憲法における条約の多義性とその法的性格

    
                      
目 次
[はじめに]
一 憲法上の条約概念の多義性
(一) 形式的意味の条約と実質的意味の条約
  1 前文における国際協調主義と98条2項の条約
  (1)「法的拘束力」について
    @ 「国際法上の」という限定文言を使用しない点について
    A 法的拘束力を持たないものを排除する点について
  (2)「2又は多数」について
  (3)「国際法上の主体」について
  (4)「合意」について
  (5) その他の留意点
    @ 条約の締結権者について
    A 私法上の性質を持つ国際合意について
  2 憲法73条3号本文及び但し書きにいう条約について
  3 憲法7条にいう条約の意味
二 憲法と条約の法段階説上の関係
三 超憲法的な条約
(一) 超憲法的な条約の存在領域
  1 主権にかかる条約
  (1) 主権の全面的な得喪変更を内容とする条約
  (2) 主権の一部制限を内容とする条約
  (3) 国際慣習法の成文化条約
  (4) 国際秩序形成手段としての多国間条約
  2 人民ないし領土にかかる条約
  (1) 国際秩序形成手段としての多国間条約
  (2) 2国間における独立承認条約ないし国境線変更条約
(二) 超憲法的な条約の締結権
  1 憲法改正手続きによる超憲法的条約の締結
  2 憲法改正手続を要しない超憲法的条約の締結
  (1) 緊急事態における超憲法的条約の締結
  (2) 平和時における超憲法的条約の締結
四 憲法に劣後する条約と条約法条約
(一) 条約に関する国会の権限
(二) 条約の締結手続き
  1 正規の条約の締結手続き
  2 簡略形式による条約の締結手続き
(三)国会による事前承認権の内容と限界
  1 二国間条約における議会の条件付き承認決議等の効力
  2 多国間条約における議会の条件付き承認決議等の効力
(四) 国会の事後承認権の内容と限界
(五) 違憲の条約の効力
  1 憲法所定の手続に違反している条約について
  2 内容が憲法に違反している条約について
五 法律に劣後する条約と条約法条約
六 条約の国内法上の効力
(一) 一元論と二元論の関係について
(二) 条約に対する司法審査権
  1 超憲法的な条約に対する司法審査
  2 憲法に劣後する条約に対する司法審査

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[はじめに]
 憲法と条約の関係、特に「条約優位説」と「憲法優位説」の対立や、国際法と国内法の関係に関する一元論と二元論の対立については、憲法学からも国際法学からも、かって活発に議論された*1。そうした過去の遺産の上に、現在の憲法学の教科書や論文が存在しているわけであるが、それを見ると、現時点での条約に関する議論には、幾つかの大きな欠落ないし混乱がある。
 第一の、憲法と条約の関係を論ずる場合についていえば、憲法学ないし国際法学で使用されている条約という概念が、非常に多義的なものであることが、いずれが優位するかを論ずるに当たって、完全に無視ないし軽視されている、という点である。その結果として、すべての条約が法段階説上の特定の段階に属することを暗黙の前提としているとしか思えない形で、条約優位か、憲法優位かという議論が行われている。しかし、実際には、わが国現行憲法が条約と呼んでいるものも、そして国際法学上条約と呼ばれているものも、非常に多義的なものである以上、その法段階説的位置づけもまた、その多義性に応じて分かれざるを得ないと考えるのが素直であろう。したがって、条約は憲法に優越するのか、それとも劣後するのか、という問題の建て方は、基本的に間違っていると言わざるを得ない。問は、どのような条約は憲法に優位し、またどのような条約は劣後するのか、という形で発されねばならない、と考える。
 第二の、一元論と二元論の対立という問題、より端的に言えば、憲法に違反する条約を対外的に、あるいは国内的にどの限度で承認するかという問題は、かっての、国際社会が未発達の状態下においては、単なる法学的命題の問題、ないしせいぜい憲法学的に決定しうる問題であるに過ぎなかった。しかし、国際社会の発達とともに、この問題を、各国の国内問題として、各国がばらばらに対応することは許されなくなってきた。なぜなら、条約と国内法、特に憲法がどのような関係に立つかを、各国バラバラの理解に委ねていたのでは、安定的な国際関係を育成することは不可能だからである。そこで、第2次大戦後、国際連合を中心として、この問題に関する国際的な立法により、統一的に解決するための努力が払われてきた。今日においては、条約と国内法の関係については、こうした国際実定法を無視した形での議論は無意味なものとなっている。ところが、今日でも憲法学における少なからぬ教科書や論文には、それら国際実定法の整備の進捗状況を完全に度外視し、単に一国の憲法学のみの観点から、一元論か二元論かを決定しうるといわんばかりの記述が見られる。
 本稿は、こうした議論の欠落ないし混乱を私なりに整理し、この問題を解釈法学として有意的なものとすることを目指すものである。

