−制度的保障の中核としての自己責任−
Die Substanz von Artikel 17 der japanischer Verfassung
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Selbstverantwortung als der Kern von institutionelle Garantie甲斐素直
17条の本質目 次
本稿は、憲法17条を基礎に法令違憲を論じた、平成14年9月11日にでた最高裁判所判決(以下、「本判決」という)*1に触発されて執筆している。
国家賠償請求権は、今日においては、行政事件訴訟と並ぶ、人権の裁判的実現の手段であり、国家を相手の訴訟で、これを主張していない例を見ないほどに重要かつ一般的な権利である。しかし、この重要な権利に対する憲法学者の取り組みは、お粗末という他はない。ほとんどの憲法教科書では、単にその存在を通り一遍に紹介しているに過ぎず、その多くは、国家賠償法の文言に寄りかかって、現実に判例法上確立されている解釈とは異なる記述をしている*2など、教科書を熱心に熟読する学生にとり、かえって害になる記述をしている例があるほどである。
かつての最高裁判所の判決は、憲法学的に見た場合、実に粗雑な論理のものも多かったが、本判決は、それを基礎に議論するに足だけの非常に緻密な論理を展開している。そこで、本判決を契機として、憲法学界においても17条の解釈を巡る議論が活発になることを私は期待していた。
しかし、本判決は、その重要性に比較すると、学説的に論じられることが少ないように思われる。確かに判例評釈は多数発表されている*3が、その多くは行政法的な観点からの議論にとどまり、憲法学的に論ずる場合にも、表面的に論ずるばかりで、17条そのものの本質に踏み込んでの議論が不足しているように思われる。
そこで、本稿では、憲法学から見た場合の、この判決における大きな論点である、憲法17条の本質の問題に限定して、憲法学の立場から論じてみた。
わが国における国家賠償の本質を論じるには、それが、そもそもどのような概念であるかについて論ずる必要がある。そして、それを論ずるには、わが国制度の沿革を理解する必要がある。そこで、簡単に紹介する。
欧米では、早くから「王は悪事をなせず(King can do no wrong)」という概念が発達し、国家の違法行為という概念そのものが認められなかった。更に、国家公務員個人に賠償請求をすることについても、公務員の萎縮を防ぐために禁止する法理が、わが国が欧米法を継受した時期には確立していた。
わが国の明治憲法には国家無答責を明言する条文はなかった。しかし、法体系として欧米法を継受したため、早くから判例は、国家無答責の原則を当然に憲法的秩序の一環として採用していた。しかし、欧米の場合には、国家自体は自由国家理念に則り、積極的な活動をほとんど行わなかった。社会の基盤整備は、主として民間の手で行われたのである。それと異なり、わが国の場合は鉄道や港湾の建設など、社会基盤整備は、すべて国家によってなされる必要があった。このため、国家無答責原則の無批判な採用は、欧米よりも問題が大きかった。
判例は早くからその問題性に気付き、この原則の適用範囲を狭める努力を行ってきていた。すなわちまず国の活動であっても私経済活動には、早くから国に民法を適用し、不法行為責任の成立を認めた。例えば国有鉄道の活動については民法に基づき、賠償責任を肯定した。鉄道工事による損害*4や汽車の煤煙で名松が枯死した事件*5がそれである。
ついで国家活動を権力活動と非権力活動とに区分し、国家無答責原則の適用を前者に限定した。徳島市立小学校の遊動円棒の欠陥のため生じた児童の死亡事故について国に損害賠償責任を認めたのがその転機となった有名な判例である*6。
これに対して権力的活動については、一貫してこれを認めなかった。板橋火薬製造所の爆発のような現業部門の活動*7についても、また消防自動車の試運転中の轢殺事故*8のような直接的権力活動とは認められない場合でも、権力的活動と認めて国の責任を否定した点である。憲法秩序が国家無答責の原則をとっている場合に、判例による努力には、一定の限界があったと評価することができる。
