第1章 阿部正弘と幕末の始まり
幕末が何時から始まったのかは、難しい問題です。もっとも早い時点に求める学説だと、天保年間に既に幕末が始まるとしているものがあります。しかし、通説的には、ペリーが最初に浦賀に来航した時と考えるようです。
私は基本的にはペリー来航でよいと思うのですが、厳密にはもう少し遡らせるのが妥当だと考えています。なぜなら、私は、幕末を二つの特徴で捉えるべきだと考えているからです。一つは、京都の朝廷が突然政治の中央に躍り出たことであり、今一つは諸士横行、すなわち外交政策についてあらゆる人々が発言しようとしたことです。
前者についていえば、徳川幕府は家康の定めた禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)で規制しており、紫衣(しえ)事件等を引き起こして、後水尾天皇を退位に追い込んだほどの厳しさで抑圧してきたのです。後者については、直接の禁止規定こそありませんでしたが、例えば『海国兵談』を書いたことで林子平が処罰されたことに端的に示されるとおり、それ以前では普通には間違っても許されないことだったのです。
この幕末の持つ二つの特徴は、弘化3(1846)年閏(うるう)5月(以下、本稿では年号は、原則としてすべて日本の太陰太陽暦表示とします)に、米国東インド艦隊司令官ビットルがコロンブス号に乗って浦賀に来航し、米国大統領からの国書をもたらした際に、時の老中阿部正弘が対応を誤った時から現れ始めました。その意味で、この年に幕末と呼ばれる風雲時代の幕が上がり始めた、と私は考えています。
しかし、それが決定的に上がったのは、確かにペリーの来航時に、阿部正弘がビットル事件時での対応を更にスケールアップした時からでした。その意味で、通説の考えも妥当といえる訳です。
どちらの時点で捉えるにせよ、この、幕末という時代を作り出した張本人は、阿部正弘です。彼のこの異常な行動を理解するには、彼の人となりを知る必要があり、そのためには彼の家柄を知る必要があります。彼は、幕府譜代中の名門の出です。
A 阿部正次の一生
阿部正次という人物が江戸の初期にいました。子供の頃から家康に仕え、関ヶ原の合戦前夜の段階では5000石取りといいますから、旗本としては大身という程度の身分でした。しかし、慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦後に、5000石を加封されて計1万石となり、大名に列されます。
このとき、幸運にも家光付きのブレーンサークルに配属され、そのおかげで慶長15(1610)年に下野鹿沼に移封されて1万5000石、元和3(1617)年に上総大多喜に移封されて3万石、元和5(1619)年には小田原に移されて5万石という調子でトントン拍子に出世しました。この時の小田原は、大久保正安の騒動に連座して大久保忠隣が徐封され、いったん廃藩になっていた藩ですから、幕府の彼に対する信頼の高さがよく判ります。
そして、元和9(1623)年に家光が将軍になるとともに老中に昇進し、武蔵岩槻に移封されて5万5000石になります。寛永3(1626)年に大阪城代に転出しますが、それまでの間にさらにたびたび加封されているので、最終的には8万6000石の藩主となりました。前のシリーズで何人か、シンデレラ的に出世した人物を紹介してきましたが、彼こそが江戸幕府確立後の最初のシンデレラボーイの一人といえるでしょう。
「幕府財政改革史」の中で、初期の勘定所は東日本を支配する本所と、西日本を支配する大阪支所の二重構造になっていたと紹介しましたが、これは勘定所に限らず、初期の幕府の統治構造の共通性です。したがって、当時の大阪城代は西日本における総支配人ともいうべき地位で、その意味では老中より重職といえます。彼はその地位を22年の長きにわたって勤め、正保4(1647)年に現職のままで死亡します。
B 阿部重次とその子孫
その子重次は、家光の小姓を振り出しに小姓番頭から幕府最初の若年寄となり、寛永15(1638)年から家光が死亡する慶安4(1651)年までは父同様に老中職を務めた上で、家光に殉死しています。
彼の代の阿部家の禄高は、重次自身が当初、父とは別に禄を受けていて、これに父の遺領を承継したことに加え、老中になってから数回の加増を受けていたこと、他方、まだ長子相続制が確立していなかったこともあり、弟たちに石高を割いて分家させたり、その一部が逆に返還されたりしていることのため、その増減を忠実に追うと非常にややこしいものがあります。
とにかく、その子の正邦が、綱吉の一連の全国配転政策のため、丹後宮津に天和元(1681)年に移封された段階で、阿部家の石高は9万9000石となっています。元禄10(1697)年に宇都宮に移されますが、ここで10万石とされます。最後に宝永7(1710)年に備後福山に10万石として移封され、その地で、この石高のままで、何人もの老中を輩出する名家として、そのまま幕末まで栄えることになります。
この家からでた最後の老中が阿部正弘です。幕末の一つの特徴は、このような譜代の名家だけによって老中職が占められ続ける点にもあります。
A 将軍家慶の人となり
11代将軍家斉は、田沼意次の改革を潰すことにより、幕府財政建て直しの最後のチャンスを崩壊させた人物であることは、先に「幕府財政改革史」で紹介したとおりですが、外に二つの大きな害悪を流しています。一つは、老中ばかりでなく、側用人までも昔からの名門の専管としたことです。これにより出身に関わりなく有能な行政官を幕府首脳に導き入れることが不可能になりました。今一つは、引退後も、その子家慶(いえよし)を飾りものの将軍として大御所政治を行い(正確にはその側近の佞臣達に幕府政治を専横する事を許し)、幕府財政を決定的に崩壊させたことです。
それにしても、せっかく将軍の地位につきながら、おとなしく飾り物に甘んじていた家慶もまた不甲斐ない将軍といえます。それでも、天保12(1841)年に家斉が死亡すると、家慶はさっそく老中水野忠邦に父の佞臣達の首を切らせ、天保の改革を開始させる程度の意欲はあったのです。が、御三家等から改革に対する抵抗が強まると、庇うどころか、たちまち忠邦を罷免してしまうという、まことに暗愚な将軍でした。
別に私だけが家慶に点が辛いわけではありません。家慶は、同時代にもあまり評判の良くない将軍でした。家慶の従兄弟に当たる越前藩主松平慶永(よしなが)は、「家慶は、凡庸の君にして、将軍の器量なし」と酷評しています。
また、幕臣であり、明治時代にはジャーナリストとして活躍した福地源一郎の書き残しているところによれば、「人気に障らぬように注意せよ、物議を惹起してはあいならぬぞ」というのが口癖だったというのですから、絵に描いたような八方美人型の性格だったことがわかります。死ぬまで田沼意次を庇い抜いて、保守派に不評判の改革を実施させた10代将軍家治との器量の差は歴然たるものがあるといえます。
B 名君? 阿部正弘
阿部正弘は、水野忠邦の罷免と入れ替わりに老中に就任した人物です。すなわち、水野忠邦が最終的に罷免されるのが天保14(1843)年閏(うるう)9月13日で、阿部正弘が老中になったのが、その二日前の閏9月11日です。
老中に就任したのは、阿部正弘が、わずか25歳の時のことです。彼の父親、阿部正精(まさきよ)も家斉時代に老中を勤めており、また、この就任の経緯からしても、将軍家慶や御三家など保守派が安心して政治を任せられる、温厚な譜代の名門の御曹司と考えられていたことが判ります。自分の家中の反対を無理矢理押し切って老中になった水野忠邦と違って、大奥対策も上手にやれる、そつのない政治家でした。おそらく幼少の頃から老中になることが当然と思われ、そのための帝王学を受けて育った人だと思われます。
彼は一般に名君として理解されています。当時の良い君主というものは、自分では仕事をせず、有能な部下に仕事を任せて、その上に乗っているものとされていました。今日的にいえば、よい官僚を選抜すると、実務は官僚に任せ、問題が起きたときに最後の責任だけをとる政治家が、良い政治家という考え方に通じています。阿部正弘はその名君を完璧にやれる人でした。
特に人材登用にあたって英断をふるいました。この時代、幕府の行政機構はしっかりしていましたから、その中で低い出自から一定以上の地位によじ登ってくる人物は皆有能といえました。だから有能な人物を見いだすこと自体は、そう難しいことではありません。難しいのは、有能な人物を、その低い出自に拘ることなく、適所に抜擢していく勇気を持つことです。
阿部正弘は、名門の御曹司であるにもかかわらず、それができる人でした。川路聖謨(かわじとしあきら)、その弟の井上清直(きよなお)、水野忠徳(ただのり)、江川英竜(ひでたつ)、勝義邦(海舟)などの下級幕臣やさらには土佐の漁民にすぎないジョン万次郎の起用は、彼の出自に対する偏見のなさをよく示すものです。岩瀬忠震(ただなり)に至っては、部屋住みの身分のままで阿部正弘に抜擢され、終生その身分のままで幕府に仕えています。大久保忠寛(ただひろ)や永井尚志(なおゆき)は比較的高い出自ですが、やはり阿部正弘の抜擢により活躍しています。
彼の後に幕府の政権を握る人物達は、いずれもこのような抜擢人事をやることができなかったことを思うと、彼が人材登用に見せた英断はまことに非凡といえます。その点からも、確かに絵に描いたような名君ということができます。この結果、こうした人材群の補佐よろしきを得て、ペリーが来航するまでは、国内的にはうまく納まっていました。
この人材登用に当たって見せた英断に加えて、彼がわずか39歳で亡くなったこともあって、彼の早世を惜しむのが日本史では通説的考え方のようです。しかし、それは疑問といわざるを得ません。
彼の不運は、伝統的な名君ではとうてい対応できない新しい時代に、沈みゆく幕府の舵取りを担わなければならない点にありました。官僚は、従来から決まっている方針をそのまま遵守すべき場合には、仕事を安心して任せておけます。しかし、新しい事態に即応して新しい方針を立てる場合には、政治家自らが決断を下さねばなりません。だが、そのような肝心の決断力が、この名門の貴公子にはなかったのです。
