第5章 松平春嶽と文久の幕政改革

1. 文久2年の政変

(1) 島津久光上京

 文久2(1862)年春、日本の西の端で、一人の男が、自分の力により、日本の歴史を書き換えようという決意を固めていました。島津久光です。通称を三郎といいます。

 島津家では、幕末期、最初は名君斉彬(なりあきら)が登場し、積極的な殖産興業に努めて国力を発展させました。また、阿部正弘や松平慶永等と親交を結んで、中央政界にも一定の発言権を確保していました。将軍家定の妻に一族の娘を送り込むのに成功したのはその成果の一つです。

 しかし、斉彬を支持する一派と、斉彬の異母弟久光を盛り立てようとする一派との間の陰惨な派閥抗争(直木三十五の代表作「南海太平記」にオカルトタッチで描かれています)の果てに、斉彬の子供達は皆不慮の死を遂げ、斉彬自身も安政5年に死去していました。斉彬は死去するに際し、藩内の紛争を終結させるべく、久光の子、忠義を後継者とし、久光をその後見人と指定しました。

 斉彬は単にスケールの大きな政治家であっただけでなく、出自に拘らずに人材を発見する能力のある人で、大久保利通、西郷隆盛など多数の有能な下級武士を抜擢していました。斉彬が死ぬと、彼らは精忠組という秘密結社を組織し、水戸藩士と呼応して脱藩して、井伊直弼を暗殺することを計画しました。

 既に脱藩用の船まで用意してあるというきわどいタイミングでこの情報をキャッチした久光は、彼らを呼び寄せ、斉彬の路線を今後とも継承する、と自ら説得して、この精忠組を自分の腹心とすることに成功しました。ただし、西郷隆盛だけは久光とそりが合わず、面と向かって悪口を言い放ったものですから流刑になっています。

 結局、井伊直弼の暗殺には、薩摩藩士は一人だけ参加しています。彼の場合、江戸詰の精忠組だったので、暗殺に参加することを中止する旨の連絡が届かなかったのです。

 こうして大久保利通以下の精忠組を取り込むことに成功した久光は、彼らを活用して藩政改革を行った結果、この文久2年春になって、いよいよ天下に向けて自分が動き出す準備は整ったと判断したのです。文化14(1817)年生まれですから、この年には45歳。まさに働き盛りです。

 彼は何と、700余の兵を率いて上京したのです。小銃隊を従え、更に一応荷物に偽装してあるとはいうものの、4門もの大砲まで引っ張っての進軍でした。藩主自身ではないとはいえ、外様大名が、これほどの大兵を率いて旅をしたのも、また、京都に堂々と顔を出したのも、徳川幕府始まって以来初めての大事件といえます。幕政盛んな頃であれば、これほどのことをすれば、島津藩といえども取り潰しは避けられなかったでしょう。

 そして、前章にも言及した改革趣意書9箇条を4月16日に朝廷に提出し、安藤信正の罷免、松平春嶽の政治総裁就任、一橋慶喜の将軍後見職を含む、朝廷による一連の幕政改革を建議したのです。

(2) 寺田屋事件

 当時、尊皇攘夷志士はすでに京都を席巻し、天誅と称して盛んに無益な殺人や強盗を始めていました。そこに、これほどの武力を備えた久光が登場したのですから、朝廷は喜び、この過激派の取り締まりを依頼したのです。

 この時、薩摩藩精忠組の中でも過激派の有馬新七を首領とする一派が伏見の旅館、寺田屋に集まり、京都襲撃を行おうとしていました。すなわち、京都において幕府を代表する機関である所司代邸に切り込んで、京都所司代を血祭りに上げ、それをてこに上京中の久光軍を動かして一挙に幕府を攻撃し、政権を朝廷に呼び戻そうという陰謀を巡らしていたのです。

 久光は、基本的には公武合体的思想の持ち主で、兄斉彬の遺志を承継して、雄藩連合で幕府を動かすのが妥当と考え、朝廷を利用してその方向に幕府政治を動かそうと考えて動き出したのです。したがって、幕府そのものを滅ぼそうとは間違っても考えていません。

 そこで、久光は、この暴動計画を聞いて激怒しました。有馬新七等と同じく精忠組である奈良原喜八郎ら8人を派遣して、薩摩藩士を召還することとしました。自ら慰留するというのです。しかし、召還を聞かなければ上意打ちをするように命じました。有馬新七が召還を拒んだ結果、精忠組同士の間で、激しい死闘を演じることになり、多数の死傷者を出しました。久光の非情な意思を内外に歴然と示した事件でした。これにより、薩摩藩の尊王攘夷過激派は壊滅します。

(3) 勅使下向

 久光のこの断固たる措置は、同じく公武合体はが主流を占めるこの時期の朝廷では好評でした。そこで、朝廷では大原重徳(しげとみ)を勅使として江戸に派遣することとし、久光とその率いる兵に、その警護を命じたのです。700余の薩摩軍が勅使を中心にして東海道を下るわけです。

 幕威盛んな時期であれば、大変な処罰を招きかねない行動です。が、京都所司代は、処罰を考えるどころか「島津三郎東下せば、幕府にては特別に礼遇ありてしかるべし」と江戸に報告しているのですから、既に腰が引けています。

 水野=板倉政権では、この報を聞いて震え上がります。そこで、事前に京都の歓心を買おうと、井伊直弼の命により隠居させられていた尾張慶恕及び一橋慶喜に登城を促し、5月7日に将軍家茂と対面させたりしています。

 勅使と島津久光は6月7日に江戸に到着し、10日に将軍に面会しています。勅諚(ちょくじょう)の原文は漢文で、かなりの長文ですが、それを要約すれば、外国がほしいままに暴れているのに、幕府はどうして良いか判らない状態にあるので、朝廷が知恵を貸そうということです。そして、最後に三つの具体的提案が書かれています。すなわち、第一に将軍が上洛して京都で政治を行うことを求め、第二に豊臣秀吉の故事に倣って大藩の藩主を五大老として、国政を決するに当たって是に計ることを求め、第三に一橋慶喜を将軍後継職に、松平春嶽を大老に、それぞれ就任させることを求める、というものです。

