江戸財政改革史外伝
名奉行根岸肥前守鎮衛の話
甲斐 素直
ちょっと前までは、江戸時代の名奉行というと、大岡越前守忠相(ただすけ)と遠山の金さんこと遠山左衛門尉景元(とおやま=さえもんのじょう=かげもと))の二人が定番で、小説でもテレビの時代劇でも、奉行がでてくる話の場合には、この二人が交代で主役になるという感じでした。しかし、さすがにこの二人だけでは飽きられてきたのか、このごろは、平岩弓枝の隼新八シリーズをはじめとして、小説でもテレビでも、根岸肥前守鎮衛(ねぎし=ひぜんのかみ=やすもり)が取り上げられることが増えてきたような気がします。このこと自体は根岸鎮衛ファンの私としてうれしいことです。
私が彼の名を初めて聞いたのは、子供の頃、ラジオで聴いた講談でした。確か、「奉行と検校」という題だったと思います。話の細部はすっかり忘れてしまいましたが、越後から、盲の子と貧農の子が江戸へ逃げ出し、その道中で偶然知り合い、助け合って江戸までたどり着く、という話でした。そして、別れるときに、貧農の子が自分は名奉行になりたいというと、盲人は、では俺は検校(けんぎょう)になりたい、といい、互いに頑張ろうと誓い合う。この貧農の子が後の名奉行根岸肥前守であり、盲人が男谷(おたに)検校でした、という落ちだったと記憶しています。
男谷検校とは、言うまでもなく勝小吉の父であり、勝海舟や男谷精一郎の祖父です。こちらの方は当時すでに子母沢寛の「おとこ鷹」等でよく知っていました。それだけに、根岸肥前守とは聞かない名だな、と思い、逆に強く印象づけられました。その後、いろいろな折りに少しずつ根岸鎮衛のことを聞き覚えました。何といってももっとも詳しい情報を提供してくれたのは、根岸鎮衛自身が書いた「耳袋」という随筆集です(岩波文庫に全3巻で入っています。)。
そうした私の知識に照らして見ると、平岩弓枝なども、単に名奉行として彼の名をシンボル的に使っているだけで、鎮衛という人の真の魅力を引き出した書き方になっていないのが気に掛かります。そこで、皆さんに、根岸肥前守鎮衛という素敵な人物を知って貰いたく、以下に彼について知る限りのことを書き記してみました。
先に紹介した講談の真否は脇に置き、根岸鎮衛は、江戸時代有数のシンデレラボーイであり、また、下世話に通じていることやその飾らない人柄と相まって、昔から、元は町人だったという伝説のつきまとっている人物です。一説には刺青(いれずみ)があったといわれます。遠山の金さんが町奉行になるのは天保の改革の時ですが、根岸鎮衛の活躍時期はそのかなり以前、田沼時代から家斉にまたがる時代ですから、刺青説が本当だとすれば、間違いなく、こちらの方が元祖刺青奉行です。
正式の歴史によると、鎮衛は150俵取りの御家人、安生定洪(あんじょうさだひろ)という人の三男です。この定洪という人は、現在の神奈川県相模湖町の農民の出身で、御徒士(おかち)の株を買って幕臣になった人物です。有能な人物で御徒士組頭に出世し、最後には代官にまでなりました。ですから、お世辞にも立派な家柄とはいえません。
一方、根岸家は、150俵取りと安生家と同格の御家人ですが、先祖が甲府藩で徳川家宣に仕えていたため、家宣が将軍になるに伴い御家人になったという比較的新しい家柄で、やはりそう立派な家柄ではありません。この根岸家の当主が30才の若さで死亡したところから、末期養子(臨終の席での遺言に基づき養子になったという形式)の形で鎮衛がその跡を継ぎます。時に1758(宝暦8)年、鎮衛22才の時でした。
この辺りの家柄関係に、鎮衛が実際には定洪の実子ではない可能性、すなわち鎮衛町人説が流布する実際的な根拠があります。つまり、町人が御家人の株を買うという場合、一応同格の家の子であるという形をとり、そこから株を買った家の養子になるという形式を採ることが多いのです。自分も御家人株を買って御家人になった人物の三男という設定は、こうしたやり方にぴったり当てはまります。
根岸家の養子になった時点で、鎮衛が(あるいはその父が)かなりのお金を必要としたことは間違いありません。前の当主は30才で若死にするくらいですから、おそらく係累はほとんどなかったでしょう。このように生きている係累の少ない家は、御家人株の売買ではかなりの値になるからです。たとえ本当に鎮衛が定洪の三男で、そして本当に株の売買ではなく正規に養子に入ったとしても、末期養子ですから、関係各方面にかなりの礼金を包まなければならなかったはずです。