C オランダからの開国勧告
ペリーの来航は、わが国の一般国民にとっては全く突然に起きた驚天動地の事件でしたが、国際的に見れば、アヘン戦争などアジアで起きていた一連の流れの中で起きた必然の出来事でした。そしてそのことは、当時の日本人でも、知る意思のある人々の間には良く知られていました。
特に彼の前の老中である水野忠邦は、外国情報収集の必要を痛感し、それまでオランダ政府から得ていた定例報告の和蘭風説書(おらんだふうせつがき)に加えて、別段風説書(べつだんふうせつがき)の提出を特に求めて、正確な海外情勢の把握に務めました。水野忠邦が天保13(1842)年に、家斉の発していた異国船打払令(無二念打払令)を廃止して、薪水給与令を発したのは、そうした情報に基づいて下した理性的な判断によるものでした。
また、彼は江戸及び大阪の防衛にも心を砕きました。印旛沼を通過する運河を、田沼意次は、経済の振興のために計画したことは「江戸財政改革史」で紹介しました。水野忠邦も同じく印旛沼運河を計画しますが、彼の場合、これは江戸防衛計画の一環でした。すなわち、江戸は大量消費都市ですが、その消費物資はほとんどすべて海路を通じて運ばれていたのです。したがって、もし外国が浦賀水道を封鎖すれば江戸は戦わずして陥落しかねない状況にあったわけです。そこで内陸に運河を建設することで、第二の生命線を作ろうというのが彼の計画でした。もちろん第一の生命線である浦賀近辺を守るために、砲台も新たに相当数建設しています。同様に京阪神の防衛線である摂津の海についても、可能な限りの防備を固めています。ただ、それらはいずれも、この時代の西洋の艦船の持つ攻撃力の前には、お話にならないほどに脆弱なものに過ぎなかったのですが・・。しかし、そのことは、忠邦自身が一番よく知っており、だからこそ、彼は先に述べたとおり、外国船打ち払い令の緩和も行っているわけです。
その忠邦の江戸・京阪神防衛政策の要として立案されたのが、上知令、すなわち江戸及び大阪周辺の土地をすべて幕府の直轄地としようとするものでした。しかし、これは上知の対象となる土地所有者その他に大きな経済的不利益を強いるものでした。このため御三家を始めとする、財政難に苦しむ諸藩の強い抵抗を招き、八方美人の家慶にあっさり見捨てられて、彼は失脚するに至るのです。
したがって、前車の轍を踏むことを恐れる阿部正弘の外交政策が、無策の一語に尽きるものとなるのは当然です。先に述べたとおり、オランダ国王は日本に親書を、天保15年7月(1844年。12月に弘化に改元しているので、一般に弘化元年と書かれることが多いのですが、国書到来の時点は、天保という年号の間です)に送ってきます。オランダとしては、日本が鎖国を続けている方が莫大な貿易利権を独占できるので非常に好都合なのですが、あまりに国際情勢が緊迫してきたため、永年の厚誼を考え、自らの利益を捨てて日本に開国を勧めてきたのがこの手紙です。
しかし、こうした難問に機敏に反応し、処理する能力は阿部正弘にはありません。それにもまして恐ろしいのが、独断で重要な決定を行い、それが御三家や有力諸侯の反撥を招くことです。そのような事態になった場合、家慶は老中を庇うような気骨のある将軍でないことは、その前年に罷免されたばかりの水野忠邦の悲運を見れば、よく判るからです。
そこで正弘は、卑劣にも、この火中の栗を拾う損な役は、負け犬の水野忠邦に押しつけるのが一番と、家慶を説いて、忠邦を再び老中に起用します。しかし、開国の決断を下したところでそれを受ける家慶でないことが十分に判っている忠邦は、何もしようとしません。この時のことを、歴史の教科書はよく「もはや忠邦は政治の意欲を失っていた」と書いています。が、どんなに意欲的な人でも、こんなに馬鹿馬鹿しい役を押しつけられてファイトを燃やすことはあり得ません。忠邦のサボタージュは当然のことといえるでしょう。
D 水戸斉昭への接近
正弘は仕方なく水野忠邦を罷免し、改めて八方美人的な解決策を求めて走り出しました。おそらく御三家などにどう対応するべきか打診するという行動に出たはずです。
御三家の問題児、水戸斉昭(なりあき)は、こういう時、ずばずばとはっきりものを言ってくれる点で、相談のしやすい相手でした。
しかし、彼はこの年5月に家慶から謹慎処分を受けていました。水戸家は、党派抗争の盛んな藩で、斉昭が藩主につくに当たっても、保守派と改革派が激しく争いました。斉昭は改革派の支持によって藩主の地位につくと、水野忠邦の改革に先行する形で水戸家の改革を実施していたため、天保改革時には家慶より直々に賞揚されています。ところが、天保改革が失敗し、水野忠邦が失脚して幕閣内の支持者がいなくなった機をとらえて、藩内保守派より讒訴(ざんそ)されます。その結果、改革の一環として軍艦を建造したり大砲を鋳造したりしていたこと等を根拠に、謀反を企てていると認定され、天保15(1844)年5月に将軍家慶により直々に、藩主からの引退・謹慎を命じるという重い処分を受けたばかりだったのです。わずか1年ほどの間に、黒幕のいうままに、同じ行為を直々に褒めたり貶したりした家慶は、誠に定見のない人といわざるを得ません。
そのため、この時期、水戸斉昭の行動はかなり制約されていました。それでは相談しにくいと考えたのでしょう、正弘は家慶を説いて、処分を受けたわずか半年後に、早くも謹慎宥免(ゆうめん)とします。部分復権というわけです。これ以後、水戸斉昭と阿部正弘の間には頻繁に書簡が交わされることになります。なお、この膨大な往復書簡は、『新伊勢物語』と題されて、茨城県資料幕末編の収録するところです。この表題は、阿部正弘が伊勢守であったことから来ています。
ちなみに、斉昭の完全な復権、すなわち水戸藩の藩政への関与が正式に認められるようになるのは、少し遅れて嘉永2(1849)年3月のこととなります。この完全復権時に、彼の股肱の臣である藤田東湖ら改革派も蟄居を許され、それに伴い、藩内保守派は追放され、政権は再び改革派が握ることになります。これにより、幕末史を血で染める水戸家の動乱が始まることになります。
水戸家は御三家でありながら、黄門様として有名な水戸光圀(みつくに)以来、勤王思想を有するという異端の藩です。斉昭もまたこの家の伝統を受け継いでいます。そこで、阿部正弘から相談を受けるようになり、政治的影響力を有するようになってきたことを幸いに、200年以上に渡ってつんぼ桟敷におかれていた朝廷を再び表舞台に引っぱり出すべく、斉昭は暗躍を始めます。つまり正弘はこの時、虎を野に放ってしまったのです。その結果は2年後にあらわれます。
結局、適当な対策が立てられないままに、正弘は無難な対応と考えたのでしょう、翌弘化2(1845)年に「祖法」を根拠に、この勧告を拒絶する返書をオランダに送ります。
A 海防係の設置
この同じ弘化2年に、イギリスの測量船が長崎港に入り、傍若無人に湾内の測量を実施するという事件が起こります。そこで、決断力のない正弘も、外国からの侵入等の事態への対策を一つだけ講じます。この年に、外交問題・国防問題を専掌する機関として海岸防御掛(海防掛と通称されます)を新設したのです。ただし専任ではなく、勘定奉行や勘定吟味役と兼務するという形を取りました。
B ビットルの来訪とその対応
翌弘化3(1846)年閏5月に、米国東インド艦隊司令官ビットルがコロンブス号に乗って浦賀に来航し、米国大統領からの親書をもたらしました。ただ、この時のビットルの主たる使命は、後のペリーと違って、日本が諸国を貿易に開いたかどうかを確かめることで、もし開国していれば通商条約を締結する権限を与えられていたに過ぎませんでした。そこで、浦賀奉行を通じて「我が国は新たに外国の通信通商を許すこと堅き国禁」である旨のかなり無礼な回答を受け取っても事を荒立てることなく、目的を達したとして平穏に退去しています。翌6月にはフランスのインドシナ艦隊司令官が長崎に来ますが、やはり平穏裏に退去しています。
しかし、このビットル事件により、オランダに警告されていた外国の来航が、現実の問題として浮上してきました。そこで、幕府としても今後の対応策を確立する必要に迫られたわけです。その検討に当たって、老中阿部正弘は、それまでの幕府専制政治の流れから見ると、信じられない行動に出ます。
すなわち、外国人嫌いの彼は、改めて異国船打払令の復活ができないかということを考えます。考えるだけではなく、その可能性について幕閣内部のみならず、広く一般の幕吏及び近海防衛の任に当たる諸藩に対して諮問したのです。しかもこの諮問は、この年の1度だけではなく、嘉永元(1848)年、嘉永2(1849)年と3回に渡って行われています。
しかし、外国船を打ち払いたければ軍事力が必要であり、軍事力を充実するには多大の費用が必要です。ところが、軍事予算を大幅に増額するという決心を、肝心の彼自身がしていないのですから、異国船の打ち払いなど物理的に可能であるわけがありません。お膝元の海防掛からも猛反対を受け、この案はつぶれます。
確かに、後に詳しくは説明しますが、この時の財政状況は、そのような大幅歳出増が可能な状態ではありませんでした。しかし、そのようなことは幕府の責任者である阿部正弘自身が一番よく知っていたはずです。そして金をかけずに外国船打ち払いができるはずもないことは、普通の常識を持っている人なら誰にでも判ることです。
つまり、この繰り返し行われた諮問は、いたずらに幕府に何ら対応策のないことを国内諸藩に印象づけ、また、国防問題に関しては諸藩にも発言権のあることを認めるという二重のマイナスの効果だけを後に残したのです。これが、幕末の第一の要素である、幕閣以外の諸侯の、幕政に対する発言の始まりです。
C 海防勅書
このように対外問題が緊迫の度を加えつつあった8月に、朝廷から突如、いわゆる海防勅書が下されます。すなわちこの勅書には、海防を厳重に行うようにという趣旨の政治的発言が含まれていたのです。おそらく水戸斉昭の、2年越しの対朝廷工作の成果と思われます。
