第2章 堀田正睦と日米通商条約
阿部正弘の死去を受けて、揺れだした幕府の屋台骨を支えることになったのは、その時、筆頭老中の地位にあった堀田正睦(まさよし)です。彼は今の成田空港にほど近い、千葉県佐倉11万石の領主でした。
堀田家で有名人物というと、綱吉の治世初期に、大老として活躍し、天和の治といわれる一時代を築いた堀田正俊に、まず指を折るべきでしょう。彼の業績については江戸財政改革史の中で詳しく紹介しましたから、前から読んでくださっている方はご記憶と思います。
堀田家はその後、阿部家同様、譜代中の名門として何人かの老中を出しつつ幕末を迎えます。たとえば田沼意次の生涯を紹介した際に、その最初の重要な出来事として、老中本多正珍等、幕閣の有力人物が大量に処罰された美濃郡上藩の百姓一揆について紹介しましたが、そのとき、直接処罰を担当した老中は堀田正亮(まさすけ)です。堀田正睦は、この名門から出た最後の老中です。
彼は2回老中になり、2回とも失脚して終わっているという変わった履歴の持ち主です。最初に老中になったのは天保の改革の時で、天保12(1841)年に就任し、天保14(1843)年に忠邦の失脚に連座して、彼と一緒に罷免されています。そこで、その後しばらくの間は藩政に専念しました。彼は、水戸斉昭から蘭癖(らんぺき)があると悪口を言われたほどのオランダ好きで、蘭法医佐藤泰然(たいぜん)を招いて藩校と病院をかねた施設を建設し、順天堂と名付けています。これが後に今日の順天堂大学に発展します。
当然、根っからの積極的開国論者です。「国運を振張するの道は開国にあり、国力を増強するの策は通商にあり」との信念を持っていました。
阿部正弘は、一連の和親条約を結んだ際、水戸斉昭を幕政に参加させ、彼を通じて有力諸侯、特に島津斉彬(なりあきら)等との連携を深めていました。これに対して幕閣内からの反発が激しかったため、八方美人の正弘にしては珍しく強権を発動して松平乗全(のりよし)、松平忠固(ただもと)の二人の老中を安政2(1855)年8月に罷免しています。
しかし、それで批判がやむどころか、阿部正弘は、逆に譜代大名の中で完全な孤立状態に陥りました。当時、大名は江戸城中に、それぞれの格式に応じた控え室を有していましたが、中でも最も重要なのが、溜まりの間です。ここに詰めることができるのは、会津松平家、高松松平家など徳川一門の一部と、井伊家、酒井家、堀田家など譜代中の最有力の家柄に限られていました。溜まりの間詰めの諸侯は、通常の意味での行政権は有していませんでしたが、重大事には諮問を受けて答申する権利を有していました。したがって、ここを敵に回してしまうと、老中といえども自由に活動することが困難になるのです。
そこで、強権を発動したわずか2ヶ月後の安政2(1855)年10月に、阿部正弘は、堀田正睦を再び老中に就任させるとともに、老中首座の地位までも彼に譲ることにしたのです。これにより、溜まりの間との融和を計ろうとしたわけです。このあたり、八方美人の阿部正弘が、一人で右往左往している様が見えるようで、その性格上やむを得ないとは言いながら、気の毒になります。
とにかく、こうして阿部正弘が一人芝居を演じている間に、彼の幕閣内での影響力は着実に低下していきました。前章に述べたように、彼は非常にあっけない死を迎えるのですが、この経緯から見れば、死ななければ失脚していただけのことであったろうと思われます。
安政4(1857)年6月に阿部正弘が死去するとともに、堀田正睦は名実ともに幕閣の最高責任者となります。彼の履歴や信念からみて当然の事ながら、この政権交代により、幕府の対外方針は一変しました。
阿部正弘は、基本的には攘夷論者で、可能でありさえすれば家斉の異国船打払令を再び実施したいと願っていたほどの外国嫌いです。ペリーが来航した際にも、彼我の武力の圧倒的な落差を前に、薪水の供給などはやむを得ないとして承認したにしても、通商は絶対に拒否という方針で交渉に臨んだ事は前章で紹介しました。
これに対し、先に述べたように、堀田正睦は根っからの開国論者です。そこで、この前年、まだ阿部正弘が実質的には幕府政策を動かしていた安政3(1856)年10月の時点で既に、川路聖謨や大久保忠寛、水野忠徳、岩瀬忠震(ただなり)などのブレーンサークルに対して、「近来、外国の事情もこれあり、この上貿易の儀御差し許し相成るべき儀もこれあるべきにつき、右取り調べ致すべし」と命じて調査・検討させています。
したがって、堀田正睦が名実ともに幕閣の筆頭にのし上がった時点では、当然、幕閣全体をその新年の方向に引っ張っていこうとする意欲に燃えていたことでしょう。
