内心の静穏の権利

甲斐素直

[はじめに]

一 権利の存在について

二 権利の種類

(一) 人権論上の位置づけ

(二) 広い意味でのプライバシー説

(三) 19条説及び21条説

(四) 私見

三 権利の成立要件

(一) 囚われの聴衆

(二) 街頭宣伝活動

[おわりに]

 

[はじめに]

 本稿では、従来、主として「静穏のプライバシー」の名で知られている権利について論じようとしている。それにも関わらず、それと異なるタイトルを付けたが、それは、私が本稿の結論として、この権利を広い意味でのプライバシーの一環として把握することに反対しているからである。

 このように、静穏のプライバシーという用語に異を立てている先行例として、たとえば松井茂記は「聞きたくない表現を聞かされない自由」という名称を使っている(1)。本来ならば、この先行例に敬意を表して、それを使用するのが適切であろうが、お世辞にも言い易い表現とは思えないし、理論的には同一範疇として理解すべきである「見たくない表現を見ない自由」を含む概念となっていない点で不便である。この二つの概念を止揚する概念が必要と考えるゆえんである。

 内心の静穏の権利については、判例の数はきわめて限られており、もっぱら聞きたくない表現を聞かない自由の領域に集中している。判例集に掲載されている最高裁判所の判決としては大阪市市営地下鉄車内放送事件(2)が唯一のものであり、同じく下級審判例としては小田急電鉄宣伝放送事件(3)及び勝田市放送塔使用禁止請求事件(4)が目につく程度である。しかもこれらの事件では、もっぱら民事上の論点が争われていて、憲法上の権利としての内心の静穏の権利が判決上詳細に論じられているわけではない。大阪市営地下鉄事件で、伊藤正己判事が補足意見で静穏のプライバシーに論及している点で憲法判例といえる程度にとどまるのである。

 学説的にも、管見の限りでは、深く掘り下げた議論は余り無い。先に言及した松井論文の他には、大阪市営地下鉄車内放送事件判決に対して多数の判例評釈があり(5)、また、小田急電鉄宣伝放送事件に若干の判例評釈がある(6)程度で、広く一般に論じられているとはとうてい言い得ない。しかも、それらの判例評釈も、多くは、事件内容を紹介している程度にとどまり、学説の検討は不十分で、その権利の存在はともかく、意義、要件、効果などの検討は将来の課題としていて、権利の内容が今ひとつはっきりしていないものが目立つからである(7)

 このように、判例に現れている事件としては比較的古いものしかなく、また、学説的にもあまり論じられていない問題について、今の時点で改めて論じようと考えたのは、これが近時、現代社会におけるきわめて重要な権利として浮上しつつあると感じるからである。例えば、右翼と自称する団体による、街頭宣伝車を使っての特定個人や団体に対する大きなボリュームによる嫌がらせ活動は、本稿で取り上げる内心の静穏の権利が権利概念として確立していないことが、その取り締まりが十分に行われない原因として存在していると思われる。さらに、私は、内心の静穏を守る権利概念の一環として、より広く、「見られたくない時に見られない権利」や「聞かれたくない時に聞かれたくない権利」、換言すれば「監視されない権利」及び「盗聴されない権利」というものも含めて把握されるべきだと考えている。この前者については、近時、監視カメラの問題と絡んで大きな社会的関心を呼ぶようになっていることは、よく知られているとおりである。後者については、公的な盗聴については通信傍受法によって一定のコントロールがなされるようになっているが、近時、私人による盗聴が大きな社会問題となりつつあり、それについては憲法論的な検討はほとんどなされていない状況にある。

 これらについても、「内心の静穏」に対する侵害という統一的概念の下で把握することは可能と思われる。そうした概念を構築するための一つのステップとして、従来の学説を整理し、新しい展望を開くべく、本稿を執筆した次第である。ただし、この監視されない権利や盗聴されない権利の部分については、紙幅の関係から将来の機会に譲ることとし、本稿では、狭義の内心の静穏の権利の議論に留ることとする。

 

一 権利の存在について

 内心の静穏を守るというような曖昧な権利が実定法上認められるか、という疑問が、この権利については基本的に存在している。たとえば、新聞やテレビに広告が入ってくる。この場合、我々は、それを見る・見ない、聞く・聞かないの選択の自由があることは間違いない。テレビ番組の中途に入るCMの時間のことをトイレ休憩と呼んだりするのは、そのことをよく示している。そして、それを法的権利として構成する必要がないことは確かである。

 しかし、そうした場合に、広告が我々の内心の静穏という法的権利を侵害すると構成する必要が発生しないのは、受ける我々の側に、その情報を受け入れるか否かの選択権が存在するからである。その選択権が失われると、これを法的権利として考える必要が発生してくる。

 たとえば、E-メイルなどでかまわず広告を送りつけられると、携帯電話の場合にはそれに対する受信料を支払わなければならないし、パソコンの場合でも膨大なE-メイルの中に大事な連絡が埋もれてしまい、場合によってはメイルボックスが溢れて、大事なメイルを受け取ること自体が不可能になってしまい、受信者にとって大きな負担となる。だから、受信者が受領を希望していない広告メイルは、拒絶する自由があって良い。これは明らかに、見たくない表現を見ない自由である。具体的に表現すると“迷惑メイル”を受けることを拒絶する法的権利が存在していると主張する必要がある。この権利の具体化は、その必要性が極めて高いと認識されたため、「特定商取引に関する法律」の20024月における改正により実現している(8)

 この例に見られるように、内心の静穏を守ることが、現行法制度の下で、法的権利として承認されることは疑う余地がない。すなわち抽象的権利性は認められている。問題は、このような、権利を法的に争うのに必要な要件や効果を具体的に定めた特別の法律が存在しない場合に、憲法のみに基づいて、これを具体的権利として、すなわち裁判で争いうる権利として成立していると主張するには、どのような要件が必要か、ということである。

