第
6章 小笠原長行と幕府の滅亡松平春嶽が、攘夷を実行しろという朝廷の恫喝におびえて、政権を投げ出して夜逃げ同様に国元に帰ってしまった以降、幕府には、その滅亡までの間、中心となって政権を担当する人がいなくなります。
本来ならば、その任に当たるべきは、この時点における将軍後見職であり、また14代将軍家茂の死後は最後の将軍となった一橋慶喜です。しかし慶喜は、彼自身がくるくると気分が変わり、それに応じて極端に行動に振幅がある人物でした。しかも、自分の言動から必然的に生ずる結果に対する責任をとることを、少なくとも責任を追及されることを嫌う癖がありました。つまり、何かを言い出すことはできるのですが、自分自身の頭の中でそれに対する評価が変わると、その後始末は誰かがやってくれることを常に期待して、責任者の立場から逃げ出すという悪い癖です。したがって、政権の中心にあって、一定の方針の下に着実に行政活動を指揮監督し、必要に応じて自ら適切な行動をとる、ということはできませんでした。
そして、なによりこの時期、彼は幕府政治の中心地である江戸にほとんどいません。したがって、彼を中心に据えて、これ以降の時期における幕府財政を説明することは不可能なのです。
内閣としては、何度か触れたとおり、水野忠精と板倉勝静の連立内閣です。彼らの連立政権は非常に長く、安藤信正の失脚以降、幕府の滅亡まで一貫してその地位にあります。逆に言うと、無能、無難が売り物で、そのために長く政権の座に安住できたという程度の人物で、とても彼らの視点から幕末史を整理できるような人物ではありません。かっては、例えば田沼意次のように政権の首座にないにも関わらず、実質的に政治を動かしていた人物がいたりしたのですが、この時代には、古参の老中の中にも、他の老中を束ねて、政治の中心として活動できるほどの、才能と人徳を兼ね備えた人物はいませんでした。こうして、幕府という巨艦は舵取りを失った形で、幕末の風雲の中に突入し、沈没していくことになります。
幕府にとって、ただ一つの救いは、これまで幕府行政を実際に取り仕切ってきた官僚達、具体的には勘定方と目付達は、依然としてやる気を失っていなかったという点です。その結果、この時期以降も、幕府は、これが滅びようとしている政権とは思えないほど、様々な積極施策を行い、上方における慶喜のむら気ある行動を、財政その他の面で下支えし続けます。確立した官僚機構のすごみというものなのでしょう。
そして、この時期の幕府老中で、そうした下からの支援努力を集約して、幕府を助けようとして可能な限りの努力をし、最後には幕府そのものに殉じて滅びようとした人が一人だけいます。それが小笠原長行(ながみち)です。
この時期、歴史家の目は薩長側に向けられています。そのため、その大きな活動にも関わらず、小笠原長行の名は、日本史の上ではほとんど知られていません。例えば、現在高校で使用されている数十冊の日本史教科書のどれにも、彼の名はまったく登場してこないのです。亡国の臣の運命とはこういうものなのでしょうか。
小笠原長行という人は、幕末にいたって、突然登場した政治家です。その政治家としてのまことに短いながら華々しい活動の中で、たった2回だけ、出処進退を誤りました。我々凡人から見れば、生涯で2回の誤りは、問題にならないほどの少ない誤りです。しかし、幕府の運命がぎりぎりに迫り、徳川慶喜という実に気の変わりやすく、しかも部下に嘘を言って騙すことに全く良心の呵責を感じないという暗君を頂いて、彼が事実上、ただ一人で徳川家の命運を担っていた時期における誤りだっただけに、それはそのまま幕府の滅亡に直結することとなりました。
小笠原長行は、まことに不遇な人生を送った人です。後半生のそれは、幕府の運命に殉じて自ら選んだものですが、前半生におけるそれは、彼本人の選択というより、彼の属する小笠原家そのものが不運であったためです。
小笠原家というと、小笠原流という武家の作法を思い出される方が多いと思います。この流派の名称は、室町時代に、小笠原家の庶流に属する小笠原持長が将軍足利義教に仕えて礼儀作法を確立したことから来ています。したがって、徳川幕府にあっても、小笠原流の家元格で活動したのは一族の庶流赤沢氏で、小笠原本家そのものではありません。
また、小笠原諸島の名を思い出される方もあると思います。これは、小笠原家の祖先の一人、小笠原貞頼が文禄2(1593)年に発見したとされるところから来た名称です。しかし、小笠原家の家譜にこの事実は記されていないことから伝説のたぐいとされています。
小笠原本家は6万石格の譜代大名で、何人かの老中も出していますから、譜代中でも名門といえる家柄の一つです。譜代の大名らしく、江戸初期には頻繁に国替えをされています。その一環として、一時期、小笠原家は静岡県の掛川6万石の領主となっていたことがあります。
運の悪いことに、その時期に、白波五人男で有名な日本左衛門こと浜島庄兵衛が出現しました。彼は、東海道を荒らし回って名をあげた後、最後に何を考えたか、いくつもの関所を越えてはるばる京都まで行って自首しました。
これほどの大盗を捕縛できなかったばかりか、関所などもあってなきがごとくに通過されたことが明らかとなって、幕府の面目は丸つぶれになりました。しかし、幕府そのものに非を認めては封建体制が維持できません。そこで、小笠原家領内で庄兵衛が暴れたことがあるのに目を付けて、同藩を生け贄に罰することに決め、召し捕り不行き届きを理由に、福島県の棚倉という不毛な地に、藩そのものを左遷しました。延享3(1686)年のことです。棚倉は表高こそ掛川と同じ6万石ですが、実質4万石程度のやせた土地です。ここで小笠原家は財政難に苦しみ、数十万両の借財を抱えることになります。
文化14(1817)年になって、佐賀県の唐津に転封になります。前の領主は水野忠邦でした。つまり忠邦が老中になりたくて放り出した領地です。ここは表高は棚倉と同じ6万石ですが、物なりの豊かな領地である上に、長崎貿易の特権を認められているため、そこからの収入も莫大なのです。実質石高は20万石以上に相当するといわれました。ですから、小笠原家では、上下ともに、これで長年の貧窮から抜け出せると非常に喜びました。
ところがここに転封後まもなく、時の藩主である長昌が江戸藩邸で死亡しました。その長子が、悲運の公子である長行ということになります。彼は文政5(1822)年生まれで、父の死の時、わずか2歳でした。唐津藩には、長崎貿易の特権が認められている代わりに、長崎で何か事件が起きたときには、長崎奉行をバックアップして活動しなければならないという使命を負っています。その際には家老などを指揮官とすることは許されず、藩主が陣頭指揮を執ることとされています。したがって、幼児が藩主となることは許されません。もし、藩主の死と、幼君の相続を正直に幕閣に届け出れば、小笠原藩は、ただちに再びどこかへ転封ということになります。
そこで藩の重臣達は非情な決断を下したのです。すなわちれっきとした健全な世継ぎがいるにも関わらず、これを聾唖の廃人と幕府に届け出て、他家から養子をとることで、唐津に居座ることにしたのです。
ところが、迎えた養子がいずれも病弱であったり、早死にしたりという不運にあって、その後、わずか17年の間に何と4代も立て続けに養子をとる羽目になりました。
その間に長行は健康に成長したので、最後に藩が養子に迎えた長国は、長行より2歳も年下でした。それでも廃人と幕府に届けてしまっている以上、長行が家督を継ぐことはできず、別に養子が迎えられたわけです。
長行は、普通の世であれば、このまま埋もれて生涯を終えてしまうはずでした。しかし、井伊直弼が、不遇時代もせっせと文武の道に励んでいたのと同じように、彼も文武の道に励みました。水戸斉昭の懐刀であった藤田東湖などについて学問を学んだところから、そうした文人達を通じて彼が英才であることが、徐々に世に知られるようになってきました。唐津に鏡山という山があるそうです。鏡=明るいという言い換えをして、彼は明山と号していました。そこで、明山公子と呼ばれるようになったのです。この名そのものが、いかにも英才という響きがありますね。
彼の幸運は、30歳を過ぎてから、ようやく訪れました。ペリーの来航です。第1章に述べたように、阿部正弘はこの時広く意見を公募しました。長行はこれに応えて幕府に建白書を提出したのです。長い不遇に耐えかねて、積極的に自分の売り込みを始めたわけです。もっとも直接提出するのははばかられて、水戸斉昭を経由したようです。
この結果、幕府にも、この埋もれた英才の存在が知られるに至りました。とにかく国難の時期ですから、優れた能力を持つ大名は喉から手のでるほど欲しいところです。したがって、普通であれば直ちに幕閣へ召し出し、何かの役職に就けるというところです。しかし、廃人という届け出でがあって、世子にもなっていないのではどうにもなりません。
そこで、心ある諸侯などあちこちから藩主長国に圧力が掛かった結果、一門の次男と履歴を偽って、藩主の養子とし、ようやく世子となることができたのです。父とされる方が2歳年下というまことに奇妙な養子縁組でした。安政4(1857)年、長行36歳の時です。
しかし、それでも世子に過ぎませんですから、普通であれば、父親ということになっている藩主長国が死ぬか、隠居しない限り公職に就くことはできません。また、藩主になったところで、唐津に領地を有する限り、水野忠邦の前例に明らかなとおり、本来、老中になるということは、幕府の慣例上は不可能です。
彼が世に出ることができたのは、彼の生きた時代が幕末という非常の時であったからに他なりません。文久2(1862)年6月に、前々章に述べたとおり、安藤=久世政権が崩壊します。この6月に偶然、彼は、領国に戻った長国に代わって江戸にでてきて将軍に拝謁したのです。
人材に飢えていた幕府では、彼を世子としての身分のまま、7月21日に奏者番に抜擢します。奏者番というのは実権は何もない官職なのですが、なぜか老中になるための登竜門としての役割を担わされていました。さらに8月19日に若年寄に抜擢され、9月11日には老中格とされます。そして10月1日には外国御用掛に任じられます。
幕府の長い歴史の中で、このように、世子のまま老中格となったのも初めてなら、唐津藩から老中格となったのも、そして奏者番発令後わずか3ヶ月で老中格となったのも初めて、そして老中格の外国御用掛も初めて、という初めて尽くしの人事でした。幕府における人材の不足と、彼に対する世間一般からの期待の高さを端的に示す人事ということができます。
しかし、もちろんこれは彼にとって幸運とはいえません。前章に述べたとおり、8月21日に生麦事件が起きています。したがって、老中格とされたのも、外国御用掛とされたのも、彼に生麦事件の始末を付けさせるための人事であることは明らかです。ほとんど見習い期間もなく、いきなり彼は国の命運をその背に担わされたわけです。
もっとも外国御用係がつとまる人材が当時の老中にいたか、というと、間違いなく、ほかにはいません。長行は唐津藩の公子で、この長崎貿易という利益の多い特権が、彼の青春を奪っただけに、海外貿易に、当然強い関心を持っていました。幼い頃からたびたび長崎に行き、外国との交渉という概念そのものが、いわば自然に血肉となっていた、といえるでしょう。
彼は前に述べたとおり、水戸斉昭の引き立てで世に出たのですが、このような履歴から当然のことながら、彼は思想的に180度逆の開国派です。そこにも、幕府を支える官僚達との共通性が存在し、彼らに擁立されることになったわけです。
前章に述べたように、松平春嶽は朝廷による攘夷要求に耐えかねて、文久3年3月に政治総裁職を投げ出し、夜逃げ(とは慶喜の表現ですが)同様に、越前に逃げ帰ってしまいます。
政治総裁のいない幕閣では、将軍後見職である一橋慶喜が最高責任者ということになります。慶喜という人は、本来思想的には開国派なのですが、前に述べたとおり、将軍家茂は攘夷の決行を迫る勅使に対して「勅諚(ちょくじょう)の趣、畏まり奉り候」と返事をしてしまっていますから、それ自体を翻すわけには行きません。責め立てられて返事に窮した慶喜は、3月19日、とうとう攘夷決行の期日は5月10日である、と返事をしてしまったのです。これが下関砲台砲撃事件などにつながる幕末における戦乱の原因となります。
こんなことを言った後の3月23日、慶喜は長行に対して、慶喜より一足先に江戸に帰り、対英交渉を行うように命じたのです。しかし、攘夷の決行を公約した後なのですから、対英交渉といっても、その中味は賠償金の支払い拒絶と、横浜の鎖港を実現しろ、ということです。
前章に述べたとおり、ニール英国代理公使は、要求を実現できるだけの史上空前の強大な海軍力を横浜に集めて、その上で初めて要求を出しているのです。したがって、それを全面的に拒絶しろ、というのは、不可能を要求しているのに他なりません。しかも、長行に与えられた時間はほとんどないのです。というより、もう時間がなくなった時点で命令が下った、という方が正確です。
ここで簡単に時系列を追ってみましょう。ニール代理公使から、20日間の期限付きで賠償金支払い要求が出たのが、文久3年2月19日のことです。将軍家茂が江戸を出発したのが2月13日ですから、その1週間後ということになります。外国奉行の竹本正雅が急いで将軍の後を追い、掛川で追いついて報告していますが、もちろん将軍自身は処理能力を持っていません。時間を稼ぐようにいうだけでした。
2月19日の20日後ですから、3月9日が期限です。しかし、幕閣の主要メンバーが上京してしまっているのですから、もちろんこの日までに回答をする、などということは不可能です。江戸の留守を守る外国奉行では、ニール代理公使と交渉して、期限をもう15日延ばしてもらいました。しかし、責任者がいないのですから、この程度の延期ではどうにもなりません。さらに何度かの交渉の結果、将軍が江戸に帰る当初予定の4月6日まで、期限を延ばしてもらうことを、ようやくニールに了解させることができました。
しかし、春嶽はもちろん、慶喜も、こうした外国奉行達の勝ち取った時間的余裕を全く生かすことなく日を送り、上記のとおり、期限ぎりぎりの3月23日になってようやく長行に対応しろ、と命令したわけです。長行は、この理不尽な命令に抵抗します。が、再三強いられてやむを得ず引き受けます。
よりによって長行に命令する、ということ自体、非常に不自然な感が強いことは否めません。なぜなら、前に述べたとおり、彼は開国派であり、そのことは、2度目の勅使により春嶽が右顧左眄し始めて以来、再三、口頭あるいは文書で意見として述べています。そのことを百も承知の慶喜が、彼に攘夷の実行者になれ、と命令するのには、当然隠れた意図がある、と思う方が自然でしょう。つまり、慶喜としては攘夷は実行してほしくないのですが、彼自身が攘夷を実行すると天皇に対して公約しているので、自分が賠償金支払いの責任者になりたくないのです。そこで、自分の代わりに責任をとってくれる人間がほしい訳です。長行にはこの考えは明白に読みとれたでしょうから、引き受ける段階で、当然、最終的な結果を引き受ける覚悟を固めていたものと思われます。
長行が京を出発したのが3月25日、江戸に着いたのが4月6日、すなわち最終期限の日です。しかし、外国奉行の方で、将軍帰着の予定が立たないことをニールに伝えてありましたから、ある程度の時間的余裕が生じていました。すなわち、前章に紹介したとおり、将軍家茂は予定通り江戸に帰るどころか、この時期には事実上朝廷の捕虜になったようなもので、何時帰れるか、全く目処も立たない状況にあったわけです。
長行としては、英国海軍と戦えるだけの軍事力を全く与えられていないのですから、江戸が焦土となるのを避けたかったら、賠償金を支払うほかはありません。しかし、独断でそれを強行しては、当時の日本では命がいくつあっても足りません。
慶喜は、長行だけでは十分に決定力がないことを承知していて、兄である水戸慶篤(よしあつ)を将軍の目代として、長行の後を追って江戸に帰らせました。水戸慶篤が江戸に着いたのが4月11日です。
そこで、水戸慶篤が中心になって、御三家の今ひとつの家である尾張慶勝(よしかつ)にも出席してもらって閣議を開くことにしました。しかし、建て前と本音の落差は誰もが承知していますから、議論は錯綜します。長行は、わざと攘夷の実行を唱えて議論を混乱させたりしています。慶喜の理不尽な命令に対する腹いせの現れでしょう。
結局、結論として賠償金の支払いを決めたのは4月21日のことでした。しかし、幕閣の最高責任者はあくまでも慶喜ですから、彼の了解を取る必要があります。そこで、ニールのほうには5月3日以降に分割払いする、と返事をして時間的猶予をもらうとともに、慶喜に連絡を走らせました。
その慶喜は、4月22日に京を出発したのですが、わざと時間をかけて江戸に向かっています。前にも触れましたが、彼の悪い癖で、責任をとるような行動はしたくないのです。彼としては、不在の間に賠償金の支払いがおわり、彼がその非を責めるが後の祭り、という形が好ましいわけです。
4月21日の決定の連絡を、慶喜は4月26日に、愛知県の熱田で受けています。賠償金を支払いたい、という連絡に対し、慶喜は、自分は攘夷決行の命令を朝廷から受けているので、そのような決定を認めるわけには行かない、中止せよ、異存を申す場合には手打ちにする、というむちゃくちゃな返事をします。
こんな返事を受けては、部下としては時間稼ぎをするほかはありません。長行は、自分が病気になったので、3日間、賠償金の支払いを延期してほしい、と称して、改めて部下に英国側と交渉させます。しかし、仮病と読んでいるニールは、激怒したふりをして、約束通り賠償金を支払わないなら、艦隊行動を開始する、と回答します。もちろん脅しですが、実力を背景にしているだけに無視できません。
そこで、期限を過ぎた5月4日の閣議は揉めに揉めました。しかも、その閣議の最中に、慶喜が再び浜松から、賠償金は支払うな、拒絶交渉をしろ、という命令を送ったのが届きました。これではどうしようもありません。尾張慶勝はすでにこの前日、京に行って賠償金支払いの必要を上奏する、と称して江戸から逃げ出し、名古屋城にこもってしまいました。ほかの閣僚達も、この翌日からは登城してこようとはしません。
5月5日には、横浜にフランス海兵隊が上陸します。なお、このフランス海兵隊は、その後、数年間横浜に駐留し、横浜外国人居留地の租界化を図ろうとします。翌5月6日には英国海軍司令官が各国公使に対して軍事行動に出ることを予告します。
この時期の江戸市民の反応については、福沢諭吉の『福翁自伝』に活写されています。福沢諭吉も含めて、江戸市民が英艦隊の攻撃開始必至と覚悟して、様々なドタバタ喜劇を繰り広げていたようです。
ここにいたって、長行は覚悟を決めます。5月8日の朝、起きると彼は船に乗ります。この後の彼の行動について、福沢諭吉は次のように描写しています。
「いよいよ今日という日に、前日まで大病だと言って寝ていた小笠原壱岐守がヒョイとその朝起きて、日本の軍艦に乗って品川沖を出ていく。スルト英吉利の砲艦が壱岐守の船の尾について走る。というのは、壱岐守は上方に行くといって品川湾を出発したから、もし本当にその方針をとって本牧の鼻を廻れば英人は後から砲撃するはずであったという。ところが壱岐守は本牧を廻らずに横浜の方に入って、自分の独断で即刻に償金を払ろうてしまった。10万ポンドを時の相場にすれば、メキシコドルで40万になるその正金を、英公使セント・ジョン・ニールに渡してまず一段落を終わりました。」
江戸市民から見て、彼の行動がどんな風に映ったかが判っておもしろいと思います。
もっともこの記述、記憶に頼っているため、あちこちが不正確です。すなわち、横浜に行った8日には、長行は、最後の交渉に自身で駆け回っただけで賠償金の支払いはしていません。しかし、これだけこじれた後ではいかんとも手がなく、翌9日に支払った、というのが正しい事実です。また、支払ったのは、44万ドルです。すなわち、この時、生麦事件の賠償金40万ドルに加えて東禅寺事件の賠償金1万ポンド、すなわち4万ドルも同時に支払っているからです。当時の邦貨に換算すると、26万9066両2分2朱ということになるそうです。ついでに言えば、この時点では長行は壱岐守ではなく、図書頭(ずしょのかみ)でした。彼が壱岐守になるのは、翌元治元(1864)年9月のことです。
この支払いは、神奈川運上所(現在の神奈川県庁所在地)から英国公使館まで馬車で運ぶ、という方法で行いました。小判だと千両箱というのに入れますが、メキシコドルの場合には2000ドル入りの箱を使っていたそうです。割算すると、220箱と言うことになります。この大量のドル箱を馬車を22台連ねて運んでいったわけです。英国側では、中国人の貨幣鑑定人をあちこちから借り集めて貨幣の検査と鑑定にあたらせました。アーネスト・サトーの書き残している所によると、鑑定が終わるまでに丸三日かかったそうです。幕府に対する英国側の不信感がよく判る話です。