 ただし、この全部を飲め、というのではなく、どれでも良いから、この中の一つを飲め、という要求になっています。どれも駄目だ、といえば、せっかく皇妹和宮の降嫁によって実現した江戸と京都の間の協調体制が崩壊します。だから幕府としてはどれかを受諾しなければなりません。

 数日にわたり、幕府では抵抗しましたが、久光の武力をちらつかせての威嚇に腰が砕け、受け入れることになります。俗説によれば、大久保利通が隣室に刺客を伏せて幕府の幹部を脅したといいます。しかし、私はむしろ700余の武力そのものをちらつかせたのだと考えています。そうでなければ、数十万両の費用をかけて、薩摩からこれほどの軍勢をはるばる江戸まで動かした意味がないからです。

 いうまでもなく、将軍上洛は天文学的な費用が掛かり、幕府財政が逼迫し、艦船購入や軍備の拡充で支出が急激に増大している折から、実現は困難です。五大老という制度の導入は、文字通り幕府の崩壊を招きかねません。結局、一番受け入れやすいのは、第三の、れっきとした徳川一門である一橋慶喜と松平春嶽の処遇改善という要求であることはあきらかです。実際、久光の狙いも、これによりかっての一橋派の復活にあったことは明らかといえるでしょう。

 そこで、隠居させられていた一橋慶喜に、7月8日に、改めて一橋家を相続させた上で、将軍家後見職としました。

 また、翌7月9日に春嶽は政治総裁職に就任します。勅諚通りに春嶽を大老にせず、新たに政治総裁という職を作ったのは、先に述べたように大老という職は井伊家など特定の家柄だけから就任するという幕府の慣行を守るための苦肉の策というべきでしょう。

 しかし、同時に、この名称には諸外国の内閣制度を導入しようとする積極的な意欲も隠れています。以後、陸軍総裁、海軍総裁、外国総裁、会計総裁などの名称の職が幕府の滅亡までの間に次々と新設されるようになります。すなわち明治以降の名称でいえば、陸軍大臣、海軍大臣、外務大臣、大蔵大臣などに相当する官職です。

2. 新政権の政策

(1) 政権の担い手

 一橋慶喜の側からこの政変を見ると、将軍後見職とは名ばかりで、実権を伴わない形ばかりの改革という感じでした。無能な老中達は、自分の上に責任者が生じたのを良いことに、徹底的に責任を回避するようになります。すなわち「老中も若年寄も概ね姑息偸安(とうあん=目前の安楽をむさぼること)にして、改革の誠意はなく、『いづれとも橋・越二公の御英断にあるべし』といいて、事毎に責任を避け」(渋沢栄一『徳川慶喜公伝』より引用)る態度をとっていたからです。

 しかし、実際には大きな変革がそこには生じていたのです。すなわち、一橋慶喜は自分が単なるお飾りだったので、松平春嶽も同様の地位にあると思っていたのですが、これは錯覚でした。春嶽は、一橋慶喜を祭り上げておいて、実際にこの時期の幕府政治を動かしていたのです。

 春嶽には二人の重要なブレーンがありました。一人は、横井小楠です。彼は文化6(1809)年生まれの肥後藩士ですが、安政5(1858)年、すなわち安政の大獄で懐刀であった橋本左内を失った春嶽によって越前藩に招かれ、藩政改革を指導して大いに面目を施しました。当然、春嶽が政治総裁となるとともに、その補佐役として活躍するようになっていたのです。

 小楠は、「国是七策」を定めて、春嶽政権の施政方針としました。次の通りです。

 一 大将軍上洛して、列世の無礼を謝す

 二 諸侯の参勤を止めて術職(領内政治の報告書を将軍に提出する)となす

 三 諸侯の室家(妻子)を帰す

 四 外様譜代に限らず賢を選び、政官となす

 五 大いに言路をひらき天下とともに公共の政をなす

 六 海軍を興し、兵威を強くす

 七 相対貿易を止めて、官交易をなす

 この国是の背景には、もはや幕府単独で外国の侵略をくい止められる状況にはないので、挙国一致体勢で臨む外はない、という小楠の思想があります。そのためには諸侯が財力を蓄え、外国と戦える体力を付けることが必要だ、ということになります。それを実現するには、無用の支出を意味する参勤交代を廃止し江戸屋敷を縮小して人質となっている妻子を国元に帰すことが必要というわけです(二及び三)。また、春嶽政権の基盤となっているのは、一橋派と呼ばれた雄藩なのですから、その藩主に幕政に発言する権限を認める必要があります。(四及び五)。六に言っている軍備の増強は、したがって、単に幕府軍備のみならず、雄藩のすべてに対する要望と理解すべきです。

 最後の七は、従来の日本史ではほとんど無視されていました。しかし、前章に説明したところを前提に見れば、ここで言っているのが、国益会所構想と同じものであることは明らかです。しかし、その国益会所は、春嶽政権の成立とともに廃止されています。なぜ廃止された国益会所構想が、ここに存在しているのでしょうか。

 そこで、春嶽政権の第二のブレーンである大久保忠寛(ただひろ)が登場してきます。

 幕府の中で実力を有する官僚集団として、勘定方と目付の二つがあったこと、国益会所を巡って両者が激しく対立し、久世=安藤政権は勘定方を支持して目付を切ったこと、を前章に述べました。その勘定方の支持者であった久世=安藤政権の崩壊は、当然の事ながら、勘定方の権力失墜を招きました。

 相対的に、久世=安藤政権の下で逼塞を余儀なくされていた目付の権力が大きく延びます。上述のように、新政権の無能な老中や若年寄が責任回避をして、いわば権力の真空状態が生じている中で、元々実力のある目付の権力が延びれば、それが幕府を動かす真の権力となるのは当然です。こうして、権力の下方移動ともいうべき現象が起きたのです。

