(一) 外国人の参政権問題を「fashonableな問題」と評したのは、長尾一紘「外国人の選挙権論についての一考察」法学新報第一〇六巻五・六号、二頁においてである。
(二) 法務省入国管理局が二〇〇〇年五月にまとめた一九九九年末現在における外国人登録者数は一一五万六一一三人で、過去最高記録を更新している。この外国人登録者数の、我が国の総人口に占める割合は、我が国の総人口一億二六六八万六三二四人(総務庁統計局の「平成一一年一〇月一日現在推計人口」による。)の一・二三%に当たる。この割合の推移をみると、昭和六一年から増加を始め、平成四年に一%を突破し、さらに急速な増加を示して現在に至っている。
現時点における外国人登録者の内訳のうち、永住者六三万五七一五人、その妻六四一〇人、定住者二一万五三四七人、日本人の配偶者二七万〇七七五人、計一一二万八二四七人が、わが国に定住する外国人と見なしうる者となる。これは外国人登録者数の七二・五%に当たる。
(三) 全面禁止説は、古くは疑う余地なき通説であり、一々紹介できないほど多数に上る。しかし、最近ではあまり例を見ない。平成七年判決後に発表されたものでは、百地章「永住外国人の参政権問題」が明白にこの立場である。また、阪本昌成『憲法理論T』補訂第三版、成文堂二〇〇〇年刊、一四七頁以下も、この立場をとることが明らかである。
(四) 全面許容説を採る者としては、奥平康弘『憲法V』有斐閣法律学叢書一九九三年刊、五三頁以下、内野正幸『憲法解釈の論理と体系』日本評論社一九九一年刊、八四頁、戸波江二『憲法』新版、ぎょうせい一九九八年刊、一三八頁などがある。
(五) 全面要請説を採る者としては、浦部法穂「日本国憲法と外国人の参政権」除龍達編『定住外国人の地方参政権』日本評論社一九九二年刊、四五頁以下。
(六) 国政禁止・地方許容説は、最近急速に支持者を増やしつつある学説で、長尾一紘はこれが現在の通説であるとしている(「外国人の選挙権論に関する一考察」法学新報一〇六巻五/六号五頁)。この立場をとる古い論者としては、佐藤幸治がある(『憲法』第三版、青林書院四二〇頁)。この説の論者でもっともしっかりした論陣を張っているのが長尾一紘である。この問題について多数の論文を発表しているが、地方政許容につき「外国人の地方議会選挙権」除龍達編前掲書六四頁以下。国政禁止につき、「外国人の国政選挙権について」法学新報一〇五巻一二号一頁以下をそれぞれ参照。
(七) 国政禁止・地方要請説を採る者としては、現在の時点では、管見の限りでは見あたらない。かっての長尾一紘はこの立場であったといわれる(「外国人の選挙権」法学教室五四号二五頁以下)。
(八) 国政許容・地方要請説をとる者としては、高田篤「外国人の選挙権」法律時報六四巻一号九二頁がある。なお、これに近いものとして、萩野芳夫「外国人の定住と政治的権利」徐編前掲書一七七頁以下がある。
(九) 組み合わせ的に名称をあげた学説は、あくまでも大同部分を拾っての分類であって、個々の説の内容にはかなりの小異がある。例えば、要請というレベル一つをとっても、憲法レベルでの要請から政治的レベルでの要請論まで、幅が存在している。また、定住外国人を二種に区分して、別々に論ずる立場も存在する。すなわち第二次大戦後の混乱の中で、通達というレベルで選択の機会を与えられずに日本国籍を剥奪された旧植民地出身者と、その他の定住外国人とを区分して、前者について要請、後者について許容という立論を行うのである(江橋崇「外国人の参政権」樋口・高橋編『現代立憲主義の展開(上)』有斐閣、一九九三年刊、一九九頁参照)。
(十) 朝鮮人及び台湾人の日本国籍の剥奪の経緯については、様々な書に書かれている。特に、徐龍達「定住外国人の地方参政権」徐編前掲書一四頁参照。
(十一) わが国に永住する朝鮮人が、朝鮮半島に居住する朝鮮人との間に、相当の文化的乖離を示している点については、様々な書が紹介しているが、その一例として、つかこうへい著『娘に語る祖国』光文社一九九〇年刊、特に八三頁以下参照。
(十二) 在日朝鮮人の被差別状況等についても多数の書があるが、法的側面からそれをきちんと論証したものとして、姜 徹著『在日朝鮮人の人権と日本の法律』雄山閣出版昭和六二年刊参照。