 

二 権利の種類

(一) 人権論上の位置づけ

 このように見たくないものを見ず、聞きたくないものを聞かない自由という概念は、従来の人権体系の中で、憲法解釈学的にはどこに位置づけることが可能なのだろうか。

 学説的には三つの見解がある。

 第一は、広い意味でのプライバシーの仲間と考えて、憲法13条に基づいて説明する立場である。

 第二は、消極的な情報受領権(憲法21条)と把握する立場である。これをいうためには、21条における表現の自由という概念の内容を、かつての判例と違って、国際人権B規約192項にいうところの「あらゆる種類の情報及び考えを求め、受け、及び伝えるる自由」と把握することが前提となる。そうした把握の下では、表現の自由は情報受領権、情報請求権及び情報発信権の三者からなるものとしてとらえられることになる。そして自由権は、すべて積極・消極二つの形態をとりうる。情報受領権及び情報請求権の積極的形態は、「知る権利」として知られている。それに対して、内心の静穏を守ることを、権利として構成する場合には、その消極的形態としての情報受領拒否権と把握することができると考えるわけである。

 第三は、内心の平穏ということから、内心の自由(憲法19条)で説明する立場である。この説は、基本的には21条説と同じもので、ただ、19条の保障する権利内容の把握に差違があるため、情報受領拒否権がこちらの範疇にはいると理解するものである。

 以下、逐次、これらの見解の内容について紹介したい。

 

(二) 広い意味でのプライバシー説

 上述の大阪市市営地下鉄車内放送事件最高裁判決における伊藤正己判事の補足意見はこうした立場の典型ということができるであろう。上記最高裁判所判決中で、次のように述べる。

「人は、法律の規定をまつまでもなく、日常生活において見たくないものを見ず、聞きたくないものを聞かない自由を本来有しているとされる。私は、個人が他者から自己の欲しない刺戟によって心の静穏を乱されない利益を有しており、これを広い意味でのプライバシーと呼ぶことができると考えており、聞きたくない音を聞かされることは、このような心の静穏を侵害することになると考えている。」

 このように把握するとき、内心の静穏を守る権利を、一般に「静穏のプライバシー」と呼ぶ。伊藤判事の言う「広い意味でのプライバシー」という表現は、憲法教科書に普通に書かれている通常のプライバシーとは違うものだ、という主張である。そこでまず、普通のものとはどこが違うのかを、もう少し詳しく考えてみよう。

 普通のプライバシーといったが、厳密にいえば、従来、プライバシーの名で知られている権利は、2種類の下位概念に分かれると考える。「宴のあと」事件や「石に泳ぐ魚」事件で問題になったものは、もっぱら私人間で私法上の不法行為における保護法益としての権利として争われるプライバシーである(以下「私法上のプライバシー」という)。これに対して、国民総背番号制など、国家や大組織が保有する個人情報の保護を問題とする場合には、自己情報コントロール権という形で問題となるプライバシーである(以下「公法上のプライバシー」という)(9)

 私法上のプライバシーの場合、そこで保護の対象となるのは、個人の「私生活上の事実または事実らしく受け取られるおそれがあ」る事実である(10)。また、公法上のプライバシーの場合にも、そこで問題となっているのは、自己情報に関するコントロールである。つまり、従来知られていた2種類のプライバシー権の保護対象は、いずれも自分自身に関する情報という点で共通点がある。

 それに対して、本問で問題になっているのは、広告宣伝放送だから、公的な情報を問題にしている。普通のプライバシーに比べると、その対極にある情報ということができるであろう。しかし、たとえば私法上のプライバシーを「個人がある確実な私的領域を持っていること、その領域には他人が進入できないことを指す」(11)というように把握する場合には、心の静穏というのはまさにそうした私的領域と理解することもできるわけで、その意味で、確かにプライバシーの広い意味には合致しているといえる。あるいは公法上のプライバシーを「物理的にまたはより巧妙な方法で自己の生活の場および自己の選ぶ活動領域に侵入されうる程度を決定できる、法的に承認された自由または力」(12)と定義する場合にも、やはりこの「自己の生活の場」等の概念中に内心の静穏を守る権利が含まれると考えることもできそうである。そういう点をとらえれば、内心の静穏が、広い意味のプライバシーの保護対象であるという理解も可能であろう(13)。そこから、いわば第三のプライバシー概念として、これを静穏のプライバシーと呼ぶ説が登場することになる。

 広い意味でのプライバシーの一種と考えたからといって、普通のプライバシーと同じような要件や効果が認められるというわけではない。これは従来知られていたプライバシー権に比べると、かなり弱い権利だからである。

 普通、プライバシーは精神的自由権と位置づけられる。そして、広告放送は、当然経済的自由権であるから、この二つが衝突した場合、精神的自由権である静穏のプライバシー権が、原則として経済的自由権に優越すると、常識的には結論が下されるはずである。

 実際、大阪市営地下鉄車内放送事件で、原告側の上告理由はこの常識を忠実に展開して次のように述べている。

「上告人の主張する人格権の内容は、思考または感覚等の精神的活動領域の自律性を中核とする精神的自由権に属する基本的人権(憲法13条)であり、『諸権利のなかでも最も包括的で、かつ文明人が最も価値あるとする権利』(ブランダイス)あるいは『すべての自由の端初』(ダグラス)と評価さるべき権利であって、被上告人の有する商業宣伝を行う自由との関係で制約されるとするなら、双方の権利の性格に相応した厳格な基準が示されなければならないものである。〈中略〉原判決は、上告人の保持する人格権が経済的自由権である被上告人の商業宣伝の自由に優越する精神的自由権であることを看過し、これを制約するには憲法の解釈上判例に示された厳格な基準に適合することが必要であるにもかかわらず、これを顧慮しなかったことは、憲法の解釈を誤ったものであり、かつ判断の理由に齟齬があるか、理由不備の違法があるものとして破棄さるべきものである。」