ハリスは、着任後、ねばり強く対幕交渉を行っています。ハリスは、確かに下田駐在の総領事に違いありません。が、それと同時に、米国大統領から通商を求める国書を携帯してきている特命大使でもあります。今日の国際慣行においても、一国の元首からの国書は、当然相手国の元首に大使自身が奉呈すべき性格のものです。そこでハリスは、国書は下田奉行に提出すればよいとする幕府側の提案を跳ね返し、江戸に自ら出府して、将軍に対して国書を奉呈し、老中と直接交渉することを主張してやみません。
彼の交渉手法は、文字通り、脅したりすかしたりの両面作戦です。
脅し文句は、交渉に応じないと、米国艦隊が来て、火力により条約を取り付ける、というものです。ペリー艦隊の端倪すべからざる偉容をみている幕府にとっては、これは大変効き目があります。
すかし文句は二つあります。
その一つ目は、米国は日本に好意的なのでこの程度の要求で済んでいるが、イギリスが来たらこんなものでは済まないので、今のうちに米国との間で有利な条約を取り交わし、それをたたき台にする方式で対英交渉に臨めば有利な立場に立てるというものです。これも、アヘン戦争における清国の厳しい状況を承知している幕府にとっては、非常に効果のある文句です。
今ひとつは、幕府は貿易を独占することにより、諸侯に対して財政的に圧倒的に有利な立場に立てる、というものです。幕府の悲惨な財政状況をどの程度ハリスが承知していたのかは、よくわかりません。しかし、鎖国とは、長崎貿易を幕府が独占することにより莫大な利益を上げるという形態の通商形態をいう、ということは、ハリスはよく知っていたはずです。したがって、これもまた非常に説得力のあった論理でした。
この時、ハリスに追い風が吹きました。故国から手紙を運んで蒸気フリゲート艦ポーツマス号がやってきたのです。そこで、ハリスはこの機を捉えて、有名無実の全権である下田奉行と話をしても埒があかないのであれば、ポーツマス号に乗って直接江戸に行き、老中と会談すると井上清直を恫喝しました。
先に述べたとおり、堀田正睦は元々開国貿易派です。この機を捉えて閣議を統一することに成功し、幕府としてハリスの出府を許可する決定を下すことに成功します。
もちろん根っからの攘夷派である水戸斉昭が、このような決定に賛同するわけがありません。彼は怒って海防参与の辞表をたたきつけます。また、尊皇論者として自分の行動を天皇に対して説明する必要を感じたのでしょう、「亜国官吏の外夷出府登城を許し、夷情切迫につき存じ寄り申上げ候」と題する建白書を朝廷に提出しています。
譜代の名門の一人として、堀田正睦は水戸家が幕政に参画するという前例を無視した処置を苦々しく思っていたでしょう。だから、本音のところは喜々としてその辞表を受け取りたかったことでしょう。しかし、彼も政治家で、斉昭が下野することの持つ政治的危険性は十分承知していますから、将軍家を通じて一応慰留しようというポーズは見せています。
こうして閣内の邪魔者一掃に成功した堀田正睦は、ようやく正式にハリスに対して出府を許可することができました。ハリスは10月7日に下田を出発し、14日に江戸について、宿舎と定められた蕃書調所(ばんしょしらべしょ)に入ります。
蕃書とはすさまじい言い方ですが、オランダの書物を中心とする外国書籍を意味する当時の言葉です。もと幕府天文方に設置されていた蕃書和解御用(ばんしょわけごよう)を安政2(1855)年に独立の機関に発展させて洋学所と名付けましたが、翌安政3年にさらに蕃書調所と改名したもので、洋学研究所兼外交文書翻訳局というべきものです。さらに、このハリスが泊まった安政4(1857)年からは外国語教育も行うようになっています。要するに、外国人に対する接遇能力を持つ唯一の機関であったため、ここがハリスの宿舎とされたわけです。
ハリスは19日に堀田正睦と面会して国書の写しとそのオランダ語訳を提出します。21日に江戸城に登城して国書を奉呈しました。これで、一応出府の目的は達成されました。
しかし、これだけでは通商条約調印に向けて前進したことには、ほとんどなりません。そこでハリスは26日に再度堀田正睦を訪れ、延々6時間にわたって日本の開国の必要性を演説したといいます。もっとも、彼の英語をヒュースケンがオランダ語に訳し、それをさらに幕府オランダ語通事の森山多吉郎と名村常之介が日本語に訳するわけですから、実質的に話した時間は2時間という計算になります。それでも大演説には違いありません。堀田正睦だけでなく、川路聖謨、井上清直、岩瀬忠震、永井尚志、水野忠徳など堀田正睦のブレーンサークルは全員が参加してこの演説を聞いたようです。