また、官公吏個人の賠償責任も、「職務上ノ行為カ公法行為ナルトキハ国家モ官吏モ共ニ賠償ノ責ニ任スヘキニ非ス蓋公法行為ニ対シテハ民法不法行為ノ規定ハ之ヲ適用スルヲ得ヘキニ非レハナリ」*9というような、単純な公法・私法二元論の論理で、一般に否定された。これは官公吏が賠償責任を負うことをおそれて消極的行政に終始することを防ぐという観点からは適切であるが、それにより被害者の保護をいっそう弱いものとした事は否めない。ただし、官公吏が職権を乱用して私人の権利を侵害した場合にはもはや官公吏としての行為ではない、として民法の規定を適用して損害賠償を認めた*10。
第二次大戦後に、わが国の現行憲法の制定が検討されていた時点では、欧米各国、特にアメリカでは、国家無答責が依然として支配していた*11。このため、わが国国憲法の原案とも言うべきマッカーサー草案には、国家賠償制度については論及がなかった。そして、これを受けて作成されたわが国政府の政府原案でも同様であった。しかし、衆議院段階で、上記の判例の努力を受け継ぐ形で、現行憲法17条が、刑事補償に関する40条とともに、議会修正という形で追加された。
そして、その「法律」の中心をなすものとして制定されたのが、国家賠償法ということになる。また、本判決で問題になった郵便法68条及び73条も、その特別法という意味で、そこに言う法律の一つである。
憲法
17条は「法律の定めるところにより」国家賠償を受けることができると定める。ある事項について、その詳細は国会が「法律でこれを定める」と憲法が書いている場合に、これを国会に対して無制限の立法裁量権を認めたものと考えるときには、国家賠償を憲法編入した意義が失われる。
本判決は、この点について次のように述べている。
「立法府に無制限の裁量権を付与するといった法律に対する白紙委任を認めているものではない」
このように、憲法がある制度の創設を法律にゆだねている場合に、それを白紙委任ではないと読むとき、それを説明するわが国の標準的な学説としては、制度的保障論がある。例えば憲法
29条2項や同92条に代表されるように、制度の中核は国会の立法によっても不可侵と考える立場である。そうした類似の条文の例に従うならば、17条についても同様の解釈をとるべきである。少なくとも、制度的保障論を採用することの適否を巡る議論が論戦の中心になるべきであると考える。しかし、驚くべきことに、そのような論理展開をしている学説は、管見のかぎりでは存在しない。多くの教科書やコンメンタールでは、17条の「法律」という文言に関しては、それがプログラム規定なのか抽象的権利規定なのかという方向に議論を走らせているのである*12。しかしながら、本判決により、この状況は劇的に変化したといわなければならない。すなわち、プログラム規定であれば、それに基づく法律がどのように定めていようとも、違憲問題は原則として発生しないから本判決のように、
17条に基づく違憲判決というものはあり得ない。また、抽象的権利説を採るときには、本判決が問題にした郵便法のように、国家賠償請求権を全面的に否定している立法を合憲とすることは困難であろう。なぜなら、抽象的権利とは「法的権利として明確で特定化しうる内実をもちつつも、なお裁判の場で直ちに実現しうるにたる明確な法的基準をもつもの」*13をいうのだからである。したがって、17条を裁判規範とし、かつ国家賠償責任を排斥している郵便法を原則的に合憲としつつ、例外的に違憲とする本判決の出現により、判例との整合性を確保しつつ論じたければ、17条を制度的保障ととらえ、それにおける侵すべからざる中核は何かという議論が必然になったと考えるべきであろう。わが国憲法
17条は、制度的補償ととらえる場合、その中核概念を考える手がかりが条文中に全く書かれていない。したがって、立法権によって侵すことのできない制度の中核は何か、ということは、理論的に決定するほかはない。本条の場合、普通はこのような議論の流れを採らないで、「賠償責任の法的性質」は何か、という形で論じられるので、少し判りにくいが、これは制度的保障の中核論だ、と理解することができる。
すなわち、責任の本質を、国の代位責任と考えるのか、それとも自己責任と考えるのか、ということが、国会の立法裁量権の限界を形成することになるので、これが侵すことのできない中核を論じていることになるわけである。
