第4章 安藤信正と幕府絶対主義

1. 井伊直弼遭難対策

 A 安藤信正の出自

 家康の頃には、幕府の行政制度は軍事体制そのままで、平時の体制といえるようなものはほとんど存在していませんでした。家康が死亡し、秀忠が名実ともに政権の座についたあたりから、実質的に平時における行政機構といえるようなものが徐々に成立してきます。このように考えた場合、幕府最初の老中(その当時は年寄りと呼ばれていましたが・・)は、酒井忠世(ただよ)、土井利勝、安藤重信の三人と考えるのが妥当です。

 陸奥岩城平5万石の藩主である安藤信正は、この初代老中の一人である安藤重信の子孫です。したがって、これまで紹介してきた阿部正弘や堀田正睦を上回る譜代の名門で、井伊直弼等に比べてもほとんど遜色のないといえるほどの名家の出身であることが判ると思います。

 この譜代の名門という意識は、彼の為政全体を貫くきわめて重要な要素となります。本章のタイトルに、幕府絶対主義と付けましたが、それはこの特徴によるものです。すなわち、それまでの幕府政治が、幕府と日本の利益を同一視するというスタンスから行われてきたのに対して、彼の下における為政は、両者の相違を意識した上で、幕府の利益を確保しようとする方向で動き始めるのです。この姿勢は、これ以後、幕府滅亡まで、一貫して幕府官僚の意識の底流に存在し、時に表面に吹き出す形で歴史の流れを乱し続けるようになっていきます。その最初の頁を開いたのが安藤信正だったのです。

 話は少しそれますが、れっきとした幕府官僚でありながら、これ以後の幕府官僚を支配するようになったこの思想と明確に一線を画し、幕府の利益を犠牲にしてでも日本の利益を考えるべきだという姿勢を明確に示したのが、勝海舟ということになります。

 安藤信正は、文政2(1819)年生まれですから、井伊直弼が遭難死した安政7(1860)年の時点では41歳。まさに男の働き盛りという年齢で、歴史の檜舞台に突如登場してきます。

 B 桜田門事件の正規取扱い方法の問題点

 井伊直弼暗殺の急報を受け取った幕閣では早速、老中達が集まって鳩首して相談しますが、善後策が立ちません。問題は、井伊、水戸両家に対する処分をどうするかという点です。

 これまでの幕府の慣習法によれば、藩主がおのれの不覚により一命を落とした場合や、生前に跡目を相続する者を決定せずに藩主が死亡した場合には、その藩は改易ということになっています。井伊直弼の死の場合、この両方に該当します。したがって、正規の取扱法に従う限り、譜代の名家である井伊家といえども改易は免れません。

 この時代には赤穂浪士の先例が厳として存在しています。したがって、そのような事態に至ったら、井伊家の家臣としては、おそらく武士の面目を立てるため、水戸家を攻撃してその藩主暗殺を謀らざるを得ないと考えるでしょう。しかし、天下の副将軍家と譜代の棟梁家が戦うような事態になって、そもそも幕府は立ち行くことが可能なのでしょうか。

 水戸家の方も、大老襲撃に参加した藩士達はその前日に脱藩届けを出したばかりで、当然まだ受理もしていない段階ですから、家臣取り締まりの責任を問わねばなりません。しかし、井伊直弼があれだけ徹底的に処罰した後ですから、これ以上の処罰をしようと思えば、藩主の切腹か、藩の改易くらいしか残っていません。御三家に対して、そのような処罰を行うことが、そもそも幕閣には可能なのでしょうか。

 C 安藤信正の打開策

 前章に述べたとおり、安藤信正は、水戸家との交渉ぶりが井伊直弼の気に入り、その年の1月15日に老中に昇格したばかりですから、単に末席であるばかりでなく、閣僚経験も2ヶ月に満たないという新参者です。

 しかし、井伊直弼という人は、少しでも自分に逆らう人には我慢できず、老中に対しても激しい粛正を繰り返していました。その結果、この時点で幕閣に名を連ねていた老中達は、いずれも井伊直弼が独断専行することにおとなしく追随することにしか能のない、小粒のイエスマンばかりとなっていました。ですから、先輩老中はこの降って湧いた大事件に呆然とするばかりで、何ら建設的な意見を出すことができません。

 そこで、信正は、実に簡単な解決策を提示しました。それは、大老は襲撃はされたが死んでいないということにしよう、というコロンブスの卵的奇策です。

 確かに井伊直弼が生きていてくれさえすれば、上記の問題はすべてなくなります。しかし、井伊直弼は単に暗殺されただけでなく、その首を切り取られて暗殺者によって持ち去られており、しかもそのことは、多くの庶民が目撃しているのです。それを承知で、法の建前としてはまだ生きていると言い張ろうというのですから、これは実に人を喰ったアイデアです。

 外に何の思案も浮かばないのですから、これが閣議決定となります。早速井伊直弼は病気引き籠もりと発表され、将軍家茂からは病気見舞いと称して朝鮮人参が届けられ、奥医師も派遣されて、首のない死体をしかめつらしく診察しました。彼の死が公表されたのは、翌月、閏3月30日になってからのことですから、形式的には2ヶ月近くもその死を秘していたことになります。

 D 久世=安藤政権の誕生

 この奇案の実施を一任されたことにより、安藤信正は、一挙に幕閣の指導的立場に立つことになります。

 井伊直弼は、安藤信正との対比でいえば、幕府の利益が即日本の利益と考え、そして幕府の利益とは彼が利益と認めたものという考えの下に独裁路線を突っ走って、幕府内外の関係を完全にこじれさせてしまった人物です。

 したがって、安藤信正として、幕府の利益を追求しようとすれば、そうしたこじれを解消することを目指すことがまず必要であることは判りきった話です。そこで、井伊直弼内閣の継承内閣であるにもかかわらず、どこかの国の首相と違って、閣僚を全員留任させようなどとは間違っても考えません。それどころか、幕閣から井伊色を完全に消すことを、積極的に狙っていきます。

 そのために、彼は、まず先任の老中3名のうち、特に無能な2名を罷免し、代わりに、井伊とは関わりのなかった老中2名を新たに任命しました。さらに、以前に井伊直弼と衝突して老中を辞職していた硬骨漢の久世広周を改めて、老中に迎え、しかも彼に老中首座の地位を譲り、自分自身は外国係老中について、久世の陰で実務に専念する体制を作りました。

 普通、高校などの歴史の教科書では、この時代を安藤信正が為政の中心となった時代と説明します。が、このように首相は久世広周なのですから、厳密には久世=安藤連立内閣というべきです。実際、久世広周は単なるお飾りの首相ではなく、かなりの実力派でした。安藤信正が失脚した後も、数ヶ月間、その地位で頑張り、様々な施策を展開するだけの力を持っていたのです。そこで本稿でも以下、久世=安藤政権と呼ぶことにします。が、政権の実権を握っていたのが、安藤信正であることは間違いありません。

2. 協調と宥和の政策

 安藤信正として、第一の政治的課題は、井伊直弼の一連の強硬施策によりこじれきった朝廷との協調体制を確立することです。第二の政治的課題は、これもこじれきった一橋派との宥和政策を実施するです。

 A 公武合体

 朝廷との宥和政策を、当時は公武合体という言葉で呼んでいました。昔も今も、家どおしの結びつきを強める常套手段は婚姻政策です。

 幸い、将軍家茂は独身であり、孝明天皇の妹にちょうど似合いの年格好の和子(かずこ)という女性がいました。彼女は弘化3(1846)年生まれです。新郎の家茂も同じ弘化3年の生まれですから、二人は同い年なのです。そこで、この二人を結婚させれば、もってこいの公武合体策になる、というわけです。

 なお、幕府創世期には、逆に将軍秀忠の娘が天皇家に嫁しています。偶然にも、その女性も和子という名前でした。日本史の教科書では「まさこ」と読ませることが多いのですが、私の同僚が徳川家に問い合わせたところ、ただしくはやはり「かずこ」と読むのだそうです。

 この婚姻政策は、元々は井伊直弼の策でした。ただし、井伊直弼は、皇室の外戚として朝廷に幕府が君臨する手段としてこの婚姻を考えていたのです。これに対して、安藤信正は朝廷との融和策としてこのことを考えたのです。行為は同じでも、両者の基本的姿勢の違いには、非常に大きなものがあります。

 朝廷との協調体制を作ることは、井伊直弼の大弾圧の後ですから、常識的にはきわめて困難です。が、この時は一つの幸運がありました。朝廷の中心人物、孝明天皇自身が、先の戊午の密勅の文章に見られるとおり、きわめて親幕的な思想の持ち主だったことです。

 孝明天皇としては、井伊直弼のような発想の下で、将軍家の姻戚になるつもりはありませんでした。そこで、井伊政権からの婚姻の申請に対しは、天皇は、当初反発を示します。が、安藤信正のような発想であれば、これは申し分のない婚姻といえます。そこで、同年6月には早くも降嫁を認める意向を天皇は示しました。

 翌文久元(1861)年10月に和子は関東に下り、同12月に結婚式を執り行いました。家茂という青年が非常に気分の良い人物だったこともあり、夫婦仲も問題はなかったようです。唯一の問題は、養父家定の処女妻だった島津篤子が、姑としての立場から嫁いびりをしたことくらいでした。政略結婚の犠牲者である彼女としては、同じように政略結婚でありながら、幸福な結婚をする事ができた和子が妬ましかったのでしょう。

 B 皇妹降嫁の悪影響

 こうして無事に終了した皇妹降嫁ですが、安藤信正にとってはこの婚姻の実施はよいことだけではありませんでした。それどころか、二つの時限爆弾をその中に秘めていました。

 一つは、この婚姻によって尊皇派の連中が親幕的になるどころか、逆に和宮を犠牲にする幕府の横車政策として、幕府に対する反感をいよいよあおり立てる作用をしたことです。ついには、皇妹降嫁は廃帝の奸策にでるものなり、というデマまでが飛ぶ始末です。これが後の坂下門外の変の、直接の原因となります。

 今ひとつは、婚姻許可の詔勅に、今後10年以内に攘夷を実行することという条件が明示されてしまったことです。安藤信正は、降嫁を実現したい一心で、この条件を受諾する旨の報答書を老中連名で朝廷に提出してしまいます。

 もっとも、これは単に朝廷の圧力に屈して心にもないことを言った、ということではありません。その頃になると、前章に書いた貿易による国内政治への悪影響は顕著に認められるようになってきています。こうした国内政治への大きな不安定要因が、結局、幕府を滅亡させることとなったわけです。このことは、その時点で現に政権を担っている者であれば、よほど暗愚でもない限り、当然に判っていたはずです。そこで、幕閣自身が何とか貿易を抑止したいという欲求を持つようになってきています。ですから、むしろ朝廷に対する公約をてこに、貿易制限に向かおうという狙いが存在していた、と見る方が妥当です。