演説の内容は、上述した脅し文句とすかし文句を集約したものでした。特に英国を、日本にも阿片を輸出しようとしていると非難して、米国の友好政策の宣伝に務めていることが注目されます。さらに、経済学の初歩や西欧における商業規則の初歩を講義しました。
堀田正睦は、先に述べたように、この時点では幕府主導による開国・貿易を実施することに腹を固めていましたから、別にハリスの演説によって考えを変えたりしたわけではありません。既定の方針に従い、この後、直ちに通商条約の細部検討にはいることを決意します。しかし、幕閣の中では筆頭老中といえども同等者中の第一人者であるに過ぎません。他の老中の説得には時間が掛かりました。
上記の演説後、1ヶ月経ってもなお国書に対する回答に接することができなかったハリスは、11月25日に来訪した井上清直にきわめて脅迫的な言辞を用いて回答を督促しました。そこで、12月2日になって、堀田自身が直接ハリスに会い、交渉に入ることを告げました。
A 日本側の担当者
堀田正睦には、井上清直のような下僚に交渉の全責任を押しつけた阿部正弘のやり方が不当なことは判っていました。しかし、もちろん交渉の途中から担当者を全面的に変更することは好ましくありません。そこで、井上清直は引き続き交渉に当たることにしましたが、このほかに、当時目付の地位にいた岩瀬忠震(ただなり)を新たに全権に任命して交渉に当たらせることにしました。
結果的に見ると、この岩瀬忠震を主席する人事は失敗だったといわざるを得ません。岩瀬忠震は有能という評判の高い人ですが、通商というものの本質を把握しておらず、下田条約よりさらにわが国に不利な条約を、自ら求めるようにしてまとめてしまうからです。
B 米国のスタンス
交渉は12月4日から始まりました。岩瀬忠震等は、当初、オランダと締結したのと同様の、従来の会所貿易を拡大した形で通商条約を締結しようとしました。しかし、ハリスは、それはペリーの結んだ神奈川条約第9条の最恵国待遇規定から、既に米国も享受できることになっている、と一蹴しました。その結果、交渉形式は、ハリスの用意した条約案の文言に対して岩瀬忠震が質問し、これにハリスが答えるという形で行われました。
ここで我々が注意しておかねばならないことは、この当時は、欧米にとり、アヘン戦争に象徴されるように、むき出しの力による帝国主義的進出の時代だったということです。
米国も、この直前の時期に、対メキシコ戦争によりカリフォルニアを奪い取っていることに示されるとおり、決してその例外ではなく、アジアにおける帝国主義的進出のチャンスをうかがっていたのです。少し後の1898年には、スペイン領だったキューバが独立しようとしたのを支援するという名目でスペインと戦争をして、フィリピン及びグアム島を奪い取り、その際、独立を求めるフィリピン人の大虐殺をやっています。同じ年には、ハワイ王家を陰惨な手段で滅ぼし、ハワイ諸島も併合しています。
したがって、その米国の利益を代表するハリスもまた、堀田正睦に対する大演説で幕閣に思わせようとしたほどの博愛主義的な人物ではありませんでした。彼の用意した条約案は、天津条約ほどにはわが国に屈辱的な内容でないまでも、一方的に米国に有利な内容のものでした。すなわち、ハリスは、自由貿易の名の下に、日本側の無知につけ込んで列強がアジア諸国に強いたのと同じ不平等条約へと誘導したのでした。
岩瀬忠震と井上清直は、決してハリスの条約案を丸飲みにしたのではありません。条約内容の重要性に鑑み、下田条約にもまして粘り強く交渉を進めました。ハリスも二人の粘り強さに閉口し、当初案に比べるとかなりの後退を余儀なくされたということです。その結果、アメリカ人の日本国内自由旅行権を否定したことこと等、その交渉において、一定の成果を収めたことは事実です。
この条約交渉に当たって、最大の問題は、下田条約において既にハリスに承認済みの権利、すなわち金銀の等価交換や領事裁判権については、一議に及ばず承認している点にあります。
A 通貨に関する規定
岩瀬は、通貨交渉に当たってとんでもない失敗をしています。下田条約の締結に当たって井上が苦労して獲得した6%の改鋳手数料について「冗雑之手数」を省く目的から放棄するといいだしたのです。これには、相手方のハリスさえも唖然とさせ、説得に努めたほどです。
そもそも岩瀬は、なぜか銀の含有量という概念が理解できず、洋銀1個と一分銀3個を等価交換するのは、1対3の割合でわが国に不利だという素朴きわまる発想から、内外貨の交換を回避しようとしたのです。しかし、自由貿易体制の下で、内外貨の交換をしようとしなければ、いやでも外国通貨の国内流通を認め、かつ、日本通貨の輸出を認める必要があります。そうでなければ、貿易は不可能です。
