要するに治済は、将軍家、田安家、一橋家の三家を自分の血筋で独占してしまったわけです。治済の政治的辣腕ぶりには驚かされます。こうしてみると、多分に結果論的なところがありますが、定信が治済を怨むのももっともと思われます。

 しかし、一橋治済は、家斉が世子になるまでは意次と密接な協力関係をとっていましたが、なぜか、その後立場を一転し、むしろ反田沼派の黒幕となり、定信を老中にするために積極的に活動しました。また、家斉時代は、一貫して隠然たる力を持ち続けました。このため、子孫でさえも、老中になった者しか見てはいけない、という条件付きの自伝の中でさえも、あからさまに治済の名をあげて不満を書けなかったのでしょう。

 定信が田沼意次に対して持つ怨念には、また別のものがあります。定信が白河松平家に養子縁組みするに当たって、田沼意次がどのように動いたのかはよく判りませんが、定信は、意次が治済と組んでの画策とも信じていました。その上、前に述べたとおり、天明の大飢饉の際には、定信は幕命に反して、藩士や領民の救済を行いました。このため、田沼時代が続けば、早晩禁令違反ということで処罰されることは必至でした。

 こういう状態は、逆に、自分を処分しかねない人間に対する敵意を募らせるものです。そこに、政治理念の根本的な対立という要素を加えると、定信が意次を憎むのも、またもっともいう気がします。実際、天明の大飢饉の終わった1786〜7年頃に将軍に提出した公文書の中で、明確に意次のことを敵と呼んでいます。定信は、また、意次を殿中で2度も自ら刺そうとしたといいます。

 意次の息子、意知が殿中で暗殺された黒幕は、定信だったと、当時長崎のオランダ商館長だったチチングが書いています。引用すると、

「様々な事情から推察するに、幕府のもっとも高い位にある高官数名がこの事件に関係しており、この事件を使嗾(しそう)しているように思われる。」(ここでいう高官とは松平定信のことであることは文脈上はっきりしています)。チチングは続けて、「元々この暗殺計画は、田沼意次・意知親子の改革政治を妨げるために、意次の方を殺すものだったといわれる。しかし父親の方はもう歳を取っているので間もなく死ぬだろうし、死ねば当然その改革計画も止むであろう。しかし息子の方はまだ若い働き盛りなので、彼らがこれまで考えてきた様々な改革政治を実行するだけの十分な時間がある。また、大事な息子を奪ってしまえば父親にとっては痛烈な打撃となるはずで、改革の動きも鈍るだろう。こう考えて、息子の方を殺すことに決定したのである」とあります。

 在日外国人という客観的立場の人間の文章ですから、かなりの信頼性があると思われます。確かに、自ら意次を刺そうとしていたくらいですから、人をけしかけるくらいのことは当然やっただろう、という意味でも、うなずける話です。

 とにかく、意次が全くあずかり知らない間に、一方的に敵意を燃やしてくる相手ほど、始末の悪い敵はありません。

(2) 政権交代時の死闘

 田沼時代から、寛政の改革への移行は、幕府政権交代史で稀にみる死闘となりました。普通であれば、先の政権の実力者が罷免されますと、その他大勢は、次の実力者の下へと、さっさとバスを乗り換えます。中には、天保の改革時の鳥居甲斐のように、それまで庇護を受けていた実力者の命運を見切って、事前に積極的に裏切ったものまでいます。

 そして、失脚した実力者はおとなしく席を明け渡します。その代わりに、それまで獲得した石高は保障され、特別の処罰は受けない、というのが基本パターンといえます。

 しかし、この時は、リーダーである田沼意次が失脚した後も、先の政権におけるその他大勢組は、あくまでも定信の老中就任を阻もうとします。さらに、定信が老中に就任し、勝負がついたように見える後も、その政策の実現を阻むべく、全員が玉砕するまで抵抗し抜きます。時系列的に見てみましょう。

 意次の良き理解者であった将軍家治が死亡するのが1786年8月6日です。この結果、将軍がわずか15歳の家斉という、譜代勢力にとっては絶好の好機が降って湧きます。側用人政治の成立には、あくまでも強い将軍が必須の要件だからです。そこで、長いこと将軍中心の側用人政治で、脇に押しやられていた譜代・門閥勢力、特に御三家と家斉の父一橋治済は、この機会に政治の主導権を取り返そうと俄然活動を開始します。その結果、意次は、8月27日に老中を罷免させられます(家治の生前に罷免させられていたという説もあり、この時期についての正確なところはよく判りません)。

 最初の頃は、松平定信はすぐにも政権が握れると、甘いことを考えていたようです。というのは、意次が罷免させられると、すぐに水野忠友が、自らの養子としていた意次の四男意正(おきまさ)を離縁したからです。意次とそれほど近い関係にある者までが、意次を見捨てるのであれば、政権移行は簡単と、定信が思うのも無理はありません。

 しかし、この離縁は、たまたま時期的に意次の失脚と重なっただけのことです。実際には意次側の必要で、彼を田沼家に戻すようにと、その前から話し合いが行われていて、したがってこの離縁は双方が納得して平穏裏に行われた、と私は考えています。なぜなら、この意正は、意次の死後、田沼家を嗣いだ人物ですが、彼は、彼の後に水野忠友の養子となった水野忠成(ただあきら)と親しく、この二人は、寛政の改革が失敗した後、政権を握って、父親達譲りの重商主義に基づく財政改革を行うことになるからです(大御所家斉の浪費のおかげでほとんど効果を上げることはできませんでしたが・・)。もし田沼失脚のこの時、巷間で言われるように、手切れの意味で離縁されたのであれば、このような親しい関係が水野家と田沼家の間に残ることはなかったでしょう。

 したがって、田沼派の抵抗はそれ以降、逆に俄然激しくなっていきます。幕閣ばかりでなく、大奥までが一体となっての抵抗運動が繰り広げられ、なかなか後継政権については、門閥勢力の思うとおりにはなりません。

 何より、将軍と老中とを結ぶパイプ役である御側御用取次は完全に田沼派で押さえているのですから、門閥勢力としても、勝手に上意を作り出すことは不可能なのです。そこで、翌1787年の正月の年賀の際には、意次は依然として家臣の筆頭の位置に座って、その存在を誇示します。まだまだ敗者復活の余地が十分にあると、彼も彼の支持者達も考えていたのです。

 門閥側に運の良い?ことに、1787年5月20日から24日まで、江戸で激しい打ち壊しが起きます。その時、御側御用取次が、その情報を新将軍家斉に幾分脚色して伝えました。