 実は、この皇妹降嫁工作と同時並行で、安藤信正は、非常にスケールの大きな財政政策を展開しています。後に詳しく紹介しますが、国益会所という組織を作って、外国との貿易利益を幕府が一手に収めることにより、国内経済を統制すると共に、幕府財政を立て直そうというものです。

 先に連載した江戸財政改革史の中で、鎖国とは、そういう名の幕府による貿易統制策にすぎず、貿易制限という意味はなかったと説明したことがあります。そのことは、鎖国体制に移行してからの方が、わが国の貿易量は増大しているのだ、ということにより明らかなのです。

 それと同じように、ここで安藤信正が朝廷に公約した鎖港なるものも、そういう名の、幕府による貿易統制策と考えると、その後の幕府の行動が良く理解できるようになります。彼が朝廷の要求を飲んだ裏側には、むしろ幕府に有利な貿易体制を朝廷の権威を借りて実現しようという狙いが見え隠れしていると、私は考えています。

 しかし、条約に反する内容を、朝廷に対して、日限を切って公約してしまったということは大きな意味を持ちます。したがって、この公約の履行問題は、その後、信正だけでなく、幕府そのものの上に重くのしかかってくることになります。

 C 一橋派との宥和政策

 旧一橋派に対する融和政策も急ぐ必要があります。が、幕府の権威を守る必要もありますから、既に下した処分を撤回するには、それ相当の大義名分が必要です。

 信正は、水戸斉昭がこの年8月19日に死去したのを、そのための機会と認識して、融和策を実施に移します。すなわち、幕府はその喪を発するに先立って、まずその永蟄居を解き、ついで、尾張慶恕や一橋慶喜等の謹慎も解く、という形で、井伊直弼の行った一連の行政処分を解除したのです。

 しかし、これによっても、一橋派の恨みは残り、とても本格的な融和とはなりませんでした。安藤信正が失脚した後に、追い打ち的処罰が彼に対して行われますが、それは一橋派の井伊直弼に対する恨みの側杖とでもいうべきものでした。

3. 経済混乱の打開策

(1) 五品江戸廻送令

 前章に述べたとおり、わが国経済は開港と同時に大混乱に陥っていました。井伊直弼はそれに対して無策でした。

 安藤信正は、実質的に政権を担うことになった直後の、万延元(1860)年閏3月19日に、さしあたっての策を講じます。有名ないわゆる五品(ごひん)江戸廻送令として知られる命令を発したのです。例により適宜現代語訳しつつ紹介すると、次のようなものです。

「神奈川御開港、外国貿易仰せ出され候に付き、諸商人ども一己の利得にこだわり、競って相場をせり上げ、商品を買い受け、直接に御開港場へ廻し候に付き、御府内入荷の荷物が減少し、諸色払底に相成り、難儀いたし候おもむき、聞こえ候に付き、当分のうち、左の通り仰せ出され候

 一 雑穀、

 一 水油、

 一 蝋(ろう)、

 一 呉服、

 一 糸

 右の品々に限り、貿易荷物の分は、すべて御府内より相廻し候はずに候間、在在より決して神奈川へ積み出し申すまじく候」

 要するに、商品が皆神奈川(実際には横浜ですが・・)に行ってしまった結果、江戸が品薄になって庶民が困っているので、特に生活必需品である五品については、当分の間は、いったんは江戸に回しなさい、江戸で余れば神奈川に回すから、というわけです。ここで水油といっているのは灯油、つまり行灯(あんどん)等に使う菜種油で、糸とは生糸の意味です。

 確かに雑穀から呉服までの4品については、日用品で、こういうものが払底すれば、庶民の生活に響くだろうということは判ります。しかし、同時にこのような日本人の日常に密着した商品が、この時代に万里の波濤を越えて欧州やアメリカまで運ぶ貿易の対象となるわけはありません。したがって、開港のために払底するというのはおかしな話です。実際、この時期の輸出統計を見ても、そこにこれらの品は上がっていません(正確に言うと、蝋は若干輸出実績があります)。

 それに対して、生糸は全く事情が異なります。江戸に住む一般庶民が、機織りをして自分の衣類を生産するとか、江戸市中に機織り工場がある、とかいう事実は全くありません。また、普通の庶民は絹織物を日常に着る、というようなことはありません。したがって、生糸が江戸に流れ込まなくなったからといって、庶民が困るということは絶対にあり得ません。その生糸がさりげなく最後についているというところから逆に、この五品江戸回送令の本当の狙いが、実は最後の生糸だけにあることが判ります。

 しかし、このような法令をわざわざ出すことで、安藤信正は何を狙ったのでしょうか。これについて、従来の通説は、開港場に地方商人が直接輸出品を売り込むようになったので、それまで独占的にそうした商品を扱っていた江戸の特権商人が打撃を受けたところから、幕府を動かして出させた、と説明しています。そうであるならば、これは輸出抑制策ではありません。単に江戸商人の利潤確保策です。

 井伊直弼時代の幕府財政は、先に紹介したとおり、金銀の改鋳益に頼る以外、何ら具体的な歳入増加策がありません。したがって、火の車であったと想像されます。これが出された時期から見て井伊直弼時代の決定事項を安藤信正が単に承継したと見ると、上記説明が説得力を持ちます。

 すなわち、江戸商人達は、多額の上納金を行うことで、この法令を井伊直弼から引き出すことに成功していたが、実際の命令を発する前に暗殺されたという訳です。しかし、この時点では、井伊直弼は生きていることになっているのですから、安藤信正はその決定をひっくり返すわけにも行かなかったと思われるのです。

 そこで、五品江戸回送令に従い、在方荷主の荷物は確かに建前上は、いったんは江戸に回されますが、実際には単に問屋の送り状を受けただけでそのまま横浜に送られることになりました。江戸商人は、送り状の発行に当たって利潤が確保できれば満足で、生糸の現物を必要としていたわけではないからです。したがってこの時点での五品江戸回送令は、貿易そのものには影響を与える措置ではありませんでした。

 しかし、万延元(1860)年も後半に入ると、何とか貿易量を抑止しなければ、わが国産業はすべて壊滅的な打撃を受けかねないことが明らかになってきます。そこで、開港・開市に対して安藤信正は消極に転じ、妨害的とさえいえる行動を様々な場面で見せるようになります。

 そのような立場から五品江戸回送令を見ると、これを利用して生糸の輸出抑制に利用できるということに、久世=安藤政権は気がつきます。そこで、翌年になって改めて五品江戸回送令を出し直します。こちらの方は、厳しく遵守させようとし、実際ある程度の効果を上げたと私は考えています。ただ、このような間接抑制策であるために、具体的な効果が現れてくるのには時間がかかりました。すなわち貿易統計的には、翌文久元(1861)年に貿易量の落ち込みが若干見られる程度に過ぎません。また、当然、金貨の流出という事態の解決策にはなりませんでした。

(2) 万延改鋳

 経済の混乱状態を打開するには、井伊直弼が処分を行ったエリート官僚達を起用して対応させれば良さそうなものです。が、幕府としては、政権を有する者が替わったからといって、手のひらを返すように処分を撤回するのは、その権威に関わるという意識があるのでしょう、彼らに対する処分はそのままです。

 したがって、エリートの一人、水野忠徳も、この時期は、まだ実権を回復していません。只の西の丸留守居役で、通貨問題の担当者でもなければ、通商交渉の担当者でもありませんでした。おそらく名門の御曹司たる安藤信正には、政権を継承した直後の時点では、井伊直弼が断行したエリート官僚達に対する処分がもっている問題性を理解できていなかったために違いありません。

 が、現実に対外交渉を実施している外国奉行達にとっては、彼らエリート達の実力は十分に理解できます。そして、他のエリート達は自宅謹慎を命じられて動きがとれないのに対して、水野忠徳だけは、閑職であれ、ちゃんと江戸城に出仕できる地位にいたのです。そこで現職の外国奉行達は積極的に彼の存在を容認し、重要な外交交渉に際しては、屏風の陰に隠れて彼が傍聴することを認めていたといわれます。交渉の要所にかかると、屏風の裏からメモ書きが回ってきたそうです。このためにこの時期、彼には屏風水野というあだ名があったほどです。

 そうして得た情報を、その鋭い頭脳で分析した水野忠徳は、少しも自分の得にはならないのに、幕府の役に立つ様々な建議をこの時期、積極的に行っています。先に神奈川に代えて横浜開港を建議したと書きましたが、それもこうした活動の一つです。

 この万延元(1860)年4月には、物価の騰貴と金貨の流出という二つの問題を同時に解決するすばらしいプランを再び建議しています。これほど有能な人物を、西の丸留守居に留め置いた安藤信正の器量の限界というものを感じさせます。

 A 貿易レート問題と改鋳の関係

 ここで、なぜ開港に伴ってこのような問題が発生したかを改めて考えてみましょう。

 開港に伴って物価が騰貴する理由は、通商条約が採用している為替レートが実勢に見合っていないために、外国から見てわが国産品に割安感があるためです。したがって、レートを改訂すれば、輸出ドライブは阻止できます。

 基本レートは銀貨を決済単位として決められていますから、銀貨を改鋳して、より高品位にしてやれば、やっかいな対外交渉などしなくとも、自動的に為替レートの改訂ができます。例えば、銀1分=1ドルというペリーの時点のレートに戻せば、外から見たわが国物価は一気に3倍以上に跳ね上がることになりますから、激しい輸出はいやでも止まるはずです。

 また、なぜ金貨が流出するかといえば、銀貨をベースとする為替レートに基づく小判の価値に比べて、海外の金の取引価格が高すぎるからです。しかし、わが国銀貨の対外価値を高めれば、自動的に小判の対外価格も高くなり、金の流出はやはり止まるはずです。仮に上記のように、銀1分=1ドルとすれば、自動的に小判は4ドルという計算になりますから、海外よりも金が高くなり、うまくいけば流出した金が戻って来るくらいになるはずです。

 したがって、物価の騰貴も、金貨の流出も、銀貨の高品位化というただ一つの国内政策で解決可能ということになります。

 そもそも、こうした問題が起こった原因は、この時期の一分銀が、幕府通貨史の中でも、きわだって粗悪な通貨だったことにあります。

 先に財政改革史で説明したとおり、田沼意次は、純銀で南鐐二朱銀を鋳造することにより、銀で金貨を作るという離れ業を行い、これにより、金銀二重本位制を打破しようとしました。この南鐐二朱銀は1枚で2.7匁の重量がありました。