そこで、ハリスの説得に対して、さらに日本の通貨の自由輸出を許可し、また外貨はすべて日本国内で自由に通用されるべき事を宣言してハリスを驚かせることになります。ここにわが国幕末期の経済を大混乱に陥れる馬鹿馬鹿しい規定が誕生することになるのです。
B 領事裁判権
この条約が不平等条約とされる最大のポイントは第6条にあります。すなわちアメリカ人のおかした刑事事件については米国領事に裁判権があり、また、民事事件についても領事に裁判権がある、というのです。これについては、典型的な治外法権とは規定の仕方が違っているため、治外法権を認めたわけではない、と岩瀬忠震を擁護する説もあります。が、ハリス自身が「第6条は日本にあるすべてのアメリカ人に治外法権を設定したものである」と述べていますから、その説は妥当しません。これは下田条約にあったものですから、岩瀬忠震・井上清直両人とも全く問題にせず、承認しています。
C 関税自主権
今ひとつの不平等条約の柱が関税率の自主決定権の否定です。第4条は、輸出入品は所定の関税を日本政府に納めると定めているだけです。が、条約付属の「貿易章程Trade Regulation」では、輸出税はすべて5%とされました。ハリスは密貿易を助長するとして輸出については無税を主張したのですが、幕府の持つ歳入確保の強い要求から、一律課税という線で妥結したのです。
輸入税については、日本側が一律12.5%を主張したのに対して、ハリスは無税も含めて4段階に区分することを主張し、彼の主張が通りました。すなわち、日本に居住するアメリカ人に欠かすことのできない家具や書籍については無税としました。5%の税率の対象品は、日本にとり必需品と認識されたものです。すなわち船舶、捕鯨用品、米国、石炭、蒸気機械等がこれに当たります。最高税率の35%の対象品は、なくとも良い贅沢品と認識されたものです。これに当たるのは酒類だけです。必需品と贅沢品のどちらにも属さないものが、20%関税の対象品とされたのです。
このように、この税率の違いは日本の利益を考えて決められたような印象を与えます。しかし、ハリスの本音によれば、「米国の貿易は5%の関税にとどまるのに対して、日本政府に多額の関税収入を提供するため、英国の製品については20%に、フランスの葡萄酒については35%」にするという形で決めた、というものであるようです。
要するに、ハリスは、日本から米国への輸出を重視し、日本への米国からの輸入は、念頭に置いていなかったということです。当時、米国の極東貿易は、茶を中心とする米国への輸出にあったので、その輸出関税率を低く押さえようとしたのです。それに対して、米国の国内製造業は未だ国内需要を満たすほどにもなっておらず、従って日本の国内市場を販路として欲していなかったということが判ります。そこで、日本を販路として希望しそうな英仏の邪魔をすることだけを狙って、一般輸入品については、かなりの高率関税率を定めておいたというわけです。
D 開港・開市場
交渉に当たり、もっとも問題になったのは第3条でした。すなわち、開港場及び開市場を定めた規定です。日本側としては現状にとどめたかったのに対して、ハリスとしてはこれこそが自由貿易の眼目ですから、大幅に拡大したかったのです。ハリス自身の表現によれば、条約のセバストポリSebastopol of Treatyと呼ぶほどにハリスはこれを重視していました。セバストポリというのはクリミヤ半島の要衝の地にある要塞で、クリミヤ戦争の激戦地となったところです。
激論の末、結局、開港場として、日米和親条約で承認済みの下田、函館のほかに、神奈川、長崎、新潟、兵庫の4港を追加し、開市場として江戸及び大阪を承認するという形で決着が付きました。
このうち、長崎は昔からの開港場で問題がないので、神奈川とともに、最初に開港されることとされました。すなわち、西暦1859年7月4日です。これは日本歴では安政6年6月5日に相当します。条約正文では西暦で定めており、日本の年号は入っていません。ハリスがいかに優位的に条約交渉をしたのかが良く判ります。なお、下田は、神奈川の最寄りにあるということから、神奈川の開港後半年で閉鎖されることになりました。
又、新潟も、実質的には外国との密貿易拠点として栄えていたため幕府の直轄地とされた町だったのであまり問題はないことから、神奈川・長崎開港の約半年後の西暦1860年1月1日から、開港することとしました。江戸の開市場は、1862年1月1日からとされました。
これに対して、兵庫及び大阪は、京都に対して至近距離にあるため、朝廷に対する説得の時間を確保するため、いずれも1863年1月1日からとされました。実際、朝廷が大変な拒絶反応を示した事で、後に大問題になりました。