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一 憲法上の条約概念の多義性
(一) 形式的意味の条約と実質的意味の条約
 現行憲法では、次の4ヶ所で条約という言葉を使用している。すなわち
@ 憲法7条1号では、条約は、法律及び政令と並んで天皇による公布の対象とされる。
A 憲法73条3号本文では条約締結権が内閣にあるとされている。
B そして、その但し書きで、事前に、時宜によっては事後に国会の承認が必要とされ、憲法61条はこれを受けて条約の承認に際して、衆議院の大幅な優越を認めている。
C 憲法93条2項は、条約の誠実な遵守義務を定めている。
 これらで使用されている条約の語については、論理的にいえば、形式的意味の条約と実質的意味の条約の二つを考えることができる。形式的意味の条約とは、条約 treaty という文言がその名称中に使用されている国際実定法の意味である。しかし、国際法は、国内法と異なり、法的整備がきわめて不十分であるため、条約という用語を使用しうる場合にでも、他の用語が多数使用されている*2。
 憲法が、こうした雑多な用語のうち、条約という名で締結されたものだけを特に重視したと考えることはできない。したがって、現行憲法で使用される条約という用語は、その実質に着目して内容を決定しなければならない。
 しかし、実質的意味の条約概念を採用するとしても、なお、憲法中で条約の語の使用している上述の4ヶ所の条約概念を一義的に決定することはできない。なぜなら、現行憲法で使用されている条約の概念は、その条文ごとに、さらには、本文と但し書きとで、意味の異なるものと解されねばならないからである。
 憲法上に現れる上記4ヶ所の条約概念を、広いものから順に、その意味内容を整理すると次のとおりとなる。
  1 前文における国際協調主義と98条2項の条約
 これらの条文中で、もっとも広義の意味で使用されていると考えられるのは、98条2項で使用されている「条約」である(以下、特に区別する場合には「広義の条約」という。)。
 ここで使用されている条約の意味を理解するに当たっては、現行憲法の依って立つ国際協調主義を基準としなければならない。すなわち、憲法前文第2文は平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において名誉ある地位を占めたいこと、そして同じく第3文は、国際的な政治道徳の普遍性と、その法則に従うことが主権国家としての責務と宣言している。
 こうした国際協調主義を受けて、98条2項が規定されていることを考えると、同項は、国際的な法的合意のすべてを誠実に遵守することを要求しているものと理解するのが妥当である。
 同項は、この国際的な法的合意を、「日本国が締結した条約」と「確立された国際法規*3」という二つの概念に区分している。ここで、条約という語には「日本国が締結した」という修飾語が存在しているから、わが国がその成立に主体的に関与した国際合意を意味すると考えるのが、文言に忠実な解釈というべきであろう。より一般的に表現し直せば、わが国が締結という行為を行わない限り、遵守する必要のない国際的な法的合意が、同項が条約という語を使用している概念の内容と考えられる。
 したがって、同条における条約を定義するならば、
「法的拘束力をもつ2又は多数の国際法上の主体の間の合意」
とするのが妥当であろう。
 この定義は、通常、憲法の教科書等で示されている条約の定義とは、少しく異なる。この定義における特徴を述べると、次のとおりである。
  (1)「法的拘束力」について
    @ 「国際法上の」という限定文言を使用しない点について
 国際法を専門とする学者が条約を定義をすると、「法的拘束力」という広い概念を使用する代わりに、「国際法上の効力」という言葉を使用する場合が多い*4。憲法学の領域でも、この定義をそのまま直輸入して使用している者がある*5。
 確かに、すべての条約は国際法上の合意である。というよりも、そのことが、条約という法ジャンルのメルクマールそのものである。したがって、条約が国際法上の拘束力を有することは間違いない。しかし、少なくともわが国の場合には、今日における条約の少なからぬものは、同時に国内法上の効果を有する点に、大きな特徴がある。そして、その要素こそが、条約を憲法上、特に議論しなければならない理由である。すなわち、今日の憲法学で条約を論ずる場合のもっとも重大な争点といえる「条約が司法審査の対象となるか」という問は、国内法上の効果を有する条約に関して、特に実益を有するのである。国際法上の拘束力しか持たない条約、すなわち国家ないし国際機関だけを拘束する国際的法規範は、国内司法審査の対象となる具体的な紛争に関するものではないからである。その意味で、憲法学において条約を論ずる場合に、その法的効力を、国際法上のそれに限定するのは、誤りと考える。
    A 法的拘束力を持たないものを排除する点について
 国際的合意であっても、法的拘束力を持たないもの、すなわち政治的義務の宣言とか、一般的、抽象的原則を明らかにしたにすぎないものは、ここにいう条約に属しない(例えば「世界人権宣言」)*6。98条は文言上、あくまでも法規範に関する規定であるので、法規範性のない国際合意は、その対象とは考えられないからである*7。
  (2)「2又は多数」について
 かっては、条約は2国間で締結されるのが原則であり、仮に2国以上に関係国が存在する場合であっても、それは単純に2国間条約の論理が3国以上に適用されるにすぎなかった。しかし、今日においては、多国間条約は2国間条約とは異なる性格を持つ法規範として、確立されたジャンルとなり、そこに機能する法論理もまた2国間条約とは異質のものとなっている。後に詳述するように、憲法上の条約としても、2国間条約と多国間条約とでは異なる類型として考察されなければならない。その意味で、定義そのものに、この二つの類型の存在を明らかにする必要がある。
  (3)「国際法上の主体」について
 かって、条約は、国家間の合意と定義すればそれで十分であった。今日においても、それは原則的には正しい。しかし、今日では、その範疇に属さない様々な法主体間の条約が存在するようになっている。第一に、国際機関と関係各国との間での条約が存在するようになっている*8。したがって、普通の定義に見られるように、単に主語として「外国との合意」ないし「国家間の合意」とするのでは誤りであることは明らかである。そのことから、少なくとも「国際機関と国家間」という言葉を第二の主語として追加せざるを得ない。さらに、国際機関の設立を定める条約、国際機関内部の条約のように、国家間ないし国際機関と国家間というような表現には必ずしも適合しない条約も存在するようになっている。さらに、個人に対しても国際法上の主体として活動する権能を与える条約が出現している*9。
 これらの条約も含めて定義するためには、漠然とした表現ではあるが、「国際法上の主体」という表現を採用するのが、現時点における定義としては一番正確なことになる。
  (4)「合意」について
 単に「合意」とするにとどめ、憲法学における通常の定義で使用されている「成文の」あるいは「文書化された」という限定文言を排除している*10。これは、口頭の合意であっても、国を代表する者の間で合意された事項については、やはり誠実な遵守義務があると考えなければならないからである。現実問題として、国際合意の文書化に当たっては、往々にしていわゆる玉虫色の文言が選ばれることが多い。その場合にも、その言葉が真に意味するのが何かについては、不文の合意が成立しているのが普通である。さらに、真に問題となっているものについては、文書化されず、単に口頭合意にとどまる場合も少なくない。そうした場合にも、国際合意の執行に当たり、真の拠り所になるのは、交渉当事者間でのそうした口頭合意である。こうしたことを考えれば、不文の合意を98条2項の対象から排除することは、到底妥当とはいえないであろう*11。
  (5) その他の留意点
 以下に、定義のレベルとしては文言に現れないが、憲法学において通常論議されている重要な点において、通説と見解の異なる点を補足する。
    @ 条約の締結権者について
 上記に合致する国際合意である限り、国家元首ないしそれから条約締結に関する全権を与えられた者以外の者の間で締結された条約も、すべて、条約として誠実に遵守すべきことを要求しているのが、98条2項の趣旨であると考えられる。具体的には、国家機関の実務者間で締結された法的効力のある合意が、それである。このような実務者間条約が存在するという事実は、憲法学ではほとんど認識されていない。が、そうした条約が存在し、しかも近時は重要性を増してきていることは事実である*12。このような形式の合意は、省庁間協定interdepartmental agreement と呼ばれる。これを広義の条約の範疇からも排除するのは、適切とは言えないであろう。
    A 私法上の性質を持つ国際合意について
 一般に、憲法の教科書等では「私法上の契約の性質を持つものは含まれない」と記してあることが多い*13。しかし、そう主張する者が、国家間の法的合意でありながらなおかつ私法上のもの、という語をどのような意味で使用されているのかは、一般に説明が不十分で、はっきりしない。また、なぜそれが排除されなければならないのかについても、明確に根拠を示して説明している例は管見の限りでは存在しない。仮に、この説が、国家間における私法上の契約が、通常の私人間の契約と同様の法的性格を有するものであって、ただ、当事者が二国以上に跨るから、そのいずれの国の法に準拠すべきかという、国際私法の問題が発生するにすぎないと考えているのであれば、それは誤りである。
 通常、ある法律関係が私法関係に属するか否かは、裁判所管轄の関係を巡って実益を示す。しかし、従来から、外交特権の一環として、外交官は、駐在国の国内司法権に服することはない。このことは、もともとは国際慣習法として認められていたが、現在では、外交関係に関するウィーン条約(昭和39年条約14号)により成文法化されている。同条約によれば、外交官は個人の不動産や商業関係に関する訴訟を除き、民事裁判や行政裁判にかけられることはない(31条参照)。例えば「日本国家が外国の国有の土地を賃借する契約」*14を締結している場合に、紛争が発生した場合には、通常の私人間における同種の賃貸借契約と異なり、裁判所による解決は、わが国が特に外交官特権を放棄し、相手国がそれに同意したような場合を除いて不可能である。その結果、国家間の交渉で解決するほかはなく、その意味で、こうした「私法上の契約」もまた一種の条約と解するべきであろう。少なくとも、広義の条約概念から、こうした契約を、特に排除しなければならない必要性は認められないのである。
 私法上の賃貸借、消費貸借、贈与、売買ときわめて類似した性格を持つ、法的拘束力のある国の外交上の合意の実例としては、大公使館ないし大公使の公邸や私邸の外国政府からの賃貸借契約のほか、開発途上国への有償援助、無償援助、米国からわが国への武器売却契約等が考えられる。それらに関する法的合意は、いずれも条約と評価して、98条の適用を肯定すべきであろう。
  2 憲法73条3号本文及び但し書きにいう条約について
 憲法73条は、内閣の権限に関する規定であるから、3号本文にいう条約は、98条にいう条約のうち、内閣が一方当事者になる条約に限られるのは、論理上明らかである。したがって、国家機関の実務者間での協定などは、98条2項には該当しても、本号には該当しないことになる(以下、本号の条約に限定して論及する場合には「狭義の条約」という。)。
 問題は、内閣が一方当事者になる条約については、そのすべてに対して国会の承認が必要とされるのか、という点にある。
 これについて、昭和49年2月に政府が統一見解として表明したところによれば、内閣が締結する条約のうち、特に次の範疇のいずれかに属する条約だけが国会の承認を必要とする。すなわち、
 A いわゆる法律事項を含む国際約束(例:租税条約)
 B いわゆる財政事項を含む国際約束(例:経済協力に関する条約)
 C わが国と相手国との間、あるいは国家間一般の基本的な関係を法的に
規定するという意味において政治的に重要な国際約束であって、それ故に、発効のために批准が要件とされているもの(例:日中友好条約)
 国の唯一の立法機関として国会が独占している事項、及び国会中心財政主義に従い国会が独占している事項について、条約で定めようとする場合には、必ず国会の承認を得る必要があるのは、憲法解釈として当然のことであろう。また、国権の最高機関として、政治的に重要な条約については、同じく国会の承認を得る必要があることは明らかである。このように、国にとって重要性を有する条約の締結に、国会の承認を必要とすることもまた、国民主権原理に立つわが国憲法の解釈として、疑問の余地はない*15。
 問題は、その反対解釈、すなわち右記以外の条約については、承認が不要といえるか、という点にある。右記以外の条約とは、すなわち、
 A' 既に国会の承認を経た条約の範囲内で実施しうる国際約束
 B' 既に国会の議決を経た予算の範囲内で実施しうる国際約束
 C’ 国内法の範囲内で実施しうる国際約束
となるであろう。
 憲法73条6号は、法律を基礎として委任命令及び執行命令を内閣が制定しうることを予定しているが、A’に述べられているのは、いわば条約を基礎とした委任命令及び執行命令である。これらについては憲法上明文はないが、委任命令等を許容する理論からすれば、これが国会の個別の承認なしに行いうることについては、特に問題はないと思われる *16。同様にB'の場合は、法的根拠がなければ、いわゆる予算補助と同様の類型に属することとなり、C'の場合は、A'と同様に執行命令的性格を有する条約ということができる。これらについては、政令の場合と同様に、内閣限りで締結できる場合もあるとして、特に問題はないであろう。この結果、これらは内閣が締結する条約(すなわち狭義の条約)でありながら、国会の承認は不要ということになる。このように、内閣がその権限内に属する事項について締結する条約を、一般に行政協定 executive agreementという。
 首相等の発展途上国訪問に際して発表される共同声明で、具体的な援助の額や内容にふれている場合、それは条約である。また、わが国大公使が、わが国の全権代表者としての資格において、その駐在国の外務大臣その他の閣僚と取り交わす交換公文によるODA援助の約束なども、ここにいう条約に属すると考えられる。しかし、それが既に国会で制定済みの法律や予算の範囲内にある限り、その共同声明等に対する国会の特別の承認は不要と考えてよい。
 内閣の指揮・監督下にあるわが国政府の職員であって、全権委任状等を与えられていない者と、外国政府の同様の立場にある職員との間で取り交わされる実務者間での公的約束などは、先に論及したとおり98条2項における条約に該当する。この場合も、法律の範囲内で、省令等で対国民的な法規範を制定しうることを考えると、同様の範囲に収まっている限りにおいて許容しうるであろう。
 したがって、結局、41条ないし83条により国会の権限とされる事項に関わる条約についてのみ、国会の承認が必要とされ、その他については、内閣限りで、ないしは内閣からの授権に基づいて実務者間で締結しうることは、特に問題はないものと考える(国会の承認を必要とする条約を、以下「最狭義の条約」という)。
 なお、ここで、Cについてだけ批准が要件として記述されているが、後に述べるとおり、国会による事前の承認を得るためには、原則として発効のために批准を要件とせざるを得ない。その意味では、批准が要件とされている、ということは、Cの場合に限定される点ではなく、AやBの場合にも要件とされるので、ここでだけ特別にあげる必要のない要件である、ということができる。
 逆に、そうした政治的重要性を持つ条約においても、何らかの必要から条約発効の要件を批准とせず、署名ないし調印即発効ということにする場合があり得る*17。又は、後に述べる簡略な手続きによる条約の形式で制定させることもあり得る。その場合にも、国会の、可能であれば事前の、そうでなければ事後の承認を得ることが、最狭義の条約として有効なものと承認するための必須の要件というべきである。したがって、この意味からは、「批准を要件とする」という文言は、積極的に不要なものというべきであろう。
 以上のことから、同じ条項中で使用されていながら、本条の場合、本文と但し書きとでは、「条約」の意味が違い、前者は狭義の条約であり、後者は最狭義の条約となる。
 ここにいう条約は、98条2項で述べたものと同様、成文法に限定する必要はなく、不文のものも含むと解するべきであろう。内閣が、交渉に当たり、文章化しないという条件の下で、一定の合意を行うことは当然に可能である。そして、それが上記ABCのいずれかに該当する場合には、内閣としては国会に対して、その合意の内容を報告し、承認を受ける義務があるというべきである。
  3 憲法7条にいう条約の意味
 7条1号の定める条約は公布される必要があり、公布するためには文書化されていることが必要であるから、この場合の条約が、98条2項や73条3号の場合と異なり、文書化された国際合意に限定されるのは、当然といえる。
 しかし、それ以上、具体的にどの範囲に属するかは、必ずしもはっきりしない。法律の場合には、公布はその発効の前提条件である(最高裁昭和32年12月28日大法廷判決)から、公布の有無は極めて重要な問題であるが、条約の場合には、後述するように、その発効は原則として調印であり、例外的に批准であるから、その意味で条約の公布に、国民に知らしめるという以上の特段の意味はない。その場合、公布行為を、天皇の名義で実施しようと、外務大臣の名義で実施しようとも、国民として特に差異を認めることはできない(官報の表現では、いずれも外務省告示という形式になる。)。したがって、天皇が公布するべき条約の範囲を理論的に決定する事は困難である。同号では、法律のほかに政令も公布対象になっていることからすると、内閣が当事者となっている条約であれば、法律又は予算の範囲内にとどまり、したがって国会の承認を要しないものも、すべて該当すると解するのが妥当ではないかと考える。ただ、不文のものは、現実問題として公布行為の対象とすることができないから、文書化されたものだけが対象となろう。すなわち、狭義の条約のうち文書化されているものと解することになる。
 これに対して、実務的には、国会の承認を得た条約は一律に天皇による公布を必要とし、その他の条約は原則的に外務大臣名で官報に掲載されている。すなわち、最狭義の条約のうち、文書化されているものと解していることになる。条約の公布権者を誰とするかは、それが何らかの形で国民一般に知らしめられている限りにおいて、実益のない議論であるので、こうした限定的取り扱いを、特に違憲と論ずる必要はないであろう。