 しかし、家斉の浪費から疲弊した幕府財政を救うため、水野忠邦は天保一分銀の発行に踏み切ります。1分は4朱に当たりますから、一分銀は南鐐二朱銀の2倍の価値があります。ところが、天保一分銀の重量は2.3匁と、南鐐二朱銀よりも15%も軽いのです。この劣悪な一分銀は安政元年まで一貫して鋳造・発行され続けており、最終的な発行量は総計で4520万0589両、1億8080万枚になります。さらにそれより粗悪な安政一分銀も、井伊直弼によって、この前年から発行が開始されていた事は、前章に紹介したとおりです。

 B 南鐐二朱銀の復活案

 ここまで説明すると、水野忠徳のアイデアが理解できると思います。彼は南鐐を復活し、これを為替レートを決定する際の基本通貨とすればよいと考えたのです。南鐐はその重量から計算すると43セント程度に相当します。しかも南鐐は二朱ですから1両はその8倍、したがって3ドル43セント程度になります。つまりこれが基本レートになれば、日本通貨はそれまでよりも約2.3倍強くなり、輸出にも歯止めがかかるし、金の流出も止まるということになります。

 しかし、水野忠徳は、どうせもう一度改鋳し直すなら、ついでに南鐐を少し増量してぴったり50セントにあたるようにすればよい、と考えたようです。つまり1両=4ドルです。そこまでしておけば将来におけるインフレを考えても、まず問題が起こることはないからです。しかも、原料となる銀は、外国貿易によりいくらでも流れ込んでくるのですから、材料不足によって困ることはないはずです。

 日本史の本には、水野のこのプランに対してハリスが強硬にクレームを申し立てたので、この案はわずか10日で流れた、と書いてあるものがあります。確かに、ハリスとしてはそのような策を取られては日本と貿易するうまみがなくなりますから、クレームを申し立てたのは事実でしょう。

 が、私は、外国からのクレームがこのプランが流れてしまった真の原因ではない、と考えています。なぜなら、この水野プランの長所は、為替レートの変更を、外国との交渉ではなく、国内における改鋳という処理だけで行いうる点にあるからです。いくら外国から苦情が来ても、それは幕府得意の、いつもの時間引き延ばし策を取って対応すれば足りることなので、この抜本対策を放棄する必要はなかったはずです。

 C 幕府財政の改鋳差益依存問題

 私は、幕府の財政事情が、このすばらしいアイデアを許さなかったのだと考えています。先に天保13年及び弘化元年の財政収支を紹介しました。それらの年度では、構造的に歳出超過になっており、改鋳差益によりかろうじてバランスがとれていました。

 久世=安藤政権の時期の財政収支は判っていません。が、関税収入がある程度見込めるようになっていたにせよ、長期的な安定財源足りうるかどうかは、まだ幕府に判っていません。したがって、改鋳差益に依存するしか収支の均衡を図る手段がない、と依然として考えられていたはずです。劣悪な天保一分銀が、井伊直弼によって、より劣悪化された安政一分銀に変えられ、久世=安藤政権もこの改悪策を継続実施した理由は、そこにあるはずです。

 先に述べたように、この年、皇妹和宮の降嫁による支出が予定されていました。幕府としては、井伊政権によりこじれきった朝廷との関係を修復するため、金に糸目を付けない歓迎をするつもりでいます。そこで、この婚礼行列は総勢6000人という規模に膨れ上がり、これが中山道の全行程を旅する事にしたのですから、純然たる旅費だけでも莫大なものになります。

 しかも、勤王の志士による和宮奪回計画の噂があったため、幕府は沿道警備に計29藩の藩士を動員したのです。それに要した費用をすべて財政の疲弊している各藩に負担させるわけには行きません。下賜という形を取るか、貸し付けという形を取るかは選択の余地があるにせよ、何らかの形で現実の資金を諸藩に提供する必要があります。

 したがって皇妹降嫁の旅が、幕府財政にとって大変な負担になるであろうことは、勘定方には容易に予想がついたに違いありません。最終的にいくらかかったかは判っていませんが、後に将軍家茂が上京した際には直接経費だけで80万両かかっています。片道旅行であること等を考えても、やはり数十万両という巨額が必要になるはずです。

 こういう大口支出が予定されているときに、一分銀の発行によって発生する年間数十万両の収益を放棄する余力は、幕府にはなかったはずです。これが当初の水野構想がつぶれた原因と、私は考えています。

 D 万延改鋳の内容

 そこで、水野忠徳は改めて次善の策を建議します。為替レートの改訂はあきらめて、金の流出だけでも食い止めようというのです。小判が国内的には一分銀の4倍の価値しかないのに、それに含まれる金の量が国際水準から見て高すぎることが流出原因です。したがって、国際水準からみて一分銀の4倍程度しか金を含んでいない小判を発行すれば、いやでも金の流出は止まるという、コロンブスの卵的な発想です。こうして発行されたのが、万延小判です。

 E 小判改鋳小史

 万延小判がそれまでの幕府の通貨管理の常識から見て、どれほど突出して劣悪なものであるかを理解していただくために、これまで折に触れて紹介してきた小判改鋳の歴史を、ここで簡単に振り返ってみましょう。

 幕府創設時の慶弔小判は4.76匁で金の含有率は87%でした。綱吉の改鋳により悪名高い元禄小判は目方は同じ4.76匁でしたが、金の含有率を57%に落としたものでした。大岡忠相によって発行された元文小判は重量を3.5匁に落としていましたが、含有率は66%と若干改善していました。水野忠成による文政小判は、重量は3.5匁のままですが、含有率を56%と元禄小判並に落としました。水野忠邦の天保小判は、含有率は57%と文政小判並ですが、重量を3匁に落としました。井伊直弼により安政年間に発行された安政小判は、含有率は依然57%と変えていませんが、前章に紹介したとおり、重量はさらに減らして2.4匁となっていました。これによる改鋳差益がこの厳しい時期、幕府財政を下支えしてきたわけです。

 F 万延の豆小判

 この最後に登場した安政小判という、我が国歴代の小判から見れば驚くほどの低品位通貨でさえも、国際的に見れば、大変な価値があった点に、幕末最大の問題があるのです。万延小判は、一両小判の持つ国際価値を、当時の為替レート並に下落させることを狙いました。

 その結果、万延小判は、金の含有率は57%という点では安政小判と変わっていませんが、目方がなんと0.88匁と、当時大量に出回っていた天保小判と比べると29%、直前の通貨である安政小判の37%にまで落としてしまったのです。この37%という数字が、たびたび引用してきた一分銀の為替レートとほぼ一致しているのに気がつかれる事と思います。従来の小判の3分の1ほどの大きさなので、豆小判というのが通称でした。

 万延小判の総発行量は62万5050両です。金銀改鋳のやり方としては、新旧両通貨を、額面どおり等価交換する方法と、含む金の量の減少に応じて増付付きで交換するやり方とがあります。新旧通貨を等価交換すれば、幕府に改鋳差益が転がり込みます。が、民衆は交換に抵抗しますから、新旧通貨の交換は遅々として進まず、経済混乱の原因となります。これに対して、増付付き交換をすれば、すんなりと事務が進むことは明らかです。

 大岡忠相の主導で行われた元文改鋳は増付付き交換であったため、ほとんど経済に混乱が起こらず、長期安定通貨を作り出すのに成功しました。この万延小判の改鋳に当たっても、幕府はこの増付交換方式を実施しました。すなわち天保小判1両を万延小判3両1分2朱と交換するという、極めて正確な等価交換を行ったのです。改鋳手数料だけ幕府の丸損になるという英断を下したわけです。

 一気に目方を3分の1に落とすというドラスティックな改鋳であるにもかかわらず、比較的混乱が少なく、豆小判が順調に流通したのはこのためです。幕府としては、金貨の激しい海外流出を防ぐために実施する改鋳なのですから、改鋳差益を稼ぐというような目の前の利益にこだわるわけには行かなかったのです。そして実際、金貨の流出はこれにより立派に阻止されました。

 しかし、高品位二朱銀の発行に比べて、この方法はいくつかのはっきりした欠点がありました。すなわち、これは国内的に見れば平価の切り下げです。したがって、金貨で示される名目物価が単純に3倍以上に跳ね上がります。通常平価の切り下げで問題になるのは、それに伴う便乗値上げです。この場合にもそれが起こったはずです。困ったことに、激しい輸出ドライブに伴う物価の騰貴が同時並行的に起こっていますから、便乗値上げかどうかを確実に識別する方法はありません。この結果、一般物価の騰貴が一段と促進されたわけです。

 ただ、この時期の日本にとり、救いであったのは、日本では依然として金、銀、銅三重本位制が通用していた、ということです。金貨の価値が三分の一に下落すれば、当然、銀貨(一分銀など金貨の補助通貨ではなく、丁銀や豆板銀のことです。)はそれに対して3倍強くなったはずです。したがって、銀貨をベースにしている上方商人にはあまり大きな影響はなかったはずです。

 また、銅貨も同様に、3倍強くなったはずです。したがって、銅貨を生活の基盤にしている一般庶民に対しても、直接的にはそれほどの打撃にはならなかったはずです。

 おそらく、一番苦労したのは、金貨を生活の基礎にしていた武士階級だったでしょう。だからこそ、この時期以降、下級武士ないし郷士と呼ばれる人々を中核として、急激に倒幕に向けて気運が高まっていくことになります。

 歴史の教科書などではいとも無造作に、この万延改鋳が、一般庶民をも直撃した幕末における激しいインフレの原因と書いてあるものが目立ちます。しかし、この改鋳自体は、このように、インフレ原因とはならない性格のものです。

 しかし、現実に、この後も激しいインフレが庶民を苦しめます。その原因は、この改鋳が行わなかった点、すなわち対外レート問題にあったのです。銅貨などが中国の同種銅貨に比べて約4分の1程度に低く評価され、その結果、日本の商品に大変な割安感があったという事実は依然として残っていたのです。そこで、金貨の流出がやんだ後においても、あらゆる生活必需品が激しい輸出ドライブのために品薄になり、激しいインフレが続いていったわけです。

 G 少額金貨の発行

 南鐐二朱銀や一分銀の持つ根本的な問題は、国内的には金貨として通用するものであるにもかかわらず、銀で作られたものであるために、国際的には銀貨として評価されてしまう点にありました。これを解決するために、この時、幕府は、小判の補助通貨を一斉に金貨に切り替えました。すなわち、田沼意次以来、営々と続けられてきた金銀二重本位制への挑戦をこの時、幕府は止めたわけです。これにより発行されたのが、万延二分金、万延一分金及び万延二朱金です。

 このうち、万延一分金は、金含有率は万延小判と一緒で、重量が0.22匁と正確に1両の4分の1になっています。しかし、これではあまりに小さくて、通貨として日常使用するのに不便でしたからあまり通用しませんでした。そこで、発行量もわずかです。