E 輸出入品価格決定権
このように、ほとんどの条項で、岩瀬達は不利な条文を飲まされています。これに対して、岩瀬達が勝ち得た最大の勝利は、輸出入品の価格決定権は日本側にあるとされた点です。すなわち、日本の税官吏が荷主の付けた価格に同意しないときは、税官吏自らそれに値を付け、その品物の買い入れを申し込むことができ、もし荷主がこれを拒むときは、荷主は税官吏の付けた価格に従って関税を納付することと決められたのです。
* * *
ハリスと、岩瀬忠震=井上清直の交渉は合計14回に及びました。年も押し詰まった12月25日になってようやく条約案が完成しました。
日米修好通商条約案の完成に先行して、12月15日付で、堀田正睦は次のような台命(たいめい=将軍の命令)を発しました。
「今日世界の形成は戦国七雄の姿なり、古来の制度に拘泥しては御国勢挽回の期なきを以て、非常の功を非常の時に望み、国威を拡張するの機会を得んと欲し、鎖国の制度を一変せしめんとの思し召しなれども、御国内人心の折り合い方もこれあり、今日のご処置の当否は国家治乱の境なれば、心づき候儀は早速に申し上ぐるべし」
前半は、要するにこの際鎖国を廃止するという単純明快な決断を示しています。ところが、後半に来て、腰砕けになり、諸侯に意見の具申を求めています。このあたり、阿部正弘と同じく、八方美人路線が依然として健在のようです。というより、阿部正弘の八方美人路線がこの時期においては既成事実化し、その後継者としては、いやでもその路線を踏襲せねばならないところがあったようです。
しかし、このように従来の方針を一変し、しかもその本音は、貿易利潤は諸侯には与えず、幕府が独占することにより、幕府だけが財政回復をしようというものなのですから、諸侯の賛同を得られるわけがありません。このようなものは、後の井伊大老のように、頭ごなしに申し渡し、抵抗するものは弾圧する外はないものなのです。
案の定、条約締結に対する批難が囂々と巻き起こりました。もっとも、例によって本質を捉えた反対意見ではなく、攘夷思想に基づくものや、外国人は切支丹の魔法を使うと考えるもの、和議を是といえば、怯懦と嗤われるのではないかという怯懦からのものなど様々ですが、とにかく賛成論は諸侯からほとんどでてきませんでした。わずかな例外は、松平慶永や島津斉彬など、四賢公といわれる人たちだけでした。
さらに、水戸家がお家芸の朝廷工作を猛然と展開して、京都の公家達を扇動しているというので、堀田正睦達幕閣の首脳部はすっかり頭を抱えてしまいました。このまま放置しておいたならば、先に行って京都からあれこれ口を入れられるかもしれない、それよりはこちらから先に上奏して同意を求めるのが一番、という結論になり、軽率にも調印伺いを行おうということになりました。
そこでまず林大学頭などを派遣して報告しようとします。ところが、「条約は日本の安危に関わる大事なるに、幕府が林の如き小吏を以て勅許を請わしめたるは、朝廷を軽んじ奉るの所為なり」と逆に大変な反発を受けてしまいます。
そこで、翌年2月、堀田正睦は、川路聖謨や岩瀬忠震を伴って上京し、9日に参内して日米通商条約草案を示し、また、将軍家定より孝明天皇宛に黄金50枚を奉呈し、これで勅許が得られると考えていました。
これは決して甘い考えではありません。幕府が、原則として将軍が表にでて政治をすることはなく、老中に任されているのと同じように、朝廷では天皇が表に立って意思表示をすることはなく、五摂家(近衛家、鷹司(たかつかさ)家、九条家、二条家、一条家)が摂政なり関白なりの地位にあって、朝廷の意思を決定していたのです。朝廷の方が伝統が古いだけに、この原則はより強く遵守されていました。そして太閤鷹司正通(まさみち)も関白九条尚忠(ひさただ)も、世界の情勢が一変している以上、通商条約の調印はやむを得ない、と考えていました。ですから、普通ならすんなりと勅許は降りたはずなのです。
ところが、ここで大変な逆転劇が起こりました。孝明天皇自身が、数百年の伝統を破って口を開き、条約への反対を唱えたのです。
なぜ孝明天皇が反対したのか、その理由は今日に至るも判っていません。一説によると、孝明天皇の血筋は天皇家の中でも傍流に属し、歴代天皇に比して弱い立場にあったことから、発言権確保の機会を狙っていたのだといわれます。理由はともあれ、天皇は猛然と条約反対を唱えます。
しかし、実力者である九条関白は、天皇の反対を黙殺して、規定方針通り勅許を下そうとしました。これに対し、天皇は五摂家を飛び越えて直接下級公家と結びつき、反対運動を展開しました。天皇の意思がこのように外部に漏れ出てしまっては五摂家といえども打つ手はありません。この結果、23日になってでた勅は、御三家以下の諸侯の意見を得てから改めて勅許を請えという内容のものとなりました。