ここで二つ疑問が生ずると思います。一つは、なぜこれだけ大量のメキシコドルが、この時の横浜にあったのかということです。原資は、言うまでもなく、横浜貿易の関税収入です。予め江戸から運んであったのだ、という説もありますが、これほど大量の資金を密かに江戸から運ぶことは不可能です。しかも、運上所に入った関税をいったん江戸に運んで、また戻すのは無駄なことです。私は、ニールから賠償金の支払い要求が出た段階から、長行がそれ以降の関税収入を意図的に運上所に蓄えておいたのだと考えています。
今ひとつは、なぜ運上所役人は、長行の命令に従ったのか、ということです。この時点では、長行はまだ老中格であって正規の老中ではありません。格がとれて正式の老中になるのは、慶応元(1865)年になってからになります。しかも外国係であって勝手係ではありません。したがって幕府の命令系統的に言えば、公金の支払いを命ずる権限は持っていないのです。
前に江戸幕府財政改革史で、幕府における財政制度整備の歴史を詳しく説明しました。簡単に言えば、この時点における幕府財政制度は、同じ時代の米国や英国よりも遙かに近代的なもので、ほとんど今日の財政制度と遜色がないのです。仮に現代において、どこかの省の出先事務所に、ある日突然他の省の大臣がやってきて、金庫の中の公金を支出するように命令したからと言って、おとなしくそれに応ずる官僚がいるでしょうか。
この時の運上所の係官は、それと同じ立場にあります。したがって、いくら長行が責任をとる、と言っても、命令系統にない者の言うままに動いたのでは、幕府の官僚制度の下においては、当然の結果として、運上所の責任者も連帯責任になってしまいます。
つまり、長行のこの日の行動は、巷間言われているほどの個人プレーではないのです。確かに慶喜の承認を得ないで行った違勅の行動ではありますが、幕府の官僚機構的には完全に承認され、事前に彼の命令に従うように、という通達が届いていた、と考えるのが正しいのです。
また、実はこの時、水野忠徳が同行しているのです。このことも、決して長行が衝動的に屋敷から飛び出してきたわけではなく、ちゃんと関係者と連絡した上で行動したという事実を示しています。水野忠徳は、この前年の久光の武力を背景とした政変に際し、いち早く隠居してこの時期、痴雲(ちうん)と号していました。が、春嶽の失脚とともに再び勘定方ににらみを利かしていたわけです。その彼が同行している、という事実は、これが正規の勘定方に属する行動である、ということの証左になるわけで、たからこそ、運上所役人は、素直に公金の支出を認めたのだと思われます。
受け取った英国側では、これほどの大金を公使館内においておくことに不安を覚えたのでしょう、英国艦隊の旗艦、ユーリアラス号に載せることにしました。ユーリアラス号でも、これだけの大金を置く場所はありません。そこで、艦底の火薬庫の前に積み上げました。つまり、このお金をどうにかしない限り、ユーラリアス号は大砲が撃てない状態になったわけです。このことが、同艦の薩英戦争における悲劇を引き起こします。
一橋慶喜は、のんびりと東海道をやってきて、まさにこの5月8日の朝に、横浜とは目と鼻の先の神奈川宿につきました。宿場にはいると、神奈川奉行を呼んで江戸の状況を聞いています。おそらく、賠償金交渉の進捗状況次第では、ここで仮病を使って長逗留するつもりでいたのではないか、と私は疑っています。そうでなければ、さっさと通り過ぎて江戸に急ぐ方が自然な行動だからです。そうしていれば、生麦事件でも判るとおり、楽にその日のうちに江戸に入れます。
こうして江戸の情報収集をやっている最中に、長行の乗った幕府の軍艦が横浜湾に入ってくるのを、ひょっとすると慶喜は自分の目で見たかもしれません。繰り返しますが、慶喜はこの時点における幕府政治の最高責任者です。そして、賠償金の支払いを禁ずるということは、長行が京都を出発するときに口頭で命じたばかりでなく、道中の熱田と浜松からも重ねて命じています。長行が最後の交渉をしているのは判ったはずですから、この命令を本当に遵守させるつもりなら、当然、船を出して慶喜自身が長行のいるところに向かうか、逆に長行を呼びつけるか、という行動にでたはずです。
しかし、慶喜のしたことはその正反対の行動でした。それまでの鈍行ぶりからは想像もできない話ですが、夕方の4時くらいという、普通なら宿に入ろうという時刻に、馬を出させて、急いで江戸に向かったのです。江戸に着いたのは夜の10時くらいといいますから、暗い中をずいぶん長時間走らせての強行軍をしたことになります。
もしそうせずに神奈川宿にそのまま泊まれば、当然神奈川奉行がそのことを長行に報告しますから、長行が指示を仰ぎに来るはずでしょう。すなわち、この不自然な時間の出発は、明らかに、慶喜が長行に会うことを避けて江戸に逃げた、という以外の解釈を許さないと思います。会えば、その翌日の賠償金支払いの責任をとらねばならないことになるからに違いありません。
こうして、翌9日に長行が自分の責任で英国に賠償金を支払ってくれた結果、事態は、慶喜としては理想的な形に落ち着きました。すなわち、彼自身は勅命を忠実に守って、再三賠償金の支払いを禁じたにも関わらず、部下が勝手に支払ったのです、と胸を張って?天皇にお答えすることができる状況になってくれたわけです。
5月14日に、慶喜は後見職辞職を願い出ます。攘夷の勅命を受けていたにも関わらず、部下が勝手に賠償金を支払ったのが申し訳ない、という趣旨の文書だったそうです。
福地源一郎は、この時期以降、幕臣が慶喜に不信感を持つようになった、と『幕府衰亡論』の中で書いています。すなわち、もともと慶喜は心情的には開国派です。それなのに、やたらと攘夷を実行しろと言い立てるのは、これを利用して将軍家茂を失脚させ、自分が取って代わろうという野望を持っているためではないか、と幕臣は一般に疑うようになった、というのです。
この疑いの当否はともかく、この時点以降、江戸にいる官僚達が、実行不可能な攘夷というものを安請け合いし、その尻拭いだけを要求してくる、上方に駐在している幕閣に対して大きな不信感を持つようになったことは間違いのない事実です。このため、官僚達は、長行を担いで大変なことを始めるのです。
小笠原長行が、横浜で英国に賠償金を支払ったその翌日、5月10日こそ、慶喜が朝廷で攘夷決行期限として公約した日です。そこで、5月9日、賠償金支払い業務を行う一方で、長行は勅令に忠実に、各国公使に対し、鎖港を通知する文書を発しています。もっとも、各国公使からの問い合わせに対し、外国奉行は口頭で、これは形式だけのことだ、と返事をしています。
そこで、各国公使の方では、強硬な抗議を申し入れていますが、その抗議文の中で、幕府に対する資金援助等を匂わせるという微妙なものとなっています。これは、各国ともに、幕府の鎖港通知が朝廷に対するポーズであることを承知しており、したがって日本との通商関係を維持するためには、朝廷支配を打倒する必要がある、と考えるようになったこと、そのためには資金援助等を考えるようになったことを示しています。
ただし、忠実に?勅命を守って攘夷活動を始めた藩もあります。長州藩ではこの日から、関門海峡を通過する外国船に向けて砲撃を開始しました。もっとも、後に詳しく説明しますが、狙いが不正確な上に、射程距離が短いものですから、何の被害も与えていません。
そのニュースがわが国の朝野を震駭させた余韻も冷めやらぬ5月26日、小笠原長行は、彼の名を歴史の上に刻む第二の行動に出ました。率兵上京事件です。
前章で、春嶽政権の下で、幕府が洋式軍隊を創設したことを説明しました。この時点における、そのほとんど全員を引き連れて、彼は幕府海軍の船を使って上京したのです。具体的に言うと、連れて行ったのは騎兵奉行及びその指揮下の騎兵隊150名、歩兵奉行及びその指揮下の歩兵方100人、歩兵1200人、外国御用出役150人、計1600人という大部隊です。
1600人という人数そのものは、戦国時代の軍勢を考えると、そう多いものではありません。しかし、長きにわたって平和の支配した徳川時代には、これは大変な大部隊です。島津久光が700人の兵を率いて江戸まで来たおかげで、日本史の書き換えに成功したことを考えてください。
しかも、単に頭数が多いだけではありません。1年間とはいえ、洋式訓練を受けてきています。慶応2(1866)年に起こった第二次長州征伐の際、幕府軍は四方面から長州に攻め込みましたが、三方面まで撃退されました。ただ一つ、撃退されるどころか、長州軍を押しまくったのが芸州口で、そこの主力部隊が、この洋式歩兵隊だったのです。したがって、この時代における日本最強の軍といっても過言ではない存在でした。これが完全武装して小笠原長行にしたがって上京したわけです。
幕府海軍の蟠龍、朝陽、鯉魚門の3隻及び英国の民間汽船エルギン号及びラージャー号の2隻の計5隻にこれらの兵を分乗させて紀州の由良まで行き、ここで大阪から迎えに来た幕府軍艦順動と合流し、英国汽船に乗っていた兵をあらためて幕府軍艦に移譲させて、幕府軍艦だけで大阪まで行きました。
この事件について、長行自身がどのような意識を持っていたかははっきりしません。しかし、例えば小笠原クーデターなどと呼んだりして、日本史学者は一般に長行自身の主導と考えるようです。
私は、この事件が長行自身の主導で起きたと考えるのは無理だと思っています。これだけの軍隊を京まで移動させようとすれば、大変な準備作業が必要です。前節に、詳しく時系列を示しつつ、生麦事件の賠償金支払いにおける長行の活動を紹介しました。これを簡単に要約すれば、彼は慶喜にしたがって長く上方におり、江戸に戻ってからは賠償金支払い問題に全力投球をしていたのですから、とてもこの事件の下準備をする時間的余裕はなかった、と断定できます。
また、幕府の官僚機構上の問題もあります。彼は老中格の外国係であり、それ以上の独裁権は持っていません。彼が命令したからと言って、騎兵隊や歩兵隊が動くわけはないのです。同様に、幕府海軍を動かす権力も持っていません。さらにこれだけの兵を動かすには莫大な資金が必要ですが、その資金は勘定方が握っていて、長行の自由になるものではないことは、前節でも強調したところです。
長行自身、事後になせ兵を率いて上京したかと聞かれて、自分としては賠償金支払いにいたる経緯を説明するために上京しようとしたところ、兵が是非一緒に連れて行ってくれ、というので、つれてきただけだ、という趣旨の答弁をしています。私は、実際にもこれが真実だと思っています。つまり、兵が上京する事前準備はこの時までに整っていて、名目上の司令官として長行が担がれた、と見るのが自然と思われます。
では、いったい誰が何のためにこの事件を企画したのでしょうか。
背景にあるのは、在江戸幕府官僚の総意であろうと思います。すなわち、将軍上洛の留守を預かる幕府高級官僚は、朝廷を操る過激派の横暴と、テロルの恐怖におびえて唯々諾々と幕府や日本の利益を無視した命令を発してくる幕閣に対し、憤懣やるかたない状態であったわけです。
具体的にこの計画に参加したメンバーを見ると、そのことがよく分かります。
英国汽船を借り上げる交渉をしたのは、若年寄酒井忠ます(ますと言う字は田偏に比と書きます)です。彼は5月17日にフランス艦セミラミス号上で英仏の公使や提督と会談し、英国汽船の借り上げ交渉をまとめています。外国側は、これは前の抗議文で匂わせた物的援助の申し出に対する幕府の回答であり、したがって派兵は幕府による朝廷に対するクーデター計画を意味する、と理解していました。そして、クーデター成功の暁には、かねて幕府と諸外国との間で懸案となっていた大阪や兵庫の開市・開港、横浜居留地の租界化などが実現できる、という言質をもらったという意識であったことは確実です。
同じく外国側の理解では、このクーデターは、慶喜を担いで行う、というものでした。慶喜が実際に関与していたかどうかは全く判っていません。慶喜は、『昔夢会筆記』の中で、この事件は「余の関知するところにあらざるなり」と明言していますが、平気で嘘をつくことでは定評のある人ですから、あまり信用できません。たぶん計画の進行については十分に承知していながら、土壇場でいつものとおり、朝敵の汚名を着るのが怖くなって逃げたと理解する方が妥当と思います。
小笠原長行の供をして上京した主要官僚は、勘定奉行や外国奉行を歴任した水野忠徳であり、この時点では江戸町奉行であった井上清直であり、そして目付である向山一履、同じく土屋正直でした。水野忠徳と井上清直が勘定方を代表する実力者であることは皆さんもご存じのとおりです。つまり、幕政を動かす上での実力を有する二大派閥である勘定方と目付が手を組んで行った計画であることが、この顔ぶれに端的に示されていると思います。
小笠原長行が横浜を出発したのが前に述べたとおり、5月26日です。4隻の幕府軍艦が大阪に入ったのは6月1日でした。途中、由良で外国船から幕府軍艦に乗り換えるのに2日もかけて、なおこの日数ですから、陸上行軍に比べて汽船利用の軍隊移動がいかに迅速かがよく判ります。
軍が全員上陸し、出発準備が完了した時にはもう午後4時になっていました。しかし、徹夜で行軍して6月2日の朝には枚方に着いていました。この時、彼らの上京の報に驚いた幕閣が派遣した若年寄稲葉正巳が馬で駆けつけ、入京の差し止めを命じました。しかし、長行は構わず橋本までさらに進みました。ここで将軍の使い番である松平甲太郎が駆けつけ、「しばらくそこに止まるように」と説きました。しかし、そこでは宿がとれなかったため、長行はさらに進軍を続け、淀まできて、初めて兵を分宿させました。
淀というのは、今では京都市伏見区になりますから、京都市内に入っていますが、当時は、京都の郊外であって、決して京の市内ではありませんでした。こうして完全に入京せず、ここで停止したことが、このクーデターの成否を分けました。
朝廷はもちろんこの露骨な力の威嚇に震え上がりました。天皇は守備兵に戦闘準備を命じましたが、もちろん歯が立つものではないことは明らかです。そこで、ヒステリックに将軍家茂に対し、小笠原長行を何とかするように命じました。
6月4日になって、老中首座である水野忠精自身が駆けつけ、勅命及び台命による入京の禁止を説得しました。翌5日には、将軍家茂の親筆で入京の禁止を命じてきました。ここで、幕府としてのクーデターは、その命運が決まったのです。
幕閣は、6日には今一人の主席閣僚である板倉勝静が駆けつけてなおも説得に当たる一方、関係者に処罰を申し渡しました。長行に免職を申し渡すとともに、水野、井上ら、随行した主要官僚に差控(さしひかえ)、すなわち謹慎を申しつけました。軍は江戸に返すことを命じました。
しかし、だからたちどころに軍が消えてなくなるわけではありません。
震え上がった朝廷は、将軍家茂が江戸に帰ることを7日に承認しました。家茂は、9日に二条城を出発し、13日に、長行らが乗ってきた幕府軍艦に座乗し、江戸に帰りました。こうして、小笠原率兵上京事件は、具体的には京都に軟禁状態にあった将軍家茂の救出という効果だけを上げたことになります。
当初は、切腹を命じられるのではないか、といわれたりしたのですが、結果として、長行に対する処罰は非常に軽いものに終わりました。翌元治元年9月まで謹慎を命じられただけで済んだのです。さらに慶応元年には老中格に再び返り咲き、そのわずか1ヶ月後には格がとれて正規の老中となりました。
いくつもの違勅を重ねたにも関わらず、このように軽い処罰で済んだことに対する明確な説明は存在していません。おそらく彼の背景にある勢力、特に軍部クーデターに対する恐怖が、朝廷及び幕閣にもあったためではないかと私は思っています。
なお、この事件が水野忠徳の最後の公的活動となりました。以後は本当に隠居生活に入り、世に出ることはありませんでした。慶応4(1868)年7月9日に死亡しています。享年58歳。まだ死ぬ年齢ではない、と思いますが、徳川家に尽くし続けた彼としては、その滅亡を見て生きる気力を失ったのでしょう。なお、その死の直後の7月18日に江戸が東京に、また、9月8日に、年号が慶応から明治に、それぞれ改まっています。彼は最後の江戸人として死んだのです。
この事件は、評価の難しい事件です。もし成功していれば、幕府と英国やフランスの結びつきがより強くなり、悪くすると、わが国が植民地化したかもしれません。しかし、うまく行けば幕府が貿易の実利を独占する形で、より強大になり、幕府主導かで明治維新が実現していたかもしれないのです。
とにかく、事件当時、京都は軍事的空白状態にあり、長行が連れて行った強大な武力を背景に、幕閣が腹をくくって朝廷の支配に乗り出せば、成功していた可能性は非常に大きいと言わねばなりません。その意味で、幕府が滅亡しないで済む最後の機会であったことは間違いのないところです。
小笠原長行の生涯における2回の失敗ということを冒頭で述べましたが、その一つはこの時です。水野忠精及び板倉勝静を排除して、自分で政権を握るほどの覇気が長行にあれば、この時、日本史は確実に大きく変わっていたはずなのです。水野忠徳は、後々まで、この時、決行しなかったことを悔しがっていた、ということです。
文久3(1863)年6月22日(西暦だと8月6日)に英国極東艦隊は横浜を出港し、鹿児島へと向かいました。
この艦隊行動は、理屈から言うと奇妙なものです。そもそも民間人が殺傷された事件で、遺族等に対する賠償金請求はともかく、政府として要求するというのは奇妙なものですし、いろいろ紆余曲折があったにせよ、幕府が賠償金の支払いを行ったのに、それに重ねて薩摩藩から2万5千ポンド(10万ドル)も取り立てようというのはさらに奇妙な話です。
この裏にはニール代理公使の政治的判断があります。すなわち前節で、横浜の鎖港通知に対する抗議文が、同時に幕府に対する援助申し出でになっていた、と述べましたが、おそらくニールはこの機会に日本の国内政治に英国として直接介入することを狙ったのだと思われます。
その結果、この遠征隊は非常に大規模なものになりました。当初、極東艦隊のキューパー提督は2隻以上の艦の派遣に難色を示しましたが、ニールはこれを押し切って、この時点で横浜にいた全英国艦を派遣することにしました。具体的には旗艦ユーラリアス号(2371トン、砲35門)、パール号(1469トン、砲21門)、アーガス号(981トン、砲6門)、パーシューズ号(955トン、砲17門)、レースホース号(695トン、砲4門)、コケット号(677トン、砲4門)のほか、砲艦ハヴォック号(233トン、砲3門)の計7隻です。ハヴォック号は小型のため、横浜から鹿児島までの全行程をほかの艦に曳航されていきました。
ニールは、日本人は艦の数さえ見せれば腰が砕ける、という固定観念を持っていたのだ、ということが、この足手まといのハヴォック号までもつれていった、ということによく示されています。
すなわち、ニールは薩英戦争を予想していたのではありません。艦隊の脅威を示して、薩摩を屈服させ、薩摩との直接交渉の道を開くことを狙っていたのです。このため、艦隊には、ニール本人だけでなく、末席の通訳生であるアーネスト・サトーに至るまで、この時点における在日英国公使館の全職員(といっても8名ですが)も同行したのです。
このニールの楽観的な期待は、キューパー提督以下の海軍側にも伝染して、航海には物見遊山的な雰囲気が支配していました。鹿児島湾に入ってもその雰囲気は続いていました。鹿児島湾というところは、桜島を作った火山の火口湖ですから、湾の中央では深すぎて碇を降ろすことができません。だからといって、沿岸砲台の射程距離内に全艦が碇を降ろした、というのは戦闘部隊としては信じられないような失態です。
ニールは、いつもの幕府との交渉方法、すなわち居丈高に相手を恫喝する、というやり方で薩摩藩との交渉に入りました。生麦事件以来、ひたすら戦争を覚悟して準備を進めていた薩摩藩に通用する交渉技術とはいえません。交渉が全く進捗しないのに業を煮やしたニールは、キューパー提督に強硬手段を執るよう要請しました。そこで、キューパー提督は、薩摩藩が所有していた3隻の洋式汽船を拿捕することにしたのです。
信じられない話ですが、このような強硬手段の採用は単に交渉の一手段のつもりでした。そんなことをしたら、薩摩側としては、これを開戦行為とみなさざるを得ない、ということが、ニールにもキューパー提督にも全く認識されていなかったのです。
英国側が3隻の汽船を拿捕したのが7月2日(西暦8月15日)の朝9時のことでした。これに対して、薩摩側は同日の正午ちょうどに轟然と英国艦に対する砲撃を開始しました。英国の側の緊張感の欠如は、これが正午であったため、最初のうち、正午を知らせる時砲だと思っていたことに、よく現れています。しかし、沿岸砲台のまっただ中に停泊しているのですから、数分のうちに周り中から砲弾が飛んでくるようになりました。特にパーシューズ号は位置が悪く、逃げ出すため、碇綱を切り捨てるほかはありませんでした。