 門閥勢力は、このチャンスを生かして、まず御側御用取次の責任を追及しました。その結果、本郷康行(やすあき)が5月24日に罷免されたのを皮切りに、意次の甥である田沼意致(おきむね)が5月28日に、横田準松(のりとし)が5月24日に、それぞれ罷免されるという大量粛正が、ここで敢行されます。

 こうして、将軍との間の壁が取り払われ、道が開けた結果、門閥勢力のエースというべき松平定信が、ようやく老中に就任できたのは6月19日です。定信は、老中就任と同時に老中首座に座り、直ちに寛政の改革の大号令を発します。ところが、普通の政権交代だとしっぽを振ってついてくる同僚の老中たちが、定信に対しては消極的な抵抗を展開します。その結果、新しい法令を出すことができないものですから、幕政は依然として田沼時代の法令に従って動いていきます。

 そこで、定信は老中達の粛正を考えるようになります。まず、大老井伊直幸を9月11日に罷免します。そして、定信の腹心というべき松平信明(のぶあきら)を翌1788年2月2日に側用人として送り込み、将軍との連絡手段を確保します。しかし、その程度の人事異動では、田沼時代の政策は、依然として存続し続けます。

 この時期に、定信は、同僚の老中達のことを無為・無能とののしる手紙を書いています。実際に無能なのであれば扱いは楽でしょうが、本当は、サボタージュ戦術に出て、定信の改革を阻んでいるのであり、定信もそのことを承知しています。

 その証拠に、単なる首座では改革を行うのに必要な十分な指導性を発揮できないとして、自分をもう一段格上げするよう、御三家や一橋治済に申し入れているのです。格上げ方法がいろいろと検討されましたが、結局、治済の強力な後押しを受けて、翌1788年3月4日に定信は将軍補佐役に就任しました。秀忠の隠し子であった保科正之以来の待遇です。

 この地位を背景に、定信は、まず老中水野忠友を3月28日に、同じく老中松平康福を4月3日に、それぞれ罷免する事にようやくのことで成功します。そして、その後任として、つい半年前に側用人にしたばかりの松平信明を4月4日に老中に昇格させることを皮切りに、老中就任以前に「刎頸の交わり」をした、自分の腹心達を老中職に据えることで、ようやく寛政の改革の体制が確立するのです。田沼意次が老中から失脚したときから数えると、丸2年がかりの死闘が、こうして終わったのです。

 なぜ田沼派は、このように全滅するまで、徹底抗戦を行ったのでしょうか。これは決して意次という個人を守るための抵抗ではありませんでした。定信が、怨念が一時に吹き出したように、田沼意次の領地を没収し、せっかく築いた新城を破却するという、慣例を無視した厳しい処分を行った際にも、田沼派の老中達は、特段の抵抗はしていません。

 彼らが、全滅を賭して守ろうとしたものは田沼政権の政策それ自体だったのです。すなわち、この政権交代が江戸幕政史上異例のものとなったのは、これが単なる為政者の交代ではなく、基本的な価値観そのものの交代だったからです。

 価値観の対立の第一は、側用人制度に代表される、身分にこだわらず、能力ある者が政治の実権を握るという能力本位の政治に対する、門閥に代表される身分中心の政治という対立です。

 今一つは、重商主義対重農主義の対立です。何度も述べてきたとおり、田沼時代における基本的なイデオロギーは、商品経済の発達を直視して、そこに何とか幕府財政基盤を確立することにありました。これに対して、定信は、こうしたイデオロギーを全面的に否定してきます。彼自身の言を借りれば、重商主義政策を採れば「利を以て導き候えば利を以てしたがい候間、自然と下に利にのみ走」ることになるというのです。「貴金賤穀」、すなわち金を重視し、穀物を軽視するのは本末転倒だとも主張します。

 このように、二重に時代錯誤的な主張を行われれば、政治家として一片の良心でも持っていれば、玉砕覚悟で、徹底抗戦に打って出るのも無理のないことです。

(3) 定信政権の実像

 田沼派が、徹底抗戦したもう一つの理由は、玉砕にはならない、という見込みがあったためと考えられます。すなわち松平定信の権力基盤はかなりもろいので、十分に時間を掛けて抵抗していけば、定信派はいずれは自壊すると考えていたはずです。

 というのも、表面的には将軍補佐役という絶対権力を握ったかに見える定信でしたが、実際にはそれは一橋家や御三家の同意と協力の下に勝ち得た地位であるだけに、その権力基盤はかなり脆弱でした。つまり、その権力基盤を保ち続けるためには、一橋家に代表される譜代勢力の信頼を失うわけには行かなかったからです。

 享保の改革の前夜、吉宗は、譜代勢力の信頼を集めるために、様々なパーフォーマンスを行う必要があったこと刃先に紹介したとおりです。しかし、彼の時には、直接の対象となっていたのは、前代の遺産である無能な老中達でしたから、彼らが満足する程度の形式さえ整えてやれば、後はかなり自由に活動することができました。

 これに対して、定信が満足させなければならないのは、一橋治済というきわめて老獪な政治家です。彼を満足させるためには、あらゆることについて、彼の意見を斟酌してやる必要があります。したがって、定信政権では、政策は、幕閣で決められるのではありません。事前に、まず一橋家や御三家に根回しをして、その同意を得てから、ようやく将軍に上奏し、允許を得るという羽目に陥ったのです。

 定信の政治については、合議制的だという説と、専制的だという説の二つがあります。が、話は単純で、御三家等との関係では合議制的であり、幕閣においては専制君主だったのです。既に、御三家の同意の得られている案件について、改めて幕閣で討論して変更することは、彼の政治基盤の性質上不可能ですから、専制的にならざるを得ないのです。このため、彼は、刎頸の友で固めたはずの幕閣の中で、次第に浮き上がってきます。

 定信が、こうした自分の権力基盤をコントロールするために持っていた事実上唯一の武器は、彼が、幕閣内に存在する田沼派と戦うために譜代勢力の持っている唯一の駒である、という事実そのものにありました。

 自分が欠くべからざる存在であることが判っているとき、自分の政策に味方が反対して思うようにならなければ、よく使われるのが、辞める、と脅かすことです。定信も、この手法を使いました。濫用した、といった方がよいでしょう。わずか6年の在職中にも、度々辞表を提出し、その都度、家斉から慰留を受けています。慰留を受けるという形式を踏むことで、その絶対的な地位を確認し、権威の拠り所としたのでしょう。