御三家の一つ、水戸家が開国に大反対であることは判り切っており、また、先に述べたとおり、諸侯に賛成意見がないこともまた既に判っています。したがって、これは不許可というのに等しいわけです。そうした状況に対する起死回生の一手として勅許を得ようとしたのに、それが完全に裏目とでたわけです。
川路聖謨は、以前に奈良奉行をしていましたし、また、勘定奉行として、嘉永6(1854)年4月に皇居が焼けた際の修復工事を手がけていましたから、それらの時に培った人脈を生かして奔走を始めました。わずか20日ほどの間に数万両の小判をばらまいたといいます。しかし、3月11日になって天皇と結びついた88名の下級公家が、条約反対のデモ行進をするに及び、断念して、江戸に帰らざるを得なくなりました。なお、この88名の下級公家の一人に岩倉具視がいます。彼が歴史の上に登場してきた最初の機会でした。
話が少々過去に遡ります。ペリー来航の直後に将軍家慶が死去し、それに伴い家定が将軍位についたことは前章に述べました。問題は、この家定が、およそ暗愚で、ものの役に立たないことです。普通の時代であれば、暗愚で何もしない将軍はよい将軍とされます。老中が補佐すると称して自在に政治を司ることができるからです。
しかしながら、なにぶん非常事態です。老中が処理するにも限度があります。誰が考えても、強力な将軍が出現して、リーダーシップを取ってもらわなくては幕府が崩壊しかねないことは判り切っています。幸い?家定は暗愚なだけでなく、病弱で、しかも、男性機能そのものに問題があるので、将来ともに子供ができないことは、当時既に広く知れ渡っていました。つまり、普通であれば廃嫡されて不思議ではなかった人物なのです。
それが廃嫡されなかったのは、ひとえに彼の他に家慶の血を引く男子がいなかったからでした。家慶には実に14男13女があったのですが、皆早くに病死し、男子で成人するまで生き延びたのは、この家定一人だけだったのです。
A 養君の候補者達
家定の将軍就任直後から、以上のような事情から、養君、つまり養子を早く家定に取らねばならない、という議論が巻き起こります。幕府の法律によれば、養君なりうるのは御三卿及び御三家の当主だけです。この当時清水家は当主がいませんでしたから、候補は5人でした。
日米通商条約に対する勅許が得られなかった安政5(1858)年時点で年齢順に見ると、尾張慶恕(よしくみ)35歳、田安慶頼(よしより)31歳、水戸慶篤(よしあつ)27歳、一橋慶喜(よしのぶ)22歳、紀伊慶福(よしとみ)13歳です。皆「慶」の字がついているのは、将軍家慶のいみなを一字拝領しているためです。
このうち、尾張慶恕は、養父となるべき家定と同い年ですから、養君とするのには少々無理があります。田安慶頼は、実の兄の松平慶永が「俗中のもっとも俗人というべきなり」と酷評するような人物ですから、およそ支持者がありません。同じく、水戸慶篤は、実の父の斉昭が暗愚扱いしているのですから、やはり支持者がいません。
したがって、養君候補と目されたのは、水戸斉昭の息子、一橋慶喜(よしのぶ)と、紀州家の当主徳川慶福(よしとみ)の二人だけ、ということになります。
B 一橋慶喜と徳川慶福の優劣
一橋家には、かつて、田沼意次を失脚させ、ついで松平定信を辞任に追い込んだ一橋治済(はるさだ)という怪物がいました。彼は、将軍家斉を筆頭に、各方面に自分の子供を送り込み、徳川一門を事実上自分の子供や孫だけで支配するほどの勢いを示していたことは、江戸財政改革史でも紹介しました。
しかし、一橋宗家そのものは、その孫の代で絶えます。そこで、そこで田安家から治済の傍系の孫を養子を迎えますが、やはり継嗣に恵まれません。そこで将軍家慶の五男初之丞が跡を継ぎます。家慶自身が治済の孫ですから、これは治済の曾孫ということになります。
なお、この初之丞に、幼き日の勝義邦(海舟)が小姓として仕えました。しかし、初之丞もまたわずか14歳で早世します。このことについて勝海舟は、晩年、俺は青雲の階梯を踏み外した、と言ったそうです。
そこで、一橋家では、さらに再び田安家や、さらに紀州家から治済に血のつながる子供を養子に取りますが、いずれも皆早世し、明け御屋形(あけおやかた=当主不在の意味)となってしまいました。
将軍家慶は、自分の嫡男の家定が暗愚で将軍職がつとまる器ではなく、したがって自分が死ねば、早晩養君の問題が起こることは、十分に承知していました。その場合、治済以来、事実上御三卿の筆頭の地位にある一橋家は重大ですから、明け御屋形となっているのは好ましくないと考えました。