 この点を考慮し、重量を確保する都合から、金22%、銀78%という比率の合金で発行されたのが万延二分金と万延二朱金です。8割までが銀なのですから、外国人達から金色をした銀貨と悪口を言われたのも無理はありません。二分金は重量が0.8匁と万延小判とあまり違いがありません。二朱金は、その正確に4分の1の0.2匁です。劣悪通貨として評判の悪かった一分銀の重量が0.6匁でしたから、これを回収して若干の金を加えれば二分金、すなわち国内における価値が二倍の通貨が作り出せることになりますから、大幅な改鋳差益を確保できたことは間違いありません。

 金貨の海外流出により通貨の絶対量が不足していた時に、激しいインフレが発生したのですから、日常生活で使われる貨幣自体が、従来に比べて高額化しました。それでも、日常生活では小判で取り引きされるということは滅多にありません。日常生活の中心となる少額取引に使いやすい補助通貨は、このように極端に低品位化した通貨の発行であるにも関わらず、国内的には歓迎されました。

 安政一分銀も引き続き発行され続けました。これの場合には洋銀を市場から回収して改鋳していたのではないかという説が唱えられています。ここからもかなりの額の改鋳差益が上がることになります。

 こうして、いわば外圧が追い風となって、大きな改鋳差益を幕府は入手することができ、今後の様々な歳出増を賄い続けることが可能となりました。

 文久元年の場合、二分金など金貨改鋳に伴う益金が143万1967両、一分銀など銀貨改鋳に伴う益金は14万0257両、計157万2224両といいます。もっとも、当然ながらこれは平価の切り下げにより3倍に跳ね上がった金額ですから、弘化の頃の歳入と比較する際には3分の1に割り引かねばなりません。それでも50万両程度に達する計算です。

 二分金は、明治初年まで発行が続けられ、最終的には計4689万8932両も発行されました。毎年同じ量を発行したわけでもないでしょうが、単純に割り算すると毎年600万両弱が発行された計算になります。改鋳そのものにかかる費用が不明なので、正確な差益額は判りませんが、文久2年以降は、おそらく毎年新通貨で200万両程度にはなったはずです。狂乱物価という大きな犠牲を払った代わりに、幕府はついに巨大な歳入源を手に入れるのに成功したのです。

(3) 関税収入

 万延元年に入ると、貿易も本格化してきます。同年の輸出総額は471万1千ドル、輸入総額は165万9千ドルに達しました。

 これにより正確にいくらの関税収入があったのかはわかっていません。仮にすべての輸出入品が一律5%の関税率とすれば、新通貨で120万両以上の関税収入があったはずです。

 安藤信正が五品江戸回送令を利用して輸出量の削減を計った翌文久元(1861)に若干輸出量が減少したことを除いては、この後明治維新までの間、輸出は毎年著しい伸びを示し続けます。また、輸入は例外なく毎年伸びています。

 したがって、万延元年以降、幕府の崩壊までの間、改鋳差益と並んで、関税収入は幕府の重大な財政基盤となっていくことになります。

4. 久世=安藤政権の財政政策

 久世=安藤政権では、上述した万延改鋳では、結局、水野忠徳が当初建議した抜本策ではなく、金貨の流出防止だけを念頭に置いた策をとらざるを得ませんでした。したがって、物価の暴騰や輸出ドライブなど、貿易から作り出された問題に対しては、別途対策を立てる必要が生じました。

 生活必需品が海外に流出することによる品薄がインフレの原因であることははっきりしているのですから、日本という立場から見た場合、対策としてはそうした生活必需品の輸出制限であることは明らかです。先に朝廷に公約した条約の撤廃は、それを目指したものです。

 しかし、幕府の利益を第一に考える久世=安藤政権では、対策の順序が変わります。先に紹介したとおり、貿易による関税収入は、すでにこの時期の幕府財政は無視できないほどに巨大なものです。したがって、とるべき経済政策は、貿易量を適当に維持しつつ、同時により一層の増収をもたらして幕府の財政再建に結びつくものである必要がありました。それには、貿易の全面廃止ではうまくないのです。貿易による利益が幕府にだけ流れ込み、同時に物価騰貴を沈静できるような、適切な経済統制手段を設ける必要がありました。

 これを単なる観念論にとどめず、実際に具体的な対策にまでまとめ上げたところに、この政権の偉大さがあります。幕末と呼ばれる、本稿に取り上げた時期で、明確な財政政策を持っていた幕府政権は、この久世=安藤政権だけです。その点だけからでも、この政権はもっと注目される価値があります。

(1) 国益主法掛の設立

 ここで要求される政策は、経済統制手段の機能があり、同時に貿易による利潤を幕府が独占する手段である、という二面的性格を持っている必要があります。このことを安藤信正は早くから承知していたと思われます。なぜなら、井伊直弼の死が公表され、久世=安藤政権が正式に発足した直後の万延元(1860)年4月の時点で、早くもその政策が着手されたからです。

 その経済統制政策の中核機関として、この時に設立されたのが「国益主法掛(こくえきしゅほうがかり)」とよばれる存在です。

 これは、町奉行、勘定奉行、勘定吟味役という従来からの経済官僚に加えて、大目付及び目付を加えて設立された行政委員会で、政策立案ばかりでなく、その実施作業にも当たる強力な組織です。そして、5月にはこの国益主法掛の担当老中として筆頭老中の久世広周自身を任命し、また、担当若年寄や専任職員の任命も行いました。

 A 目付について

 これまで本稿では、目付という官職についてはあまり触れてきませんでした。勘定所が財政担当機関、すなわち今日の財務省に、そして勘定吟味役が財政に関する監察機関、つまり今日の会計検査院に相当する機関であるとするならば、目付は人事に関する監察機関、すなわち今日の人事院に相当する機関です。

 一口に大小目付といいますが、実際にはかなり複雑な役職に分かれます。

 「大目付」は、大名に対する監察機関です。従前は4〜5名が定数とされていました。が、弘化3(1846)年以降、定数が10名に増員されました。3000石相当の地位ですから、町奉行や勘定奉行と同格の重職です。が、大名を監察する地位にあるため、城中では万石相当の待遇がされました。将軍に直訴でき、老中も監察対象になるという点で、他国に例を見ない、極めて強力な人事監察機関でした。

 大小目付という言葉からすると、小目付という官職がありそうですが、実際には存在しません。旗本に対する監察機関は、正式には単に「御目付」と呼ばれます。定数はこの当時10名でした。1000石高の職ですから、遠国奉行と同等で、500石高の勘定吟味役よりも重職です。

 また、御目付は、お目見え以下の地位にある幕臣を監察する徒目付(かちめつけ)及び御小人目付(おこびとめつけ)、御中間目付(おちゅうげんめつけ)等を統括する職でもありました。

 現在の人事院が、人事監察だけでなく、人事行政一般を司るように、大小目付も広範な人事行政権を持っており、その支配下には数百人の官僚がいて、江戸城内外に目を光らせていました。

 大小目付は、その職の性質上、勘定吟味役同様に、いかなる誤りも許されないので、廉直な人物であることが要求されました。このため、徳川時代を通じて一貫して門閥・門地にこだわることなく、人材の抜擢登用が行われてきました。幕府の官僚機構の中では、勘定所と並んで、実力主義の支配する世界といえます。

 実力のある者が実権を握るのが、官僚機構というものです。その結果、この時点ともなると、幕政の実権は老中、勘定所及び目付に握られているといってよい状況にありました。

 水戸斉昭の懐刀であった藤田東湖が、斉昭にその旨を進講したと、福地源一郎が書き残しています。なお、東湖は幕府における第4の実力機関として奥御右筆をあげているそうです。これについては、幕府財政改革史に述べたことがありますが、今日でいう最高裁判所調査官に相当する役職です。藤田東湖がこれを指摘したのは、幕府の最高裁判所である評定所の判決を左右する力を持っていたからでしょう。

 B 佐藤信淵と国益主法掛の政策

 国益主法掛は、この幕府の実力機関のうち、奥御右筆以外のすべてをとりまとめたものとして設立されたわけです。いわば、幕府の最後の切り札というべき強力機関です。

 国益主法掛が実施した政策は、非常に幅広いものです。が、それらが単なる思いつきではなく、江戸中期の経済学者佐藤信淵(のぶひろ)の経済理論に基づいて行われた、というのも、この国益手法掛の大きな特徴です。

 佐藤信淵の思想は、絶対主義的性格を持っていました。すなわち彼によれば、全日本はただ一人の君主とその下に統一される八種の産業に従事する平等な八民とに分かれ、膨大な官僚機構の下に強大な常備民兵を備えているべきものなのです。

 したがって、その基本思想自体が、幕府を強大化し、日本全体を支配しようとしている官僚達にとってはもってこいの理論であるわけです。政策の展開に当たり、このような統一的な理論的アプローチが行われたということは、幕府では最初で最後ということができるでしょう。「国益」というネーミングそのものに、この政策を担当した彼らの気負いが、ひしひしと感じられるではありませんか。

 国益主法掛は、設立されるや否や、極めて多方面にわたって活動を開始しました。その政策名をざっとあげると、諸士救済策、物価引き下げ令、荒地起返(あれち・おこしかえし=荒廃した休耕田をもう一度農地に戻す事業)、陶器輸出策、機械試造、玉川上水水元模様替え、糸価調節、国益会所の設立などがあります。これら、多方面にわたる様々な事業を実際に実施し、または実施のための調査を行いました。

 先に五品江戸回送令が、万延元年閏3月に出された直後と、後に再度布告された時とでは、遵守のさせ方に違いがあると述べました。これも国益手法掛による再評価の結果と思われます。

(2) 国益会所

 国益主法掛の打ち出した様々な政策の中でも、最も重要なものが国益会所(こくえき・かいしょ)の設立です。

 先に述べたように、幕府は米国との通称条約の締結に当たり、永年オランダとの間で行ってきた、長崎会所を通じた貿易体制を、米国に対しても拡大する、という方針で臨みましたが、ハリスに一蹴されて、自由貿易を飲みました。

 A 国益会所の意義

 自由貿易のままでは、しかし、関税収入の確保は可能でも、鎖国時代と違い、貿易利潤そのものを幕府が得ることは不可能です。そこで、条約ではできなくとも、国内法の整備により、実質的に会所貿易を実現できないか、というアイデアが生まれてくるわけです。

 したがって、国益会所は、幕府が国内の全市場を支配するための中心機関となるべきものです。これを通じてすべての輸出入品を幕府の支配下におくことができれば、幕府は開国による利潤を独占することができるわけです。それは同時に国内の流通を統制する事を意味しますから、狂乱物価を抑制するなど、経済混乱の防止にも繋がります。

 この国益会所に、もっとも確実にその機能を発揮させるには、条約締結以前の鎖国体制に戻すことが一番です。そうすれば、いやでも貿易を幕府が完全に統制することができるからです。相手国が、オランダ一国であった状態から、イギリスなど多数の国に増大した状態へ移行した上で、それを幕府が一元的に統制できれば、それによる利益は長崎会所の比ではありません。ここに、久世=安藤政権が横浜鎖港という政策を打ち出し、朝廷に対して公約した真の理由がある、と私は考えています。