(十三) 帰化に当たって、そのような摩擦の存在を指摘する声として、例えば、在日本大韓民国青年会による次のようなものがある(http://www.han.org/a/seinen/index.html)。
「日本政府の一方的な国籍処理で、勝手に『日本人』にしたり『外国人』にしておいて、今になって『帰化すればいいのに』では納得がいかないのも当然です。 こうした歴史的経緯だけでなく、@毎年どれくらいの帰化申請があって、不許可の理由は何なのかA帰化条件の「素行が善良であること」の基準が明確にされていないB今でも民族名での帰化を当局では嫌い、『日本風の名前がいいのでは・・・・・・』といった指導をしているなど、現行の帰化行政が非常に不透明だということも、私たちが帰化に賛成できない理由の1つです。」
(十四) 徐龍達「定住外国人の地方参政権」徐編前掲書八頁にある次のような表現は、地方参政権運動が、まさに日本社会の市民としての存在獲得のための段階的移行策として発案されたことを示していると言えよう。
「我々は(同化と追放の)いずれでもない第三のみちとして、国籍の変更なく地方自治体での『市民権』を獲得する方法を研究し、その実現のための運動を展開するべきではないでしょうか。」
(十五) 厚生省国立社会保障・人口問題研究所の行った将来推計によると、我が国の総人口は、二〇〇七年の一兆二五五七万人をピークに、以降は減少に転じると予測されている。しかも少子化の影響から、その減少のスピードはこれまでに人類社会が経験したことのないほどの激しさであると考えられている。すなわち、二〇五〇年におよそ一億人になり、百年後の二一〇〇年には、およそ六七〇〇万人と、現在人口の半分程度にまで減少すると見込まれている。
年齢構成をみると、一九九五年時点の人口構成比は、一四歳以下の人口が一六・〇%、一五歳〜六四歳の人口が六九・五%、六五歳以上の人口が一四・六%であった。これが、二〇五〇年には、一四歳以下の人口は一三・一%、一五〜六四歳の人口が五四・六%、六五歳以上の人口が三二・三%と予測されている。すなわち、二一世紀半ばには、国民のおよそ三人に一人が六五歳以上と、少子高齢化がさらに激しく進行していくことが推測されている(資料:「日本の将来推計人口(平成9年1月推計)」による)。
(十六) 本文に述べた移民受け入れの促進による問題解決という手法は、未だ政府の一般的に認めるところとはなっていない。
例えば、労働省雇用政策研究会が一九九九年五月に発表した「労働力需給の展望と課題」という答申では、次のように述べて移民の促進による少子・高齢化問題の解決に反対している。
「少子・高齢化に伴う労働力不足への対応といった視点から移民を受け入れることは、@高齢者、女性等との競合関係を生じさせ、就業機会を減少させるおそれがあること、A省力化、効率化、雇用管理の改善の取組を阻害すること、Bその不足分を補う効果を持続させることは相当困難であること、C少子・高齢化を抑える効果が生じるように移民の受入れをコントロールすることは困難であること、D大規模な社会的費用の負担を生じさせること等その社会的、経済的影響は大きくかつ長期にわたること等から、適当ではないと考える。」
しかし、変化の兆しも現れている。例えば、通産省産業構造審議会が二〇〇〇年三月にまとめた「二一世紀経済産業政策の課題と展望」と題する答申では、「今後、優秀な海外研究者・技術者への永住権の積極的付与、在留期間に関する原則の廃止等『移民政策』の思い切った見直しが必要である。」と述べて、現行制度が研究者の家族を対象外にしていること、本人の在留期間が原則一〇年以上でないと永住権は認めないことなどに代表される現在の入国管理制度の運用を、批判している。
(十七) わが国政府では、これまで外国人が帰化するに当たっては、日本人と区別の付かないような姓名を名乗ることを事実上強制してきた。しかし、本文に述べたような固有文化の継承を自らの姓名に託そうとする動きが強まり、自らの固有の姓名を、日本人となった後でも名乗る人々が出現し、一九八二年のトラン・ディン・トン訴訟、一九八七年の朴実訴訟に代表されるように、裁判所でもこれを認めるようになってきている。