幕威が盛んな時代であれば、このような勅書が下されれば、それに関係した者は軒並み遠島にでもなりそうな代物です。が、阿部正弘は、斉昭による洗脳の効果でしょうか、何の抵抗も示さず、朝廷に対して、外国船来航状況の報告を行っています。ここに幕末という時代を、それ以前と決定的に分ける今一つの要素、朝廷の歴史の表舞台への登場が始まるのです。
A 米国の極東貿易への取り組み
米国では、ビットル訪日以後になって急に、日本を開国させる必要が高まっていました。パナマ運河のなかった時代ですから、それまで米国が極東貿易を行うには、大西洋経由かホーン岬経由の長大な航路を通る以外に適当な方法がありませんでした。そのため、欧州諸国の倍以上の距離を航海する必要があるので、事実上貿易はなきに等しいという状態でした。ところが、1848年にメキシコと戦争をし、今のカリフォルニア州にあたる地方を奪取することができたので、太平洋に窓口が開いたからです。
東洋貿易で決定的に出遅れていた米国は、これを機会に積極的に乗り出すべく、太平洋横断航路を開設することを決定します。しかし、当時の蒸気機関は、まだジェームス・ワットの蒸気機関ではなく、低圧の単気筒式であったため、効率が悪く、大量の石炭を消費するので、中国まで直行するには燃料が不足します。したがって太平洋横断航路を開設するには日本を開国させて、ここで石炭を補給するほかはありません。つまりこの段階では、米国の意識にあるのは中国貿易の実施であって、日本との通商ではなかったのです。
また、この頃日本近海に米国の捕鯨船が行くようになり、嵐による難船のため、アメリカ人が日本に漂着するという事件が頻発していました。しかし、幕府はそうした漂流民をすべて密入国者として牢に収容しており、その取り扱いは欧米の基準からすれば、お世辞にも人道的といえるものではありませんでした。このため、米国世論はかなり日本に対して硬化しており、米国としてはその善処方を日本に要請することも、政治上の重要事項となってきていました。
米国では、ビットル事件における日本側の対応から、強硬姿勢を示せば日本を開国させることも可能と考え、1851(嘉永4)年に東インド艦隊司令長官のオーリックを日本に派遣して強硬に開国を求める方針を決定します。しかし、この時はオーリックが部下との間に問題を起こして罷免されたため、艦隊の派遣計画も流れます。
2年遅れの1853年に、オーリックの後任としてペリーMatthew Calbraith Perryが派遣されることになります。この段階で、初めて第3の使命として日本との通商の開始も付け加えられました。しかし、あくまでも追加的任務であるに過ぎません。
B ペリー艦隊の戦闘力
ペリーは、嘉永6(1853)年6月に、旗艦サスケハナ号(外輪蒸気船2450t、大砲数9門)に座乗し、ミシシッピ号(外輪蒸気船1692t、大砲数10門)、プリマス号(帆船989t、大砲数22門)、サラトガ号(帆船882t、大砲数22門)の3隻を率いて浦賀沖に姿を現すことになります。
サスケハナ号の2450トンという大きさは、今日の感覚では中型の護衛艦というところですが、この当時としては世界最大級の軍艦でした。これに対して当時の日本で大型船というと千石船ですが、千石というと、約150トン程度です。軍艦の排水トンと商船の積載トンとを直接に比較して大小を云々することはできませんが、とにかく和船が非常に小さなものであったことだけはご理解いただけると思います。当時の日本人から見て、サスケハナ号が小山のような巨大艦と思えたのも無理はありません。
また、ペリー艦隊の搭載する艦砲は、特にその主力艦である蒸気軍艦が外輪部に邪魔されてあまり大砲を搭載できない関係から、合計63門に過ぎませんでした。この当時、サスケハナ号程度の排水量のある帆走戦艦なら、一隻で80門程度は搭載していましたから、これも決して多い数とはいえません。しかし、これに対してこの時江戸湾にあった多数の砲台に設置されていた計99門の砲のうち、これに比肩できる程度の大型砲はわずか19門にすぎず、しかもその大半は射程の短い臼砲(きゅうほう)で、ペリー艦隊まで届かないというのですから、それに比べると圧倒的に強大です。ペリー艦隊を前にして、幕府が震え上がったのも無理のないところです。
C 幕府の無策
ペリーの来訪を、しかし、幕府は寝耳に水と驚いたわけではありません。1851年に米国が日本に開国を強制すると決めたことは、翌嘉永5(1852)年には長崎のオランダ商館長により、幕閣に報告されていたからです。
したがって、阿部正弘が、いくら決断力がなくとも、普通の常識を持った人物なら、今度こそどう対応するかということを、検討するくらいのことはしそうなものです。その検討が小田原評定になって対策がまとまらない内にペリーが来た、というのならまだ弁護の余地もあります。ところが驚いたことに、この段階になっても阿部正弘は、来ても琉球止まりだろうと甘い期待をして、どう対応するかという方針さえも全くたてていなかったのです。
その結果、予定のとおりにやってきたペリーに対して、本当に寝耳に水といった感じに驚きあわてる、という醜態をさらすことになります。一国の宰相としては、信じられないほどの無能ぶりという外はありません。先憂後楽という儒教倫理的にみても、弁護の余地はないといえるでしょう。
全く対策が用意されていなかったものですから、現実に出現したペリーを前にどう対応したらよいのか全く阿部正弘には判りません。このとき、ペリーは、米国とメキシコとの戦争を引き合いに出して「国力を尽くして戦争に及び、雌雄を決すべし」と恫喝し、幕府を震え上がらせます。が、あえて阿部正弘をぎりぎりまで追いつめることをせず、国書を受け取らせることに成功すると、翌年の再渡航を予告して引き上げました。したがって、ここに約1年の時間的余裕が生じたのです。
1年の時間を利用してなにをしたらよいのか、しかし、正弘には思いつけません。しかも不運なことに、ペリーが去って10日後の6月22日に病弱だった将軍家慶が死亡します。代わって将軍位についた家定は文政7(1824)年生まれといいますから、この時すでに30歳。立派に独り立ちできる年齢なのですが、後に改めて詳しく紹介しますが、家慶に輪をかけたまったくの愚物で、まともな判断力がありません。それを補佐する責任は、全面的に正弘の肩に掛かってきます。正弘はまさに茫然自失したといってよいでしょう。
そこで、万策つきた彼は再びビットル事件の際と同様の行動を、さらにスケールアップし、徹底した形で繰り返します。
A 朝廷への奏聞
阿部正弘は、まず、米国からの国書の訳文を添えて朝廷に奏聞(そうもん)したのです。これは幕府の側から積極的に朝廷の政治的発言を促したという意味で、弘化3(1846)年に海防勅書を唯々諾々と受け取り、事情説明を行ったのとは比べものにならない重要性を持つ行動です。長いこと政治から離れていた朝廷に、具体的打開策を案出する能力があるわけは、もちろんありません。海外の問題に対する関心を、朝廷内外でいたずらにかき立てただけに終わります。
B 諸大名等への諮問
ビットル事件の時は、阿部正弘は、確かに前例を破りはしましたが、それでも幕吏や沿岸防衛に関係する諸藩という当事者能力を持つ人々に対して諮問したのですから、弁護の余地が若干はあります。ところが、今回は、そればかりでなく、外様大名をも含むすべての諸侯、さらに陪臣(ばいしん)、つまり諸侯の家来までも対象として、和戦いずれにすべきかという諮問を行ったのです。
これに答えた意見書は700通以上も提出されましたが、当然のことながら妙案はまったくありません。単に幕府の威信の低下を全国に宣伝し、あらゆる人々に、自分たちも国政に発言できるということを気づかせるだけの結果になりました。
C 水戸斉昭の幕政関与
海防会議に、攘夷派の総本山とも言うべき水戸斉昭を、海防参与という肩書きで参加させました。御三家といえども政治的発言は許さず、老中が政権を独占するという長い伝統がこの瞬間に崩れたわけです。
これについては、当然の事ながら幕閣内の反対も強かったのですが、越前藩主松平慶永や薩摩藩主島津斉彬からの建白書などの援護射撃がありました。この二人は只の大名ではありません。
松平慶永は一橋治済の孫で、田安家から越前家に養子に行った人ですから、先にも触れたとおり将軍家慶の従兄弟に当たります。養子に行っていなければ、次期将軍の可能性もあった人物です。
また、島津斉彬はその娘篤子を安政3(1856)年に家定の御台所に送り込んでいますが、この時期にはもうそのことは内定しています。つまり将軍家定の未来の岳父というわけです。こうした強力な応援団の存在によって、斉昭の幕政関与はようやく実現に漕ぎつけたのです。
しかし、強硬派の斉昭ですら、ペリーの艦隊の偉容の前には、単にぶらかし戦術、すなわち平和的話し合いをして時間を稼ぐという策を唱える以上の何の知恵も出せませんでした。したがって、この改革も幕府の意志決定に諸藩の介入を認めることを明らかにした以上の意味は持ちませんでした。そして、この斉昭起用が保守派の反発を招き、阿部政権の命取りとなっていきます。
D 幕府の軍事独占の放棄
正弘はわが国軍備を充実させる手段として、幕府の軍事力独占という長い伝統を放棄し、諸藩が独自に軍事力を増強することを認めました。これは幕府の財政に負担をかけることなく国防力を充実するという意味では、ある程度有意義なことですが、それが長州藩や薩摩藩に倒幕に必要な軍事力を育てることを可能にしたのです。
また、幕府では、これまで、諸藩から海上勢力を奪う手段として、寛永の武家諸法度以来一貫して、船に竜骨を設けること及び帆柱を二本以上たてることを禁止してきました。このため、江戸時代のわが国には、平底の船に長大な一本マストを立て、それに巨大な一枚の帆を掛ける、いわゆる帆掛け船しかありませんでした。これは逆風に逆らって航海する能力が極端に低かったので、沿岸航海をする能力しかなく、ちょっとした嵐でも簡単に難船して、ジョン万次郎のような漂流民を多数出してきたわけです。
阿部正弘は、この大船建造禁止令を廃止します(水戸斉昭の建議によるといわれます)。幕府に金がない以上、諸藩に大船を建造させることにより、国家防衛における幕府の負担を軽くしようという考えからでたものであることは明らかです。