 B 理論対立と目付の敗北

 この国益会所への諸国の産物の買い集め方式を巡って、国益主法掛の二本の柱というべき勘定方と目付達との間に、深刻な理論対立が生じてしまいました。

 目付は、その官職の性格上、強権的な行き方を好みます。そこで、「すべての商人を管轄して、一挙に利権を官に帰せん」と主張します。

 これに対して、永年商業資本とつきあい、商業活動の難しさというものを知悉している勘定方は反対し、「不馴れの官吏をして俄かに商を括り、天下の方物を全括して漏らさざらん事は、勢い危うきを以て、まず商と相和し、これを懐口にして使い、漸を以てその利権を移し握らん」と主張しました。すなわち、最初から官吏がやろうとすると失敗するから、まず商人にやらせて路線を確立した上で、徐々に官に権限を移行しよう、というわけです。

 この結果、目付=急進派と勘定方=漸進派の対立となったわけです。

 久世広周は、最終的に、漸進派を以て妥当と判断しました。しかし、彼が決断を下すまでの間に、この対立があまりにこじれてしまったため、9月には、大小目付は全員が国益主法掛を罷免される、というところまで事態は発展してしまいました。幕府の実力派官僚のすべてを投入する、というプランはここに崩壊し、国益主法掛は片肺飛行になってしまったわけです。

 C 国益会所の廃止

 勘定方の下で、しかし、国益会所プランは順調に発展しました。このプランは最終的には全国の産物を江戸及び大阪に設ける会所によって総括しようという壮大なものです。しかし、さしあたりは江戸に会所を設立し、諸藩の物産と関八州、甲信及び伊豆の産物を豪商を手先にして買い集めようというものでした。

 12月には会所頭取が任命され、翌文久2年2月に国益会所が正式に発足しました。5月からは実際の事務を取り始めたのです。

 が、7月になって会所そのものが廃止されます。その理由は単純で、詳しくは後に述べますが、この構想の推進役であった安藤信正や久世広周など、久世=安藤政権を構成していた老中のほとんど全員が、その3月から6月までの間に失脚してしまったからなのです。

 商業を全面的に国家がコントロールしようという考え方は、最近では、ロシアや東欧圏諸国が押し進めて、結局失敗したことに明らかなとおり、基本的には無理の多い話です。しかし、この当時は、諸藩がいずれも財政危機乗り切りのため、同様の施策を展開し、成功していたわけです。

 したがって、少なくとも当初計画が念頭に置いていた天領部分については、十分に成功の可能性があったといえるでしょう。そして、部分的にしか成功しなくても、幕府には莫大な利潤が確保できたはずです。安藤信正達の失脚により、幕府は、惜しまれるチャンスを逃したといえます。

5. 久世=安藤政権の軍事政策

 幕府は基本的に軍事政権ですから、幕府が今後も存続し、一層支配力を強めていくためには、その軍事力の強化が絶対に必要です。そこで、久世=安藤政権にとっての急務は、幕府の戦闘能力を回復するということです。

 ところが、この時点での幕府の軍制は単に旧態依然としている、という程度の生やさしい状況ではありません。人事が門地、門閥、年功序列によって行われていた結果、前線指揮官であるべき地位に老人が多数いて、ものの役に立たないという状態でした。

 そこで、文久元(1861)年2月にまず御旗奉行、槍奉行、持ち頭及び先手という軍事上の重職であり、したがって長く平和が続く中で形骸化し、老人ばかりが任命されていた職に「極老の者」を任命しないこととしました。しかし、これはいわば急場の対策にすぎません。その程度のことでは、対外国軍との戦闘はもちろん、国内戦でさえも、とうてい満足に遂行できる状況にないことは、誰の目にも明らかです。

 そこで5月になると、積極的な軍制改革を行うことに決めました。その中核組織として、「海陸御備え並びに軍制取調御用」という委員会を発足させ、軍制改革構想を検討させたのです。このように、組織を素早く整備する、という点も、久世=安藤政権の大きな特徴と数えて良いでしょう。この委員会には、勘定奉行、講武所奉行、軍艦奉行及び大小目付という実力派を委員としたという点、国益主法掛と一緒です。この委員会には小栗忠順や勝義邦(海舟)等、後世に名を残す実力者が多数、委員として加わっていました。

 阿部正弘が、挙国一致体制の下でわが国防衛力の強化を図ろうと考え、様々な禁令を解除したことは先に触れました。これに対して、この委員会では、幕府の軍事力のみを強化することを目指したという点で、これも大きな方針の転換です。

 この軍制改革案は、軍制を完全に洋式のものに切り替えるという壮大かつ抜本的なものでした。すなわち陸軍については歩兵、騎兵、砲兵の三兵計1万3625人の常備軍の設立を目指します。海軍については、さしあたり、江戸及び大阪防衛のため2艦隊(艦船43隻、乗組員4904人)を作り、将来的には日本の沿岸全体を防衛するため、6艦隊(艦船370隻、乗組員6万1205人)を編成しようというものです。財政的にどこまで可能かはともかく、各艦隊ごとに艦種を想定し、各艦ごとの水兵の端数までも計算するという点で、大綱案であると同時に、精密な立案でもあったわけです。

 司馬遼太郎の『龍馬が行く』の中で、海舟を暗殺しようと訪ねた龍馬を相手に、海舟が海防論を説いて、逆に弟子入りさせる感動的な下りがあります。あそこで海舟が龍馬に見せたプランこそ、この「海陸御備え並びに軍制取調御用」委員会の研究の成果だったのです。

 これほどの大計画は、存続期間の短かった久世=安藤政権では、その具体的な実施にまで着手する時間的余裕がありませんでした。しかし、その後、幕府が存続する限り、続けられた軍事力強化努力は、この計画に則って行われました。その方向付けを決定した、という意味で、この政権の軍事面での努力を無視することはできません。

6. ヒュースケン殺害事件とその波紋

(1) プロイセンとの通商条約問題

 井伊直弼の暗殺後も、攘夷派浪人による外国人襲撃事件は後を絶ちません。万延元年9月には、フランス公使館員でイタリア人のナタールが傷害されています。しかし、何といっても当時江戸にいた全外交官を震駭させたのが、同年12月5日に起きたヒュースケン殺害事件でした。これは、かれがプロイセン使節団のために通訳活動をしている最中に起きた事件でした。

 プロイセンが東アジアに進出を考え、議会で承認を得たのは1843年のことですから、米国よりかなり早かったのです。しかし、それが実際に実現したのは1859年のことでした。欧州からの万里の波濤を越えて、特命全権大使オイレンブルク伯爵が横浜港に入港したのは万延元(1860)年7月19日でした。すなわち、安政の五カ国条約を決行した井伊直弼が暗殺された半年ほど後です。

 プロイセン使節団は、7月23日に上陸して赤羽接遇所に入り、通商条約の締結交渉に入ります。しかし、準備の悪いことに、日本側と言葉の通じる通訳を用意していません。そこで例によってハリスが申し出て、ドイツ語の堪能なヒュースケンが通訳を勤めることになりました。ですから、この時期、ヒュースケンは毎日のように接遇所に通っていたようです。接遇所は、米国公使館のあった麻布善福寺からは、歩いても10分くらいの距離でした。

 しかし、この条約交渉は難航しました。この時政権を握っていた安藤信正としては、その前月、10年以内の攘夷決行を条件に孝明天皇から皇妹降嫁の許可をいただいたばかりです。それは先にも述べたとおり、幕府そのものの長期構想でもあります。したがってそれとは逆方向の、貿易相手の拡大は、国益会所がきちんと機能を開始するまではやる気がありません。その結果、間違ってもプロイセンと修好通商条約を締結するつもりはなかったからです。

 この時期、ハリスは在江戸外交団のリーダーと自認しています。そこで、その地歩を固めるため、ハリスはプロイセンに対して助け船を出しました。

 先に述べたとおり、井伊直弼は、安政の5カ国条約で、神奈川開港の半年後の1860年1月1日の新潟開港を皮切りに兵庫の開港や江戸・大坂の開市場を行うと約束しています。安藤信正としては、プロイセンとの条約を締結できないのと全く同じ理由で、新潟開港以下の条約条項の遵守もまた、することができません。

 そこでハリスは、もし幕府がプロイセンと条約を締結するならば、神戸・新潟の開港及び江戸・大坂の開市については延期しても良い、と申し出たのです。

 そういう条件であるならば、安藤信正としても、たとえ短期的には孝明天皇が激怒するという問題を抱えても、長期的には好ましい結果が得られるわけですから、プロイセンと条約を締結することを考慮する余地はあったのです。

 もっとも、これについては順序が逆である可能性もあります。つまり、安藤信正が先にハリスに開港開市延期問題について泣きつき、ハリスがその代償としてプロイセン問題の解決を要求した、ということです。どちらであれ、この二つの異質の問題がハリスの手でワンセットにされたことだけは間違いないようです。

 そこで、このハリスの介入をきっかけに、プロイセンとの条約交渉は進展を見せ始めました。安藤正信は、函館から井伊の粛正を無傷で生き抜いた唯一の初代外国奉行である堀利煕を呼び寄せて主席代表に据え、また金貨の海外流出などでその冴えを見せた水野忠徳を、再度外国奉行に起用して、次席としてこれに当たらせたのです。

(2) ヒュースケン殺害事件

 ヒュースケンは、問題の万延元(1860)年12月5日の夜も、9時近くまで接遇所にいてプロイセン側と折衝し、馬で公使館に帰りました。3名の騎馬の武士が警護に就き、4名の下僕が提灯をもって付き従っていたということですから、必ずしも警備が手薄だったわけではありません。しかし、7名ほどの者に襲撃されて重傷を負い、その夜のうちに死亡しました。

 犯人について、当時はプロイセンとの交渉における主席全権である堀利煕の家臣という噂が立ちました。というのは、その直前の11月8日に、堀利煕が謎の自殺を遂げており、その原因がヒュースケンとの衝突だという噂が流れていたからです。

 当時の駐日イタリア大使が書いた「伊国使節アルミニヨン幕末日本記」という書は、次のような噂を伝えています。堀はヒュースケンに対して、その夜歩きが頻繁な事を、外国人の警備責任者としての立場から注意したのに対して、ヒュースケンはまことに横柄な態度で、「自分は外出したいときにはいつでも外出する。自分に刃向かう者があれば、いつでも撃退してみせる。」と公言したというのです。

 実際、ヒュースケンは日本人全体に対して、一般に見下した態度が目立ったようです。この返事に、堀は激怒し、安藤信正に対してヒュースケンを排除するように求めました。が、安藤がこれを退けたため、怒りのあまり堀は自殺した、というのです。そこで、これを遺恨に思った彼の家臣が、ヒュースケンを襲撃したのではないかと思われたわけです。