もう一つ、緊張感の欠如を示す挿話がユーラリアス号にあります。前にちょっと触れましたが、幕府からむしり取った44万ドルの入ったドル箱が、この時点でも、ユーラリアス号の弾薬庫の入り口の前にうずたかく積み上げられていたのです。その結果、英国艦隊の最大、最強のこの艦は、開戦後2時間というもの、1発の弾も打たなかったのです。弾丸がどんどん飛び来る中で、まずドル箱の撤去作業をしなければならなかった水兵達が何を考えていたか、知りたいものです。
当然のことながら、拿捕した3隻の汽船を持ち逃げするような余裕はありません。これについてはもったいない話ですが、火を放って沈没させることになりました。キューパー提督がこの命令を下すと、手近にいた兵員達は一斉にこれらの船の備品の略奪に走ったと言います。まさに火事場泥棒も良いところです。この当時の英国海軍の人的レベルの低劣さがよく判る挿話です。こうしたことから来る英国側の動きの鈍さも薩摩側に味方したわけです。
英国艦隊はいったん砲台の射程距離から逃げ出して、艦隊を再編成すると、改めて薩摩側の砲台との交戦を開始しました。特にアーガス号は最新型の100ポンドアームストロング砲1門を備えていて、これは大きな威力を発揮しました。しかし、薩摩側の攻撃もすさまじく、その砲火は特に旗艦ユーラリアス号に集中しました。その結果、艦長ジョスリング、副長ウィルモットその他数名の士官や兵員、計9名が戦死しました。
結局、キューパー提督はそれ以上の戦闘継続をあきらめ、横浜に退却しました。艦隊の誰もが戦闘の継続を臨んだのですが、それが不可能な事情があったのです。すなわち、この艦隊はすべて蒸気艦だったのですが、石炭が欠乏してきてしまったのです。蒸気艦で戦闘中に燃料がなくなって漂流を始めれば沿岸砲台のいいカモになるのは、判りきった話です。
薩英戦争については、薩摩の負け、というような説が存在していますが、要求をすべて拒んで撃退に成功したという点だけからみれば、むしろ薩摩側の完全勝利といってもよい結果だったわけです。
では、なぜ薩摩側の負け、という説が存在するのでしょうか。それはパーシューズ号が、鹿児島市街をロケット攻撃し、大きな被害を与えたからなのです。
ロケットというと、我々が現代科学の粋のように思いますが、その歴史は意外に古いのです。英国でロケットを発明したのはサー・ウィリアム・コングリーブという人物です。その発明になるロケットを装備した部隊を、英国は第2次独立戦争ともいわれる1812年の米国との戦いに投入しています。その結果、米国国歌の一節には「ロケットの赤き炎the rocket's red glare」という言葉が今も残っています。
第二次世界大戦中の日本やドイツの市街地に対する無差別爆撃を知っている我々には信じ難い話ですが、英米では、直接戦闘に関係のない一般市民に対する戦闘行為は、今も昔も非常に強く非難されます。例えていえば、ボクシングの試合の最中に突然相手の下腹部を殴りつけるような、ルール違反の行為と評価されるわけです。
例えば湾岸戦争の際にも、米国がイラクに投下した爆弾が軍事施設以外を破壊した、という報道が盛んに行われたことをご記憶と思います。そこで、この薩英戦争の結果がが英国本国に伝えられると、この鹿児島市街を破壊した行為は世論の激しい非難を浴びることになります。
これに対して、英国政府は、鹿児島市街の破壊は、強風の吹き荒れる中、沿岸砲台と交戦しなければならなかったという事情の下で起きた偶発的な出来事であった、と釈明しました。もちろんこれは嘘です。砲台を狙った砲弾がそれて市街に飛び込んだのではなく、はじめから市街を狙ってロケット攻撃をしているからです。ロケットは、砲台のような防備の堅いところには役に立たない武器なのです。薩摩側の砲台の攻撃の激しさに手を焼いて、牽制のためやった攻撃と思われます。
結局、英国議会は、政府は「鹿児島の街を焼いたことに遺憾の意を表明し、英国の鹿児島での攻撃は、文明国の間で行われる通常の戦争に違反するものであり、キューパー提督の個人的な責任を問う」べきである、と議決したのです。
しかし、結果としてこの鹿児島市街への攻撃が薩摩側の態度を変えることになります。日本では、戦国の昔から、戦闘にあたっては付近の民家に火を放つというのは普通の戦術ですから、火を放たれたこと自体はあまり怒りません。むしろ、その威力に感心したわけです。
薩英戦争から3ヶ月後の9月28日から、横浜で薩摩と英国の話し合いが始まりました。この時の会議、および10月4日の会議では、薩摩側は自分たちの正義を主張し、英国側の非を唱え、英国側はその正反対の主張を繰り返したので、議論は全く進展しませんでした。ところが10月5日の第3回の会議で、薩摩側は突然態度を変えます。薩摩としては軍艦を購入したいので、英国側がその周旋を行ってくれるなら、生麦事件の賠償金の支払いに応じてもよい、といいだしたのです。つい最近、戦火を交えた相手に武器を売ってくれ、というのは、完全に英国側の意表をついた提案でした。
ニールは最初断ったのですが、その後で、英国としては薩摩側が懇親の意を表せば軍艦購入の斡旋を引き受けてもよい、と付け加えました。これに対して、薩摩側は軍艦購入の周旋を依頼すること自体が懇親の現れである、と述べたため、会談はその後、にわかに順調に進みだし、希望する軍艦の型、その代価、建造に要する日数、さらには船を操縦する技術を教える教官の派遣というようなことにまで話が進んだのです。
ここから、以後の幕末の歴史を支配する薩摩と英国の協調体制がスタートすることになります。そのために幕府はさんざん苦労し、最後には滅亡することになるわけです。
そのことを思うと、こうして交渉が妥結した後で、薩摩のやった行為は実に人を食っています。薩摩藩は、手元不如意のため資金がないとして、賠償金を貸してくれ、と幕府に申し込んだのです。なんといっても鹿児島市街が全焼しているのですから、これは嘘ではありません。そこで、幕府が、薩摩の賠償金を全面的に肩代わりすることに決めたのは10月28日のことです。そして、11月1日に賠償金10万ドルが幕府から英国に支払われました。結局、生麦事件の後始末のために幕府が英国から搾り取られた額は54万ドルという巨額に達しました。
幕府が、この時期薩摩藩に好意的な態度を示したのには訳があります。この年の後半、幕府と薩摩藩は非常に緊密な協力関係にあったのです。
実は薩英戦争が始まる以前の文久3(1863)年5月20日、尊王攘夷派のリーダー格であった姉小路公知(きんとも)が暗殺されました。この事件の真犯人は今日に至るも謎ですが、殺人現場に薩摩藩の田中新兵衛の刀が落ちていたことから、彼が犯人ではないかと疑われました。
田中新兵衛は、人斬り新兵衛の異名で知られる幕末有数の暗殺者ですから、疑われるのは無理のないところがあります。しかし、彼のような熟練した暗殺者が、現場に自分の愛刀を落として逃げる、ということは常識的に考えられません。そのため、彼はこの件に関する限り無実だ、と今日では考えられています。しかし、新兵衛は取り調べられた際、一言も抗弁せず、取り調べ側の一瞬の隙をついて自殺してしまいました。
このため、この当時は、彼が真犯人と断定され、したがってそれは薩摩藩自体の意思であったと考えられたので、薩摩藩が御所への出入りを禁じられる、という事態に発展しました。この結果、京都は長州藩の天下となりました。ここから逆に、おそらく姉小路暗殺事件の黒幕は長州ではなかったか、というように思えます。
そこで失地回復を目指した薩摩藩は、思い切った手段にでました。京都守護職を務める会津藩に接近したのです。薩摩藩は、こういう政治的寝技が得意なことでは知られた藩ですから、長州側でもある程度の警戒はしていたに違いありません。しかし、この時、薩摩藩が陰謀の主役として起用したのは、西郷隆盛でも大久保一蔵でもありません。明治維新後には明治天皇の和歌の師として有名になる高崎正風(この時点では高崎左太郎)です。この時以前に全く政治的活動歴がない人物です。ついでに言えば、この時以後も全く政治的活動を行っていません。そういう非政治的な人物が動いたために、長州藩の意表をついたことになるわけです。
狙いは、この特定の時点において、会津藩が偶然にも握ることになる予定の巨大な兵力です。会津藩では、京都守護のため、1000名の藩兵を京都に常駐させていました。しかし、兵達にとって、故郷と気候・風土・方言の大きく異なる京都に長期にわたって滞在するのは苦痛です。そこで、会津藩では、時々国元から交替の兵を呼び寄せていたのです。そして、この時点で、現に京都に駐留する兵に代わるべく、1000名の兵が上京してきました。したがって、この交替のための事務引継期間だけは、会津藩は普段の倍の2000名の兵を保有していることになります。これに薩摩藩が京都においている兵を合わせれば、無敵の力を持つことになります。
会津藩は、およそ政治的活動が苦手で、だからこそ、京都守護職のような損な役割を押しつけられたくらいです。したがって、薩摩に言われるまで、この兵の交替に伴う軍事力の増大には気がついていませんでした。しかし、長州の横暴を苦々しく思っていた点では、直接に京都市内の治安維持のため、大変な苦労をさせられているだけに、薩摩藩の比ではありません。長州を追い落とす、ということに全く異存はないわけです。こうして、幕末最大の奇現象である薩会秘密同盟が成立したのです。
文久3年8月18日、クーデターの幕が切って落とされます。この日の深夜1時に中川宮朝彦親王が突如参内すると、それをきっかけに守護職松平容保、京都所司代(淀藩主)稲葉正邦らが武装した兵とともにぞくぞく入門し、あっという間に京都御所を内側から固めてしまったのです。薩摩藩士は、わざと長州藩が警備を担当している堺町門に集結し、門を固め終わると、その合図に大砲を一発撃ちました。午前4時のことです。
急を聞いた長州藩では、堺町門の正面にある鷹司邸に集結しました。長州兵数百のほか、三条実美の命により、32藩から計約1000名の兵の動員に成功しました。しかし、両軍の兵力の落差は大きく、ここで開戦するのは不利という判断から、結局、長州藩兵は三条実美ら、7名の公家を守って国元に退くことになりました。有名な七卿都落ち事件です。
なお、中川宮はこの事件の主役になったことで、長州の深い憎悪を一身に浴びることになりました。その結果、明治維新と同時に官職を剥奪され、広島に幽閉されることになります。明治8年になってようやく許されて、新たに久邇宮(くにのみや)家を起こし、伊勢神宮の祭主とされました。明治24年に死亡しました。
こうして、会津と薩摩は、一気に京都から攘夷派の勢力を一掃するのに成功したのです。だから、薩英の和平交渉の時期には幕府と薩摩は蜜月関係にあったわけです。
孝明天皇が基本的には佐幕派的思想の持ち主であることは、先に紹介したとおりです。天皇の招集により、まず10月3日に島津久光が上京してきました。彼は、今度はおおっぴらに大砲隊2隊、小銃隊12隊、計15,000人という大部隊を率いてきました。前回の上京時同様、この軍事力を背景に政治の流れを変えようと言うのが彼の狙いです。10月18日には政治総裁職を勝手に辞めて逃げ出していた松平春嶽が、そして11月3日には伊達宗城(むねなり)が、それぞれ上京しました。一橋慶喜その人が京都に来たのは11月26日のことでした。
山内容堂は、8月18日のクーデターにより、天下の流れが公武合体派の方向に決まったと見極めると、9月21日、当時土佐藩を牛耳っていた武市瑞山をはじめとする土佐勤王党の幹部を一斉に逮捕投獄し、藩内過激派の大掃除を断行しました。このため、少し遅れて12月28日になってようやく上京してきました。これで、久しぶりに一橋派の有力諸侯が京都に集まったわけです。
島津久光は、一橋派の諸侯を説得し、彼ら有力諸侯に、クーデターの主役として一気に人気の高まった松平容保(かたもり)を加えたメンバーを、天皇が参与に任命し、この参与会議で国政を動かそうという体勢を作り出したのです。正式発令は12月晦日、この年最後の日になされました。さらに、翌年1月13日に久光自身にも官位が与えられ、同時に参与に任命されました。
孝明天皇は、この参与会議の発足をことのほか喜び、家茂を何度か呼んで、長州を排撃し、幕府中心に軍備の増強を命ずるなど、この時期、幕府と朝廷の政策は完全に一体となっている観がありました。
この参与会議が、しかし、2月中旬には早くも空中分解してしまいます。たたき壊したのは、一橋慶喜その人です。一橋派の諸侯は、そろって基本的に開国派の思想の持ち主ですから、朝廷の実権を手に入れたのを機会に、鎖港攘夷の国是そのものを改正しようとしました。ところが、その中心となるべき慶喜が、一人だけ鎖港攘夷論に固執して、会議を邪魔したのです。
さらに、その翌日、2月15日、今度は中川宮朝彦親王の屋敷で、島津久光が松平春嶽や伊達宗城と善後策を相談しているところに、わざと酒に酔って現れ、朝彦親王に向かって、久光達「この三人は天下の大愚物、天下の大奸物にござ候ところ、いかにして宮は御信用あそばされ候や」といったのです。その場に、その三人が同席しているのですから、これは面と向かってののしったのに等しい行動です。当然彼らは激怒し、ここに参議会議は完全に暗礁に乗り上げます。
慶喜は、さらに念の入ったことに、別途、孝明天皇には2回も奉答書を提出し、鎖港に向けて努力中である、と報告したのですから、天皇はもちろん、それを信用します。
なお、この点は嘘ではありません。幕府は鎖港交渉のための遣欧使節をこの前年の暮れも押し詰まった12月29日に再び送り出していたのです。天皇が慶喜のいうことを信用すれば、外国との交渉を認めようなどという話に耳を貸すわけがありません。こうして参与会議は、完全に機能を止めてしまったのです。
せっかく国元の大掃除を断行して、全面的に協力できる体制を作ってきた山内容堂は、この有様に絶望し、2月28日、辞表をたたきつけて帰国してしまいます。残るメンバーも、3月9日には全員辞表を書いて、ここに参与会議は正式に消滅することになったのです。
なぜ慶喜がこのような行動にでたのかについて、慶喜は『昔夢会筆記』の中で、攘夷といったり、開国といったりしたのでは国是不確定で、幕府の権威が失墜するからだと自己弁護しています。しかし、これは例によって彼の虚言と見るべきでしょう。
真意は、容易に想像できます。参与会議が成功する、ということは、それを実現させるにあたり、最大の功績者であった島津久光の権威がいやが上にもあがり、慶喜の存在が薄れてしまうということを意味します。先に本稿第2章で養君擁立問題で幕府が揺れた際に、慶喜が幕府のリーダーシップを考え、雄藩連合の形で政局を運営することを嫌って、自らも辞退の姿勢を崩さなかったということを述べたことがあります。その意味では、この時点での慶喜の行動も首尾一貫しているということができます。
慶喜の考えでは、クーデターによって長州勢力の京都からの追い落としに成功するまでが薩摩の協力の必要な部分でした。ひとたび政治の実権を握ってしまえば、もはや薩摩その他の諸侯の協力は不要、というのが彼の本音と見て間違いないでしょう。そのための手段として、病的な虚言癖のある慶喜としては、天皇に対して攘夷の断行などと本音とは全く違うことを奏上するくらいは何でもないことであったわけです。
先に紹介したこの前年5月の小笠原長行率兵上京事件が、幕府にとって惜しまれる理由はここにあります。もし、あれに慶喜が乗る勇気さえ持っていれば、何も攘夷鎖港などといわなくとも、きちんと開国路線のままで、この時と同様に強力な政権のリーダーシップがとれたはずなのです。
それをやる勇気がなかったばかりに、そのわずか3ヶ月後の8月18日にクーデターを会津が行う羽目になったわけです。ところが、このクーデターは薩摩との共同活動であったために、慶喜としては、政局の主導権を執る手段として、鎖港攘夷路線をとらざるを得なくなったわけです。そのため、以後、幕府は鎖港攘夷という基本線を守るために、高価な犠牲を払う羽目になり、また、本来彼の与党であるはずの一橋派全員を敵に回すという暴挙まで必要になった訳です。
歴史のイフはともかく、この時点では、孝明天皇が気に入りそうなことをしゃべりまくった慶喜が、3月25日、禁裏守衛総督に就任しました。さらに4月20日には、改めて庶政を将軍に委任する旨の沙汰書が出されています。
こうして、慶喜は政治の主導権を握るのに成功したのです。かっての一橋派は、彼を見限って国元に引き上げて、ここに完全に分解することになります。
なお、参与会議が今まさに崩壊しようとしていた2月20日、朝廷は年号を文久から元治へと改めました。
この元治元年3月27日、筑波山に水戸天狗党約2000人が挙兵しました。すなわち、慶喜のお膝元である水戸藩の内紛が火を噴いたのです。天狗党は、初期においては、勤王のための義挙という自らの大義に自己陶酔して、周辺の町村で金穀強奪などを繰り返したので、農民の激しい反発にあい、崩壊します。
しかし、約1000人の残党は、慶喜を頼って、西へ向かいました。その勢力はきわめて強く、ほとんど向かうところ敵なしの進軍を行いました。また、幕府側が迎撃のため、ある程度強力な部隊をその行く手に集中した場合には、島崎藤村の名作『夜明け前』に描かれているように、同じく勤王の思想を持つ地方の有力農民の助けを借りて間道を抜けるなどしたため、この年12月27日にははるばる福井県にまで到達したのですが、そこで力尽き、加賀藩に投降しました。その彼らを、慶喜は、寒中にニシン倉に裸で放り込むというような虐待をしたあげくに斬殺に処する、というきわめて過酷な扱いをしたのです。というのも、彼らの騒動が引き金となって、禁門の変という大変な事件が引き起こされたため、慶喜は怒り心頭に発していたからなのです。
すなわち、文久3年8月18日のクーデターで京都から追い落とされた長州藩過激派は、参与会議の崩壊と天狗党の乱に、付け入る隙があると見て、京都を武力で回復しようと企てたのです。幕府もこれを知って軍を集めます。両軍併せて5万の大軍が対峙しました。
おそらく、この時こそが、慶喜の生涯の中でもっとも輝いていた時です。すなわち、彼の不退転の決意こそが、この困難な闘いで幕府を救ったからです。これ以前も、これ以後も、常に彼の決意がぐらつくのが原因で、幕府が衰退を重ねていったことを思うと、この時の彼は、異常としか言いようがありません。
7月18日から19日にかけての深夜に長州軍が京都市中に突入を開始しました。これを聞いて深夜の2時に朝廷に参内した慶喜は、おびえて逃げ回る公家や親王を叱咤激励して、長州軍討伐の勅許を要請し、それと同時に会津軍、桑名軍に出動を命じます。3時にようやく勅許がおりました。その時にはもう戦端は開かれていたわけですから、彼が勅許を待って命令を下していたら、長州軍はそれだけでかなり有利になっていたはずです。
長州軍は激闘を繰り返しつつ、最終的には御所内にまで突入してきました。特に主戦場になったのが、蛤御門(はまぐりごもん)だったので、この事件のことを禁門の変とか、蛤御門の変と呼ぶわけです。長州軍をここで迎え撃ったのは会津軍ですが、最初、会津軍は長州軍の勢いに押されてばたばたと倒されたのです。何とこの時、慶喜は手兵400名を率いて自ら会津軍の救援に駆けつけたのです。一橋家の兵は弱兵でしたから、その兵力が戦場に現れたこと自体は、戦況に何の影響も与えませんでした。しかし、総指揮官自らの督励に発憤した会津軍が、ここをしっかりと支えます。
慶喜はさらに、御所内に銃弾が飛び込み、公家が浮き足立って、長州を許せ、と言い出していると聞くと、御所内に駆け戻り、天皇に拝謁し、あるいは公家に対して、戦は勝っている、と怒鳴り散らして動揺を抑えたのです。とにかく、ここで長州を是とする勅語がでたら万事休すだったわけで、彼の機敏な措置がこの日の幕府を救ったことは間違いありません。
最終的に蛤御門の戦いで、幕府を救ったのは西郷隆盛の指揮する薩摩軍です。本来、薩摩軍の部署は蛤御門ではなかったのですが、西郷は戦闘の趨勢を素早く見て取り、独断でここに向かったのです。会津軍との間に、ぎりぎりの死闘を展開していたところに、薩摩軍の強烈な横撃を受けた長州軍は、一瞬にして壊滅することになります。その後、全軍総崩れになって西に逃げますが、幕軍の追撃にあって多数が殺され、ほとんど生きて帰れませんでした。この時、京都市内にいた長州方の著名人では、わずかに桂小五郎一人が脱出に成功したに止まります。
長州軍を迎え撃つために動員された会津、桑名、大垣など諸藩の財政負担はきわめて大きかったはずで、とうてい疲弊しきっている当時の各藩が、自分でそのすべてを負担することが可能だったとは思えません。賜与の形を取るか、貸し付けの形を取るかはともかく、幕府としてかなりの支出を必要としたはずです。