 目付の中でも、この時期、突出して力を伸ばしたのが大久保忠寛です。彼は、この時点までは財政問題にも外国問題にも関わりを持たなかったため、本稿ではこれまで顔を出してきませんでした。が、彼も、阿部正弘が抜擢したエリート官僚達の一人という点では、これまでこの話で活躍してきた人々の一角を占めています。ただ、彼は目付として頭角を現してきたという点で、他の人々と違います。

 彼は、安政6年2月に京都町奉行になりましたが、他のエリート達と同様、一橋派であると認められてしまったことから、井伊直弼によって、同年6月に西の丸留守居に左遷され、ついで8月に罷免されています。が、文久元(1861)年8月に蕃書調べ所頭取となって復活し、10月には外国奉行に就任し、久世政権が崩壊した時期である、この文久2年5月には大目付となりました。7月には更に累進して御側御用取り次ぎとなりました。

 この大久保忠寛が、松平春嶽と緊密に結びついていたのです。まず何か改革の必要が生じると、その前夜に松平春嶽の屋敷へ大久保忠寛が行き、二人で夜半まで相談します。そして、翌朝出勤すると、評議の席で忠寛が話を切り出します。春嶽はもとより承知のことですから、それで行こうと直ちに決定を下します。しかも大小目付の大半は忠寛の親類といわれるような状況でしたから、目付達は一致して彼を支援します。この結果、一橋慶喜はもちろん、老中も若年寄も知らないところで、この時期の政策は決められ、実行されていったのです。

 目付としては、国益会所の基本構想そのものは支持しており、ただ勘定所流の漸進的なやり方に反対していたものですから、勘定所流に組織された国益会所は廃止したのです。そこで、その基本構想だけは、依然として小楠の国是七策の中に生きていたわけです。

(2) 春嶽の政策

島津久光は、江戸滞在中に、今度は自らの名で幕府に20余箇条の献言をします。これは基本的には小楠の国是七策と同様のものですから、ここでは繰り返しません。春嶽政権は、以後、忠実にそれを遵守していきます。その特徴を一言にまとめるならば、幕府と諸藩の利害が食い違う場面では、幕府ではなく、諸藩の利益を優越させる、という特徴を示します。これを久光の指揮下にある700の兵力の威嚇の下に、実現していくことになったのです。

 A 参勤交代の廃止

 これまで諸藩にとり、もっとも大きな財政負担は、参勤交代の旅行経費及び大名子女の住む江戸邸の維持費です。そこで、春嶽政権は、久光の提案を受けて、閏8月になると、まず参勤交代制の緩和に着手します。これまで1年置きの参勤交代を3年に一回に延ばし、しかも一回当たりの滞在期間を100日以内と緩和しました。したがって、参勤交代による財政負担が5割以上も大幅に削減されることになります。

 同時に、人質として江戸邸に居住を義務づけられていた大名の子女が、願い出れば帰国することも認められることになりました。これにより、江戸藩邸の維持費も大幅に縮減することができます。大名が江戸にいない間は、留守番だけをおいておけばよいことになるからです。

 しかし、これにより、幕府は、重要な大名統制手段を失ったことになります。福地源一郎が、幕府の滅亡の時点は、一橋慶喜による大政奉還ではなく、将軍家茂が勅諚を受け入れて、春嶽を政治総裁にした瞬間だと書いていますが、それはこのような政策が理由です。

 B 京都守護職の設置

 文久2年閏8月に京都守護職の制度が設けられ、春嶽と並ぶ親藩の雄、会津藩の松平容保が任命されました。

 京都守護職の任務はもちろん、攘夷派過激浪士の威圧です。これまで京都には、京都所司代の外、京都町奉行、禁裏付、二条城勤務の諸役、伏見奉行など数多くの職種が相互に独立して存在し、その相互の連絡の悪さが攘夷浪人の活動を容易にしていたのです。そこでこれらすべての役職を統括するものとして、京都守護職が設けられたのです。もちろん、雄藩藩主としては、主君の統制を離れて勝手に暴れる勤王の志士は苦々しいかぎりです。久光が江戸に来る途上で起こした寺田屋事件はこうした雄藩の意思の端的な表明です。

 容保に対しては、役料として5万石が支給されました。史上空前の役料というべきでしょう。容保は、守護職職員として自藩の藩士1000名を伴って上京しました。この空前の役料は、そのための費用を見たものです。守護職の役宅は、上京区の御所の左側、現在の京都府庁の所在地に設けられました。

 C 軍備の増強

 上述の参勤交代の廃止は、それにより生じた財政上の余裕を利して諸藩が軍備を増強することを目指したものです。しかし、さしあたり幕府直属の軍事力を強化することが、政治総裁として可能なことです。

 陸軍については、軍制改革を行い、歩兵、騎兵、砲兵の三兵を置くことにしました。しかし、幕府の直参を訓練する代わりに民間から募集することにした、という点が画期的です。

 歩兵については、この年、12月1日に江戸市中の浪士や町人、農民から公募したのです。フランス陸軍士官を教官とし、洋式訓練が行われました。西の丸に1組、神田三崎町に1組の計2組、2万人を予定したというから大変な人数です。もっとも実際にはそんなに大量の応募者はいませんでした。それでもその後2年間で3500人に達したと言うことです。

 編成は40人が1小隊、3個小隊をもって1中隊、5個中隊をもって1大隊、4個大隊で1組というものでした。制服は、ズボンに筒袖という洋装で、俗に茶袋と呼ばれていました。

