職業の自由に対する規制と司法審査

     

目次


[はじめに]
一 公共の福祉と制約の形態
(一) 公共の福祉に関する学説略史
  1 法律の留保代用説
  2 訓示規定説
  3 一元的内在説
(二) 二二条における公共の福祉概念
  1 公共の福祉と消極規制及び積極規制の関係
  (1) 自由権と消極規制
  (2) 社会権と積極規制
  2 職業の自由と事前抑制
(三) 職業選択の自由における政策的制約
二 職業選択における立法裁量論と審査基準論
(一) 概念の内容
(二) 薬事法違憲判決の分析
(三) 小売市場判決の分析
(四) 結論
三 職業遂行の自由における司法審査の特徴
(一) 職業遂行の自由に関する判例の分析
(二) 共有林分割制限違憲判決の分析
  1 職業の自由と財産権の自由の関係について
  2 本判決における立法裁量論の特徴
(三) 結論
[おわりに]

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[はじめに]
 先に、「精神的自由権としての職業の自由」と題する論文を発表した(以下、「前稿」と略称する)(1)。
 その内容を略述すれば、次の通りである。第一に、職業選択の自由は、自らの人格の対社会的表現の自由であって、精神的自由権の一環として強力な保障が必要である。ただし、人格の持続的表現という点で、一過性の表現に過ぎない他の精神的自由権との大きな差異を示すことになる。第二に、職業の自由のうち、憲法が人権として強力に保障しているのは、文言上明らかに職業選択の自由に限定される。したがって、職業遂行の自由は、憲法的保障の対象とはされない。但し、職業遂行の自由の制約の結果、実質的に職業選択の自由を制約していると認められる状態に達した場合には、職業選択の自由に対する侵害として、実質的には憲法的保障が与えられることになる。
 本稿においては、具体的な規制の実態を分析することにより、通説のように、職業の自由を経済的自由の一環と把握し、かつ、職業遂行の自由を職業選択の自由の一環として、憲法的保障の対象と理解するよりも、前稿に示した解釈の方が、社会の実態により適合していることを論証したい。その手段として、従来判例等で取りあげられてきた様々なケースについて、裁判の場における憲法判断はどのようなものであったか、そしてどのように解すべきかについて分析、検討することにより、職業選択の自由を、むしろ精神的自由権として理解し、かつ、職業選択の自由と職業遂行の自由とでは判断基準を異にしていると考える方が、判例のより合理的理解につながることを明らかにしたい。また、その議論の一環として、立法裁量論と審査基準論の関係についても検討することとしたい。

一 公共の福祉と制約の形態
(一) 公共の福祉に関する学説略史
 本条には、一三条の予定する一般的な公共の福祉による制約とは別に、公共の福祉による制約を予定する文言が、特に置かれている。そのことを根拠として、通常の人権に認められる内在的制約に加えて、政策的制約も肯定されることについては、学説上、あまり異論はない。しかし、この政策的制約なる概念が何を意味しているのかは、必ずしも明確ではない。ここで、簡単に公共の福祉という用語に関する学説の歴史を振り返ってみたい。
  1 法律の留保代用説
 現行憲法の初期における公共の福祉概念は、明治憲法の定める「法律の留保」概念の下にある人権概念に親しんできた憲法学者達によって構築された。彼らは、すべての人権が留保なしに保障されるという状況に非常な恐怖感を覚えたのである。そこで、現行憲法下の人権も当然に一定の制約の下にあるべきだ、という前提から出発して、憲法中からそれと整合させうる文言を探した。そこで着目されたのが、本項の主題である公共の福祉という文言だったのである。例えば、美濃部達吉は次のようにいう。
「自由であるからといって自分の欲するままにいかなることでもなしうるというのではなく、他人の同様の権利及び自由を尊重しなければならぬことはもちろん、公共の安寧秩序を紊乱してはならぬ。国民の基本的権利はただこれらの制限の下においてのみ認められるのである。」(2)
 すなわち、美濃部達吉に代表される初期の通説は、明治憲法における法律の留保に代わるものとして公共の福祉概念をとらえた(以下、「法律の留保代用説」という)。だから、その意味を公益ないし公共の安寧秩序と理解し、その判断権者として国会を擬した。ここでの公共の福祉は、人権の内容とは関係なく、公的必要性として外から来るものとして把握されている。昭和二三年の死刑違憲訴訟に関する最高裁判決(3)が、「生命は尊貴である。一人の生命は、全地球よりも重い。」と大上段に構えながら、その直後に無造作に「公共の福祉という基本原則に反する場合には、生命に対する国民の権利といえども立法上制約乃至剥奪されることを当然に予想しているものと言わねばならぬ」と切って捨てているのは、この立場の典型的な現れである。
  2 訓示規定説
 このような戦前の残滓とも言うべき説に対して、現代人権思想に則った解釈を示そうという努力が直ちに現れてきた。その代表な主張を、註解日本国憲法に見よう。それによれば、一三条は、
「強力な保障を持つ権利と自由とを与えられた国民の側に、一定の倫理的な指針を示したものであり、『自由または権利に伴う、いわば個人の心構えとしての、内在的限界』を明らかにしているにすぎないのである。」(4)
 この説は、公共の福祉という文言が、一二条、一三条という総論規定のほかに、二二条及び二九条という個別規定にも現れている点に目を付けて、公共の福祉を二種類に分類するという立場を打ち出した。すなわち、基本的に法律の留保代用説を旧憲法の亡霊として排斥する一方で、現行憲法中の公共の福祉概念を、自由国家的な公共の福祉と社会国家的な公共の福祉とに分類したのである。二二条や二九条の公共の福祉は社会国家的な制約に服するもので、法律の留保代用説と同様に外在的制約に属するが、一二条や一三条は、単なる倫理的な制約を説くものに過ぎず、実質的に人権を制約する場合の根拠とすることはできない、と説いたのである(以下、「訓示規定説」という(5))。これは法律の留保代用説に対する鋭い批判で、まさに戦後の人権学説の第一歩と言えるものだが、いくつかの根本的な欠陥をはらんでいた。
 第一に、社会国家的制約ならばなぜ外在的制約が許されるのか、という理由がはっきりしないことである。よりはっきり言うならば、現行憲法のよって立つ個人主義原理の下で、すなわち全体の利益に反してでも必要とあらば個人の権利を守るという原理の下で、なぜ公益ということが人権の制約原理になるのかが判らないのである。第二に、自由権についても実は無限に人権の享有が許されるのではなく、権利に内在する制約はある、と説くのだが、その内在的制約という概念の内容もまたはっきりしなかったことである。そして、第三に、現行の人権カタログに掲載されていないが、憲法制定後のわが国社会の変化に応じて登場してきた新しい人権、すなわち無名基本権のために、一三条が、その積極的な根拠として活用される必要が増大してきたが、そのことと、この説の前提としている一三条が単なる訓示規定だという考えとが融和しにくいことである。
  3 一元的内在説
 こうした膠着状況を打開したのが、宮沢俊義の説かれた一元的内在説である。それによれば、まず、内在的制約とは実質的公平の原理、すなわち人権と人権の衝突の場面における調整原理である、と内在的制約の概念を確立する。その上で、自由権的制約と社会権的制約との差を、内在的制約の、個々の権利における差異として説明する。
「これを交通信号にたとえていえば、自由国家的公共の福祉は、すべての人を平等に進行させるために、あるいは青、あるいは赤の信号で整理する原理であるに対して、社会国家的公共の福祉は、特に婦人・子供・老人または病人を優先的に進ませるために、他の人間や車をストップさせる原理であるとも言えようか」(6)
というたとえは非常にわかりが良いと思う(7)(以下、「一元的内在説」という)。
 このように、個別の人権ごとに、それぞれの内在的制約の内容を検討して初めて、人権についての制約原理が明らかになるということは、公共の福祉概念というものが、総論レベルでの統一概念としては、この説によりとどめを刺され、終止符を打ったということを意味する(8)。すなわち、この一元的内在説を受け入れる限り、公共の福祉というのは、単なる内在的制約という言葉と同義のテクニカルタームであるにすぎない。ただ、憲法解釈論としては、条文上の根拠を上げうるものは、可能な限り条文に即して議論するのが妥当と考えられるので、一三条を根拠として議論されることになる。
 各論段階で、個別の権利に関して、ここに述べた原理とは別の原理からの制約原理(政策的制約)が出現することがあるのは、一三条の公共の福祉とは別の問題と考えるべきである。二二条の場合のそれについては、改めて後述したい(本稿一(三)参照)。
(二) 二二条における公共の福祉概念
  1 公共の福祉と消極規制及び積極規制の関係
 二二条においては、従来、積極規制と消極規制という二種類の制約手法の存在が認められてきた。その場合、消極規制を内在的制約と、そして積極規制を政策的制約と説明するのが通説となりつつある(9)。しかし、それは不当と考える。前述のとおり、一元的内在説によれば、自由国家的公共の福祉と社会国家的公共の福祉のいずれもが、一三条にいう公共の福祉として、内在的制約と説明しうるからである。すなわち、自由国家的公共の福祉に基づく規制が消極規制であり、社会国家的公共の福祉に基づく規制が積極規制であると理解することができる。積極規制を政策規制として説明することは、規制の範囲をいたずらに過大にする可能性を秘めた、危険な説明の仕方と考える。
 この点、薬事法の定める薬局間の距離制限が問題となった事案(以下「薬事法違憲判決」という)(10)において、最高裁判所は、両者を内在的制約と把握する見解を、次のとおり、明確に述べている。
「職業は、それ自身のうちになんらかの制約の必要性が内在する社会的活動であるが、その種類、性質、内容、社会的意義及び影響がきわめて多種多様であるため、その規制を要求する社会的理由ないし目的も、国民経済の円満な発展や社会公共の便宜の促進、経済的弱者の保護等の社会政策及び経済政策上の積極的なものから、社会生活における安全の保障や秩序の維持等の消極的なものに至るまで千差万別で、その重要性も区々にわたるのである。そしてこれに対応して、現実に職業の自由に対して加えられる制限も、あるいは特定の職業につき私人による遂行を一切禁止してこれを国家又は公共団体の専業とし、あるいは一定の条件をみたした者にのみこれを認め、更に、場合によつては、進んでそれらの者に職業の継続、遂行の義務を課し、あるいは職業の開始、継続、廃止の自由を認めながらその遂行の方法又は態様について規制する等、それぞれの事情に応じて各種各様の形をとることとなる」。