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二 憲法と条約の法段階説上の関係
 いわゆる一元論をとる場合はもちろん、二元論をとる場合にも、条約に国内法的効力を認める場合には、両者が同一の法体系に属すると考えることになる。その場合、両者の法段階説的な位置づけが問題となる。
 憲法学ないし国際法学においては、従来、条約は、条約優位説を採る場合はもちろん、憲法優位説を採る場合にも、その暗黙の前提として、すべての条約は同一の法段階に属するとしている感がある*18。
 しかし、これまでに述べてきたとおり、わが国現行憲法典中で、あるいは国際法学上で使用されている条約は、極めて幅広い概念である。したがって、法段階説的に見た場合に、そのすべてが同一の法段階の中に含まれると理解するのは適当ではない。従来、条約優位説が主張してきたとおり、条約中には明らかに憲法よりも優位に立つものも存在している、と考えるべきである。他方、従来、憲法優位説が主張してきたとおり、通常の条約は憲法に劣後すると考えるべきである。憲法や国際法で使用されている条約の概念に、このような多様性があることを前提にすれば、従来の条約優位説と憲法優位説の対立は、それぞれが念頭に置いている条約の種類の差を看過したままに行われていた論争であって、ともに一面において誤っており、他面において正しかった、ということができるであろう。
 また、従来のいずれの説の視点からも脱落していると思われるのが、国会の同意を要しない条約の存在である。法律や予算の範囲内にとどまる条約ないし法律又は予算の委任又は執行の目的の条約は、法段階説の論理からいって、必然的に授権法である法律又は予算よりも下位の法段階に属する、と解さなければならない。
 以上のことから、現に存在する条約を法段階的に分類すると、
 ア 憲法よりも上位の条約(超憲法的条約)、
 イ 憲法よりも下位だが法律よりは上位の条約、
 ウ 法律よりも下位の条約、
という三とおりの類型の存在を認めることができると考える。
 その概念内容及び締結手続について、以下、個別に検討してみたい。

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三 超憲法的な条約
(一) 超憲法的な条約の存在領域
 一般に、国家の三要素、すなわち、主権、人民及び領土に関し、その全部又は一部の変更を目的とする条約は、いずれもその憲法の適用範囲を決定する機能を有する。この本質的な理由から、これらの憲法は、超憲法的な性格を有する条約と解釈せざるを得ない。
  1 主権にかかる条約
  (1) 主権の全面的な得喪変更を内容とする条約
 一国の主権の得喪や変更それ自体に関わる条約が、超憲法的な性格を有するものであることは、何人も異論のないところと思われる。わが国の場合でいえば、ポツダム宣言の受諾は、受諾という形式による条約締結行為と認められる。わが国は、それにより主権を失った訳であるから、同条約は超憲法的な条約の典型ということができる。また、サンフランシスコ講和条約も、その締結に伴い、主権が回復し、その意味で現行憲法が現実にわが国制度の基本になったものとして、やはり超憲法的な性格が承認されよう。
 このように、条約に基づく一国の主権の全面的な得喪は、上記の例にもあるとおり、通常は、戦争等に基づく根本的な変革の場合以外には考えにくい。しかし、平時において、関係各国間の話し合いにより主権の全面的な得喪変更を行う場合が考えられる。かってアラブ諸国が、アラブは一つという理念の下に、連合国家を形成したことがあったが、その基礎条約は当然超憲法的性格がある。また、EU成立の基礎となったマーストリヒト条約が、近時における平和時におけるそれの代表的存在といえる。
  (2) 主権の一部制限を内容とする条約
 主権の一部だけを制限することを内容とする条約は、平時においても珍しくはない。例えば、現行憲法9条の原点ともいわれるパリ不戦条約は、戦争を行う権利という、主権の重要な一側面を条約によって制限しようというものであった。また、関税と貿易に関する一般協定GATTや、その後継であるWTOは、やはり主権の一側面である関税高権の大幅な制限その他通商主権の一部制限を条約で定めたものとして、やはり超憲法的性格が指摘できる。
  (3) 国際慣習法の成文化条約
 主権に関する超憲法的な条約が誕生する重要な契機として存在するのが、国際慣習法の成文法化作業である。憲法98条2項にいう「確立された国際法規」、すなわち、国際慣習法は、一般に超憲法的法規範であると理解されている*19。例えばわが国内の外国公館の治外法権や外交官特権などは、いずれも平等原則違反や裁判を受ける権利の侵害といえるから、憲法が優越するならば、当然否定されなければならない。従来、こうした特権がわが国で尊重されていたのは、国際慣習法が憲法よりも優越する結果である。すなわち、その限度で主権は制限されることになる。
 しかし、慣習法は必ずしもその存在や内容についての認識が各国において一致するとは限らないところから、国連を中心として、その成文法化のための努力が払われてきた。上に例示した外交官特権等については、先に引用した外交関係に関するウィーン条約の定めるところとなっている。したがって、この条約は超憲法的な条約の一つとなっている訳である。
 このように、国際慣習法の成文化を行った結果、採択された多国間条約は、一般に超憲法的な条約と理解されなければならない*20。
  (4) 国際秩序形成手段としての多国間条約
 国際慣習法の存在しなかった、あるいは未だ確立するに至っていなかった領域に関して、慣習法の成立を待たず、多国間の話し合いでそれに相当するものを作り上げようとする場合がある。
 条約法の法典化を図った「条約法に関するウィーン条約」(昭和56年批准条約16号。以下、「条約法条約」と略称する。)の場合、この領域には、それまでは必ずしも確立した国際慣習法は存在しておらず、同条約の採択と多数の国の承認により初めて国際法秩序が形成されたという点で、上記の国際慣習法の単なる成文法化とはニュアンスを異にする。条約法条約の場合、条約と国内法(当然憲法を含む)の抵触の場合における条約の優越等を明定しており、明確に超憲法的性格を与えられている。
  2 人民ないし領土にかかる条約
  (1) 国際秩序形成手段としての多国間条約
 領土や人民に関する超憲法的な条約は、ある国の存立の基礎を作り出している条約という形で、典型的には認めることができる。例えば、欧州における今日の国境線の原型を作り出したウェストファリア条約、同じく、民族自決原則等、今日の国際秩序の原型を作り出したベルサイユ条約などがその典型である。各国が、自らの憲法に何と定めるかに関わりなく、こうした基本的な国際秩序を形成した条約を無視して、国際的に権利主張をすることは、国際法的には不可能であろう。
 上記例はいずれも、長く続いた戦争を終結させるために、既存の秩序を破壊し、新体制を作り出す目的で締結されたものである。が、このことは、一国が、特定の憲法体制の下で、平時に超憲法的な条約を締結することが不可能であることを意味するものではない。
 主権が存在するか否かが不明確な問題について、紛争を未然に解決する目的から、明確に多国間条約を制定しておくという手法は、例えば、大陸棚はその沿岸国に原則的に主権が属することを定めた大陸棚条約、反対に天体を含めた宇宙空間全体が国家の領有権の対象とならないことを定めた宇宙条約等、今日、非常に増加している。これらも領土の範囲、すなわち憲法の適用範囲を定めているという意味において、憲法より明らかに上位規範といえる。
  (2) 2国間における独立承認条約ないし国境線変更条約
 領土の一部地域に関して外国の主権を承認した条約は、憲法の適用範囲を変更するという意味において超憲法的な条約といえる。
 一国の一部地域が、その地域に従来主権を有していた国から独立することを承認する旨の条約は、その意味で、やはり超憲法的条約といえるであろう。これは、古くはイギリスによる米国独立の承認等があり、近時においてはパキスタンがバングラデシュの独立を承認した例をあげることができるであろう。
 また、特定地域の統治権が、一国から他の国へ譲渡されることを約する条約も、双方の国の憲法の適用範囲が変更になるという意味で、やはり超憲法的な条約といえる。フランスが、ザールランドのドイツ帰属を承認したのが第2次大戦後における好例であろう。サンフランシスコ講和条約以降のわが国においては、米国からの、奄美、小笠原及び沖縄の復帰の基礎となった条約は、いずれも領土ないし人民に関わるという意味で、この範疇に属する条約と評価できる。
 かって、西ドイツ首相のブラントが、ポーランドと東ドイツの国境を、いわゆるオーデル・ナイセ・ラインにする事を承認した、東方外交も、潜在主権が及んでいるにすぎない地域を問題にしたという特殊な例ながら、この1事例といえる。