 この歩兵の最高指揮官として設置されたのが歩兵奉行で、最初にその職に就いたのは小栗忠順です。もう一つ、この歩兵奉行で特筆しておくべきは、長く続いた足高の制が廃止され、代わりにお役金として800両が支給されることになったという点です。貨幣経済の時代に、米の形で給料を支給されても、換金しなければ実際には使用できないわけです。ところが、米の売却価格は、その時々の市場で変動しますから、いくらの収入になるのか判らない、というところが困るところです。新しい時代の管理職手当が現金支給となったのは、きわめて当然のことですが、同時に封建制の伝統を破るきわめて画期的なことです。

 また、この上司として、将来作られるであろう、騎兵や砲兵も統括する役職として陸軍奉行が設置されました。お役金として1500両が支給される、という地位です。最初にその職に就いたのは講武所奉行を勤めていた大関忠裕です。

 海軍の方では、すでに安政6年に軍艦奉行の職が設けられていたことは、先に述べました。文久2年の改革では、それまでは別に存在していた御船手、すなわち幕府創世以来の海軍も、軍艦奉行の下に統合され、文字通り、幕府海軍全体の指揮者となった点が大きな変更です。

 この時期、軍艦奉行の職にあったのは、井上清直、木村嘉毅(咸臨丸に乗った幕府使節)、内田正徳の三人でした。しかし、実務は大久保忠寛によって推挙された勝海舟が軍艦奉行並(なみ)という地位で切り盛りしていました。

 陸軍と違って海軍は、軍艦とそれを操作できる軍人があって活動することがはじめて可能になりますから、陸軍のように気楽に大風呂敷を広げるというわけには行きません。当初、幕府としては、前に久世=安藤政権時代に決めた海防計画に従い、膨大な海軍を建設しようとしたのです。しかし、勝海舟は、船だけ買っても、それを操作できる人間が全くいないため、実際にはそれは机上の空論であることを、春嶽や老中達の前で鮮やかに論証しました。

 結局、オランダに海軍技術を学ぶための留学生を送り出し、同時に10隻程度の船の注文をする、ということに落ち着きました。この時の留学生が、榎本武揚、津田真道、西周ら、幕末から明治にかけて活躍した俊才達です。

3. 春嶽政権の限界

(1) 報復人事

 春嶽という人は、当時名君としての評判の高かった人で、今でも高く評価する人は多いようです。しかし、私は、阿部正弘と同様に、彼の才能は優れた人材を発掘する、という点に存在し、実際の政治能力はさほどではなかったと考えています。

 すなわち、初期の春嶽の業績は、その懐刀といわれた橋本左内の能力によってもたらされたと考えています。春嶽の朋友、水戸斉昭が、その知恵袋であった藤田東湖を安政の大地震で失った後は、単なる攘夷派に成り下がったのと同じく、春嶽も、安政の大獄によって橋本左内を失った後は、馬脚を現す場面が生ずるようになった、と考えています。

 左内亡き後は、前に名を挙げた横井小楠と大久保忠寛の補佐よろしきを得て、春嶽は前に述べたような新政策を展開して活躍しています。しかし、初期においては、春嶽は背後に控え、もっぱら左内が表面に出て活躍していたので、春嶽そのものの無能が目立たなかったのに対して、この時期は、政治総裁として春嶽自身が表面に出て動かなければならないので、ブレーンがカバーしきれず、時として、彼の持つ無能が露呈してしまうことがある、という点です。

 その彼の馬脚の最たるものが、この文久2年11月に実施した、かっての政敵達への報復人事です。これ自体は、島津久光の要求に従ったものですが、彼個人の個人的復讐という面もあったはずです。

 すなわち、井伊家に対して10万石の召し上げを命じたのを皮切りに、間部詮勝に対して1万石召し上げの上、隠居慎み。この二つは、安政の大獄の当事者ですからまだ判らないでもありません。

 少々意外なのが、久世広周に対して1万石召し上げの上、隠居・永蟄居を、安藤信正に対して2万石召し上げの上、隠居・永蟄居をそれぞれ命じていることです。罪状はなんと井伊直弼死亡に際して、生きているなどと嘘をついた、ということです。あれは非常の際のやむを得ない判断というべきもので、因縁を付けているとしかいえません。

 これは政治路線の対立によるものと考えられます。すなわち春嶽が寄って立っている雄藩連合構想は、久世=安藤政権の推進した幕府絶対主義の対局に立つものです。春嶽もまた、反対者を許せない、という体質の持ち主だったわけです。

 彼らを筆頭に、合計23名もが様々な行政処分を受けています。挙国一致体制をとるべき時に、このように、旧怨をはらさずにはいられない精神というのは、醜悪と呼ぶ外はありません。

(2) 攘夷か開国か

 島津久光は、表面上、攘夷を叫んでいます。しかし、島津藩は昔から密貿易をやっていた家柄です。本音で攘夷と言っているのではありません。幕府主導による開国に反対といっているのです。そのために、いったん元に戻せ、というのが薩摩の本音です。そのことは幕府の方でも十分に承知しています。その幕府を率いる者として、春嶽の意見は、攘夷と開国の間で激しく揺れ動きます。

 当初、春嶽は従前からの一橋派としての路線を継承して、素朴に攘夷論を採り、したがって条約を破棄してもとの鎖国に戻そうと考えていました。これに対して、この時点では江戸町奉行の職にあった小栗忠順は次のように反論しました。

「政権を幕府に委任されているのは、鎌倉幕府以来のわが国で定まっている制度である。ところが近頃では京都から様々な注文が入るばかりでなく、諸大名からもいろいろと申し立ててくるようになった。そのため、いったん決めた政務を変更しなければならない事態に至るのは、もってのほかの政府の失態である。この上権威が振るわないことになれば、最後には諸大名に使役される存在に幕府がなってしまうであろう。」

 このような調子で毅然といわれると、たちまち春嶽は意見がひっくり返ります。こうして春嶽の意見の迷走にあって、幕府そのものが確固たる路線を立てることができません。

 この時期、大久保忠寛は恐るべき奇案を考え出しています。後に、坂本龍馬の献策により徳川慶喜が行った大政奉還がそれです。小栗忠順は、日本国の独裁政権としての徳川幕府の存続を願っています。これに対して、大久保忠寛は春嶽と同じく雄藩連合政権の最有力者という形でしか、徳川家を存続させる方法はない、と考えています。そのためのもっとも優れた方法は何か、といえば、大政奉還しかない、とこの知恵者は考え出したのです。