しかし、海軍建設には膨大な費用を要するため(どれほど必要になるかは後に詳述します)、幕府以上に財政の疲弊している諸藩の、よくなし得るところではないことを無視した空理空論でした。実際、明治になるまで、薩長も含めたどの藩も、海軍といえるほどの海上勢力を作り出すことはできませんでした。ただ、幕府海軍の活動をある程度妨害できる程度の艦船は保有するに至ります。特に、後の長州征伐時に、幕府海軍は、高杉晋作の指揮する長州艦のため、痛い目に遭うことになります。
こうして、ペリーの来航をきっかけにした、阿部正弘の、幕府にとっては有害無益としかいいようのない一連の改革により、幕末は本格的に始まることになります。この意味で、阿部正弘というたった一人の人物が、幕末という空前絶後の歴史状況を作り出した、ということができます。
勝海舟のように、幕臣でありながら、幕府を超越した視野で日本を考えた結果、このような一連の措置を執ったというのなら、阿部正弘は英雄といえるでしょう。しかし、彼の事績を丹念に調べても、そのような思想をもっていた形跡はありません。したがって、阿部正弘は、自らの措置が幕府にもたらす将来的影響を全く判断する能力のない、無能な宰相と評価するほかはありません。
彼をほめる人は、阿部正弘は挙国一致体制をとって国難に当たろうとしたと言います。しかし、そもそも挙国一致体制とは、国内に様々な実力者がいるときに、彼らに小異を捨てさせて大同につかせる政治体制を言うのです。しかし、この時には国内に幕府以外の実力者は全くいなかったのです。阿部正弘は、その馬鹿げた行動により、幕府以外の国内実力者をわざわざ作り出し、それにより国内を混乱に陥れたのです。このような行動についてほめ言葉を作り出すことは不可能です。
歴史にifは無意味ですが、もし家慶にもう少し気骨があれば、ペリー来航の時点で政権を握っていたのは水野忠邦だったでしょう。そして、忠邦ならば、ペリー来航に対しても別段風説書を新たに求めるなど、周到に事前準備を重ねていたでしょう。したがって、日米和親条約を締結するという選択肢を選んだ場合にも、それにあたって朝廷や諸侯に発言権を認めるような拙策は採らなかったと思えます。その結果、軍事や外国貿易を幕府が独占する状況下での開国が十分に起こり得たはずです。たぶん、徳川幕府主導で明治維新そのものが実現していたでしょう。ひょっとすると、いまでも日本に徳川幕府が続いていたかもしれません。もっとも、それが我々一般国民にとり、幸せを意味するかどうかは別問題ですが・・。
あるいは井伊直弼がもう少し早めに大老の地位について、この時点で幕府の実権を握っていたとしても同じような対応をとったことでしょうから、平穏裏に開国を迎えていた可能性は、やはり存在しています。井伊直弼による悪名高い安政の大獄は、時計の針を阿部正弘の改悪前に戻そうという絶望的な努力ということができます。が、その激しい弾圧によっても、歴史を逆転させることは不可能だったのです。
もっとも、井伊直弼という人は、後に紹介するとおり、宰相としてかなり無能なばかりでなく、信じられないほどに狭量な人物でしたから、彼の指導の下に明治維新にまでたどり着いたというifが成立する可能性は、水野忠邦の場合に比べると、かなり小さなものとなりますが・・。
ペリーが来航した嘉永当時の幕府の財政状況は残念ながら記録が残っておらず、判りません。しかし、勝海舟が編集した吹塵録のおかげで、その10年前の天保13(1842)年の財政状況は判っています。それによると、一般会計歳入額は92万5099両、歳出総額が145万3209両で、差し引き52万8110両の赤字となっています。
ついでに歳入の内訳をみておくと、年貢収入55万0374両、川船運上3203両、寄合・小普請御役金3万4633両、献上金銀1万6633両、長崎上納金2万2792両、国役金2万5932両、諸拝借返納7万6686両、品々納め14万6846両といったところで、いまだに年貢米収入が歳入の6割を占めているものの、綱吉以来積極的に導入されてきた様々な商業に対する租税が、かなり有力な財源に育ってきていることが判ります。
この天保13年は、水野忠邦主導による天保の改革の最終年でした。そして、水野忠邦という人は、前に紹介したとおり、国防・外交に関する見識は優れたものがありますが、こと財政に関する限り、全く無能な人物でした。したがって天保の改革における財政再建策は、基本的には徹底した倹約以外にありませんでした。それでいながら4割近い赤字財政というのはぞっとする話です。要するに、家斉時代に始まった歳出超過は、この時点では完全に構造的なものとなり、単なる改革のかけ声くらいではどうにもならない状態になっていたことが判ります。
なお、こうした毎年度の固定的な収入とは別に、この年度の特別収入として金銀吹き替え御益として55万7322両の収入があります。したがって、これで何とかこの年度についてはやりくりがついたことが判ります。
金銀改鋳という家斉政権下で乱用された伝家の宝刀を、より徹底したやり方で使う以外にどうしようもない状況に、幕府財政は、この時点で既に追い込まれていたわけです。なお、この水野忠邦が実施した天保改鋳と、井伊直弼によるそれに輪をかけた安政改鋳による通貨品質の改悪のために、各国と締結した修好通商条約下で、我が国経済は大混乱に陥るのですが、それについては後の章で詳しく説明したいと思います。
阿部正弘が老中首座であった時代の財政については、弘化元(1854)年のものがある程度判っています。それによれば、歳入額は171万9090両で、天保13年に比べて80万両近く増えています。内訳を見ると、年貢収入64万6810両で若干の増加を示しています。これは年貢米そのものが増収になったのではなく、改鋳に伴う物価の上昇を反映したものと思われます。
金額的に大きく跳ね上がっているのは大阪商人からの御用金、すなわち借金で、実に51万8320両に達しています。ついで大きいのが、諸大名から取り立てた江戸城本丸御手伝い金で18万4150両、さらにこれまであちこちに貸し付けていた金を回収したものが、16万5700両となっています。
つまり、借金をしまくると同時に貸し金を厳しく取り立て、また諸大名を搾り取るという、なりふり構わぬ歳入増加策をこの年採用していることが判ります。
これに対して歳出総額は212万9130両と、これも60万両ほど膨れ上がっています。歳出の52.9%に当たる90万4100両が役所、寺社及び河川の改修費です。特に役所の改修費は85万4480両に達しています。水野政権以降で続いた不自然な緊縮政策で、施設のメンテナンス費用をケチっていたために、反動で大きな支出を余儀なくされたことがよくわかります。
この結果、収支差額は41万両の赤字となります。しかし、この年は金銀改鋳益金が85万6400両もあったため、単年度収支に関する限り、逆に44万6340両の黒字となりました。水野政権に引き続き、阿部政権でも金銀改鋳という打ち出の小槌を濫用していることがよくわかると思います。
ペリー到着の時点における勘定奉行は川路聖謨(としあきら)でした。彼は享和元(1801)年に豊後の日田で生まれました。
彼の父、内藤吉兵衛は、日田にある西国郡代の手代でした。手代は、江戸財政改革史で説明したとおり、江戸初期には代官の私的な使用人でしたが、享保改革の際、給料が代官所経費の一環として幕府から支給されるようになったため、幕臣に準ずる身分を獲得しました。しかし、厳密な意味では武士とは言えない、非常に低い地位であることに変わりはありません。
今の大分県日田市は山中の小都市にすぎませんが、江戸時代の日田は、九州一円の大名の監督に当たる西国郡代のお膝元であったため、九州諸藩の物産の集散地として、また、同時に金融の中心地として栄えた町でした。日田金(ひたがね)という言葉があります。この地の豪商が郡代所御用達という形式を通じて、高利貸しとして繁栄していたからです。
吉兵衛は手代をしていてちょっとした財産を築いたようです。まじめに手代をしていて金が貯まるわけはありませんから、多分この日田金と何か関わりがある不明朗な活動を行ったのではないかと想像するのですが、蓄財方法の詳細は判っていません。十分な財産ができたところで手代をやめて江戸にでると、長男川路聖謨に旗本の株を、また次男井上清直に与力の株を買ってやって、幕臣の身分を与えました。
ちょっと勝海舟と似た出自ですね。勝海舟は、祖父男谷検校が豪富をもってなる高利貸しで、その子供たちにそれぞれ幕臣の株を買い与えた結果、孫の勝海舟も幕臣の身分を持つことになったからです。ただ、川路聖謨は、旗本の株を買って貰えましたから、貧乏御家人の株しか買ってもらえなかった勝海舟の父よりも、その分だけ、幕臣としての栄進が楽であったという違いがあります。二人の子供のどちらにも幕臣の株を買い与えたというところから、川路聖謨の父が貯め込んでいた財産は、かなりのものであったことが判ります。
人間の精神の不思議なところは、このように金銭づくで幕臣になった人物であるにもかかわらず、川路聖謨も井上清直も、徳川家の大変な忠臣だった点です。もっとも、そういう性格だからこそ、わざわざ大枚をはたいても幕臣の身分を欲しがったと考えるべきなのかもしれません。とにかく、任官するとまじめにその職を果たしました。しかも彼らは非常に有能でした。
川路聖謨は、辣腕の寺社奉行として有名な脇坂安董(やすただ)の下で寺社吟味役として活躍したことからその能力が認められ、栄進して勘定吟味役になりました。ここまででも異数の出世と言いうるのですが、彼はさらに佐渡奉行、奈良奉行、大阪町奉行と重要な遠国奉行を歴任しました。そこで、阿部正弘に抜擢されて、ペリー来航の前年の嘉永5(1852)年に勘定奉行兼海防係となっていたのです。
なお、井上清直は、弘化4(1847)年に勘定組頭格となり、安政2(1855)年正月に、兄同様に勘定吟味役に昇進しています。そして、同年4月に阿部正弘に抜擢されて下田奉行となります。