 もっとも堀の自殺原因については、福地源一郎は「幕府衰亡記」の中で違う説を書いています。幕府としては、ハリスの周旋により、プロイセンとは条約を締結するが、他の国との条約は、依然として峻拒するという方針だったのです。ところが、この当時、ドイツはプロイセンにより統一の過程にあり、この時点においては、プロイセンはドイツ関税同盟の盟主となっていました。そこで、条約書には、プロイセンの外、関税同盟に属する各国の名が書かれることになったのです。その数、実に18カ国です。プロイセンを除けばほとんどが重要性を持たない小国である、ということは、ここでは問題になりません。これまでに5カ国と条約を結んだことが問題になっているのに、さらに一気に18カ国と新規条約を締結するのは、あきらかに朝廷にした公約への違反です。

 そんな重要なことを、条約交渉が最終段階に入るまで、主席全権の堀が気がつかないでいた訳です。それでは安藤として、孝明天皇に対して顔が立ちません。そのことを安藤が怒って、激しく堀を叱責したことから、堀が責任をとって自殺したというのです。

 当時、福地源一郎は水野忠徳の部下です。その水野の実見談ということですから、こちらの方が確度が高いと思われます。

 ヒュースケン殺害の真犯人は、後になって薩摩浪士であることが判明しました。ヒュースケンを暗殺すれば、それにより幕府と列強の間がまずくなり、幕府が窮地に立つだろうということを狙って行ったものです。

 これまであった外国人襲撃事件は、先に述べたように、アジア人蔑視の姿勢を見せる西洋人に対する感情的な反発から起きたものでした。それに対して、この事件は、外国人との関係では初めての政治的暗殺事件ということになります。そして、その犯人達の狙いは見事に当たりました。

(3) 在江戸外交団の横浜引き上げ

 ヒュースケンの死は、幕府としては十分警護をしていたにもかかわらず、本人が不用心に出歩くということを繰り返したことから起きたのは明らかです。したがって、幕府として責任を負うべき筋合いのものとは思えません。

 が、先に述べたように、外国人襲撃事件が頻発することに加え、その犯人が一人も捕まっていませんでした。そういうことから、外国人側では、幕府による政治的暗殺ではないかと疑心暗鬼になっていました。つまり、幕府が暗殺からの警備を理由として、公使館警備の陣容を大幅に増強したため、公使館としての情報収集などが極端に不便になったからです。

 そこにヒュースケン事件が起こったものですから、外国人達が過剰反応を起こしたのも、ある程度は無理のないことです。そこで幕府は、害意のないことを示すポーズとして、急ぎプロイセンとの話し合いをまとめ、事件の10日後の万延元年12月14日には通商条約を調印しました。

 しかし、そのくらいのことでは、外国人達の動揺は収まりません。幕府が新潟開港を実施しようとしないのに腹を立てていた英国公使オールコックは、この機を捉えて、英国公使館にフランス及びオランダの代表を集め、数時間にわたって談合をしました。つまり、ヒュースケン事件に借口しながら、その直接当事者である米国の代表をわざと呼ばずに会議を開いたのです。米国に取って代わって、対幕交渉の主導権を持とうとする英国の野心が端的に見て取れる行動です。

 そして、幕府には外国人を保護する能力も誠意もないので、一時横浜に引き上げ、海兵隊の力を借りて自衛の道を講じようと決定しました。本来、在外公館は相手国の首府に駐在してこそ、その存在の意義があります。それを首府から一斉に離れるというのですから、かなり異常な決定です。

 オールコックはこれにより様々な狙いを同時に実現しようと考えていました。

 第一に、ハリスが勝手に約束した、開港・開市延期をもう一度元に戻すための圧力ということです。先に述べたとおり、日本の開国により最大の利益を上げているのは、先鞭を付けた米国ではなく、英国の商人です。彼らは、当然の事ながら一日も早い全面開国を待ち望んでいたわけです。ハリスが開港開市の延期を、自分と直接の利害関係がないプロイセン問題と結びつけて受諾したのも、漁夫の利を占めたイギリスへの憤りにあることは間違いないでしょう。

 第二に、それによりハリスの顔を潰すことで、これまでハリスが務めていた在日外交団の幹事役をオールコックに奪い取り、英国の対日影響力を増大しようということです。

 第三に、領土的野心です。横浜の外国人居留地を、中国における外国人租界のように、自らの武力で守る治外法権の地とすることを狙ったのです。

 特に、第一、第二の狙いが大きかったことは、本当の当事国であるはずの米国を除外してこの会談を開催したことに、良く現れています。

 万延元(1860)年12月16日に、オールコックはさっさと英国公使館を横浜に移転してしまいます。これを知った幕府は驚倒し、困惑しました。

 ハリスは、自分をあえて招かずになされた列国公使館を横浜に移すという決定には、絶対反対でした。何より、そのまま横浜移転に追随したりすれば、それまで2年近くもかけて営々と築いてきた在日外交団の幹事という地盤を失うことになります。そこで、オールコックに手紙を書いて巻き返しにでます。

 手紙の中でハリスは、第一に自分は江戸での居住に何ら不安を感じていないこと、第二にヒュースケンの死は、夜間外出が危険であることを幕府が繰り返し警告しているのに、これを無視したためであること、そして第三にその少し前にイタリアのナポリで起きたフランス公使暗殺事件にも関わらず、列国がナポリから撤退していない事実等を指摘しました。さらに、フランス公使やオランダ公使にこの手紙の内容を伝えて、彼らの了解を求めたのです。

 在外代表部が、その首都にいないというのはどう考えても異常な事態ですから、各国は結局ハリスに同調しました。こうして、オールコックの、少々非常識なデモンストレーションは失敗に終わり、万延2(1861)年1月21日には英国領事館自身も江戸に復帰する羽目になります。なお、この年は2月19日に年号が文久に変わります。

 したがって、この事件は、結果として、いたずらに在江戸外交団の中におけるハリスの優位性を高めただけに終わりました。

(4) ヒュースケン事件の後始末

 他方、ヒュースケン暗殺のニュースがワシントンに届くと、米国政府は、英・米・蘭・仏・露の軍艦をもって日本沿岸で軍事デモンストレーションをするように指示してきました。米国政府が、この時点でも、ペリー以来の砲艦外交を信じていることがよくわかります。硬軟取り混ぜた英国の外交に比べて、米国の姿勢が柔軟性を欠いていることが判ると思います。が、ハリスに直接動かせる艦船を与えたわけではありません。翌1861年から南北戦争が始まる、という時期なので、そんな余裕は米国政府にはないのです。

 したがって、ハリスとしては、この訓令に従うには、他国、特にイギリスを動かす以外に方法はありません。が、江戸に居住していても何ら問題はない、と断言しながら、そういう要請をすることは、彼とオールコックの関係がこじれきっているこの時点では、不可能なことでした。

 するとアメリカ本国は、それに代わる措置として、日本政府からヒュースケン暗殺に対する誠意ある回答を引き出すように指示しました。ハリスはそれを、日本から賠償金を取り立てるように、という意味の指示と考え、その後数ヶ月かけて幕府と交渉しました。これは、ヒュースケンの死は彼の自業自得であり、幕府に責任はない、と各国公使宛に公言したハリスとしては、実に変な行動です。

 先のイギリス公使館移転騒ぎなどでハリスに借りがあると感じていた安藤信正は、しかし、この交渉に結局応ずることにし、文久元(1861)年10月23日になって、1万ドルの賠償金を支払うことを承諾しました。関税収入の洋銀を直接これに充てて交付したようです。

 しかし、これは歴史的に見れば、大きな失敗でした。これにより幕府は外国人の襲撃事件で賠償金を支払うという前例を作ってしまったからです。以後、襲撃事件の都度、列強から賠償金をゆすり取られるようになります。そのピークが下関砲台砲撃事件で、幕府はその莫大な償金に苦労し、債務の大半を支払いきれずにいる間に滅亡して、明治政府に引き継いでしまうことになります。

7. 英国の対日政策の転換

(1) ロシア艦対馬占拠事件

 万延2(1861)年2月3日、ロシア軍艦ポサドニック号が対馬に来て、そのままそこを占拠し、アジアの拠点としようとした事件が起きました。この時点で、幕府にはこれを強制退去させるだけの実力はありませんから、幕閣は狼狽しました。

 4月になって、ようやく遣米使節の一員としてワシントンから戻って間のない小栗忠順(ただまさ)を対馬に派遣しました。この間に対馬では、ロシア側が暴行や略奪を繰り返すことに対して、住民が怒って抵抗運動を展開し、死傷者を出していました。しかし、小栗忠順はきちんと退去を要求するどころか、ロシア側に脅かされて「拙者どもかぎりでは取り扱い候あいだ、急速江戸表へ立ち帰」って指示を仰ぐと称してそうそうに逃げ出し、指示のあるまでの間は「なるたけ穏便に取り扱い申すべく候」と通達する、という弱腰ぶりです。小栗忠順という人は、官僚としてはかなりの才人ですが、こういう厳しい状況に即応する能力までは持っていなかったようです。

 しかし、幕府以上に狼狽したのが英国公使オールコックです。クリミア戦争に敗れたロシアが、西への進出を諦めて、東に矛先を向けていることは明らかでした。この極東におけるロシアの脅威に対し、オールコックとしては早急に何らかの手を打つ必要がありました。彼は、ロシア艦が退去しない場合には、イギリスも対馬を占領して日本海における拠点にしようと意思を固めて、指揮下の軍艦オーディン号を派遣してロシア艦を威圧しました。この結果、8月に、ロシアは退去したので、イギリスによる対馬占拠という事態も起こらずに済みました。

 幕府は単純にオールコックがロシアを追い払ってくれたと考えたものですから、これにより、オールコックと幕閣の間に一定の信頼関係が生まれたことは確かです。

(2) 第1次東禅寺事件とその波紋

 幕府に対するオールコックの姿勢が大きく変わるのは、しかし、皮肉にも彼に対する攘夷浪士による襲撃をきっかけとしました。

 朝廷は、この万延(1861)2年の2月19日に早くも改元し、年号を文久とします。その文久元年5月28日夜、英国公使館のおかれていた高輪の東禅寺が、水戸浪士17名によって襲撃されたのです。

 この時点では、東禅寺の警備の主力は、旗本の子弟で編成していた別手組40名でした。この他に、中門の外を大和郡山藩が、また、裏手を三河西尾藩が警備しており、両藩併せて200人近い人間がいました。

 この厳重な警備の中にわずか17名で切り込んだのですから、まさに決死の覚悟といえます。実は、この水戸浪士達は、戊午の密勅返納に反対して、斉昭により追われた一派の残党です。すなわち、井伊直弼暗殺者の仲間ということです。幕府の厳しい残党狩りに将来の展望を失い、派手な死に場所を求めて切り込んだのでしょう。