(二) 超憲法的な条約の締結権
  1 憲法改正手続きによる超憲法的条約の締結
 上述のとおり、超憲法的条約は、今日の法体系の下で、決して例外的な存在ではない。その意味で、何らの限定を付することなく、条約に対する憲法の優位性を主張する今日の憲法学の通説は、現実を無視しているという点で、誤っているということができる。
 むしろ世界的に、我が憲法が基本原理の一つとする国際協調主義が普遍化するにつれて、各国の主権等の制約の必要は強まるから、今後、こうした超憲法的条約は増加することはあっても減少することはないであろう。EUにみられるような、各国主権の全面的な制約を目的とする条約が、わが国を巻き込む形で出現するかもしれない。そして、そうした状況こそが我が憲法の究極の理念ということができるであろう。
 ここでの問題は、憲法優位説から条約優位説に向けられた批判、すなわち超憲法的条約の存在を承認した場合には、条約締結という手段を通じて憲法改正が事実上可能になるという点である。この非難は、超憲法的な条約が、通常の条約締結手続だけで締結可能である、とする条約優位説の立場に依る限り、基本的に正しいものといわなければならない。
 確かに、そのような、通常の法律よりも簡略な方法で憲法改正を承認することは、硬性憲法の否定につながり、とうてい是認できるものではない。したがって超憲法的条約の承認手続きとしては、憲法に劣後する条約のように、単に憲法の定める手続きに従い、国会が承認を与えることで十分とすることは許されないといわなければならない。
 この結果、超憲法的な条約が、憲法に違反して制定されることがないようにするには、原則的には、条約の締結に先行して、憲法そのものの改正を行うほかはない、と考えられる。EUを作り出したマーストリヒト条約の承認に当たり、例えばフランスでは、憲法院において、条約と憲法の整合性を審査し、条約の一部が憲法に抵触することを指摘した。これを受けてその指摘箇所については、憲法改正を行った上で条約の承認を行った。これが、超憲法的条約の、一つの典型的な締結手続きと考えることができる。
 このように、超憲法的な条約を締結する場合には、わが国においても、必ずそれに先行して、憲法改正手続による事前承認を避けることはできないものといわなければならない。その手続を行うことなく締結された超憲法的な条約は、原則として、憲法の文言に抵触する限りで無効のものというべきである。
  2 憲法改正手続を要しない超憲法的条約の締結
 超憲法的条約が締結されるに当たり、常に、憲法改正手続きをとる必要があると考えるのは、しかし、実際的ではない。多くの超憲法的条約は、決して憲法秩序に反するものではなく、したがって実質的に改憲の機能を有しているとみる必要はないからである。
 どのような要件が存在すれば、上記原則の例外として、通常の憲法の定める手続きによる締結が許されるのであろうか。一つの試論として、次のような要件により分類してみたい。
  (1) 緊急事態における超憲法的条約の締結
 戦争その他の緊急時において、それを終結させるために一方の側の主権を制限あるいは否定する目的で締結される条約は、当然超憲法的な性格を持つ。典型的にはポツダム宣言の受諾に見られるような、降伏を承認する条約がそれである。
 こうした条約は、その基礎にある緊急状態のゆえに、特に憲法改正手続きをとることなく、必要な限度で、そうした条約の締結権が、時の国家権力に認められる、と考えるべきである。敗戦時に政府がそうした条約を締結することは、人類の長い歴史に一貫して認められてきたことである。したがって、政府がその場合に超憲法的条約の締結権限を有するということは、確立された国際法規、すなわち国際慣習法と考えることができよう。
 緊急事態における超憲法的条約は、特別の締結手続きを必要としない。しかし、普通は、憲法が定める条約締結手続きにしたがって締結される。例えば、ドイツビスマルク憲法11条に依れば、外国との条約の発効には帝国議会の承認が必要である。そこで、第1次大戦におけるドイツの降伏条約であるベルサイユ条約についても、帝国議会による承認決議が1919年6月23日に行われ、これに基づく条約の署名は6月28日に行われている。
 こうした、緊急事態を理由とした超憲法的な条約は、その本質から、常に限時法と考えるべきである。その緊急状態が続いている限りにおいては有効であるが、そうした緊急状態が終結した場合には、自動的にもとの憲法秩序が回復すると考えられる。それにより、憲法制定権力の同意を欠いた事実上の憲法改正は、可及的に治癒されることになる。例えば、オーストリアは、ナチスドイツにより1938年3月にドイツに統合され、それに伴い1919年制定の憲法も効力を失った。が、第2次大戦後、独立の回復とともに、その憲法が復活したのはその適例といえよう。
 条約締結後に、超憲法条約の違憲性を解消させるような手続が、憲法改正手続きにより行われた場合には、事後的承認手続きと認めることができ、このような緊急時超憲法条約の持つ欠陥はやはり治癒され、将来に向かって、その条約で作り出された状態の存続が可能となる。わが国が、憲法改正手続きを通じて現行憲法を制定したことは、そうした承認行為と見るべきである。その結果、わが国の独立が回復された後においても、旧憲法が復権して、天皇主権の状態に戻ることはないのである。
  (2) 平和時における超憲法的条約の締結
 平和時においては、原則として、憲法改正手続きを行うことなしに超憲法的条約を締結することは許されない、というべきである。しかし、例外的に、憲法により事前に授権がなされていた場合に限り、憲法改正を行うことなく、超憲法的条約の締結が可能であると考える。
 第1に、従来憲法が当然及ぶべき領域が、何らかの理由で欠落していた場合に、それを憲法が予定していた原状に回復させる条約である。この場合には、むしろ憲法の正常な秩序の回復となるから、その当然のことを定めた条約には、憲法制定権力による新たな承認は不要である。わが国の主権を回復させたサンフランシスコ平和条約あるいはその後における沖縄や小笠原の返還を定めた条約は、その範疇に属する。あるいは、ドイツにおけるザールランドの復帰もこの場合に数えてよいであろう。
 第2に、逆に、ある主権、領土や人民が、将来的に憲法秩序の下に属しないことを確定した条約であって、憲法の基本原理に合致している場合である。
 わが国が、わが国固有の領土を除いては領土的野心を持たないことは、現行憲法の採用する国際協調主義の必然の結論である。したがって、南極や宇宙についてわが国の領土とする可能性を排除する南極条約や宇宙条約の締結などは、そうした理由から、明らかに憲法の予定するところである。同様に、GATTやWTOなどの通商条約を締結することによりわが国通商主権を制限することもまた、国際協調主義の当然に許容するところといわなければならない。こうした超憲法的条約を締結することは、その意味で、憲法により予め授権があったと考えてよい。
 これに対して、憲法が明示的に、あるいは黙示的に、何らかの問題について一定の状態を想定していたと認められる場合には、それに反する条約は、憲法改正を行うことなく締結することは、できない。例えば、憲法9条によりわが国は交戦権を放棄している。したがって、交戦権の行使を対外的に約束することを内容とする条約を締結することは、憲法改正手続きをとることなしには不可能といわなければならない。

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四 憲法に劣後する条約と条約法条約
 憲法により授権された権限に基づき、内閣ないし内閣から授権された者によって、憲法の定める手続きに従い締結され、発効した条約は、その憲法に準拠していなければならない。その意味において、これらの条約は憲法に劣後するということができる。
 法律よりも上位の条約とは、最狭義の条約、すなわち憲法73条3号但書き及び61条の定めるところに従い、事前に、時宜によっては事後に国会の承認が必要な条約の意味である。承認が得られなかった条約は、違憲なものと評価とされねばならない。また、国会の承認が得られた条約も、その内容が憲法に抵触する場合には、やはり違憲と評価されることになる。
 先に述べたとおり、条約法条約は、超憲法的効力を有する条約の一つである。そして、憲法等重要な国内法に定める手続に違反する条約の国際法上の効力については、条約法条約46条が、また、その他、国内法違反の条約の国際法上の効力については同じくその27条が、それぞれ定めている。したがって、憲法に劣後する条約が、憲法に違反している場合の効力をどのように考えるかは、今日においては、憲法それ自体の解釈だけで決定できることではなく、条約法をどのように解釈しうるか、という問題との関連の中で考えられねばならない。
 したがって、73条3号但し書きの定める国会の条約承認権が、どのような性格のものであり、また、どのような限界に服するかについてもまた、憲法の解釈だけによって決定しうることではない。条約締結に関する国際慣習法及び条約法条約が、その基本的な枠を提供していると解さなければならないのである。そこで、以下に国際慣習法及び条約法条約との関連において、憲法の定める国会の条約承認権がどのような意味を持ちうるかを検討したい。

(一) 条約に関する国会の権限
 国会の承認権の性格については、条約締結を立法・執行両権の協同行為としての対外権と把握する説がある*21。しかしながら、条約の締結権が、基本的には元首の専権に属することは、古くはロックの二権分立説にまで遡ることができ、今日においては、確立した国際的な慣行といえる(国際慣習法)。したがって、超憲法的な性格を有する。
 そうした理由から、明治憲法の下では、条約の締結は天皇の専権事項とされた(同憲法13条参照)。現行憲法は、国民主権原理に則り、国会を国権の最高機関と定め、また、唯一の立法機関としている。それにも関わらず、条約締結権は国会の権限とせず、内閣の権限を定めた73条において規定したのもまた、こうした国際慣習法に従ったものと理解することができる。
 国会は、現行憲法の下において、ただ、73条3号但書きにおいて、事前、又は事後の承認権を認めているにとどまる。しかも、その承認手続きでは、予算と同一の、極度の優越性を衆議院に与えている(61条)。すなわち、法律の場合に比べて、政府の締結しようとしている条約案がそのまま承認される確率を高くしている。こうして、現行憲法における条約に関する国会の権限は、非常に限定的なものであることを、明確に認識しておく必要がある。
 さらに、その後に制定された条約法条約においても、議会が条約締結に関与する権限は認められていない。むしろ、その46条で、議会による承認を得られなかった条約が原則的に有効であることを予定している(この点については後に詳述する。)。したがって、依然としてその締結は、元首の権限として理解される。以上のような国際法とそれを受けての憲法の文言に照らす限り、対外的に、国会が内閣と協同して意思表示を行う余地はないと考えるべきである。
 これに対して、承認権と憲法が呼ぶものは、実は承認権ではなく、それとは逆の単純な否認権ととらえる説がある*22。従前の国際法の枠内では、この見解は非常に説得力がある。しかしながら、そうした硬直的な理解が今日において妥当するとは思われない。憲法の文言が「承認」というものであること、国際法的に見た場合にも、世界的に議会制民主主義を採用する国が普遍化するとともに、議会が条約の締結に当たり国内的に一定の発言権を有することが承認されてきており、それを受けて、後述するとおり、多国間条約の場合でさえも、留保その他の形で一定の限度で、条件付き批准権が認められるようになってきている。こうしたことを考えると、国会は条件さえ許せば積極的な内容改変の主張も許されると考えるべきである。
 国会の有する条約承認権は、対外的に元首の有する国際法上の条約締結権の範囲内に存在するにすぎない、と解する。すなわち、内閣の条約締結権に対して、国内的に認められた民主的コントロール手段である。したがって、締結権の範囲内にとどまる限り、承認の内容は自由でよい。
 このように、国会の承認権が元首の条約締結権の国内的コントロール手段として存在すると考える場合には、その権限の内容、換言すればその限界はどこにあるかは、条約の国際法上の締結権の行使形態によって決定されることになる。その点については項を改めて検討したい。