そこで、治済の血統にこだわらずに徳川一門を見回した場合、その時点では、養子に出せるほどの子福者は水戸斉昭しかいませんでした。そして、その子供の中でもっとも器量が大きいと評判なのが、七男の慶喜でした。斉昭としては、暗愚な当主慶篤に何かあった場合の世継ぎ候補として慶喜を考えていましたから、降るようにあった養子の話を断って水戸家に残しておいたのです。
そこで、家慶は将軍家尊慮という形で斉昭の抵抗を排除し、一橋家を継がせたのです。弘化4(1847)年8月のことです。つまり、斉昭は部分復権はしたものの、本格復権は認められていなかった時点のことです。慶喜は、家慶に非常にかわいがられ、彼の存命中は事実上将軍後嗣扱いされていました。
今一人の候補者である紀州家当主徳川慶福(よしとみ)は将軍家斉の実の孫であり、したがって家慶からみれば血の繋がった従兄弟です。すなわち家斉の子斉順(なりより)は、いったん清水家を継ぎ、その後紀州家に養子に入っていますが、慶福は、その斉順の子供なのです。
将軍家の後継者は、建前としては、まず御三卿から出し、御三卿に人がいない場合には御三家から出すということになっています。したがって、このルールに従えば一橋慶喜が一番有利です。
他方、徳川宗家との血の近さという点からいえば家康まで10数代も遡らなければ、将軍家と血縁が繋がらない一橋慶喜よりも、実の従兄弟である紀伊慶福の方が、はるかに有利ということになります。つまり、家格対血筋の争いです。
不幸なことに、養君問題は、単なる後継者争いの域を超えた政治問題になってしまい、二派に分かれての激しい争いを引き起こしてしまいました。その派閥は、慶喜を支持するのが一橋派、慶福を支持するのが紀州派と呼ばれました。
A 一橋派
養君問題について、最初に動き出したのは松平慶永です。彼は一橋慶喜が人物と見て、1856年の時点で既に、その擁立に向けて運動を開始します。彼の盟友島津斉彬もこれに賛同し、慶喜の父斉昭も異存のあるはずはありません。すなわち、従来、阿部正弘を支援してきた有力諸侯が、今回は慶喜を支持するという形で運動が展開されることになります。尾張家も、御三家や有力諸侯に政治的発言権が認められる方が、自家にとってもよいと考えて、これに同調しました。つまり、御三家が、紀州家と水戸・尾張連合に分かれて対立することになったわけです。
有力諸侯達が慶喜を押す場合のキャッチフレーズは、「英明、年長、人望」の三点です。すなわち、非常の場合であるので、幼年の養君は好ましくない、十分な判断力があり人望のある成長した養君が好ましい、というものです。つまり、この派の場合、家定の養君というのは名ばかりで、それが決まれば、家定には圧力をかけてすぐに隠居をさせ、新将軍に切り替えようという話であることは明々白々といえます。
しかし、こうした支持勢力は、慶喜から見ればはっきり言って迷惑といえるでしょう。リーダーシップのとれる強力な将軍家は、当然独裁をするべきなのです。それなのに、このような諸侯の支持の上に立って将軍位についた場合には、将軍の権力を大幅に削減する雄藩連合の形で政局を運営せざるを得ないからです。
かなり後のことになりますが、慶喜は酒に酔った上で、松平慶永、島津久光、それに宇和島藩主伊達宗城という彼の大事な支持者達に対し、面と向かって、天下の大愚物、大奸物と悪罵を放って、彼らを激怒させています。いかに慶喜が、彼らに擁立されるのを嫌っていたのかが判ると思います。そこで、慶喜本人は、この時期、再三にわたって後嗣辞退を幕閣に申し出ています。
B 紀州派
この問題に対する将軍家定の意見は単純です。慶喜は嫌いだ、慶福は我が子のようでかわいい、というのです。家定は先に述べたように1824年生まれ。これに対して一橋慶喜は1837年生まれですから、一回りほど慶喜の方が若いことになりますが、既に立派な青年です。家定がいくら暗愚でも、慶喜が養君ということになれば、あっという間に自分は引退させられるということくらいは理解できます。これに対して、慶福は1846年生まれですから、家定とは二回り近く違い、親子といっても不自然でない年齢差です。かわいいというのは本音でしょう。
幕閣も紀伊慶福支持でほぼ固まっています。水戸斉昭と衝突して、阿部正弘から老中を罷免された松平忠固を、堀田正睦は、阿部正弘が死亡するとさっそく老中に復帰させ、勝手係、すなわち大蔵大臣に就任させています。忠固が、斉昭の子、慶喜を支持するわけがありません。堀田正睦もやはり斉昭は嫌いですから、同意見です。
