政党概念と財政憲法

The Concept of Political Party and the Financial Constitution

甲斐素直

[はじめに]

一 問題の所在

(一) 政党概念の必要性について

(二) 実定法上の政党概念と本稿の用語法

二 政党の概念

(一) 政党に関するトリーペルの四段階説

(二) 政党概念の理念別分類

三 政党に対する規制と憲法

(一) 政党の憲法編入の持つ意義

(二) アメリカにおける政党規制

四 わが国現状における政党に対する規制

(一) わが国の学説・判例における政党

(二) わが国実定法における政党

五 国会中心財政主義と政党内民主主義

(一) 政党と財政民主主義

(二) 政党の媒介機関性と政党内民主主義

(三) 政党と政治団体の限界

[おわりに]

 

[はじめに]

 政党を、憲法学においてどのように把握するべきか、という問題は、古くて新しい問題である。例えば昭和三七年に憲法調査会が刊行した報告書では、政党の憲法編入に関する賛否両論が詳細に紹介されており、今日においても、基本的にその枠から出た議論はほとんど存在していない*1

 しかし、近時、この問題を特に検討する必要が高まってきた。それは、政治資金規正法や政党助成法などの一連の立法により、これが単なる学問的な課題ではなくなってきたことのためである。そのうち、前者は政党の財政的自由に対する規制という問題であるのに対し、後者は、莫大な国費による政党への財政的援助という問題であるから、いずれも財政憲法的視点からの検討を必要とする。特に憲法八九条をどう考えるか、という点と密接な結びつきが存在する。

 従来、政党に関する議論はもっぱら政治的自由権に関連する問題に向けられ、財政憲法の問題については、ほとんど検討されていなかったように思われる。しかし、政党関係立法は、このように基本的に財政問題なのであるから、財政憲法的視点が要求されることは必然のことと思われる。特に、政党助成法に認められている、国の財政監督を伴わない国費の支出は、私学補助ときわめて類似している。私学補助の場合にそのような国費補助が認められる理由は、私立学校というものの持つ、わが憲法上の特殊性に依拠していると考えられる。そうであれば、政党の場合にも、当然、政党概念、すなわち、わが憲法上いかなる存在であるのか、ということが、財政憲法の視点から検討される必要があるであろう。そして、それを受けて、憲法八九条との整合性が認められて、はじめて政党助成は許されると考えられることになる。

 以下、財政憲法の視点から、政党とは何か、換言すれば、いかなる政党に対して国費の支出は許されるのか、また、国費の支出を受けた政党には、現在の政治資金規正法によって加えられている規制に加えて、財政憲法上いかなる責務が発生するかを考えてみたい。

一 問題の所在

(一) 政党概念の必要性について

 政党概念をどう定義するか、という問題の意義について考えてみたい。なぜなら定義は、常にその目的と結びついて下されなければならないからである。

 政党に関して従来の憲法学において説かれたところによれば、わが国の場合、憲法二一条の結社の自由が政党の唯一の根拠なのであるから、凡そ政治的に影響を与える意図のあるすべての結社(政治結社)を念頭に置いて考えるべきだとされてきた。例えば戸波江二は、政党について次のように定義する。

「政党とは共通の政治的意見を持つ人々が、その意見を実現するために組織する政治団体である」*2

 これは政党を二一条の政治結社と解する限り、妥当な定義といえるであろう(以下「二一条説」という)。

 しかし、この二一条の政治結社について、憲法学上、わざわざ「政党」として取り上げて、一般の結社と区別して論ずる実益はほとんどないといわなければならない。なぜなら、この定義でいう「政党」は、政治的理念を中心としているという以外の点では、一般の結社と異なる点はなく、したがって結社一般に関して認められる法理をそのまま適用することができるからである。

 憲法学で、他の結社と区別して政党を論ずるべき必要性は、一般の結社に関する法理では説明できない特殊性を持つ場合にはじめて生じてくる。本稿の関係でいえば、上述の政治結社一般に対して、財政活動を法的に規制することは憲法二一条に違反し、また、国費を支出することは憲法八九条に違反するので、いずれも許されないと解するべきであることは、自明であろう。

 そもそも、一般社会において政党という用語を使用する場合には、二一条説のいうように広い意味で使うことはまずなく、通常は議会制民主主義を前提として、議会を基盤として活動している政治結社に限定される。その意味でも、上述の定義は過度に広汎なものということができる。

 現実に、政治資金規正法や政党助成法等一連の政党関連の立法では、詳しくは次項に述べるが、ほぼ共通の政党概念を使用している。そして、それは、上記社会常識的な政党概念、すなわち、議会制民主主義を前提に議会を基盤とする政治結社に限定して政党と呼んでいると解することができる。したがって今日の憲法学に要請されるのは、第一に、このような実定法上の政党と、二一条に基づく政治結社との間における憲法学的相違点を明確にすることである。そして、第二に、そのような理論的な相違が、現行の実定法における区別的取扱い、すなわち財政規制と国庫補助を、合理性を持つものとして肯定できるか否かを明らかにするものでなければならない。

 その点からすれば、二一条説に準拠した政党概念とは区分した、社会常識=実定法上の政党概念を憲法学的に確立しない限り、政党概念に関する定義としては役に立たない、と批判されなければならないのである。

(二) 実定法上の政党概念と本稿の用語法

 政治資金規正法は、政治団体という言葉と政党という言葉を区別して使用している。すなわち、政治資金規制法三条は、政治団体を定義して次のようにいう。

「@ 政治上の主義もしくは施策を推進し、支持し、またはこれに反対することを本来の目的とする団体

A 特定の公職の候補者を推薦し、支持し、またはこれに反対することを本来の目的とする団体

B 前二号に掲げるものの他、次に掲げる活動をその主たる目的として組織的かつ継続的に行う団体

 イ 政治上の主義もしくは施策を推進し、支持し、またはこれに反対すること。

 ロ 特定の公職の候補者を推薦し、支持し、またはこれに反対すること。」

 この定義が、ほぼ二一条説にいう政党の概念に関する定義と整合性を有することはあきらかである。ただ、この法律は外形から規制することを目的としているから、先に例示した二一条説の定義にある「共通の政治的意見を持つ人々」という主観的要件が欠落し、また「その意見を実現するため」という抽象的な表現を、意見実現の具体的な方法である「推進し、支持し、またはこれに反対する」というような表現に置き換えているに過ぎない。