上述のように、戦前のわが国判例は、民法不法行為法の使用者責任(民法
715条)を、公務員の不法行為に適用することで、国民の救済を図っていた。この民法の使用者責任は、典型的な代位責任である*14。戦前は、非権力活動について民法を適用することで被害者を救済した、とはこのような責任を国家に認めたという意味である。戦前の判例法で救済できないのは、権力的活動のみであった。そこで、国家賠償法
1条1項は、その部分のみを補完するという発想で、制定された*15。したがって、国家賠償法が、民法不法行為法の使用者責任を補完するものとして、代位責任説を妥当とするのが、立法者の意思であることは明らかである。しかし、このような解釈は、わが国判例によって、直ちに修正された。今日の判例は、自己責任説を採用していると見ることが許されよう。なぜなら、この明らかに代位責任的に書かれている国家賠償法
1条を、判例は次の通り、全面的に自己責任的に読み替えているからである。すなわち第一に国家賠償法の適用される範囲では公務員本人に対する不法行為請求は認めない
*16。代位責任と考えた場合には、公務員個人に民法709条に基づく賠償責任が発生することが、国家賠償の前提要件になってしまうから、これを代位責任から理解することは不可能といえる。それによる問題点は多岐にわたる。わかりやすいところでは、公務員に萎縮効果が発生することがある。また、損害賠償請求をする国民の側として、責任ある公務員を特定しなければならないという問題も生ずる。このように、様々な好ましからざる問題が生じてしまう。それを回避するためには、自己責任と考えるのが妥当なのである第二に国家賠償法の適用範囲を拡大するため、「公権力の行使」とは、非権力活動も含めたすべての国の活動とする
*17。同様に、「公務員」とは機能上の概念であって、身分上の概念ではないとされる。すなわち上記公権力の行使にあたっている者であれば、公務員としての身分を有する必要はないとする*18。「職務の執行にあたり」とは、その外形が一般国民から見て職務行為であれば良いとする*19。「故意過失」とは当該行為者を基準とせず、公務員一般に要求される水準から客観的に決定されるとする*20。代位責任ではないから、加害公務員を特定する必要はなく、ある組織の責任と認められればそれで十分とされる*21。「違法」という場合も、特定の法律がある必要はなく、法秩序全体から見て判断される。ただし、単に違法であるだけでなく、「職務上通常尽くすべき注意義務を尽くすことなく漫然と」することが要件としている(職務行為基準説)*22。最後の点については学説的には批判が強いが、判例は確立している。以上の判例については、一般に行政法学者も支持している。その結果、かつては代位責任説が通説であったが、今日では、自己責任説が、通説の地位を得ているものと考えられる
*23。これらの判決を通じてみれば、これを自己責任説という観点からしか説明できないのは、明らかである。さらに重要なのが、本判決である。これを代位責任説から理解することは不可能と考える。いま、仮に
17条の本質として代位責任説をとったらどうなるかを考えてみよう。その場合には、本件判決のように、民法709条の賠償責任が公務員本人に成立することが明らかな事案では、715条よりも使用者としての責任を軽減する論理を引き出すことは困難である。したがって代位責任説の下では、郵便法は単純に違憲という結論が導かれなければおかしいのである。これに対して、国家賠償責任とは、国家が公務員に代位して責任を負うのではなく、国家自身として責任を負うべきだと考えるのが、自己責任説である。その場合、行為者たる公務員に不法行為責任が成立するかどうかは問題にはならない。
本判決で問題とするべき点は、その先にある。すなわち、自己責任を、どのような憲法理念に基づいて説明するか、という点である。
自己責任の根拠となる理論はいくつかある。
憲法学における代表的な見解は、例えば「国家活動には違法な加害行為を伴う危険が内在して」
*24いる点に、自己責任説の根拠を求める。これに限らず、従来の憲法のコンメンタールや国家賠償法の概説書では、自己責任の根拠を危険責任と説明しているものが多かった*25。危険責任というのは、典型的には民法