 これは、上述した常識からすれば、きわめて自然な論理ということができる。しかし、下級審はもとより、最高裁もこの常識的な論理を、特段の理由を示すことなくあっさりと否定している。その点について伊藤判事は補足して、次のようにいう。

「私見によれば、他者から自己の欲しない刺激によって心の静穏を害されない利益は、人格的利益として現代社会において重要なものであり、これを包括的な人権としての幸福追求権(憲法13条)に含まれると解することもできないものではないけれども、これを精神的自由権の一つとして憲法上優越的地位を有するものとすることは適当ではないと考える。それは、社会に存在する他の利益との調整が図られなければならず、個人の人格にかかわる被侵害利益としての重要性を勘案しつつも、侵害行為の態様との相関関係において違法な侵害であるかどうかを判断しなければならず、プライバシーの利益の側からみるときには、対立する利益(そこには経済的自由権も当然含まれる。)との較量にたって、その侵害を受忍しなければならないこともありうるからである。この相関関係を判断するためには、侵害行為の具体的な態様について検討を行うことが必要となる。」

 すなわち、否定する理由は、この心の平穏が「精神的自由権の一つとして憲法上優越的地位を有するものとすることは適当ではない」からだ、というわけである。しかし、なぜ精神的自由権に属さないと考えるのかについては、特段の説明がない。さりとて、経済的自由権に属するとするわけではないようだから、その中間に位置する第3のその類型と把握していることになると思われる。しかし、その類型の概念内容については全く説明はない。この点で、この説は基本的な弱さを持っている。

 その上で、この静穏のプライバシー権は、公共空間ではさらに弱い権利になると、伊藤判事は説明している。

「聞きたくない音によって心の静穏を害されることは、プライバシーの利益と考えられるが、本来、プライバシーは公共の場所においてはその保護が希薄とならざるをえず、受忍すべき範囲が広くなることを免れない。個人の居宅における音による侵害に対しては、プライバシーの保護の程度が高いとしても、人が公共の場所にいる限りは、プライバシーの利益は、全く失われるわけではないがきわめて制約されるものになる。したがって、一般の公共の場所にあっては、本件のような放送はプライバシーの侵害の問題を生ずるものとは考えられない。」

 確かに、前述した二種類のプライバシーのうち、少なくとも私法上のプライバシーは、本来私的空間において優越性を持つのである。したがって、地下鉄の車内や駅構内というような公共の空間では、その優越的地位は失われる。その結果、他の精神的自由権はもとより、経済的自由権とでも、比較考量の対象となる程度の弱さに転落する、という論理を展開している、と理解することができるであろう。

(三) 19条説及び21条説

 内心の静穏について、19条の内心の自由で説明するのと、21条の表現の自由で説明するのとでは、先に簡単に述べたとおり、基本的な考え方に違いはない、と考える。どちらも精神的自由権の消極的行使形態として把握しているからである。どちらの条文に依拠して説明するのが妥当と考えるのかは、基本的にそれぞれの条文の射程距離を、どのように把握するかに依存している。

 1 通説的理解

 19条と21条の関係に関する通説は、19条は基本的に消極的自由だけを保障していると理解する、といえるであろう。なぜなら、思想や良心を外部に対して積極的に表明する自由については、信教の自由について憲法20条、学問的表現の自由について23条、そして、そのいずれにも属さない一般的な表現の自由について、21条がいずれも保障しているところである。したがって、19条で積極的に内心の思想や良心を外部に表明する自由を考えても、20条以下の条文に現れない特別の意義を発見できず、実益がない。その結果、19条で読むことができるのは、消極的な沈黙の自由だけだからである。

 このように消極的に、表現しない自由だけを19条に読む場合、思想と良心を厳密に区別しても、同一条文に同格に上げられているので実益がない。特にわが国の場合、良心という言葉の中心的な意味として、欧米等では一般に認められている信教の自由が、わが憲法では20条という形で独立に保障されている結果、それを除外した良心という概念を考える余地に乏しい。したがって、この二つの概念を併記することによって表現されるところの統一概念を、保護の客体と考えるのが妥当である。これを普通、内心の自由と称する。

 しかしながら、このように、消極的権利に限定して考えた場合にも、なお問題が存在する。すなわち、上述した20条以下の各条もまた、いずれも積極的な表明の自由だけでなく、消極的な沈黙の自由をも保障していると考えられるからである。特に問題となるのが、21条の一般的な表現の自由の保障から導かれる沈黙の自由である。19条の沈黙の自由は、量的には、完全にそれに含まれているはずである。したがって、両者の間に何らかの質的差違がない限り、19条の内心の自由は、沈黙についてさえ、特に考える必要が無くなってしまうことになる。

 この点については、一般的に、19条の沈黙の自由は絶対的な保障であり、21条の沈黙の自由は相対的な保障として理解する。すなわち、19条の沈黙の自由は公共の福祉の必要があっても侵害できない強い権利とするのである。

 これに対して、21条の沈黙の自由は公共の福祉の制約に服するので、公共の必要があれば、沈黙権を侵害して、国家が表現を強制することも可能である。現実に憲法自身が、その38条では、自己に不利益な供述を強要されない、として、自己の利益に直接関わりのない供述の強要を予定している。これを受けての訴訟法では、単なる事実に関しての供述を強制する制度を設けている。裁判における証人の出頭義務(民訴192条〜193条、刑訴150条〜153条の2)及び証人の宣誓・証言義務(民訴201条、刑訴160条〜161条)がそれである。

 このような理解に立つ場合には、内心の静穏の権利に関してプライバシーに属することを否定する論者は、必然的に21条説をとらざるを得ない。19条説に立った場合には保障の度合いが強すぎてどうにもならないからである。解釈技術的には、思想及び良心という概念は、単なる心の静穏を含むものではない、と説明すればよい。世界観説に立てばもちろん、一般的観念説に立つ場合でも、観念とは積極的な思考形態であって、単なる平穏状態を含む概念とはいえないから、問題なく19条説を否定できるはずである。