また、破れた長州藩は、京都の長州藩邸をはじめとして各所に放火したため、火が市中に燃え広がり、鎮火したのは21日になってからでした。このため、公家の屋敷だけでも数十戸、一般民家の罹災は2万8000戸に達し、鴨川の河原や諸街道は避難民であふれたと言われます。
こうした被災者を放置しておいたのでは、社会不安が拡大しますから、これらに対しても何らかの手当が必要だったはずです。
したがって、この禁門の変前後に相当の経費を幕府は必要としたはずですが、それがどの程度の額で、どうやって捻出したのかは、はっきりしません。おそらく、京都や大阪の豪商からの借り入れ、という形で現地で処理したことは確かです。この年、大阪市中にあったという張り紙の文章が今に残っています。次の文です。
「公儀において何の恩か為る
今衣食は日月の恩
当今の公儀は万民の寇也
公儀へ御用金を出す馬鹿はなし
仮令権威を以て用金申付候共、怨る計也
十分の一にねぎって出すなれど、
捨るより惜し也」
幕府から御用金と称して、強制的に借り上げられる分限者の悲鳴が聞こえてくるような文章ではありませんか。また、こういう張り紙を取り締まる力のなくなった幕府の実力もよく判ります。
一橋慶喜が、朝廷で責め立てられ、苦し紛れに攘夷の決行期日として公約したのは、前に述べたとおり、文久3(1863)年5月10日のことでした。もちろん、慶喜自身はこのような公約を守るつもりはなく、幕府では、これは単なるポーズであると外国公使に向かって明言したことも、先に紹介しました。その他のほとんどの藩も、攘夷決行などという幕府の命令を守るつもりはなかったという点については、幕府と同様でした。
しかし、ただ一つの例外がありました。長州藩です。同藩では、まさにこの日を期して攘夷を開始すべく、下関海峡を通過する外国船に対する砲撃を開始したのです。
攘夷を呼号する藩としてはまことに矛盾したことですが、当時のわが国の技術で、砲台を作ることは不可能でした。そこで、長州藩では高島秋帆の下でオランダ流兵学を学んだ技術者である中島名左衛門を高禄で招いてきて、この攘夷のための砲台を作ってもらったのです。かわいそうに、この中島は、攘夷活動の一環として後に暗殺されています。
問題は、この砲台がオランダの本から学んだ技術で作られた、という点にありました。ご存じの通り、オランダは国土の過半が埋め立てで作られた、といわれる国ですから、当然、沿岸防備のための砲台も、海を埋め立てて作りました。この中島という人は、同時代の蘭学者、例えば村田蔵六(後の大村益次郎)や福沢諭吉と違って、あまり想像力のなかった人らしく、手本から一歩もはみ出そうとはしませんでした。つまり、長州藩の砲台は、わざわざ海を埋め立てて作ったのです。
もちろんこれは馬鹿げたことです。沿岸砲台は、欧米の常識としては、切り立った断崖の上に作るものです。砲台の位置は高いほど好ましいのです。なぜなら、砲台の位置が高くなればなるほど、当時の黒色火薬を使用した大砲では、射程距離がぐっと伸びるので、船の方から打ち返される心配無しに弾の雨を降らせることが可能になるからです。その上、切り立った断崖は、軍艦から海兵隊が砲台を攻め落とそうと攻め上ってくるのも、非常に困難にします。ところが、長州の砲台は、海を埋め立てて作ってあるのですから、射程距離は短いし、海兵隊の上陸もきわめて容易です。
今、ドイツのライン河を船で旅すると、どうやって登ったのだろうと心配になるような断崖の上に古城の廃墟が数多く見られます。あれらの古城が廃墟となったのはナポレオン戦争の時代ですから、本稿で取り上げている時代より半世紀ほど前です。しかし、欧州の戦争技術は、この時期までは大した進歩を示していませんでしたから、本来であれば、ああいう感じに沿岸砲台を作るべきだったのです。
ところが、長州藩はわざわざ水上に砲台を作りました。しかも、普通であれば沿岸砲台は、艦載砲よりも大きいものを使うのですが、長州のはむしろ小振りなぐらいです。また、相手は木造帆船ですから、威力を増大させるために弾を熱して撃つ、というのが沿岸砲台の常套手段ですが、そういうこともやっていません。このため、撃てども撃てども、大した威力はありません。しかも、対岸の九州側の諸藩は、砲撃などやらない、と明言しているものですから、長州の短い射程距離からはずれた九州よりの航路を通れば、ほとんど危険はない、ということになります。
それどころか、この脆弱な水上砲台は、怒った外国軍艦から逆に撃ち返されて、無造作に壊滅してしまう始末です。すなわち、6月1日には米艦ワイオミング号が各地の砲台をその砲火で破壊したばかりか、長州藩の虎の子の洋式軍艦庚辰(こうしん)丸、壬戌(じんじゅつ)丸を撃沈し、癸丑(きちゅう)丸を大破させています。5日には、フランス艦セミラミス号及びタンクレード号が猛攻を浴びせ、250人もの陸戦隊が上陸して、砲台を焼き払ったばかりでなく、武器や甲冑が強奪されています。
それでも長州藩の戦意は旺盛で、攻撃隊が去ると早速砲台が再建され、再び下関海峡を通過する外国船に対する砲撃が始まるのです。したがって、単なる報復攻撃ではなく、抜本的な対策を講ずる必要があることは明らかです。
文久4(1864)年=元治元年3月にロンドンから帰任したイギリス公使オールコックは、列国に呼びかけて連合艦隊を組織することにしました。ちょうどこの時期は、前節に述べたとおり、慶喜が参与会議をつぶすために強硬に攘夷鎖港を唱えていた時期でした。慶喜は、このポーズを少しでも朝廷に信用してもらうために、江戸に命じて、主力輸出品である生糸の貿易統制を強化していました。そのため、この時期、横浜の貿易はすっかり沈滞していたのです。そこで、オールコックとしては、長州藩の攘夷を徹底的に叩くことで、同時に幕府に対する列強軍事力のデモンストレーションを行うことも狙ったわけです。
英仏米蘭4カ国の間で話がまとまり、まず4月末に議定書が取り交わされ、ついで6月に共同覚え書きを作成して、条約上の権利を確保し、将来の安全保障のために、断固たる措置をとる、という旨を幕府に通知しました。
本来ならば、幕府は、国内問題は幕府の責任で処理するから、時間をくれ、と交渉すべきところです。しかし、前節に述べたとおり、時あたかも、禁門の変の前夜です。幕閣の首脳は皆京都にいるのですから、適切な対応をする能力が江戸の留守部隊にはなかったのです。
日本史学者の中には、長州藩が、連合艦隊の来襲に備えて国元の防備を固めるならば、大いに結構とばかり、これを受け入れた、という説を唱える人がいるのですが、これはちょっと信じられません。これまでの幕末の歴史に明らかなとおり、列強が動けば、必ず最後は幕府に賠償請求が来ることはわかりきっており、それがわからないほど暗愚な幕府ではないからです。事実、後に詳述しますが、ぎりぎりの段階で、攻撃の中止を慶喜は申し入れています。
このように下関攻撃の時期が切迫していることは、当然長州藩も情報をつかんでいたはずですが、驚いたことに、長州藩は国元の防備を固めようとはしませんでした。それを完全になげうって、動員可能なすべての軍を京都に向けて進発させたのです。というより、これは一種の熱病のようなもので、組織的に軍が送り出されたのではなく、かってに各隊が上京していってしまった、という方が正しいでしょう。国元の防備などという発想は、当時の長州藩兵士には、ほとんどありませんでした。こうして京に集中した長州藩兵力と、会津、薩摩連合軍の戦いという形で起きたのが、先に紹介した禁門の変というわけです。
他方、4カ国連合艦隊は着々と準備を進め、7月18日に、連合艦隊の出撃を正式に幕府に通知しました。前に述べたとおり、この日の夜に、禁門の変が起こるのですから、この日はまさに運命的な日といえます。
今一つの歴史の偶然ですが、この同じ日、前年暮れに幕府が鎖港条約交渉のために派遣した遣欧使節が帰ってきました。彼らは鎖港交渉をするどころか、下関海峡通過時に破損した船に対する賠償とか、将来に向けての下関海峡通行権の確認、輸入関税の低減などを盛り込んだパリ約定をフランスで押しつけられ、イギリスに行くこともできずにあわてふためいて戻ってきたのでした。
正使池田長発(ながのぶ)以下の面々は、欧州軍事技術の優越を説き、攘夷決行の危険性を説きましたが、これはいわば釈迦に説法です。慶喜はそんなことは百も承知で、政治的な賭として攘夷論を唱えているのです。聞く耳を持つわけがありません。
このように情勢が緊迫している中で、形だけでも攘夷の実績といえるような結果をもってくるどころか、逆に厳しい内容を盛り込んだパリ約定などというとんでもない土産をもって帰ってきたのですから、厳しい処罰を科さないことには示しがつきません。そのため、池田長発は家禄600石を召し上げの上、隠居・謹慎を命ぜられるなど、全員に重罰が申し渡されました。長発は、幽閉中に発狂したということです。
連合艦隊の方では、最終通告に対して幕府が何か建設的な返事を寄越すか、と待っていたところ、24日になって、パリ約定の破棄通告が幕府からなされました。前に述べたとおり、慶喜は参与会議をつぶす、というただそれだけの目的で、攘夷鎖港を打ち出したのですが、打ち出した以上はそれで頑張らねばなりません。したがって、これはその建前から来る必然の回答です。
連合艦隊は、そこで、もはや実力行使以外にはない、と横浜を出港しました。艦隊の内訳は、イギリスが9隻でそれに積載する大砲が合計164門(以下同じ)、フランスが3隻64門、オランダが4隻56門、米国が1隻4門、合計17隻288門です。単艦の報復攻撃ですら壊滅させられていた砲台を破壊するためだけであれば、これほどの軍事力を動員する必要はもちろんありません。これはあくまでも幕府も含めた全日本に対する軍事的デモンストレーションなのです。
この時、長州軍は禁門の変に破れたため壊滅状態にありましたが、それでも下関砲台の周りに奇兵隊を中核に支藩の兵や農民兵をかき集めて、なんとか約2000の兵をそろえていました。これに対して、連合艦隊の用意した陸戦隊は、イギリスだけで2000人、そのほかにフランス350人、オランダ200人、米国50人、計2600人ですから、人数だけでも長州側を上回る大兵力です。
8月2日、連合艦隊は豊後水道の姫島に集結しました。他方、禁門の変で怒り心頭に発していた孝明天皇は長州追討の勅命を幕府に下していたのですが、この同じ日、諸大名に総登城を命じ、正式に長州征伐の開始を宣言したのです。これにより、ようやく長州の問題は国内で処理するので、外国は手を出さないでもらいたい、といえる状態になったわけです。そこで、幕府では、5日に攻撃延期を連合艦隊側に申し入れました。が、実はこの5日が下関戦争の開戦の日で、申し入れは完全に手遅れでした。
この時期になると、長州藩も海上に砲台を作るのは馬鹿げていることに経験から知り、各地の断崖の上に砲台を作り直していました。連合艦隊の猛火に、位置の知られている砲台は一瞬にして破壊されたのですが、新たに建設され、隠されていた各地の砲台が激しく抵抗しました。連合艦隊の軍艦の周りは海面に落下する砲弾のため、白くなった、といわれるほどの激しい攻撃ぶりを示したのです。もっとも余り威力はなかったようです。
翌6日にも激しい戦闘が続けられましたが、火力、陸戦力ともに連合軍が圧倒しているのですから、長州側に勝ち目はありません。二日間の戦闘で、下関近辺の長州軍はほぼ一掃されました。それでも8日まで小競り合いが続きました。もし、長州藩が禁門の変を起こさず、主力部隊を下関防衛に投入していたら、陸上戦についてはおそらく戦況が逆転していたことでしょう。しかし、この時の守備軍は奇兵隊などが奮戦しただけで、後の寄せ集めの軍は、敵兵の姿を見るなり逃げ出す始末でした。敵味方4000を越える兵力がぶつかっていながら、双方、数十名の死傷者で済んでいることが、長州側のこの時点での戦意の低さをよく示しています。
8日に、高杉晋作が使節に立って、長州藩と連合艦隊の間で和平交渉が始まりました。通訳は伊藤博文と井上馨が務めました。
長州藩の一筋縄ではいかない点は、下関海峡砲撃の始まる直前に、藩命により5人の藩士をイギリスに留学させていたことに良く現れています。オランダ式砲台を築いて攘夷を行おうとしたのと同様に、戦う相手を研究するのは武士として当然の心がけですが、それにしても良く留学志願者がいたものです。
伊藤と井上はロンドンの地で戦争必至と聞き、学業をわずか半年でなげうって駆け戻ってきていたのです。この時、残り3人の留学生は、学業優先とイギリスに残りました。3人ともそれぞれ、その選んだ学問分野ではわが国の先駆者と考えられているようですが、一般に知られる人名とはなっていません。ちなみにその3人の名は、山尾庸三、野村弥吉、遠藤謹助です。
命がけの危険と大変な苦労をして英国に着いたばかりなのです。私なら、たぶん躊躇うことなくイギリスに残ったと思います。この時点で万里の波濤を越えて日本に馳せ帰る、という決断を迷うことなく下せたという点に、彼らの政治家としての力量がよく現れています。伊藤博文が維新の元勲となり、お札にまで顔を残しているのは、単に時勢に乗ったのではなく、自らの意思で時勢を動かすだけの器量があったからです。下関戦争講和という大舞台で、彼ははじめて青史に登場することになります。
長州藩は、禁門の変と下関戦争というダブルパンチにより、壊滅的な打撃を受けていたにも関わらず、過激な攘夷派はなお戦争継続を主張してやみませんでした。そのため、危険を感じて高杉や伊藤達が一時姿を隠す、というようなことがあったりして、交渉は難航しました。が、14日に条約がまとまりました。長州は、今後、外国船の下関海峡通過を認めること、したがって、砲台の再建は行わないこと、石炭や薪水など必要なものは売ること、の三つだけが、この条約によって発生した長州藩の義務です。
この事件の賠償金交渉は江戸で行うこと、という条項が入っていますが、幕府と戦闘状態にある長州が江戸で交渉できるわけがないので、これは例によって幕府に後の始末を押しつけた、というわけです。薩英戦争と同じ結果になったのです。つまり、この条約は、長州藩側としては、戦争に負けたという自明の事実を確認し、戦前において負担していた義務を間違いなく履行することを宣言しただけで、新たな責務が全く含まれていないのです。高杉晋作の交渉力の高さを如実に示しています。
交渉の中で高杉は、長州藩による砲撃は、幕府の命令によるもので、長州藩の本意ではない、と主張し、その証拠として朝廷や幕府からの文書の写しを示しました。皆さんもご存じの通り、この文書は間違いのない本物ですから、高杉晋作の議論が強い説得力を持つのは当然といえます。これにより、列強は幕府に対して強い不信感を持つに至りました。その意味で、この下関戦争は、幕府の滅亡に至る道程での決定的な里程標ということができます。
連合艦隊は、この不信感を慶喜に対してアッピールする手段として、帰途、わざと摂海に侵入して天保山沖で一泊し、京・大坂を恐怖にたたき込むという強烈なデモンストレーションを行いました。
こうして、賠償金交渉は、長州などそっちのけで、幕府との間で行われました。オールコック等は、9月22日、艦隊が帰ってくるのを待ってから、幕府に対して、下関開港か、300万ドルという天文学的な賠償金のいずれかを選べ、と詰め寄ったのです。この二つを並べれば、誰が考えても、開港の方を選ぶはずだ、というわけです。
しかし、この時点では、まだ長州は降伏していませんし、下関のような幕府がコントロールできない港を開港したのでは、妥当すべき相手である長州を富ませるおそれがある、ということも確かでしょう。が、それだけのことであれば、例えば博多など、別の港を代替案にして交渉する余地もあったはずです。
交渉できなかった最大の原因は、ここでも慶喜が鎖港攘夷をその基本政策としていることです。それが、幕府から選択の余地を奪いました。幕府は300万ドルの方を選んだのです。さすがに、一度には払いきれず、後に詳述するとおり、慶応元年から3年に掛けて、半分の150万ドルを支払ったところで、幕府は滅びました。残り半分は明治政府が引き継いで支払ったのです。国内政治で一時的に支配権を握る代償として、日本にこれほど大きな負担を掛けた慶喜という人物をほめる人の気が知れません。
この賠償金の明治政府の履行状況を簡単に説明しておきましょう。明治政府は明治7(1874)年に、英国に対して64万5000ドル、仏、米、蘭各国にそれぞれ78万5000ドルを支払いました(延滞利子を含む)。明治7年といえば、佐賀の乱があり、また、台湾出兵を強行した年です。財政の厳しい中で、さぞ辛かったろうと思うのですが、それ以上に、この厄介な負債のけりをつける方が、明治政府として急務だったわけです。
なぜかというと、オールコック達は、この時、同時に、横浜防衛軍の常駐施設を幕府の負担で建設することも要求したからです。要するに、横浜の租界化です。これを以前からオールコックが狙っていたことは、ヒュースケン遭難事件の際に説明したとおりです。しかし、今度は、長州の攘夷行為そのものが幕府の命令によるものだ、という動かぬ証拠と、巨大な艦隊という背景がありますから、絶対に強い立場です。
結局、幕府はおれて、英軍基地として2万坪、フランス軍基地として3000坪の施設をそれぞれ建設する羽目になりました。英軍基地の場所は、今現在、港の見える丘公園として知られる場所です。日本の海の玄関横浜港を一望する景勝の地ですが、これを軍事的面から見ると、この地を握るものが港の生殺与奪の権を握っている、ということを意味します。明治政府は、幕府から引き継いだ賠償金を支払うことで、ようやくこの要衝の地を返してもらったのです。英国基地の返還は、翌明治8年、フランス基地の返還はさらに遅れて明治9年のことでした。
下関戦争は、もう一つ、予想外の置き土産を残しました。オールコックが、日本の内政に勝手に干渉したとして、その責任を問われて本国に召還されたのです。薩英戦争で、海軍当局をあれほど厳しく指弾したイギリス世論をおもんばかってのことに違いありません。
オールコックには、上記のようなひどい目に遭わされているにも関わらず、幕府は彼の離日を惜しんで、彼の行動が正当であったという公文書を持たしてやりました。その甲斐あってか、オールコックは、翌年には駐清国公使という日本公使より一段上の地位に返り咲いてアジアに戻ってきました。しかし、二度と日本に来ることはありませんでした。
日本公使としては、すでに彼の後任として清国育ちの、あくの強い行動で知られるハリー・パークスSir Harry S. Parkesが赴任してきていたからです。パークスは前任が上海駐在領事で、ある程度日本の事情を承知しています。長崎に着いたのは慶応元(1865)年閏5月2日でしたが、彼は、そこで精力的に諸藩の代表と会って日本の情勢をつかみ、さらに下関にも寄港して、桂小五郎や伊藤博文と会談しています。そのため、横浜公使館に着任したのは同26日のことでした。以後、幕末史は、パークスと、この前年に着任していたフランス公使レオン・ロッシュLeon Rochesとのつばぜり合いという新しい局面に入ります。
下関戦争と同時進行の形で展開されていた第1次長州征伐は、総督として尾張慶勝(よしかつ)、副総督として越前藩主松平茂昭(もちあき)を頂き、35藩15万人という大兵力で、長州を包囲し始めていました。もっとも積極的に戦意に燃えているのは薩摩軍ぐらいのものでした。どこの藩も、財政逼迫の折から、長州まで軍を送るだけでも大変で、とても戦闘の用意があるとはいえません。だから肝心の総督である慶勝自身からして戦意旺盛とは言えません。再三辞退し、全権委任を条件にようやく引き受けたという状態でした。正面から戦闘をして長州藩を滅ぼすつもりなら、全権委任などという条件を取り付ける必要はありませんから、彼の腹としては、できるだけ早くに謝罪降伏させて、戦闘には入らないようにしよう、ということだったと考えられます。そのことは、その後の経緯からも明白です。
しかし、慶勝の参謀として控えていた西郷隆盛は、この機会に長州藩をどこか東国にでもお国替えして、長州という国が将来ともに禍根とならないようにしようという腹でした。少なくとも9月7日の段階で彼がそう考えていたことは、複数の証拠が残っていて、確かです。そして、慶勝は、その指揮下にある唯一の期待できる戦力を率いている西郷に全面的な信頼を置いていたのです。したがって、このまま事態が推移すれば、日本史のその後の流れが大きく変わっていたことは間違いありません。
長州藩の方は、といえば、禁門の変、下関戦争と相次ぐ連敗で、疲弊しきっていました。こういうときに得てして起こりがちなことですが、激しい内紛を起こして、門閥派が、家老の周布政之助を自害に追い込み、それまでの過激派に代わって政権を握り、幕府に対してひたすら恭順という姿勢を示し始めていました。したがって、特に戦闘を行わなくとも、西郷の狙い通りの事態となっていたはずです。