717条がそれである。発生させる危険の範囲において、その管理者は無過失責任を負うべきだと考える。この考え方は、結局、国家賠償責任の本質は、民事責任の一種だと考えていることになる。確かに、国家賠償法2条は明白にこの考え方に基づいている*26。憲法が、
17条の侵すことのできない中核概念を、危険責任で構築していると考えた場合には、その様な危険が明確に存在している活動に関して、国会が裁量的に賠償責任を全面的に免除するということは考えられない。そして、郵便事業は、本質的に遅配、誤配等により国民に損害を与える危険性を有する事業である以上、現行郵便法は、憲法17条を無視して、国会が恣に制度の中核を侵害したと評価するべきであるから、全面的に違憲となると解す他は、ないはずである。また、本判決は、担当する公務員に故意・重過失がある場合と軽過失の場合とで、前者についてだけ賠償責任を認め、後者については否定する、というような結論を導びいている。しかし、本質を無過失責任と考える場合には、故意・重過失と軽過失とで区分するという結論もまた違憲と評価されるべきであろう。したがって、少なくとも、危険責任説を、本判決が採用しなかったことは明らかといえる。
本判決の論理の背景にあるのは、従来から国家賠償法の領域では有力に主張され、今日では通説と言える「国家補償法」という考え方と考える
*27。すなわち、上記危険責任説も含め、従来の考え方は、17条の国家賠償は国による違法な侵害を問題にするのに対し、29条3項の損失補償は適法な侵害なので、両者は、適法と違法という全く別の法現象を取り上げていると考えていた。それに対し、ここにいう国家補償法とは、その両者を国家補償法という統一的な法体系として把握しようとする立場である。この考え方を最初にわが国で打ち出したのは、田中二郎であろう。
*28 「不法行為に基づく損害賠償の制度と適法行為に基づく損失補償の制度とは、従来、性質上、異なる制度と考えられ、かつ異なる制度として規定されてきた。すなわち、前者は、近世の個人主義的思想を基底とし、個人的道義的責任主義を持って基礎原理として構成されたのに反し、後者は、従来、団体主義的思想を基底とし、社会的公平負担主義の実現を基礎理念として構成された。しかし、今日においては、少なくともその基礎理念において、かような意味での対立は認めがたい。むしろ両者を融合統一し、公平負担の見地から、被害者の損害填補に重点を置いて、問題を解決しようとする傾向にあるといえよう。」
ここにいう「公平負担の見地」とは、憲法
14条に基づく平等原則に他ならない。すなわち、国家賠償法と損失補償法は、憲法14条という理念によって統合できるという主張なのである。しかし、この場合、行政法の概説書であるため、なぜ突如としてそこに14条が出現するのかの説明が欠落している。その点を、私が、憲法学的に補完すると、次のようにいえると考える。
旧憲法が前提とする天皇主権国家において国家賠償を考える時には、一般国民から見て、天皇は、民事法における不法行為者の雇用者と同じく、第三者的立場の存在であった。したがって、民事法の論理に従い、代位責任と構成することは十分に可能であった。
しかし、現行憲法では、国家の主権者が天皇から国民に代わっている。その結果、国民が国家に対して損害賠償を求める、という場合、その賠償を求める相手である国家とは、実際には我々国民の総体である。賠償金の原資は、我々国民の拠出した税金である。したがって、国家賠償責任とは、マクロに見るときには、意味を持たない。俗な言い方をすれば、同一人の右のポケットから左のポケットにお金を動かした程度の意味しかない。ここに、アメリカのような、民主主義国家として誕生した国であっても、国家無答責の原則を長らく採用していた本質的な理由を見いだすことができる。
意味を持たない、ということを、少し具体的な事例を利用して説明すれば、次のような場合を考えることができよう。今、仮に国の管理する原子炉が暴走し、全国土に放射能を帯びた塵がまき散らされた結果、全国民が等しく