 後に詳述しますが、この時期、京都朝廷はさらに様々な干渉を幕府に対して加えてきます。そこで、そうした差し出口を一挙に封ずる決めてとして忠寛が考え出した策なのです。確かに、この時期であれば、朝廷側には全く為政能力がありませんから、大政奉還といわれたら、京都は驚き、あわて、辞を低くして幕府に政権を担い続けるよう懇願したであろうことは想像に難くありません。

 しかし、春嶽には、この劇薬的効果を持つ奇案を飲む勇気はありませんでした。

 この構想は、皆さんご存じのとおり、後に勝海舟の弟子である坂本龍馬が復活させて、土佐藩を通じて一橋慶喜に建議しました。その時点ではすでに時代は動いており、慶喜の思惑に反して朝廷はあっさりとそれを受け入れて、幕府が滅亡することになります。

(3) 大久保忠寛の失脚

 春嶽によって行われた安政の大獄に対する報復人事の一環に、なんと春嶽のブレーンである大久保忠寛が入るという珍事がこのとき起こります。先に述べたように、この時期、大久保忠寛は御側御用取り次ぎの重職にありました。が、彼はまず講武所奉行に配置転換されます。講武所奉行は役高5000石の重職ですが、御側御用取り次ぎと比べた場合には、政治的重要性は比較になりません。完全な左遷です。

 さらに、今度は大変な因縁を付けられたのです。先に、大久保忠寛は、安政の大獄時に京都町奉行をしていて、井伊直弼の逆鱗に触れ、免職されたと述べました。今回、忠寛の処罰理由は、免職になる以前の京都奉行としての活動に、事実不分明な取り扱いがあった、という点に求められています。これが何を意味しているのかは判りません。

 一説によると、彼はその支持基盤であった目付から攻撃されるようになり、一橋慶喜もこの動きに同調して慶喜自身が春嶽に、大久保忠寛の左遷を迫ったというのです。これも十分にあり得ることと思われます。目付達は、久世=安藤政権を憎むあまり、敵の敵は味方と考えて、大久保忠寛を通じて春嶽政権を支持したわけです。ところが、その政策の行き着くところは、幕府の弱体化にあったわけです。

 当然、排撃運動に転ずるのは目に見えた話です。祭り上げられるだけで実権がふるえず、腐っていた慶喜と結びついて、さしあたり、春嶽のブレーンである大久保忠寛をつぶしに行った、というわけです。

 また、一説によると、彼がこの時期、大政奉還を唱えたことが原因だというのです。この構想は、前に述べたとおり、実際に実施された時には幕府の滅亡を招きました。その意味で、この時点でしか役に立たない、まことに優れたアイデアであったと思われるのですが、ポーズだけであれ、政権を投げ出すという考えが春嶽の逆鱗に触れ、左遷されることになった、というのです。しかし、上に立つ者として、部下の特定の提案が気に入らないからといって一々左遷していたのでは人材は育ちません。人材登用の名手、春嶽の行動としては頷けないところがあります。

 そういう訳で、これについても謎というほかはないのですが、とにかく、真の原因がなんであれ、大久保忠寛の短かった全盛時代はこの時終わりを告げ、差し控えを命じられた、ということです。

 忠寛はその後、元治元(1865)年に5日だけ勘定奉行となりますが、4日後には罷免されます。彼が次に本格的に活躍するのは、幕府が滅亡した後になります。

 この前後の時期に、春嶽はもう一人の重要なブレーンである横井小楠を失います。12月19日、友人宅にいた小楠を、彼の出身地である肥後勤王党の刺客が襲いました。しかし、幸いにも身一つで逃れることができたのです。が、肥後藩は、狼藉者に対して向かっていかずに逃げたのは士道不覚悟も甚だしい、と切腹を命じたのです。

 肥後藩は、小楠という人材を理解できず、藩内に閉じこめて使おうとしませんでしたが、さりとてそれが他で活躍することも気に入らなかったのです。春嶽が小楠の優秀さを伝え聞いて、譲り受けようとしたときも、それを拒否し、派遣するにとどめていました。自分で使い切れなかった人材が、単に越前藩に止まらず、中央政界で活躍するのを見て、心穏やかではなかったため、この椿事を機会にかれを除こうとしたのです。

 春嶽の意を受けた越前藩が必死に嘆願した結果、切腹命令は撤回されましたが、小楠は帰藩を命ぜられ、かつ帰藩後は士籍を剥奪されました。

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 なぜ、春嶽はむざむざと大事な二人のブレーンを失う羽目に追い込まれてしまったのでしょうか。それは、春嶽政権を実質的に支えた重要な要素である島津久光が、この時期には江戸にいなかったからなのです。それどころか、彼は大変な置きみやげを残して中央政界から姿を消していたのです。

4. 生麦事件

 少し時を遡ります。幕政大改革を実現した久光は、文久2年8月21日、早朝に江戸を立って、意気揚々と帰国の途につきました。東海道の沿道にある生麦村(現在の横浜市鶴見区)にさしかかったのは、午後2時くらいだったといわれています。

 生麦事件の名で知られる惨劇の主人公となったのは、4人の英国人です。すなわち、中国での商売をやめて英国に帰る途中、日本に寄ったリチャードソンRichardson、横浜在住の商人であるクラークCrarke、同じくマーシャルMarshall、マーシャルの姉妹で香港在住の英国商人の妻バラデールBorradaileです。

 この日、西暦だと1862年9月14日、日曜日でした。敬虔なクリスチャンであるなら、安息日ですから当然家に籠もって祈りでも捧げているはずです。しかし、英国公使オールコック自身がヨーロッパの滓と呼んでいた貿易商人達が、そんな殊勝なことをするはずはありません。彼らは不幸なことに、日曜日なので、馬で川崎大師まで見物に行ってみようと考えて東海道を行くうちに、久光の行列に遭遇してしまったのです。