この時、歴史の上に突然現れて、幕末史を大きく変えたのが勝海舟と坂本龍馬の二人です。
坂本龍馬は、幕臣である勝海舟の弟子でありながら、革命思想家であり、不倶戴天の敵として互いに憎悪し合っている薩摩の西郷隆盛と長州の桂小五郎のいずれとも親友という不思議な人物です。その彼が、9月11日に、勝と西郷の最初の会談をお膳立てしたのです。
勝海舟を斬ろうとして彼を訪ねた坂本龍馬が、その人物に魅せられて直ちに弟子になったという話に象徴されるとおり、勝海舟という人物はカリスマ的魅力を持っていました。西郷も勝の魅力に屈した一人でした。この9月11日の会談時に、勝が西郷に何を話したのかは記録にありません。しかし、容易に想像はつきます。8月18日のクーデターで政権を握った慶喜が、ひたすら幕府権力の肥大化と自らの独裁権力の確立を狙って、日本という国家の利益を犠牲にしている、ということであったに違いありません。したがって、その幕府の言うなりに長州を締め付けるのは長い目で見れば、決して薩摩の利益にはつながらない・・。
もっともこの会談については、その後、西郷も勝も一言も触れておらず、江戸城無血明け渡しで有名な三田会談が、両者の最初の出会いであるかのように終生振る舞い続けました。勝海舟という人は、この三田会談の前後にも、間違いなく彼がやったのに違いない秘密の行動をいくつもやっていることは証拠があって確かですが、やはり生涯認めませんでした。
が、この会談そのものが伝説に過ぎないとする学者も多くいます。司馬遼太郎もその説をとったのでしょう、彼の代表作「龍馬が行く」にも、この会談は触れられていません。
私は、幕臣としての勝の立場上、この会談の存在を認めることもまた、適切でない、と考えて一生認めなかったに過ぎず、会談はあったと考えています。そうでないと、西郷の意見がこの日以降、突然180度変わった理由が説明できないからです。
とにかく、確かな事実として、西郷は突然意見を大きく変えました。長州に形式的に降伏させたら、それ以上何もすることなく、長州征伐は終わりにしよう、というのです。慶勝には、もちろん否やはありません。
もっとも、力任せに攻めるというのと違って、こういう政治性の強いやり方は、相手方を得心させるのに少々手間がかかります。ですから、一連の事件の責任者として、長州藩の三人の家老に切腹させ、首を出させて、長州征伐にけりを付けることができたのは、この年、12月27日のことでした。
長州征伐のこのような竜頭蛇尾の結果に慶喜は驚き、慶勝が西郷にたぶらかされた、と嘆く手紙を書いています。
前に述べたように、この同じ日に、水戸天狗党は福井で加賀藩兵に投降しています。最初1000人ほどいた軍勢がだんだんに減って、投降の時点では776人でした。加賀藩が預かっている間は、同藩は、彼らを赤穂浪士の先例に倣って士道を以て遇しました。しかし、慶喜がわざわざ福井まで出向いていって受け取った後は、待遇が激変します。幕府では彼らを敦賀に監禁しました。これほど大量の犯罪者を収容する施設は、日本のどこに行ってもあるわけがありません。そこで海岸に並んでいるニシン倉の明かり窓などを土で塗りつぶして逃げ口を塞ぎ、臨時の監獄としました。北国の寒中だというのに、衣類はおろか、下帯まではずした素っ裸で放り込んだ、というのだからすさまじい話です。しかも、一日の食事は一人握り飯2個ずつだったというのです。これでは生き延びるためには、よほど頑健でなければなりません。最終的には、全員に死刑判決が降りて、斬首になっていますが、その数は352人です。つまり半分以上は獄死したわけです。
こうした必要以上に過酷な処遇には、明らかに、慶喜の意思が読みとれます。天狗党の面々は、禁門の変、下関戦争、第1次長州征伐と、この年立て続けに起きた事件で溜まりに溜まっていた慶喜の鬱憤の吐け所とされたのだと思います。彼らが水戸藩士で、しかも慶喜を頼って嘆願に行く、という名目で、本州のもっとも幅広いところを武装横断する事に成功して徹底的に幕威をさげたという事実が、いよいよ慶喜の憎悪を呼んだのに違いありません。が、もし、外に何の事件もない年なら、慶喜もあれほど過酷な処遇はしなかったのではないかと思います。
私は、現在、茨城県南部に住んでいます。ちょっとした用があって、昔からの土地の人に、県庁に行くと言ったところ、「天狗党の昔から、最後には裏切るから、水戸っぽは信用するな」といわれてびっくりしたことがあります。よく聞いてみると、天狗党が何を意味するのかは知らないで、単に水戸の県庁は信用するな、という表現の強調型として、このフレーズが使われていることが判って、2度びっくりしました。県南と県北の対立心もさることながら、そういうちょっとした表現に、百年以上たった今日でさえ天狗党が生き残っているほどに、当時この惨殺事件は、茨城県民に強いショックを与えた、ということが判ります。
元治元(1864)年からその翌年にかけて、わが国を取り巻く情勢はいよいよ加速します。これまでもある程度そうでしたが、これからの各節は、ほとんど同時進行の事件となります。なお、元治2年は4月7日に慶応と改元されますが、混乱を避けるため、改元以前についても、同年の出来事は慶応元年と、以後、表記します。
下関戦争の責任を追求されて、英国公使オールコックが不在になると、俄然元気を出したのが、フランス公使レオン・ロッシュLeon Rochesです。この機にフランスの日本における権益を確立しようと考えたのです。
下関戦争の少し前、元治元年3月に日本に着任したロッシュは、その直前の職が、フランスにとって最も重要な植民地であるアルジェリアの総督だった、という、幕末にわが国に駐在していた各国公使の中では、超弩級の大物外交官です。年齢もこの時54才で、在日外交官中では間違いなく最長老でした。
前職が出稼ぎ商人に過ぎなかった米国公使ハリスは少々ひどすぎるとしても、オールコックにしても、もともとは中国で開業していた外科医で、リュウマチのため手が使えなくなって外交官に転じたという人物です。日本に着任する以前に、10年以上外交官としての経験を積んでから日本に赴任したので、決してハリスのような素人ではありませんが、間違っても生粋の外交官とはいえません。日本で最大の権益を持つ両国がこんな調子なのですから、後の国も似たり寄ったりという状況でした。
その中に、突然フランスだけがこのような超大物を送り込んできたわけで、そこには本国政府の強い決意が認められます。すなわち、当時フランスは世界最大の絹織物工業国であり、フランスとしては、きわめて切実に原料の生糸や、さらにはその元となる蚕種を求めていたのです。ところが、当時世界最大の生糸生産国である清国市場では、フランスは完全に後塵を拝してしまって、食い込む余地がありません。
そこに突然、彗星のように、清国よりも優秀な生糸を輸出する日本が出現したわけです。この有望な新市場で、何とか英国を出し抜くことができれば、フランス絹織物産業の未来は明るいといえます。さらに、アルザス地方などで勃興しつつある機械化された綿産業の製品の販売市場としても、日本は大いに当てにできます。
とはいうものの、この時点におけるフランスの日本市場における比率はわずか1.7%に過ぎず、正気の人間であれば、これほどの数値からの挽回などは普通考えません。フランスがこのような大変なばくちに踏み切ったのは、この時、フランスを動かしていたのが、ナポレオン3世という稀代の山師であった、という側面を無視することはできません。彼は大ナポレオンの甥という血統だけを頼りに、皇帝の地位にまでのし上がった人物です。メキシコの銀に目を付けると、南北戦争で米国が手を出せないのを良いことに、ここを自国の勢力圏に入れようと画策し、また、ベトナムを植民地化しようと画策するなど、フランスの政策全体として、きわめて投機的な傾向が目立つ時代なのです。
しかも、ロッシュには、ちゃんとその意志を直接に幕府に伝える手段がありました。開国直後の頃は、日本と外国との意思の疎通はオランダ語だけが頼りであり、そのため、ハリスが連れてきたヒュースケンにどこの国も頼らざるを得ない、という奇妙な状況が生まれていたことは、先に紹介したとおりです。が、この頃になると、ちゃんと日本語が使える外交官が生まれてきました。英国の場合、それが有名なアーネスト・サトーです。フランスでは、カトリック僧のメルメ・ド・カションという人物が公使館付き通訳官として、見事な日本語を使って活躍を始めたのです。
カションは特に栗本鋤雲(じょううん)と親しく、互いに言葉を教えあったりした中です。鋤雲は、カションに和春という字をあてています。そして、その栗本鋤雲は、この時期軍艦奉行並の地位にありました。したがって、交渉相手としてはもってこいの地位です。なお、鋤雲は、慶応元年11月には外国奉行に栄進していきます。
また、文久の改革で忌避されて、寄り合いに放り込まれていたタカ派の小栗忠順が、勘定奉行に返り咲いたのが元治元年8月13日、すなわち8月18日のクーデターの直前です。彼は、以後、この年の暮れまで、きわめて出費の多い幕府財政をしっかりと支えます。彼が対馬事件では、地元で顰蹙を買うような事なかれ主義的体質を示したにせよ、単なる門閥上がりのお坊ちゃんではなく、能吏であったことは明らかです。その才能を買われて、元治元年12月18日に軍艦奉行に転じていました。軍艦奉行及びその並として、この小栗忠順と栗本鋤雲は密接な協力関係にありました。
小栗忠順から見ても、フランスからの急接近は大いに歓迎するところです。日本市場で圧倒的な存在である英国を掣肘する武器として、フランスとの関係を使えるからです。
例えば、英国は、日本に積極的に武器を売りましたが、その場合、必ず時代遅れのものを売るように努めました。すなわち、日本を中古品の売却市場として活用はするが、日本が自国の脅威となるような武器は間違っても提供しようとしなかったのです。代表例がアームストロング砲です。薩英戦争の時に猛威を振るったこの最新鋭の施条砲を、英国は決して日本に売ろうとはしませんでした。そこにつけ込むチャンスを見つけたロッシュは、最新鋭の艦載用銅製施条カノン砲16門を日本に売却しています。長州征伐に向けて風雲急を告げつつある慶応元年5月に、これは日本に届いて、幕府を非常に喜ばせました。
こうした一連の努力の中で、ロッシュが挙げた最大の成果が、本節のタイトルとして掲げた横須賀海軍工廠の建設です。幕府との間の契約では製鉄所となっており、日本史の本では普通そのままそう書かれることが多いのですが、その実体は単なる製鉄所ではなく、総合的な海軍工廠です。
慶応元(1865)年1月29日に、フランスと幕府の間に締結された契約は次のような内容を持っています。すなわち、総計9万坪に達する敷地に、フランス海軍の中枢的軍港であるツーロンにある工廠と同規模の工廠を建設するというのです。具体的には4カ年で、横須賀の地に、製鉄所1、造船所1、修船所2を建設し、また、横浜に訓練用の小製鉄所1を建設する、とされており、事実その通りに建設されました。これこそ、後に明治政府に引き継がれて、横須賀鎮守府の命脈となった海軍工廠の起こりです。米海軍及び海上自衛隊の中枢的施設として、今日も機能しています。
この巨大施設の建設代金は240万ドルで、これは総額がフランスからの借款になります。借款には当然担保が必要です。この場合、担保になったのが、生糸貿易です。すなわち、日仏それぞれに少数の豪商からなる公益組合を設立し、これが生糸と貿易を独占し、その貿易の利益から借款を返却する、というのです。まさに、フランスの日本市場での出遅れを一挙に回復する起死回生ともいうべき一手で、辣腕家ロッシュの面目躍如というところです。事前に英国に知られていれば、どんな横槍が入ったか判ったものではなく、その意味で、ちょうどその時期に起こったオールコックの召還という事件は、ロッシュにとり、まさに天の助けであった、ということができます。
なぜこのような財政の厳しい時期に、幕府はこうした巨大施設の建設に踏み切ったのでしょうか。理由は、まさに財政問題、すなわち経費の節減にあります。幕府は、先に紹介したとおり、外国から次々と軍艦を買って海防力の強化に努めてきました。しかし、軍艦というものは、その最善の能力を発揮できるようにするには、点検修理を怠ることができません。
例えば、現在のわが国海上自衛隊の自衛艦の場合、だいたい1年に3ヶ月程度は定期検査のため、ドック入りしています。つまり、軍艦というものに、フルにその持てる能力を発揮させようと思ったら、1年間の4分の1の時間は戦力にならない、というほどのしっかりしたメンテナンス作業を毎年続けねばならないのです。
当時は、そんなに長期間はドックに入れなかったはずですが、それでも基本的には戦闘艦である以上、定期的なドック入りは必要でした。多分、その頃の幕府はそういうことは判っていなくて、故障するまで使い続ける、というやり方をとっていたはずです。幕府が買った船は、咸臨丸のような新造船もありますが、大半は中古船でした。船は、古くなれば、急速に故障をおこす頻度が高くなり、実際に故障するまで酷使すれば、その修理に要する費用が高くなり、期間が長くなります。ところが、当時、わが国にもっとも最寄りのドックは上海のものでした。したがって、そこへの往復だけでも結構時間がかかります。しかも支払いは外貨です。また、上海まで行けないほどの故障をおこしてしまったら、虎の子の船が使えなくなってしまうわけです。
そうしたことから、幕府では、海軍が充実するにつれて、その維持・修理費用が急激に増大していたのです。海舟が残した『海軍歴史』という書に、慶応3年、つまりこの工廠建設に踏み切った翌々年の、1ヶ年の海軍維持経費の記録が残っています。年間合計で92万800両とあります。つまり国内にドックがない状態では、維持管理費、つまり軍艦を単に海に浮かべ続けておくだけで、毎年100万両程度の巨大な費用が必要になる、というわけです。この巨額の出費を抑える方法はただ一つ、早急に国内にドックを建設することです。幕府財政が火の車である状態下で、あえて巨大施設の建設に踏み切った理由が判ると思います。
それにしても、下関戦争で、払わなくとも済む300万ドルの賠償金は、この巨大施設の建設費を上回るわけで、それを支払う方を選ぶというというのは本当に馬鹿げた話という外はありません。
第1次長州征伐は、実際の戦闘には入りませんでしたが、15万人という大変な人数を長州との国境地域に集中させたのですから、幕府として、自ら動員した兵力に要した費用として直接に、あるいは動員した諸大名に対する交付金という形で間接に、かなり多大な費用が必要になったことは間違いありません。
それがどの程度に達したのかは判りませんが、とにかくこのために、下関戦争の後で列強に支払うと自分から約束した300万ドルの賠償金を捻出することが、幕府はできなくなりました。そこで、幕府は、慶応元年3月、4カ国の公使に対し、償金の第1回分50万ドルは本年6月に支払うが、第2回分については1カ年の猶予を得て、明年6月に支払いたいこと、その後は約定通り3ヶ月ごとに支払うということを申し出ました。
きわめて巨大な額の問題だけに、各国公使はいずれも自分で諾否を決められず、本国政府に請訓しました。オールコックが本国から召還された後、英国代理公使を務めていたウィンチェスターCharles A. Winchesterは、幕府としては、諸侯が直接貿易するのを妨げるため、諸侯の領土内に新港を開くよりも、償金の支払いを選ぶであろう、と正しく判断した後、ここで償金の支払いを強制すれば、幕府はその捻出手段として新税を導入するであろうし、そうなると、貿易発展の障害となるので、この機会に兵庫の開港と通商条約の改定を迫るべきである、という趣旨の報告を本国に送りました。
パークスは、この請訓に対する訓令を持って日本に赴任してきたのです。内容は、賠償金の3分の2を放棄する代わりに、兵庫又は下関の開港と、条約に勅許を得ること、輸入税を低減することというものでした。
フランス公使ロッシュはこれに反対しましたが、圧倒的な権益を握っている英国には勝てません。そこで、ロッシュは妥協策を講じました。結局、4カ国共同で、賠償金のうち6分の5にあたる250万ドルを放棄する代わりに、前記三条件を飲むように要求することになりました。つまり、この年に第1回分として支払った50万ドルは返さないが、後は棒引きにする、というきわめて幕府に有利な線までロッシュは英国から譲歩を取り付けてくれたのです。
また、幕・長戦争における厳正中立の厳守という条件の取り付けにもロッシュは成功しました。詳しくは次節に述べますが、この時期、すでに長州は第二次長州征伐に立ち向かうため、大車輪で上海などから武器を輸入していました。対幕戦の総司令官である大村益次郎自身が上海まで密航して武器の買い付けにあたっていた、といわれます。このため、列強の厳正中立という事態は、長州を非常に苦しめることになります。
この時、将軍家茂は三度目の上京をしていました。これもまた、第二次長州征伐のためです。
下関戦争の帰り道に行った摂海侵入が、京・大坂に与えた衝撃の大きさに味を占めていた列強は、直接将軍と交渉するため、再び連合艦隊を組織すると、各国公使はこれに搭乗して大阪湾に向かいました。前回ほど大規模ではありませんが、英国艦4隻、フランス艦3隻、オランダ艦1隻、計8隻というのは、ペルリの浦賀来航時の倍の勢力で、はっきり示威を狙ったものということができます。公使一行が兵庫沖に到着したのは、慶応元年9月16日のことです。
9月23日に幕府老中の一人である阿部正外(まさとう)が英国艦を訪れました。米国及びオランダ公使同席の下で、パークスは前記3条件を突きつけました。阿部は、国内の事情から条約勅許が未だ得られず、また、兵庫の即時開港も困難なことを述べました。これに対してパークスは、長州その他の大名が外国に友好的になっていることを引き合いに出し、将軍が日本の主権者であるというならば、条約の遵守を国内に強制できるはずだ、と主張しました。阿部は即答できないとして、9月26日に改めて回答すると答えました。
ロッシュは、あえてそこに同席せず、英国艦からの帰途の阿部を招いて、幕府と英国公使との艦に、斡旋の労を執る用意がある、と伝えました。
幕府では将軍臨席の下に25日に、大阪城内で閣議を開きました。実は、この時期、薩摩藩は外国の要求で幕府が苦況に陥っているのに目を付け、慶喜によってつぶされた参与会議、すなわち有力諸侯会議をもう一度復活させ、外交問題などに関する決定権を幕府から奪って、諸侯会議の手に取り戻そうと画策していました。
この時期、パークスの腹心の通訳官、アーネスト・サトウはかなり薩摩に接近していましたから、その辺りの情報はかなり正確に把握していました。パークスの発言も、こうした国内情勢を把握した上での揺さぶりだったのです。
そこで、閣議の場で、阿部は、幕府の権威を確立する上からも、兵庫の開港に踏み切るべきだ、と論じたのです。老中松前崇広(たかひろ)もこれに賛成し、幕閣はいったん兵庫開港に決定しました。
一橋慶喜は、自分が出席していなかった閣議でそのような重大な決定がなされたのを不愉快に思い、公家を扇動して阿部正外及び松前崇広の2名を、兵庫の無断開港を図ったとして、官職剥奪の勅命を下させたのです。彼の人物の小ささあるいは独裁志向がよく判ります。
老中に対するこのような一方的な処分は前例のないことで、家茂は激怒し、将軍位の辞表を朝廷にたたきつけ、10月3日に、江戸に帰ると決定しました。将軍が辞表を朝廷にたたきつけるということは、将軍として政治を執り行うことをやめるということですから、これはまさしく大政奉還です。大政奉還に関する慶喜の決断を褒め称える人がいますが、このように、大政奉還というカードは、この時期、既に幕府の念頭にあったということができます。慶喜は、むしろこの最強のカードを切るのが遅れて幕府を滅ぼしたことが非難されるべきなのです。
このままでは、長州征伐どころか、幕府政権の行方そのものがどうなるか判りません。一橋慶喜と松平容保は驚いて、将軍を慰留していったん二条城に迎えるとともに、自ら参内して条約勅許及び兵庫開港の切迫していることを天皇に告げて説得しました。
長時間の会議というのは慶喜の得意技です。その間、脅したり賺したりしながら、会議参加者がへばって、慶喜の言うなりになるのを待つのです。この時も、長時間にわたって弁舌を振るった結果、結局、5日の夜8時になって天皇が折れ、条約については勅許を与えるが、兵庫開港は認めない、という妥協案を飲んで話がつきました。