 これに対して、政治資金規正法四条は政党を定義して、上記政治団体のうち、次に該当するものをいうとして、絞り込みをかける。

「@ 当該政治団体に属する衆議院議員または参議院議員を五人以上有するもの

A 直近において行われた衆議院議員の総選挙における小選挙区選出議員の選挙若しくは比例代表選出議員の選挙または直近において行われた参議院議員の通常選挙若しくは当該参議院議員の通常選挙の直近において行われた参議院議員の通常選挙における比例代表選出議員の選挙若しくは選挙区選出議員の選挙における当該団体の得票総数が当該選挙における有効投票の総数の一〇〇分の二以上であるもの」

 このような概念区別を前提に、政治資金規正法では、政党をもっぱら規制の対象とする。政治団体については、租税特別措置法上の優遇措置などを別とすれば、原則として規制は加えられていない。

 政党助成法二条は、政党の定義として、若干表現は変わるが、この政治資金規正法の規定を基本的に承継している。

 公職選挙法では、比例代表制の母胎として、「政党その他の政治団体」を予定している。その概念は、衆院選、参院選あるいはその選挙区制のあり方ごとに違う定義となっていて、かなり複雑である。例えば同法八六条の三第一項は、次のいずれかの要件を満たすものを政党その他の政治団体と規定する。

  • 「一 当該政党その他の政治団体に所属する衆議院議員または参議院議員を五人以上有すること

  • 二 直近において行われた衆議院議員の総選挙における小選挙区選出議員の選挙もしくは比例代表選出議員尾選挙または参議院議員の通常選挙における比例代表選出議員の選挙若しくは選挙区選出議員の選挙における当該政党その他の政治団体の得票総数が当該選挙における有効投票の総数の一〇〇分の二以上であること

  • 三 当該参議院議員の選挙において候補者(この項の規定による届け出をすることにより候補者となる参議院名簿登録者を含む。)を十人以上有すること」

  •  最初にあげた政治資金規正法や政党助成法と比べると、この三号が加わっている点が大きな相違点となる。そして、当選人の数も、この政党その他の政治団体の得票数を基礎に決定される(九五条の二)。すなわち、一定数以上の立候補者を立てている政治団体も、ここでは政党に準ずる存在として、実質的に政党概念に加えているのである。

     要するに、現に国会である程度の勢力を持っているか、少なくとも国政選挙で、選挙区や投票の方法で恵まれれば国会に勢力を持ちうる可能性を持っているものだけを、これらの立法では実質的に政党と定めているということが判る。

     すなわち、前に、社会常識的には、政党概念を「議会制民主主義を前提として、議会を基盤として活動する政治結社」と述べたが、これら実定法はそれを、具体的メルクマール及び数値に置き換え、それを充足するものだけを「政党」と呼んでいるのである。これらのメルクマール及び数値が政党概念を決定するに必要にして十分なものか、という点については議論の余地がある*3。しかし、このような何らかのメルクマールで、広義の政治団体と政党を区分する必要があることは確かである。

     以下、本稿においては、憲法二一条にいう政治結社(先に挙げた二一条説に該当する団体)のうち、議会制民主主義を前提として、議会を基盤として活動する(ないし活動しようとする)政治結社を「政党」と呼ぶこととする。また、政治資金規正法等の用語法とは若干ずれるが、政治結社から政党を除外したものを「政治団体」と呼ぶこととする。

     すなわち、憲法二一条にいう結社の自由は、基本的には、個々人が有している政治的表現の自由を、集団的に行使する自由を意味する。政党が、国会議員ないし議員となろうとしている者という公的地位を有する者を中心に活動を展開するという点において公的性格を有しているのに対して、政治団体は私人の国家からの自由の集団的行使形態であり、議員を含まないという点で私的性格を有しているというところに、政党と政治団体には基本的な性格の差違が存在するのである。

     政党は、現行実定法上、その公的性格の故に、政治団体に比べて遙かに広範な規制を受ける反面、政治団体には認められない公的な様々な特権を与えられることとされている。この規制と特権が憲法上許容されるものであるか否かが、憲法学上、政党という概念を確定することにより論じなければならない問題なのである。

    二 政党の概念

    (一) 政党に関するトリーペルの四段階説

     古典的な国民主権原理に基づく議会観によれば、議会とは国民の一般意思を表す組織体であった。しかし、制限選挙が廃止され、普通選挙が実施されるようになることにより、議員は「全体の奉仕者であって、一部党派の代表者ではない(ワイマール憲法一三〇条一項)」という理念に反して、その選出母胎である選挙区の特殊利益の代表者としての地位を占めるようになる。その結果、議会には、その選挙の時点における国民の間の利害対立の図式がそのまま持ち込まれるようになってくる。それに伴い、議会は、国民全体の利益を図る場というよりも、社会における利害対立を、国民全体の利益の実現という観点から調整する場であると観念されるようになる。

     議会が利害調整の場ということになると、それに先行して、国民個々の持つ利害を明確、かつ集中的に議会に反映させることが必然となる。それには様々な方法がありうるが、その機能をもっともよく果たしうるものとして、現実の歴史において発達したのが政党であった。

     トリーペル(H.Triepel)は、このような議会と政党の歴史的関係を整理して、政党に対して国法は、@ 敵視(Bekampfung)、A 無視(Ignorierung)、B 承認及び合法化(Anerkennung und Legalisierung)、という段階を経て、最終的には C 憲法編入(verfassungsmassige Inkorporation)という段階にいたるという説を唱えた。ここで言われていることは一つの理念型であり、すべての国家がこのような段階を通るということではないが、それが憲法と政党の関係のすぐれた分類であることは確かである。

     このトリーペルの四段階説の詳細な内容については、広く知られていることなので、ここでは紹介しない*4。しかし、そこで四段階に分けて問題にされている基本的な認識こそが、現代日本で政党規制をめぐって論じられる中心論点を端的に示したものである、という点を指摘したい。すなわち、トリーペルが問題にした政党とは、まさに本稿で政党と呼んでいるもののことであって、政治団体は含まれていない、という点である。

     政治団体については、議会との関係を考える余地はないから、このことは当然のことである。しかし、多くの憲法教科書は、政党を二一条の結社の一種として位置づけておきながら、ただちにその政党と結びつける形でトリーペルの四段階説に言及している。これでは、政治団体までが、四段階説で説明可能な存在であるという印象を与える、という点で、誤り、あるいは少なくとも極めてミスリーディングな説明の仕方であると考える。