  2 松井茂記説の立場

 これに対して、本稿冒頭に論文を紹介した松井茂記は19条説を唱えている。そのような解釈が可能になるのは、松井説では、19条の理解自体が、通説と異なっているからである。すなわち、19条を「政府が個人の内心に踏み込む」ことの禁止であると理解する。

「最近の心理学・精神医学の発達によって、政府が文字通り個人の内心に踏み込む可能性は現実のものとなってきている。それゆえ、今日では思想・良心の自由は文字通りの内心の保護をも内包する形で理解されねばなるまい。また、政府が特定の思想・良心を促進し、援助する場合にも、思想・良心の問題が生じるものと考えるべきであろう。」(14)

 独裁国家における洗脳などの状況を見ると、誠に説得力ある論理ということができる。そういうことから、松井茂記は単なる消極的沈黙の自由を超えた広い概念として19条を把握していると思われる。そこから、内心の静穏も、保護法益として把握する、という見解が導かれることになる。すなわち、松井説は、一見しただけでは従来の一般的観念説と似ているが、実際は明確に一線を画した独自のものと理解するべきである。

(四) 私見

 以上の学説の中で、私は21条説を採る。19条説には非常に首肯させられるところがあるが、現在のところ、松井説のように、19条の意味を通説と大きく異なって解釈する場合に、それによる影響がどの範囲に及ぶのか、判断が付かない、という消極的な理由から、当面は19条に関しては通説的な理解に依りたいと考えているためである。

 そこで問題は、なぜ静穏のプライバシーと考えてはいけないのかという点である。単純に、具体的な憲法の条文で説明する方が、13条の無名基本権条項に依存するよりも説得力があるから、と説明する論者もある(15)

 しかし、このような説明形式にとどまらない実質的な差異が、21条説と静穏のプライバシー説の間には存在していると考える。確かに、21条説と静穏のプライバシー説は、大阪市営地下鉄車内放送事件や小田急電鉄宣伝放送事件のように、私人間での侵害が問題となっている事件に関する限りでは特に結論に差異が生じない。これに対して、情報の発信者が国家そのものである場合には、決定的な差異を示す。

 なぜなら、プライバシー説では、それに対する侵害は、侵害者が私人であると国家であるとを問わず、等しく禁じられる。そして、鉄道の駅などにおいては、伊藤正己がまさしく指摘するとおり、公共空間であるという理由で、私人の住宅内などに比べて基本的にプライバシーの保護が縮減するという(16)。その結果、構内放送などをする権利の方がプライバシーに対して優越性を示す、という、大阪市営地下鉄事件判例が導かれることになる。この場合、繰り返すが、その放送者が国か民間かという点では違いが生じない。

 それに対して、21条説では、放送者が国の場合と私人間の場合とでは異なる現れ方をする。21条の権利は、私人間においては直接適用されず、民法90条を経由して間接的に適用されるに過ぎない。その結果、日常生活上の受忍限度論がそこに展開され、よほど過激な静穏の侵害行為でない限り、民法90条違反と認められることはあり得ない。これに対し、対国家関係においては、私人間の場合と違って、情報受領拒否権が対国家的権利としてストレートに適用される結果、原則的に禁圧されるという結論が導かれるからである。私が、21条説を妥当と考える主たる理由は、ここにある。

 冒頭に下級審判例として、勝田市放送塔使用禁止請求事件をあげた。この判決は、市が放送塔を通じて、閑静な住宅街において、市民に対して、様々な情報を一日中垂れ流しにしていることに対する問題意識がひとかけらも示されていないひどい代物であった(17)21条説に立つ場合には、このような放送は原則として許されないと解することになる(18)

 これに対して、小田急電鉄のような私鉄の場合には、21条は対国家的権利であって、私人間に直接的な効力は認められないから、人権の私人間における間接適用の問題と把握することになる。その前提に立つ場合には、宣伝放送が公序良俗違反といえる程度に達しない限り、民法90条違反という結論は導かれないから、このプロセスを通じて、二つの人権の衝突をかなり効果的に調整することが可能になる。

 大阪市営地下鉄事件に見られるように、当事者の一方が地方公共団体である場合でも、それが営利活動であるという経営の実態に注目する限り、たまたま法形式的に公法人か私法人かという点にこだわるのは適切とはいえないであろう。大事なことは、企業活動に当たって、どの程度に経済性を重視するか、ということである。かつての国鉄のように親方日の丸といわれた放漫経営を行っている場合には、車内放送の内容選択にあたって、乗客の好感度ということは問題にならないので、それが公的組織によって運営されている、ということを重視するべきであろう。それに対して、大阪市営地下鉄のように、経営の健全化の一環として行われる商業宣伝放送の場合、少なくとも大半の乗客に好感を持たれない限り、商業放送の目的そのものが失われるから、そこに自ずと歯止めが働くはずである。そうした実質面まで踏み込んで、公法関係か、私法関係かは考える必要があると思われる。この点については、次節で詳述したい。

 

三 権利の成立要件

(一) 囚われの聴衆

 本稿における今ひとつの大きな問題が、「囚われの聴衆(captive audience)」という点にある。先に、聞く・聞かないの自由は、その選択の自由が侵害された状態で、はじめて法的権利性が問題になると述べた。その選択の制限状態がきわめて大きい場合をこう呼ぶのである。

 内心の静穏を守る権利は、一般的には抽象的権利の段階にとどまる。したがって、迷惑メイルに代表されるように実定法により保障される場合に初めて、具体的権利性が発生する。しかし、一定の要件を具備すれば、そうした実定法なくして、21条のみに基づいて、具体的権利性を考慮することが可能となると考える。そうした要件として最も重要なのが、この「囚われの聴衆」という要件である。