(二) 条約の締結手続き
  1 正規の条約の締結手続き
 条約の締結手続きは、基本的には国際慣習法に従うことになる。が、今日においては、条約法条約が、その相当部分を立法的に解決している。以下、それに準拠した形で簡単に説明する。
 条約とは先に定義した際に論及したとおり、原則的には国家間の合意である。利害の異なる国家間で合意を形成するには、それに先行して相当つっこんだ意見の交換による、利害の調整が必要である。意見の交換手段としては、単に書簡を取り交わす場合もあるが、私人間で合意を形成する場合と同じように、関係国を代表するものが直接話し合いを行って、その細かい内容を詰めるのが、通常のやり方である。その場合、交渉の細部に関して、いちいち交渉担当者が本国の指令を待っているようなやり方では、交渉を順調に進めることは不可能である。そこで、条約に参加する国では、特定の人にその条約の締結に必要な全ての権限を委ねて、交渉の場に送り出す。これを通常「全権代表」という。元首、政府の長及び外務大臣が交渉担当者であるときには、当然に全権代表であると認められる(条約法条約7条2項a)。その他の者を全権代表にする場合には、全権委任状 full powers を提示するのが通常である。
 全権代表は、随時、自ら必要と認めた要求を相手方に行い、また、相手側の要求に対して、独断で譲歩を行う権限を有しているから、柔軟に話し合いを行うことが可能である。もちろん、交渉の根幹部分に関して、全権代表の権限に、政府内部的に限定を加えておくことは可能である。その、予め政府に許容された限界を超える譲歩を行う必要が発生した場合には、一時交渉を中断して、本国政府に新たな指令を求めることも行われる(「訓電」を求める、という言い方がされる。)。
 こうして全権代表の間での交渉の結果、条約の内容について最終的に話し合いがまとまると、条約法条約は、締結に当たり、原則として採択、認証、署名という3段階の過程を順次踏むことを予定している。重要なのは、その最後の署名である。これは国家が条約に拘束されることについての同意の原則的な表明方法とされる(条約法条約12条)。署名行為のことを、記名、調印、記名調印等ということもある。原則として、あらゆる条約は関係各国の署名が終了した、その瞬間に発効する。
 仮に、全権代表が内部的な制約の限界を超えた譲歩を行って調印した場合にも、その制約は相手国に対して無効である(同47条)から、条約は有効に関係国すべてを拘束することになる。ただし、代表者に重要な点に関する錯誤が存在していたり(同48条)、代表者に対して他の交渉国による詐欺(同49条)や脅迫(同51条)が行われたり、代表者が買収されていた(同50条)場合には、その国は署名の無効を、すなわち国として条約に拘束されないことを、主張できる。
 このように署名により効力を生ずる条約の場合には、一般的には事前の国会承認は困難であるのが普通である*23。署名以前には、そもそも承認するべき条約の内容が定まっておらず、署名を行った瞬間に、条約は発効しているからである。したがって、この種の条約については、国会は原則として事後の承認をなし得るにすぎない。
 条約の内容が、政治的な重要性をもっているなどの場合には、署名や文書交換だけで直ちに発効させず、本国政府の承認行為を待って発効させることができる。この本国政府の承認行為のことを通常は「批准」ratification という。一方的に宣言された条約の批准の場合には受諾 acceptance(例えばポツダム宣言の受諾)や承認 approvalという言い方もされる(同14条)。また、国連憲章のように国際組織の基本条約の場合には加入 accessionという表現で批准が行われることもある(同15条)。
 批准権を本国政府に留保するには、条約文にその旨が書かれているか、批准を条件として政府代表者が署名した場合のほか、交渉国が批准を条件としていると、その他の方法で認められる必要がある*24。批准を条件としている条約に関しては、国会の事前承認は、問題なく可能である。したがって、国会の承認を要する性格の条約(最狭義の条約)については、全権代表は、原則として批准を必ず条件としなければならない。
かっては、批准は単純でなければならない、と説かれた*25。しかし、条約法条約は、一定の場合に、本国政府に批准に当たって条件を付することを認めている。これを留保という。また、条約の性格によっては、その一部だけを批准することも可能である。後に詳述する。
  2 簡略形式による条約の締結手続き
 近時、国際社会が大きく成長し、頻繁に条約を締結する必要が発生するようになってきたことから、上述のような正規の条約を締結する時間的、物的余裕に乏しくなってきた。このため、交換公文や共同声明に代表される、簡略な形式で締結される条約(以下「簡略条約」という*26。)が増加してきたといわれる。例えば、開発途上国に対するODA援助の協定は、ほとんど例外なく交換公文の形で締結される。こうした簡略条約では署名の代わりに、関係国相互間で文書の交換を行うことで条約を発効させる(条約法条約13条)。すなわち、簡略条約では、文書の交換の瞬間に発効するから、この場合にも、国会に事前の承認を求めることは困難である。
 この場合に、簡略条約が、すべて先に述べた内閣の権限の範囲内で締結可能な、換言すれば国会の承認の不要な条約であれば、問題はない。しかし、現実には、国家的にも政治的にも極めて重要度の高いものが、この簡略条約の形式で締結されている*27。したがって、簡略条約についても、国会の承認が必要なものは存在する。その場合、簡略条約の性格から、承認を事前に行うことは困難な場合が多いであろうから、原則として事後に行われざるを得ない。ただし、既に成立している多国間条約にわが国として後から加盟するような場合等であれば、条約の内容は事前に十分に明らかであるから、簡略条約においても事前承認の手続きをとることが、可能である場合があろう。

(三)国会による事前承認権の内容と限界
 先に論じたとおり、国会による条約の事前承認は、正式の手続きによる条約においては、原則として批准を必要とする場合においてのみ可能である。条約の事前承認に当たり、国会としてどのような内容の決議をしうるか、すなわち、承認に当たり、修正を条件とすることができるか、条約の可分の一部についてだけ承認しあるいは否認することができるか、というような問題が、従来憲法学説的に論じられてきた。
 前記のとおり、国会の事前の承認とは、原則として批准に先行して行われる承認の意味であること及び国会そのものには対外的な権限はないことを併せ考えると、国会が、条約の承認に当たり有する権限は、当然に、本国政府が条約を批准するに当たって有する権限の範囲内にとどまることになる。
 条約の批准に当たり、本国政府が有する権限については、二国間条約と多国間条約で分けて理解する必要がある。したがって、議会の条約承認権限も、また、その権限に対応する形で、分けて論じられなければならない。
  1 二国間条約における議会の条件付き承認決議等の効力
 二つの国の間で締結され、他の国に影響を与えない条約においては、条約署名後に、それぞれの議会で加えた修正等をどの限度で受け入れるかは、基本的に両国間の問題にすぎない。当事国で話し合いさえ付けば、既に署名された条約案に対してどのような修正を行うことも可能である。
 その結果、実際問題としていう限り、議会としても、条約の承認に当たり、どのような修正要求を行うことも基本的に可能ということができる。ただ、法律のような国内法の場合と異なり、相手のあることであるから、そうした修正要求が常に実現するとは限らない。相手方がその修正を拒否すれば、結局、条件付き修正決議は、承認拒否と同じ意味を持つことになる。
 また、条約の個々の条項ないしその中の特定の文言は、それ単独で存在しているものではなく、条約全体における両国の互譲から生まれてきたものである。したがって、特定の条項や文言において、相手国のさらなる譲歩を要求する場合、通常は他の条項等における自国の譲歩を必要とすることとなるであろう。そのため、再交渉の結果、当該部分については議会の要求通りの文言の修正が行われた場合にも、それに伴う新規の譲歩について承認するか否かは、再び議会の問題となる。結局、過去の条件付き承認は効力を失うことになるから、それもまた承認拒否と同じことになる。
 したがって、一般的にいうならば、修正条件付きの承認決議は、執行府に再交渉を命じた点に若干の相違があるものの、条約の承認拒否と基本的に同視するべきである。ただ、その結果修正された条約文言が、文字通り当初の修正決議の範囲内にとどまっていた場合には、既往の修正条件付き承認決議は文字通り有効なものとなり、再度の国会決議を不要とすることが許されるであろう。
 条約の可分の一部だけを承認し、あるいは否認する決議は有効、と一般に説かれる*28。しかし、一体的に交渉された条約の場合、両国の互譲は、その全体で行われているのが通例である。したがって、通常の国内法と同様の視点から、形式的に可分か否かにより、結果が異なると考えるべきではない。むしろ、交渉に当たって、両国の代表者が一体的なものと理解していたか否かが、そうした部分的承認決議の効力を決定することとなろう。すなわち、前述の修正付き承認決議と同様に、結果的に相手国がそうした部分承認を受諾すれば、その承認決議は有効であり、拒否すれば、結局不承認決議と同視するべきこととなる。
  2 多国間条約における議会の条件付き承認決議等の効力
 多数の国が一つの条約制定手続きに参画し、締結する場合が近時は非常に増加している。こうした多国間条約の場合には、条約本文は、既に多国間の協議により成立しているので、その文言の修正要求は、本国政府といえども行うことができない。したがって、国会が修正要求付きの承認決議を行った場合には、単純に否認の効果を発生することになる。ただし、その修正要求が、条約の文言の解釈として実現しうる範囲内であれば、「解釈宣言」という手法により対応する余地がある。これは、条約の特定の文言について、批准に当たって、その意味を特定する解釈を一方的に行うことをいう*29。このような解釈宣言は、他の条約批准国から異議が出ない限り有効と一般に理解されている。
 これに対して、条約の可分の一部については承認を拒絶し、あるいは拘束されることを拒否して、残部についてのみ行う承認決議については、事情が異なる。それについては従来、国際慣習法的に様々な取り扱い方法が生まれてきているが、今日では条約法条約が立法的に解決している点であるので、それにしたがって判断するべきである。すなわち条約法条約には、「留保」という手法が用意されている。
 留保とは、「国が、条約の特定の規定の自国への適用上その法的効果を排除し又は変更することを意図して、条約への署名、条約の批准、受諾若しくは承認又は条約への加入の際に単独に行う声明」をいう(条約法条約2条1項d)。留保は、原則として有効である*30。したがって、議会もまた、留保が可能な条約については、条約の可分の一部についてのみ不承認とする議決をすることが可能である。その場合、政府は、その部分について留保を行いつつ批准しなければならない。ただし、条約が当該留保を付することを禁じている場合及びそのような留保を付する場合が条約の趣旨及び目的と両立しないものである場合には、もちろん留保を行うことができない(同19条)。したがって、そのような条約に関する議会の留保条件付き議決もまた効力を持たない。その場合、条約全体の否決とみなさなければならない。
 また、実務上行われる手法として「選択」がある。すなわち、多国間条約が、より多くの国から批准されるように、国によっては異論のあり得る問題について、本来ならば一体的に制定されるべき条約の一部を、独立の条約としておく、という手法である*31。この場合には、当然に可分的な批准が認められる。その結果、議会の承認に当たっても特定条約だけに関する承認が可能である。