     また、わが国最高裁判所の八幡製鉄政治献金事件の判決における、次のような表現も問題視すべきであろう。

    「憲法は政党について規定するところがなく、これに特別の地位を与えてはいないのであるが、憲法の定める議会制民主主義は政党を無視しては到底その円滑な運用を期待することはできないのであるから、憲法は、政党の存在を当然に予定しているものというべきであり、政党は議会制民主主義を支える不可欠の要素なのである。」*5

     しかし、上述のトリーペルの四段階説に照らす限り、これは、明白な誤りという他はない。議会制民主主義は、その初期には敵視により政党の活動を抑制していたのであり、それが現実にそぐわなくなってくると、無視、すなわち結社の自由に政党の結成が含まれることが肯定され、現実の議会内活動は制約されなくなってくる。しかし、それ以上進んで、政党の存在を法的に是認するところまでは直ちに達しないのである。樋口陽一は、この点について次のように説明する。

    「憲法がかように政党を無視してきたのは、権威主義的思考からいっても自由主義的思考からいっても、政党がそれらになじまないものと目されたからである。権威主義的見方からするなら、政党は『全体』に対する部分利益を主張する撹乱的要因としてしか見られなかったし、自由主義的見方からしても、それは、自由な討論による相互説得による議会意思の形成を阻害するものに他ならないとされたのである。」*6

     したがって、政党の憲法的な是認は、少なくとも、第三段階の承認及び合法化のレベルに達するまでは考えることができない。すなわち、政治団体の結成が一般的に憲法二一条により保障されているのに対して、政党は、近代議会制民主主義の歴史からすれば、敵視ないし無視されてきたものであるから、この判例のいうように、単純に議会制民主主義を根拠に憲法上予定されていた、と言い切ることはできないのである*7。これも二一条説に依るところの政党概念の問題性を示していると言える。

    (二) 政党概念の理念別分類

     ドイツ憲法などでは、明確に政党を憲法編入しているが、その場合、憲法的規制の対象になるのは、したがって政党であって、政治団体ではない。この政党が、政治団体と異なるどのような性格を有するかについて、以下、ドイツにおける学説を参考にしつつ、わが国において考えられる説を、理念型に分けて整理してみよう*8

      1 社会的団体説

     これは、政党という用語を二一条説にいう政党として理解し、本稿にいう政党と政治団体の区別を認めない見解ということができるであろう。

     すなわち、政党の持つ本来的な地位は、結社の自由に基づく団体としての政党であって、ここでは個人の自由権の延長線上で理解されることになる。この立場では、政党がその根を社会においていること、利益集約的機能や提起機能を果たすこと等が重視され、一つの任意的非営利集団、すなわち社会団体であるとされる。

     この面を強調する場合には、政党に対する国家からの干渉は可及的に制限されねばならないから、政党に保障されるべき設立の自由、活動の自由、内部統制の自由、解散の自由等が強調されることになる。わが国で、憲法二一条説に基づいて政党を説明する論者の場合には、基本的にこの説を採るはずと思われる*9

     社会団体説による限り、国家として政党に干渉することは許されないから、例えばその政治資金を規正することはもちろん許されないが、それと同時に「公の支配に属しない団体」に公金を支出する事は許されない(憲法八九条)から、政党に対する国家補助もまた論外と理解するべきであろう。

      2 公的性質説

     これに対して、政党と政治団体との異質性を強調し、政党について、憲法上の特権的地位とそれに伴う特殊な制約を肯定しようと考える場合には、その政治団体との異質性の表れとして政党の公的性格が強調されることになる。公的性格の強度をどのように理解するかにより、次の二つの説に分類することができる。

      (1) 国家機関説

     憲法編入を要請するに至った政党の新しい地位は、政権担当能力という面に端的に現れてくるところの国家機関としての側面であるとして、この点を重視する見解である*10。この側面を重視する場合には、憲法典上の公的機関としての政党は、その根拠たる憲法秩序に適合されることが要請される。現行のドイツ基本法の下で、自由と民主主義の名により、自由=民主主義を否定する政党は存在してはならない、として、共産党や国家社会主義党(ネオナチ)を違憲=非合法化したのは、この国家機関としての性質に鑑みてのことと理解できるであろう。あるいは、イギリスでは、野党の組織する影の内閣(Shadow Cabinet)の閣僚に対しても国庫から報酬が支払われるが、これも政党の持つ国家機関としての機能を肯定すればこそ認められることといえよう。

     しかし、わが国のように、政党が憲法編入されておらず、また二大政党制が確立しているわけでもない段階で、憲法上の政党の地位として、このような説を唱えうるか否かは疑問のあるところといえよう。

      (2) 媒介機関説

     政党を媒介機関とする説は、上述の政党=国家機関説の持つ硬直性を排除しようとして工夫されたもので、この範疇に属するいくつかの学説があるが、いずれも、公と私のいずれかという画一的分類を排除し、その中間の独特の法領域にある団体として理解する。程度の差こそあれ、わが国での理解は一般にこの範疇に属する理解といって良いであろう*11

     この点に関する代表的な判例の見解として、八幡製鉄政治献金事件における東京高裁判決を見てみよう。

    「憲法の定める代議制民主制の下における議会主義政党(以下政党という。)は、代議制民主制の担い手として不可避的かつ不可欠の存在であつて、国民主権の理念の下に(一)公共的利益を目的とする政策、綱領を策定して、国民与論を指導、形成する(二)政治教育によつて国民の政治意識を高揚し、国民個人を政治社会たる国家の自覚ある構成員たらしめる(三)全体の奉仕者たる公職の候補者を推薦する(四)選挙により表明された民意に基いて政府を組織し、公約を実行する等の諸機能を営むことを本来の任務とし、まさに公共の利益に奉仕するものである。代議制民主政治の成否は、政党の右の任務達成如何にかかるといつても過言ではない。」*12

     この引用文一行目にある政党の定義が、本稿の政党の定義と同一のものであることは明らかであろう。その上で国家と国民を媒介する四つの機能を指摘しているのである。

     以上のことから結論的にいえば、憲法編入されていないわが国においては、政党の本質としては社会団体説か媒介機関説のいずれかが許容できるものと考える。

    三 政党に対する規制と憲法

    (一) 政党の憲法編入の持つ意義

     トリーペルの論文は一九二八年に書かれたから、執筆当時においてはまだ第四段階である政党の憲法編入という状態は、世界のどこでも発生しておらず、トリーペル自身、「其の存在及び性質に於いて現在は尚疑問の状態に在る」としていた*13。しかし、共産党及びファシストやナチスという政党の出現によって引き起こされた第二次大戦という苦い経験から、その後に制定された各国の憲法においては、政党そのものを憲法的に規定するようになっていく。特にナチズムの嵐の吹き荒れた欧州で、その傾向は顕著である。