 どんな武器でも濫用すれば、その威力は薄れます。最終的に、1793年に、定信が将軍補佐・老中首座の地位を解任されたのは、一橋治済との対立が原因となって将軍と衝突したためでした。この時には、もはや家斉は少年ではなく、青年になっています。定信を使わなくとも、自分自身がリーダーシップをとることで、十分に反対勢力を押さえつけることが出きるまでに成長しています。だから、定信がいつもの脅しに出たとき、それを無造作に受理したのは当然のことでした。この時、定信の「刎頸の友」達は、田沼没落の時の同僚達とは逆に、むしろ彼の足を引っ張るような行動に出ます。彼がいかに幕閣内で浮き上がっていたかが、よく判ります。

 定信が政権を握ったのはわずかに6年間にすぎません。これでは、ほとんど意味のある改革を実行することはできなかったはずです。この時間を短さを補うため、従来、日本史学者は、その後も、いわゆる「寛政の遺老」達の手により、寛政の改革は続けられたと説明します。しかし、定信退陣後は青年将軍家斉のリーダーシップが発揮され出す結果、退陣の前と後とでは、政策の中味にも顕著な違いが見られます。それを寛政の改革の延長というのは、家斉に対する過小評価が基礎にあるためと思われます。

 

2. 寛政の改革の基本方針

 寛政の改革については、よく、享保の改革を理想として実施された、といわれます。定信の持つ権威の由来は、吉宗の実の孫という点にありましたから、彼がスローガンとして、享保の昔に返せ、と主張したことは事実です。

 しかし、政策の内容を見ると、むしろ、享保の改革の否定であることに注意するべきです。彼が目指したのは、享保の改革どころか、その前の綱吉政権の改革さえも否定して、江戸初期の封建体制の時代に、強引に時計の針を戻すことでした。

 例えば、1788年に出された、寛政の改革のシンボルともいうべき倹約令を、適宜現代語訳しつつ、次に紹介しましょう。

「百姓の儀は、粗末な服を着、髪などは藁をもって束ねることが、古来の風儀である。それなのに、近頃は何時からともなく贅沢をして、身分の程を忘れ、不相応の品を着用しているし、髪には油や元結を用いているので、費用がかかる。その結果、村も衰え、離散するようになっている。一人が離散すればその納めるべき年貢は、村が代わりに納めなければならないから村全体が難儀をする。〈中略〉百姓どもは、だから少しも贅沢すべきではなく、古来の風儀を忘れるべきではない。百姓が、余業として商いをすることも、村に髪結い床があることも不埒なことである。以後、贅沢なことを改めて、随分質素にし、農業に励むべきである。」

 これは、明らかに1643年に出された、寛永の土民仕置覚(どみんしおきおぼえ)の復活です。前にも説明したように、これと、その同年に出た田畑勝手作りの禁の二つが、徳川封建体制の基礎でした。そして、綱吉以降の財政改革は、社会の変化に対応する形で、この二つの禁令を緩和すること方向で行われてきたのです。特に、享保の改革において、大幅緩和が実現されたことは、先に説明したとおりです。ですから、寛政の改革を享保の改革を理想としたものと説明するのは、明らかに誤りなのです。

 以下に彼の代表的な政策を見ていくことにしましょう。

 

3. 機構の修正

 今までですと、機構改革と銘を打っていたところです。しかし、定信の行ったのは、改革というよりは改悪に近いと思っています。そこで修正という表現にしてみました。

(1) 勘定吟味役付き組織の廃止

 定信は、あれほど賄賂政治を糾弾していたのに、なぜか財政監督機関の重要性を認めず、勘定吟味役付の組織の廃止を行います。すなわち1788年8月といいますから、定信が実権を握った直後ですが、吟味方改役、同改方並、同改方下役を廃止して、すべて勘定奉行の下に移管し、勘定所の各課に配置した上で、吟味役の業務を行うという体制にしました。下役制度は、この際、廃止されています。

 元文の改革の一環として、勘定奉行は、公事方、勝手方の別無く、全国の代官所を分担したと述べました。その際にも、勘定吟味役だけは全員が、全国を担当する、という体制だったのですが、定信は、勘定奉行と同様に、地域割りをして、担当することに変えました。

 もちろん、会計検査を行うものが、会計検査対象業務を行う者の指揮監督下にあり、検査補助員たる下役もいないというような状態で、まともな検査ができるはずもありません。しかも、その中から欠員が出たときには、新規補充を行わない、というのですから、定信政権が長く続けば、やがては勘定吟味役はすべての手足を失って、単独で活動しなければならないことになっていったはずです。

 おそらく、定信は、勘定吟味役を勘定奉行に対する監査役ではなく、勘定奉行の次席としか理解していなかったためと思われます。

 こうした馬鹿げた変更は、定信が93年に失脚しますと、当然のことながら、元に戻されることになります。すなわち1795年8月には改役等は、全員が従来通り、勘定吟味役の支配の下に復帰したのです。

 なお、勘定吟味役下役も復活しましたが、8名に限られています。これは、定信失脚と同時に、幕府が大幅な人員削減に乗り出したことを反映しているようです。すなわち、翌1796年には勘定所総定員が232名に削減されます。その課別の配置人数を見ますと、御殿詰め22名、勝手方40名、取固方47名、道中方10名、伺方41名、帳面方43名、評定所29名となっています。評定所は、裁判所事務官ですから、そこの人数は、勘定所業務の実戦力にはなりません。

(2) 租税政策

 定信には、これという租税政策が見あたりません。田沼時代の重商主義的増税策を基本的に否定していますから、租税対策としてとれることは、封建政権としては昔ながらの手法、すなわち年貢米の増徴です。しかし、天明の大飢饉の後で、農村人口の減少が著しく、享保の改革の時の神尾のような荒っぽい増税策がとれないのは当然のことでしょう。そこで、農業人口の確保による農業生産力という方策だけが唯一の選択肢となります。

 定信の法令万能主義は、こうした場合に、きわめて単純な法令を発させます。すなわち、農村で農民が不足していますのに、江戸等へ農民が奉公にでるのはけしからぬという発想で、1788年に「出稼奉公制限令」を出します。人数の少ない村から奉公にでることは認めず、奉公にでても耕作に影響のない村の場合でも、代官や領主の添え状を町奉行所に届けなければ江戸への奉公は認めないというものでした。

 しかし、一方において農村では金銭収入が得られないという問題があり、他方においてこうした出稼ぎ農民が江戸の労働力不足を補っていた、という経済構造そのものは全く手を着けていませんから、当然の事ながら、あまり実効性があがらなかったといわれます。

 こうした農村の疲弊を救うため、代官所制度を改善し、代官が機動的に年貢の軽減等を行う権限なども認めています。当然のことならが、年貢米収入の減少につながる施策です。

(3) 通貨の改悪

 田沼政権では、長期に渡って、市場から丁銀を回収し、これを原料に南鐐を製造しました。南鐐は、原料は銀ですが、金貨として通用します。したがって、市場全体からいえば、銀貨が減って、金貨が増加しているということになります。したがって、金=銀の交換レートが、品薄の銀貨が高くなる方向へと動いていくのは、市場の必然です。田沼時代の末期には、市場での金=銀レートは、金1両=銀50匁程度になっていたといわれます。公定レートが金1両=銀60匁ですから、それに比べると随分金貨が弱くなったことになります。