溜まりの間においても、その最有力者、井伊直弼は徹底した血統主義者ですから、家斉の実の孫の慶福を是と考えるのは当然です。
また、徳川家の政治ファクターにおける隠れた大勢力である大奥では、この当時は家定の生母が君臨していました。彼女は、母親として当然の事ながら、実の孫の生まれるのを期待していましたから、養子を取ることには好意的ではありません。ましてや慶喜のように、息子家定の引退含みの養子には絶対に反対でした。
島津斉彬は娘の篤子を通じて大奥工作を試みます。家定没後に出家して天璋院と号するようになった彼女は、姑として、嫁の皇女和宮をいびり抜いて勇名をはせます。が、この時点では、処女妻にすぎない彼女に、大奥の状況を左右するほどの力はありませんでした。
結局、幕府内部における一橋慶喜擁立派の支持勢力は、阿部正弘が抜擢した川路聖謨や岩瀬忠震らのエリート官僚達だけでした。彼らは、日々現場で困難な対外交渉に当たっているのですから、こうした時代におけるリーダーシップの欠如による被害を誰より痛切に受けていました。ですから、わずか13歳の子供の将軍ではなく、22歳の青年の将軍を望んだのも無理はありません。しかし、この時点では、まだ彼らの意見は、幕閣を動かすほどの力はありませんでした。
したがって、普通であれば、すんなりと慶福に決まるはずです。そこで、一橋慶喜擁立派は、最後の手段を使うことにしました。すなわち詔勅を得て、慶喜を将軍にしようとはかり、彼ら得意の京都工作を展開します。しかし、彦根藩主井伊直弼の逆工作の前にその謀略は潰えました。
C 堀田正睦の寝返り
ここで将軍後嗣問題にとんでもないどんでん返しが起こりかけます。前節に述べたとおり、堀田正睦は日米通商条約について勅許を得るために上京していましたが、3月11日の公家のデモに、あきらめて江戸に帰ることにしました。
ところが、この段階になって突然、堀田正睦が慶喜擁立派に宗旨替えをしたのです。理由は単純で、尊皇攘夷で知られる水戸家の御曹司を将軍にし、また一橋慶喜擁立派の重鎮、松平慶永を大老ということにすれば、朝廷も軟化し、条約に対して勅許が得られるのではないか、と考えたからです。おそらく、対朝廷工作の中で、そのような印象を与えられたのでしょう。江戸帰着の二日後、堀田正睦は家定に謁して、慶永を大老に就任させることを進言します。
しかし、これは手遅れでした。堀田正睦のいない間に、紀州派は、一橋派の京都での暗躍を察知し、堀田正睦の寝返りを予想して対策を講じていました。それが伊直弼の大老就任です。これについて既に家定の了解を取っていました。したがって、家定は、堀田正睦の言上を、大老になるのは、井伊家に決まっている、と一言ではねつけます。そして、その翌日、井伊直弼を正式に大老に就任させました。その結果、将軍後嗣は紀伊慶福ということに自動的に決まってしまいました。
堀田正睦はその後、少しの間、老中の座にとどまります。しかし、井伊直弼は、この年6月19日に勅許がとれないままに、日米通商条約調印を断行しました。その上で、勅許を得ずに条約を調印した責任者という形で、堀田正睦と松平忠固二人は、同月22日に登城停止の処分を与えられます。そして、翌23日には老中職を罷免され、蟄居を命じられました。これは、彼らのどちらにとっても、二度目の失脚というわけです。
しかし、堀田正睦の真の失脚原因は、将軍後嗣問題に当たって、紀州派から一橋派に寝返ったことにあるといわれています。その意味では忠固の失脚は、堀田正睦の巻き添えということもできるでしょう。
堀田正睦は、そのまま二度と世に出ることなく、失意のうちに元治元(1864)年に死去することになります。
ここで本稿としての問題は、堀田正睦は、彼が責任者であった時代の財政をどのようにやりくりしていたか、という点です。彼の時代の財政の全体規模については判っていませんから、どこにどれだけ使用したのか自体が判りません。
しかし、台場工事にも着工していましたし、対朝廷工作にも相当の費用がかかっていますから、阿部正弘時代に比べると、かなりの程度歳出規模が拡大していることは確実です。しかし、現実にどの程度の歳出規模であったかということは判りません。
とにかく、これまでにない新たな支出要因が存在している以上、何らかの形でそれを賄わなければなりません。先に述べたように、輸出入両面にわたっての関税賦課を、岩瀬達がハリスの反対にも関わらずがんばり抜いたのは、まさにそれを意識してのことと思われます。
しかし、これ以外の点については、特段の新規歳入手段は講じていません。各地の豪農や商人、特に大阪地方の豪商に、臨時の上納金を命じた事は判っています。だが、それが全体でどの程度の歳入額になっていたのかについても資料が不十分で、全く判りません。