     それら政党の憲法編入を行っている世界各国の憲法を見ると、その定め方には二つのタイプがある。一つは、国家の統治機構の一環として政党を定めるものである。今一つは、国民の政治的基本権の一環として定めるものである。

      1 ドイツ基本法

     ナチスの暴威に苦しみ、それを克服するため、戦う民主主義という基調を打ち出したことで有名なドイツ基本法は、結社の自由を保障する規定(九条)とは別に、政党を、連邦及び州の章に次のように規定する。

    「二一条@ 政党は国民の政治的意思形成に協力する。政党の結成は自由である。政党の内部秩序は、民主制の諸原則に合致していなければならない。政党は、その資金の出所及び用途について、並びにその財産について、公的に報告しなければならない。

     A 政党のうちで、その目的又はその党員の行動からして、自由で民主的な基本秩序を侵害若しくは除去し、又はドイツ連邦共和国の存立を危うくすることを目指すものは、違憲である。その違憲の問題については、連邦憲法裁判所がこれを決定する。*14

     ここで特に注目したいのが、内部秩序における民主制の要求である。

      2 フランス第五共和制憲法

     そのナチスと戦ったフランス憲法は、ドイツ基本法ほど強い形ではないが、やはり主権の章に、政党に関する規定をおいている。

    「第四条 政党及び政治団体は、選挙による意思表明に協力する。政党及び政治団体は自由に結成され、その活動を行う。政党及び政治団体は、国民主権と民主主義の原則を尊重しなければならない。」

      3 イタリア憲法

     イタリアは、これに対して、人権の一環として政党に関する定めを置く国の代表的なものである。すなわち人権の章に政党に関する規定をおく。

    「第四九条 すべての政党は、民主的な方法により国政に参与するために、自由に政党を結成する権利を有する。」

     ただし、同憲法では結社の自由はこれと別に保障されている。そこでは政党とは別に結社の概念を定めている。

    「第一八条@ 市民は、刑法により個人に禁止されていない目的のために、許可を得ることなく、自由に結社する権利を有する。

     A 秘密結社、及び軍事的性格の組織により直接・間接に政治目的を追求する結社は禁止される。」

     この第二項が、ファシストを念頭に置いた禁止規定であることはいうまでもない。

      4 韓国一九八七年憲法

     アジアに目を転ずれば、隣国の韓国は、政党に関する統治機構型の憲法規定を持つ国の一つである。すなわち総綱の章に、次の規定がある。

    「第八条@ 政党の設立は自由であり、複数政党制は保障される。

     A 政党は、その目的、組織及び活動が民主的であるべきであり、国民の、政治的意思形成に参与するのに必要な組織を有さなければならない。

     B 政党は、法律の定めるところにより国家の保護を受け、国家は法律の定めるところによって、政党運営に必要な資金を補助することができる。

     C 政党の目的及び活動が、民主的基本秩序に違背する場合には、政府は、憲法裁判所にその解散を提訴することができる。政党は、憲法裁判所の審判によって解散される。」

     この第一項後段が、社会主義国家、特に北朝鮮における共産党の一党独裁の問題に対する批判から、新たに政党に関して登場するようになった規定であることは明らかであろう。その後、東欧社会主義圏の崩壊に伴う憲法改正に一様に採用されるようになった複数主義(プルーラリズム)の先駆けというべき規定である。憲法レベルで政党に対する資金助成が明確に定められている、という点でも、この憲法は極めて現代的である。

      5 憲法編入の総括

     以上に見たとおり、政党を憲法編入する意義は、統治機構に定める場合にはもちろん、人権として定める場合にも政党そのものを規制することにあることは明らかである。このことは、冒頭に言及したわが国のかつての憲法調査会報告でも明確に認識されていた。例えば政党の憲法編入を肯定する次のような意見が紹介されている。

    「政党の性格や行動いかんが民主政治の成否を決する鍵であるから、政党を完全に放任することは民主国家として許されない。特に暴力主義的・反民主主義的政党の存在を許すことはできない。ここにジレンマがあるのであるが、憲法に、少なくとも政党の正しいあり方の基本を明示して、政党に対する国民の批判と監視を合わせて、政党の自戒を促すことはもっとも妥当な措置であると思う。」*15

     同時に、この政党への干渉要求が、政党の憲法編入に対する批判として台頭してくることになる。例えば、この憲法調査会報告を批判して、芦部信喜は、憲法編入の典型例であるボン基本法を例に次のようにいわれる。

    「この戦闘力ある民主主義は、現実に多くの面で濫用されている疑いがきわめて濃い。この理由の一つは、ボン基本法にいう『憲法的秩序』『自由な民主主義的基本秩序』『民主的原則』等の表現が広汎な内容をもつ(BVerGE2.1)いわば不確定概念であって、具体的に何を意味するかは必ずしも明白でないこと、したがって民主主義または法治主義の名において『不可侵の、かつ譲渡し得ない人権』(基本法一条二項)に不当な制限が加えられる危険性は不可避であることに、求めることができる。〈中略〉私は、ここに憲法調査会における政党規定新設論の最大の論点があると思う。」*16

     確かに、憲法編入の目的である政党における民主制を確保するには、国家機関による政党の内部自律に介入することが必要である以上、そうした国家機関の判断次第では、政党活動全体の国家統制となることが考えられる。

    (二) アメリカにおける政党規制

     わが国現行憲法は、アメリカ法の強い影響下に制定されたものであることが知られているが、そのアメリカ憲法には、政党に対する規定は現在も全くない。そして、結社の自由に関しても明確な文言的保障は存在していなかった。

     しかし、一九世紀末期以来、政党に対して強い法的規制が行われるようになっている。当時、政党幹部の政治腐敗や不当なボス支配が進行したことを受けて、旧弊な体制打破のため、全国的に革新主義と呼ばれる運動が起こり、政党内部の意思決定に直接民主制的手法を導入すること、すなわち、各種公職の候補者の指名方法として党大会による指名に代わって、公職候補者を直接党員が選挙で決めるという直接予備選挙(direct primary)制度を普及させていった。そして、それに対するボスの抵抗を排除するため、法律によって予備選挙を導入するというやり方が採られるようになった。当時それが可能であったのは、結社の自由が憲法上の権利として確立していなかったということが決定的であった、といわれている。