阿部正弘は、ペリーが嘉永6(1853)年6月に来るまでは、前述の通り、全くの無策でしたが、ペリーの到着によってショックを受けると、突然行動の人に変身します。その活動を大きく外交と国防に分類することができるでしょう。
その外交に関する様々な行動が、それまでの幕府の不文律を犯すものであり、幕末という一つの時代を開幕させたものであることは、前節に述べたとおりです。しかし、そこにみられた外交に関する活動では、直接財政負担の増加につながるということはありませんでした。
それに対して、国防策は、直ちに国防支出を要請します。したがって、それは厳しい状態にあった幕府財政をさらに厳しい状態に追い込むこととなります。阿部正弘も本当であればこれ以前に国防体制を充実したかったことはビットル事件の際の諸藩への諮問にも明らかです。
しかし、先に紹介した厳しい財政状況に押されて、阿部正弘は、その時点まで無策で過ごしてきたのです。が、もはや猶予はならないと考えました。そこで阿部正弘は突然、行動の人に変身した訳です。彼の積極的行動による負担は、当然の事ながら、すべて勘定所にかかってくることになります。
A 江戸湾の防衛
江戸湾の防衛の必要性は、常識のある人ならとっくの昔に認識し、対策をたてていなければなりません。水野忠邦が上知令を始めとして様々な計画を立案し、実施しつつあったことは前述の通りです。阿部正弘は、ビットル事件の際に、外国船打ち払いの可能性について諸藩に諮問したくらいなのですから、その時点で、諮問に先行して、少なくとも江戸湾だけでも外国船打ち払いが可能な程度の防備状況にあるかどうかを確認し、不十分であれば防衛計画の策定作業くらいはするべきだったのです。
しかし、実際には、彼は、ペリーが到着するまで、まったくその作業をしていませんでした。ペリーが来て、その威嚇の前に防衛力の不足を痛感して、初めて川路聖謨に防衛計画の立案を命じたのです。まさに泥縄と言うべきでしょう。
川路聖謨は、ペリー来航を機会に勘定吟味役格に起用されていた伊豆韮山代官の江川英竜と共同して急遽調査を実施した上で、防衛計画を答申します。それによれば、台場(砲台場の意味)を新たに9ヶ所設ける必要があり、それをすべて新たに埋め立てによって設ける必要があるため、埋め立て経費の合計は1499万0312両に達するという計算になるというのです。先に紹介した天保13年度の幕府経常歳入額の実に16倍という天文学的な数字で、とても実現可能な計画とはいえません。しかも、これはあくまでも台場建設に必要な経費であって、この台場に設置する大砲の鋳造費や大砲の弾薬は含まれていません。もちろん、配備する砲兵隊等の維持管理費は、さらにそれとは別に必要になります。
皆さんもご存じの通り、江川英竜は、伊豆韮山に既に嘉永2(1849)年に独力で反射炉を築き、大砲の鋳造を行おうとしていました。炎が炉の壁に反射して炉の奥の一点に火力が集中し、規模の割に高温を出せるという原理であるところから、反射炉の名があります。しかし、彼が私費を投じて建設した反射炉は、小型すぎて火力が弱く、鉄がよく溶けないために失敗に終わっていました。そこで、この機会に幕府から資金援助を受けたいと考えて申請し、この年12月に資金交付許可を得ています。
つまり、台場に置く大砲については、これから大砲の試作を始めるどころか、更にその前々段階である試験用反射炉の試作を始めようという段階なのですから、台場に設置する大砲製造に、どのくらい費用がかかるものかは、この段階では計算することも不可能であったわけです。この点でも、まことに泥縄な計画ということができます。
反射炉の建設は、ちょうどペリーの第2次来航時に行われましたが、場所が浦賀から近かったものですから、ペリー艦隊の水兵が大勢見物に来て閉口したという話です。防衛計画の根底である大砲鋳造のための試験炉がどの程度のレベルかということ等が、すべて相手側に筒抜けという訳ですから、何ともお粗末な情報管理です。なお、この大型反射炉の建設費用だけで、7311両を必要としました。
普通の常識を持つ人ならば、こういうとんでもない巨費を必要とする防衛計画を提出されれば、江戸湾の要塞整備による防衛の不可能を悟って、他の方策を模索するでしょう。が、阿部正弘は防衛に関する常識のない人でしたから、防衛計画の規模を大幅に縮小した上で、これを実施することを命じます。
これは馬鹿げた話としか、言いようがありません。川路聖謨らは防衛不要論者ではないのですから、不必要に過大な経費を積算する訳はありません。その立てた計画は防衛に必要最小限のものとみるべきです。防衛は、役に立つか立たないかの二つに一つで、少しは役に立つということはあり得ません。したがって、縮小した計画は、防衛には全く役に立たないものとなるはずですから、単なる金の無駄遣いと言わざるを得ません。
実際、立案者の一人、江川英竜は、そんな縮小案は「竹へ縄をつけ品川沖へ立ち置きしも同様にて、つまり砲台建築の費は多少に関わらず国家無益の費と存じ奉り候」とまで極言して縮小計画の実施に反対しました。
しかし、川路聖謨はよき官僚として、おとなしく阿部正弘の命にしたがって台場建設に着手しました。最終的に幕府瓦解までの間に五つの台場が一応完成し、一つが未完に終わっています。それに要した経費は計75万両に達しました。厳しい財政事情の中で、単年度年貢総額を上回る巨費を投じて建設された台場は、江川英竜の言ったとおり、何の役にも立つことなく、今日に至っています(東京湾の太公望たちに絶好の足場を提供するという役割だけは、立派に果たしてきているようですが・・)。
B 海軍の創設
阿部正弘は、この年10月に、オランダから、コルベット型蒸気軍艦2隻の購入を決定しています。これを皮切りに海軍を建設しようとしたのです。なお、この軍艦購入時には、長崎奉行水野忠徳が長崎伝習所を創立するなど、重要な役割を果たしますが、それについての詳細は、日蘭和親条約と一緒に後述します。
このコルベット艦というのは、この当時の軍艦の艦種を示す言葉です。
この頃、一番大きい軍艦は戦列艦(ship of the lines)と呼ばれていました。帆走軍艦の時代に艦隊決戦を行うときは、これが主力となりました。小さなものでも60門程度、大型のものは100門以上の大砲を積んでいたものです。
ついで大きいのがフリゲート艦で、戦列艦よりも積んでいる大砲は少ないのですが、遙かに快速です。それを利して、商船隊の護衛や連絡艦など多目的に使用されました。外輪型蒸気軍艦は、その構造上の制約から、あまり大砲を積めないので、フリゲート艦が最大艦種でした。ペリー艦隊の最初の旗艦サスケハナ号や、後に旗艦となるポーハタン号は、トン数は戦列艦並ですが、その速力と積載砲数から、艦種としてはやはりフリゲート艦に分類されることになります。
幕府が買ったコルベット艦は、フリゲート艦よりワンランク下の艦種で、通常単艦で行動することはなく、2隻以上が組んで商船隊の護衛などに活動しました。このため、幕府も同型艦を2隻注文したわけです。
その注文により日本に到着した第1号艦が、勝義邦(海舟)が指揮して米国に行ったことで有名な咸臨丸です。当時としては世界最新鋭のスクリュー推進式の新造艦でしたが、排水量625トンですから、かなり小型であることが判ると思います。それでも値段は1隻10万ドルしました。この時点でのオランダとの交易レートでは4万両に相当しますが、しかし、後に説明する理由から安政通商条約下においては1分=34.5セントのレートが採用されたため、支払い時には約7万2500両ということになりました。
ある研究者の計算によると、幕府がその滅亡までの間に外国から購入した軍艦の総代価は、代価不明のものを除外しても333万6000ドルに達するそうです。当時の幕府財政規模からすれば、これもまた空恐ろしいような巨額であることはおわかりいただけると思います。
しかも、船というものは買えばそれで済むものではなく、その維持管理にも大変な費用を要するものなのです。幕府が慶応3(1867)年に40万ドルで引き渡しを受けた開陽丸について、勝海舟が編集した「海軍歴史」という本に、その維持管理費の書類が残っていますが、それによると単年度で、14万6592両2分225文となっています。咸臨丸が丸々2隻買えるほどの金額です。
同じ慶応3年の記録によると、単年度の幕府海軍維持費が92万0800両とされています。艦隊を維持するだけで、天保13年頃の幕府の歳入総額に匹敵する巨額が必要になるわけです。これでは諸藩が海軍を創設できなかったのも、無理がないとおわかりいただけると思います。
軍艦というものは、確かにふつうの商船に比べると非常に多額の維持管理費を要するものであることは、現代においても変わりません。しかし、幕末において、これほどの維持管理費がかかったのには特別の理由があります。諸外国が、日本の無知につけ込んで、ポンコツの船を売りつけたからです。例えば慶応2(1866)年に幕府が購入した回天という外輪式蒸気軍艦は18万ドルしましたが、実は廃艦になったプロイセンの軍艦を米国人が化粧直しをした上、再武装して日本に売り付けたものです。そのため、軍艦の運用を開始すると、たちまちあちこちが故障しました。この当時、最寄りのドックは中国の上海にあるものだけでした。だから、ちょっとの故障でもはるばる上海まで出かける必要があり、いよいよ維持費が嵩むことになったわけです。これに業を煮やした幕府は、長崎や横須賀に造船所を建設することにしたので、さらに経費を必要とすることになるのですが、これはしばらく後の問題です。
C 陸軍設立への道
海軍を作ろうとしたのですから、それに対応して陸軍を作ろうとするのも当然です。しかし、これは海軍に比べて動きが遅れて、実際の設立はペリー来航から見れば、かなり後にずれ込みます。ここでは、その前駆というべき幕府講武所設立までの動きだけを紹介しておくことにします。
洋式陸軍設立という面で、我が国にとって幸いだったことは、高島秋帆(しゅうはん)という独学の先駆者がいたことでした。彼は長崎の地役人、すなわち町人身分でしたが、西洋の陸軍を研究するとともに、私費を投じて銃器を買いそろえ、門弟を訓練してちょっとした軍事行動ができるようにしていたのです。