(四) 国会の事後承認権の内容と限界
 正式の条約でも、批准が留保されておらず、署名即発効となっている場合、若しくは簡略条約の場合であっても、先に述べたように、法律事項、財政事項ないし政治的に重要な条約については、国会が承認することが、憲法73条但し書きの要求であると解せられる。この場合には、国会は事後承認をせざるを得ない。事後承認の場合には、国会の修正決議は、それを有効とする手段がないため、単純に承認を拒絶した場合と理解されなければならない。
 国会の承認が得られない条約の効力は、わが国憲法の下においては、違憲の条約の一種となる。
 これについては、内容的に違憲の条約の場合とあわせて、次に項を改めて論じたい。

(五) 違憲の条約の効力
  1 憲法所定の手続に違反している条約について
 条約が有効に成立した後、事後に国会がそれを否決した場合の効果については、単純に憲法のレベルで考えれば、憲法の要求する有効要件を満たしていないのであるから、過去に遡って無効になると考えるのが妥当であろう。一方、国際的にはそうした条約であっても、誠実な遵守義務が課せられていることになる。こうしたことから、従来、憲法学的にも有効説、無効説、及び折衷説などが対立していた。今日においてもこうした対立が存在しているとする著書も散見される。
 しかし、今日においては先に述べたとおり条約法条約が成立し、その46条で、立法的な解決がなされたから、憲法解釈論として観念的に論ずる余地はもはやなくなった。次に同条の全文を紹介する。
「第1項 いずれの国も、条約に拘束されることについての同意が条約を締結する権能に関する国内法の規定に違反して表明されたという事実を、当該同意を無効にする根拠として援用することができない。ただし、違反が明白であり、かつ、基本的な重要性を有する国内法の規則に係るものである場合はこの限りではない。
 第2項 違反は、条約の締結に関し通常の慣行に従いかつ誠実に行動するいずれの国にとっても客観的に明らかであるような場合には、明白であるとされる。」
 したがって、今日においては、問題は、わが国憲法が条約優位説を採っているか憲法優位説を採っているかという点にあるのではなく、わが国憲法がいう国会の事後承認が、一般に条約法条約46条が要求している二つの条件を具備しているといえるかどうかという点にあることになる。肯定されれば憲法が国際的にも優位する事になり、いずれか一方だけでも否定されれば、国際的には条約が優位する事になる。
 国会の承認が条約の成立要件であるということは、憲法そのものの規定だから、「基本的重要性を有する国内法の規則に係るもの」であることは確かである。今一つの「違反が明白」かどうかについては、46条2項が更に詳しい解釈基準を与えている。先に述べたとおり、現行憲法の有権解釈として、狭義の条約に限定してさえも、すべての条約が国会の承認を必要とするわけではない。そして、承認の必要性の有無は国内法の解釈ないし予算の配賦の有無にかかっているので、これらは「条約の締結に関し通常の慣行に従いかつ誠実に行動するいずれの国にとっても客観的に明らかである」事実とはいえないと考える。したがって、条約の制定手続きの憲法違反という瑕疵を根拠に、その対外的無効を主張することは、通常は困難と考えられる*32。したがって、原則論的にいえば、国際法的側面に関する限り、条約優位説にしたがって理解する必要がある。
 以上のことからいうと、解釈法学的には、国会の事後における条約承認の拒否は、意味のない行為といわなければならない。予備費の支出に対する事後の承認拒否決議が、法的に意味がないのと同様に理解することができるであろう。
 こうした状態を打破するために、交渉当事者は、憲法上の義務として、条約交渉の過程において、最狭義の条約に属すること、したがって事前に、時宜によっては事後に、国会の承認を得る必要のあることを相手方に告知しなければならない、というべきである。その告知がなされている場合には、国会の事後承認が得られない場合には条約として憲法上認められないことが、相手国にとっても明らかである。その場合には、わが国として、その違憲性に基づく無効を対外的に主張できることになる。
  2 内容が憲法に違反している条約について
 憲法の規定に実質的に違反している条約の無効についても、同条約は明確な制限をおいている。すなわち27条に依れば、
「当事国は、条約の不履行を正当化する根拠として自国の国内法を援用することができない。」
とされる。憲法も国内法の一環であるから、同条約を批准した以上、わが国が締結した条約が、内容的に違憲であることから無効を対外的に主張することもまた、禁止されることを意味する。
 したがって、憲法に劣後し、その結果憲法の授権により締結される条約であっても、対外的には無条件で条約が優位すると理解すべきである。その場合、対内的関係においてはどうなるかについては、第六節において論じたい。

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五 法律に劣後する条約と条約法条約
 国会の承認が不要な条約は、先に述べたとおり、既に制定されている法律や予算による授権の範囲内の条約、及び、既に国会の承認を受けている条約の執行若しくは委任に基づく条約である。これらは、政令その他の命令と同格である。こうした法律等の授権によって制定された条約が、その授権規範よりも上位に立つと考えるのは論理的に矛盾である。したがって、これらの条約は、当然に法律よりも下位に立ち、劣後するものと考えなければならない。したがって、これらの条約は、憲法に抵触する内容である場合ばかりでなく、通常の法律や予算に違反する場合にも、国内的には違法であり、したがって無効と評価されるべきである。
 しかしながら、この場合にも、法律に優越する条約と同様に、やはり条約法条約27条が適用となる。したがって、それが条約である限り、国内法違反に基づいて、対外的に無効を主張できないのは当然であろう。
 この場合には、法律や予算に違反していることを、交渉当事者が認識していないか、認識しているにもかかわらず、あえて行おうとしている場合であろうから、優越する条約の場合と異なり、交渉当事者の責務を云々しても、実益のない議論となろう。

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六 条約の国内法上の効力
(一) 一元論と二元論の関係について
 一般に、国際法と国内法の関係については、一元論と二元論の対立があるといわれる*33。今もなお、かって論ぜられた両説の対立を、わが国の現状においてもそのまま受けた形で論ずることが可能とする者も、まだまだ多い。そして、憲法学的には一元論がおそらく多数説であろう*34。
 しかし、トリーペルやケルゼンが純粋に理論的に議論していた時代と異なり、今日においては、国際社会が著しい発達を見せており、それを受けて条約法条約27条及び46条が制定されているのである。それらの要素と切り離して、純粋に法学的見地から98条2項を論ずることは、解釈法学としては無意味である。
 一元論には、論理的には国際法優位説と国内法優位説があり得る。一元的法体系の下で、国際法が上位法となり、国内法が下位法となるのが前者であり、その逆が後者である。条約法条約27条は、常に国際法の優越を定めているから、その限りでは、国際法優位の一元論を採用していると読むことができる。しかし、これに対して、条約法条約46条は、先に紹介したとおり、国際法の国内法に対する優越を原則的に定めつつ、例外的に、国際法に対する関係においてすら国内法の優越を承認している。したがって、条約法条約を全体としてみれば、必ずしも国際法優位の一元論を採用しているとはいえない。一元論的に国際法が優位してしまえば、もはや例外を認める余地はないからである。ところが、例外的にであるにせよ、国内法の違憲、違法に基づく無効を対外的にも主張しうると同条はいう。
 これは明らかに、国際法と国内法という二元的な法体系の存在を前提にしつつ、両者が衝突する場面における調整方法を定めた、と理解すべきであろう。その限度で二元論的理解を、同条約は必然的に要求しているものということができる。しかし、かっての二元論は、国際法と国内法とが相互に完全に無関係とする。そうした二元論を同条が採用していないこともまた明らかである。
 すなわち、同条約の下では、国内法という法領域が、国際法とは一応は独立して存在を認められるのである。したがって、国内法的には、違憲、違法な条約については無効である。それにもかかわらず、両者が衝突した場合に、国際的には条約が優越するという法的処理を行っているのである。結果的に違憲の条約の誠実遵守義務を憲法上負う、という矛盾した行動を、原則的に要請することになっており、截然とした二元論ではない。したがって、そうした表現が妥当するか否かはともかく、実質的には折衷説を採っているということができよう。