     こうした政党レベルにおける予備選挙の公的統制の結果、黒人が州における予備選挙から排除された事件において、連邦最高裁は修正一五条(黒人の選挙権制限の禁止)違反とした。すなわち、予備選挙における勝者が党の候補者として一般選挙の投票用紙に印刷されるというシステムにより、予備選挙が候補者間の選択手続き(選挙)の「不可欠の部分」になっているという点が根拠となった。この判決において、政党は単なる自発的結社=私的団体ではもはやなく、予備選挙は公的選挙の一部であるという見解が打ち出されたのであった。*17

     このアメリカの場合を見る限り、芦部信喜の強い危惧にもかかわらず、政党に対する政党内民主主義の要請は、憲法編入の有無を問わず、政党政治が一定の発達を見せると、そこに肯定されるようになってくることが判る。

    四 わが国現状における政党に対する規制

    (一) わが国の学説・判例における政党

     わが国憲法は、明確に結社の自由を保障するとともに、そこにおいても積極的に政党に論及することはない。これは、わが国が戦前において真の意味で政党国家であった経験がなく、自らの意思で政党規定を欲せず、また、現行憲法の制定に大きな影響を与えたアメリカ法においても、上記のように、政党に対する憲法規制を持たなかったことが反映しているものと考えられる。

     このことだけから考えれば、わが国は、トリーペルの四段階説でいうところの第二段階である無視段階と理解することができる。そのことは、議員に関して、全体の奉仕者性(一五条・四三条一項)及び討論及び表決における無答責が強調される(五一条)点に端的に現れる。この点からすれば、政党が議員の表決を党議で拘束し、党の決定と異なる投票をした場合には、党内で責任を追及することは、憲法の趣旨に反するということができる。

     他方、憲法が明確に採用している議院内閣制は、黙示的に政党制度を前提としているということができる。その意味で、現行憲法は、トリーペルの四段階説でいうところの第三段階である承認及び合法化という段階にあると評価することもできる。この側面を重視する場合には、党議に当然に拘束力を認めることができる。さもなければ、多数党の信任の下に存在する内閣は、安定的な施策を展開することは不可能だからである。すなわち、党議拘束性の肯定論は、議院内閣制から導くことができる。この点、結社の自由保障規定を明文で持たず、議院内閣制の代わりに大統領制を採るアメリカ憲法の下で、連邦裁判所が政党の民主主義的媒介機能を明確に認めているにもかかわらず、党議拘束性が肯定されていないことは、非常に示唆的である。

     このように同時に相矛盾する規定を有するため、そもそもわが国憲法が、政党を予定していたといえるか否かが一つの問題とならざるを得ない。

     従来、判例は政党を、二一条説に基づく政治結社として把握する傾向を示してきた。例えば、最高裁判所は、日本共産党対袴田里見事件において次のように述べた。

    「政党は、政治上の信条、意見等を共通にする者が任意に結成する政治結社であって、内部的には、通常、自律的規範を有し、その成員である党員に対して政治的忠誠を要求したり、一定の統制を施すなどの自治権能を有するものであり、国民がその政治的意思を国政に反映させ実現させるための最も有効な媒体であって、議会制民主主義を支える上においてきわめて重要な存在であるということができる。」*18

     この判決が採用している論理は、先に紹介した二一条説と、社会的団体説及び媒介機関説の奇妙な混合である。すなわち、一行目の定義自体は二一条説に立っており、それに続く前半の文章は社会的団体説に立ってその自律性を強調し、後半は一転して明確に媒介機関説を述べている。先に述べたとおり、この二つの学説は、政党の本質の把握において対立しているのであるから、このように一つの文章の中で無造作につなげて書くことは不当なものといわなければならない。判決そのものは、結論として共産党の内部自律を尊重し、司法権の行使を自制するとの結論を導いているから、結局、媒介機関説に対する言及はリップサービスにとどまり、全体としては社会的団体説を採用している、と結論を下すことができる。

     学説も同じような傾向を示していた。議員の全国民代表性に関する一五条、四三条一項、及び議員における討論・表決における議員の無答責を定めた五一条に関して、例えば佐藤幸治は次のように述べる。

    「(五一条等が)政党に対して防御的含みをもっていることは否定できない。議員は、選挙に際し所属政党の公約を支持することによって全国民を代表することを表明するのであるから、当選後その党の政策・方針と相容れない行動に出たときには、当該政党による除名という形で政治責任を追及される可能性は否定されない。が、所属政党の除名即議員としての資格喪失という法的帰結は、四三条一項や五一条からいって、憲法上許されないと解される(比例代表選出議員についても同様である)。これが近代議会制と政党国家現象との調和に関する日本国憲法の処方箋であるとみられる*19。」

     すなわち、党の自律性に対する尊重と党議拘束力の公的側面における否定に貫かれているから、政党をあくまでも私的団体としてのレベルにとどめ、議会における公的地位を認めようとはしないものと評価することができるであろう。

    (二) わが国実定法における政党

     これに対して、わが国の国会が展開している立法では、明確に媒介機関性を重視している。衆参両院選挙において比例代表制という政党を抜きにして考えることのできない選挙制度を導入し、あるいは政党財政に対して政治資金規正法等による拘束を導入し、他方、国庫補助等の制度を導入している。当然、上記のような学説を採る場合には、こうした立法は違憲と評価するべきことになるはずである。

     それに対して、世論はこうした一連の規制立法を手ぬるいと批判することはあり、また、政党助成法の規定を少数政党に対して不利すぎると批判することはあっても、真っ正面から否定することはあまりない。このような世論に、政党の性格に関する国民の法的確信が反映していると考えるならば、わが国の現実は、媒介機関説的に理解するべき段階に至っている、というべきであろう。憲法学説としては、この現実をどのように理論づけるかが問われていると言わなければならない。

     政党を分類して、公的性格、すなわち媒介機関性ないし国家機関的性格を有するものは、その公的性格の故に補助の対象になると考える。厳密にいうと、媒介機関的性格を理由とする場合には、補助を与えても良い、ということになり、国家機関的性格を理由にする場合には、その国家機関として負担している費用については、その実費を国家は補償する義務がある、という差違が生ずる。反面、媒介機関性を理由とする補助の使途に関しては、憲法忠誠の範囲内における財政監督権にとどまるのに対して、国家機関性を理由とする損失補償の場合には全面的な財政監督権が現れると考えるべきであろう。憲法忠誠の問題を中心に、次節で改めて論じたい。

    五 国会中心財政主義と政党内民主主義

    (一) 政党と財政民主主義

     憲法は、公の支配に服しない慈善・博愛・教育の事業を行っている団体(以下「公益団体」という)に対する公的資金の支出を禁じている(憲法八九条)。本条の解釈については、別に詳しく論じたことがあるので、ここでは結論のみを述べる*20