 浪士達が、寺院内にどのように潜入したのかは判っていません。公使の寝室近くまで侵入したところで発見され、警備陣と斬り合いになります。結局、犯人のうち3人がその場で殺され、2人が重傷を負って捕縛されました。また、幕府は、事後に、直接襲撃したものばかりでなく、その一味も多数逮捕することに成功しました。

 英国人では、第一書記官のオリファントと、たまたま来訪していた長崎領事のモリソンが負傷しました。そのほかは、無事でした。が、警備陣は合計で20人以上の死傷者を出したのです。

 それまで、オールコックは幕府の行っている厳重な警備は、外国人を監視する事をかねての嫌がらせくらいに考えていたのです。が、目の当たりに浪士達の襲撃の恐怖を見て、考えが一変しました。確かに、貿易反対派の力は侮りがたいものがあり、したがって安易な開港場・開市場の拡大は、イギリスが条約を締結している相手政府を崩壊させるという悲劇の元となりかねないことを、はじめて理解したのです。

 もっとも、理解したということと、列強としての利権を確保することは別です。すなわち、オリファント、モリソンに対する賠償金ということで、オールコックは、ヒュースケン事件の先例に倣い、1万ドルづつ、計2万ドルを幕府からゆすり取っています。

 この東禅寺はさらに翌年5月にも襲撃されます。こちらの方は、その時期に東禅寺の警備を担当していた松本藩藩士1名が、やはり公使の寝室を襲おうとしてイギリス人水兵に発見され、水兵2名を斬殺し、自らも自殺した、というものです。この事件でも、幕府は賠償金として1万ポンドをイギリスから強請り取られています。

 この二つの東禅寺襲撃を区別するため、先に書いた水戸浪士による襲撃を普通第1次東禅寺事件と呼びます。

(3) 遣欧使節の派遣

 A 遣欧使節派遣までの経緯

 少々話は遡ります。ハリスの画策により実現した、この前年2月の遣米使節の出発を、オールコックは焦慮の念で見送っていました。それにより、米国が日本における主導権を確立することができることは明らかだからです。

 しかし、練達の外交官らしく、オールコックは直ちに失地の回復に取りかかります。すなわち、遣米使節がまだ出発の準備に追われている段階で、早くもオールコックは、江戸における米国の優位性を突き崩すべく、英国の外務大臣に、遣英使節招待案を書いて送っているのです。

 その後、井伊直弼が暗殺され、久世=安藤政権になるとともに、幕府ははっきりと貿易に対して消極姿勢を見せるようになります。オールコックは、自由貿易主義の優越性を信じていますから、その立場から何とか幕府を説得しようとします。しかし、幕府は攘夷浪人の横行や朝廷の反対を理由に、新潟等の開港・開市はおろか、横浜の鎖港までもほのめかす始末です。その結果、開港を促す交渉は完全に膠着状態に陥ってしまいます。

 そこで、オールコックとして考えられる唯一の打開策は、遣英使節の誘致ということになります。日本の為政者に欧州文明の優越を見せつけることで、攘夷や鎖港という政策は、時代に逆行するもので、列強側としては、到底受け入れ不可能であることを知らしめようというわけです。

 ちょうどロンドンで1862年5月から国際大博覧会が開催されることになっていました。だから、それにあわせて日本代表がイギリスに行けば、欧州の文明を一度に見ることができます。またそこで日本の優れた工芸品を展示することにすれば、日本からの輸出促進にも繋がると考えたわけです。

 幕府に打診したところ、幕府は喜んで応じてきました。ただし、幕府側の思惑は、オールコックとは全然別のところにあります。つまり、和宮降嫁を実現する際に、10年以内に再び鎖国体制に戻すという事を朝廷に公約しています。そこで、そのための了解を遣欧使節を派遣することで、本国政府から取り付けようというわけです。

 しかし、先に述べたように、東禅寺の襲撃にあうことで、オールコックの意見は劇的に変化しました。警備陣が出した甚大な損害を見て、浪人が、外人への嫌がらせに幕府がそそのかして動かしている暴力団では決してなく、幕府と外国人双方にとって、真に危険な存在ということを理解することができたのです。

 このように、幕府がいたずらに時間稼ぎをしているという先入観がなくなった後に開かれた、7月の9日及び15日の安藤信正のとの会見は、歴史的重要性を持ちました。それまでになかったほどのつっこんだ質疑応答が行われた結果、オールコックは、開港・開市問題で幕府が直面している危険がいかに大きなものかを、よく理解することができたからです。

 B 遣欧使節団の構成員

 文久元年12月22日、遣欧使節団は出発しました。幕府内部には、この時期の出発を、いたずらに攘夷論者を刺激するものとして難色を示すものがありました。しかし安藤信正は、これを断行すること決定したのです。この決断が、この翌年早々に起きる坂下門外の変の一つの原因となります。

 一行は、正使、副使、観察使の3名に、通訳その他36名の部下を従えて英国軍艦オーディン号で出発しました。遣米使節の時は80名の随員でしたから、それに比べると半分以下の規模です。これは幕府財政が苦しい折から、渡航費用を全面的に招待者側に依存したので、招待者側から人数の削減を求められたためです。

 招待費用を中心となって負担をしたのは英国ですが、そのほか、フランス、オランダ、ロシア等、わが国と条約を締結していた国が分担しました。したがって、使節はこれらすべての国を歴訪することになったわけです。

 正使は外国奉行兼勘定奉行の竹内保徳、副使は外国奉行兼神奈川奉行の松平康直、観察使となったのは目付の一人、京極高朗(きょうごく・たかあき)でした。

 実は副使は、当初、水野忠徳の予定でした。ところが、オールコックが強く異を唱えたのです。

 一連の外国人殺害事件の一つに、ロシア軍艦の士官殺害事件があります。その時、外国奉行水野忠徳は神奈川奉行の職を兼ねていたのですが、事件が起きたとき、その責任を問われて、外国奉行と神奈川奉行の職をともに解かれていました。

 オールコックは、そのようなロシア人襲撃事件の責任者とされた人物を遣欧使節の副使として派遣するのは、ロシアとの関係でまずい、と指摘したのです。おそらく、一連の外交交渉で幕府側の利益をもっとも明確に主張し、特に万延改鋳を推進したために、彼がオールコックに毛嫌いされていたことが真の原因でしょう。水野忠徳にとっては何とも不運な話でした。

 なお、この遣欧使節団の随員には福沢諭吉、福地源一郎、松木弘安(後の寺島宗則)、箕作秋坪(みつくり・しゅうへい)等、維新後に活躍することになる俊秀達が多数含まれていました。この点、安藤信正の開明性を示すものといえます。井伊直弼政権下で、事なかれ主義の人選に終始した遣米使節のとの差を感じます。その意味でも"忘れられた遣米使節"に比べると遙かに重要な使節団でした。

 しかも、この使節団は、日本側が本当の目的とした通商条約の改正に成功したのです。短期的には、この点に、この使節団の最大の重要性があります。単に形式を整えに行っただけの遣米使節団との大きな相違です。

(4) 開港開市の延期

 オールコックは文久2年3月に一時英国本国に戻りました。その帰国に先立って、2月12日及び16日の二日にわたって、幕閣と最後の話し合いが行われました。この時、安藤信正は坂下門外の変で負傷していて欠席したため、もっぱら久世広周と話をすることになりました。久世は、開港・開市の延期がない限り、内乱の危機に直面していると訴えました。オールコックは幕府の窮状を理解し、幕府の提案に対して譲歩することを、ここに最終的に決意したのです。

 遣欧使節団は、当初パリに行って条約改正交渉をしますがうまく行かないので、ロンドンに行きました。しかし、英国外務省としては現地情報が十分ではないため対応できず、結局、使節団はそこでオールコックが英国に帰りつくまで1ヶ月も待たされることになります。

 しかし、オールコックは、帰国すると早速ラッセル外相に日本の状況を詳しく説明し、説得したので、英国政府は、オールコックの提案にしたがい、安政条約の修正を承諾することにしました。

 遣欧使節団との間で、新潟、兵庫両港の開港及び江戸及び大阪の開市を1863年1月1日から5年間延期することを認める、という条約(ロンドン覚書と呼ばれます)を締結したのは、文久2年5月9日のことでした。交換条件として、函館、横浜、長崎3港では条約をきちんと遵守すること、外国人を排斥する古法は廃止すること、等がついていますが、さしあたり特に問題になるようなものではありませんでした。

 日本市場に最大の利害関係を持つ英国が、このように譲歩したのですから、フランス以下の関係国もこれに倣います。この通称条約修正の成功により、幕府は攘夷の実行問題で一息つくことができるようになったのです。この激動期に5年の猶予は実に大きなものといえます。

 しかし、次に述べるように、この時点では既に久世=安藤政権は崩壊してしまっており、その後継者達も、この猶予期間を生かして幕府を立て直すことはできませんでした。5年後の1868年とは、明治元年として知られる年なのです。

8. 坂下門外の変

 安藤信正は、井伊直弼の場合と同じように、自分が攘夷派の浪士から襲撃される可能性が非常に高いことは十分に承知していました。そこで二つの予防策を講じていました。

 普通、老中が登城するのは、井伊直弼と同様、桜田門からです。しかし、市中を長く歩けばそれだけ襲撃の機会が増えます。そこで、彼は前例を破り、自分の上屋敷から最寄りの坂下門から登城することにしていたのです。

 また、剣術の達者なものを雇い、駕篭の回りに配置していました。もちろん、井伊家のように、柄袋をかけるような不用意なことはさせません。

 文久2(1862)年1月15日、安藤信正は、6人の水戸浪士に登城の途中を襲撃されます。

 襲撃者は井伊直弼襲撃の時と同様に、拳銃を一発発射した上で駕篭めがけて突進しました。しかし幸運にも、この拳銃弾ははずれました。駕篭脇の剣術使い達は、かねて予想していたところですから、一斉に迎撃します。安藤家の方が人数が遙かに多いこともあって、容易に襲撃者を切り伏せることができました。

 問題は、この雇われ剣客達が眼前の敵を深追いしすぎたところにありました。そのため、駕篭の脇に誰もいなくなってしまった瞬間が生まれてしまったのです。その時、遅れて飛び出した浪士が駕篭に駆け寄り、扉越しに数回刀を突き通しました。駕篭の中で、安藤信正は必死に身体を伏せて、攻撃をかわしました。そのおかげで致命傷は負わなかったものの、それでも、後頭部及び背中に3箇所の傷を負ってしまいました。

 襲撃そのものはホンの一瞬のことでした。安藤信正は、自分自身で坂下門まで出向き、襲撃にあって手傷を負ったので、今日は登城を取りやめる旨を、門を守る武士に告げた上で帰邸しています。その落ち着いた態度に、その場にいた者は皆、非常に感心したそうです。