1000万円の損害を受けたと仮定しよう。この場合、そのような膨大な賠償資金は国にはないから、その原資を得るためには、全国民から平均1000万円の臨時課税を行う必要が生ずるはずである。しかし、1000万円を徴収して、1000万円を交付することは、全く無意味である。したがって、少なくともすべての国民が被害者になるような場合には、どれほど深刻な被害が発生しようとも、国家賠償の必要は生じないと考えた方がよい*29。そうした無意味な国家賠償の成立を否定する論理として、
29条3項の損失補償と共通する論理を求めるならば、国民相互間の公平負担の原則ということがいわれる*30。損失補償の場合には、あらゆる適法侵害について補償を認めるのではなく、特別犠牲の場合に限定して考える。換言すれば、国民総てが負担するべき損失を特定人が被る時、それを国民総ての負担で救済しようということである。次の文章は、損失補償に関し、特別犠牲の理念を説明するものであるが、国家補償法という考え方からすれば、当然に国家賠償の場合にも妥当するはずである。
*31 「公益上必要な事業はそれによって利益を受ける社会の全員の負担において営まれるべきであることは平等の理想の要求するところであるが、しかるに実際においては、例えば事業のために特定の土地を必要とする場合に社会の全員の負担においてその需要を充たすと言うことは事実上不可能であり、しかも事業は公益上経営を必要とするものであるために、やむを得ず、その土地の権利者に一切の負担を負わせ、その犠牲において事業の需要を充たす」ことにならざるを得ない。この結果、「平等の理想は破られるので、この破られた平等の理想を元に復し、特定の一人に帰した負担を全員の負担に転化し、一旦失われた平等の理想を再び回復することがその目的とするところである」
これを明確に体系化したのは、今村成和である。今村成和は、自己責任と考える根拠として、一方において上述した危険責任という考え方も採用しているが(国家賠償法
2条があるから、それは正しい。)、それと並んで社会保険という考え方を示す。すなわち、*32 「個人責任の場合には、結局においては、社会保険(危険の分散と社会化)との間に、両者の同視を許さない本質的な相違が存在するのに対し、国家責任の場合においては、責任の主体が国家(社会)であるということにより、それ自体の中に社会保険的効果を見出し得るということである」
以下、このように、国家賠償責任とは、社会保険のような制度だと考える説を、社会保険説と呼ぶことにしよう。社会保険説を採る場合には、そこに立法裁量の余地を認めることが可能になる。すなわち、損害が発生した場合に、それをしっかりと賠償する代わりにその保険費用相当額を国民全体で負担する法制度を導入するか、あるいは費用を必要最小限に抑える代わりに損害賠償をしないとする法制度とするか、という立法裁量である。
以上のように、自己責任説の本質として、社会保険説を考えた場合、本判決における次の一文の意味がはじめて理解できるはずである。
「公務員の不法行為による国又は公共団体の損害賠償責任を免除し,又は制限する法律の規定が同条に適合するものとして是認されるものであるかどうかは,当該行為の態様,これによって侵害される法的利益の種類及び侵害の程度,免責又は責任制限の範囲及び程度等に応じ,当該規定の目的の正当性並びにその目的達成の手段として免責又は責任制限を認めることの合理性及び必要性を総合的に考慮して判断すべきである。」
特定人に、避けることのできない、きわめて深刻な被害を与える場合には、たとえ国民全体の負担が増加しても国家賠償責任を免除し、あるいは制限することは許されない。しかし、一定の危険性があり、したがってその危険を甘受できない場合には利用しないことも可能である場合に、そのことを明らかにした上で、国民全体の負担を低額に押さえるという立法裁量は、国民国家において、個人の尊重と全体の負担の軽減という比較考量の中で、肯定されて良いはずである。この論理を、本問の郵政事業に適用して、判決は次のように論じている。