 大阪市営地下鉄における商業宣伝放送が、公共の場所ではあるが、地下鉄の車内という乗客にとって目的地に到達するため利用せざるをえない交通機関のなかでの放送であり、これを聞くことを事実上強制されるという事実をどう考えるかという問題である。先に、本件に関する判例評釈は、権利の内容等についてあまり論じていないと述べたが、その理由は、渋谷、赤坂、高井いずれの判例評釈もタイトルにこの言葉をあげていることに見られるように、関心の中心が囚われの聴衆という点にあるからである。しかし、基本となる権利の種類を決定することなしに、極限的状況だけを検討することは意味がないと考える(19)

 伊藤判事は言う。

「人が公共の交通機関を利用するときは、もとよりその意思に基づいて利用するのであり、また他の手段によって目的地に到達することも不可能ではないから、選択の自由が全くないわけではない。しかし、人は通常その交通機関を利用せざるをえないのであり、その利用をしている間に利用をやめるときには目的を達成することができない。比喩的表現であるが、その者は『とらわれ』た状態におかれているといえよう。そこで車内放送が行われるときには、その音は必然的に乗客の耳に達するのであり、それがある乗客にとって聞きたくない音量や内容のものであってもこれから逃れることができず、せいぜいその者にとってできるだけそれを聞かないよう努力することが残されているにすぎない。したがって、実際上このような『とらわれの聞き手』にとってその音を聞くことが強制されていると考えられよう。およそ表現の自由が憲法上強い保障を受けるのは、受け手の多くの表現のうちから自由に特定の表現を選んで受けとることができ、また受けとりたくない表現を自己の意思で受けとることを拒むことのできる場を前提としていると考えられる(『思想表現の自由市場』といわれるのがそれである。)。したがって、特定の表現のみが受け手に強制的に伝達されるところでは表現の自由の保障は典型的に機能するものではなく、その制約をうける範囲が大きいとされざるをえない。」

 この問題指摘はきわめて正しいものと考える。ただ、残念なことに、その持つ法的効果に関する検討については、お世辞にも充実したものとはいえない。単に次のように述べるだけである。

「本件商業宣伝放送が憲法上の表現の自由の保障をうけるものであるかどうかには問題があるが、これを経済的自由の行使とみるときはもとより、表現の自由の行使とみるとしても、右にみたように、一般の表現行為と異なる評価をうけると解される。もとより、このように解するからといって、『とらわれの聞き手』への情報の伝達がプライバシーの利益に劣るものとして直ちに違法な侵害行為と判断されるものではない。しかし、このような聞き手の状況はプライバシーの利益との調整を考える場合に考慮される一つの要素となるというべきであり、本件の放送が一般の公共の場所においてプライバシーの侵害に当たらないとしても、それが本件のような『とらわれの聞き手』に対しては異なる評価をうけることもありうるのである。」

 ここでは、囚われの聴衆という状態が、どの程度の評価要素となるのか、具体的な形では説明されていない点に問題がある。しかし、それに代えて、具体的に次のような比較考量を行った上で結論を下しているから、それを通じて、ある程度基準を把握することができる。

「以上のような観点にたって本件をみてみると、試験放送として実施された第一審判決添付別紙(一)のような内容であるとすると違法と評価されるおそれがないとはいえないが、その後被上告人はその内容を控え目なものとし、駅周辺の企業を広告主とし、同別紙(四)の示す基準にのっとり同別紙(五)のような内容で実施するに至っているというのであり、この程度の内容の商業宣伝放送であれば、上告人が右に述べた『とらわれの聞き手』であること、さらに、本件地下鉄が地方公営企業であることを考慮にいれるとしても、なお上告人にとって受忍の範囲をこえたプライバシーの侵害であるということはできず、その論旨は採用することはできないというべきである。」

 ここでは放送内容等に踏み込んだ上で、その程度では権利侵害にはならない、という判断を示している。このように、一般的に禁止されるのではなく、具体的な放送内容に左右される、という見解そのものは正しいものと考える。

 問題は、どの程度まで放送内容を考慮することが許されるか、という点にある。囚われの聴衆という問題が発生する場合には、それは、上記伊藤説よりも、はるかに厳格に考慮されるべきであるとする見解も存在する。渋谷判例評釈は、その代表的なものである。そこでは、アメリカにおける同種事件における連邦最高裁判決(20)におけるダグラス判事の反対意見(21)をまず紹介する。これを受けて、渋谷秀樹は次のように述べる。

「『とらわれの聴衆』というコンテクストにおける聞かない自由の保障は、先にみたダグラス裁判官の反対意見が述べるように、最大限に保障するのが正当である。なぜなら、公共輸送機関の車内の乗客は、公共の場所にいるとはいえ、そこから逃れるには、他の輸送機関の使用等の大きな負担を強いられ、また視覚への刺戟と異なり、聴覚への刺戟に対しては、有効な防禦手段をとりえないからである。ただ、公共輸送機関に必要不可欠な放送までも一律に禁止されるとするのは行き過ぎであり、放送の内容・頻度・音量・音質が考慮の対象となる。問題は、放送内容である。放送内容は、情報提供的放送(行き先案内、次の駅名、乗換え案内、降車口の方向案内等)、乗車マナー啓発放送、音楽放送、政治宣伝的放送、商業宣伝放送に分類されよう。このうち、政治宣伝的放送、商業宣伝放送は許されないと解する。表現の自由も絶対的ではない。乗車マナー啓発放送、音楽放送は、許容されるのではないかとの見解もでてこようが、乗車マナー啓発放送は、その効果自体が疑問であり、『お節介放送』である観は否めない。音楽放送も個人的な嗜好があるのでやはり許されないと解する。結局、情報提供的放送のみが許されることになるが、問題は、本件のような商業宣伝放送を兼ねた情報提供が許容さるべきか否かである。商業宣伝放送は、公共輸送機関の財源の一助とするためのものであるが、そういった考慮を比較衡量の秤にかけるのは誤りであり、あくまで乗客(聴衆)の利益からそれは判定さるべきである。このような放送について第二審判決はその有用性を指摘するが、放送時間の制約があるので、精々三件の案内が限度であり、この程度の放送は、案内放送の外観は備えているとはいえ、その実質は特定業者の宣伝放送にほかならず、結局このような放送も許されるべきではないと解する。」(22)