 定信は、南鐐を発行することの持つ長期的な狙い、すなわち金本位制と銀本位制という二重通貨構造の打破、ということは理解できません。単に、幕府財政の基本通貨である金貨が、商人の通貨である銀貨に比べて弱くなっていることは悪いことだと考えます。そうでなくとも、南鐐はにっくき政敵である田沼意次の通貨政策の中心です。そこで、政権を握ると早速、南鐐の発行を中止し、代わって、丁銀の製造を始めます。

 秤量通貨を新たに製造するというだけでも時代に逆行する馬鹿げた政策です。その上、この政策には、短期的にもはっきりした欠点があります。従来のように丁銀を南鐐に替えれば2割強の出目がでますが、南鐐の製造を中止することで、それを失います。そして逆に丁銀を発行するわけですから、南鐐を作る場合に比べて2割強の銀を追加負担しなければなりません。したがって、往復で5割近い損失が出ます。たとえ市場の交換レートが丁銀発行によって公定レートに近づいたとしても、その程度の利益では賄いきれない大きな打撃を、幕府財政に与えることになります。

 定信が失脚するやいなや、彼の「刎頸の友」であったはずの老中達が、南鐐の発行を再開し、幕末まで継続的に発行されることになります。これも、こうした財政事情を考えれば、無理のないことといえるでしょう。

(4) 蝦夷地対策

 寛政の改革は支出増の時代でもあります。

 支出増の要因としては、たとえば京都の大火により御所が焼失したので、莫大な費用を投じてそれを再建するなど、あまり幕府の役に立たない支出増加要因が目立ちます。定信になまじ学があり、尊皇思想をもっていたためです。

 しかし、定信が作り出した、幕府の財政を将来に向けて圧迫する今一つの、そしておそらく最大の要因は、蝦夷地対策です。

 田沼意次は、仙台藩士工藤平助の著した「赤蝦夷風説考」に刺激されて、蝦夷地防衛に乗り出しましたが、その際には、その資金繰りの目的から、蝦夷地開発を構想した、ということを前章において紹介しました。

 民間から同じような問題提起があっても、これが松平定信だと全く異なった反応となります。林子平は、工藤平助と同じく仙台藩士ですが、1786年に「海国兵談*」を著し、1791年までに逐次刊行しました。これに対して、1792年、定信は、みだりに国防を論じたことを罪として版木を没収し、子平を禁固刑に処したのです。

 しかし、そのわずか4ヶ月後には、ロシア使節アダム・ラクスマンが、漂流民大黒屋光太夫の送還を名目に根室に来航しますので、定信は、あわてふためきます。

 彼の国防思想には定見というものがなく、その結果、この事態にもその場しのぎの外交に終始します。ラクスマンに対する対策としては、長崎で中国船に与えるのと同じ信牌(しんぱい)を与え、長崎にくれば話し合うと騙して帰国させました。

 しかし、蝦夷地防衛が必要なことは、いかに石頭の定信にも否定できません。そこで、大慌てで防衛構想を立てるのですが、当然ながらきわめて不徹底なものでした。すなわち、同年12月に定信が提示した「蝦夷御取締建議」によると、蝦夷地支配は依然として松前藩に任せ、防備を強化させるというのです。これは幕閣の一部に残っていた意次の蝦夷地直轄構想を否定する、というだけの性格しかもたず、将来構想を全く含んでいません。

 定信の蝦夷地評価は子供のように単純です。田沼意次の言うように蝦夷地を開拓して沃野に変えると、ロシアに、その地を欲しいと思わせるので良くない、それよりは、誰も欲しがらない荒蕪地のまま放置しておいた方が国防上得策だ、と言うのです。蝦夷地が、シベリアの凍土に比べれば現状でも十分に沃野に見え、だからこそ積極的にロシアが南下政策を実施中という現実のすがたは、彼のご都合主義的発想の中からは、きれいさっぱり抜け落ちてしまっているのです。

 寛政の改革は、きわめて短い期間しか行われなかったので、このような一時しのぎの策でも、何とか間に合ったのでした。すなわち、定信は、その翌93年に失脚します。

 その後の蝦夷地の運命をここで簡単に見ておきましょう。

 老中首座は、その後長いこと、松平信明(のぶあきら)が占めることになります。彼は初期には定信の蝦夷地政策をそのまま承継しました。しかし、1796年になりますと、イギリス人ブロウトンが指揮するプロビデンス号が内浦湾に停泊するという事件が起こります。これに衝撃を受けて、松平信明は見分役を派遣して、東蝦夷地の調査を行うことになりました。その結果、蝦夷地防備を松前藩に任せるという定信以来の方針を撤回し、津軽、南部両藩兵が交代で松前に詰めることになりました。

 しかし、翌1797年、再度ブロウトンが来航しました。ここにいたって、松平信明は、ようやく蝦夷地の実態を正確に把握する必要を痛感し、1798年に大調査団を派遣して東蝦夷地、西蝦夷地の調査を行いました。この東蝦夷地調査隊には、有名な近藤重蔵が加わり、最上徳内とともに国後(くなしり)島及び択捉(えとろふ)島に渡っています。近藤重蔵が、択捉島に「大日本恵土呂府(えとろふ)」の標注を立てたのはこのときです。

 この結果、1799年に東蝦夷地を7年間の限定で、幕府直轄領にすることが決まります。翌1800年に松平信明は全蝦夷地の永久直轄を上申しますが、結局、1802年になって、家斉の決済により、東蝦夷地に限って直轄領化し、西蝦夷地については松前藩に任せるということが決定されます。しかし、1804年に目付の遠山景晋(かげみち=遠山の金さんの父)が西蝦夷地を視察し、松前藩には警備能力がないと判断しました。

 同年、ロシア使節レザノフがラクスマンに与えられた信牌をもって長崎に入港します。幕府は翌1805年まで回答を引き延ばしたあげく、遠山景晋を派遣して、ロシアとの通商は国禁で許すことができない旨を伝えさせます。そこでレザノフは、通商を実施するためには非常手段をとる外はないと決心し、1806年から7年にかけて、千島、樺太、択捉の各地の日本人番屋を襲撃しました。その間、津軽、南部藩兵との戦闘も繰り広げられることとなりました。