(十八) オーストラリアの移民政策等については、例えば、永井浩著『オーストラリア解剖』晶文社一九九一年刊、竹田いさみ著『移民・難民・援助の政治学ーオーストラリアと国際社会』勁草書房一九九一年刊等参照。本文に使用した「サラダボウル国家」というのは、前者に使用されている言葉で、全体として一つになっていながら、それを作り出した元の素材である個々の文化が明確に存在を認められる状況を表している。
(十九) 他の文化圏から日本に来た場合、当初から日本に永住する覚悟があってきた場合にも、二つの文化の間に引き裂かれることから、非常に大きな文化的フラストレーションにさらされることの実際例については多くの書で紹介されているが、例えば駒井洋『日本の外国人移民』明石書店、一九九九年刊一二一頁以下参照。
(二十) 前掲通産省産業構造審議会「二一世紀経済産業政策の課題と展望」四三頁は次のように述べて、多文化社会の長所を指摘している。
「これまでわが国が十分に活用してこなかった人的資本として、大企業に埋もれた技術者、大学の研究者、海外の専門家があるが、今後『開放・連携型システム』のもとでは、これらの効果的活用が期待される。特に、アジアの優秀な研究者等海外人材に期待するところは大きい。米国シリコンバレーの隆盛は、アジアを含めた世界から引きつけた科学者・技術者の活躍に依存するところが大きいとも言われている。異なる文化的背景を持つ外国人研究者を受け入れたり、また優れた実績を上げた外国人研究者が研究リーダーとなれば、研究現場に緊張感ある刺激を与え、これまで十分に発揮されてこなかった研究者の能力も開花させよう。異質な発想、壁を乗り越えられる力も期待される。」
(二十一) 在日外国人が帰化の道を選んだ場合にも様々な差別に遭遇することは、例えば佐藤文明著『在日外国人読本』緑風出版、一九九三年刊、一三三頁以下参照。
(二十二) アメリカ憲法第一条第二節第二文は下院議員につき帰化後七年以内の被選挙権を、同第四節第三文は上院議員につき帰化後九年以内の被選挙権を、それぞれ否定し、また、第二条第一節第五文は大統領につき、帰化者の被選挙権をその一生涯にわたって否定している。
(二十三) デニズンシップという考え方については、様々な書に紹介されているが、特に近藤敦著『外国人の参政権ーデニズンシップの比較研究』明石書店一九九六年刊が詳しい。
(二十四) アラン・ヒックス訴訟において、原告は、「代表なければ課税なし」というアメリカ独立戦争のスローガンを根拠とした。また、定住朝鮮人もしばしばこの点を主張している。しかし、これは二つの点で不適切である。第一に、このスローガンそのものは、国王主権体制下において議会代表権を求めるものであるから、その本来の趣旨は自由主義にあり、民主主義ではない。第二に、民主主義の下において、納税が代表権の基礎となるということは、換言すれば、納税がなければ代表権も認められないということ、すなわち、財産に基づく限定選挙を意味し、普通選挙を明言する現行憲法一五条に違反することである。
(二十五) 同旨、萩野芳夫『国籍・出入国と憲法』勁草書房一九八二年刊四〇一頁以下参照。現行国籍法の運用は多分に恩恵的であるので、このような意味において違憲の疑いが強い。
(二十六) 辻村みよ子は、定住外国人という講学上の概念の曖昧さを嫌って、法律上の概念である永住者という概念を使用しつつ、要請説を採る(「憲法」日本評論社二〇〇〇年刊、一六八頁)。
(二十七) 「永住外国人に対する地方公共団体の議会の議員及び長の選挙権等の付与に関する法律案」はその第二条で、永住外国人の定義として、本文で述べた一般永住権者と特別永住権者のみを示しているので、以下に論ずるところがそのまま妥当することは明らかである。
(二十八) 「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約」第一条が掲げる人種差別の定義によると、人種差別とは「人種、皮膚の色、門地又は民族的若しくは種族的出身に基づくあらゆる区別」等をいうこととされている。したがって、朝鮮民族及び中国民族であることによる区別的取扱いは、人種による差別に該当することになる。