1条),法68条,73条が規定する免責又は責任制限もこの目的を達成するために設けられたものであると解される。すなわち,郵便官署は,限られた人員と費用の制約の中で,日々大量に取り扱う郵便物を,送達距離の長短,交通手段の地域差にかかわらず,円滑迅速に,しかも,なるべく安い料金で,あまねく,公平に処理することが要請されているのである。仮に,その処理の過程で郵便物に生じ得る事故について,すべて民法や国家賠償法の定める原則に従って損害賠償をしなければならないとすれば,それによる金銭負担が多額となる可能性があるだけでなく,千差万別の事故態様,損害について,損害が生じたと主張する者らに個々に対応し,債務不履行又は不法行為に該当する事実や損害額を確定するために,多くの労力と費用を要することにもなるから,その結果,料金の値上げにつながり,上記目的の達成が害されるおそれがある。」 「(郵便)法は,『郵便の役務をなるべく安い料金で,あまねく,公平に提供することによって,公共の福祉を増進すること』を目的として制定されたものであり(法
補足して説明すると、この議論の背景になっているのは、郵便法
3条である。3条は次のように述べている。「郵便に関する料金は、郵便事業の能率的な経営の下における適正な費用を償い、その健全な運営を図ることができるに足りる収入を確保するものでなければならない。」
換言すれば、独立採算ということである。この当時は郵政事業特別会計、現在であれば郵政公社の枠内で、独立採算とされているのである。その結果、国家賠償を幅広く認めれば、その分だけ郵便料金が上がるという構造を持つことを判決は説明しているのである。
先に紹介した多くの判例は、基本として自己責任説を採っていることは明らかであったが、さらに進んで、いかなる根拠から自己責任説を採っているかは、明確ではなかったと考える。以上の理解によれば、本判決で、最高裁判所は、自己責任説、就中社会保険説を採用したことを明確にした点に、最大の意義があることになる。
判決を支持したい。
本判決には、憲法学から見た場合、極めて大きな論点が今ひとつある。違憲審査基準論である。書留郵便物について次のように述べる。
1条に定める目的を達成することができないとは到底考えられず,郵便業務従事者の故意又は重大な過失による不法行為についてまで免責又は責任制限を認める規定に合理性があるとは認め難い。」 「書留郵便物について,郵便業務従事者の故意又は重大な過失による不法行為に基づき損害が生ずるようなことは,通常の職務規範に従って業務執行がされている限り,ごく例外的な場合にとどまるはずであって,このような事態は,書留の制度に対する信頼を著しく損なうものといわなければならない。そうすると,このような例外的な場合にまで国の損害賠償責任を免除し,又は制限しなければ法
ここでは、厳格な審査基準における二つの要件のうち、第二の目的と手段の関連性という要件で、故意・重過失の場合にまで賠償責任の免除・制限を肯定する、やむにやまれぬ利益を促進するに必要不可欠と見るほどの合理的根拠はない、と述べたのである。したがって、厳格な審査基準を採用していると読むことができる。
しかし、なぜ本判決の事例で厳格な審査基準を使用するのが妥当かについて全く述べていない。この点については、ここでは問題の指摘にとどめ、その詳細は、別の機会に論じたい。
郵便法違憲最高裁判所平成14年9月11日大法廷判決については、最高裁判所民事判例集56巻7号1439頁=LEX-DB 28072380参照 国家賠償法1条1項が「公権力の行使に当たる公務員」という表現をとっているところから、同条が権力的作用に基づく場合をコントロールしており、非権力作用については民法その他の特別法に委ねているとする記述をしている例は多い(例えば辻村みよ子『憲法』第2版日本評論社315頁、長谷部恭男『憲法』第3版新世社310頁、長尾一紘『日本国憲法』第3版世界思想社285頁等)。しかし、判例は、「公権力の行使」という言葉を、国の純然たる私経済活動(民法709条でカバーされる)と公の営造物の設置管理作用(本法2条でカバーされる)は除外されるものの、非権力作用をも含めてすべての国の活動を意味するものとする解釈をとっていると考えられる。すなわち、最高裁には、直接このことを明言している判例はないが、「国家賠償法一条一項にいう『公権力の行使』には、公立学校における教師の教育活動も含まれるものと解するのが相当」とする(最高裁昭和62年2月6日判決)という判決は、こうした前提をぬきにしては理解できない。同じく、職員の健康を守るための定期健康診断も公権力に該当するものとされている(最高裁昭和57年4月1日)のも、このような理解によるものである。また、下級審ではこれを明言しているものが多数ある。こうした判例を批判する意図を持っての記述なら、そうと明言すべきであるし、そうでないならば、本文に述べたとおり、有害な記述という他はない。 本判決に関する判例評釈を承知する限りで紹介すると、次のとおりである。