 ただし、裁判所の判決が常に一元的内在説を採用しているという訳ではない。小売市場間の距離制限が問題となった事案(以下「小売市場事件判決」という)(11)においては、最高裁判所は、消極規制と政策的規制という分類をしている(12)。
 一元的内在説に従えば、自由国家的公共の福祉とは、ある者の人権を制約する根拠が、他者の自由権にある場合を意味する。同様に、社会国家的公共の福祉とは、ある者の人権を制約する根拠が、他者の社会権にある場合を意味する。このように、職業の自由を規制する根拠となる他者の人権が自由権か社会権かということは、規制の可否や態様に大きな差異を与えるものと考えられる。したがって、それに対応して、必然的に、司法審査権の態様もまた多様なものとならざるを得ない。
 この点について正確に把握するためには、まず、規制の態様としてどのようなものがあり得るかをみる必要がある。そこで、以下に規制類型の持つ意味及び規制手段を見てみることとしたい(13)。
  (1) 自由権と消極規制
 自由権においては、その内在的制約として機能するものは、通常は他者の自由権である。その点では、職業の自由も、一般の自由権と違いがない。
 この観点から、現実に行われている規制手段を見ると、次のものがある。
 @ 禁止=反社会性の強い職業(例えば売春婦=売春防止法)や職業そのものは社会的必要性が高いものであっても、私人が営業活動として行う場合には弊害が伴いやすい場合(例えば有料職業紹介事業=職業安定法三二条一項))については、それに就くことが全面的に禁止され、例外的にも解除されることがない。
 A 資格制限(個人免許)=人の生命や安全にかかわったり、高度の専門的知識を必要とする職業については、一般的に禁止をし、国が特に十分な能力を有すると認めたものについてのみ、免許という形で営業の許可を与える。医師、薬剤師、弁護士、調理師、教員等の免許がこれである。
 B 営業に関する免許、許可、登録、届出=営業に関する規制は、様々な目的からなされ、それに応じて国からの規制の形態も様々である。例えば、上記の資格制限のある職業の場合には、現に営業を行うに当たり、正当な資格を有する者が関与していることを確認する手段として規制をかける場合がある(弁護士会に登録しない限り、弁護士活動ができないという規制)。それに加えて、様々な設備が備わっていることの確認手段として行われるものがある(例えば、調剤設備の存在を確認した上で行われる薬局開設の許可)。問題を起こし易い営業であるため、問題が発生した場合に、その営業の差し止めを行いやすくする目的で行われる場合もある(例えば風俗営業の許可)
  (2) 社会権と積極規制
 職業の自由の特徴は、広範な対社会的機能を有する点にある。このために、内在的制約原理として機能する他者の人権として自由権が登場して消極規制する場合の外に、社会権が登場する場合が発生する。この観点から行われている規制手段を見ると、次のものがある。
 @ 国家の独占事業=かっては様々なものが行われていたが、現在では郵便事業だけが残存している。これらについては私人が取り扱うことが許されない。これについては、財政学でいうところの「市場の失敗」のために、自由主義経済にゆだねた場合には、すべての者にサービスが提供されなくなる危険が高いという性格を有する。このために、やむを得ず、国家が担っていると考えるべきであり、典型的な社会国家機能といえる。
 A 特許=公益事業については、市場競争による事業の失敗などのためにそのサービスの提供が止まることが、一般国民の生存に極めて深い関わりがあるために、特定の者に特許を与えて一定限度で独占を認め、その代償として、料金を認可制にすることによって消費者が独占により被害を受けないようにするものである。最初は、国家の独占事業として行われていたものが多いが、国の直営事業にはややもすると、経営の非効率等の弊害が生ずること、公益事業としての制約を課することで、私人が実施する場合にも十分に市場の失敗を防止することができることなどから、今日では、この手法が中心となっている。この場合には、営業活動にも幅広く制約が肯定されている。
 B 独占禁止法に基づく規制=自由競争、すなわち営業の自由を実質的に確保する観点から、私的独占状態の発生を防止する事を目的とする種々の規制がこの範疇に含まれる。営業の自由を人権ではなく公序と解する説による場合には、これが営業の自由の中心概念ということになるであろう。
 C その他、社会的経済的弱者保護を目的とした規制=典型的には過当競争により中小企業の倒産を防ぐことを目的とする規制で、大規模小売店舗における小売業の事業活動の調整に関する法律や小売商業調整特別措置法等がそれに当たる。実際の規制の手段としては、消極規制の場合と同じく、免許、許可、認可、届け出制等が使用されることが多い。
  2 職業の自由と事前抑制
 以上の規制類型を一覧して直ちに気づくのは、消極規制であると積極規制であるとを問わず、規制手段として、原則的に事前抑制的方法が採用されている点である。この点が、職業の自由の、他の精神的自由権に対する非常に大きな特徴である。
 前稿においても指摘した点であるが、職業の自由は、一般の精神的自由と明確に一線を画することのできる本質的特徴を備えている。すなわち通常の精神的自由は、経済的自由権に比べて、社会の他の人々の人権に対する影響の度合いが低い。例えば、その代表というべき「内心の自由」においては、その基本的消極性のゆえに、他の人々に影響を与える可能性が本質的にない。他の人々に影響を与えることを目的とする通常の「表現の自由」の場合にも、個々の言論そのものを見る限り、それは一過性のもので、持続的な表現形態をとらない。このため、その表現形態が平和的なものである限り、社会的影響をさほど重視する必要はない。この結果、従来認識されていた精神的自由権においては、社会的影響というものをほぼ捨象した形で、純粋にその自由権の保障を考慮することが可能であった。その場合には、自由そのものを事前に抑制することを原則的に禁止しても、あまり問題は起こらない。例外的にそれが問題になる場合には、アドホックに衝突する人権相互との比較考量を行うことによって、その限界を決定すれば十分であった。博多事件取材フィルム提出命令や北方ジャーナル事件がその典型である。
 これに対して、職業の場合には、その持続性が非常に大きな特徴となって現れる。しかも、竹林に籠もって清談をするような職業を選択すればともかく、原則的には、それは積極的に社会にアクセスする形態をとる。このように長期に持続する社会的な活動の社会的影響の度合いは、一過性の対社会的活動が持つ社会的影響に比べて、極めて大きなものとなる。この結果、他の人々の人権との衝突の機会もそれだけ増大する。このため、一般の精神的自由権に比べると、比較にならないほど多くの場合に、その制限の可能性が考えられることになる。こうした持続的かつ定型的な対社会的アクセスにおいては、人権の衝突は、通常の精神的自由権と異なり、アドホックな基準では到底対応しきれない。そこで、その職業の定型性に対応した定型的な限界を構築する必要が生ずるのである。しかも、職業の自由の悪用が社会に対してもたらす悪影響を可及的に抑制しようとすれば、そこでは事前抑制が原則的に採用されることにならざるを得ない。
 そして、定型的な事前抑制が許容されるのであれば、そこで抑制の条件として要求される社会的害悪の発生も、抽象的な危険の発生で十分とされなければならない。通常の精神的自由権は、一般的に事前抑制を禁じているからこそ、個別の事件ごとに具体的な危険の有無の判断が可能なのである。このような、規制形態の大きな違いが、本条に特に「公共の福祉」文言が置かれている理由であると考えることは、既に前稿で述べたとおりである。
 従来、職業の自由は、その根拠規定が精神的自由権の中に置かれているという憲法上の位置づけの明確性及び個人の人格の対社会的表現としての重要性が認識されていたにもかかわらず、単純に経済的自由権と考えられてきた。それは、こうした定型的な自由制限の必要性及び多種多様性のために、行政政策的な制限が許容されるように見え、そのために経済的自由権に近縁性を有するように見えるためであろう。すなわち、通常の精神的自由権に比べて、より制限する必要の多い権利だから、これは、そうしたより大きな制限が許容されている経済的自由権に属するに違いない、という逆転した発想がここにはあったのである。その結果、この極めて重要な自由権に対して、立法や行政の実務上、安易にその制約が許容されてきたのではないかと思われる。
 しかし、職業の選択が、各人の人生において持つ絶対的重要性を考えるならば、選択の自由は、より手厚く保障される必要があるといわねばならない。そして、前述のような多種多様な定型的規制が許容される必要があるものである事実は、むしろ実際の取り扱いに当たって、過剰な侵害にならないように、一層慎重な配慮を要求するものである。
(三) 職業選択の自由における政策的制約
 上述のとおり、二二条において通常いわれる積極規制は内在的制約の一種と考えるが、そのことは、職業選択の自由に関して政策的制約なる概念が考えられない、ということではない。他者の人権との衝突以外の理由で、なおかつ、職業選択の自由を制約することが、憲法秩序の中で肯定されるとすれば、それは外在的制約であり、したがって政策的制約と呼ぶのがふさわしい。
 職業選択の自由に対して考えられる規制であって、個々人との人権との関連なくして、現行憲法秩序の中で肯定されうる制約は、唯一つ、租税納付義務に基づく制約と考える(憲法三〇条)。租税納付義務は、国が、国民生活の中で担税力を認める場面で、国側の裁量により発生する。租税は、可能な限り、低い徴税コストで、確実に徴収される必要がある。そのために、徴税コストをできるだけ低額に押さえ、また、租税の徴収を確実ならしめるために、国民生活の自由を制約することが肯定されるからである。
 しかし、これによる制約例は少ない。管見の限りでは、現在行われている職業選択の自由に対する規制の中で、政策的規制と認められるのは、酒販売の免許制のみである(14)。この場合には、制度趣旨的に見て、免許制を採ることにより保護される人権は考えられない。そして、政府によっても、そういう説明が行われている。そして、判例は、その説明を受け入れて、立法裁量を広く認める(15)。すなわち