(二) 条約に対する司法審査権
 このように、一定の限界内であるにせよ、国内法と国際法の二元的法体系の存在を前提とする場合には、条約は、その国内法的効力の側面については、司法審査の対象となりうるかという問題が生ずる。
  1 超憲法的な条約に対する司法審査
 超憲法的な条約の場合には、その条約が存在する限度で、憲法が自動的に修正されていると考えられるから、その合憲性は、必然的に司法審査の対象にはならない。
 但し、内閣及び国会が、憲法の事前の授権の範囲内という解釈の下に超憲法的条約を締結した場合に、実際には憲法秩序の枠から逸脱している、という場合があるであろう。その場合には、憲法制定権者からの承認を受けていないから、憲法は修正されていない。したがって、それが国内法的効力を有するか否かについては、違憲審査の対象となりうる。その場合には、結局、次に論ずる、憲法に劣後する条約に対する司法審査が可能か否かの問題と同様に考えればよいことになろう。
  2 憲法に劣後する条約に対する司法審査
 憲法に劣後する条約の場合にも、司法審査の対象から除外されるというのがかっての通説であった*35。
 すなわち憲法81条は、最高裁判所に、「法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限」を与えている。ここで問題は、列挙から条約が落ちていることである。同様に、憲法の最高法規性を定めた98条は、「その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」と定めて、この場合にも列挙から条約が落ちている。したがって、憲法の条規に反する条約は無効とはならず、したがって司法審査の対象にはならないと、文言上解釈できる。特に98条の場合、その第2項で「日本国が締結した条約・・は、これを誠実に遵守しなければならない」とあるから、1項で何かのミスで落ちたと見ることは無理で、意識的に列挙からはずしたと考えるほかはない。
 このような圧倒的な形式的根拠に、
@ 国家間の合意という特質を持ち、一国の意思だけで効力を失わせるこ とはできないこと、
A 極めて政治的な内容を含むものが多いこと、
という実質的な根拠を付け加えると、これがかって通説であった理由は容易に理解できる。
 これに対して、条約にも司法審査権は及ぶと考える説は、その形式的論理としては、
@ 81条ないし98条1項の「法律」という言葉に条約が含まれる
A 81条の「規則又は処分」等に条約が含まれる
B どの文言にも条約は含まれないが、憲法全体の精神・構造を根拠とし て司法審査が可能である
というような各種説が考えられるし、実際にも存在する。
 卑見によれば、条約は司法審査の対象となる。その場合、条文の読み方としては、「法律」に含めて読むのが妥当だと考える。ただし、ここで言う条約とは、条約一般のことではない。
 条約のほとんどは、国と国との国際法上の約束にすぎない。すなわち、条約それ自体は締約国の国民には何の権利も与えず、義務も課さない。すなわち、憲法41条にいうところの実質的意味の法律には該当せず、したがってそもそも司法審査の対象となるべき具体的事件性を生ずることがあり得ない。そうした条約を自力執行できないnon self-executing条約という。
 しかし、こうした条約で約束したところにしたがって、国として、自国民に何らかの権利を与えたり、義務を課したりする必要がある場合には、当然、憲法41条の定めるところにより、議会が法律として制定する。これを条約を国内法化する、という。砂川事件で問題となった旧日米安保条約に基づく刑事特例法はそうした法律の一例である。これは普通の法律であるから、憲法81条にいう「法律」に該当し、当然に司法審査の対象となる(逆から言うと、条約の司法審査適合性を否定する場合には、こうした法律の司法審査適合性も否定しないと、説としての意味を持たない。)。いわゆる砂川事件において、旧日米安全保障条約が、その執行の目的に作られた国内法の司法審査という形式を通して、間接的に司法審査の対象となったのは、この適例である(昭和34年12月16日最高裁判所大法廷判決、刑集13巻13号3225頁)。
 したがって、条約の司法審査の可否という問題は、国際条約でありながら、そのまま国内に適用できる self-executing条約である場合にのみ生ずる。
 イギリスなどは二元主義の下、そうした場合にも原則的に国内法化の手続きをとっているという*36。これに対して、わが国の場合には、明治憲法時代以来、わざわざ国内法化の手続きをとらずに、条約の、天皇による公布により直ちに国内法としての効力を持つ、として取り扱う慣行が確立している。国際人権規約で、わが国にそのまま適用できない規定については、あるいは留保をし、あるいは解釈宣言を出し、その他の規定はそのまま国内法的効力を認めているのはその例である。その根拠は、98条2項そのものに求めることができる。
 この場合、国際法は、国際法そのものの形で、同時に国内法としての効力を認められるという二重の性格を認めることができる。そこで、この国内法的効力の部分についてのみ、司法審査ができないのか、という問題が起こるのである。
 同様に国内法的効力を有する法規範が、条約がそのまま国内執行が可能な形式で定められているか、そのままでは不能な形式で定められているにより、司法審査の対象となったりならなかったりするのは、国民の裁判を受ける権利の保障という観点からみて、不当というべきであろう。したがって、こうしたself-executingな条約に関しては、その国内法的効力に関する限り、単に法律の制定が国会の承認という形式を採用することにより略されているのであって、事実上は法律があるとみなすことが許される、と考える。その場合、条約の国内法的側面については、81条の解釈では法律に含めてよい、と考える。そして、司法審査の結果、違憲という判決が下ったとしても、その判決の効力が及ぶのは国内法的な側面だけであるから、国際法の側面に関しては、依然として憲法98条2項及び条約法条約に従って誠実に遵守しなければならない、ということになる。
 その場合、否定説があげた実質的根拠をどのように考えるかが問題であるが、このように二元論的に考えることを前提に考えると、次のように反論することが可能である。
@ 国家間の合意という特質は、条約の国内法的側面の司法審査まで否定する意味を持つとは考えられない。むしろ、条約を執行するため制定された国内法については、問題なく司法審査が及ぶこととの比較からいって、条約の国内法的側面についての司法審査を否定することはバランスを失する。
A 条約が、一般に政治性が強いと考えるのは誤りである。今日においては、条約の圧倒的多数は、簡略形式で実施されるもので、それらの大半は、単に国内法や予算の枠内で行われる行政執行的性格の強いもので、政治性はほとんどないか、弱いものである。確かに、条約の中には政治性が強いものもあるが、そうした問題は法律についても生ずる。政治性の強い法律についていわれる理論である、立法裁量論や統治行為論の適用可能性が、条約についても承認されれば十分である。条約一般に司法審査権が及ばない理由とはならない。

[おわりに]
 この問題は、かってあまりにも議論されたために、条約法条約の採択及びわが国の批准という大きな出来事が起きたにも関わらず、それを受けての憲法サイドからの検討があまりに不足している、というのが本稿を執筆した動機である。書いてみて、改めて自分自身の国際法知識の不足を痛感した。しかし、憲法側からの問題の整理が必要であるという、基本的認識そのものは揺るがないので、あえて公表することとした。おそらく、国際法の専門家からみれば、幾多の誤りがあると思われる。厳しいご批判をお待ちしている。