司法記者の眼・ジュリスト1233号37頁2002年11月1日 安西文雄・判例セレクト2002〔月刊法学教室270別冊付録〕3頁 井上典之・平成14年度重要判例解説〔ジュリスト臨時増刊1246〕19〜20頁 宇賀克也・判例評論537(判例時報1831)170〜175頁2003年11月1日 角田美穂子・法学セミナー48巻5号116頁2003年5月 牛嶋仁・法令解説資料総覧253号99〜97頁2003年2月 高佐智美・法学セミナー47巻12号115頁2002年12月 市川正人・月刊法学教室269号53〜58頁2003年2月 中村英樹・法政研究〔九州大学〕70巻1号235〜248頁2003年7月 田倉整・発明100巻3号78〜83頁2003年3月 飯田稔・法学新報〔中央大学〕110巻5・6号241〜265頁2003年10月 尾島明・ジュリスト1245号188〜191頁2003年6月1日 尾島明・最高裁 時の判例〔平成元年〜平成14年〕〔1〕――公法編〔憲法・行政法ほか〕〔ジュリスト増刊〕53〜56頁 尾島明・法曹時報57巻4号223〜265頁2005年4月 野坂泰司・月刊法学教室295号127〜134頁2005年4月
*4 大審院判例明治31年5月27日=大審院民事判決録4輯5巻91頁=LEX-DB 27825314参照
信玄公笠懸松事件=大審院大正8年3月3日=大審院民事判決録25輯356頁=LEX-DB 27522799参照。なお、この判例は、民法の教科書では信玄公旗立松事件と紹介されていることが多いが、原文は、ここに紹介したとおり、笠懸松である。 大審院大正5年6月1日=大審院民事判決録22輯1088頁=LEX-DB 27522197参照 大審院判例明治43年3月2日=大審院民事判決録16輯169頁 大審院昭和8年4月28日=大審院民事判例集12巻1025頁 大審院大正13年5月14日=法律新報5号9頁=LEX-DB 27539391 大審院昭和12年3月31日=大審院民事判例集16巻387頁=LEX-DB20000235 アメリカでは、1946年に、連邦不法行為請求権法(Federal Tort Claims Act=August 2, 1946, ch. 753, title IV, 60 Stat. 842, 28 U.S.C. § 1346(b) and 28 U.S.C. §§ 2671-2680)が制定され、連邦レベルで国家賠償が認められるようになった。但し、同法は、当該作為または不作為がなされた場所の法律で、私人が原告に対し責任を負うとされている場合に限り、連邦政府に責任を認めるものであるに過ぎない(28 U.S.C. § 1346(b))。さらに、連邦最高裁判所は、その適用範囲を軍関係の場合に限定的なものとしている(the Feres doctrine=340 U.S. 135.)など、効力の低いものとなっている。但し、1988年に同法が改正され、原則として合衆国を排他的被告とすることとされた。 17条の法的性格としては、プログラム規定説とするもの(例えば法学協会編『註解日本国憲法』有斐閣1953年刊、387頁)、抽象的権利とするもの(樋口他著『憲法T』青林書院・注解法律学全集1、1994年刊358頁=浦部法穂執筆部分)等に分かれている。憲法教科書で17条に言及する場合にも、この点に言及している例は多い。しかし、多くの論者は「憲法17条の具体化立法として国家賠償法が制定されている現在では、この議論の実益は乏しい」(戸波江二『憲法』新版、ぎょうせい343頁)という認識を有している。 抽象的権利の定義は、松井茂記『日本国憲法〔第2版〕』有斐閣2002年刊、294頁より引用。松井は引用した文章に続けて、次のように説明する。「それゆえその場合、立法を通じて具体化が図られなければならないが、それが権利である以上、議会は優先的にその具体化を図るべく、権利保持者は議会に対して立法化を要求する権利を有するのである。」