天保10(1839)年にアヘン戦争が起き、それが翌11年にオランダ風説書となって日本にも知られました。秋帆はこの機を捉えて、長崎奉行を通じて幕閣に「天保上書」の名で知られる意見書を提出し、西洋の火器及びそれを使う陸軍の優秀さを強調しました。これに強い印象を受けた水野忠邦は、天保12年に高島秋帆とその門弟を出府させ、今の板橋区にあった徳丸ヶ原というところで陸軍演習を行わせました。この演習そのものは大成功に終わりました。
が、蕃社の獄を引き起こしたことで有名な、大の西洋嫌いの江戸町奉行鳥居耀蔵は、洋式陸軍という考え方自体に反感を持ち、私費で銃器を購入していたのは謀反の疑いがあるなどと罪をでっち上げて、彼を投獄しました。彼が釈放されるのは、鳥居の後ろ盾であった水野忠邦が失脚し、阿部正弘が政権を握ったあとの弘化2(1845)年のことになります。その時点では、秋帆の門弟の一人である川路聖謨が幕府の要職についていたことも役に立ったのかもしれません。しかし、幕府の権威を守るため、無罪が宣言されるどころか、中追放が言い渡され、屋敷の没収処分を受けています。
彼は釈放後、門弟の一人である江川英竜の屋敷に身を寄せていたのですが、ペリーの来航に対して早速、「嘉永上書」と呼ばれる意見書を幕閣に提出しています。簡単にいえば開国し、貿易を行うことで、国防費用を賄うべきであるという内容です。攘夷一色のこの当時にあって、しかもその前に投獄され、財産を奪われるほどの弾圧を受けていながら、このような意見書を再び提出するとは、まことに勇敢な人物といわねばなりません。
近代戦を行いうる陸軍軍人の訓練を行うことを目指して、講武所という組織の設立を阿部正弘に提案したのは、幕末の剣豪として有名な男谷精一郎といわれます。講武所は、ペリーの第二回次来航があった嘉永7年5月(1854年。安政元年と書かれることが多いのですが、安政への改元は11月です。)に、諸役人、旗本、御家人に対して武術、洋式調練、砲術などを講習させることを狙った施設として作られました。
当初、現在の浜離宮の南側に大筒4挺ほどの操練場を作ったのが始まりです。その時は講武場という名称でした。しかしそこでは狭すぎることから築地に調練場の建設が行われ、同時に名称を講武所と変更したわけです。その後も猫の目のように機構改革が繰り返され、正式の開所は安政3年4月にずれ込みました。
しかし、オランダとの和親条約と併せて後述する講武所海軍教授所が、安政4年に講武所から独立して軍艦操練所となったので、海に近い築地の施設はこれに譲り、かわって神田小川町に移転しました。ただし、これは今日の住居表示では小川町ではなく、神田三崎町になります。JR水道橋駅からほど近い、現在、日本大学法学部のある場所にありました。すなわち私が本稿を書いている場所こそが、その跡地です。
講武所の名目上のトップは講武所奉行で、2人いました。その下で、実務上のトップは講武所頭取で、だいたい5人くらいが定員でした。講武所生みの親である男谷精一郎は当初からこの頭取の一人となっています。教育部門は4部門に分かれそれぞれに師範役などの教員が配属されました。砲術方師範役の一人として高島秋帆が招致されたのは、彼の能力を考えれば当然のことといえるでしょう。
職員数を見ると、人数が多いのが何といっても教員で、剣術方214名、鎗術方119名、砲術方173名、大砲方61名の計567名です。この他に講武所の事務局として講武所奉行支配取締役が設けられ、70名の職員が配置されました。更に掃除係や図書係も含めると、教職員総数は720名に達します。新設されたばかりの役所としては、幕府のそれまでの機構の常識からは信じられないほどの巨大組織であることが判ると思います。ここに始まる陸軍の整備事業というのが、海軍ほどではないにしても、人件費を中心に、莫大な国費を要する事業であることは間違いありません。
* * *
阿部正弘の国防政策は、全体としてみればもっともなことが多く、その結果、後の日本に大きな影響を与えました。しかし、こうした膨大な支出の増加につながる施策の実施を命じたのですから、当然、同時に何らかの大幅な収入増加策の導入を決定しなければならないはずです。そうでなければ幕府は破産して、自ら西洋の軍門に下らざるを得なくなるからです。
阿部正弘はどのような対応策を導入したのでしょうか。答は簡単です。何もしなかったのです。先のことは何も考えない。どうもこれがこの人の思考の特徴のようです。先に弘化元年の財政状況を紹介しました。簡単にいえば、借金をしまくり、貸金を回収し、そして金銀改鋳を実施することで収支のつじつまを合わせるというものでした。今後もそれで何とかなると高をくくっていたのかもしれません。名門の御曹司だけの持つ暢気さというものなのでしょうか。
嘉永7(1854)年正月16日、ペリーは再び浦賀沖にその姿を見せます。
ペリーは第1次訪日後のこの一年、米国には帰らず、香港に滞在していました。前回の訪問の際、幕府が黒船の存在そのものに強い衝撃を受けたことを見て取っていたペリーは、第2次訪日に向けて艦隊を増強しようと努力しました。ところが、米国ではペリーの出航後に、彼を派遣した共和党のフィルメア大統領に代わって、民主党のピアスが1853年3月に大統領に就任していました。民主党は、共和党に比べて外交政策が消極的であったため、ペリーの艦隊増強要請には応じてくれません。
しかもロシアのプチャーチンが4隻の艦隊を率いて上海におり、対日交渉を共同で行おうと申し入れてきました。単独で日本を開国させて、歴史に名を残そうという野心に燃えていたペリーはこれを拒絶しました。
ペリーとしては、本来ならもっと遅くなって、航海が楽な季候になってから日本に行くつもりでいました。が、このような内外情勢の変化から、ぐずぐずしてロシアなどに先を越されたり、最悪の場合には派遣中止となることをおそれて、急遽この新年早々という時期に日本にやってきたわけです。
この時、しかし、八方手を尽くして船をかき集めた結果、7隻と隻数だけは第1次訪日時の倍近くに増やすことに成功していました。第1次来航時の旗艦サスケハナ号に代えてペリーが座乗する艦としてポーハタン号(2415t、大砲数9門)が派遣されてきたのですが、ペリーは浦賀までは、わざとサスケハナ号をそのまま旗艦として来て、浦賀沖で旗艦をポーハタン号に変更するという手を使うことにより、サスケハナ号とポーハタン号の両方を浦賀に連れてくることに成功しました。蒸気船としては、この2隻に加えて第1次の時にも随伴してきたミシシッピ号がいました。これに帆走軍艦のマケドニアン号(1341t、大砲数20門)及びヴァンダリア号(770t、大砲数20門)を随伴させ、さらに軍艦でなくとも威嚇効果はあるとの判断からでしょう、帆走輸送船レキシントン号(691t、大砲数6門)及びサザンプトン号(567t、大砲数2門)まで連れてきたのです。悪天候のため、4隻の帆船のうち、サザンプトン号だけは自力で江戸湾に入りましたが、後3隻の帆船は、いずれも蒸気船に曳航されて入るというあまり格好の良くない来航でした。が、ペリーの計算は当たって、日本人はその数に威圧されたのでした。
幕府は何とか交渉を免れようとしました。が、ペリーは、ワシントンの誕生日を理由として、艦隊の全艦に礼砲を一斉射撃させるなど、徹底的に軍事力を誇示して威嚇した結果、幕府はそれに屈して、応接係として林大学頭(復斉)、井戸覚弘(さとひろ)など4名を送り、2月10日から日米交渉が神奈川で開始されました。林家は、朝鮮使節との応接などを担当する家柄ですから、幕府代表者のこの人選に、阿部正弘が、依然としてそういう近隣外交の延長線上でこの問題を捕らえていることがよくわかります。
ペリーは、交渉の開始を祝って礼砲を打つと称して、またも大砲を一斉射撃させたり、儀仗兵という名目で500人もの陸戦隊を上陸させて会場を取り巻くという調子で、徹底的に幕府側を恫喝しようとしました。
阿部政権としては、薪水・食料の補給・難破船員の送還等のための開国には応じ、長崎をそのための港とするが、通商は認めないという方針で交渉に臨みました。先に述べたとおり、通商はペリーとしては追加的な使命にすぎませんでしたから、その点で妥協するのには問題はありませんでした。しかし、ペリーとしては長崎では米国船の貿易ルートからはずれていて石炭補給基地として使用が困難なことから反対し、松前、浦賀、鹿児島、琉球(那覇)の開港を要求しました。幕府としては薩摩藩支配下にある鹿児島と琉球は論外なので、結局下田と函館を開港する線で妥協が成立した結果、3月3日に日米和親条約が締結されました。
その前文では、この条約の発効には天皇の勅許が必要である旨が宣言されています。こうした文言が入るあたり、阿部正弘には水戸斉昭同様、尊皇思想があったのかとも思われます。しかし、実際にはこの条約に関しては勅許は得ていません。
内容的には、第2条で下田と函館の両港で、米国船に対し、日本が調達できた限度で、薪水、食糧、石炭などを供給することとされました。しかし、第8条では、これはあくまでも日本国政府が行うものとされ、私的取引は禁じられました。したがって、この条約はあくまでも和親であって、通商条約ではないことがはっきりしています。
重要なのは第11条で、両国政府において、やむを得ない事情が生じたときは、合衆国官吏を下田におくことができるが、ただし、条約調印から18ヶ月以上経ってからでなければならない、としています。日本文だと官吏を下田に置くには両国政府の合意が必要となっているのですが、英文だと両国政府のうち一方の判断でおけるものと明確に書かれており、これに基づきハリスが安政3(1856)年7月に赴任してくることになります。
この違いが、翻訳上の誤りなのか、誰かの何らかの作為によるものなのかは判っていません。いずれにせよ、二つの正文の整合性を確保するのは、幕府オランダ語通事森山多吉郎の責任で、米国側ではありませんから、米国の悪意と見ることはできないでしょう。