また、病死するような当主を持つ家は当然小普請組に入っています。小普請から抜け出して役に付くというのは、当時の幕臣にとり大変なことでした。ところが、鎮衛は家督を相続するとすぐに勘定所の勘定(今の感覚で言うと、大蔵省の平の事務官ないし係長と言うところでしょうか。)として勤務しています。実父とされる定洪の顔が利いたとしても、これ自体、かなり異例といえます。江戸中期の腐敗政治の時代ですから、ここでもかなりの金が動いたことは間違いなく、養子そのものになることでの費用と合わせると、ちょっとした額にのぼるはずです。
それだけのお金を、わずか150俵取りの、農民上がりの代官が三男坊の冷や飯食いのために都合したと考えるのは無理な感じがあります(豪富で鳴る男谷検校が、末っ子の小吉に買ってやった御家人株の勝家の禄高はもう一桁少なかったことを考え合わせてみると、納得がいくでしょう)。仮に鎮衛が、町人としてかなりの蓄財に成功して、それを投じて御家人になったと考えると、この辺のつじつまが良く合うわけです。
しかし、前身が町人かどうかは、彼の生涯を考える際には余り問題ではありません。彼のすばらしい点は、このような御家人としても底辺に近いところから出発しながら、まれにみる有能さを発揮してめざましい出世をした点にあるのです。
勘定所に勤めはじめてからわずか5年後の1763(宝暦13)年に、鎮衛は評定所留役(とめやく)になります。評定所というのは、老中や三奉行を裁判官とする幕府の最高裁判所で、留役というのは、今の言葉で言うと、その裁判所の書記官のことです。しかし、老中や奉行は一々裁判の事実調査などはしませんから、実際には訴訟事件に関する事実関係や判例の調査、さらには判決原案までも書くという重要な職です。その意味では、今日の言葉では、最高裁判所調査官といった方が近いと思います。よほどの事件でない限り、留役の具申した線で評定所判決は決まりますから、かなりの才能がなければつとまりません。わずか5年でこの職に就いた、ということ自体、異数の出世といえるでしょう。
根岸鎮衛についていう場合、日本史ではもっぱら松平定信の知遇を得たことだけが云々されます。しかし、この評定所勤務で、私は、彼が田沼意次の知遇を受けるようになったのではないかと想像しています。彼のように家柄もなく、何の引きもない者にしては、いくら才能があるにせよ、そうした仮定でもおかないと、この後しばらくの間の出世の順調さを説明できないからです。この時期、1758年生まれの松平定信は、まだ幼児で、何の実権も持っていません。これに対して、田沼意次は、美濃郡上藩の百姓一揆に関する裁判で1758年から評定所に関わるようになっていますから、彼がこの有能な評定所留役に目を留めた可能性は十分にあります。
田沼意次の知遇を得たかどうかはともかく、鎮衛がこの難しい職を立派にこなし、上司から高い評価を受けた証拠に、その5年後の1768年には勘定所に戻って、御勘定組頭になります。今日で言うと、大蔵省の局長級の職です。課長級ポストである支配勘定を飛び越しての栄進です。寛政の改革で実施された公務員試験を主席で合格した太田蜀山人ほどの人物でさえ、生涯を平の勘定で過ごしたことを考えると、これが常識では信じられないほどのすばらしい出世であることは明らかです。この栄進に当たっては、それが田沼か否かは別として、評定所に連なる幕府高官の強力な推薦があったことは確実といえます。彼の家柄そのものは最低に近いほど悪いのですから、その線からの栄進の可能性は絶対にありません。
さらに、その10年後、1776年、42才の時には、彼はなんと勘定吟味役に就き、六位となって布衣(ほい)が許されます。今で言う会計検査院長です。吉宗時代に足高の制ができて、能力次第で誰でもどんな地位にでも登用することが可能になったとはいえ、奉行職は普通は旗本のつく地位です。したがってこの勘定吟味役が当時の普通の御家人として到達できる最高の地位でした。役高500石(手取りでは500俵程度)、役料300俵ですから、手取額で年俸800俵の地位です。