「予防接種を実施する医師としては、問診するにあたつて、接種対象者又はその保護者に対し、単に概括的、抽象的に接種対象者の接種直前における身体の健康状態についてその異常の有無を質問するだけでは足りず、禁忌者を識別するに足りるだけの具体的質問、すなわち実施規則
ここでは、各担当医師の注意能力のレベルなどは全く問題にされず、担当医師に客観的に課せられている水準を下回れば、過失があるとされていることになる。
東京都伊豆七島に属する新島を管轄する警視庁新島警察署から、東京都に対し、海上自衛隊に依頼して旧海軍の砲弾を掃海・撤去するよう求めた文書が、警視庁内で紛失したために、都庁に交付されず、その結果、掃海作業が行われない間に、砲弾が爆発して死傷者を出した事件に関し、最高裁昭和59年3月26日判決(最高裁判所民事判例集38巻5号475頁=LEX-DB27000022 )は次のように述べた。「新島警察署の警察官を含む警視庁の警察官は、〈中略〉単に島民等に対して砲弾類の危険性についての警告や砲弾類を発見した場合における届出の催告等の措置をとるだけでは足りず、更に進んで自ら又は他の機関に依頼して砲弾類を積極的に回収するなどの措置を講ずべき職務上の義務があつたものと解するのが相当であつて、前記警察官が、かかる措置をとらなかつたことは、その職務上の義務に違背し、違法であるといわなければならない。」
この場合、警視庁という組織体内部の何人が、責任を負うかは全く問題とされていない。
例えばいわゆる奈良民商事件において、最高裁平成5年3月11日判決(最高裁判所民事判例集47巻4号2863頁 =LEX-DB22005671 )は次のように述べた。「税務署長のする所得税の更正は、所得金額を過大に算定していたとしても、そのことから直ちに国家賠償法
宇賀克也『国家補償法』有斐閣法律学大系
1997年刊25頁これは、自己責任説を採るか、代位責任説を採るかは立法裁量の問題とする解釈が全訂として存在しているためと思われる。しかし、本稿に論じるとおり、責任の本質を、憲法の制度的保障における中核概念と考える場合には、どちらを採るかは、憲法解釈によって決まるのであって、立法裁量の問題ではないことになる。その様な立場から読めば、宇賀説もまた、自己責任説に数えられることになる。
本文の文章は、日本評論社『基本法コンメンタール憲法』(第4版)99頁より引用=菟原明執筆部分。 例えば、樋口陽一他著『憲法T』注解法律学全集1、青林書院1994年刊360頁(浦部法穂執筆部分)でも危険責任説からの説明を行っている。 例えば乾昭三は「本法を、1条だけでなく、2条を含めて総合的に眺めるとき、危険責任の傾向を看取することができるであろう。また、本法の責任を国家の自己責任と考え、公務員の主観的故意過失ではなく、公務運営における客観的瑕疵を要件とする見方は、このような社会法的なとらえ方に従っているといえよう。」と論じ、2条と総合することにより、1条の本質が危険責任になるという考え方を示す(注14紹介書389頁)。 国家賠償法と損失補償法を統一的に理解する国家補償法という考え方には、批判も決して少なくない。批判者の代表的なものとしては、藤田宙靖『行政法〈
1〉総論』第4版改訂版、青林書院2005年刊がある。
本文の文章は、田中二郎『新版行政法上』弘文堂1964年刊184頁より引用 大東川水害訴訟で、最高裁判所昭和59年1月26日判決(最高裁判所民事判例集38巻2号53頁=LEX-DB27000025) は、河川は、同種・同規模の河川の管理の一般的水準及び社会通念に照らして是認しうる安全性を備えていると認められるかどうかを基準とすべきであるとの見解を示した。自然公物の場合には、人工公物と違い、全て過渡的安全性を持つに過ぎないので、その様な場合に賠償責任を認めては、長い目で見れば、全国民が被害者となりうることが、この判決の論理の背景に存在していると考える。 同様の見解をとる近時の者として、例えば宇賀克也『国家補償法』有斐閣法律学大系1997年刊3頁 本文の文章は、柳瀬良幹『公用負担法』新版、有斐閣法律学全集14巻256頁より引用 本文の文章は、今村成和『国家補償法』有斐閣法律学全集9巻1957年刊、89頁より引用Note