老中本荘宗秀は、英国艦にいってパークスに、条約勅許が得られたことを告げ、しかし、兵庫開港については許可のなかったことは告げずに、これは予定通り将来のことと述べました。ところが、ここで本荘はパークスの恫喝にあって、本来の条件であったはずの賠償金の残金支払いを免除する、という条件を自ら放棄しました。結局、条約勅許だけをただ取りされた結果となりました。
この事件は、諸外国に対し、幕府の権威の低下と朝廷の実力に対する認識を新たにさせました。親幕派のロッシュが、本国に次のように書き送っていることは、その典型です。
「余は、条約勅許の重大性については、既に感知していたが、今、兵庫沖の談判に当たって、その意義の重大なることに驚嘆せざるを得ない。それは数百年来、政治の実権を将軍に委任された結果、当然衰微したものと考えられた天皇の権威が少しも衰微していなかったことである。」
幕府と馴れ合うことで利権を確保しようと狂奔しているロッシュでさえ、このような感想を持ったのであれば、より冷めた目で幕府を見ていた英国側が、これ以降、より幕府離れをした行動をとるようになるのも無理のないところです。
この後、慶応2(1866)年4月に、幕府と列強の間で関税率の改定交渉が始まり、5月13日に老中水野忠精と4カ国の間に改税約書が締結されました。その要旨は、輸出入税ともに、5%の関税率を原則とし、生活必需品、例えば米については無税とする、というものでした。しかも従来は従価税であったものを従量税に変えました。
すなわち原価の5%とされていたので、原価の認定を通じて幕府側のコントロールが可能であったのです。ところが、今回は平均価格の5%ということになったので、幕府側の裁量の余地は全くなくなりました。これは、従来清国との間で列強が有していた権利と同じものです。明治政府が鹿鳴館のような国辱的な外交を展開することによって撤廃を目指した不平等条約は、この時、その全体像を見せたのです。
もっとも、経済学者の説によると、明治維新によるわが国経済の著しい発展は、この自由貿易のおかげだということですから、治外法権と異なり、これは決してわが国に害をなしたということではありません。
2次長州征伐第1次長州征伐が元治元(1865)年12月27日に、不徹底な形で終わったことは前述したとおりです。しかし、不徹底であれ、こうして長州が降伏した以上、あとは戦後処理が始まるはずでした。ところが、実はその時、長州では大変な事件が起きていたのです。
高杉晋作は、下関戦争で連合艦隊との講和条約を首尾よくまとめた後、藩内過激派に命を狙われ、藩外に亡命していました。しかし、元治元年12月、単身下関に現れると、伊藤博文率いる力士隊を巧みに扇動して、16日に挙兵させるのに成功しました。それまでの長州藩の戦いには、一部農民層が加わっていたにせよ、武士層を中心としたものでした。それに対して、彼の呼びかけは、直接農民層に向けられた点に、大きな特徴がありました。
彼の呼びかけに応えて各地で農民兵が決起し、見る間に巨大な勢力となりました。特に、奇兵隊が、絵堂の戦いで門閥派の軍を撃破したのが決め手となり、翌慶応元年2月5日には、過激派が再び藩の政権を握るに至るのです。つまり、第1次長州征伐軍と長州藩との降伏交渉中、実は同時並行で藩内では内戦が継続しており、慶勝などが、討伐の目的を達成したと喜んで引き上げた後、すぐに、再び過激派が政権を奪取していたのです。
当然この情報は、幕府の諜報網のキャッチするところとなります。
慶喜は、このような状況は、幕府の権威を低下させるもので、黙過しておくことはできない、と考えます。江戸の留守部隊も、その点では全く同意見です。こうして、第2次長州征伐が始まることになりました。
4月19日、幕府は、長州征伐のため、将軍自らが進発する、と発表しました。そして、5月16日、家茂は馬上の人となりました。これは彼の将軍としての3度目の、そして最後の上洛となりました。彼は大阪で病に倒れ、2度と江戸に戻ってくることはありませんでした。
これに対して、長州藩は、表面上は徹頭徹尾、恭順という姿勢を崩しません。その結果、表面に現れているところだけを見ると、まるで無抵抗の相手を幕府がかさに掛かっていじめているようにしか見えません。
そこで、例えば、第1次長州征伐では主力となった薩摩藩は、これを無名の帥(むめいのすい=大義名分のない戦)と評して、もはや協力しようとはしません。アームストロング砲を自力で国産化に成功するなど、強大な軍事力を誇る佐賀藩も同様に動こうとはしません。黒田藩にいたっては理由を述べることすらせずに、不参加の意思を明らかにしています。
実はこの裏で、再び坂本龍馬が動いています。幕末史を大きく転回させた大事件、薩長同盟が正式に成立するのは、このしばらく後、慶応2年1月21日のことです。しかし、慶応元年閏5月には、ほぼ薩長が互いに援助するという話を彼はまとめてしまっていたのです。すなわち、正式には同盟はできていませんが、この時期以後、薩摩は全面的に長州に協力するようになってきます。
前に述べたとおり、列強が厳正中立の立場を決めたため、長州藩は、来るべき対幕戦争に欠くことのできない新式の洋式武器の購入ができずに困っていました。そこで、坂本龍馬は、彼が長崎にいるグラバーなどの英国商人から、長州藩のためにそれら兵器を購入するに当たり、薩摩藩の名義を公然と使うようになったのです。これにより長州は軍備を着々と充実させるのに成功しました。また、薩摩は、京都で、得意の朝廷工作により、名分なき長州征伐に勅許を与えるべきではない、と運動したのです。このために、なかなか勅許は降りず、派手に江戸を出発した家茂は、いたずらに長い日々を大阪城で送ることになりました。
こうなると、幕府としては人材不足を痛感せざるを得ません。人材と言うことになると、すぐに思い出されるのが率兵上京事件の責任をとって老中格から降ろされていた小笠原長行です。慶喜が反対したのを、主として松平容保が説得し、7月26日に長行に上京命令が下りました。長行は8月16日に江戸を出発、31日に大阪に到着すると、9月4日には再び老中格として勤務に就きました。
ここで、前節で述べたとおり、下関戦争の賠償金支払いのもつれから、連合艦隊の再度の摂海に9月16日に侵入してくるという事件が起こりました。小笠原長行は、早速その交渉に当たることになります。
禁門の変の時にも述べましたが、公家というのは、むき出しの暴力に対して必要以上に怯える体質を持っています。そこで、幕府は、この列強勢力の摂海侵入を背景に、朝廷に激しい圧力をかけて、長州征伐の勅許をとることにも成功したのです。9月21日のことでした。
朝廷がその意趣返しに老中2名を罷免すると騒ぐと、それを利用して、さらに長年の懸案であった条約勅許も取り付けたことは前節に紹介したとおりです。
これにより、ようやく戦争を開始できることになったのですが、大名の間には厭戦気分があって、なかなか兵が動きません。さらに列強との改税約書の締結に手間取ったりしたため、実際に従軍を命ぜられた計32の諸藩に、その部署を発表することができたのは、ようやく11月になってからでした。
その後も、長州側は恭順という姿勢を表面上は崩さず、幕府の側は、相手から開戦させることで戦争の大義名分を勝ち取ろうと、互いに模様眺めをしながら時間が過ぎました。
その間、長州側の問責のため、という名目で、大目付永井尚志が広島に派遣され、偵察のため、新撰組組長の近藤勇等も随行しました。この偵察隊の調査結果は、とても幕軍に勝ち目がない、というものでした。幕軍の戦意は低いのに対して、長州軍は、全市民が戦争準備に向けて邁進しているからです。
そこで、永井尚志は、寛大な措置という名目で幕府は名を取り、実を長州に与えるという形で幕府の威信を保ちつつ和平に持ち込む以外にない、という意見を具申しました。
しかし、一橋慶喜は、第二、第三の長州がでないようにするには、ここで徹底的に叩く外はない、と主戦論を唱え続けて譲りません。繰り返しますが、慶喜は将軍後見職であり、幕閣の最高責任者なのですから、彼が意見を変えない以上は、どれほど勝ち目がなくとも、戦争になだれ込む外はないのです。
このため、幕府軍はできるだけ開戦を遅らせようとしました。最終的に開戦したのは、翌慶応2年6月のことで、家茂が、江戸を出発してから丸1年以上たってからです。
しかし、家茂自身が既に大阪城まで出張ってきている以上、この間、幕府軍はすべて臨戦態勢に入っているわけです。彼に随行した諸大名、幕臣の総数は10万人を超えました。これだけの軍を維持するには、大変な費用がいります。
これだけの人口が突然増えて、しかも全く生産に従事しないままに長期に滞留している、ということになれば、大阪やその周辺の消費者物価を一気に押し上げたのは当然です。したがって、滞在期間が長くなればなるほど、必要経費の額も急激に上昇していくわけです。
つまり、戦争するつもりでの長期滞陣は、財政的には実際に戦争をしているのと変わらないほどの莫大な費用を要する、ということです。それが実際にどの程度であったか、ということは、本節の最後にまとめて紹介したいと思います。
幕府軍の長期滞陣が原因で、京・大坂の物価が急上昇した、と述べました。それ以外にも、人夫その他の軍役が地元民には降りかかってきます。こうした諸々の地元に対する負担が、長逗留のため、耐えられる限度を超えるようになった時、民衆の蜂起が始まりました。
慶応2年5月に摂津西宮で貧家の主婦が米の安売りを米穀商に強要したのが皮切りで、米穀商が安売りに応じない場合には、民衆が押し掛けて打ち壊しをする、という事態が巻き起こり、あっという間に畿内全域に広がりました。慶応版の米騒動です。
打ち壊し勢は米1升で、時価700文のところを200文に負けろと交渉するのですから、米穀商などではとても飲めません。貧民と商家の衝突は必然となりました。
おかしなことに、たたき壊される豪商は、いずれも、幕府が戦費のため求めた上納金を拒否したり、値切ったりしたところばかりです。そこで、打ち壊しの首謀者は将軍その人である、というようなデマまで流れる始末です。暴れている貧民を逮捕して、首謀者を聞くと、その人はお城にいるから、お城で吟味してくれ、という答弁が横行して幕府は取り締まりに手を焼きました。
この打ち壊し騒動はさらに幕府のお膝元の関東にも飛び火し、武蔵の国などで大規模な一揆が勃発しています。
こうした不穏な情勢を鎮めるために、かなりの出費を幕府としては余儀なくされました。これは戦費ではないので、後述する戦争経費の中には含まれておらず、どの程度の額であったのかは判っていません。
とにかく、こうして、幕府としては、早く戦争を始めないと、足元から危ない、という事態が生じてきたのです。このため、結局、第2次長州征伐は幕府側から始めることになりました。
慶喜以外は誰も望んでいなかった戦争が始まったのは、慶応2年6月7日のことです。
幕府海軍が周防大島を砲撃した後、陸戦隊が上陸して、同島を占領しました。ここは本格的な侵入拠点とする、というより、艦隊行動の拠点という程度の意味しかないことは明らかでしたから、長州軍司令官の大村益次郎は、同島については放置しておく方針でした。
が、高杉晋作は、この知らせを聞くと、なんとわずか200トンの丙寅丸で、1000トン級の軍艦をずらっとそろえている強大な幕府海軍に夜襲をかけました。この時期、海戦の夜襲は常識的に不可能とされていました。そこで、幕府側は何の警戒もしていませんでした。晋作は平然とこの軍事常識を破ったわけです。
丙寅丸は小さな船ですし、戦闘は短かったので、幕府側に被害はほとんどでなかったのです。が、夜襲されたという事実に怯えて、驚いたことに幕府海軍は、そのまま逃げ去ってしまいました。その結果、島に残された部隊は孤軍となり、長州軍の攻撃に壊滅しました。
広島方面からは、幕府の伝統にしたがい、井伊軍団が先陣を切って攻撃を開始しました。不幸なことに、井伊軍団は武装も伝統にしたがい、赤備えの鎧に槍、刀、それに火打ち銃で攻撃しましたから、最新型のミニエー小銃を装備した長州軍の前に一瞬にして壊滅しました。ライフル銃弾は面白いように古式豊かな鎧を貫通します。これに対して、井伊軍の主力兵器である火縄銃からの銃弾は、ミニエー銃の半分の距離も届かないのですから、戦闘というより殺戮という方が正しいような状況だったようです。
壊滅した井伊軍に代わって、幕府自慢の洋式歩兵が前進しました。この部隊は予想通り強く、長州軍を押しまくりました。が、長州軍は地の利を生かしてじっと耐え抜き、結局この戦線は膠着状態になりました。
島根県側からは山陰地方の諸藩の兵に、紀州藩兵が加わって攻め込みました。紀州藩は早くから洋式軍を作っており、決して弱い兵ではありません。が、こちらの方面は、長州軍の総司令官の大村益次郎自身が出陣して采配を振るったため、ほとんど鎧袖一触という感じで幕府軍は壊滅し、長州軍は遠く浜田城をも攻め落とす、という大きな戦果を挙げました。同城が落ちたのは7月18日のことです。
残る方面は下関海峡を挟んだ小倉です。海峡は、強力な幕府艦隊が制海権を握っているのですから、長州側から攻め込むことは不可能で、その意味で間違っても幕府側が負けようのない戦線です。しかも、この方面の総司令官に幕府はエースを起用していました。老中、小笠原長行です。
小笠原長行は、率兵上京事件で老中格から罷免されていましたが、この前年の9月4日に老中格に復帰し、10月9日に「格」がとれて正式の老中に昇格していました。小笠原藩は相変わらず年下の義父が藩主ですから、彼は藩主としての身分を持たない最初で最後の老中となりました。
彼がこの方面の拠点とした小倉城は、そもそも小笠原本家の城です。小笠原本家は二つあります。そのうち、すなわち長行の小笠原家は、前に紹介したとおり、日本中あちこち転封になったあげく、この時期肥前唐津を領有していました。それに対して、今一軒の小笠原家は寛永9年という遠い昔から一貫して小倉城主なのです。英明をもってなる長行の指揮下に、この2軒の小笠原家や、強兵で知られる肥後熊本藩兵などを配しているのですから、陸上勢力から見ても、負けようのない陣営といえます。
ところが、長州側は機略縦横で有名な高杉晋作の総指揮の下、海軍は坂本龍馬自身が指揮し、圧倒的強さを持つはずの幕府海軍を翻弄します。そして、制海権に生じたわずかの隙をついて、山県狂助(後の有朋)率いる奇兵隊が海峡を越えて繰り返し小倉側に侵入しては、痛撃を加えます。
こうして圧倒的な大軍を誇る幕府軍が、一握りの長州陸海軍に翻弄されている最中に、大阪で事件が起こりました。将軍家茂が死亡したのです。7月20日のことでした。享年21歳。歴代の徳川将軍の死亡原因の例に漏れず、彼の場合も心臓脚気が原因でした。徳川の将軍家の食事はよほど栄養が偏っていたものと見えます。
この家茂の死は、幕府は堅く秘密にしていたのですが、7月30日には小倉に届きました。
家茂という人は、狷介な性格で知られる勝海舟のような人物が、この人のためなら命も惜しくない、と熱心に奉公していた、という独特のカリスマ性のある人物でした。百才あって一誠足らずといわれ、信服する幕臣がほとんどいなかった慶喜との大きな相違です。
この家茂のカリスマ的魅力が、この時期の幕府を支えていました。そのために、その死の知らせは、一瞬にして幕府軍を自壊させることになりました。
まず、小倉方面軍の主力部隊である肥後藩兵は、それを聞くと同時に、戦場を離脱して帰国してしまいました。
いろいろ考え併せてみると、小笠原長行も、家茂のカリスマ性の虜になっていた人の一人なのだろうと思います。その証拠に、彼が最初の越権行為である率兵上京事件を引き起こしたのは、事実上朝廷の虜となっていた家茂を救うためでしたし、彼が進軍を止めたのは、家茂自身の命令が届いたときでした。
今回、長行は、家茂の死の知らせを聞くと、誰にも告げずに一人福岡城に退いて、喪に服してしまいました。よほどのショックだったのでしょう。
しかし、そういう自身の感情におぼれた行動を総指揮官がとるというのはもってのほかです。これが本章の冒頭で触れた、長行の生涯における2度目の過ちです。
長行がいなくなると、肥前唐津藩も戦場を離脱してしまいました。この時、唐津藩の支配者は、長行より2歳年下の義理の父!です。その父を差し置いて、老中に上った子が総指揮官で、仮にも父である人を命令するのですから、両者ともに実にやりにくい立場にいたわけです。その長行がいなくなったのですから、これ幸いと唐津藩が戦場を離脱したのも無理のないところです。
この結果、小倉小笠原家は、独力で長州藩と向き合わざるを得なくなりました。それは無理と考えた同藩は、自ら城に火をつけて退却しました。ゲリラ的な攻撃を仕掛けて、幕府軍の進撃を阻んでいたつもりの長州としては、狐につままれたような勝利となりました。
しかし、これで膠着状態になっている広島方面をのぞいて、すべての方面で完全に長州が勝利することになったわけです。
7月20日に、将軍家茂の臨終に立ち会った一橋慶喜は、その後1ヶ月ほどの間、大変な興奮状態にありました。水戸家が徳川300年の間、願いながら実現しなかった将軍位が、これで彼のものとなったことは、当時の徳川家の状況を考えれば確実といえます。
そこで、将軍位就任を華々しい戦果で飾ろうと考え、「長州大討込」ということを言い出します。みずからランドセル、つまり歩兵の背嚢を背負って、幕府自慢の洋式歩兵隊を率いて山陽道から長州に攻め込もうというのです。
そこで、参内して孝明天皇にもそう申し上げ、朝敵を征伐するにあたっての最高の儀式である節刀を賜る、という儀式までやっていただいたのです。これは皇室相伝の御剣「真守(まもり)」を官軍総督の印として拝受する、という儀式です。
そこに、8月1日には小倉城がすでに陥落していた、という知らせが8月11日に大阪に届きました。
この時、幕府軍は依然として山陽道では戦っており、しかも前に述べたとおり押し気味に戦いを進めているのですから、その山陽道から、自ら攻め込もうという慶喜の戦略には、本来なら影響を与えないはずの知らせです。
けれども、不思議なことに慶喜はこれにより突然考えを変えます。おそらく彼の弱点の一つである責任回避癖が頭をもたげたのでしょう。自分が引き受けている戦線だけしか残らない状態で、戦争をして負ければ、敗戦は間違いなく彼の責任ということになるからです。そこで、突如「大討込」はやめる、といい出しました。
閣僚達は仰天しました。翌12日には広島まで幕府の大本営を進めることになっていて、そのための準備がすべて終わっている段階での、突然の変心だからです。
しかし、一度責任回避癖が頭をもたげると、慶喜は頑固です。結局、朝廷に対しては慶喜自身が15日に上京して八方奔走し、つい先日、強引に自分が取り付けた勅旨を取り下げてもらい、代わりに和平を命ずる勅旨を下してもらいました。
8月20日に、家茂の死と、慶喜の徳川宗家相続が発表されました。天皇の思し召しにより止戦、すなわち戦争をやめることになった、と発表され、幕府側が一方的に戦闘行動を中止する、という形で、この第2次長州征伐は終わったのです。
敗戦処理は、例によって勝海舟が押しつけられました。彼は、家来も連れず、文字通りただ一人で厳島まで出向いて、21日、長州との間に止戦の約定を取り交わしました。
さて、この第2次長州征伐に関する幕府の経費ですが、これについては勝海舟が、「外交余勢」と題する本の中に記録を残しています。
それによると、家茂が江戸を出発した前年5月からこの年5月までの大阪での滞陣経費が毎月17万4235両3分です。内訳として目立つのが、お供に対する手当などが毎月5万3790両あまり。今の言葉で言えば出張手当というところでしょうか。また、武器の維持管理費が1万3807両とあります。これとは別に食糧として毎月4368石4斗の米を必要としています。これも現地で調達しなければなりません。閏の月がありましたから、14ヶ月分で、合計315万7446両が開戦前の総経費とされています。
6月に開戦したわけですが、それから戦闘を経て、敗戦処理が終わる同年12月までの7ヶ月間の総経費が121万9650両1分となっています。したがって、戦費は、合計で433万7096両余りということになります。
他の文書でも、戦費は500万両程度と書いてあるものがあり、海舟のこの記録は正しいものと考えられています。
そこで問題は、これほどの巨費を幕府はどうやってやりくりしたのか、ということです。
従来、幕府が財政危機に陥ったときに常に愛用されていたのは、通貨の改鋳です。しかし、今回はやっていません。改鋳というのは、大規模な国家事業ですから、戦争の片手間にやれることではないのです。おまけに、通商条約のおかげで、当時のわが国経済は国際経済の中に組み込まれていますから、改鋳がどのようにわが国経済に跳ね返るかを慎重に検討しない限り、実施は不可能な時代になっていました。