「憲法は、租税の納税義務者、課税標準、賦課徴収の方法等については、すべて法律又は法律の定める条件によることを必要とすることのみを定め、その具体的内容は、法律の定めるところにゆだねている(三〇条、八四条)。租税は、今日では、国家の財政需要を充足するという本来の機能に加え、所得の再分配、資源の適正配分、景気の調整等の諸機能をも有しており、国民の租税負担を定めるについて、財政・経済・社会政策等の国政全般からの総合的な政策判断を必要とするばかりでなく、課税要件等を定めるについて、極めて専門技術的な判断を必要とすることも明らかである。したがって、租税法の定立については、国家財政、社会経済、国民所得、国民生活等の実態についての正確な資料を基礎とする立法府の政策的、技術的な判断にゆだねるほかはなく、裁判所は、基本的にはその裁量的判断を尊重せざるを得ないものというべきである」。
 ただし、酒販売免許制に関する現実の運営は、多分に既存業者の保護的色彩があり、違憲となる場合が多いと考えるが、この点については、本稿の論点ではないので、他の機会に譲りたい。

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二 職業選択における立法裁量論と違憲審査基準論
(一) 概念の内容
 従来、職業選択の自由に関しては、学説は、判例が消極規制と積極規制とで制約に対する審査基準が異なるとしている、という理解を示してきた。しかし、そもそもこの判例解釈が正しいのかどうか自体が疑問と考える。この疑問の根底には、従来の学説は、判例の分析に当たって、立法裁量論と違憲審査基準論の概念区別を認識していないのではないか、という疑問が存在している。
 立法裁量論は、学説が提起したというよりも、判例が古くから立法政策という形で利用し、そこに一定の妥当性があるために学説的にも受け入れられるようになった、ということができるであろう。そのため、これについては、十把一絡げに立法裁量といってはならないのであって、その類型を区別して、そこで働く裁量を絞ったり、あるいはその裁量を認めたりする作業の必要性が従来から指摘されてきた。そして、それを受けて現在までに様々な区分の仕方が提案されている。
 思うに、議論の叩き台としての分類としては、上述の経緯から、できるだけ判例の表現に密着した分類を採り、それを支配する法則の探求を行うのが妥当と考える。その意味で、戸松秀典の提案する、立法裁量論が適用されない場合、狭い立法裁量が肯定される場合、広い立法裁量が肯定される場合、という三分類が、議論のベースとしての分類方法としては、もっとも妥当なものと考える。
 しかし、戸松秀典は、さらに進んで、この類型は、違憲審査基準論のうち、合理性基準と必然的に結びつくという。すなわち、立法裁量論不適用の場合は厳格な審査基準、狭い立法裁量の場合には厳格な合理性基準、そして広い立法裁量論の場合には狭義の合理性基準が必ず結びついているとする(16)。この点について、戸波江二は「このような立法裁量論は単なる違憲審査基準のいい換えにすぎず、積極的な道具概念としての意味を持ちえない」と批判する(17)。確かに、両概念が必然的に結びついている、と結論する限り、この批判が正しいと言わざるを得ない。
 他方、通説は、現実に判例が立法裁量論を採用していることを承知しているにもかかわらず、それを無視して、いきなり違憲審査基準論として、職業関連の判例を理解しているように思える(18)。立法裁量論が「単なる違憲審査基準のいい換えにすぎない」と考える場合には、このような態度は正当なものと言うべきであろう。しかし、その場合には、立法裁量論は、そもそも憲法訴訟論の体系の中で、独立に項を立てて議論の対象とする事自体が誤りということになるであろう。
 しかし、判例をみれば、前述のとおり、非常に早い時点から「立法政策の問題」として処理する例が多数あった。また、その後、憲法訴訟論の影響が明確に認められるようになってからも、そこでは明確に立法裁量を問題とする形の議論が展開されており、そのことを無視するという結論を下すのは、判例の分析としては基本的に正しいとはいえないはずである。
 戸松秀典の立法裁量論に関する分類が正しく、しかも戸波江二の批判が正しいという二つの仮定を前提とすれば、問題は、従来疑問をもたれることのなかった判例の読み方自体にあるというべきである(19)。本稿において、次項以下に詳しく論証するとおり、答えはまさにその通りで、立法裁量論における広狭の差と、違憲審査基準とは決して必然的には結びついてはいないのである。その詳細な読み方は後述するが、むしろ、問題は、なぜ両者が必然的に結びつくことはないのか、という理論面にあるというべきであろう。
 その答えは、両理論の適用段階における相違に求めるべきであろう。立法裁量論を適用した場合には、そもそもその問題は司法審査の対象から脱落する。したがって、これは司法審査権が及ぶか否か、という形式審査レベルで問題となる理論と解することができよう。これに対して、審査基準論は、司法権が及ぶことを前提として、その審査を実施するに当たり、何を根拠として合憲と違憲とを区別するか、というレベルで問題となる理論と解される(20)。つまり、立法裁量論は、違憲判断を行うか否かについての形式的・抽象的判断の際の基準であり、審査基準論は最終的に合憲か違憲かの判断を行うという実質的・具体的判断の際の基準と理解すれば、両者が同一の問題に対して重ねて適用になることが、素直に肯定できるようになる。その場合に、戸松秀典のように、両者が完全に連動すると解してしまうのであれば、合憲か否かの結論は、形式判断の段階で下されていることになり、実質判断は形式的になされるにすぎない、という結論になってしまい、戸波江二の批判が妥当してきてしまう。
 確かに、一定の限度で両理論における結論が連動することは否めない。なぜなら、立法裁量論の基礎は、司法権の自制にあり、そして、違憲審査基準論の中核というべき二重の基準論は、同じく司法権の自制の程度を、権利の種類に応じて区分する理論だからである。このように、両者を基礎づける論理には共通に存在する要素が多い以上、それが連動する場合が多いのは当然である。すなわち、立法裁量の範囲が狭い場合には、司法審査に当たっても厳しい基準が適用されることが多い。反対に、立法裁量の範囲が広い場合には、緩やかな審査基準が使用されることが多くなる。
 しかし、絶対的に連動するわけではない。もしそうなら、そもそも別異の理論として構築する必要それ自体が失われるであろう。したがって、権利の性格によっては、立法裁量の広狭と、司法審査に当たっての審査基準は別個に考慮する必要が生ずるのである。その場合に、どのようなメカニズムにより、それが発生するかについては、次のように考える。
 実質的レベルでの問題である違憲審査基準論での自制の根拠は、裁判所の権力分立制の中での地位に基づく限界に求められる点については、あまり異論はないと思われる。すなわち、二重の基準が採用される本来の趣旨は、司法と民主政の関わりの中で、司法審査の外延を決定する理論なのである。
「経済的自由を規制する立法の場合は、民主政の過程が正常に機能している限り、それによって不当な規制を除去ないし是正することが可能であり、それがまた適当でもあるので、裁判所は立法府の裁量を広く認め、無干渉の政策を採ることも許される。これに対して、精神的自由の制限又は政治的に支配的な多数者による少数者の権利の無視もしくは侵害をもたらす立法の場合には、それによって民主政の過程そのものが傷つけられているため、政治過程による適切な改廃を期待することは不可能ないし著しく困難であり、裁判所が積極的に介入して民主政の過程の正常な運営の回復を図らなければ、人権の保障を実現することはできなくなる。」(21)」
 すなわち、ここでは、規制を受けている人権そのものの性格が問題になっているといえる。
 これに対して、形式的審査レベルでの問題である立法裁量論での自制の根拠は、従来、立法裁量論に言及していた判例を通覧する限り、裁判所の能力の限界そのものに求めているのではないか、と考える。すなわち、司法権の作用と機能には、その特有の手続的な制約がある。つまり、裁判における主張、立証は原則としては当事者の訴訟活動に委ねられ、裁判所が職権をもつて証拠などの取調をする場合も補充的なものにすぎず、かつ、その裁判の執行方法も限定されている。すなわち、裁判所はその組織の特質として、憲法判断に必要な広範囲の社会的利害に関係した資料を入手するのに適していない。このため、高度の技術性を有する問題に対する判断は、その専門機関たる立法府や行政府の判断が正しいとの推定を働かせることを根拠として行われる自制が、立法裁量論の中核となる。すなわち、ここでは立法事実に関する裁判所の調査能力の限界が問題となる。そして人権制約に関する立法事実論の内容は、その制約の理由となる他者の人権擁護の必要性を根拠づける資料を意味する。
 このように同じ自制に基づく理論であっても、その根拠に差異があれば、その結論に差異が生ずることが無理なく説明できることになる。もちろん、司法消極主義の根拠は、多かれ少なかれすべて重畳的に妥当するのであって、完全に異なる根拠で、二つの理論が動くわけではない。どちらに大きくウェイトが置かれるか、というレベルの議論と考えていただきたい。
 以下に、このような考え方でどこまで実際の判例を説明できるかについて、個別の場合を通じて検討することとしたい。
(二) 薬事法違憲判決の分析
 先に、薬事法違憲判決が、消極、積極両規制がいずれも内在的制約に属する、と述べているとして、引用を行ったが、そこでの議論は、次のように続いている(以下、「第一文」という)。
「これらの規制措置が憲法二二条一項にいう公共の福祉のために要求されるものとして是認されるかどうかは、これを一律に論ずることができず、具体的な規制措置について、規制の目的、必要性、内容、これによつて制限される職業の自由の性質、内容及び制限の程度を検討し、これらを比較考量したうえで慎重に決定されなければならない。この場合、右のような検討と考量をするのは、第一次的には立法府の権限と責務であり、裁判所としては、規制の目的が公共の福祉に合致するものと認められる以上、そのための規制措置の具体的内容及びその必要性と合理性については、立法府の判断がその合理的裁量の範囲にとどまるかぎり、立法政策上の問題としてその判断を尊重すべきものである。しかし、右の合理的裁量の範囲については、事の性質上おのずから広狭がありうるのであつて、裁判所は、具体的な規制の目的、対象、方法等の性質と内容に照らして、これを決すべきものといわなければならない。」