 久光の行列は、只の大名行列ではありません。先に述べたとおり、大砲4門まで引いた700名の兵の行軍なのです。行列の中には、馬も数十頭いました。この他に、記録には残っていませんが、久光自身や兵の旅装などを運ぶため、常識的に考えて、人足が少なくとも1000人以上はいたに違いありません。したがって約2000人という大変な規模の行列です。

 この時代、東海道は場所によって道幅が違いますが、平均すればせいぜい二人が並んで通れるくらいし道幅がありません。したがって、大名行列が来れば一般庶民がその脇を歩く、ということは物理的に不可能です。土下座をしなければならない、とされていたのは、その意味で実に自然なことだったのです。

 この時、久光の行列は、先導隊がまず進み、その後に100m程度の間隔をあけて本隊が続いていたといわれています。仮に全員がきちんと2列に並び、かつ等間隔で整然と歩いていたと考えても、行列の長さは1km以上もある計算になります。しかし、出発してからかなり時間も経ち、疲れが出てくる頃合いですから、たぶんある程度行列はばらけていたでしょう。したがって、数kmにわたって、ある程度の固まりに分かれつつ、道一杯に広がって人の波が進んでいる、という状態であったに違いありません。

 リチャードソン達は馬に乗っているのですから、その高い位置から、行列がどの程度に密集していて、どの程度の長さがあるかを見て取ることは、容易にできたはずです。まともな神経のある人なら当然、馬から下りてこの行列の通行を待ったはずです。実際、彼らより前にアメリカ領事館書記官のヴァン・リードという人物がやはり馬に乗ってこの行列に遭遇しています。彼は、馬から下りて道ばたに退き、行列が通過し終わるまでそのまま控えていて、何の危害も受けていません。

 ところが、中国からやってきたリチャードソンとバラデール夫人はあきれたことに、密集した久光の行列に構わず馬を乗り入れたのです。おそらく、行列の長さを見て、その通過を待ったりしたら、どのくらい時間がかかるか判らない、と思ったのでしょう。そして、中国ではそんな具合に、地元貴族の行列に馬を乗り入れるような無礼なやり方がまかり通っていたのでしょう。

 これに対して、日本に住んでいるマーシャルやクラークは様々な対外国人テロによって、武士に対する恐怖を持っていますから、最初避けようとしたのでしょうが、リチャードソン等が行列に乱入したのを見て急いで追いかけました。そのため、10ヤードくらい遅れていたといいます。

 久光が今回江戸に来た大義名分は、要するに幕府が公約として掲げている攘夷を実行しないので、攘夷実行を可能にする為の知恵を貸す、ということです。したがって、久光に対して外国人から無礼な行動があれば、何らかの処置にでなければならない立場にあります。

 しかし他方、久光も、わが国政治の舵取りを務めようという野望に燃えているくらいですから、この時期の国際情勢の中で、外国人相手に、いきなり切り捨てごめんというような暴挙にでることの危険性は十分に承知していました。そこで、久光は帰国に先立ち、幕府に対して、外国人が騎馬で行列に乱入するなどの、無礼な行動があれば、堪忍できない場合があるので、大名往来に関するわが国の法律を幕府から各国公使の方に徹底しておいて欲しいという旨を届け出でています。

 幕府も、これを受けて、英国公使館を始めとする各国公使館にその旨を通知してあります。しかし、なぜかこのことが居留民へは周知徹底されていなかったのです。知っていれば、マーシャルなど日本在住の商人達がこんな危険な小旅行を企画するとは思えません。横浜駐在英国領事ヴァイスはあまり有能な人物ではありませんでしたから、彼の職務懈怠が原因と見るべきでしょう。

 島津家としては、事前にそこまで注意してあるのに、この中国呆けしたイギリス人達が、乱暴にも馬で乱入してきたのですから、対応は一つしかあり得ません。リチャードソンは腹部2箇所を切られて死亡、他の二人の男性が重傷、バラデール夫人だけが帽子を切り飛ばされ、馬が斬られて暴走してヒステリーは起こしたものの、無傷で逃げ延びることができました。さすがの薩摩隼人も、女性に剣を振り上げるのはためらわれたのかもしれません。

 横浜在住の英国商人の中から犠牲者がでたのはこれが最初です。そこで商人達は一斉にいきり立ち、港に停泊中の各国の軍艦から海兵隊を送ってその夜、久光の行列を攻撃し、下手人及び久光を逮捕するように、英国公使に求めました。

 先に述べたとおり、この時期、オールコック公使は、日英通商条約の改正のため帰国しており、英国公使館の責任者はニール代理公使でした。しかし、ニールは応じませんでした。私の見るところ、ニールが拒絶した理由は二つあったはずです。一つは、事件そのものが無神経な商人達が自ら招いて引き起こしたもので、自業自得だということです。今ひとつの理由は、そもそも攻撃しても勝てない、ということです。

 繰り返しますが、この久光の行列は只の大名行列ではありません。大砲数門を含む、れっきとした軍隊なのです。しかも自分たちのしたことの政治的意味は十分理解していますから、事件後ただちに外国人側からの攻撃を予想して、当初横浜のすぐ目の前の神奈川宿に泊まる予定であったものを、一つ先の保土ヶ谷宿まで足を延ばしました。そして、宿場内では、迎撃のため、大砲を要所に配置し、小銃隊も伏せて、何時攻撃があっても対応できる準備を整えて待ちかまえていたのです。

 この時期、薩摩隼人の剽悍さは必ずしも外国人達の知るところとはなっていません。しかし、ニールは職業外交官ではなく、駐在武官(陸軍中佐)です。このように近代兵器を備えて待ち伏せている部隊に陸上戦闘をして勝つためには、この久光軍を大幅に上回る大兵力を投入する必要があることは、十分に承知していたはずです。