 しかし、彼の落ち着いた行動も、市中にデマが流れるのを防ぐことはできませんでした。

 井伊直弼が暗殺されたときに、幕府は負傷しただけで生きていると発表したものですから、今回、軽傷にとどまったと発表しても、安藤信正は実際には死んでいるのだ、と、一時、デマが流れ、多くの者が信用してしまいました。

 また、無事であることが判ったあとでは、浪士に追われて足袋裸足で坂下門に逃げ込んだ、という悪質なデマが流れたりしました。

 実際には、軽傷でしたから、登城は遠慮したものの、病床から安藤信正は指示を出し、政治を動かし続けました。オールコック等、外国公使とも、病間で話をしたりしています。

9. 久世=安藤政権の崩壊

(1)謎の失脚

 襲撃から3ヶ月後の文久2(1862)年4月11日、安藤信正は老中職を免ぜられ、失脚します。そればかりか、彼とともに内閣を構成していた老中達は、この前後の時期に一斉に免職になっています。すなわち、三河岡崎藩主本田忠民が安藤信正より前の3月15日に、越後村上藩主内藤信親が5月26日に、そして久世=安藤政権で筆頭老中とされていた久世広周が6月2日にそれぞれ免職となります。久世=安藤政権で老中職を務めていた者で残ったのは、わずかに丹波亀岡藩主松平信義ただ一人という徹底した粛正が行われたのです。

 これまで幕府では、政権が変わっても、その中心人物が変わるだけで、閣僚の総免職ということはまずありませんでした。これに匹敵するほどの大粛正は、田沼政権末期に松平定信がやった大粛正が唯一の前例といえます。

(2) 崩壊の原因

 なぜ久世=安藤政権がこの時点で崩壊し、その手段としてこのような総免職の形を取ったのかは、幕末史の謎の一つです。政権崩壊の理由が説明できないものですから、普通、日本史の本では、漠然と「坂下門外の変が原因となって」という曖昧な書き方をしています。しかし、坂下門外の変が原因なら、その直後に失脚するはずで、3ヶ月も間があいたのは不自然です。また、変の直接当事者である安藤信正だけならともかく、全閣僚に及んだ理由も説明できません。

 普通、老中が失脚するには、将軍と衝突して免職されるか、閣内もしくは溜まりの間などの有力者と衝突して免職されるか、のどちらかです。

 この時点での将軍は家茂ですが、やっとかぞえの17歳。へそ曲がりを自認していた勝義邦(海舟)でさえ無条件の忠誠を誓っていたほどの、実に気分の良い若者だったということです。実際の政治を精力的に動かしている老中を失脚させ、自ら親政を行おうとするほどの意欲的な人物では、間違ってもありません。

 では、老中の中か、譜代大名、あるいは御三卿、御三家中に、彼を失脚させて政権を握るほどの実力者がいたのでしょうか。この時期にはそれもまったくいないのです。

 現役老中の中で、ただ一人粛正されずに生き残った松平信義は、翌年9月まで老中の座を暖め続けます。が、はっきり言って小物で、以後の政局でもキャスティング・ボードを持つことは、まったくありませんでした。

 その後の政権を担ったのは、本田忠民が罷免された3月15日に新たに任命された水野忠精(ただきよ)と板倉勝静(かつきよ)の二人です。前者は水野忠邦の息子であり、後者は、安政の大獄時に寺社奉行を務めていて、刑罰を緩やかにすることを主張して井伊直弼に罷免された人物です。確かに新鮮な人事ですが、いずれも少々小粒という感を免れません。彼らが、閣外から、上記大粛正をやってのけたとは、その後の彼らの政治能力を見ても、まず考えられないことです。

 では、将軍でも、老中でもない誰が、この大粛正を演出したのでしょうか。

 福地源一郎は、久世広周自身がやったのだという説を「幕末政治家」という本で書いています。つまり、安藤信正が井伊色を政権から一掃しようと努めたにもかかわらず、久世=安藤政権はなお井伊の後継政権と見られて、安政の大獄に対する恨みを浴びている所があったので、人心を一新するために、自分自身も含めた全閣僚の更迭を行ったのだ、というのです。つまり筆頭老中の自作自演だというわけです。

 しかし、自作自演ならば、普通、退陣後も一定の発言権を維持するものです。ところが、その後の政治は、いきなり彼らのそれまでの努力を否定する方向に走り出し、さらに久世や安藤は新政権から厳しい処分まで受けています。単なる人心の一新策としては、あまりに馬鹿げた後任人事です。したがって、新政権樹立に久世の意志が働いているとはとうてい思えません。

 国益会所問題で、勘定所側を安藤信正や久世広周が支持したため、それに敵対する大小目付から反発されたことが原因とする説も日本史の専門家の間では強く唱えられています。

 確かに坂下門外の変後における、目付達の、安藤信正に対する反発は、非常に強いものがありました。先に述べたとおり、信正は伏せて攻撃をかわしたものですから、その傷は後頭部や背中についています。昔から武士には、向こう傷は名誉で、後ろ傷は不名誉とする考え方があります。そこで変後に信正が傷が癒えて出仕すると、目付は一様に彼に反感を示し、強硬派の中には、安藤候がこの後もお勤めならば目付は一斉辞職をする、と脅かす者までいたほどです。

 しかし、下僚が反発する程度のことであれば、井伊直弼のようにばっさりとまとめて免職するなり、処分するなりすれば足りることです。内閣崩壊の原因とするのはうなずけません。そして、久世=安藤政権は、先に述べたとおり、自らの決定に目付が反対すれば、国益主法掛からばっさりと全目付を切り捨てるほどの実力と気概を持っていたのです。

 坂下門外の変が起きたとはいえ、代わりの実力者が台頭したのではないのですから、彼の実力が急に失われたとは思えません。また、仮に安藤信正自身の実力が変によって失われて、彼の失脚原因となり得たとしても、久世=安藤内閣そのものの総退陣の原因としては理解できないといわざるを得ません。

 島津久光からの圧力があったとする説もあります。久光は、4月16日に朝廷に提出した改革趣意書9箇条の中で、安藤信正の退陣を求めているのです。しかし、安藤信正の退陣は、この改革趣意書の提出より前の話なのですから、これも説得力を持ちません。

 もっとも、幕府は、安藤信正免職の前日である4月10日に、会津藩の松平容保(かたもり)と越前藩の松平春嶽の二候に対し、政治に関して発言して欲しいので、頻繁に登城して欲しいという旨の将軍命令を発しています。松平春嶽に対する政治的発言の許容は、明らかに朝廷の歓心を買おうとする行為です。しかし、同時に佐幕派の筆頭というべき松平容保に同じ事を言っているところは、バランス感覚に出たものと言えそうで、この時点では必ずしも朝廷一辺倒とは思えないのです。

 こうして現在ある説はどれも説得力に欠け、結果として謎の失脚としか言いようがないわけです。

 とにかく、安藤内閣が崩壊した理由は不明ながら、6月2日の久世広周の免職により、政権は水野=板倉連立内閣へと移行することになります。

 久世=安藤政権は、幕府が主体的に行動した最後の政権でした。それに先行する井伊政権の残した課題に積極的に取り組みました。井伊政権が経済その他の内政や外交で無能ぶりが目立つだけに、それとの対比で、久世=安藤政権は、その存続期間が短かった割には驚くほど多くの実績を上げた政権ということができます。

 それに代わって登場した水野=板倉連立内閣は、事実上、島津久光の圧力の下に京都のリモコン内閣とでもいうべきものとなり、松平春嶽政治総裁及び一橋慶喜将軍後見職を受け入れ、次章に述べるように、幕府を瓦解させる方向へ、もしくはそこまで行かない場合にも、少なくとも自らの努力による問題解決を投げ出しているものとなってしまいます。

 その意味では、久世=安藤政権が崩壊した瞬間に、正統的な徳川幕府の歴史は、その幕を閉じていた、ということができます。

 財政という面から見て重要なのは、この政変以降、幕府官僚内部の力関係が大きく変動し、勘定所出身者の発言力が地に落ちた、という点があります。代わって目付の発言が幕府行政を動かすようになるのです。

 社会が混乱しているときには、一般に、強硬意見が歓迎され、現実を見据えて一歩一歩改善しようというような意見は日和見主義と排斥される傾向があります。国益会所問題に見られるように、勘定所出身者は現実的解決を求めようと柔軟な姿勢を示すのに対して、目付は法令を出しさえすれば現実を動かせる、という錯覚をもっています。これ以後の幕府行政は、そうした現実から遊離した強硬意見によって支配され、幕府の没落を一層加速していくことになります。

(3) ハリスの帰国

 米国公使ハリスは、かねてから健康上の理由から辞任を希望していましたが、この時期、ようやくその許可がおりました。安藤内閣が崩壊しつつあった文久2(1862)年3月9日、ハリスは彼の解任に関するリンカーン大統領からの親書を将軍家茂に上呈するため、将軍家茂に謁見を求め、これは3月28日に実現しました。これに答えて、安藤信正は、将軍家茂の名で、ハリスの多年の功績に感謝する国書をリンカーンに出しました。

 ハリスは江戸を4月10日に出て、12日に横浜から出航する船で日本を離れたといわれています。11日の安藤信正の免職を、彼が去る前に知ったかどうかは微妙なタイミングといえます。

 ハリスの後任はプリュインRobert H. Pruynです。あまり幕末史に名を見せない公使です。彼は小人物で、彼を通じて幕府がアメリカから軍艦を買おうとした時、なぜかそれを個人的に斡旋してくれと依頼されたと誤解して(あるいはわざと曲解して)民間企業との間に入って利鞘を取ろうとしたものですから、幕府はあきれて、以後相手にしなくなってしまったためです。

 こうして、わが国幕末史で米国が活躍した日々も、ハリスの離日とともに終わりを告げることとなりました。

 ハリスは、ほとんど軍艦の支援も受けず、単身で日本を開国させるという偉業を成し遂げたのですから、本来なら、リンカーンから英雄として迎えられても良かったでしょう。しかし、実際にはほとんど相手にされず、その後、不遇のうちに没することになります。

 その原因は、ハリスの行動に彼特有の不明朗さがつきまとっていたことにあります。例えば、金銀比価の違いから小判の大量流出が起きたとき、英国公使館員の中にも、その利殖に手を染めて処罰されたものがいた、と先に書きました。ところが、ハリスの場合、そうした不正行為を取り締まる立場にいた彼自身が先頭に立って、小判の貯め込みをやっていたらしいのです。

 また、横浜の米国商人の保護もほとんどしなかったので、在日米人の間から彼の罷免要求がでていました。彼の帰国は、そうした不明朗さを糾弾されての罷免という要素が強かったので、とても凱旋将軍というわけには行かなかったのです。