 誰か一人でも不愉快に感じる可能性のある全ての放送を禁止するべきだ、と考えていると要約できるであろう。結論の当否はともかく、囚われの聴衆という論点を提起する場合には、少なくともここに取り上げられているような諸点を論ずる必要があるのは明らかである。

 しかし、ここまで踏み込んで制限する必要があるか、という点については、私は疑問を感ずる。先に述べたとおり、商業宣伝活動として行われている車内放送や構内放送の場合、乗客の多くに嫌悪感を与えるような放送は、経営という観点から見て当然マイナスに作用するから、そこに自ずと歯止めが働くはずであり、ダグラス判事のように常に最悪の方向に推移する場合を考える必要は、通常はない、と思われるからである。上述したアメリカの事件の場合、連邦政府の公共事業委員会が運営している、という点で公的性格があった点に、ダグラス判事の危惧の根拠があることは、その意見の端々に現れる政府や官僚という表現に明らかである。

 これに対して、合衆国連邦最高裁の多数意見が訴えを退けた根拠の一つには、乗客の圧倒的多数が放送を支持しているという事実があった。すなわち、合衆国最高裁判決の示すところに依れば、乗客の76.3%は放送を好んでおり、13.9%は気にしておらず、3.2%はそれを知らず、6.6%は好んではいないが、そのうちの3.6%は多数意見に従うとしていた。結局、この事件の原告のように、放送に積極的に反対していたのは3%程度に過ぎなかったのである。

 確かに、憲法が自由を保障することの意義は、多数の横暴から少数者の権利を守ることにある。したがって、わずか3%程度に過ぎないのであれば、無視して良い、と主張するつもりはない。しかし、そこから先は、わが国判決が言うとおり、社会生活における受忍限度に含まれるか否か、ということが考えられるべきであろう。例えば、国際線の航空機や長距離列車のように、長時間にわたって囚われの聴衆状態が継続するような場合には、いかに多数が放送を支持していようとも、それを忌避したいとする少数者の自由にもまた配慮が行われるべきである。しかし、路面電車や地下鉄のように、比較的短時間しか拘束状態が続かないような場合には、受忍限度論に基づき、大多数の支持する放送を許容するべき範囲が拡大する、といえるのではないだろうか。先に紹介したとおり、伊藤判事は、実験放送段階の内容と、実用化された段階の放送内容を比較して、前者であれば受忍の限度を超えているが、現行のものであれば、受忍の範囲内とした。商業放送の場合には、このような、個別の比較考量を許容しうると思われる。

しかし、繰り返して強調するが、国家等が主体となって行う場合は話が別である。受け手側の好感度の大小というような歯止めが働かない上、そこに常に思想統制の危険性が潜んでいるからである。ダグラス判事が問題にしていたのも、国家による侵害であった。しかし、基本的にプライバシー説に依拠していたために、両者を区別して議論することができなかったのである。その意味で、先に述べたとおり、公的放送と私的放送を峻別して論じうる21条説の方が、プライバシー説より妥当と考えるのである。

(二) 街頭宣伝活動

 多くの街頭宣伝活動は、騒音を伴い、少なからぬ人々に不快感を与える。しかし、それを巡って裁判になった事件は、会館における集会の妨害活動のように、21条の集会の自由の妨害と認められる場合を除くと、意外なほど少なく、判例集登載の事件では女優佐久間良子の自宅付近に街宣車が押しかけた事件が目に付く程度である。同事件で、裁判所は、次の理由により、妨害予防請求を承認した。

「何人も生命、身体、財産等を侵されることなく平穏に生活する人格権を有し、かかる人格権が著しく侵害され、かつ将来も侵害されるおそれがある場合には、加害者に対し、現に行われている侵害行為を排除し、又は将来生ずべき侵害を予防するため、侵害行為の差し止めを求めることができるところ、被告等の右街宣活動、訪問行為は、原告の人格権を著しく侵害する行為というべきである。」(23)

 ここでは、先に紹介した静穏のプライバシー説、19条説、21条説とも異なる、13条の人格権の一環として平穏に生活する権利というものを想定し、それに対する侵害と構成している。しかし、ここで問題となっているものもまた、大阪市営地下鉄宣伝放送事件と同じく、内心の静穏の権利と把握すれば良く、平穏な生活権というものを別個構成する実益はないと思われる。したがって、21条に基づく情報受領拒否権と構成するのを妥当と考える。

 そもそも、自宅は、本来内心の平穏をもっとも確実に得られる場所であり、そこで一方的に自らが欲しない情報を聞かされることは、一種の囚われの聴衆状態ということができる。したがって、上述と同じ論理の下に、民法90条により、街頭宣伝活動という名の表現活動を抑止しうるものと考える。

[おわりに]

 本稿の冒頭で、ここに述べた権利の延長線上に「監視されない権利」や「盗聴されない権利」を考えることができる、と述べた。それらについては、現在のところ、自己情報コントロール権あるいは肖像権という概念で説明される傾向があるように思われる。しかし、それらの権利として構成した場合には、監視者が公的存在か、私的存在かによって法的関係に認められるべき差違を説明しにくい、と私は感じている。その点、本稿に論じた21条の権利として内心の静穏の権利を構築した場合には、銀行等の防犯カメラやビルの管理上の必要からエレベータ内などに設置されている監視カメラについては、人権の私人間効力として比較的緩やかに肯定しうる一方、警察がスピード違反等を取り締まるための監視カメラ等については、その設置や利用に関する要件を厳しく定める、という二重の基準を設けることが可能になると考えている。この理論の細部については、別途論じたい。