 こうした実地教育により、ようやく家斉にも蝦夷地防衛の必要が判り、1807年に蝦夷地全域が幕府直轄領となります。意次が蝦夷地の直轄を検討し始めてから、実に24年目のことでした。なお、防衛構想の一環として、間宮林蔵が樺太探検に出発するのは、この翌1808年の事です。

 しかし、15年後の1821年には再び松前藩が旧領に復帰することとなりました。これについては、通常、当時の老中首座水野忠成(ただあきら。一説にただしげ)が意次同様に側用人から出世した者で、化政文化の中で、田沼時代同様に賄賂が横行していたと言われることもあって、松前藩から賄賂により、水野忠成が独断で決定した、と簡単に片づけられるのがふつうです。しかし、むしろ松平信明等によって実施された蝦夷地の直轄地化は、意次の開発構想とは違い、もっぱら国防の観点から行われ、歳入増加策が組み込まれなかった点に、直轄打ち切りの理由を求めるべきでしょう。

 すなわち、蝦夷地の直轄により、幕府としても、毎年数万両に及ぶ支出を余儀なくされ、これは大きな負担でした。それ以上に大変だったのが、蝦夷地警備負担を命ぜられた東北諸藩です。連年の蝦夷地出兵により家臣団は疲弊し、それによる負担はその知行地へ転嫁されるしかありません。この結果、化政時代は、これらの藩は毎年のように百姓一揆に揺さぶられることになるのです。こうした状況の中で、運良くロシアの南下の勢いが止まってきたため、直轄の必要性もまた薄れてきたということとなります。

 ここに、松前藩復活の理由があるというべきです。その意味では、忠成の決断は、財政責任者としては当然のことで、非難さるべきものではありません。意次の構想のように、開発計画が組み込まれ、それが成功していれば、忠成の決断内容も違っていたと思われます。

 

4. 農村再建策

 封建制度というものは、年貢米の納入能力を持つ小規模な自営農民(以下、「小農」と呼びます)が農村の中核となっている状態の下に成立しています。ところが、綱吉以降、特に、吉宗時代に豪農保護政策を打ち出して、それを基盤に幕府財政を立て直そうとしました。また、田沼期にはレッセ・フェールに徹したため、やはり特定の保護政策は採られませんでした。要するに、封建制の基礎というべき小農層及び貧農層を、長期に渡って無保護で放置してきた訳です。その結果、生活に困った貧農は、土地を捨てて離散し、現金収入を求めて江戸や大阪などの都市へと流出し、これが発展する都市商業に、重要な労働力を提供していたのです。

 定信は、その自伝「宇下人言」で、この点について、1786年には、その前の1780年の諸国人別改めの時に比較して、農村人口が140万人も減少している、といっています。

(1) 農村人口増加策

 重農主義を基礎とする定信としては、こうした農村の荒廃は許せない状況です。そこで彼は、他国出稼ぎ禁止令を出して、農民をその出身地に閉じこめる政策に出ます。

 他方、現に江戸にいる者を送り返すことも考えなければなりません。特に天明の飢饉の結果、農村の疲弊が激しく、農業人口が激減している関東・東北地方の農民であったものに対しては旧里(きゅうり)帰農令を出します。これは江戸にいる者で、機能を希望しているが、旅費や、帰った後の営農資金の不安から帰れないでいる者には、補助金を与える、というものです。これは同時に江戸の下層民対策という性格ももっていました。

 その手法として、補助金というソフトな手法がとられていることに注目すべきでしょう。この法令は、1790年、91年、93年と3度も出されました。しかし、江戸の生活になじんだ農民は帰農を希望することはなく、実効性はありませんでした。

 これと平行してとられたのが、石川島の人足寄場(にんそくよせば)の設置です。これは、鬼平の異名で知られる火付け盗賊改め方の長官長谷川平三の建言で行われたものです。田沼派失脚の原因となった天明の打ち壊しの原因となる都市における失業者層を収用して取り締まると同時に、彼らが職を得るために必要な職業教育を実施したのです。封建制下でとられた、という意味で非常に世界的に見ても珍しい労働福祉政策といえます。それまでは、狩り込みといって、無宿人の一斉逮捕などをすることもあったのですが、捉えたものは、単に溜まりと呼ばれる牢に放り込んで放置してあったため、千数百人も逮捕されると、そのうち千人は牢内で死ぬというすさまじい状況であったのです。

 農村の人口が、江戸期全体を通じて横這い傾向にあった大きな原因に、間引きと呼ばれる産児制限手法があります。赤ん坊が生まれたその瞬間に、産婆があらかじめ用意したしめらせた和紙でその鼻と喉をふさぎ、産声を立てる前に殺す、というやり方です。定信は、この間引きを禁止します。

 単に禁止するだけではなく、出産の奨励策として、児童手当の支給を行います。すなわち、1790年に出された法令によると、2人目の子どもから、赤子の養育費として金1両を支給するということになっています。これは1799年には、さらに1両を増加するというように、強化されます。このような児童福祉政策の存在も、寛政の改革の一環として注目してよい点です。

 しかし、どれをとっても福祉政策としての長所は、同時に幕府財政負担を増やすという短所と裏腹の関係にあったこと、少なくとも幕府財政赤字を減らすものではなかったことは、注意するべきでしょう。

(2) 減税政策

 農村の負担そのものを軽減する方策を積極的に導入したのも、寛政の改革の特徴です。それまでは、封建制の動揺を、幕府も、諸藩も、農民に負担を転嫁する方法で解消しようとしていましたから、これはある意味で抜本的な方向転換であり、有意義な対策だったといえます。

 その代表が、助郷負担の軽減です。街道沿いの農村は、年貢米の納付が免除されています。その代わり、大名行列その他の公用の旅がある場合には、その荷物を運ぶための人馬を無償で提供する義務が課せられていました。これが助郷です。おそらく、江戸初期においては、公用の旅行はそれほど多くなく、他の地域の年貢米負担と釣り合う程度の労力奉仕だったのでしょう。ところが、時代が進み、商品経済が発達するに連れて、公用旅行がうなぎ登りに増加します。これに対する人馬の提供義務は、それ自体が負担であることに加えて、それに拘束されている時間は農作業ができない、という形で街道沿いの農村に重い負担となってのしかかってくるようになってきたのです。

 そこで定信は、やはり1790年に、助郷による無償の人馬の提供は、朱印状による場合に限ることとし、その場合でも定量以外の荷物の逓送を禁止したのです。そして、規定以外の人馬の提供については、相当する貨幣の支払いを命じました。これは、農村に対する減税策です。

 しかし、当然のことながら、これは従来、助郷に依存していた公的旅行の負担増を意味します。したがって、幕府財政の限りでは、幕府官僚の公用旅費の増加を意味し、また、大名家に関してはただでさえ負担の大きい参勤交代費用を増加させて、その財政疲弊を加速するという効果をもたらすことになります。