したがって、後は終生その職にあっても、人もうらやむ出世といえます。ところが1784(天明4)年に鎮衛はさらに累進して佐渡奉行になります。佐渡奉行は、遠国(おんごく)奉行の中での格はそう高いとはいえませんが、幕府財政の生命線ともいえる佐渡金山の生産を一手に握っており、勘定方としては非常に重要な職です。同時に家禄に50俵が加増になります。遠国奉行になった者に対しわずか50俵の加増とは幕府もずいぶんけちなようですが、家禄への加増というのは、能力の判らない子々孫々にまで保障される基本給ですから、慎重にならざるを得ないのです。佐渡奉行は、役高1000石(つまり手取りでは1000俵)、役料1500俵ですから、あわせて年俸2500俵の所得になったことになります。
1786(天明6)年、田沼意次が辞職に追い込まれ、翌年の6月に松平定信が老中筆頭に着任していわゆる寛政の改革が始まります。当然、幕府の中央人事には、田沼派一掃のための粛清の嵐が吹き荒れます。
この時に、佐渡という少々中央からは離れたところにいたのが幸いしたのでしょうか、この年7月に鎮衛は勘定奉行に抜擢され、家禄も500石に加増されます。つまり御家人から旗本の端くれに連なるようになったわけです。勘定奉行は今日で言えばほぼ大蔵事務次官の職に相当します。役高は3000石です。12月には従五位下に叙任され、以後、肥前守を名乗ることになります。彼が松平定信に気に入られて抜擢を受けたといわれるのはこのことです。確かに遠国奉行と、寺社・町・勘定の三奉行との間には大変高い壁がそびえていますが、勘定吟味役と遠国奉行の間にある壁ほど高くはありません。松平定信による抜擢以前に、すでに彼は異数の出世を遂げていた人物であったのです。
寛政の改革は、定信の失脚とともに1793(寛政5年)年に終了しますが、鎮衛は政治の渦を無事泳ぎ切り、それどころか1798(寛政10)年にはさらに累進してとうとう江戸南町奉行の地位につきます。以後、1815(文化12)年11月まで18年の長きに渡って在任し、辞職した翌月の12月に死亡します。享年79才(数えで80才)でした。
幕府の俸給制度の面白い点は、高級官僚に対する賞与の一部として、その子供の出世を早くすることです。鎮衛の場合、非常に長期に渡って江戸町奉行という要職にあったので、子供ばかりか孫までが、彼の生きている間に布衣以上の地位につけました。これは非常に珍しいことといえます。
また、その1815年6月には家禄が500石加増になって、それまでの500石と併せて1000石取りという堂々たる旗本に出世していました。
この最後の加増を受けたとき、彼が読んだ狂歌があります。
御加恩をうんといただく五百石
八十の翁の力見てたべ
この狂歌に示されるように、地位が上がっても偉ぶらない人柄でした。勘定奉行の時か町奉行になってからのことかはっきりしませんが、ある時、諸役人が打ち揃って本所辺の視察に行き、昼弁当を食べていたとき、鎮衛の出世のことに話が及びました。すると、彼は「私の妻などは、皆さんの奥様とは違い、昔は豆腐を買いに出たものです。自ら台所の釜の下の世話をやっていた身分ですよ」と高らかに笑ったと言います。
勘定方の役人としては、特に土木工事や建築工事の指揮監督に優れていたようです。平の勘定時代から勘定奉行まで、鎮衛の勘定所勤務は相当長期間に及びますが、その間に、日光の廟や禁裏・二条城等の普請、東海道や関東の川普請、浅間山噴火の復旧工事など、様々な工事の実施を担当し、その落成の都度、褒賞としていただいた黄金(大判小判)が通計260余枚というのですから、大変なものです。
町奉行としては、下世話に通じた判断をよく示し、名奉行とうたわれました。例えば次のような話があります。
江戸川の鯉は、船河原橋の上流では漁をすることは禁じられていました。ところがこの船河原橋の下で鯉を捕った者がある、との訴えがでました。本来なら、訴えがあれば必ず審理をすることになっています。ところが、鎮衛は、「船河原橋の下」というのはその下流という意味であろう、したがって事件にはならない、と事件そのものを握りつぶしてしまったと言います。無用の罪人を出したくなかったのでしょう。