     八九条に関して、最大の問題は、公益団体に対する国費の支出を同条のみが禁じており、したがって同条に抵触しなければ、公益団体に対する国費の支出は自由に行うことができるという錯覚が広く存在していることである。しかし、わが国財政憲法の下で、公益団体に補助金等を支出するにあたっての最大の問題は、むしろ八三条にある。すなわち、憲法八三条は、国会財政主義を定めており、その結果、国のあらゆる支出は最終的には国会の財政管理下になければならない。この結果、国費から経常支出を受けた団体は、すべてその財政のすべてについて国の財政監督を受けなければならない。

     私立大学に関して、そのような強力な国の財政監督を行うことは、明らかに憲法二三条の保障する大学の自治に対する侵害である。八九条は、むしろこの八三条の例外規定として把握されねばならないと考える。すなわち、憲法八九条は、八三条の例外として、その団体が公の監督(と同条の「公の支配」という言葉を読み替える)に服している場合には、その使途に関する財政監督を行うことを免除している規定と理解するべきである。

     現行の政党助成法もまた、私立大学に対する補助と同様に、その財政に対する国の財政監督を排除している(同法三七条参照)。このような定めは、仮に政党が八九条所定の団体に該当しないと考える場合には、憲法八三条違反と解さなければならない。

     従来、わが国においては、私学補助の合憲性だけに問題意識を持ち、コンメンタール等においても、八九条における教育概念が詳細に論じられることはあっても、事前及び博愛についてはほとんど論じられてこなかった。しかし、本稿で取り上げている政党以外にも、近時、例えば国内、国外におけるNPOないしNGOと呼ばれる団体の活動はきわめて活発になりつつあり、これら組織を通じて多額の国費が使われるようになっている状況である。

     こうした、公益団体による活動について、八九条との関連で、かつて私は次のように論じたことがある。

    「およそ福祉主義ないし生存権的基本権の対象となる諸活動は、自由権の実質的確保を内容としているものであるから、福祉主義にしたがって国の介入を要求する前段階として、国の介入を許さない自由権の存在を想定することができる。そして、特に慈善や博愛の事業は、その団体が、活動の基調としている世界観、すなわち社会のあるべき姿に対する価値観の反映として実施されるものなのであるから、これに対応した自由権は、思想ないし信教の自由と密接な関係をもっていると考えることができる。すなわち、二重の基準の原則において、営業の自由など、経済権的自由権に類する、政策的制約の可能な権利と理解するべきではなく、内在的制約以外には国の干渉を禁ずる性格の自由と解すべきである。その意味において、大学の自治の場合と同じく、その具体的活動形態について国が全面的な干渉をすることは禁じられなければならない。すなわち、本条後半に掲げられた事業は、いずれも国がその活動内容に過度の支配を及ぼすことを禁じられている事業であるという意味で、共通の性格を有していると見ることができる。」*21

     このように八九条を理解した場合、媒介機関性を有する政党は、このうち、博愛の事業を行う団体に該当すると考えられる。なぜなら、政治団体と異なり、媒介機関性を有する政党は、特定の世界観の下にすべての国民のために活動する団体であるから、憲法一九条に準拠して理解することができるからである。したがって、八九条に列挙されている団体に該当し、適切な国民の監督下にあれば、政党助成金の個別の使途に関する財政監督に服する要はない、と解する。

     そこで問題となるのが、政党に対して、憲法八九条の要求する適切な監督とは何か、という点である。現行の政党助成法が提供している統制が、その一部であることは間違いない。しかし、それは、それが政党としての実質的要件を満たしていることを前提に、財政統制に関する形式的要件しか定めていない。しかし、それ以前に、政党法が存在すれば当然に定められるはずの、組織や運営に関する要件が存在し、それもここにいう監督手段として理解することができるはずである。それは、現行の民主主義憲法の下で、組織、運営にあたって、憲法秩序の下にあることの要請といえるはずである。

     それは結局、憲法忠誠と言い換えることができると考える。すなわち、憲法九九条は、天皇その他の公務員に憲法忠誠を要求しているが、媒介機関としての性格は、政党にもまた公務員に準ずるものとして憲法忠誠を要求していると考えることができるからである。憲法を誠実に遵守する団体に対してしか、公金を支出することは許されない、と表現してもよい。そして、憲法忠誠の具体的内容として、もっとも今日重要なのが、民主主義理念を政党内においても遵守すること、すなわち政党内民主主義である、と考える。このことは、先に紹介したとおり、ドイツや韓国の憲法では明文で要求しているところであり、また、アメリカにおける憲法刊行の要求しているところでもある。

    (二) 政党の媒介機関性と政党内民主主義

     政治団体、すなわち単なる私的団体であって、国民多数から見た場合、何らの公的役割、あるいは国家基幹的役割を果たしていないもの(二一条の保障する結社の自由を享有する純然たる私的団体)にあっては、私人の思想信条の自由の延長線上にある結社の自由と理解して、それに対する公的規制は極力排除されるべきである。したがって、その内部自律に国家が介入することは、自由権に対する侵害として許されない、という結論が導かれることになる。

     この場合、そのような国家による干渉を禁ずることから来る当然の結論として、そのような団体に対して公的資金を支出してはならない。

     これに対して、媒介機関として政党を考える場合には、その公的性格から、公的資金の支出は許される。しかし、その場合、主権者たる国民として、政党に憲法忠誠を要求しうる結果、具体的には、政党がその内部的にも民主主義の理念に照らし、健全に運営されていることを要求する権利がある。そうした団体に関して、結社の自由規制につながるという理由から、規制を否定することは、政党政治に本質的につきまとう不正・腐敗から民主主義を防ぐ重要な手段を自ら放棄するに他ならないというべきである。

     すなわち、今日の政党国家において、一般国民の有する選挙権は、実際にはどの政党を選ぶかの選択権に過ぎない。したがって、政党の内部における候補者選出過程が民主主義的に行われる保障が存在しなければ、選挙だけがいかに民主主義の理念に性格に則って行われようとも、為政者の選出にあたって民主主義的に行われていることにはならないからである。

     したがって政党のその媒介機関性を重視するならば、政党の内部意思形成にあたっも、当然に民主主義的要素が重視されることになる。少なくとも、そのような民主主義的な適正手続が政党内で保障されていない限り、公的資金による助成を行うことは許されない、と解する。