 街道沿いではない農村に対する減税策としては、納宿(のうやど)の廃止があります。納宿とは、「宝暦のころより初り、村々より納る米を、その納やど引きうけて御蔵おさむる(宇下一言)」ものです。すなわち、納宿は、幕府直轄領の諸村から上納する年貢米の、計量から始まって、浅草の御蔵に納めるまでのそれに関する事務の一切を引き受けていたです。その事務に必要な手数料は、年貢を納める村々の負担でした。したがって、納宿の存在は、地方税的な性格をもっていたわけです。そこで、これを廃止し、代官が、納米の手続を農民に教示して、村方から直納にすれば、この中間搾取機関は不要になり、したがって幕府の収入には影響を与えずに、なおかつ減税が可能になる、というのが定信の発想でした。

 しかし、前にも紹介した代官所の手薄な勢力で、納米業務に不慣れな村方に十分教示するというのは、実際問題としてできない相談でした。しかも、納宿の機能は、そうした納米事務に限られていたわけではありません。納米廻漕の際、難船その他の理由から納米に不足が生じた場合には、村方に資金を貸し付け、その代わりの米の買い付けの世話をし、また、濡れ米等の売り捌きも引き受け、さらには幕府や諸藩の払い出し米を買い受けて仲買業を営んでいました。

 したがって、単に事務の指導を代官所等が行うだけでは、その機能を代替しきれないのです。そこで、結局、定信にできたことは、暴利をむさぼっていた納宿を辞めさせて、代わりに誠実を旨とする納宿を選定する、という程度に後退せざるを得ませんでした。

(3) 囲籾積金(かこいもみつききん)

 定信の農村対策の中で、特に有名なのが、飢饉用の食糧の備蓄を、農村共同体を単位として実施させたことです。

 定信が出てくる以前においても、幕府の主導による食糧の備蓄というものが行われていました。一つは、前に紹介した城米などです。しかし、それは主たる目的は、籠城戦その他の軍事的目的にありました。また、一口に三倉といわれるものもありました。社倉(しゃそう)、義倉(ぎそう)、常平倉(じょうへいそう)の三つを意味します。

 社倉は中国宋時代の朱子が唱えた社倉法という制度に由来するもので、領主が奨励金・米を出し、あるいは農民がその持ち高に応じて穀類を出し合い、備蓄する、という方法です。江戸初期に既に保科正之が導入しています。新穀が出るとそれと交換しますから、これを行うと、農民はいつも古米を食べる羽目になるのですが・・。

 義倉というのはこれに対して、古代の律令に由来するもので、富裕な者の慈善によって醵出された穀類を貯蔵しておいて、窮民に給与する、というものです。常平倉というのは、やはり古代に設けられた倉で、政府所有の米の一部を備蓄して、米価が高騰した際に放出したりする事を目的として設けられていたものです。鎌倉時代にいったんなくなりますが、江戸期に復活していました。

 定信は、各村落共同体に、こうした各種の倉を建てさせ、幕府直轄領に関しては10分の1の補助金を出して、籾の備蓄を行わせたのです。これが囲籾(かこいもみ)です。

 さらに、諸藩に対しても、囲籾を実施するように命じています。その御触書によると、幕府の財政が窮迫しており、本来なら享保の時同様に上げ米を命じたいところだが、天明の飢饉などのため、諸藩も辛いだろうから、その命令は出さない。その代わりに、各藩では1万石について50石の割合で1790年より1794年までの間、その領地内で囲籾を実施するように、という内容です。

 施策内容そのものは、新しいものではありませんが、このように、幕府領であると大名領であるとを問わず、全国的な統一の方法として徹底して行われた点が、寛政の改革の大きな特徴です。

 この囲籾は単なる飢饉対策ではない点も注目されるべきです。平時には、種籾をもたないような貧農に対して、種籾を貸し付けるという形を通じて、それら小農の農業経営の安定という機能をもっていたのです。

 積金(つみきん)というのは、倹約令によって浮いた資金を共同貯金の形でプールさせ、飢饉に対する備えにすると同時に、平時は営業資金の供給という機能を果たすことが期待されていました。

 このように、農業資金の供給がなぜ必要になるかといえば、吉宗の無理な新田造成策により、農業生産を引き上げるには、農村は金肥に頼らざるを得なくなっていたからです。

 また、先に倹約令は、寛永の土民仕置覚(どみんしおきおぼえ)の復活と説明しましたが、さすがの定信も、寛永の田畑勝手作りの禁までも復活させることはできませんでした。確かに、全国的に穀物生産の奨励を強調していますが、菜種、綿その他の有用な作物栽培については、例外であるとして、それを公認せざるを得なかったのです。このような換金作物の栽培の公認は、定信が農村の実状をよく押さえていたことを示しています。ただし、煙草、藍、紅花、桑(養蚕)などは、贅沢品と見たのでしょう、規制の対象としています。

   *         *         *

 以上に見たように、定信の農村対策は、それなりに優れたものがあります。それと同時に、その優れた点は、福祉政策という点にあるのであり、福祉というものは、何時の時代にも、多額の費用を必要とするものだ、という点を忘れてはなりません。ここに紹介した施策もまたは、どれもかなりの費用を必要とします。定信は、幕府財政の立て直しをキャッチフレーズに登場したはずなのですが、その施策は、長期的にはともかく、短期的には歳出増の歳入現をもたらすものです。

 

5. 経済政策

 定信は、生まれも育ちも江戸という大都会なのですが、なぜか農村に対する理解に比べて、都市ないしそこで営まれる商業というものに対する理解が非常に不足しています。

 定信の念頭にあるのは、さしあたり、江戸という都市に暮らして困窮している幕府の旗本・御家人の救済です。彼らの困窮の原因は、大別して二つありました。一つは、多年にわたる困窮から、蔵前の札指しに多額の借金を背負っていることから来る困窮です。今一つは、米が物価の中心から外れた結果、米は安いのに、他の物価は騰貴するために起きる生活苦です。

 田沼時代は、基本としてレッセ・フェールに徹していましたから、旗本・御家人の困窮に対して積極的な救済策は採られませんでした。田沼の評判の悪さのほとんどはこの点からきています。定信は、それぞれに積極的な救済策を実施しました。しかし、それが効果があったか、というと疑問です。むしろ、やらない状態よりも悪くなったと言った方がいいかもしれません。順次見てみましょう。

(1) 棄令(きえんれい)