 ところが、この時点で、横浜にある英国の武力は、停泊中の蒸気フリゲート艦ユーラリアス号ただ一隻です。同艦は排水量2371tと当時としては、世界有数の巨大艦です。が、蒸気艦であるため、乗組員は帆走戦艦に比べて著しく少なく、わずか450名程度しかいません。艦の安全のためにある程度残す必要がありますから、ぎりぎりまで出しても、せいぜい300名くらいしか兵力はないことになります。他国の軍艦からも若干出して貰うとか、商人から義勇兵を募るなど、あちこちから兵をかき集めても、その倍になるかどうか怪しいものです。つまり、島津軍を下回る人数で、しかも陸戦になれていない水兵を中心とした寄せ集めです。これでは間違っても勝てません。

 もっとも、襲撃しても勝てない、と正直に言ったのでは、興奮している商人達を説得することはできません。そこで、彼は冷静に、第三の理由を述べました。すなわち、仮に勝てたとすると、それは幕府の権威を失墜させることになる結果、内乱を引き起こすことになり、それでは英国がこれまで勝ち得てきた商業上の優位性を失うことになってしまうと説得しました。しかし、これが本音でない証拠に、その後、ニールは陸海軍の増強を本国や清国駐在官に求めているのです。

 しかし、差しあたりは戦争は不可能ですから、次善の策として、幕府に対して、生麦事件の犯人逮捕と厳重な処罰をニールは要求しました。

 これに対して、幕府は、老中水野忠精(ただきよ)及び板倉勝静(かつきよ)の連名で、大名領内には幕府の権力は及ばないので、貴意には添い難い、という趣旨の回答を出したのです。おそらく、これが対外関係で、幕府の滅亡を決定づけた致命的な発言だったと思われます。

 これまで幕府は、対外的には日本全土を支配する、という建て前を崩していなかったのです。そして英国側もそれを疑ってはいませんでした。だからこそ、幕府を盛り立てる以外に、日本との健全な貿易は維持することはできない、とオールコックも考え、条約改正に応じたわけです。

 ところが、水野や板倉は、無思慮にも、日本に、幕府以外にも当事者能力を持つ支分国家が存在することを明言してしまったのです。ニール代理公使は、この回答に接して、幕府の日本統治能力そのものに対して疑問を持ちました。

 先に述べたとおり、久光が帰郷した翌月である閏8月になると、参勤交代の緩和と大名子女の帰国が認められました。ニールは、これを、各大名が国元の防衛力を強化して、外国と戦う体制を確立するための手段と理解しました。確かにそれが春嶽政権の意図ですから、正しい分析です。おりしも、長州藩が、瀬戸内海沿岸に大規模に砲台建設事業を展開中という報告が入ってきました。また、久光も、帰国後、鹿児島湾の防御力増強に全力を挙げているであろう事は常識です。

 こうして、外国勢力が完全に疑心暗鬼になっている最中の文久3年2月1日、品川御殿山に建設中だった英国公使館が全焼するという事件が起きました。実はこれは、長州藩の過激派である、高杉晋作、伊藤俊輔(博文)、井上聞多(馨)等の仕業でした。

 2月に入ると、ニールの要求に応えて、英国は、横浜の艦隊を増強し、最終的には12隻もの艦船を横浜に集結させました。これは幕末史上特定の外国勢力が集結させたものとしては空前の大海軍力です。こうして、十分な兵力を集められたので、これを背景にして、ニール代理公使は、2月19日、初めて幕府に対して強硬姿勢を示しました。生麦事件に対する幕府の無責任な対応に対するペナルティとして10万ポンド、先に述べた第2次東禅寺事件の遺族に対する賠償1万ポンドをそれぞれ要求する最後通牒を幕府に突きつけたのです。実際に兵力を手にするまでは具体的な要求を突きつけない、というこのあたりの行動は、いかにも職業軍人らしい慎重さといえます。

 また、幕府が久光の臣下を自分では逮捕できない、という以上、英国艦隊自身が薩摩に行き、加害者の処刑と遺族への扶助金並びに負傷者への慰謝金として2万5000ポンドの賠償金の取り立てを直接藩主に要求するであろう、と通知しました。

 ところが幕府はこれに対して返事を出すことができません。理由は簡単で、この時期、江戸に実は幕府の中枢メンバーはいなかったからです。将軍家茂自身が上京したのです。したがって、政治総裁松平春嶽、将軍後見職一橋慶喜はもちろん、老中以下、主立った官僚は皆それに随従して京都に行っていたからです。そのため、ニールに脅かされても、それに回答できる人間が全くいない、という状況にあったのです。

5. 将軍上洛

(1) 第2回勅使下向

 将軍上洛に至る経緯は少々複雑です。久光がまるで自分の創見のように売り込んだ公武合体策は、実は久光に先行して、長州藩士長井雅楽(ながい・うた)が提案し、藩主が承認して長州藩として久世=安藤政権と協議してきた航海遠略策の焼き直しに他ならないのです。この政策が久世=安藤政権の崩壊とともに、宙に浮いてしまったわけです。そこに、島津久光が手柄顔で意気揚々と勅使を奉じて江戸に入ったものですから、長州藩としては強い反感を持ちます。

 そこで、毛利家の世子は、久光が江戸に入る前日に、わざわざ久光とは道を変えて江戸を出て京に行きました。そして世論の主導権を握るために、あえて公武合体策ではなく、徹底した攘夷論で世論工作を始めたのです。毛利家は、その祖、元就の時代から権謀術数には非常に長けたところがあります。それがフル回転して京都で世論工作をしました。その結果、京都の論調は一気に攘夷論に傾きました。

 そのため、久光が全ての要求をのませ、更に生麦事件まで引き起こして京都に引き上げてきても、もはや京都の態度は彼に冷たいものとなっていました。風向きを見るに敏な久光は、それ以上京都に長居することを断念し、速やかに国元に帰って、来るべき対英国戦に向けて錦江湾全域を要塞化する作業に取りかかりました。