 ここで論じられているのが、立法裁量の範囲についての一般論的考察であることは明らかであろう。そして、ここで立法裁量の根拠として強調されているのは、前述した技術性の限界を強調したものであって、権力分立制に基づく司法の地位からくる限界ではない、ということは容易に読みとれることと思う。
 しかし、この第一文は、総論に止まり、薬事法の場合に、立法裁量の範囲を、広狭、どの水準で考えるべきかについての結論は下していない。したがって、これを受けて書かれている次の文(以下、「第二文」という)が、当然、その立法裁量権の範囲についての各論的議論と理解されなければならない。
「職業の許可制は、法定の条件をみたし、許可を与えられた者のみにその職業の遂行を許し、それ以外の者に対してはこれを禁止するものであつて、右に述べたように職業の自由に対する公権力による制限の一態様である。このような許可制が設けられる理由は多種多様で、それが憲法上是認されるかどうかも一律の基準をもつて論じがたいことはさきに述べたとおりであるが、一般に許可制は、単なる職業活動の内容及び態様に対する規制を超えて、狭義における職業の選択の自由そのものに制約を課するもので、職業の自由に対する強力な制限であるから、その合憲性を肯定しうるためには、原則として、重要な公共の利益のために必要かつ合理的な措置であることを要し、また、それが社会政策ないしは経済政策上の積極的な目的のための措置ではなく、自由な職業活動が社会公共に対してもたらす弊害を防止するための消極的、警察的措置である場合には、許可制に比べて職業の自由に対するよりゆるやかな制限である職業活動の内容及び態様に対する規制によつては右の目的を十分に達成することができないと認められることを要するもの、というべきである。」
 すなわち、この第二文は、この判決中で立法裁量論について述べた部分であり、その結論としては、消極規制の場合には、立法裁量の範囲は狭くなる、ということを述べているのである。ここで、立法裁量を狭くする根拠として、許可制という技術的要素にのみ論及されていることに注目すべきである。結論的には、許可制という規制類型が一般に過度になりがちな手段であるので、その分だけ技術性が低下し、立法の素人である裁判所にも、その当否について正確な判断が可能になる場合との判断が示されている。すなわち、戸松理論でいえば、狭い立法裁量が肯定されたのである。
 文章としては、上記と同一のパラグラフに書かれているので読みにくいが、それに続く次の文章(以下、「第三文」という)は、その述べている対象が、許可制という制度論からさらに進んで具体的な内容に関する議論になっているので、違憲審査基準論と考えるべきである。
「そして、この要件は、許可制そのものについてのみならず、その内容についても要求されるのであつて、許可制の採用自体が是認される場合であつても、個々の許可条件については、更に個別的に右の要件に照らしてその適否を判断しなければならないのである。」
 この部分こそが、というより、この部分だけが、この判決では具体的違憲審査基準について述べた箇所である。先に述べたとおり、立法裁量の範囲を決定する要素と、司法審査の際の基準を決定する要素とは、相当程度共通している。したがって、個々の場合において、完全に共通の理由に基づいて、立法裁量の幅と司法審査基準とが決定される場合には、両者をひとまとめに書くことが可能であろう。この場合がまさにそれに当たり、そのために、このように一続きに書かれていると考える。そして、ここでいう「この要件」とは、第二文に書かれている「合憲性を肯定しうるためには、原則として、重要な公共の利益のために必要かつ合理的な措置であることを要」するという点と、その判断手法としてはLRAを使用すべきだとしている点を意味している、と解する。これを厳格な合理性基準と読むべき点についてはほとんど異論のないところである。
(三) 小売市場事件判決の分析
 小売市場事件判決においては、上記薬事法判決と対比させて、積極的規制に関して狭義の合理性基準を適用した判決と、一般に解されている。しかし、同判決を詳細に検討すると、この解釈を無条件で受け入れるには、疑問のある記述がみられる。
 同判決のうち、通説によって、積極規制に関しては狭義の合理性基準を採用していると解される根拠とされているのは、おそらく、次のくだりであろう。
「社会経済の分野において、法的規制措置を講ずる必要があるかどうか、その必要があるとしても、どのような対象について、どのような手段・態様の規制措置が適切妥当であるかは、主として立法政策の問題として、立法府の裁量的判断にまつほかない。というのは、法的規制措置の必要の有無や法的規制措置の対象・手段・態様などを判断するにあたつては、その対象となる社会経済の実態についての正確な基礎資料が必要であり、具体的な法的規制措置が現実の社会経済にどのような影響を及ぼすか、その利害得失を洞察するとともに、広く社会経済政策全体との調和を考慮する等、相互に関連する諸条件についての適正な評価と判断が必要であつて、このような評価と判断の機能は、まさに立法府の使命とするところであり、立法府こそがその機能を果たす適格を具えた国家機関であるというべきであるからである。したがつて、右に述べたような個人の経済活動に対する法的規制措置については、立法府の政策的技術的な裁量に委ねるほかはなく、裁判所は、立法府の右裁量的判断を尊重するのを建前とし、ただ、立法府がその裁量権を逸脱し、当該法的規制措置が著しく不合理であることの明白である場合に限つて、これを違憲としてその効力を否定することができるものと解するのが相当である。」
 ここで、その結論部分に展開される「法的規制措置が著しく不合理であることの明白である」場合に限って違憲判断を行うのが妥当とする論理は、確かに明白性基準を適用することを宣言している。そして、通説は、明白性原則が、狭義の合理性基準の内容となっていることから、この判決を、積極規制の場合に狭義の合理性基準を採用したものと結論づけるのである。
 しかし、この文章のほとんど、すなわち「立法府の右裁量的判断を尊重するのを建前とし」とあるところまでは、明らかに積極規制における立法裁量論を述べたものである。そして、立法裁量論も、基本的に自制説をベースとしているため、狭義の合理性基準と同様に明白性原則を有している(22)。ここが立法裁量論を論じている箇所である以上、ここでいう明白性原則は、あくまでも立法裁量論にかかるものと読まなければならない。すなわち立法裁量権が広範であれば、それに比例して、裁判所の審査権はその分だけ縮退する、という論理を述べたものと解するのが正しい。
 立法裁量論の結果、いかに司法審査の対象領域が縮退しようとも、審査可能な領域は残る場合がある。その領域に対して司法審査を実施するに当たり、問題となっている法規範の違憲性を審査する段階になると、この判決では、若干論理の流れが変化する。その前半では、上記の論理を個別場合に当てはめて、忠実に展開している。しかし、問題は、その後半に、「しかも」という接続詞をかぶせて、次のように述べている点である。
「本法は、その所定形態の小売市場のみを規制の対象としているにすぎないのであつて、小売市場内の店舗のなかに政令で指定する野菜、生鮮魚介類を販売する店舗が含まれない場合とか、所定の小売市場の形態をとらないで右政令指定物品を販売する店舗の貸与等をする場合には、これを本法の規制対象から除外するなど、過当競争による弊害が特に顕著と認められる場合についてのみ、これを規制する趣旨であることが窺われる。」
 小売市場事件の判決が、事件の内容が完全に立法裁量に属する部分に関わっている、と判断しているのであれば、この記述は全く無用のものである。この箇所においては、立法裁量に属さない部分があり、したがって、その点については司法審査の対象となるからこそ、実体的判断を示していると読むべきであろう。
 ここで注目したいのは、傍線部である。すなわち、通説が理解するように、積極規制については裁判所は狭義の合理性基準を適用するというのであれば、裁判所としては、同法が過当競争防止目的の立法であることを認定すれば、それで十分である。しかし、実際には、同法が、弊害が特に顕著な場合に限定して営業の自由を制約しているということが、合憲判断の決め手となっているのである。これは明らかに、規制を必要とする重要な利益の存在の認定であり、したがって、厳格な合理性基準を使用したと見る方が、実際の認定においては妥当性を有しているということができる。
(四) 結論
 以上の分析によれば、職業選択の自由に関するリーディングケースというべき二つの判決で述べていることに関する通説の理解には疑問がある。
 すなわち、立法裁量についていえば、薬事法違憲判決では、消極規制の場合には、その範囲が狭くなる、としていると解するのが妥当である。これに対して、小売市場判決では、積極規制の場合には、その範囲が広くなる、としているのである。すなわち、立法裁量の広狭を決定するのは、規制される人権の性質ではない。職業選択の自由を規制することによって、保護することを目的としている人権の性質によって、それは決まるのである。なぜそうなるかを、以下に検討しよう。
 消極規制は別名、警察規制とも呼ばれる(23)。警察権という強大な国家権力については、人民の権利・自由の侵害を保障しようという観点から、警察権の行使をその目的に照らし、必要最小限度にとどめなければならない。そのために、様々な原則の存在が指摘されるが、規制との関係では、行政法上「警察消極目的の原則」と呼ばれるものが重要である。すなわち、警察は、直接に公共の安全と秩序を維持し、これに対する障害を未然に防止し、除去することを目的とする作用であるから、警察はこの消極的な目的のためにのみ活動することができる。この結果、警察規制の場合には、最小限度法則に基づき狭い立法裁量しか許容されないことになる。
 職業の自由では、それが対社会的な継続的表現としての機能を有するために、自由権と衝突する可能性だけではなく、他者の有する社会権と衝突する場合が発生する。社会権では、国家が当事者間に積極的に介入して新たな措置をとり、それに伴い、関連する経済的自由権が制約されるという形が発生する。その場合、社会権の保障は、社会権を最も効率的、経済的に実現できるものの中からもっとも費用対効果がよいものを選択することを要請する。その結果、制約される自由権の側から見ると、単純な最小限度の侵害に止まらない制約を肯定しなければならない場合が発生するのである。そのような問題においては、判例はいう。
「社会経済政策の実施の一手段として、これに一定の合理的規制措置を講ずることは、もともと、憲法が予定し、かつ、許容するところと解するのが相当であり、国は、積極的に国民経済の健全な発達と国民生活の安定を期し、もつて社会経済全体の均衡のとれた調和的発展を図るために、立法により、個人の経済活動に対し、一定の規制措置を講ずることも、それが右目的達成のために必要かつ合理的な範囲にとどまる限り、許されるべきであつて、決して、憲法の禁ずるところではないと解すべきである。」