     日本新党繰り上げ当選事件において東京高裁は次のように述べた。

    「 政党によるその所属員の除名について、その政党の規則、綱領等の自治規範において、除名要件に該当する事実の事前告知、除名対象者からの意見聴取、反論又は反対証拠を提出する機会の付与等の民主的かつ公正な適正手続が定められておらず、かつ、除名がこのような手続に従わないでされた場合には、当該除名は公序良俗に反し無効であると解すべきである。前記の日本新党による被上告人の除名は、日本新党の自治規範である党則の規定に除名について民主的かつ公正な適正手続が定められておらず、かつ、民主的かつ公正な適正手続に従ってされたものではないと認められるから、無効である。したがって、これが有効であることを前提としてされた本件当選人決定は、その存立の基礎を失い、無効に帰するものというべきである。」*22

     ここでは、アメリカで、政党に対する公的規制の一環として、政党内民主主義を要請した姿勢と同一のものが顕著に認められる。すなわち、単なる社会団体ではなく、媒介機関と見ることを背景とした判決ということができる。

     これに対して、最高裁は次のように述べて政党内自律権を重視した。

    「法が名簿届出政党等による名簿登載者の除名について選挙長ないし選挙会の審査の対象を形式的な事項にとどめているのは、政党等の政治結社の内部的自律権をできるだけ尊重すべきものとしたことによるものであると解される。」*23

     これは、先に挙げた理念型でいえば、社会団体説のレベルの理解ということができるであろう。つまり、媒介機関と見るか、社会団体と見るかが結論の差を導いている。

    (三) 政党と政治団体の限界

     ここで問題となるのが、典型的な政治団体と政党との間には明確な差違があるが、それは極限的場合においては、両者は一致する、という点である。すなわち、現行の政治資金助成法や政党助成法が、政治団体との区別に使用しているメルクマールは、基本的に相対的なものに過ぎない。例えば、国政選挙における得票率を何%に設定しようとも、それにわずかに届かないために、政党と扱われない政治結社は必ず現れるのである。逆から言えば、その基準を超していようとも、その団体が必ず媒介機関性を有するという保障は存在しないことになる。

     さらに言えば、政党が憲法編入されていないわが憲法の下において、すべての政党に、憲法忠誠を要求することはできない。現行憲法下で言いうる最大のことは、公的資金の支出を受けたいならば、憲法に忠誠を誓う義務がある、というところまでであると考える。すなわち、政党内で民主主義的・適正手続の保障を行いたくないのであれば、政党助成を受けるべきではない。受けるのであれば、内部的にすべての面で、民主主義の理念に則った適正な手続を採るべきである。

     例えば日本新党事件であれば、問題となった比例代表議員として名簿に登載されていた党員の除名は、国民の日本新党に対する投票行動の基礎に対する強い影響を有する以上、民主主義的手続により行われることが当然要求されるのであって、党首の個人的意思を優越させることは許されない、というべきである。同様に、党首の選出は、政権の獲得を党の目標としているような政党にあっては、同様に民主主義的手続が要請されるというべきである。

     これに違反した場合には、憲法忠誠から、憲法規定は政党に直接に適用されるのであって、民法九〇条を経由する必要はない、と考える。

     仮にそのような監督を受けたくないのであれば、共産党がとっているように、助成を拒否すべきであって、助成を受けながら国家による監督だけを拒否するのは、憲法八三条違反と考える。このように、助成を受けるか受けないかの選択権は、同時に憲法忠誠に基づく党内民主主義を受け入れるか否かの選択をも含むと関することが、政党と政治団体の境界の曖昧さを解決する有効な手段といえるであろう。

    [おわりに]

     私がこの問題を考えるようになったきっかけは、二〇〇一年におきた自由民主党の総裁選出の問題であった。すなわち、小渕恵三総理の突然の発病に際して、自民党ではいわゆる「密室の談合」により森喜朗氏を公認の総理・総裁に選出した。これに対して激しい世論の指弾があり、自民党では総裁選挙の方式を改めて、地方支部にも一定の投票権を認める方式を導入した。マスコミ等の見るところでは、これは単なるポーズであって、実質的改革ではないといわれていた。しかし、二〇〇一年春に実際に選挙が行われると、党内基盤は極めて脆弱であり、従来の選挙制度であれば間違っても総裁になるとは思われていなかった小泉純一郎氏が、この地方の票のほぼすべてをさらい、総裁に就任し、総理となったのである。この投票結果を、アメリカにおける予備選挙が、ボス支配に対する反発から始まったのと同様に、わが国における政党内民主主義に向けての重大な一歩と考えたい。

     すなわち、党内民主主義は、基本的には他から強制しうるものではない。国民が、政党をどのような要求を突きつけるかで基本的に決まってくるのである。その後、民主党がやはり党首選挙において、類似制度を導入したことに明らかなとおり、この自民党総裁選挙は、日本の戦後政党史における大きなターニング・ポイントになる可能性が高いと考えている。すなわち、今後、森選出事件のように、政党の意思を一部有力者で決定し、一般党員の意思を無視する形での決定は、できなくなるのではないだろうか。*24

     日本新党繰り上げ当選事件と合わせ考えると、このような党内民主主義の導入は、単なる各政党の自発的行為ではなく、アメリカ予備選挙に見られるように、我々国民としては必要とあらば、裁判所による強制も可能な権利として構成する必要があると考える。同時に、本文中に引用した芦部信喜の危惧も無視するべきではない。本稿は、二つの要求を止揚する手段として、政党側の選択という概念を導入できないか、と考えた結果、到達した一つの試論である。読者諸兄の厳しいご批判をお待ちしている。

     

    *1 憲法調査会『国会・内閣・財政・地方自治に関する報告書』一一〇頁以下(大蔵省印刷局昭和三九年刊)参照。なお、ここにいう憲法調査会は、「憲法調査会法」(昭和三一年法律第一四〇号)に基づいて、内閣に設けられたものである。同調査会は、昭和三二年以来、七年にわたって調査審議を行い、昭和三九年に内閣及び国会に報告書を提出したのち、昭和四〇年六月に廃止された。現在も同名の組織が存在するが、こちらは国会の両議院に属する機関である。すなわち、憲法制定後五〇年余を経、憲法について広範かつ総合的に調査する機関を国会に置く必要性が議論された結果、第一四五回国会において国会法が改正され、両院に設置された。

    *2 戸波江二の定義は、戸波江二著『憲法』新版三五五頁(ぎょうせい平成一〇年刊)より引用。教科書レベルで、このように明確に政党に定義を与えている例は少ない。しかし、例えば松井茂紀『日本国憲法』第二版一四五頁(有斐閣二〇〇二年刊)は次のように述べる。