 

注記

(1) 松井茂記著「『聞きたくない表現を聞かされない自由』についてー小田急事件及び大阪地下鉄事件を契機にしてー」、法律のひろば42638頁以下参照(以下、これに言及するときには「松井論文」という)。

(2) 大阪市市営地下鉄車内放送事件については、最高裁判所第三小法廷 昭和58年(オ)第1022 昭和631220日判決。判例時報130294頁、判例タイムズ68774頁、LexDB27806085等参照。

(3) 小田急電鉄宣伝放送事件については、東京高等裁判所 昭和57年(ネ)第959 昭和571221日。判例時報107035頁、判例タイムズ49170頁、LexDB27405875参照。この事件については最高裁判決があるが、判例集未登載である。

(4) 勝田市放送塔使用禁止請求事件については、水戸地方裁判所 昭和56年(ワ)第558 昭和601227日判決。なお、勝田市は、その後合併により、現在はひたちなか市の一部になっている。

(5) 大阪市営地下鉄車内放送事件に対する判例評釈としては次のようなものがある。

林修三・時の法令13558319896

渋谷秀樹・ジュリスト93840461989715 (以下、これに言及するときは「渋谷判例評釈」という。)

前田達明・民商法雑誌10061099110419899

飯塚和之・判例タイムズ70773頁〜77198911

錦織成史・判例セレクト’89(法学教室113号別冊付録)2419902

松本恒雄・判例地方自治66444619903

赤坂正浩・平成元年度重要判例解説(ジュリスト957号)161719906

高井裕之・憲法判例百選<第4版>(別冊ジュリスト154505120009月(なお、この高井評釈は、同書第350頁以下を補筆・再録したものである。)

(6) 小田急電鉄宣伝放送事件東京高裁判決に対しても言及しているものは他にもあるが、これだけに対する判例評釈としては次のものがある。

  赤松美登里・公害・環境判例百選(別冊ジュリスト1261341351994

(7) 注5および注6に紹介した判例評釈のうち、林修三、松本恒夫、錦織成史、赤松美登里の各評釈については、憲法レベルにおける学説の紹介自体がほとんどない。

 前田達明は、プライバシーという理解に反対し、「憲法第13条の基本的『自由』権の一内容たる『自由権」と考えるべきではなかろうか」とする。しかし、書かれているのはそれだけで、その意義・要件・効果については全く論及していない。

 飯塚和之は「アメリカで唱えられているところの『静穏のプライバシー』の範疇においてとらえるのが穏当なようにおもわれる」と述べている。しかし、やはりそれ以上の掘り下げがない。

 結局、ある程度、憲法上の学説等に論及しているのは渋谷秀樹、赤坂正浩、高井裕之の各判例評釈にとどまる状況である。

(8) 迷惑メイルを防ぐ規制の具体的な内容は、この改正を受けて、経済産業省が改正した同法律の施行規則(200271日施行)に定められている。それによると、新たにユーザーが送信者に対して広告メイルの受け取りを拒否した場合に、広告メイルの再送信を禁止した。また広告メイルの受け取りを拒否するための連絡方法の記載を義務づけた。これにともない、ユーザーが受け取りを許可していない広告メイルを発信する場合、メイル件名欄に「未承諾広告※」の表示が義務づけられた。従来の「!広告!」から「未承諾広告※」に変更したことで、受信許可を得ていないことを明確にした。また事業者は、メイル本文の最初に「<事業者>」と表示し、氏名・名称/電子メイルアドレスを表示する必要がある。従来は連絡方法を設定しない場合、件名欄に「!連絡方法無!」と表示すればよかったが、現在はこの表記は認められない。表示義務に違反した場合、業者は行政処分(指示、業務停止命令)の対象となる。さらに行政処分に違反した事業者は、指示違反の場合には100万円以下の罰金、業務停止命令違反の場合には300万円以下の罰金または2年以下の懲役が科せられる。

(9) ここに使用している用語のうち、公法上のプライバシー概念の詳細については、拙著『憲法ゼミナール』信山社2003年刊193頁以下参照。また、私法上のプライバシーについては、同じく202頁以下参照。

(10) 私生活上の事実云々という文章は、宴のあと事件(東京地裁昭和36年(ワ)第1882 昭和39928日)判決より引用。下級裁判所民事裁判例集1592317頁、判例時報38512頁、判例タイムズ165184頁、LexDB27421273参照。

(11) 私的領域云々という文章は、阪本昌成『憲法理論U』成文堂250頁より引用

(12) 法的に承認された自由または力という文章は、佐藤幸治「プライバシーの権利(その公法的側面)の憲法論的考察」『法学論叢』8651頁より引用

(13) ここに定義を引用した論者が、静穏のプライバシーが私法上あるいは公法上のプライバシーに含まれると主張していると言うことではない。そこに示した概念設定の下では、広い意味のプライバシーと考える余地がある、と述べているにとどまる。現実問題として、たとえば佐藤幸治は、プライバシー概念の拡張にはっきり否定的である。私も、プライバシーという言葉をむやみに関連ある事象に使うことは、この概念の混乱を招き、好ましくないと考えている。しかし、そのことによって、この概念が広くプライバシーという言葉を把握するときに、そこに含まれてくる、という事実そのものを否定することはできない。

(14) 19条に関する松井茂記の考え方については、松井茂記著『日本国憲法』第2版、有斐閣、411頁より引用

(15) 渋谷判例評釈は、「憲法の権利カタログに載っていない権利・自由の補充としての意味をもつ13条(幸福追求権)よりも、より具体的な個別の条文に根拠を求める方が説得力の点において優るであろう」として、19条説または21条説のいずれも妥当と説明している(注5掲記書44頁より引用)。