(小売市場判決より引用)
 この結果、積極規制の場合には立法裁量の範囲が拡大する。
 他方、司法審査に当たっては、審査基準は、制約を受けている権利そのものの性質によって決定されるべきである。そして、二重の基準論を適用する場合には、本来、精神的自由権については、厳格な審査基準が、そして経済的自由権については、狭義の合理性基準が適用されるべきである。したがって、通説のように、職業の自由を経済的自由権と理解する立場においては、二重の基準論による限り、常に狭義の合理性基準が採用されなければならない。しかし、現実には、上述のとおり、薬事法違憲判決でも、小売市場判決でも、厳格な合理性基準を適用しており、狭義の合理性基準を適用してはいないと解するべきである。
 実際には、中間基準が採用されたことを、この場合、どのように理解すべきであろうか。
 前稿に論じたとおり、職業選択の自由が精神的自由権に属すると考え、ただ、対社会的関係の大きさのゆえに、定型的に事前抑制が許容されている、と理解する場合には、この結論は、必然的なものである。すなわち「事前抑制たることの性質上、予測に基づくものとならざるをえないこと等から事後制裁の場合よりも広汎にわたり易く、濫用の虞があるうえ、実際上の抑止的効果が事後制裁の場合より大きい(24)」ものを、定型的に許容した以上、止むに止まれぬ利益の立証を要求することはできないからである。換言すれば、特別の「公共の福祉」文言の存在が、国側の立証責任を定型的に軽減させていると説明することになる。
 こうして、職業選択の自由をめぐる判例は、その判決文中で、職業選択の自由を経済的自由の一種として明言しているにもかかわらず、精神的自由権として把握する立場からの論理と同一のものを認めることができるのである。

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三 職業遂行の自由における司法審査の特徴
 従来、通説は、前稿に紹介したとおり、職業選択の自由と、職業遂行の自由の間に、権利の憲法的保障としての程度においては全く違いがない、という前提に立っている。このため、職業遂行に関して、判例がどのようなスタンスで判決を下しているのかについては、十分な分析が行われていなかった恨みがある。このことが端的に現れているのが、森林法にある共有林分割制限規定の違憲性をめぐって争われた事案(以下、「共有林分割制限違憲判決」(25)という)をめぐる議論である。この判決の対象となっている事例は、職業の自由という観点から見た場合、既に林業経営を行っている者が、引き続いて林業経営を行うに当たり、経営形態を共同経営から単独経営に変更したいという主張と理解できる。したがって、職業遂行の自由が問題になっている事例に当たるのである。選択の自由と遂行の自由の異質性を認める立場から見れば、職業選択の自由に関して問題となった小売市場事件判決及び薬事法違憲判決とは異なる論理が、この判決で展開されても、何ら異とするに当たらない。この基本的な相違点を無視している限り、この判決の正確な分析は不可能ということができる。しかし、この事件は、主として財産権が論じられているという意味で、職業遂行の自由だけが論点になっている通常の事件とは、若干特異な部分のある判決である。
 そこで、以下においては、第一に、近時の最高裁の通常の合憲判例において、職業遂行の自由についてどのような手法で憲法審査を行っているかをまず検討し、次いで、それを受けて第二に、共有林分割制限違憲判決において、どのような手法で、違憲審査を行っているかを検討することとしたい。
(一) 職業遂行の自由に関する判例の分析
 学説的に憲法訴訟に関する理論が未発達の時代の最高裁判例について、その審査手法を検討してもあまり意味がない。そこで、以下では、憲法訴訟に関する問題意識が最高裁判所に生まれたと考えられる時点以降の、職業遂行の自由に関係する最高裁判決だけを紹介することとしたい。その分岐点としては、昭和四七年の小売市場事件判決を選ぶこととした。
 管見によれば、四七年以後に職業遂行の自由に関して、最高裁判所が下した判決としては次のものがある(判決年月日順)。その判決のうち、二二条との関連を述べた部分を引用する。なお、一般的に知られた名称がある場合にはそれを使用したが、他はいずれも私が仮に命名したものである。
 @ 歯科技工士歯科医師法違反事件(昭和五六年一一月)(26)
「総義歯の作り換えに伴う場合であつても、同じく歯科医業の範囲に属するものと解するを相当とする。けだし、施術者は右の場合であつても、患者の口腔を診察した上、施術の適否を判断し、患部に即応する適正な処置を施すことを必要とするものであり、その施術の如何によつては、右法条にいわゆる患者の保健衛生上危害を生ずるのおそれがないわけではないからである。されば、歯科医師でない歯科技工士は歯科医師法一七条、歯科技工法二〇条により右のような行為をしてはならないものであり、そしてこの制限は、事柄が右のような保健衛生上危害を生ずるのおそれなきを保し難いという理由に基づいているのであるから、国民の保健衛生を保護するという公共の福祉のための当然の制限であり、これを以て職業の自由を保障する憲法二二条に違反するものと解するを得ない」
 A クエン酸販売行為薬事法違反事件(昭和五七年九月)(27)
「二二条一項違反をいう点は、現行薬事法の立法趣旨が、医薬品の使用によつてもたらされる国民の健康への積極・消極の種々の弊害を未然に防止しようとする点にあることなどに照らすと、同法二条一項二号にいう医薬品とは、その物の成分、形状、名称、その物に表示された使用目的・効能効果・用法用量、販売方法、その際の演述・宣伝などを総合して、その物が通常人の理解において『人又は動物の疾病の診断、治療又は予防に使用されることが目的とされている』と認められる物をいい、これが客観的に薬理作用を有するものであるか否かを問わないと解する」
 B 柔道整復師診療放射線技師法違反事件(昭和五八年七月)(28)
「診療放射線技師及び診療エツクス線技師法二四条は、放射線(エツクス線を含む。以下、同じ。)の誤つた使用が人体に対し障害を及ぼすおそれがあることなどにかんがみ、医師、歯科医師、診療放射線技師又は診療エツクス線技師(以下、医師等という。)以外のすべての者に対し同法二条二項に規定する放射線を人体に照射することを業とすることを禁止し、これに違反した者を一律に処罰することにしたものと解すべきであつて、医師等とは独立に柔道整復の業務を行うことを認められている柔道整復師が骨折・脱臼等の術前・術後の診断のために業としてエツクス線の照射を行う場合であつても、その規制の対象から除外されるものではない。このように解しても、憲法二二条一項、二五条に違反するものではない」
 C 鍼小分け販売薬事法違反事件(昭和五九年六月)(29)
「円皮鍼を業として小分けする行為を自由に放任するならば、円皮鍼の汚染等公衆に対する保健衛生上有害な結果を招来するおそれがあると認められるから本件小分け行為につき薬事法一二条一項の規定を、同規定に違反して小分けされた円皮鍼を販売した本件行為につき同法六四条、五五条二項の規定をそれぞれ適用しても、職業選択の自由に対する必要かつ合理的な制約にとどまり、憲法二二条一項に違反するものでない」
 D 煙草小売店位置変更不許可決定取り消し請求(昭和六二年二月)(30)
「憲法二二条にいわゆる職業選択の自由は、無制限に認められるものではなく、公共の福祉に反しない限りにおいて、その自由が認められるものであることは、同条の明示するところである。ところで、国がたばこ等につき専売制を施行する所以のものは、国の財政上の重要な収入を図ることを主たる目的とするものであるが、同時に、国民一般の日常生活において広く需要せられるたばこ等は、僻陬の地たると都会地たるとを問わず、同一の品質のものはこれを同一の価格により販売し、公衆のすべてに均等に利用し得る機会を与え、安んじてこれを比較的簡便に購入し得ることとし、もつて一般国民の日常生活における必要に応ずることをも目的としているものであつて、結局右専売制は、公共の福祉を維持するための制度にほかならない。」
 E 西陣ネクタイ訴訟(平成二年二月)(31)
「積極的な社会経済政策の実施の一手段として、個人の経済活動に対し一定の合理的規制措置を講ずることは、憲法が予定し、かつ、許容するところであるから、裁判所は、立法府がその裁量権を逸脱し、当該規制措置が著しく不合理であることの明白な場合に限って、これを違憲としてその効力を否定することができる」
 F 沖縄軽自動車有償旅客運送禁止事件(平成四年三月)(32)
「憲法二二条一項にいわゆる職業選択の自由も、公共の福祉の要請がある限り制限され得るものであるところ、道路運送法(平成元年法律第八三号による改正前のもの)九八条二項、二四条の三の規定が、軽自動車を使用して貨物を運送する軽車両等運送事業を経営する者において有償で旅客を運送することを禁止しているのは、道路運送事業の適正な運営を確保し、道路運送に関する秩序を確立するために必要かつ合理的な制限というべきであって、右規定が憲法二二条一項に違反するものでない」
 G 弁護士会裁決取り消し請求事件(平成四年九月)(33)
「弁護士に関する規制は、公共の福祉のため必要なものというべきであって、憲法二二条に違反しない」
 H 消費税法違憲訴訟(平成五年九月)(34)
「零細な小売業者が消費者に消費税分を転嫁することができないおそれがあることが論者により指摘されていることは公知の事実である。しかしながら、原判決説示のとおり、本件消費税法は、徴税技術上の理由から、小売業者等を納税義務者とし、消費者に消費税分を転嫁させる間接消費税を採用したものであって、それは合理性をもった税制というべきである。
 もっとも、零細な小売業者の場合、消費者に消費税分を転嫁することが容易でないことは十分推察されるところであるが、この問題は、本件消費税法の趣旨に則って、消費者に消費税分を転嫁するように努めて解決するのが本来の途であるから、右転嫁の困難性のゆえをもって直ちに本件消費税法が憲法の前記条項(=二二条)に違反するものということはできない」