なお、この条約成立後に、吉田寅次郎(松蔭)が米国に密航しようとして旗艦ポーハタン号に漕ぎ着けています。しかし、ペリーはせっかく条約締結に成功した直後であり、幕府との関係悪化をおそれてこれを拒否し、陸に送り返しました。これにより松蔭は国事犯として投獄され、後に安政の大獄で死刑にされることになります。
話が元に戻りますが、1851年に米国が日本を強引に開国させることに決めたことは、オランダが日本に知らせてくれたくらいですから、当然他の列強の知るところとなっていました。日本と直接国境を接する強国ロシアも、それに遅れをとるまいと、さっそく日本に開国を求める使節を送ることにします。これがプチャーチンでした。彼は、ペリーが最初に浦賀に来た翌月に、長崎港に入港して交渉を求めました。
こうした遠隔地での交渉の責任者は、この時点では当然海防係である川路聖謨です。しかし、前節に述べたとおり、江戸湾防衛計画をはじめとする一連の激務のため、彼は江戸を離れることができません。ようやく彼が長崎に到着したのはプチャーチン入港から5ヶ月も経った12月のことでした。
しかし、前述の通り、ほどなくクリミア戦争が勃発したため、交渉は中断。再開したのは翌年11月に下田でのことでした。この時には、すでに日米和親条約が締結されていますから、日本側として、同様の条約を締結すること自体は特に問題はありません。
問題は、日露の国境をどこに定めるか、という点でした。焦点はエトロフ島の帰属でしたが、川路聖謨の強力な主張が通って、日本領と認められました。今日における日露係争北方領土が、わが国固有の領土とするわが国の主張の根拠がこのとき明確にロシア側に認められたという点で、この和親条約は重要なものとなっています。
イギリスは、アヘン戦争により中国で巨大な利権を獲得するのに成功していたため、この時期においては、日本に対して特に関心を持っていませんでした。米国がペリーを派遣するという情報をキャッチしても「英国政府は日本と貿易が開かれるのを喜びとするが、それを合衆国政府に任せ、実験させるのがよいと思う。もしその実験が成功すれば、英国政府はその成功を利用することができるであろう」(外務大臣マームスベリの手紙)という程度の反応しか示しませんでした。
それでも清国に駐在するイギリス外交の責任者である貿易監督官は、ペリーが和親条約を締結したという情報をキャッチすると、早速日本と交渉に入ろうとします。が、この年の3月に、先に述べたようにクリミア戦争が勃発したため、イギリスとしては、ペリー艦隊のようなまとまった艦隊を自由に動かすことが不可能となったので、断念しました。
ところが偶然のことから、同年8月には日英和親条約が締結されることになります。
英国東インド艦隊司令官スターリングは、プチャーチンの軍艦が長崎港にいるという情報をキャッチし、これを拿捕するとともに、日本に対してクリミア戦争に対して中立の立場を守るように警告する目的から、閏7月15日、長崎に入港してきました。しかし前述の通り、プチャーチンの艦隊はその4ヶ月以上も前に長崎を去っていましたから、スターリングの使命は後者だけになったわけです。
この時、長崎奉行の重職にあったのは、これも阿部正弘によって抜擢されたエリート官僚の一人、水野忠徳(ただのり)でした。水野忠徳という名は天保の改革の担い手である水野忠邦とよく似ていますが、おなじ水野一族という以外は全く関係がありません。御家人の次男に生まれ、同じく御家人である水野家に養子に入った人物です。300俵取りといいますから、かなり軽輩の家柄です。しかし有能で、嘉永6(1853)年ペリー第1次来航時には、浦賀奉行にまで昇進しており、直接の責任者としてペリーに対応しました。ペリーが来年また来ると言って去っていった時、幕府としては次は長崎に来るようにと命じました。阿部正弘は、ペリーがその命令に従って次回は長崎に来るものと考え、それに対応させる目的で、浦賀での活躍を評価し、水野忠徳を抜擢して長崎に派遣したのです。
ところがペリーは第2次来航でも浦賀に直行してしまいましたから、水野忠徳としては肩透かしを食った形となり、腕を撫していたわけです。
そこに英国艦がやってきたものですから、忠徳は、英国も当然米国やオランダ同様に和親条約の締結を求めに来たものと思いこみ、老中にもその旨を報告して了解を取り、日英和親条約を締結したというわけです。8月22日のことでした。
この誤解は、英語=オランダ語=日本語という複雑な通訳の間に起きた誤りによっておきたとされています。が、江戸からの回答を待つための長い滞在期間中に、スターリングが繰り返し水野忠徳に来航の真意を説明しているにもかかわらず、水野忠徳が条約締結に突っ走ったことをみると、これは誤訳に基づく誤解というより、この機会にイギリスとも条約を締結しておいた方が、将来日本にとって有利になるという確信犯的行動ではなかったのか、と私は疑っています。
スターリングが条約交渉のために来たのではない、ということは日本ではその後も長く知られませんでした(1951年に出版された英国の研究者ビーズリーの研究書によってようやく知られるようになったのです)。したがって、忠徳は、この失敗にも関わらず、処罰されるどころか、かえって栄進して安政元(1854)年12月には勘定奉行に転じ、この後も幕府外交の第一線で活躍することになります。
実は、この時点では、英国としては、和親条約を締結するなら、艦隊を派遣して日本を威嚇することで、米国よりもっと有利な条約を締結したいと考えていました。しかしクリミア戦争が勃発してまとまった艦隊を日本に派遣することが不可能になったので断念していたことは前述の通りです。そこで、このスターリングが越権行為により締結してきた条約を正式に批准するかどうかは少々もめました。すなわち、清国駐在貿易監督官は批准に反対しました。が、外務大臣は検討の末、結局批准することに決定しました。
したがって、もしこの時日英和親条約を締結していなければ、日本は後になって英国の砲艦外交に直面していた可能性があります。そのことから考えて、水野忠徳がスターリングを相手に条約を締結したことは、結果として正しい選択だったといえそうです。
1852年に米国が日本にペリーを派遣するという情報をキャッチするとオランダ政府は、再度日本に開国勧告を行い、あわせて日本との第1号の条約を締結しようと決定します。この決定を受けて、長いこと日本に滞在し、日本の事情に詳しかったドイツ人シーボルトが、日本とオランダとの間に行われてきたそれまでの長崎会所を通じた貿易を拡充した形の通商条約案を起草しました。この条約案は、最後の長崎商館長として知られるドンケル=クルチウスJan Hendrik Donker=Curtiusが携えて嘉永5(1852)年に日本に渡りました。当然、ドンケル=クルチウスには、日本国駐在オランダ国領事官(後に締結された日蘭和親条約において採用された日本側の翻訳語)の称号の下に外交官として活動する権限が、予め授与されていました。
しかし、同年10月に阿部正弘は、今度の開国勧告及び条約案も受け入れないことを決定してしまいます。その結果、ペリーの来航を無策で迎えることになってしまうわけです。もし、オランダとの条約が事前に締結されていれば、ペリーはそれを叩き台に交渉しなければならなかったでしょうから、交渉の経緯もかなり違っていたはずです。ひいては、その後の日本の歴史そのものが大きく違ったはずで、まことに惜しまれる逸機でした。
先に紹介したとおり、第2次ペリー来航に対応する目的で長崎奉行として赴任してきた水野忠徳は、このドンケル=クルチウスに、今後の日本の防衛をいかになすべきかについて諮問しています。これに対してドンケル=クルチウスは、翌嘉永7年、すなわちペリーが二度目に来航した年に、長崎に入港してきたオランダ軍艦スンビン号艦長ファビウスの意見書を忠徳に取り次ぎました。
これは要するに、日本も海軍を創設すべきであり、そのためには軍艦を運航する士官や兵を育てるため海軍兵学校を作らねばならないが、オランダはその兵学校に力を貸す用意があるというものでした。
水野忠徳は、彼らしい綿密さで詳細な点まで何度となく問いただし、ファビウスの案を日本の国情にあうように修正した上で、この海軍創設計画を阿部正弘に上申します。阿部正弘はこれを裁可し、先に述べたように軍艦2隻をオランダに発注した上、海軍兵学校の創設を決めます。これが長崎伝習所です。この時の意思決定は阿部正弘にしては珍しく電光石火の早さですが、これはファビウスが回答を待ってオランダに出発するべく、長崎で待機していたためです。
ドンケル=クルチウスは、阿部正弘の迅速な決定を喜びながら、このチャンスを条約締結に活用しようと考え、長崎伝習所の教官を斡旋する前提条件としては、日蘭条約の締結が必要であることを力説します。阿部正弘もこれを受け入れ、交渉の結果、安政2(1855)年9月30日に、オランダとの間に和親条約が締結されました。
これは和親条約という名称ではありますが、それまで長崎を通じたオランダ貿易が行われてきた事を確認し、承認する内容を含んでいますから、事実上通商条約です。相手が永年の貿易相手国オランダですから、幕府としても通商条約の締結にあまり抵抗感がなかったのです。すなわち、オランダとの和親条約締結は、米英露に遅れて、一番最後に行われたわけですが、実際にはオランダは、一番最初に日本との通商条約の締結に成功したわけです。
同じ安政2年に、オランダ政府は、本国政府からの指令を持って長崎に戻った特務艦スンビン号を、そのまま日本に贈与しました。この船は観光丸と名付けられ、長崎伝習所の訓練艦となります。そして、スンビン号を日本に回航してきたペルス・ライケン艦長以下が、初代の伝習所教官となりました。
伝習所総督(すなわち所長)には、永井尚志(なおゆき)が就任しました。彼は、大給(おぎゅう)松平家の庶子として生まれ、旗本永井氏の養子となった人物です。吉宗の改革の後半のリード役として活躍し、吉宗引退の際、処罰された松平乗邑を思い出していただけるでしょうか。彼がやはり大給松平家の出身です。永井尚志はその家の庶子なのですから、阿部正弘の下のエリート官僚群の中では、ずば抜けた毛並みの良さです。したがって彼の登用は、抜擢人事とはいえません。徒士頭(かちがしら)から目付へとすすみ、安政元年から長崎勤務が命じられていました。目付の地位のまま、伝習所総督となったわけです。