    「日本国憲法は、政党について何ら規定していない。従って日本国憲法の下では、政党は二一条の結社の自由に基づく『結社』として位置づけられることになる。」

     このように、二一条に基づいて政党を把握しようとするのは、佐藤幸治『憲法』第三版一二九頁(青林書院一九九五年刊)、芦部信喜『憲法』新版二五八頁(岩波書店一九九七年刊)、浦部法穂『全訂憲法学教室』五二二頁(日本評論社二〇〇〇年刊)など多数存在し、わが国の通説的見解といえる。

     他方、政党について詳述しながら、あえて憲法上の根拠規定に触れていない書も、例えば樋口陽一『憲法T』一八八頁以下(青林書院一九九八年刊)、辻村みよ子『憲法』四〇三頁以下(日本評論社二〇〇〇年刊)など多数見られる。あえて二一条に論及しないという点に、私見と同様の問題意識が隠されているのではないかと考えている。

    *3  本文に述べたとおり、わが国政治資金規正法及び政党助成法では、議会に議席を持たない場合には、選挙で二%以上の得票率が必要である。これに対して、ドイツの政党助成法では、議会に議席を持たない場合の政党の要件は、〇.%以上の得票率を有することである。これに比して、わが国の政党の要件は厳しすぎるおそれがある。しかし、政党助成というものが合憲であるならば、具体的な補助要件は、基本的に立法裁量に委ねざるを得ない問題といえる。したがって、政党助成の合憲性を云々する以前に補助率を云々するのは無意味である。

    *4 トリーペルの見解それ自体を知るには、美濃部達吉訳『憲法と政党Die Staatsverfassung und die politische Parteien』一頁(日本評論社一九三四年刊)が適切である。

    *5 八幡製鉄政治献金事件最高裁判決は、最高裁判所(大法廷)昭和四五年六月二四日判決(昭和四一年(オ)第四四四号)=LEX文献番号二七〇〇〇七一五号より引用。

    *6 無視段階における憲法と政党の関係についての文章は、樋口陽一『比較憲法』全訂第三版、四九七頁(青林書院一九九四年刊)より引用

    *7 八幡製鉄政治献金事件最高裁判所判決の取る政党概念に関する本稿の批判と同旨のものとして、樋口陽一『憲法T』一九一頁(青林書院一九九八年刊)参照

    *8 ここであげている説は、あくまでも理念型として考えたもので、現実の学説として存在しているという意味ではない。なお、ドイツにおける学説については、本秀紀『現代政党国家の危機と再生』四六頁以下(日本評論社一九九六年刊)参照。

    *9 例えば芹沢斉「政党」樋口陽一編『講座憲法学五』一三七頁(日本評論社一九九四年刊)、上脇博之著『政党助成法の憲法問題』二〇八頁(日本評論社一九九九年刊)などは、このような見解と理解することができる。ただ、その場合、政治資金の規正も内部自律に対する干渉として違憲という結論が導かれないとおかしいのではないだろうか。

    *10 ライプホルツ(Gerhard Leibholz)の国家機関説は、この典型といえるであろう。同説については、清水望他訳『現代政党国家』早稲田大学出版部一九七七年刊)一〇三頁以下参照。

    *11 例えば本秀紀は「『公共性』の変容と『政党内民主主義』」と題する論文で、次のようにいう。

    「政党の存在意義は、『信条共同体』として一定の政治綱領をもちつつも、絶えず国民意思を発掘・吸収し、それを制度的レベルへと媒介すること」である。(公法研究六四巻二二五頁より引用)

    *12 八幡製鉄事件東京高裁昭和四一年一月三一日判決(昭和三八年(ネ)第七九一号)は、LEX文献番号二七二〇一八八二より引用。

    *13 トリーペルの言葉は、注四引用の『憲法と政党』一頁より引用。

    *14 この箇所より以降に紹介している各国憲法の条文は、いずれも樋口陽一=吉田善明編『解説世界憲法集』第四版(三省堂二〇〇一年刊)より引用した。ただし、一部修正した場合がある。

    *15 政党の憲法編入に関する文は、注一引用の憲法調査会報告書一一二頁より引用(大西邦俊委員の発言の要旨より)。

    *16 憲法調査会報告に対する芦部信喜の批判は、芦部信喜著『憲法と議会政』三三〇頁(東京大学出版会一九七一年刊)より引用。

    *17 アメリカの政党制度については多くの書に紹介されているが、特に次の二書を参考にした。

     斉藤敏著『アメリカの憲法と政治』三五三頁以下(理想社一九七七年刊)

     木下智史著「アメリカンデモクラシーと政党制」森英樹編『政党国庫補助の比較法的総合的研究』六七頁以下(柏書房一九九四年刊)

    *18 共産党対袴田里見事件は、最高裁判所第三小法廷昭和六三年一二月二〇日判決(昭和六〇年(オ)第四号)=LEX文献番号二七八〇四二九一より引用。

    *19 憲法五一条と政党に関する文は、佐藤幸治『憲法』第三版一二八頁(青林書院一九九五年刊)より引用

    *20 憲法八九条後段の解釈については、拙著『財政法規と憲法原理』一六七頁(八千代出版一九九六年刊)参照。

    *21 本文に示した部分は、前注の拙著一七九頁より引用

    *22 日本新党繰り上げ当選事件東京高等裁判所平成六年一一月二九日判決(平成五年(行ケ)第一〇八号 )=LEX文献番号二七八二六二九一より引用

    *23 日本新党繰り上げ当選事件最高裁判所第一小法廷平成七年五月二五日判決(平成七年(行ツ)第一九号)=LEX文献番号二七八二七一〇一より引用

    *24 二〇〇一年秋の公法学会で、本秀紀が注一一引用論文の元となった「『公共性』の変容と『政党内民主主義』」と題する報告をされた。その部会討議で、自民党総裁選挙を政党論との関係でどう評価するか、という問題を私は質問したのだが、同報告は第二部会で行われ、私自身は第一部会に出席していた関係で、討論を深めることができなかず、すれ違いの議論になってしまった。本稿は、いわばその時質問の中できちんと表現されなかった私見を補完するものである。なお、日頃の不勉強のため、本秀紀のよって立つハーバーマスの理論などに対する理解不足から、本稿に述べるものは、間違っても同報告に対する批判というレベルには達していない。単なる私見の開陳と理解して頂きたい。なお、本秀紀に対する私の質問と、それに対する回答自体については公法研究六四巻二三四頁参照。