 ここに紹介した判決の抜粋を一覧して気づかれる第一の点は、E西陣ネクタイ事件でだけ立法裁量という言葉が使われているに止まり、それ以外はいずれも、小売市場事件判決以前の、古い判例スタイルを継承していることであろう(@及びDについては、注記したとおり引用している文章そのものが四七年以前の古いものなので当然であるが、他のものをそれと比べてもほとんど違いがない)。最高裁判所がこのような、いわば手抜きをした判決を下しているのは、最高裁判所として、権利を擁護する特別の必要性をまったく感じなかった事例だからであろう。そのため、法律の目的や目的達成についての、立法府の主張するところをそのまま認めているのである(特にAにおいて、その点が顕著に認められる)。その結果、立法府の裁量は正しいといっているに等しい、単純な構造の判決が下されることになる。これを憲法訴訟論的に評価すれば、結局、全面的に立法裁量に属することを承認している、というに等しいといえるであろう。
 そして、審査基準論には、どの事件でも、まったく論及されていない。このことを憲法訴訟論的に評価すれば、事件が立法裁量論の範囲で完全に解決がついてしまっている結果、司法権による実質審査の余地がない事例と見ることができる。
 ここに紹介した判例は、規制の形態別には、あらゆる形態がそろっている。すなわち、消極規制に属するものが@、A、B、C、積極規制に属するものがD、E、F、G、政策的規制に属するものがH、と考えることができるであろう。しかし、職業選択の自由の制約の場合と異なり、上述の事例では、立法裁量の方法にも、審査基準にも、規制形態による差異を何らを認めることができない。
 前述のとおり、職業選択の自由に関しては、裁判所は、立法裁量の範囲については規制形態に応じて広狭の差を認めている。これに対して、合理性基準に関しては一律に厳格な合理性基準を使用していた。これに対して、職業遂行の自由に関しては、ここに見られるように、規制形態の如何に関わらず、立法裁量の範囲については一律に広く認めて解決している、と結論づけることができそうである。そして、広い立法裁量を承認している結果、違憲審査基準としてどのようなものを採用しているかについては、窺い知ることができない。
 職業選択の自由の場合と違って、職業遂行の自由の場合には、立法裁量論のレベルにおいて、規制態様による差異が発生しないことは、通説のように、職業選択の自由と、職業遂行の自由が、いずれも均しく憲法二二条の保障対象となっている、と見る立場からは説明不可能な点であろう。これに対して、前稿に論じたように、憲法が保障しているのは、職業選択の自由にすぎず、職業遂行の自由は、それに対する制約が、職業選択の自由を侵害する効果を持つような程度に達する場合に限って憲法上の問題となる、とする本稿の立場からは、このような結論は必然のものということができる。
 そして、一律に広い立法裁量を承認しているという事実は、消極規制と積極規制という規制形態の違いが、同じ「経済的自由権」について、異なる違憲審査基準を肯定する根拠と考える立場の不当性を明らかにしている。そもそも、このように広い立法裁量を承認した結果、違憲審査基準の出てくる機会がない、ということは、職業選択の自由の領域において、立法裁量論を、判例の解釈に当たって事実上不要と判断している通説の問題性を浮き上がらせている、ということができる。
(二) 共有林分割制限違憲判決の分析
  1 職業の自由と財産権の自由の関係について
 この判決で注目すべき最大の点は、この問題を職業の自由という観点からは捉えていない点である。すなわち、この判決ではいきなり二九条が引用され、それを受けて、財産権の制限という観点からのみ、議論が展開されているのである。
 営業の自由を職業の自由の一環として読み、また、職業選択と職業遂行を同質の権利と見る立場(前稿での略称でいえば、職業=営業説ないし職業遂行=営業説)では、このような判例の論旨の展開方法それ自体が問題とならねばならないはずである。すなわち、管見の限りではそのような主張は見あたらないが、この事案は、二九条だけで論じてはならないのであって、二二条も論点になると主張されねばならないはずではないだろうか。
 これに対して、職業遂行の自由そのものは、二二条の保障対象とはならないと考える本稿の立場では、この事例では、憲法上の問題は、二九条についてしか発生しないので、それだけが論じられたのは、極めて当然のことといえる。
  2 本判決における立法裁量論の特徴
 この事例の最大の特徴は、二つの立法が交錯している点である。すなわち、一方に民法=所有権法における共有物分割の自由という規定が一般法として存在し、これに対する特別法として、森林法における共有林分割制限規定がある。そこで、この事例では、一般法における立法裁量と、特別法における立法裁量という形で、二つの立法裁量が重なっている場合に、立法裁量論がどのような形をとるべきかが問題となる。より正確には、一般法を制定する際に下した立法裁量が、どこまで特別法における立法裁量を制約するか、ということが、ここでの最大の問題とならねばならない。この観点から、以下、判決文をみていくことにしよう。
 判決では、まず、財産権に対応した形で、本稿において先に薬事法違憲判決で第二文と呼んだ部分に相当する記述が次のように展開された後、薬事法違憲判決が先例として紹介される。
「財産権に対して加えられる規制が憲法二九条二項にいう公共の福祉に適合するものとして是認されるべきものであるかどうかは規制の目的、必要性、内容、その規制によつて制限される財産権の種類、性質及び制限の程度等を比較考量して決すべきものであるが、裁判所としては、立法府がした右比較考量に基づく判断を尊重すべきものであるから、立法の規制目的が前示のような社会的理由ないし目的に出たとはいえないものとして公共の福祉に合致しないことが明らかであるか、又は規制目的が公共の福祉に合致するものであつても規制手段が右目的を達成するための手段として必要性若しくは合理性に欠けていることが明らかであつて、そのため立法府の判断が合理的裁量の範囲を超えるものとなる場合に限り、当該規制立法が憲法二九条二項に違背するものとして、その効力を否定することができるものと解するのが相当である」
 薬事法違憲判決と同様に、この部分は、立法裁量論を展開したものと見るべきである。しかし、この記述と先に紹介した薬事法違憲判決第二文とを比較すれば明らかなとおり、明らかに、この判決の表現の方が、立法裁量の幅が広い。すなわち、薬事法違憲判決を先例として引用したのは、立法裁量の広さを同一と考える、という意味で引用したものではないことになる。したがって、この引用語句の意味しているものは、薬事法違憲判決が述べていて、この判決では論及していない点をカバーするためと理解するのが妥当である。すなわち、薬事法違憲判決第一文がいう、「(立法裁量には)事の性質上おのずから広狭がありうるのであつて、裁判所は、具体的な規制の目的、対象、方法等の性質と内容に照らして、これを決すべきものといわなければならない。」という部分を受けて、財産権における裁判所の判断基準を展開したものと理解するべきであろう。
 この事例の場合、森林法が定める共有林分割制限の狙いは、「森林の細分化を防止することによつて森林経営の安定を図る」という点にあるから、社会権保護のための規制といえる。したがって積極規制に該当する。この場合に、広い立法裁量を採用することは、先に職業選択の自由に関して論じたところからすれば、当然であろう。
 ここで、この判決は、立法裁量論の広狭を決定する第二のメルクマールを導入していることを認めることができる。すなわち、国会が、その法領域において行った最初の立法の場合には、広い幅の立法裁量が認められる場合にも、一度国会が立法上の判断を下し、かつ、その後、その判断を撤回していない状態の下で、その判断に含まれる問題に関する立法権の行使に関しては、立法裁量権は、その前提となる決定に拘束されて狭くなる、というメルクマールである(35)。
 裁判所が、その判断を自制する根拠が民主的判断の必要性にあるような場合と異なり、判断を下すためには「社会経済の実態についての正確な基礎資料が必要であり、具体的な法的規制措置が現実の社会経済にどのような影響を及ぼすか、その利害得失を洞察するとともに、広く社会経済政策全体との調和を考慮する等、相互に関連する諸条件についての適正な評価と判断が必要であつて、このような評価と判断の機能は、まさに立法府の使命とするところであり、立法府こそがその機能を果たす適格を具えた国家機関であるというべきであるからである(小売市場事件判決より引用)」というような技術的な点にあるような場合には、既に下された立法府の判断を基準として判断を行うことが可能となるから、その限度で自制を捨てることが許されるからである。
 本事例の場合、裁判所は、民法という一般法における立法裁量においては、広い幅を認める。そのため、その立法裁量の内容を検討するのにかなりの精力を注ぎ込んでいる。その結果認められた立法府の決定、すなわち「共有物分割の自由」を物差しに使用して、森林法という特別法における立法裁量の当否を検討することになる。したがって、特別法に関する場合の裁量の幅は、白紙の場合の裁量幅に比べると、非常に狭められることになる。その結果、本事例の中心となる森林法に関する立法裁量権に関する限り、結論としては、非常に狭い裁量権しか認めないことになるのである。「共有物がその性質上分割することのできないものでない限り、分割請求権を共有者に否定することは、憲法上、財産権の制限に該当し、かかる制限を設ける立法は、憲法二九条二項にいう公共の福祉に適合することを要するものと解す」るという表現に、そのことが端的に現れている。
 この結果、司法の実質審査の幅は非常に広がったことになる。
 しかし、立法裁量の幅の如何に関わりなく、審査基準そのものは、規制を受けている権利の性質によって決まる。財産権は、典型的な経済的自由権である。したがって、二重の基準論に従う限り、ここで使用されるのは、狭義の合理性基準でなければならないはずである。ところが、ここではそれとは異なる基準が使用されている。すなわち、
「共有森林につき持分価額二分の一以下の共有者からの民法二五六条一項に基づく分割請求の場合に限つて他の場合に比し、当該森林の細分化を防止することによつて森林経営の安定を図らなければならない社会的必要性が強く存すると認めるべき根拠は、これを見出だすことができないにもかかわらず、森林法一八六条が分割を許さないとする森林の範囲及び期間のいずれについても限定を設けていないため、同条所定の分割の禁止は、必要な限度を超える極めて厳格なものとなつているといわざるをえない。
 まず、森林の安定的経営のために必要な最小限度の森林面積は、当該森林の地域的位置気候、植栽竹木の種類等によつて差異はあつても、これを定めることが可能というべきであるから、当該共有森林を分割した場合に、分割後の各森林面積が必要最小限度の面積を下回るか否かを問うことなく、一律に現物分割を認めないとすることは、同条の立法目的を達成する規制手段として合理性に欠け、必要な限度を超えるものというべきである。