長崎伝習所が正式に開校するのは、日蘭和親条約が正式に発効した安政2年10月22日のことです。オランダ政府はこの長崎伝習所の教官にはかなり人物を選りすぐったらしく、初代教官団長のライケンと2代目教官団長のカッテンディーケは、いずれも後にオランダの海軍大臣になっています。
なお、海軍軍人をこのように陸上の学校に集めて集中的に教育を行うという方式は、世界的に見ると1845年に米国のアナポリスの海軍兵学校に始まります。教官団を提供したオランダでもこの前年の1854年に始まったばかりの最新式のやり方で、この当時、世界一の海軍国であった英国では、まだ、いきなり船の上でオン・ザ・ジョブ方式で訓練していました。したがって、この長崎伝習所から数えれば、日本の海軍兵学校は世界でももっとも古い伝統を持つ海軍兵学校の一つということになります。
しかし、伝習所は革新的な教育を行いましたから、新規施策の多くはそれまでの幕府の伝統とぶつかることとなり、幕閣の許可を必要とします。ところが長崎は江戸から遠すぎて、幕府からの許可を得るのに大変な時間がかかり、なかなか思うように訓練をすることができないという問題が浮上しました。そこで幕府は江戸に同様の施設を作ることを決め、安政4(1857)年5月に築地に軍艦操練所を作りました。
初代総裁には、長崎伝習所総督をしていた永井尚志が呼び戻されて当たり、教官には長崎伝習所の卒業生やジョン・万次郎を当てました。これがうまくいったので、長崎伝習所は安政6年2月には廃止になりました。
阿部正弘に主導される幕府としては、和親条約は受け入れられても、通商条約まで受け入れるつもりは毛頭ありませんでした。しかし、米国は極東貿易における出遅れを取り戻す意味で、この時期になると是が非でも通商条約を締結したいと考えるようになりました。
そこで、先に説明した和親条約の11条における米正文に基づいて、条約締結後1年半が経過するや否や、米国は直ちにハリスTownsend Harrisを送り込んできたわけです。安政2(1856)年7月のことでした。
ハリスは、下田の玉泉寺という曹洞宗の寺院に総領事館を開設し、幕府と通商条約を結ぶべく交渉を始めます。彼が連れていたのは、日本側との交渉時の通訳とするため、米国で雇用してきたオランダ人のヒュースケンHenry Conrad Joannes Heuskenと中国人召使い5人で、護衛さえ連れずに単身赴任してきたのですから、剛胆という外はありません。
ハリスは元々アジア一円で活動していた貿易商人でした。それがペリーによる日本開国を聞き知って、自ら志願して在日初代領事となったのですから、アジアで自分一人で暮らすのには慣れていたのでしょう。
ハリスは、下田に着任すると早速下田奉行に面会して、閣老に宛てた手紙を差し出します。この下田奉行というのは、同一名称の職は以前にもありましたが、この時点のものは、日米和親条約に伴い下田が開港場になったことから、嘉永7(1854)年に新設されたもので、二人任命されました。その一人が前述の通り、川路聖謨の実弟である井上清直(きよなお)でした。井上清直は勘定吟味役だったのを、阿部正弘によりこの職に抜擢されたのです。また、ハリス到着時には、今一人の奉行は中村時万(ときかず)という人物でした。
阿部正弘は、その後の攘夷主義者達に少しも劣らない外国人嫌いでしたから、ハリスと直接交渉する役を、単なる出先機関にすぎない下田奉行に押しつけ、ハリスに対しても「下田奉行に両国の諸件弁理を委任したれば、たとえ重大の事といえども奉行へ申し聞けられ候わば、すなわち自分どもへ直ちに申し立て候も同様なれば、隔意なく奉行へ談話あるべし」と書簡を出しました。今日の言葉でいう特命全権大使に任命したということになります。
ハリスは、井上達が全権を与えられたのを幸いに、手始めに、先に締結されていた日米和親条約の執行命令的性格を持つ補完条約の締結交渉を始めました。遠国奉行という、幕府行政機構の中ではたかの知れた下僚でありながら、一国の命運を担う条約交渉を押しつけられたかわいそうな二人の奉行は、海千山千のハリスを相手に、その最善を尽くして努力しました。その結果、安政4(1857)年5月26日に、彼ら二人とハリスの間で、調印されたのが、いわゆる下田条約です。
今日では、本条約の補完的性格を持つ条約は、行政協定と呼ばれ、行政庁限りで締結可能であり、我が国でも、国会の承認は不要とされています。しかし、この下田条約は、かなり重要な点を含んでおり、彼らのような下僚に任せておいて良いような、単なる行政協定ではありませんでした。
少々くどいとは思いますが、その歴史的重要性と、それにも関わらず、従来の日本史ではほとんど無視されてきているということを考慮して、以下に逐条的に検討してみたいと思います。
A 第一条
この規定では、和親条約が開港を認めた下田と函館に加えて、長崎を米国船に対して開港することが定められていました。長崎は元々外国への窓であった町ですから、米国に対して開港してもさほど問題がないとはいえ、鎖国体制下での開港場の増加はやはりトップレベルの決断が必要な事項というべきでしょう。
B 第二条
ここでは、下田と函館での米国人の永住権を認めました。永住権が認められる以上、それを保護する領事の設置も必然です。そこで、函館に副領事を置くことも認めました。和親条約では下田にしか領事館設置を認めていなかったのですから、これもまた行政協定の枠を越えた規定といえます。
米国側は、これが簡単に認められたことに喜び、ハリスの通訳であるヒュースケンは、その著書『旅行記』の中で、「大勝利」という言葉を使ってこの条文について叙述しているほどです。実を言えば、米国ではこの条約調印に先行して、既に4月5日の時点でライスElischa E. Riceを貿易事務官の肩書きで送り込み、函館奉行堀利煕(としひろ)に米国大統領の国書を提出して在留を申し出ていたのです。ですから、下田条約で領事設置が正式に認められないと、ライスの身分が宙に浮くところだったのです。
C 第三条
しかし、この第三条に比べると、第一条や第二条は大した問題ではありません。第三条こそ、幕末における日本経済を破壊したとんでもない条項でした。
すなわち、同種同量の外国通貨は、同種の日本通貨と同一の価値を持つ、という規定です。つまり、外国金貨のわが国国内での価値は、その金貨に含まれている金の量の等しい日本の金貨と同じ価値があり、銀貨についても同様ということなのです。この、常識的には何の問題もなさそうな規定が、わが国幕末の経済を破壊し、財政を揺さぶることになるとは、この時点では、井上達にはもちろん予想できなかったことでした。
なお、ペリーは、1ドル=1分というレートを承認していたのですが、この規定に基づき計算すると、34.5セント=1分という事になりました。ただし、日本側が、米ドルを溶かして国内通貨に鋳直すためのコストを認めるべきだと主張し、ハリスはそのコストとして6%を認めました。外国通貨の両替商のない状況下で、後述する第五条で幕府が両替義務を負担することとなりましたから、たぶんハリスは両替手数料として理解したのでしょう。だから正確には36.57セント=1分ということになります。わずか一年半で、日本通貨の対外価値が一挙に約3分の1に下落したのです。
D 第四条
これは、幕末どころか、明治時代にまで影を落とすという意味で、三条よりもさらに重大な規定でした。すなわち米国人に治外法権を認め、彼らが日本国内で犯した犯罪については、米国領事に裁判権を承認したのです。
E 第五条
ここでは、米国船が日本の通貨を所持していないときは、幕府から日本通貨の供給が受けられ、それを商品で決済できるということがさだめられました。これは事実上、通商の承認に等しい機能を持ちますから、来るべき通商条約の先取り的性格を持つわけです。また、幕府側の通貨供給義務は、第三条のレート問題及び後述する第七条と絡んで、後に大変な紛糾を引き起こします。
F 第六条
この規定は、米国領事に、下田及び函館の周辺七里を越えての通行権を認めたものでした。しかし、ハリスはよほどのことがない限りこの権利を行使することはないと口頭で約束しており、したがって現実的重要性はあまりない規定でした。
しかし、この条約が、一般に公布された時に、世論がもっとも問題にしたのは本条でした。つまり、単純な攘夷思想に基づいて読む限り、これは神州である日本国内を外国人が自由に旅行する権利を認めたものと読めるからです。
G 第七条
この規定は、総領事及び領事館内居住者は、日本商人より直接品物を購入することができるとしていました。使用する通貨は、銀貨または銅貨としていました。確かに、領事館が日常の必要を満たすものを、一々日本側の手を煩わすのは馬鹿げていますから、これは理屈としてはどうということのない規定です。が、通貨両替制度のない状況下では、日本人商人は、米国ドルによる支払いを受け付けませんから、一分銀の供給を幕府側から受ける必要があります。それが第三条の問題と絡んで、大変な紛糾の種となりました。
* * *
条約交渉に当たり、井上達はハリスにだまされるのではないか、という恐怖から、条文ごとに事細かに審議してハリスを悩ませたといいます。しかし、このように結果として日本に不利な多数の条文を承認させられたということからみれば、所詮、海千山千の貿易商人であったハリスの敵ではなかった、ということになります。
安政4(1857)年6月4日にこの条約は公布されます。そして、世論は、先に述べたように、その内容の問題性よりも、攘夷思想的観点から一斉に非難を浴びせることになります。
この段階で、突然阿部正弘は死亡します。下田条約公布のわずか二週間後の6月17日のことでした。享年39歳。
死因は風邪をこじらせたものといわれています。まことにあっけない死でした。
八方美人的事なかれ主義で長期安定政権を築いたものの、突然におそってきた大波に幕府の舵を取り損ねて漂流させることとなった彼としては、おそらく、こうした内外の情勢が生みだした激しい心労に、身体の抵抗力を失っていたのでしょう。