 長州藩は、こうした久光が消えた政治的空白をフルに生かして、公家のうちの過激派を焚きつけ、ついに朝廷世論を支配することに成功して、ここに第二の勅使が下向することになったのです。三条実美(さねとみ)及び姉小路公知(あねこうじ・きんとも)という過激公家の領袖が自ら勅使となりました。この勅使は10月27日に江戸に到着し、11月27日に将軍家茂に面会しました。到着から面会まで実に1ヶ月もかかったのです。理由は簡単で、何と答えたよいか、幕府の方で意見がまとまらなかったのです。

(2) 幕府の回答

 ここで朝廷が出した要求そのものは別に問題ではありません。攘夷を督促したに過ぎないのです。

 これに対して、攘夷を断行するのかどうか、肝心の松平春嶽の意見が固まっていないのです。京都守護職に決まった松平容保が京都の治安維持のためには攘夷を標榜する必要がある、と説けばそれに賛成します。驚いた一橋慶喜が開国論を説けばたちまちそちらに転向します。確かに難しい問題ではありますが、トップにこうくるくる意見が変わられては下の者は大変です。で攘夷派、開国派の両陣営から激しい批判を浴びると、辞表を提出する始末です。

 具合が悪くなると逃げる。これは、これ以後、幕府滅亡までの間、春嶽だけではなく、慶喜にも老中達にも共通して現れる名門の貴公子らしいひ弱い行動ですが、その最初の現れがこの事件だったのです。

 この時動いたのが勅使に随行して江戸に来ていた土佐藩の山内豊信(やまのうち・とよしげ)で、攘夷を標榜しない限り、関西は内乱状態に陥ると脅して、春嶽に辞表を撤回させ、幕府の意見を攘夷に統一させるのに成功したのです。

 しかし、攘夷をする、といっても具体的にどうしたら良いか判りません。そこで、この勅使に対し、幕府は将軍が上洛して委細を回答する旨を述べて、時間稼ぎをしてしまったのです。将軍上洛自体は、前に紹介した横井小楠の国是七策にあるとおり、春嶽の基本政策ですが、それを勅使に対して明確に時間を限定して回答してしまったのは大変な問題でした。

(3) 上洛経費

 将軍が上洛するのにかかる経費は大変なものです。結果的にいうと、家茂は2回上京し、その2回をあわせて約120万両を必要としました。第1回が約70万両、第2回が約50万両です。それだけの経費を投入すれば、内政・外交を充実するために様々な施策ができるはずなのです。それだけの経費を将軍上洛に投入して、それに代わる何かよい効果があるのか、というと、それがない、というところが最大の問題です。とにかく、効果以前の問題で、何と返事をしたらよいか自体が決まらないままに、この巨額の経費を投入することだけが決まってしまったのです。

 家茂が老中その他約3000人の供を従えて江戸を出発したのは、文久3年2月13日のことでした。寛永11(1634)年に家光が上洛して以来、実に230年ぶりの出来事です。

 この家光の先例にしたがい、出発に先立って京都市内の住民に銀5000貫(小判に換算してほぼ6万3000両)を、江戸市内の住民に金6万3000両をそれぞれ下賜しています。

 また、禁裏に金5943両、銀8貫722匁、米15万俵を献上しています。

 また、お供をしていく諸大名も財政が逼迫していますから、これに対する貸付金が11万両あまりとなっています。

 このように、直接経費以外に、様々な馬鹿馬鹿しい経費がかかるのが、将軍上洛というものなのです。

6. 政治総裁の逃亡

 春嶽には、京都情勢を甘く考えているところがありました。かつて橋本左内が春嶽の腹心として活躍していた時代には、難しいところは全部左内がやってくれましたから、春嶽は要所要所で顔を出し、左内から献言された台詞を吐いていればそれでことは足りました。何となく、春嶽は同じようなつもりでいたのでしょう。しかし、この文久3年春の時点で、現実に京都に彼が乗り込んだときには、彼には左内も小楠も大久保忠寛もいなかったのです。彼が初めて、自分の実力だけで政治の現場に立たされたわけです。

 しかも朝廷のごり押しは彼の予想を遙かに超えていました。

 将軍が京都に着いた翌日、将軍名代として参内した慶喜に対して下された勅書には、政治に関してはこれまで同様将軍に委任する旨の言葉があり、幕閣は安堵しました。ところが、その2日後に家茂自身が参内したときには、攘夷の決行のみを幕府に委任し、国内政治に関しては朝廷がかってに諸藩に命令する、というように勅書が書き換えられていました。攘夷派の激しい巻き返しを幕府は予想できていなかったのです。

 さらに、攘夷決行に日限を切るように、と迫られます。春嶽等は、将軍が江戸に帰った上で鎖港交渉を始めたい、とがんばったのですが、許されず、将軍名代としての地位にある慶喜が、ついに4月中旬と口走ってしまったのです。

 ようやく、将軍が京にいるだけかえって時間稼ぎができない、ということが判って、江戸に帰って鎖港交渉をしたいと要請するのですが、交渉は大阪で行え、といわれて江戸に帰ることが許されません。

 この辺り、全く交渉の余地がない、という感じでした。

 ここで、春嶽時代の終わりが来ます。彼は、辞表を書くと、夜逃げ同然に京から自分の藩に帰ってしまったのです。

 肝心の政治総裁春嶽がいなくては、一橋派の大名達もやる気をなくします。春嶽の懇望で上京していた島津久光も、山内豊信も、宇和島藩主伊達宗城(むねき)も、暇を乞うて相次いで勝手に帰っていってしまったのです。

 こうして、京都にある将軍家茂の補佐役は、慶喜と容保、及び老中水野忠精、板倉勝静だけとなってしまいました。まさに末期的症状ということができるでしょう。