 また、当該森林の伐採期あるいは計画植林の完了時期等を何ら考慮することなく無期限に分割請求を禁止することも、同条の立法目的の点からは必要な限度を超えた不必要な規制というべきである。」
 ここで使用されているのが、厳格な合理性基準であることは明らかであろう。
 なぜ、厳格な合理性基準なのか。ここでも、問題の答えは、立法裁量論の場合と同じく、民法と森林法という立法の二重構造というこの事案特有の点にある、と考える。共有物の分割という同一のカテゴリーに属するものの中から、特定の場合に、例外性を認めて異なる取り扱いをしようとする行為は、平等原則の問題である。平等原則の場合、一般に、厳格な合理性基準が妥当する。というよりも、米国において、中間審査基準は、まさに平等権の事例を解決するために開発された、ということができる(36)。このため、中間審査基準の採用がこの場合に要請されたのである。
 要するに、民法と森林法の二重構造という特殊事情が、立法裁量論、審査基準論の二段階に渡って、通常とは異なる基準を引き出させているという点に、共有林分割制限違憲判決の大きな特徴が存在していると考えられる。したがって、この判決の採用している論理の結果だけを見て、最高裁判所が、財産権については、狭い立法裁量と厳格な合理性基準を使用している、と一般化するのは、誤りと考える。
(三) 結論
 裁判所は、規制類型が、消極、積極、政策のいずれに属するかを問わず、一般に、職業遂行の自由については、広い立法裁量基準を採用し、かつ、狭義の合理性基準、すなわち明白性の基準を採用して憲法判断を行っている。このように、職業選択の自由と明確に異なる判断基準を採用していることは、前項で主張したとおり、職業選択の自由は精神的自由権に属して強力な保障の対象となるのに対して、職業遂行の自由に対しては、原則として憲法二二条の保障対象とはされていない、という卑見と合致するものと評価することができよう。
 職業遂行の自由に関する一般の事例においては司法審査が行われていない、という事実も、判例が、遂行の自由を、選択の自由の保障内容とは異なると扱っている証左といえる。但し、遂行の自由に対する規制が、実質的に選択の自由をも規制する
程度に達しているときは、選択の自由の侵害として、その場合と同様に厳格な合理性基準が採用されることになるが、判例上は、現在までのところ、そのような事例は現れてはいない(37)。

[おわりに]
 前稿では、職業選択の自由は、基本的に精神的基本権の一環として理解すべきこと、及び職業遂行の自由は職業選択の自由とは異なる権利であり、したがって二二条の保障対象と考えるのは妥当ではないことの二点を主張した。それを読まれてある程度首肯できると感じられた方も、しかし、実際の適用においてどうなるのか、という不安を感じられたと思う。その点を、判例に密着しながら説明しようとしたのが本稿である。
 あわせて、立法裁量論と審査基準論の相関関係を明確にすることを試みた。この点は、本来、前人権に共通する非常に大きな問題として一体的に論じられてきたから、このように職業の自由に特化した形の取り上げ方には批判があろうかと思う。しかし、判例で論じられている立法裁量の幅が、そのベースとなっている人権の性質によって決定されるのではなく、それ以外の何らかの要因によって左右されていることは、徐々にではあるが、共通認識となりつつあるのではないかと思われる。その場合、全体としてのアプローチではなく、個々の判例の解析を通じて、それぞれの決定要因を解明する、という個別作業の積み上げが、実は全体像を明らかにする最善の方法と考える。本稿では、規制によって保護され
る法益の種類による裁量幅の変動と、立法裁量の二重構造による裁量幅の変動という二つの要因を明らかにできた。他の分野の判例の解析により、これ以外の要因を見つけだすことも可能と思われる。そうした個々の判例ごとの解析の上に立って、初めて立法裁量論の全体像を示すことが可能になるものと信じている。
厳しいご批判を賜ることができれば幸いである。

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(1) 拙稿「精神的自由権としての職業の自由」については、日本法学六三巻一号八三頁以下参照。
(2) 美濃部達吉の公共の福祉概念については、美濃部『新憲法逐条解説』増補版、日本評論新社昭和三一年刊、六〇頁より引用。なお、同書の初版は昭和二二年である。
(3) 死刑合憲判決の嚆矢というべきこの判決については、昭和二三年三月一二日最高裁判決(昭和二二年(れ)第一一九号)、刑集二巻三号一九一頁。LEX-ID 27760012参照。
(4) 法学協会『註解日本国憲法』有斐閣昭和二八年刊、三三五頁参照
(5) この訓示規定説のことを、「内在的制約説」と呼ぶ場合がある(例えば野中俊彦外共著『憲法T』[新版]有斐閣、二三三頁・中村睦男執筆部分、長尾一紘『日本国憲法』第三版、世界思想社一九九七年刊、一二一頁等参照)。しかし、この説は、引用部分に示したとおり、心構えとしての制約を認めるのみで、法的レベルにおいては、内在的にも制約のあることを肯定しないのだから、このような命名は不正確と考える。また、例示した書の最初のものは、全逓中郵事件や都教組事件で最高裁判所が内在的制約という言葉遣いをしていることを根拠に、本書でいう訓示規定説と理解している。が、それらの判決はいずれも本書でいう一元的内在説の立場と見るべきではないかと思われる。
(6) 一元的内在説の説明文は、宮沢『憲法U[新版]』有斐閣法律学全集4、昭和四六年刊二三六頁より引用。なお、同書の初版は昭和三四年である。私は、この見解が、今日の通説と考える。同旨、長谷川恭男「国家権力の限界と人権」樋口陽一編『講座憲法学』第三巻四四頁参照。
(7) 伊藤正己は、宮沢説を基本的に支持しつつ、この人権相互の調整に加えて、自由国家にとっての最小限の任務とされる社会秩序の維持と危険の防止があるということも内在的制約として捉え得ると説く(伊藤「憲法」第三版、二二〇頁)。一見もっともな気がするが、何を持って最小限の社会秩序の維持と捉えるか、という点を通じて最初の法律の留保代用説が復活しそうな危険性を感じ、賛同できない。また、仮にその最小限基準が他の人権ということになれば、結局人権相互の調整説に帰着するわけだから、この第二の基準は不要なものだと考える。
(8) 今日においては、学説はこの段階からさらに進んで、人権とは無限の自由を保障するものではなく、それ自体に内在する限界がある、と考えるのが通説ということができるであろう。すなわち、他の人を殺す自由や人を脅迫するようなことをいう自由は、憲法の保障する自由ではない、ということである。しかし、このような刑法の禁圧対象はともかく、本稿で問題となる消極規制という形をとる人権の制約の場合には、そのような本質的限界の問題にはならず、人権と人権の衝突の場面として捉えられる。そこで、本稿における目的の限りでは、学説の発展は、この段階で終止符を打ったことになる。
(9) 野中俊彦は「内在的制約だけでなく、社会経済政策的な見地からの外在的制約も許容されると解する点で、学説はほぼ一致している」という。野中・浦部共著『憲法の解釈U』三省堂一九九〇年刊、一九九頁参照。
(10) 薬事法違憲判決:最高裁判所大法廷昭和五〇年四月三〇日判決(昭和四三年(行ツ)第一二〇号)。民集二九巻四号五七二頁、LEX-ID 2700037
(11) 小売市場事件判決:最高裁判所大法廷昭和四七年一一月二二日判決(昭和四五年(あ)第二三号)、刑集二六巻九号五八六頁。LEX-ID 27486194。
(12) 小売市場事件判決は、言葉の使い方としては、通説と同じような分類をとっているが、同じ意味かどうかははっきりしない。同判決に対する今村成和の判例評釈では、ここにいう「内在的制約」は、「いわば機能的限界に基づく制約を指しているものと思われ」るとしている(ジュリスト八九〇号六八頁参照)。この読み方が正しければ、極端に狭い範囲だけが内在的制約になり、ほとんどの制約は政策的制約に属することになる。
(13) 「近時、規制の態様が複雑となり、消極、積極いずれに属するのかが明確でない場合が増えている」との指摘が広く行われている。これは、通説の場合、消極、積極という概念を決定する根拠が明確でないために、限界的事例において、区別がはっきりしない場合が出てくるためである。これに対して、本稿の本文において述べているように、他の人権との関係で、概念を決定する場合には、このような問題は起こらない。すなわち、職業の自由を規制することによって保護しようとしている人権が社会権か自由権かの区別は、常につくはずだからである。例えば、積極規制か消極規制かが紛らわしいものの典型例として、よく例示される公害防止目的の規制は、明らかに他者の健康な生活を営む権利を確保する目的で企業の権利を制限する形で実施されるものであるから、本来積極規制として位置づけられるものである。
 確かに、実定法の中には、規制の目的が曖昧で、その規制でどのような人権を保護しようとしているのかが不明確な場合はあるかもしれない。しかし、そのように曖昧な根拠で人権を規制するのは許されないといわなければならない。すなわちその場合には、規制が問題になる以前の段階で、既に違憲と判定されることになる。また、規制によっては、自由権と社会権の両者を保護法益としている場合もあるかもしれない。しかし、具体的事件性を要件とするわが国司法審査制度の下においては、当該事件で問題となっているのが、いずれであるかの判定は常に可能なはずである。その事件で問題となっているところにしたがって、審査を行えば足りると考える。
(14) 政策的制約には、酒販売免許制の外に、専売事業もあるのではないか、と疑問をもたれる方もあると思う。確かに、専売事業は、財政目的で実施される場合がある。そして、それは形を変えた租税とみなしうるから、専売を行うということが、ここにいう政策的制約に該当する場合がある。しかし、現行の専売制度に関しては該当しないと考えている。すなわち、現在、専売が行われているのは、たばこ、塩、樟脳及びアルコールである。これらの制度は、少なくとも専売制を導入した時点においては、もっぱら国の財源の確保という政策的目的から行われたことは、疑う余地がない。しかし、今日では、これらは社会的弱者保護を目的としたものに転化しており、したがって、積極的規制の一環として理解すべきである。この点について詳述することは、本稿の本来の目的と乖離するので、ここでは問題意識を示すのみにとどめる。が、例えばたばこの場合、財政目的は煙草の販売に当たって租税を徴収する、という手法で十分に確保されている。いま現在、専売が認められている理由は、煙草以外の栽培が不可能な荒蕪地における農業経営の保護のため、国産葉煙草の購入をJTに義務づけていることから行われているにすぎないと考えている。同様に、他の専売も、すべて財政目的というよりは国内産業の保護としての位置づけが可能である。なお、判例は、たばこ専売について、財政目的による制約とする。それと時に、積極的規制としての側面も有していることを肯定するが、そこでの規制目的は、ここに述べたこととは逆の、消費者保護の観点からの制度と説明する(本文三(一)D参照)