もちろん、先に、内外における金貨・銀貨の交換レート調整の一環として実施された万延改鋳は、明治になるまで一貫して続けられており、したがって、この時にもある程度の差益は生み出し続けていました。しかし、この慶応2年という時点では、もうほとんど旧通貨の回収は終わっており、したがって出てくる差益も微々たるものになっていたはずです。
次に幕府のお家芸が、年貢米の増徴です。これについても、この当時も積極的に展開されたことは間違いありません。
しかし、戦争で特に国内で最も重要な回船ルートである瀬戸内海が自由に通行できなくなっている影響は大きく、大阪に米が集まってきません。先に、開戦前夜に米の安売り強要から打ち壊しに発展したと紹介しましたが、それほどに、京・大坂の米不足が深刻になっていたわけです。
米を大阪の市場で販売しなければ、現金収入を得ることができない、という点では米将軍とあだ名された吉宗の昔から、この時に至るまで、事情は少しも変わっていません。したがって、年貢米収入に関する限り、この時点では、むしろ従来よりもかなり減っていた、と考えるべきです。
曖昧な書き方をしていますが、実は幕府の年貢米収入記録がこの時期、残っていないため、そもそもどの程度の年貢米徴収量があったかさえも判らないのです。まして、その換金額は判りません。
この時代の重要な財源として、関税収入があり、井伊政権以降の大事な柱になってきた、ということは既に紹介しました。幕府に関税自主権があれば、戦費獲得のため、増税したいところですが、実際には列強の摂海侵入による脅しから締結させられた改税約書により、関税収入は逆に減っています。とはいうものの貿易量は順調に伸びていますから、確実に期待できる財源です。
しかし、戦争の間にも、既に注文してある軍艦その他の兵器は次々と届いています。海軍は海に浮かべ続けるだけで、年に100万両もの費用を要します。さらに、下関戦争の賠償金の分割支払いも続けねばなりません。そうしたあれこれを考え併せると、戦費の原資として機能する余裕があるほどの財源であったとはとても思えないわけです。
もう一つ、幕府が苦しくなると使うのが、民間からの借り入れです。つまり御用金を申しつける、というやり方です。実際、この第2次長州征伐時に京・大坂の商人に申しつけた御用金は、総額250万両に上っています。これが実際に取り上げるのに成功していれば楽なのですが、第1次長州征伐時にさえ、激しい抵抗を商人が示したことは、紹介しました。したがって、たぶん、その半分も入ってくれば上等という程度であったと思われます。しかし、これが大きな戦争の財源の一つであったことは間違いありません。
こうして、幕府としては、それまでになかった数百万両規模の全く新たな財源を、この時、必要としていたわけです。
窮すれば通ず、ということわざ通り、幕府の優秀な官僚たちは、新しい財源を考え出すのに成功しました。その新財源の名を兵賦金といいます。
勝海舟が書いた「解難録」という書の中に、次のような趣旨の文章があります。
「長州征伐をはじめて以来、国家財政を空費したため、城内の金庫はすべて空になってしまっている。年貢は既に集めてなくなってしまい、残るは兵賦金のみである。それによる収入が350万〜60万両ある。これは本来、兵隊や軍艦のために使うもので、その他の用途に使用することは許されないものだが、京・大坂の情勢が不穏なので、その用途が実に多く、使ってしまった穴を補填して、兵を集めたり、弾薬を買ったりするために使うことができない・・。」
前に述べたとおり、直接戦費が約434万両。仮に100万両程度を御用金で確保できたとすると、残り300数十万両の収入があれば、第2次長州征伐が財政的に可能になります。兵賦金でそれが得られたというわけです。
この兵賦金というのはいったいなんなのでしょうか。
前章で、春嶽が、文久の改革の一環として幕府に洋式歩兵隊を設けた、という話を書きました。
そこでは、最終的に2万人の歩兵隊を作る予定で、文久2年12月1日に、江戸市中の浪士や町人、農民から兵士を公募したが、応募者が少なく、最終的に3,500人程度の規模に終わった、と書きました。
本来ならば、公募するまでもなく、旗本や御家人を召しだして訓練し、歩兵隊とすれ済むはずです。彼らはそのために300年間、無為徒食をしてきたのですから・・。しかし、現実問題として、旗本や御家人は軟弱で使い物にはならない、ということは、自他共に認めるところだったので、公募ということが行われたわけです。
しかし、旗本や御家人自身でないまでも、彼らにその石高に応じて、一定数の兵隊を出させるノルマを負わせてもよいのではないか、ということが考えられます。
俗に旗本八万騎といわれますが、これは旗本や御家人の総数が8万人いるということではなく、彼らに給している石高に応じて引き連れてくるべき家来の数をも合計すると、約8万人になる、という意味です。
この古い建前を復活させたのが、兵賦令という名の命令です。最初に出されたのは公募直後の文久2年12月3日でした。
江戸財政改革史で、5代将軍綱吉が実施した元禄地方直しという政策を紹介しました。そこに述べたとおり、500石取り以上の旗本は、必ず知行地を持っています。そこで、500石取りは1人、千石取りは3人、三千石取りは10人という調子で、その知行地内から、15歳以上45歳以下の強壮な男子を選んで兵士として差し出せ、という命令が兵賦令です。兵役を賦課するので、こう呼ぶわけです。先に述べた建前は、提供した兵士の装備や、さらに月々の維持費等もすべて主人側が負担することを求めています。昔はいざ知らず、この時代の洋式歩兵の装備を維持していくには、だいたい月に10両程度を必要としたようです。したがって、旗本は、この人員の確保プラス月兵士一人当たり10両の負担をする義務が、先祖代々伝わっている、ということになります。それを明文化したのが兵賦令というわけです。
確かに理屈としてはその通りです。しかし、実際問題として、旗本とその知行地の関係は差し出せ、といったから兵がでてくる、というような緊密な、あるいは甘いものではありませんでした。
勝海舟の父、小吉は「夢酔独言」という書の中で、知り合いの旗本のために、その旗本の知行地から若干の金を引き出す際の苦労話を書いています。金を出させるために、小吉は切腹のまねごとまでしなければならなかったのです。
金を出させるだけでさえそんな調子なのですから、まして死ぬ確率の極めて高い兵を出させるなど、論外というべきだったでしょう。したがってあまり実効性のある布告ではなかったようです。
そこで元治元年に兵賦督促令というものがでて、速やかに兵を差し出すように、と督促しています。その中で、始めて金のことに触れています。すなわち、遅滞した部分については金で補填しろ、という命令が入っています。その後も繰り返し、督促が行われます。
慶応元年になると、より多くの直属軍を幕府が必要としたために、兵賦の範囲が、旗本領だけではなく、天領にまで拡大されました。
そしてとうとう、慶応2年正月には全面的に金納制度に切り替わったのです。これが兵賦金です。兵賦一人当たり20両を提出しろ、といっています。しかもこれを向こう10年間の軍役費として一度に前納しろと命じています。
幕府の直轄領に、旗本の知行地を加えた、幕府の支配領地は、新井白石の計算に依れば約700万石でした。おそらくこの時代にもたいして変わっていない、ということを前提にして、先の兵賦令の数値に基づいて計算してみると約30万両という答えがでてきます。したがって、その10年分を前納させれば、勝海舟が述べていた300数十万両の収入が得られることになります。
現実に戦争をしてみて、兵を確保するよりも軍資金を確保する方が、よほど重大である、と判っての苦肉の策ということができるでしょう。
したがって、その法的性格は、天領に対する場合と旗本に対する場合とでは違います。
天領の場合には、単純に戦争目的税ということができるでしょう。どこの国でも、戦争ということになると、その軍資金に充てる目的で、その期間だけの特別税を課しますが、幕府領内では、これがはじめてです。もっとも幕府としては、綱吉が富士宝永山被害救済のため、という名目で、大名領も含めて全国一律に固定資産税を徴収したという例外がただ一つあります。
この、兵賦金という名の増税が、戦費調達のため絞られていた天領農民に対する今一層の重圧になったことは当然です。先に対長州戦開戦前夜に関東地方も含めて各地で大規模な一揆が起こったと説明しましたが、兵賦金がその引き金を引いたのです。実は、この慶応2年という年は、江戸時代を通じてもっとも百姓一揆の多かった年なのです。いきなり数百万両という巨額の税金がかかってきたのですから無理もありません。
旗本に対する兵賦金の場合、給料の天引きというような性格があります。江戸時代、どこの藩でも財政が破綻し、手っ取り早い対策として、藩士の俸給をカットする、という方策にでていました。しかし、幕府だけは、これまでそういう策をとらずにやりくりしてきたのですが、我慢の限界を超えた、というわけです。
旗本が十分に実力を持っていれば、この兵賦金は知行地の農民に転嫁されたことでしょう。事実、そう考えている日本史学者もいます。しかし、先に夢酔独言に紹介したとおり、当時の旗本はそれほどの力は持っていません。農民に有無をいわさず転嫁できるだけの力を持っていれば、そもそも兵賦令で話は終わり、兵賦金にまで発展しなかったはずです。ですから、おそらく、実際のこの資金は札差しを拝み倒しての追加借り入れだったことでしょう。これほど多額の追加貸し出しに応じたのであれば、江戸の札差し達が幕府の滅亡の道連れになったのは、いわば必然の成り行きといえます。
徳川慶喜が、老中や諸侯達の懇望の前にやむを得ず、というポーズを取りながら喜々として15代将軍の地位についたのは慶応2(1866)年12月5日のことでした。明治維新後に、「昔夢会筆記」という書で、慶喜は将軍位につくにあたり、すでに「日本国のために幕府を葬るの任に当たるべしとの覚悟をさだめ」ていたと述べていますが、もちろん彼の持病というべき虚言癖の現れと見るべきで、まったく信用できません。
慶応2年7月20日に家茂の臨終に立ち会ったときから、実質的に独裁者としての活動を開始した慶喜は、その後の1年間を幕府の覇権を確立するための全力を挙げており、それを幕府安楽死政策と見ることはまちがってもできないからです。
この時期、幕府軍の戦力で、もっとも強力であったのが、洋式歩兵隊であったことは何度か触れました。「長州大討込」と唱えたときには、自分自身、その一員となってランドセルを担いで走ろうとそのていたほどに、慶喜はこの部隊に入れ込んでいます。そこで、彼の急務はこの洋式歩兵隊の一層の強化と拡充です。強化手段として、ロッシュに対し、8月2日の段階ですでにフランス軍の顧問団の派遣を依頼し、止戦を発表した後の8月27日にも再び書面をおくって催促しています。その中では、明確に将来に向けて幕府の覇権確立のため、努力する旨が述べられています。
そのためには、財源の確保がもっとも重要な問題であることは明らかです。
長州との戦争は一応終わりましたが、慶喜の独裁権力を維持するためには、慶喜のいうがままに動く軍事力を手元に握りつつけている必要があります。そのため、洋式歩兵を中核に、約2万の兵力を慶喜はそのまま畿内においています。第2次長州征伐の際、10万の軍を1年間畿内に置いたことで、300万両が必要になったことから考えると、単純計算で2万の兵力を維持するには年に60万両の費用が必要だ、ということになります。畿内に長期これだけの軍が駐留することによる物価の値上がり及び民心安定のための費用を考えると、これよりもう少し多い財源を、将来に向かって確保しなければなりません。
前節の説明で判るとおり、長州征伐時に役に立った唯一の財源は兵賦金でした。しかし、兵賦金は、一回限りの非常手段です。10年分前払いという名目でかき集めた以上、後10年は兵賦金をとることはできません。
そこで、慶応2年8月、つまり第2次長州征伐が終わった直後に、幕府は軍役令というものを出しています。これは、兵賦とは別に、さらにそれよりも厳しい軍役というものを旗本に課したものです。
すなわち、600石取りは3人、700石取りは4人という調子でどんどん累進的に厳しくなり、3000石取りだと24人というノルマを課した上で、もっとも人数を差し出すに及ばず、一人につき金5両を差し出せ、とあります。
つまり、軍役と名を変えた新しい兵賦金が旗本達の上にのしかかってきたわけです。これはさらに同年9月に若干内容が変わり、兵賦令と一本化されますが、旗本から金を取ろうという点には、まったく違いはありません。毎年、78万8000両あまりの収入が見込める、と計画書に明記されています。まさに旗本受難の時代に突入したわけです。旗本層こそが幕府権力の基盤であり、彼らもまた食うや食わずやの厳しい財政状況にあることを考えると、彼らを搾取することで軍事力を維持しようというこの政策は、蛸が自らの足を食うに似た末期的症状といえます。旗本にとって幸い?なことに、幕府は後わずか1年余りで滅びますから、厳しく搾取される時代が長く続いたわけではありません。もし幕府が長続きしていれば、旗本の倒産が相次いだことでしょう。
幕府はさらに10月には譜代大名領までも兵賦金の対象としようということを検討していますが、これは実施に至りませんでした。
しかし、将来的に幕府の覇権を確立するためには、単に畿内に兵力をおいておく、というような消極的な作戦ではなく、日本全国を転戦しても耐えられるだけの財政力が必要です。わずか長州1藩と戦うために、破産寸前まで追い込まれたことを考えると、より確実な財源を確保する必要があります。
そこで思いつくのがフランスからの借款です。幕閣の中でこの年10月になると真剣な検討が始まりました。これが、逆に幕府の命運を決めることになります。この点については、後に詳述します。
先に横須賀工廠の建設のため、フランスから借款したこと、及びその担保が日仏両国に設置された生糸の輸出入組合を通じてのフランス独占権にあることを述べました。その具体化のための交渉の一環として慶応3年2月になると、追加借款交渉が本格化します。ロッシュは、蝦夷地の鉱山から産出する金銀を担保として、600万ドルの追加借款に応ずる、との態度を示します。
しかし、追加借款を提供するには、幕府の体制がそれなりにしっかりしていなければなりません。そこで、ロッシュは慶喜に西欧行政制度に関する講義をこの2月に行っています。
制度改革は慶応3年5月12日に断行されます。すなわち外国総裁(外務大臣)小笠原長行、会計総裁(財務大臣)松平康英(やすひで)、陸軍総裁(陸軍大臣)松平乗謨(のりたか)、海軍総裁(海軍大臣)稲葉正巳などで固めた内閣を設けたのです。これまでの老中制度は、勝手係と外国係だけが専従制で後は連帯責任制でしたが、全官職を専従制にしたわけです。その次官級ともいえる若年寄に、門閥にこだわることなく、永井尚志などの若手を起用しました。
またロッシュは固定資産税や営業税、酒税などの導入も提案し、幕府はこの線に沿った調査を開始しました。
さらにロッシュは、この慶応3年に開かれたパリ万博に幕府が出展することを提案し、慶喜は弟の徳川昭武(あきたけ)を正使とし、慶喜の股肱の臣である渋沢栄一を添えて、この年1月に送り出しています。
この、いかにも妥当と思われる措置が、結果として慶喜とロッシュの運命を暗転させました。
同じパリ万博に、薩摩藩は琉球国と称して、別途、幕府以上の莫大な出品を行い、幕府の展示活動に大変な妨害をしたのです。
実は、フランスでは、この年すでにロッシュを送り出した外相ドルーアン・ド・ルイEdouard Drouyn de Lhuysが辞任し、外相がムーティエMarquis de Moustiersに変わっていました。ロッシュは自分の実力に自信を持つ余り、本国に余り詳しい報告を送っていませんでした。そのため、ムーティエは英国などからの批判だけに基づいてロッシュの対日政策を判断するようになってしまったのです。例えば、ハリスの後任の米国公使が自分個人の利殖を図ろうとして幕府から不信感をもたれたという話を前に紹介しました。ロッシュも同様の経済活動を行っている、という非難が浴びせられたのです。
さらに、徳川昭武一行に随行してきていた通訳官のカションが、ロッシュに対して不満を持っていたのか、あるいは日本通としての良識ある判断だったのかはともかく、幕府の命運は既に尽き、薩摩が現在もっとも強力であるので、ロッシュの政策は誤っているという趣旨の論文を、ラ・フランスという新聞に発表しました。上述の通り、パリ万博では薩摩の出品の方が、幕府を上回っているのですから、これは説得力を持っています。
その結果、1867年5月8日(慶応3年4月5日)、フランス外務省は、ロッシュの努力によって、対日貿易量が飛躍的に増加していることは高く評価しながら、これ以上幕府一辺倒の政策を採ることは、こうした既に獲得した権益を危うくするおそれがある、として、ロッシュの幕府支持策を否認し、諸藩に接近するパークスの政策を支持する対英協調路線を示した訓令を発したのでした。ロッシュは、この訓令に接すると激しく反発しますが、結局、慶応4年(すなわち明治元年)1月25日に帰国命令を受けて、日本を離れることになりました(実際に離日したのは同年6月です)。
ここに、フランスに全面的に依存していた慶喜の慶応改革も、とん挫することになります。
もっとも、そのわずか前に鳥羽伏見の合戦は起きており、慶喜の方がロッシュを大阪に置き去りにして江戸に脱出する、という形で、両者の連合は壊れていました。
この時期、英仏は世界的に植民地を拡大していましたが、その手段は、対象国内の内紛に介入して、一方当事者に援助を与え、内紛を拡大して双方ともに疲弊させ、最終的に武力介入するという手段でした。アヘン戦争という過酷な教訓が、すぐ隣国の清国で起こっていたため、この英仏の侵略手段は、わが国の知識人の一つの常識になりつつありました。そこで、こうした密議の存在はすぐに日本中に知られ、猜疑の目をもって幕府は見られることになります。
幕府が一日長らえれば、その分だけ日本の利益が危うくなると、多くの人が考えました。では、どうしたらよいでしょうか。
誰でも考えつくのが、先に、慶喜の強引な妨害活動にあってたたき壊された参与会議の復活です。あのときのメンバーは、いずれも雄藩の長で、自前の軍事力を持っています。したがって、彼らがもう一度自らの軍事力を持って上京し、その連合軍事力で慶喜を押さえつければ、ふたたび参与会議の慶応版、すなわち列候会議を開催し、これが日本の支配力を握る、ということが可能になるはずです。
誰でも考えつく、といいましたが、日本国内でこれを文章化した最初の人物は、英国公使館の通訳官であるアーネスト・サトーです。彼は、このアイデアを独自に思いつき、これを横浜で発行されていた英字新聞ジャパン・タイムズに、慶応2年の1月から3月にかけて匿名で発表しました。これを、サトーの日本語の教師であった阿波蜂須賀家の家臣、沼田寅三郎が日本語に翻訳し、その写本が広く流布したのです。これは、発表にあたり上司パークスの許可も取っていない純然たる私的論文なのですが、流布するにあたっては、「英国策論」というなにやら英国の公式態度を書いたものと思わせるような表題になっていました。
パークスは、当初は幕府を支援することで英国の立場を強化できると考えていました。慶応3年1月の時点では、間違いなくそういう路線でした。が、ロッシュに出し抜かれて、幕府は完全にフランスに取り込まれてしまった、ということが徐々に判って来るにしたがって、方針転換を図り、この部下の私的論文に接近した政策を採り始めます。
1866年(すなわち慶応2年)初頭に、薩摩の松木弘安(後の寺島宗則)がロンドンで、こうした動きとは全く別に、同様の提案を英国外相に向けて行っています。これを受けて、英国外務省では、パークスに対し、天皇・将軍・大名の自由討議を勧めるよう、訓令しています。したがって、列候会議の承認は、この時点ではパークスの裁量の範囲に属していたわけです。そこで、英国は列候会議の開催推進に向かって動き出します。
実際に列候会議開催のために奔走したのは、薩摩藩の西郷隆盛と、土佐藩脱藩浪士の中岡慎太郎です。
慶応2年12月25日に、幕府にとって致命傷となる事件が起きます。朝廷内きっての佐幕派であった孝明天皇が突然死亡したのです。疱瘡による病死とも毒殺ともいわれます。代わって即位したのが明治天皇です。嘉永5(1852)年生まれですから、この年12歳です。まだ幼くて、自らの判断では行動できません。幕府では、なんとか慶喜自身が摂政になろうと画策を開始しますが、結局失敗しました。
この幼帝の出現という機をとらえて、反幕派の公家である岩倉具視は、孝明天皇に追われて都落ちしていた三条実美とむすび、列候会議に向けて謀略を展開しはじめました。