 武士はもともと給料として米を支給されて生活している存在です。しかし、米という形での受け取りは、今日の現金での支給と違っていろいろと面倒な手続きがありました。そこで、御蔵からの米の受け取り手続を代行しする商人が登場してきました。これが札差しです。札(ふだ)とは、蔵米の受取手形の意味で、浅草の御蔵の前(すなわち蔵前)に店を開いている米屋が、米の受け取りを代行するにあたり、この札を割竹に挟んで、蔵役人の藁づとに差したことからこの名が生まれました。

 しかし、都市に生活する武士としては、大量の米の現物給付を受けても、そのままでは使いようがありません。市場で売却して現金に換えなければ困るのです。そこで、札差しはその販売も引き受けるようになりました。禄米100俵について、札差し手数料は金1分、販売手数料は同じく2分、計3分と公定されていましたから、これ自体はそう儲かる仕事ではありません。最大の業者でも年収600両程度だったといいます。

 ところが、都市における物価の上昇その他から、俸禄では暮らしていけない幕臣が続出するようになるにつれて、この札差しが金融業者となっていきます。幕臣の唯一の収入が禄米ですから、それを担保に金融をすることができるのは、札差しに限られたのです。次第に札差しは実力を蓄え、場合によっては幕臣の家計全般を把握するまでになっていったのです。

 この累積した債務を一片の法令によって棒引きにしようとしたのが、1789年に出された棄令です。もっとも、すべてを棒引きというわけではありません。これは、正確には二つの法令です。

 第1は、この法令の出る前5年以内の借金で、これについては、一律に金1両について銀6分の利息とします。銀1分というのは銀1匁の10分の1のことです。公定レートでは金1両は銀60匁ですから、要するに1%の金利ということです。これは月額ですから、年利に直せば12%ということになります。当時、札差しからの借り入れは、年利15%というのが普通でしたから、利子が20%下がったという程度で、大した違いはありません。

 問題は、第2の部分で、6年前の1784年までに借りた金は新旧の別なく切り捨てる、というのです。年利15%で借りていれば、元本相当額はほとんど返済済みだからというのが、その根拠です。しかし、適正金利が12%だとすると、過剰返済分は年3%、したがって、5年間でも15%に過ぎず、随分強引な定めであることは間違いありません。

 これによって、札差しが被った損害は、誰が計算したのか知りませんが、どの本にも、合計118万両と書かれています。このような莫大な経済的ダメージを受けたのでは、さぞかし、札差しの倒産は続出したはずと、常識的には思われます。ところが、実際には棄令により倒産した札差しは、皆無に近いと考えられています。棄令後の年であっても、それ以前の年と同じ程度の倒産件数しかないからです。

 つまり、実際には旗本・御家人達は、このせっかくの権利を行使しなかったと考える外はありません。それも当然でしょう、この権利を行使すれば、なるほどこれまでの借金は消えますが、これから金融を受ける道を閉ざされてしまうからです。また、借金さえ棒引きになれば、今後は金融は不要、という程度に財政状態が良い者の場合にも、札差しを今後は使えないということになれば、自分で人手を揃えて御蔵まで出かけて米を現物で受け取り、さらにそれを市場で売却しなければなりません。それができなければ、現金収入の道を失い、貨幣経済が支配する江戸では生きていけないことになってしまいます。

 つまり、この法令は、幕府の権威を大いに傷つけただけで、実際の困窮旗本の救済の役には立たなかった、ということになります。また、憤激した札差しの慰撫のため、猿屋町貸金会所を新たに設立して、2万両の貸付を行っています。彼らを慰撫しなければ、その後の御蔵の運営に支障が生ずることが、遅ればせながら、定信にも判ったためです。

 こうして、この法令もまた、幕府が2万両損をしただけという結果に終わり、その財政圧迫要因となりました。

(2) 御免株・座の廃止と強化

 定信は、織田信長以来の楽市楽座を、商業のあるべき姿と考えていましたから、株仲間の存在こそが、物価騰貴の原因であると考え、これを廃止します。したがって、株仲間を公認することから得られていた冥加金や運上収入の道を断ち切ってしまったことになります。

 また、田沼意次が専売制の意図から新設した人参座、鉄座、真鍮座もいずれも廃止されました。これにより、専売収入ももちろん入ってこないことになります。

 このように、歳入減を招いても、それにより物価が下がるはずだから十分に引き合うと、定信は考えたのです。ところが、実際には物価は下がりません。そこで後には逆に、経済政策の道具として適当と見て、田沼時代よりも積極的に株仲間の強化につとめるようになりました。

 しかし、この頃になると、経済構造の変化から、古くからの権益の上にあぐらをかいている消極的な株仲間に代わって、それに属さない進行の有力な商人が続々と台頭して、経済の実権を握るようになります。したがって、いくら株仲間を通じて統制しようとしても、その実効性を確保することが難しくなります。田沼政権のように、自然発生的な株仲間の公認であれば、こういう問題は起こらないのです。

 こうして、朝令暮改的な彼の政策は、いたずらに経済を混乱させただけにおわりました。

 後に天保の改革において、水野越前は、株仲間がその独占性のために物価高騰の原因になっていると見て、1841年に株仲間解散令を発しました。ところがやはり何の効果もないどころですか、流通が混乱してかえって物価の騰貴が起きましたので、1751年に再び認可しました。しかし、株の固定を廃止する代わりに、冥加金を廃止することとせざるを得ませんでした。したがって、天保の改革においても、株仲間は幕府の財政には何の寄与もしないことになります。

 結局、株仲間は、明治になって同業組合に改組し、今日に至ることになります。

(3) 七分積金

 七分積金は農村における囲籾の都市版というべき施策です。しかし、こちらの方は、農村における囲籾と違って、完全な失敗施策です。都市の各町が、かなり広範な自治権を共有していたことは、先に享保の改革の一環として説明しました(第4章3.(3)「社会資本整備と受益者負担」参照)。こうした広範な自治権をきちんと享受するには、当然かなりの経費を必要とします。今日であれば地方税という形で徴収されるものに相当します。借家人の場合、直接にはこの地方税負担はありませんでしたが、大家は、自分の負担を店子に転嫁しますから、結局家賃の一部として地方税額相当が徴収されていたわけです。

 農村における納宿の場合もそうでしたが、定信には、このような自治のための税負担の必要性が理解できません。そこで、それを止めろといえば、その分が浮くはずだと考えました。そこで、その70%(すなわち七分)を原資として囲い籾及び貧民救済用の積金を実施するように、と命じたのです。もちろん、地方税がなくなれば、それによって雇われていた人間を雇い続けることが不可能になりますから、その行っていた業務、すなわち木戸番、自身番や夜回り等の仕事は、各町の旦那衆が自分で実施しなければなりません。地方税のうち、20%は、そういう地主や大家の手間が増えた分に対する報酬としてとってよい、と定信は言っています。残り10%は町入用の余分として自治体が徴収してよい、というのです。