(15) 酒販売許可制の合憲性をめぐる判決は、最高裁判所第三小法廷平成4年12月15日判決(昭和六三年(行ツ)第五六号)。民集四六巻九号四八二九頁、LEX-ID 22005581
(16) 立法裁量論についての戸松秀典の見解については、戸松『立法裁量論』有斐閣一九九三年刊、二五頁以下参照。
(17) 戸波江二の、戸松秀典の立法裁量論に対する批判は、「生存権訴訟における判例と学説」『公法研究』四八号七八頁より引用。
(18) 例えば、上記注17で戸松秀典の立法裁量論に批判的見解を示した戸波江二の場合、薬事法違憲判決の判例評釈に当たり、「消極目的・積極目的の区別およびそれに対応した違憲審査基準の区別の問題」が主要論点とする認識を示していて、立法裁量論にこの判決が明白に言及している点は無視している(戸波江二「最高裁判所民事判例研究」法学協会雑誌九四巻一号一二一頁以下参照)。
 このような認識の仕方はかなり多い。今ひとつの例として『基本法コンメンタール 憲法』[第四版]日本評論社刊、の二二条に関する解説(中島茂樹担当)をみれば、「職業選択の自由と違憲審査基準」というタイトルの下に、小売市場事件判決以下の諸判例の紹介が行われている。そこでもやはり、タイトルのとおり、違憲審査基準との関連だけが論じられており、判決中の立法基準論への論及はない。同様に、ここでは一々書名を示さないが、多数の教科書が、これらの判例を立法裁量論に全く論及することなく、違憲審査基準との関連だけを論じる形で取り上げている。
(19) 戸松秀典は、彼の立法裁量論に「もし、批判を向けようとするならば、この事実の把握の仕方が間違っているというべきであろうが、おそらく、誰もがその事実の把握の仕方に同意することと思う」と述べて、問題の鍵が判例の読み方という事実のレベルに隠れていることを承認している(戸松注16前掲書四二頁参照)
(20) 芦部信喜編『講座憲法訴訟』有斐閣昭和六二年刊、において、立法裁量論は、立法事実論と並んで第三章 憲法判断の法理中で論じられており、これに対して、合憲性判定基準は、それ自体第四章とされていて、別のレベルの問題とされている。
(21) 二重の基準の根拠としての文は、芦部信喜『憲法学U』有斐閣、218頁より引用
(22) 立法裁量論を、認める立場の場合には、それが明白性原則を伴っていると理解する点において、異論はないように思われる。例えば、園部逸夫「経済的規制立法に関する違憲審査覚書」『芦部信喜先生古稀祝賀 現代立憲主義の展開』下巻、有斐閣一九九三年刊、一九一頁以下参照。
(23) 行政法学上、警察とは「公共の安全と秩序を維持するために、一般統治権に基づき、人民に命令し強制し、その自然の自由を制限する作用(田中二郎『新版行政法下U』全訂第一版、弘文堂二五三頁)」をいうと一般に定義される。すなわち、いずれの行政庁が担当するかを問わず、この概念に該当する場合はすべて国家による警察権力の行使活動である。
(24) この括弧内の文は、北方ジャーナル事件最高裁判所判決(最高裁判所大法廷昭和六一年六月一一日判決(昭和五六年(オ)第六〇九号)より引用。
(25) 共有林分割制限違憲判決:最高裁判所大法廷昭和六二年四月二二日(昭和五九年(オ)第八〇五号)。民集四一巻三号四〇八頁、LEX-ID 27100065
(26) 昭和五六年一一月一七日最高裁判所第三小法廷判決は、歯科技工士と歯科医師法の関係についてのものであるが、この判決で、憲法二二条との関連を述べている部分は、歯科技工士が、歯科医師からの診断書がないにも関わらず、総義歯を作成して歯科医師法違反に問われた昭和三四年七月八日大法廷判決(昭和三三年(あ)第四一一号)を引用しているだけなので、本文に紹介した抜粋文は、三四年大法廷判決を引用したものである。刑事判例集一三巻七号一一三二頁、LEXーID 27680994
(27) クエン酸に著しい薬効があると宣伝して販売した行為が、薬事法違反に問われた事件である。昭和五七年九月二八日最高裁判所第三小法廷(昭和五六年(あ)第五八号)。刑事判例集三六巻八号七八七頁、LEXーID 27682410
(28) 柔道整復師が、骨折・脱臼等の術前・術後の診断のためにエックス線を使用したことが、診療放射線技師法違反に問われた事件である。同法では、医師、歯科医師、診療放射線技師または診療エックス線技師以外のすべての者に対し、放射線の使用を禁じている。昭和五八年七月一四日最高裁判所第一小法廷判決(昭和五七年(あ)第一二二号)
(29) 薬事法上の医療用具の一つとされるはり用器具の一種に属する円皮鍼を無許可で業として小分けし、販売した行為が、薬事法違反とされた事件。昭和五九年六月一九日第三小法廷判決(五八年(あ)第九三号)。刑集三八巻八号二七六一頁、LEX-ID 27682573
(30) 昭和六二年二月六日最高裁判所第二小法廷判決(昭和六一年(行ツ)第一五三号)は、たばこ小売店が店舗位置を変更しようとして距離制限に抵触した事例であるが、二二条との関連においては、昭和三九年七月一五日最高裁判所大法廷判決(昭和三八年(あ)第三五号)を引用しているだけなので、本文に紹介した抜粋文は、三九年大法廷判決より引用したものである。刑集一八巻六号三八六頁、LEX-ID 27681274
(31) 国会が繭糸価格安定法を改正したため、安価な輸入生糸を輸入できなくなった西陣ネクタイの業者が、同法が違憲という前提の下に国家賠償を求めて訴えた事件である。最高裁第三小法廷 平成二年二月六日判決(昭和六二年(オ)一六八号)訟務月報三六巻一二号二二四二頁 LEXーID 27808362
(32) 沖縄では、復帰前には三輪軽自動車によって、貨物ばかりでなく、客も有償で輸送することが認められていた。沖縄の本土復帰に伴う経過措置が執られた期間が過ぎたため、道路運送法に従い、有償旅客運送が禁止されるに至ったので、その損害賠償を求めて訴えた事件である。平成四年三月三日最高裁判所第三小法廷判決(平成二年(オ)第一〇一一号)。訟務月報三八巻七号一二二二頁、LEX-ID 27813918
(33) 弁護士会に加入を強制することにより、懲戒制度を通じて、弁護士会が少数の思想を有する弁護士に対する抑圧機関として運営されているとして、懲戒処分の取り消しを争った事件である。平成四年七月九日最高裁判所第一小法廷判決(平成元年(行ツ)第八九号) 判例時報一四四一号五六頁 LEX-ID 27814244
(34) 消費税法の違憲確認を求めて国家賠償請求の形で起こされた訴訟である。なお、二二条に関しては、最高裁は、「所論の点に関する原審の判断は正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない」と述べているに過ぎないので、ここには、高裁判決の該当個所を引用している。最高裁判所(第二小法廷)平成五年九月一〇日言渡(平成四年(行ツ)第四六号)、LEX-ID 22007950。広島高等裁判所岡山支部平成三年一二月五日判決(平成二年(行コ)第四号) 税務訴訟資料一八七号二三六頁 LEX-ID 22005860
(35) 国会が一度下した立法上の判断が、後の立法上の判断の範囲を拘束するという論理、換言すれば、裁判所の自制の範囲が狭まるという論理を明確に示した近時の判決として、参議院議員定数違憲判決(最高裁判所大法廷平成八年九月一一日判決/平成六年(行ツ)第五九号)がある。すなわち、同判決の場合、参議院議員定数の決定に当たっては広い立法裁量が承認されるとしつつ、昭和二一年の公職選挙法における定数の決定以後、一貫して各選挙区ごとの人口を要素の一つとする、という立法裁量が行われてきたことを認定し、その前提の下において、現行公職選挙法の参議院選挙区選出議員の定数の決定が、裁量権の限界を超えていると認定したものと読むことができる。
(36) 平等保護原則の場合には厳格な合理性基準が妥当する点及び米国における歴史的経緯については、戸松秀典『平等原則と司法審査』有斐閣一九九〇年刊、特に四一頁以下参照。
(37) 薬事法違憲判決の対象となった「薬事法六条二項、四項の適正配置規制に関する規定は、昭和三八年七月一二日法律第一三五号『薬事法の一部を改正する法律』により、新たな薬局の開設等の許可条件として追加されたものであるが、右の改正法律案の提案者は、その提案の理由として、一部地域における薬局等の乱設による過当競争のために一部業者に経営の不安定を生じ」たことが指摘されている。しかし、このような距離制限は、法改正以前に存在する安売り店によって既に経営の不安定を生じている店舗の救済策にはならない。そこで、この時の改正では、あまり知られていない今ひとつ重要な規制として、薬局の面積制限も導入された。薬の安売り店が大型スーパーなどの一画を利用している場合には、一般に売り場面積が狭かったので、これを閉め出すことを狙いとして設けられた制限である。同法施行後、一定期間以内に面積を拡大することができなかった店舗に対しては、薬局としての営業許可が取り消された。すなわち、距離制限には新規の安売り店の出店を阻止する目的があったのに対して、面積制限には既存の安売り店排除の狙いがあったのである。このため、多数の小規模薬局(より正確には、薬局の定義に該当しない薬店)が、この法改正によって廃業に追い込まれた(改正が狙った安売り店の場合には、むしろそれを契機に一層大型店化していくことになる)。この場合、形式的には職業遂行の自由の制約であるが、実質的に職業選択の自由の制限であることは明らかである。そして、内容的には、むしろ距離制限よりも人権の制約の度合いが大きいことは明らかである。したがって、距離制限が違憲であるならば、これはよりいっそう違憲と解されるべき規定であった。しかし、そうした小規模薬局には訴訟で争う者はいなかったため、より違憲性の低い距離制限と異なり、この制限は現在も残っている(現行薬事法六条一号参照)。

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