(16) 公共空間内ではプライバシーが縮減する、と説くことから、伊藤説による静穏のプライバシーは、後に説明する米国連邦最高裁のダグラス判事の見解と同じく、私法上のプライバシーに近似した性格を持つと理解されていることが判る。公法上のプライバシーでは、特に自己情報コントロール権と把握する場合には、公共空間だからといって、直ちにプライバシーが縮減するという結論は下せないからである。

(17) 水戸地方裁判所が事実認定したところによれば、勝田市の本件放送塔において放送されていた主な放送は、次のとおりであった。

(1)30秒間に18回打音するメロディチャイムを毎日午前1150分、午後5時(41日から930日までは午後6時)及び午後95分の合計3回、各30秒間。定時に放送している(時報放送)。

(2)「しごとに誇りをもち楽しく働きましょう。」等5項目の「市民憲章」を隔日に1項目ずつ定時に放送している。

(3)「危険ですから演習場に近寄らないようにしましょう。」等を自衛隊演習日時と共に年間約150日定時に放送している。

(4)「午前9時前には友達の家へ遊びに行かないようにしましょう。また、勉強している時は遊びに行かないようにしましょう。」等を夏休み中1か月の間毎日定時に小、中学生への注意として放送している。

(5)市民憲章推進協議会主催の市民号への参加募集(有料)を3か月間にわたり約40日定時に放送している。

(6)梅雨期のため前々日、前日とも雨であった昭和56614日の雨の日曜日に、市営グランド使用者へ野球大会中止の随時放送が行われた。

(7)昭和56717日午後8時すぎに、20分間隔で3回の随時放送が行われ、農業委員会委員選挙速報として、被選挙人名と得票数が読み上げられた。

(8)「スピードの出しすぎに注意しましょう。」等交通事故防止のための定時放送が昭和56115日前後の5日間放送された。

(9)そのほか、茨城県警察官採用試験の知らせ、不用になった犬猫の回収の通知、飼い犬の放し飼いと捨て犬禁止の知らせ、かつた祭りについての通知、お年玉つき年賀ハガキ発売の知らせ等が、定時放送において放送された。

(10)ほかに、随時放送として、深夜、早朝、日中に、日時、回数とも制限のない放送がある。随時放送として迷子の放送が多い。

(18) 勝田市放送塔事件は、判例としてはきわめて意義が低いものであるが、実質的には意味のあるものであった。すなわち、これが裁判になったことをきっかけに、少なくとも茨城県内の市町村では放送塔の乱用に対する反省が生まれたようである。私は茨城県牛久市に住むが、昔はやたらと様々な放送が多かったが、近時は、児童が行方不明になったというような緊急事態をのぞくと、夕方5時の時報放送だけになってほっとしている。

(19) 卑見とは反対に、渋谷判例評釈は、「一般にプライバシーか表現の自由かに包含させる以前に、『聞かない自由』それ自体としてどのような問題があるかを検討する必要がある」と主張している(注5引用書44頁より引用)。権利の種別を論ずることなく、囚われの聴衆を問題にする他の判例評釈も、同様の判断によるものと思われる。しかし、基礎となる権利の種別を決定することなしに、どのようにして、権利の限界を決定できるのか、私には理解できない。おそらく、注15に引用したとおり、プライバシーで説明するか、表現の自由で説明するかは、単に形式的説得力の問題に過ぎず、権利の限界には関係しないと考えているためと思われる。

(20) Public Utilities Committee v. Pollak=343 U.S.451(1952)。これは、コロンビア特別区公共事業委員会が、その運営している路面電車等の中で、ラジオ放送を受信し、これを車内拡声器を通じて車内に流していたのに対して、乗客の一部が会話の自由(修正1条)及びプライバシー(修正5条)の侵害として訴えた事件である。この場合、ラジオ放送の内容は、90%が音楽、5%がアナウンス、5%が宣伝であった。

(21) William O. Douglas判事の意見に関する渋谷判例評釈の紹介は、ダグラス判事の意見の一部を抄訳したもので、それだけでは判りにくいと思われる。これはかなり長文なので、私なりに原文から紹介すると、次のように要約できよう。基本的に、ここで問題になっている権利は、私法上のプライバシー(The right to be let alone)と考える。そして路面電車の乗客は、実際上囚われの聴衆(captive audience)とする。政府が今日においては文化的目的で車内のラジオ放送を行っているにしても、明日には政治的目的で使用するかも知れない。そして、プライバシーの権利から見る限り、政府の目的が何であるかは何の差違ももたらさない。我々が、他人のアイデアを聞くように強制するなら、それは宣伝屋に強力な武器を与えることになる、として、例えば音楽放送も、それが官僚が適当と考えるものを囚われの聴衆に聞かせるものだという点で否定的に考えるのである。こうした結果、現在行われている放送の内容ではなく、システムの持つ危険性を問題として、囚われの聴衆に対する放送を許すべきか否かを決定するべきだとしている。ダグラス判事の見解で最も重要な点は、これをプライバシーの一環として明確に位置づけていることと考える。「ひとたびプライバシーが侵害されると、プライバシーは消え去るのである」と主張から、幅広く内容を問うことなく、静穏のプライバシーを肯定するという結論を導くからである。

(22) 渋谷秀樹の見解については、渋谷判例評釈=注5引用書44頁より引用。

(23) 女優佐久間良子街頭宣伝活動禁止請求事件に関する文章は、東京地方裁判所平成11年(ワ)第1647 平成11827日判決 より引用。判例タイムズ1060228頁、LexDB28061557。同事件は、同女優が宗教団体の広告塔となり、霊感商法に関与しているとの報道を受けて、右翼団体が、同女優の自宅付近で同女優を誹謗中傷する街宣活動等をしたことから、同女優がその差止めを求めた事案である。