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*1 憲法と条約に関するこれまでの論争は、きわめて膨大なものである。たとえば、清宮四郎『憲法T[第3版]』有斐閣法律学全集3,昭和54年刊、452頁には、実に53の研究書・論文が参考文献として掲記されている。しかし、本文において詳述しているとおり、本稿においては、わが国が昭和56年に批准した条約法に関するウィーン条約が、この論争に与えたインパクトを重視している。したがって、それ以前に書かれた書物、論文は、その歴史的意義等はともかく、今日の時点における議論に決定的影響を与えるものではない、と考える。そこで、以下、関係学説を紹介するに当たっては、それら古い時点での論文等は、学説の全体状況を概観するのに必要な代表的なものにとどめ、悉皆的な紹介は行っていないことを、あらかじめお断りしておきたい。
*2 以下に、現実に国際間の合意で使用されている文言の例を示す。
@条約 treaty、   A協約 convention、B協定 agreement、
C憲章 charter   D規約 covenant、 E議定書 protocol、
F決定書 act、 G宣言 declaration H取決め arrangement
I公文 note     J覚書 memorandum K声明 statement
 これは、単に代表的な例を示しただけで、悉皆的なものではない。このうち、最後の三つは特に後に述べる簡略形式による条約としてはしばしば使用される形式である。
*3 「確立された国際法規」には「確立された」という修飾語がある。これは、「わが国が締結した条約」との対比から考えても、わが国の主体的関与なしに既に成立しているという事実を意味すると解するのが妥当であろう。わが国がその成立に当たって関与していないにもかかわらず、誠実な遵守を要求されるものであるから、この語が意味するのは、国際慣習法と考えられる。このように概念すれば、文言に反することなく、両概念を使用することにより、98条2項が、宣言しているすべてがカバーされるという意味でも、これが正しいと考える。
*4 例えば、高野雄一は次のように定義する。
「一定の国際法上の効果を生み出すこと(国際法上の権利義務の発生、変更、消滅)を目的とする二または二以上の国際法上の主体の間の明示的な意思表示の合致(約束)である。」(『新版国際法概論(下)』弘文堂法律学講座双書、昭和47年刊、7頁)
 ただし、横田喜三郎の場合には、定義中には国際法という限定が含まれない。すなわち
「国家または国際団体の間の合意であって、文書に作成され、その間に法的拘束力を持つもの」(『国際法U』有斐閣法律学全集56、昭和33年刊、263頁)
*5 例えば佐藤幸治は次のように定義する。
「外国との間における国際法上の権利・義務関係の創設・変更に関わる文書による法的合意」(『憲法[第3版]』、青林書院新社、平成7年刊、175頁)。
 また、阪本昌成は次のように定義する。
「国際法上の主体間の合意によって成立し、国際的権利義務関係を形成変更せしめる一切の成文法をいう。」(『憲法理論T』成文堂、1993年刊、81頁)
*6 宮沢俊義は「あらゆる種類の外国と日本との合意」と定義する(芦部信喜補訂『日本国憲法』日本評論社1978年刊、807頁参照)。したがって、ここに述べる政治的義務の宣言なども条約に属することになる。確かに次注に述べるとおり、これを広義の条約と区別するのは、実益がなく、その意味で多分に概念法学の嫌いがあるが、98条の文言からする限り、やはり法的合意に限るとせざるを得ないものと解する。
*7 法規範性のない国際合意は、遵守を要しないということではない。憲法前文第3文にいう「政治道徳」等の一環として、誠実な遵守が、やはり要請されると理解すべきである。その意味では、法規範性を要素とするのは実益のない区分、と言えるが、文言解釈である以上、やむを得ない、と考える。
*8 条約法条約は、当初は国家間の条約だけに限定して定められ、国家と国際組織及び国際組織相互間の条約については対象外とされた。しかし、国際組織締結条約に関してのそれも1986年には国連総会で採択されている。
*9 個人に国際法上の主体として行動する権能を認めている条約としては、例えば「市民的権利及び政治的権利に関する国際規約の選択議定書」がある。これは、いわゆる国際人権B規約の保障する権利を条約締約国が侵害している場合に、B規約に基づいて設立されている人権委員会に対して申し立てる権利を個人に認めたものである。但し、わが国はこの選択議定書は未だ批准していない。
*10 これまでの注で紹介した者以外では、例えば、長尾一紘は「文書による国家間の合意」と定義する(『日本国憲法』新版、世界思想社、1988年刊、494頁)。芦部信喜(『憲法』岩波書店、1993年刊、233頁)、伊藤正己(『憲法[第3版]』弘文堂法律学講座双書、編成7年刊、684頁)も全く同一の定義を採用する。
*11 一般に、憲法の学説が、条約に文書性を要求しているのは、本文に述べたところと異なる狙いである。すなわち「確立された国際法規」を不文法、「条約」を成文法とすることで、98条2項の文言を明確に区分することを狙っている。この立場はさらに、国際法規には超憲法的な効力を認めるのに対して、条約は一律に憲法に劣後する、と構成する(例えば、法学協会編『註解日本国憲法(下)』1480頁、宮沢俊義前掲書818頁等)。しかし、第1に、このような小手先の解釈では本文に述べたような問題が生ずること、第2に、この不当性を回避しようとすれば、わが国が主体的に関与して成立した不文の国際合意は、国際法規に含めて理解する必要が生ずるであろうが、それは「確立された」という文言に反して適切な解釈とは言えないと考える(注3参照)。第3に、筆者は、本文で後述するとおり、超憲法的な効力のある条約の存在を承認すること等から、こうした硬直的な解釈はとらない。
*12 実務者間で締結された合意としては、例えば日米貿易交渉に基づく合意などが適例であろう。
*13 国家間の私法上の合意は、条約に含まれないとする記述は、憲法学ではかなり一般的である。たとえば宮沢俊義前掲書808頁、佐藤幸治前掲書175頁、清宮四郎『憲法』第3版443頁、伊藤正己前掲書685頁等。
 なお、長尾前掲書648頁は、私法上の契約は、73条但し書きの条約には含まれないとする。したがって、広義の条約の一環としては承認しているものと思われる。確かに、そうした契約は、通常実務者間で締結されるであろうから、73条但し書きの条約には含まれない可能性は高く、実際上はこれで問題は起こらないであろう。ただ、その金額や政治的重要性によっては、含まれる場合も皆無とはいえないのではないか。その意味で、一律排除が理論的に妥当か否かについては疑問を呈しておきたい。
*14 宮沢前掲書808頁は、ここに引用した「日本国家が外国の国有の土地を賃借する契約」を純然たる私人としての立場で締結したものの例とする。
*15 民主主義に従う各国では、わが国と同様に、条約締結に関して議会の承認権を認めるのが通例である。しかし、すべての条約について議会の承認を必要、とする国はなく、ここにあげたものと基本的には同様の論理に基づいて、議会の承認権の範囲を限定しているのが通例である。アメリカ合衆国、イギリス、フランス、ドイツ及びイタリアの制度については、小川芳彦著『条約法の理論』東信堂1989年刊、52頁以下参照。
*16 国会の承認を経た条約の範囲内で実施しうる国際約束については、改めて国会の承認は不要なことは、最高裁判決のあるところである(昭和34年12月16日大法廷判決、刑集13巻13号3225頁)。これは、いわゆる砂川事件上告審で、旧日米安全保障条約3条に基づく行政協定の有効性を巡る判決である。学説は、同条が「アメリカ合衆国の軍隊の日本国内及びその付近における配備を規律する条件は、両政府間の行政協定で決定する」とあるに過ぎないことから、白紙委任であることをもって、この条約の合憲性を問題視するが、委任の範囲内に属していれば、国会の承認を必要としないことについては一般に異論を示さない。
*17 政治的重要性の高い条約は、その政治性の故に、往々にして秘密交渉でまとめられ、署名即発効という形式をとることが、むしろ多い。過去に日本が締結した条約でも、日英同盟、日独伊防共協定などは、いずれもわが国の命運に直結した重要な条約であったが、それにも関わらず、第3国であるロシアに重要な影響を及ぼすものであるところから、全く秘密に交渉され、かつ、署名と同時に発効するものとされた。外交の特殊性から考えれば、こうしたことは今後のわが国でも当然にあり得るであろう。
*18 多くの教科書では、憲法の条文ごとに、その意味するところが違うこと自体を十分認識せず、すべての条文で同一の解釈が採りうるかのような記述をしている例が散見される。例えば佐藤幸治前掲書における定義は、憲法73条の箇所において、条約の多義性の説明抜きで書かれている。
 また、野村敬造は「学説も、条約につき国会の承認を必要とし、天皇の公布を定め、条約及び確立された国際法規の順守を規定している」ことを国内法と国際法の一元説の根拠としてあげていると述べており、明らかに各条文の内容が同一であるという前提に立っているものと思われる(「条約の国内法的効力」『憲法の争点[新版]』有斐閣昭和60年刊265頁)。が、本文に述べた理由から、明らかに不当と考える。
*19 国際法規が憲法に優位すると解する点については、例えば、法学協会前掲書1848頁、宮沢俊義前掲書818頁等。なお、確立された国際法規は、憲法の基本的な部分に対しては下位であるが、憲法のその他の部分に対しては同等又は優位する、という説(小林直樹『新版憲法講義(下)』東京大学出版会、528頁)も、この一環として数えてよいであろう。
 これに対して、憲法に劣後する、とする説も存在する(佐藤功『日本国憲法概説』)。
 なお、国際慣習法に抵触する条約を制定することが可能であり、その場合、その条約が特別法として国際慣習法に優先することを根拠に、国際慣習法が憲法に優越することに関する疑問を呈する者がある(例えば加藤英俊「確立された国際法規」『憲法の争点(新版)』264頁及び同箇所引用書参照)。しかし、これは本文(4)に述べたとおり、条約には新たな国際秩序を作り出す目的で制定されるものがあり、それもやはり国際慣習法と同様に、超憲法的な性質を持つものがあることを看過していることから生ずる誤解である。
*20 佐藤幸治は「『確立された国際法規』(国際社会で一般に承認・実行されている慣習国際法)を成文化した条約や、あるいは領土や降伏などに関する条約は憲法に優位するとみるべきであろう」(前掲書32頁)と述べて、ほぼ本文に近い見解を示される。
*21 条約締結を立法・執行両権の共同行為としての対外権と把握する代表的な論者としては芦部信喜「条約の締結と国会の承認権」『憲法と議会政』東京大学出版会1971年刊、205頁以下参照。
*22 承認権と憲法が呼ぶものは、実は承認権ではなく、それとは逆の否認権ととらえるわが国での代表的な論者として、阪本昌成がある。すなわち、国会の承認権とは条約の「制定につき『阻止する権限』(立法権又は財政決定権を防衛する権限)を承認権という形で国会に与えたものと解するのが妥当である。その『阻止する権限』は、条約を修正する権限ではなく、一括して承認するか、それとも否認するかの権限である」(前掲書265頁)と説く。
*23 署名で発効する条約の場合でも、事前承認が全く不可能であるわけではない。最終案が固まった段階で、署名を保留して、本国の判断を待てばよいからである。先に超憲法的条約の例として挙げたベルサイユ条約の場合、ドイツではまさにそうした手続により、議会による事前承認の後、全権代表の署名により条約は発効した。
*24 批准は、国際法学者から見た場合には、たとえば条約そのものには異論がないのに、批准が国内政争の手段として使用されたりしていたずらに発効が遅れるなど、むしろ弊害が多いので、円満な国際関係のためには望ましいものではない、として批判的に見られる(たとえば横田喜三郎前掲書275頁参照)。しかし、本文に述べたとおり、国会の承認権の実質性を確保するためには必須であり、憲法学としてみる限り、望ましいどころか、常に必要としなければならない。
*25 「批准は単純に行われなくてはならない」(横田前掲書279頁より引用)とされる。これは、批准は、全権代表の署名した条約に対して、そのまま行われねばならず、部分的に、あるいは条件付きで批准するということはできない、という意味である。条約の内容は、署名によって確定しており、批准はそれを本国政府が単に最終的に確認するための行為と理解するからである。この点については、高野雄一前掲書下巻47頁参照。
*26 簡略形式による条約の名称の代表的なものを次にあげる。
@交換公文 exchangeof notes  A合意覚書 memorandum of agreement
B了解覚書 memorandum of understandings C共同声明 joint statement
D合意議事録 agreed minute  E協定 accord
F協議書 letters reversales  G交換書簡 exchange of letters
 この場合も、それに使われるすべての名称を悉皆的にあげたものではない。また、用語も正式の条約と明確に分かれているわけではなく、議定書や協定書その他の名称が使用されることもよくある。
*27 小川芳彦は、次のような場合に簡略条約の締結例があるという。
「簡略条約が対象とする事項は、借款供与、航空業務協定の改正、査証の廃止、技術協力計画の実施、防衛事項の規制、補償、賠償、文化的財政的事項など多方面にわたっており、主として行政的技術的性質の事項が多いことは事実であるが、締約国の重大利益にふれるような事項を取扱うこともある。たとえば、同盟の締結、外交関係の樹立、保護領の確認、政権の承認、領土の割譲といった重要な政治的行為が、簡略形式によって約束されることがあり、具体的な例としては、インドシナにおける衝突を終わらせるための決定書、パレスチナ分割案を受諾する議定書、ラオス中立に関する協定及び関税と貿易に関する一般協定(GATT)などがある。」(『条約法の理論』東信堂1989年刊、49頁より引用)
*28 条約の可分の一部の承認が可能とするものとして、たとえば宮沢前掲書565頁。清宮前掲書446頁等。
*29 解釈宣言の例を、国際人権規約の批准に当たりみることができる。すなわち結社の自由及び団結権が、警察の構成員には合法的な制限を課することを認めている規定(前者につき「市民的及び政治的権利に関する国際規約」(以下「B規約」という。)22条2項、後者につき「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」(以下「A規約」という)8条2項)にいう警察の構成員には、消防職員が含まれるという解釈宣言を行っている。
*30 わが国が留保を行っている例もまた国際人権規約の批准にみることができる。すなわちA規約に関して、わが国は、@公の休日についての報酬を支払うことを国が確保すべき労働条件の内容とする規定(7条d)、A労働者が同盟罷業をする権利を保障する規定(8条1項d)及びB中等教育及び高等教育に無償教育を漸進的に導入する義務を国に定めた規定(13条2項b及びc)に拘束されない権利を留保している。
*31 国際人権規約は、A規約及びB規約のほか、「市民的及び政治的権利に関する国際規約の選択議定書」及び「死刑の廃止を目指す『市民的及び政治的権利に関する国際規約』の第2選択議定書」の4つの条約に分割して制定されている。これらは、制定者の意思的には一体的な条約であるが、あえて可分にしてあるので、問題なく、その一部についてのみ批准することができる。ちなみにわが国は、AB両規約を批准しているのみで、選択議定書についてはいずれも批准していない。
*32 条約法条約46条の解釈に基づき、本稿とは逆に、原則的に憲法違反の条約の対外的無効を主張できると解釈する者として、
 戸波江二『憲法』ぎょうせい地方公務員の法律全集1、平成6年刊、453頁参照。
 また、芦部信喜前掲『憲法』234頁は、46条そのものは条件付き有効説であることを承認しているが、結論的に条件付き無効説と解することが可能とする。ただし理由は述べられていない。
*33 一元説と二元説の関係については、非常に多くの書が論及しているので、一々引用しない。判りやすく、詳細なものとして、田畑茂二郎『国際法T』有斐閣法律学全集55,昭和32年刊、123頁以下参照。
*34 宮沢俊義前掲書810頁では、それが通説としている。しかし、近時は、一元論・二元論に論及しない書も多く、さらに積極的に、こうした対立があるとして把握すること自体、意味が低下していると説く者が増加している(たとえば、佐藤幸治前掲書29頁、内野正幸『憲法解釈の論点』日本評論社、1990年刊、179頁等)。また、憲法学における一元論か二元論かは、単に条約を国内法化するに当たってどのような手続を必要とするか、という議論に過ぎないと断ずる者もある(阪本昌成前掲書83頁等)。こうしたことから、もはや従来の意味における一元論を通説というのには無理のある状況と思われる。
*35 宮沢俊義前掲書673頁では、それが通説としている。そして佐藤幸治前掲書345頁では、今日もそれが通説としているが、疑問である。今日では、管見の限りでは、むしろ司法審査の対象となるとする方が多数説になっている。
*36 イギリスの二元主義は、同国が議会に憲法上条約承認権を全面的に承認していないことから来る、といわれる。すなわち、条約の国内法化の手続を通じて、条約締結に対する議会の承認を得るのである。また、国内法的な効果を持つ必要のない条約については、条約を承認する法律の制定が行われることもある。こうした同国の憲法慣習は、わが国を始めとする各国における議会による条約承認制度そのものが、国内法化の効果を持つことの一つの根拠としうるのではないか、と考える。
 なお、同国の場合、近時では、条約が議会の承認を成立要件あるいは発効要件としているものについては、各国と同様に単なる承認も行われるようになっているという。同国の詳細については藤田晴子「国会と条約」『議会制度の諸問題』立花書房、昭和60年刊、258頁以下参照。

 

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