こうして、慶応3年4月に、島津久光、山内容堂、伊達宗城、松平春嶽が再び京に集まりました。しかし、この会議は内部対立で再び解体します。島津久光などがこの機会に幕府権力を失墜させようと企んだのに対して、伊達宗城などは、単に国政に関与する機会を欲しただけに過ぎなかったからです。こうして5月21日に山内容堂が帰国声明を出したのを皮切りに全員が相次いで帰藩することになりました。
慶喜はその機をとらえて、朝廷に圧力をかけ、得意のマラソン会議によって、懸案であった兵庫開港に対する勅許を6月25日に獲得するのに成功します。これにより、兵庫は翌年1月1日から開港されることになりました。この成功に、英国公使パークスもしばらくの間、慶喜支持に転向したほどです。これが結果的に見れば、慶喜の対外面での最後の成功ということになりました。
こうして列候会議方式では、倒幕は無理と判断した薩摩の西郷隆盛や大久保利通は、武力により幕府を倒すという決意を固めるに至ります。そこでまず薩摩本国に対して、5月29日、兵力を上京させる準備をするように、という指令が飛びました。
それと同時に薩長同盟に基づいて、長州に対しても、兵力を上京させるように依頼しました。9月半ばに、大久保利通自身が長州の三田尻軍港(現在の防府市)に出向いて桂小五郎らと会談して計画を固め、藩主父子と会見することで、正式承認を得て、武力倒幕の計画は着々と動き始めていました。
その同じ頃、坂本龍馬は、出身藩である土佐の、幕末政争の中での地位を一気に高める手段として大政奉還という手段を考え出していました。これは、要するに、徳川家の地位を明確に諸侯の一員に格下げした上で、つい先頃流産に終わった列候会議をもう一度開こうというものです。それだけでは決して画期的なアイデアではありませんが、その列候会議で決定すべき事項まで具体的に指定した点に龍馬の凄みがあります。いわゆる船中八策といわれるものです。これはその後、五箇条のご誓文という形にまとめられ、明治政府の基本方針となっていきます。土佐藩は、これを藩の基本方針と決定し、薩摩との間で交渉します。
武力倒幕にあたっては、土佐の兵力も期待していた薩摩側としては、土佐の提案をむげに拒否することはできません。結局、まず大政奉還の線で打診し、それが失敗したら、直ちに武力倒幕に移行する、ということで、両者の話し合いがまとまります。
薩長が武力倒幕で一致しているというところまでは把握していませんが、長州の動きがおかしいということは、幕府の情報機関はキャッチしています。フランスの協力で幕府再興に向けてちゃくちゃくと布石は打たれていますが、再度の長州征伐を実施する財政力は間違ってもないことは、幕府の要路にいるものは、皆承知しています。何とか時間稼ぎの手段が必要です。
そこで、9月20日、幕府若年寄格永井尚志は、土佐藩の後藤象二郎を招き、早く大政奉還の建白書を出してほしい、と督促しました。これを受けて、土佐藩では、建白書を出すことに対する同意を10月2日に薩摩藩から取り付け、翌3日に老中板倉勝静(かつきよ)に提出したのです。
慶喜は、松平容保らと図った上で、10月14日、奏上し、翌15日、聴許されました。ここに、幕府は形式的には滅びたわけです。実は、薩長の討幕派は、密かに倒幕の勅旨を受けるための運動を展開しており、この日に降りる予定になっていました。その意味で、この日もまさに運命の一日だったのです。きわどく、幕府は討幕派に肩すかしを食わせたわけです。
もちろん大政を奉還された朝廷に実際の行勢力があるわけはありませんから、22日、慶喜に対し、当分の間は庶政を委任するという沙汰書を下しました。
しかも、大政奉還派が期待していた諸侯会議が開けません。朝廷の召集令に何らかの反応を示した諸侯のうち、12月8日までに上京してきたのはわずか12藩に過ぎないのです。そして、上京してきた藩にしても、これまで通り万事幕府に委任しておくことに異論は唱えません。したがって、せっかく幕府を諸侯の地位に落としても、このままでは、従来同様、幕府が国内政治を行っていく、ということに全く違いはないのです。
そうすれば、フランス資本に支えられた形で徳川氏が力を蓄えるのに時間を貸すことになります。徳川氏が力を回復すれば、薩摩や長州は、最終的には滅ぼされることは間違いありません。
そこで、12月9日になって、薩長は京都でクーデターを敢行します。そして、幕府の与党を閉め出した、いわゆる小御所会議で、新政府の方針と組織が決定され、また、慶喜に対しては辞官納地、すなわち官位を辞退し、所領すべてを返納するよう、命令が下ります。
討幕派としても、この路線で押し通せるほどの実力はありません。12日になると、松平春嶽に斡旋させ、慶喜が反省の色を示すなら、これを朝廷政府に迎える、という決定をし、24日になると、さらに慶喜に対する命令から領地返納の文字をのぞき、全国行政に必要な分を調べた上で、徳川家の領地から差し出せ、というような後退した表現となりました。
このように、クーデターを敢行して樹立した新政府の姿勢が後退を続ける理由は、その財政基盤がないことにあります。
仮に、薩長が、そのまま連合政権という形で、新政府に発展していたのであれば、新政府は、少なくとも薩摩藩や長州藩の財力を基礎にして出発することができたはずです。しかし、小御所会議で成立した政府の構成員は、決して薩長ではないのです。
12月9日時点の構成員を具体的に紹介すると、次の通りです。総裁が有栖川宮、その下の会議構成員を議定といい、10人いますが、うち2人が宮様、3人が公家です。残る5人が大名で、薩摩藩島津忠義、尾張藩徳川慶勝、安芸藩浅野長勲、土佐藩山内容堂、越前藩松平慶永となっています。つまり薩摩藩は入っていますが、それもわずか一人であって、薩摩藩が専横できる体制ではありません。そして、長州藩はまったく入っていません。桂小五郎改め木戸孝允は、慶応4年4月に、議定よりさらに下の参与というところに入ってきますが、長州藩主は最後まで入りませんでした。
したがって、新政府としては薩長からは独立した自分の財政基盤を持たねばならないのですが、それが全くありません。丸一年も前に死亡した孝明天皇の葬儀さえも未だに出すことができず、慶喜にその費用を融通しろ、と依頼している始末です。そこで、何とか交渉で慶喜に新政府の財政基盤そのものを提供させようとして、苦労しているわけです。
このまま推移すれば、新政府も、これまでの列候会議などと同じく空中分解して、慶喜の粘り勝ちということになったはずです。
しかし、慶喜はむしろここで一気に薩摩を排除しようと考えました。あるいは、幕府内の強硬派を慶喜が押さえきれなくなりました。そこで1月1日に「討薩表」を朝廷に提出するとともに、諸藩に宛てて、自分の挙兵に応ずるように呼びかけました。その呼びかけの文書を見ると、「君側の悪」を除くために決起するなど、昭和初期の軍部のクーデターにおける文書と似た表現が目立ちます。天皇制の下におけるクーデターの共通性ということなのでしょう。
これは、結果として幕府最後の大博打になりました。しかし、我々は、その結果を知っているので、大博打と考えるのであって、おそらく慶喜自身は、これは十分以上に幕府に勝ち目のある行為でばくちといえるほど危険なものではない、と考えていたに違いありません。
この時期、大阪にいた幕府軍は約1万5000人とも3万人ともいわれます。先に慶喜が握っている兵力は2万人と書きましたが、長期滞陣のため、適当に交替させているので、この特定の時点にどれだけいたかは判らないのです。これに対して、薩長連合軍は3000人とも4000人ともいわれます。確かに全体としてみれば、薩長軍は装備に優れたものがありますが、幕府軍の中核を占める洋式歩兵は、規模的にも装備的にも、薩長軍に匹敵しますから、その面での差はない、といえるからです。したがって、圧倒的な大軍を擁している幕府側の勝ちは動かない、といえます。しかも、京都というところは防衛拠点のないところで、古来、京都によって戦って、勝利したものはいません。その点も、幕府軍の有利といえます。
こうして、慶応4年1月3日、幕府軍は大阪から京に攻め上ろうとします。鳥羽伏見の戦いが始まったのです。この戦い、幕府側の首脳部に全く戦術の判る人間がいなかったのが、薩長側に幸いしました。
もし、幕府軍が大きく展開して、四方から京都を囲むように布陣した上で攻めれば、薩長軍もそれに対してとぼしい兵力を各方面に分散しなければなりませんから、幕府軍の楽勝だったはずです。ところが明確な司令官のいないままに、幕府軍は愚直にも、まっすぐ大阪から京都に押し出しただけだったのです。細い鳥羽街道で両軍がぶつかれば、戦線はきわめて局部的なものとなります。
薩長軍で、戦線に投じられたのは1500人程度といわれます。これ以上いても、戦場が局地的なために邪魔になるだけだったのです。つまり、大軍であることは幕府軍にとって全く役に立たなかったのです。そして、局地戦ということになれば、優秀な装備を持ち、実戦経験の豊富な薩長軍の方に分があるのは当然です。戦闘は連日続きましたが、幕府軍が鳥羽街道に固執するものですから、薩長軍にとっては楽な戦でした。出てくるのを叩いていればよいのです。
その間に、戦闘以外の要素が大きく動き始めました。その第一は、幕府から人心が完全に離れている、ということが誰の目にもはっきりと見え始めた、ということです。官軍は、前に述べたとおり、財政基盤が弱いものですから、戦闘員のための弁当を用意することさえできませんでした。すると、地元の人々が、炊き出しをして戦場まで弁当や汁、酒までも運ぶという光景が現れたのです。戦場になることで、自分の家などを焼かれていた人々がこういう身銭を切っての支持行動をする、というのはよほどのことです。
おそらく、これも兵賦金のもたらした悪影響の一つと見るべきでしょう。幕府の天領は全国に均一に存在しているのではなく、西国に多かったのです。したがって、兵賦金や軍役金の強制徴収は、畿内に強い打撃を与えていたはずだからです。
第二の要素は、諸侯の日和見にありました。戦闘が始まるまで、誰もがまだ幕府の方が強い、と考え、そのために朝廷の諸侯会議への召集にも、はかばかしい反応が返っていなかったわけです。ところが戦闘が始まると、京には味方勝利の連絡が、当然のことながら連日入ってきます。勝てば官軍の言葉通り、ここで諸侯が雪崩を打って、新政府に味方する、という姿勢を示し始めたのです。
そのもっとも象徴的な事件が、淀藩の動向にあります。淀藩は、現役の老中である稲葉正邦の居城なので、幕軍は、戦闘が長引いてくると、当然にこの城を戦闘拠点にしようとしました。ところが何と、淀藩はこれを峻拒したのです。
もっと劇的な転換をしたのが津の藤堂藩です。この時、山崎にあってまだ戦闘に参加していなかった同藩は、新政府から幕軍を攻撃するように命ぜられると、幕軍宛に「徳川氏累代の御洪恩はあえて忘却は仕らざるも、当地出張の者においてはただ涙をふるいて、勅を奉ずるのほか別に処置、これなし」という手切れの手紙を送りつけると、1月6日早朝から、幕軍の側面を攻撃し始めたのです。
しかし、幕府軍は大軍ですから、こうした局地戦でいくら部隊を撃破しても、それが戦争全体の勝敗を決することにはなりません。幕軍全体としては、戦争はまだ決していない、という雰囲気だったのです。
最終的に勝敗を決めたのは、結局、いつも通りの、慶喜の責任転嫁癖でした。楽勝のつもりが、このように戦闘が長引くにつれて、刻々情勢が悪くなってくると、慶喜には嫌気がさしてきました。水戸家に育ち、独特の尊皇思想を骨の髄まで染み込ませていた慶喜は、朝敵という汚名を着るのに耐えられなかった、といわれます。そこで、1月7日に部下を捨てて脱出してしまうわけです。
これについてはよく衝動的に脱出したかのようにいわれていますが、それは渋沢栄一の書いた「徳川慶喜公伝」に依存して書かれるためです。それによると、慶喜は幕府艦開陽を目指したのですが、誰も開陽の艦型を知らず、暗夜をさまよううち、米国艦にたどり着き、そこで拾ってもらった、という記述になっています。が、これは慶喜得意の虚言癖が、腹心といえる渋沢栄一に向かっても発揮された、ということのようです。
今日では、米国政府の記録を見ることができるので、この事件の経緯は、かなり正確に判っています。それによると、これは衝動的どころか、むしろ非常に計画的な事件でした。
すなわち、彼は、かなり早い時点で部下を放り出して脱出すると決めたのですが、悪いことに、この時期、幕府の艦は兵庫沖にいて、大阪城のすぐ外の天保山沖にはいません。しかし、事前に幕府艦を呼び寄せると、慶喜が脱出しようとしていることがばれて、何かと文句を言うやつが出てくると慶喜は考えました。天保山沖には公使達の引き上げ支援のために各国の軍艦が来ていますから、いったんそのどれかに逃げ込んだ上で、幕府艦を呼び寄せればよい、と決めます。
この時、慶喜が下したもう一つの非情の決断が、フランスとの関係を絶つ、ということでした。前に述べたとおり、フランス本国は、これ以前に幕府との関係を絶つという決断を下していましたが、ロッシュはそれに抵抗し、そのことを慶喜には告げていません。しかし、慶喜にも、フランスと幕府の緊密な関係は、わが国の国益を害するものである、という国内からの非難は聞こえていたはずです。それこそが先に列候会議、今、諸侯会議を開かせている原動力だからです。したがって、ここで朝敵の名をおそれて逃げる以上、同時にフランスと幕府の関係も、この際同時に絶つのが最善ということになります。そのためには、フランス艦に逃げ込むわけには行きません。
その場合、英国艦に逃げ込むと、今度は逆の意味で、いろいろと政治的影響が出ます。そこで、この時点で天保山沖にいた外国艦の中では、もっとも日本との関係が薄い米国艦イロクォイ号に逃げ込むことに決めたのだと思われます。
確かな事実だけを述べると、彼は、まず1月6日夜に腹心の部下を米国公使ファルケンバークの所におくって、慶喜がイロクォイ号に乗る許可を求めました。ファルケンバーグは快く許可を与え、艦長に手紙を書いたので、慶喜は安心して、翌7日の夜2時に大阪城から脱出したのです。
7日の夜、逃げることが間違ってもばれないように、慶喜は、戦いが終わって引き上げてきた将兵に対して、感動的な激励演説を行います。将兵が奮い立って、明日こそ薩長軍に一泡食わせようと宿舎に戻ると、幕府軍の中枢部隊である会津および桑名の藩主に供を命じて城外に出て、イロクォイ号に搭乗したのです。イロクォイ号に2時間ほど滞在したところで、兵庫沖から幕府艦開陽が駆けつけたので、こちらに乗り移り、江戸に帰ったのでした。
開陽があまりに突然呼び寄せられたので、開陽の艦長榎本武揚は出港に間に合わず、陸上に置き去りにされた、というのは有名な話です。榎本武揚は、函館までも戦い抜いたほどの主戦派ですから、彼が乗っていれば当然脱出行に文句をいい、おそらく江戸に船を走らせてはくれなかったでしょう。外国公使に予め話を通すほどの周到さを持っていた慶喜であれば、榎本武揚が偶然にも船に乗り遅れたと見るべきではありません。タカ派の艦長がその夜、上陸しているように手配するのは、最高司令官にとって何でもないことですし、そうした配慮を予めしておくのは、江戸への脱出を成功させるためには当然のことだったでしょう。
供を命じられた会津等の藩主達は、最後まで慶喜が何をしようとしているのか判らず、判ったときには手遅れだったようです。彼らが大阪に残っていれば、彼らを中心に会津藩や桑名藩は戦闘を継続したでしょうから、彼らを強制的に同行させない限り、慶喜だけが脱出しても、朝敵の汚名はやはり降りかかってきてしまいます。その意味で、彼らの同行は必須の条件だったのです。
慶喜は、脱出前に行った激励演説のことについて、うまく騙してやった、と後に自慢したそうです。彼のように病的な虚言癖を持ち、彼が尊崇してやまない朝廷に嘘をつくことすら平気だった人間にとって、彼を信じて一命を掛けている部下に対して嘘をつくのは、何ら問題のない行動だったようです。
一番気の毒だったのは、慶喜に自分の威信のすべてを掛けていたロッシュです。脱出するまで完全につんぼ桟敷におかれていた彼の呆然とした行動が、アーネスト・サトーの日記には活写されています。ロッシュは、結局、後の任地もしめされないままにフランス本国に呼び返され、彼の外交官としてのキャリアはそれで終わりました。
慶喜がこうして夜逃げしたとは知らない新政府の方では、同じ7日に、はじめて正式に徳川慶喜追討令を発するとともに、この時点においても日和見を続けていた諸侯に対し、去就を明らかにするように命令しました。その先頭を切って土佐藩が忠誠を誓ったのを皮切りに、あっという間に覇権を確立することができたのです。
これに対して、一夜明けて総大将ばかりか、主要藩主や老中までがいなくなっっていることを発見した幕府軍は自ら総崩れとなり、鳥羽伏見の戦いは終わります。
慶喜を追って江戸に帰ったロッシュは、その後も、幕府に徹底抗戦を勧告しました。が、慶喜から全権を与えられた勝海舟は、これを断って江戸城を無血開城し、ここに徳川家の苦闘は終わったわけです。
以後、彰義隊と官軍の上野の戦争を皮切りに、いわゆる戊辰戦争へとわが国は突入することになりますが、それは決して徳川幕府との戦いではなく、そこからの脱走者との戦いに過ぎませんでした。そうした戦いも、榎本武揚ひきいる幕府艦隊が函館まで戦い抜きますが、彼らが明治2年5月に降伏したのを最後に、組織的な抵抗はすべて終わりました。
小笠原長行は、彼の出処進退における2度の失敗を悔やんだのでしょう、不退転の決意で戊辰戦争を戦い抜きました。まず会津城に依って戦い、会津落城後は最後まで榎本軍と行動をともにしました。函館降伏後は、しばらく潜伏しましたが、もうどうにもならないと見極めがつくと自首しました。が、結局不問に付され、市井の人となりました。
その後、彼の才幹を惜しんだ松平春嶽などが、繰り返し明治政府に出仕するように誘いましたが、がんとして拒み、最後まで市井の人として終わりました。死んだのは明治24年のことでした。西南戦争から明治憲法の公布までを見てから死んだわけで、おそらく世の無常を感じたことでしょう。
これで維新の風雲財政録=幕末編=を終わりにさせていただきます。
例によって、細かな数字のたくさん出てくる堅い話に長いことおつきあいいただき、ありがとうございました。この話、書いている私は非常に楽しいのですが、皆様も楽しんで読んでいただければ、ありがたいと思っております。
こうして幕府は苦しい財政のやりくりを続け、やりくりが限界に達したときに滅びました。あれ以上無理にやりくりを続けていれば、わが国がどこかの国の植民地になっていたことは間違いないと思われ、その意味では滅びる時を正しく得たということができます。
豊臣氏が滅びたときには、莫大な財宝が残され、徳川幕府はその潤沢な資金の上に立って、楽に出発していくことができました。
しかし、以上の通り、徳川氏が滅びたときには、莫大な対外並びに対内債務を残しただけで、新政府が利用できる財宝といえるようなものは、全く残されていませんでした。それどころか、財政関係の書類をすべて焼却してしまったので、国家運営の上で必要な情報さえも、新政府に伝わらなかったため、新政府が勝海舟の協力を得て、非常な苦労をして収集したことは、『江戸財政改革史』の冒頭に詳しく述べたとおりです。
本稿に現れた数字にしても、勝海舟の残した数字に依るところが多いのには、驚かされたことでしょう。彼は決して、単なる「氷川町のほら吹き」ではなく、きわめて堅実な財政実務家だったのです。
余談ながら、勝は、徳川家の資産を明治維新後、一貫して管理しました。生活に困窮した幕臣が相談に来ると、惜しげもなく、貸し与えましたりしましたから、私物化していると悪口を言われたりもしました。が、最後に、自分自身、大変な子沢山であるにも関わらず、徳川慶喜の子供の一人を養子にする、という形を通して、自分自身の個人財産も含めて、すべて徳川家に返還したのです。彼は日本国の利益の前には徳川家の利益を平気で犠牲にした男ですが、彼なりに徳川家の大忠臣として一生を送ったということができます。
さて、明治政府が、この江戸幕府の廃墟の中から誕生することになりました。
薩摩藩主や長州藩主の思惑は、間違いなく自分の藩が明治政府をつくるという点にありました。島津久光は、死ぬまで西郷と大久保に騙された、といって呪っていました。長州藩主の方は少々鈍くて、人々が忘れた頃になって、自分はいつ将軍になるのだ、と聞いて、人々の失笑を買いました。
しかし、明治政府を建設した人々は、藩主達の思惑とは異なり、そうした個々の藩とは絶縁した形で、まったく新しく明治政府を建設する道を選びました。これは、ゼロからの出発、というより、江戸幕府の残した負債を抱えてのマイナスからの出発でしたから、それは財政面においてもまた、大変な苦難の道でした。
我々が習った日本史は、その辺りを全く説明していません。それについても、近いうちに、是非皆さんにお話しする機会を得たいと願っています。