またある年、津波があって、大きな船が永代橋に吹き付けられ、橋を壊した、という事件がありました。橋の管理人の側では、船が橋を壊したのだから橋の修理費を船の持ち主が負担するように、と訴えました。鎮衛は、これは天災なのだから我慢したらどうかと諭したのですが、橋の管理人はうなずきません。そこで、鎮衛は最終的に次のように判決しました。「船が橋を壊したのは確かだから、船の持ち主は橋を修理すべきである。しかし、船が砕けたのは橋があったからなので、橋の管理人は船の修理費用を負担すべきである。」橋の修理費よりも、船の修理費の方が遙かに高額になるので、橋の管理人側ではあわてて示談にした、という話です。
北町奉行が担当した民事訴訟で評定所にまであがった事件に、町家から寺院を相手に茶漬け飯の売掛金として50両を請求したというものがありました。茶漬け飯の代金で50両というのは少々大金過ぎると、北町奉行は首を傾げました。すると鎮衛は脇から、その町家というのは一体どこにあるのだ、と聞き、湯島天神前だと答えられると、「それは子供の踊りを見過ぎたのだろう」といったものですから、僧侶の方では顔を赤くし「速やかに借金を支払います」と答弁して、事件はけりになったといいます。実は、湯島あたりには男色を売り物にする茶屋があり、これを「子供踊り」と称していたのです。そうした市井の事情も鎮衛はちゃんと知っていたのです。
こうした下々の事情に精通している鎮衛だからこそ、寛政の改革以降のデリケートな時期に18年もの長きに渡って町奉行職を立派につとめることができたのでしょう。
また、町奉行には、あちこちから、現在継続中の訴訟について、自分の知り合いの有利にしてくれ、という話が当然に来ます。単なる硬骨漢ならそういうとき、きっぱりと断って人の恨みを買ったことでしょう。ところが苦労人である鎮衛は、そういうとき、いったんは気軽に引き受けたそうです。しかし、その後で、「最前のことだが、私は年寄りで、近頃とかく物忘れが激しい、忘れたら堪忍しろよ」といい、実際には何もしなかったといいます。
異数の出世をしたわけですから、様々なしるべがなにとぞお引き立て下さい、といってくることも多かったのですが、これに対しても、「心得た」と調子の良い返事はするのですが、わざわざ推挙すると言うことは決してしなかった、といいます。このことについて家族に対しては「よその者も、大切に奉公し、精勤して年月を重ねれば、自ずと天の恵みはあるものさ。私の知ったことではない。」といっていたそうです。
こうした公平無私の態度もまた、彼の名奉行としての評判を高め、普通ならとっくに隠居している年までも現職でおく理由となったはずです。
しかし、根岸鎮衛を、単なるシンデレラボーイ以上の者としているのは、「耳袋」に代表される彼の文筆力でしょう。「耳袋」は、かれが佐渡奉行であった時代から死ぬ直前まで30年余りに渡って書き次いだ1000編もの随筆を集めたものです。内容は、上は将軍家から下は夜鷹や非人にいたるまでの実に様々な人々や事柄についての噂話です。人気がでて、途中では止められなくなって、死の間際までずっと続いてしまったようです。
また、彼は毎年新春になると、艶笑の戯れ書きをするのが常でした。このことは将軍家等もみな知っていたので、春になると坊主衆に、今年の肥前守の戯れ書きはまだ入手できないか、と催促していた、ということです。
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このように紹介してくると、鎮衛は、立派に時代劇の主役の務まるすばらしいキャラクターだということが皆さんにも判ると思います。それだけに根岸鎮衛の登場する時代小説やテレビ作品が気に入らないと私がぼやかざるをえません。
特に、平岩弓枝の隼新八シリーズは、気に入りません。彼のように一代で立身した人物に、親の代から仕えている家来がいるわけはないからです。鎮衛は80才までも生きたのですから、彼一人に親も子も仕えるという人物がいたという設定なら可能ですが、その場合には、彼の微禄時代にその親の方は、鎮衛とどのような関わり合いがあったのかということの説明くらいはあってしかるべきです。平岩弓枝の描く根岸鎮衛は、まるで親代々の大身旗本のようではありませんか。お宿かわせみシリーズがすばらしいだけに、このような無神経な根岸鎮衛の描き方は残念でたまりません。