 この積み金の管理機関として町会所が設立されました。しかし、本来自治権行使に必要な地方税を、中央政府である幕府が勝手に免除しようとしても、うまくいくわけはありません。町会所は、貧民救済機関というより、家賃や地代の取り立て機関して機能することとなってしまいました。都市というものの機能に対する定信の無知が、こうした頓珍漢な政策をもたらしたのでしょう。

 

6. 寛政の改革の評価

 田沼意次を高く評価する人は、寛政の改革は時代逆行の馬鹿げたものと決めつけます。一方、松平定信を高く評価する人は、田沼時代の政治はすべてだめで、寛政の改革は天国を作り出した、といわんばかりの誉め方をします。

 こうした一方に偏った評価は常に誤りです。既に紹介したように、田沼時代にも、思いつきのずいぶん馬鹿げた政治は確かにありました。が、そこで大切なことは、その推進した自由主義経済政策と、商業を幕府の財政基盤とするという方策は、おそらく江戸日本を近代国家にスムーズに移行させ、幕府をその政権として生き残らせるための最後の頼みの綱だったということでした。

 定信は、意次に対して個人的な敵意に燃えていたために、意次の推進した政策は、その善悪の程度など御構いなしに機械的に否定したところがあります。良い部分までも否定した点では、明らかに間違った政治だったといえます。

 他方、定信は、自由主義経済を飛び越えて、福祉主義実現のため邁進したところがあります。自由主義経済を信奉していた意次は、最後まで、こうした福祉主義の重要性を評価する思想に到達することはなかった訳で、定信のこの点は高く評価すべきでしょう。

 しかし、本稿が取りあげている財政改革という観点から見る場合、寛政の改革と呼ばれるものは、改革の名には全く値しません。

 一般に、日本史の通説では、幕府財政は、寛政の改革によって立て直されたといわれます*。しかし、寛政の改革で有名な政策は、上記のとおり、すべて幕府歳出額を増加させるか、歳入額を減少させる効果を持っていました。したがって、仮に財政が再建されたとすれば、それは収支のバランスを上手にとった、という方法に依らざるを得ません。しかし、そのための方策としては、倹約策以外には、何ら具体的方策を、定信の施策の中に見いだすことはできません。

 倹約策というのは、吉宗の享保の改革の場合、冗費の削減ということでした。しかし、その様な意味での倹約策は、大奥経費を例にとって説明したとおり、田沼時代に既に徹底した形で推進されています。したがって、この時点では、削れるような冗費はほとんどなかったといえるでしょう。

 この結果、寛政の改革における倹約策というのは、必要な支出も含めて、全支出の抑制、という形にならざるを得ません。

 施設管理の経験のある方は判ると思いますが、施設管理費というものは、削っても直ちには弊害が見えません。したがって、冗費といえばいえます。しかし、施設というものは、毎年度きちんとメンテナンスを行っていれば、最小限度の費用で長いこと利用が可能です。ところが、メンテナンス費用を削減して、崩壊するまで放置しておくと、もう取り壊して作り替える方が安上がりになってしまいます。そして、その場合、何もないところに作るよりも、取り壊し費用の分だけ高いものになります。

 寛政の改革における倹約策は、このように短期的には影響のでない経費を削るというものです。したがって、こういう倹約策では、表面上、資金が蓄積できても、何年かたてば、必ず反動で、一気に多額の支出を必要とし、倹約で蓄積した資金などは一撃で吹き飛ぶ、ということになります。これでは財政改革の名に価するとはいえません。実際、定信の跡を継いだ、松平信明政権の時代は、その倹約による資金の蓄積と、補修による赤字財政の繰り返しです。

 したがって、寛政の改革は、幕府財政の崩壊を決定づけたものです。間違っても再建に成功したとはいえないと考えています。

 定信は、老中首座に就任した後、わずか6年間で失脚します。しかし、これは意図的に、自ら選んでおこなった失脚の匂いが濃厚です。改革は長く続けられるものではないことを、彼は十分に承知していたのだと思います。

 辞職願いを出すに当たり、彼は自分自身を正宗の名刀に喩えています。名刀は、使わなければ何時までも名刀として価値があるけれど、使えば折れてだめになってしまう。だから名刀は死蔵した方がよい。それと同じで?定信も、老中として使わない方がよい?という奇妙な論理が、その中で展開されています。

 確かに名刀は使わなければ末代までも残ります。しかし、実際に政権を担当しない政治家にいったいどのような価値がある、と彼は考えていたのでしょうか。理解に苦しむたとえです。

 彼は、吉宗の実の孫であるだけに、世間の評判を非常に気にする体質を持っていますから、何時までも政権を持っていると、改革に失敗したときの非難を浴びることになるのを恐れたのだと思われます。

     *         *         *

 定信の寛政の改革が失敗に終わった後、幕府は2度、積極的な財政改革を経験しています。

 一度目は、家斉の大御所時代に行われています。水野忠友の子水野忠成と、田沼意次の子田沼意正のコンビによる、重商主義に基づく改革です。このため、この水野の改革は、田沼時代と同様、賄賂政治という代名詞の形で悪口を浴びせかけられています。その上、肝心の大御所家斉が、田沼時代の家治のように率先して節約に協力してくれるどころか、大変な浪費を重ねますから、ほとんど効果を上げることはできませんでした。

 今一度は、水野忠邦による有名な天保の改革です。この改革は、水野忠成の改革を失敗に終わらせた大御所家斉の死のタイミングを捉えて実施されています。しかし、この時点では、既に幕末の兆候が内外に現れており、彼の政策はそちらへの対策に大きく引っ張られていってしまいます。最終的に忠邦の命取りになった江戸・大阪周辺の土地を幕府直轄領にするという上地令も、国防目的の施策でした。しかも、父家斉に似て、将軍家慶は肝心なところで、忠邦を見放してしまっています。したがって、財政改革という観点から、天保の改革を評価するのは非常に難しいのです。

 それ以後は、幕末の動乱に巻き込まれ、幕府財政は混乱の一語に尽きるようになります。したがって、江戸時代においては、本当に財政改革の名に価する最後の組織的努力は、田沼意次の改革をもって終わる、と考えることができます。

 幕末の混乱の中から、非力な明治政府がいかにして日本国政府としての財政再建に成功していったか、という話は、これとはまた、別の物語です。今日の財政制度に直結するその物語にもまたきわめて興味深い点があります。これについては、改めてお話ししたいと思います。

 やたらと細かい数字のでてくる読みにくい物語であったのにも拘わらず、長らくご愛読いただき、ありがとうございました。