内閣総理大臣の地位と権限 |
[問題の所在]
一 行政の意思決定機関の一員としての地位
(一) 意思決定に際しての地位
(二) 内閣存立の基礎となる地位
1 内閣総理大臣の閣僚罷免権の意義
2 首長としての権限
二 ロッキード事件最高裁判所判決における個別意見
(一) 園部逸夫、大野正男、千種秀夫、河合伸一各判事の補足意見
(二) 尾崎行信判事の補足意見
(三) 草場良八、中島敏次郎、三好達、高橋久子各判事の意見
(四) 可部恒雄、大西勝也、小野幹雄各判事の補足意見
三 行政の執行機関としての地位
(一) 内閣と主任の国務大臣の関係
(二) 行政各部の指揮監督者の意義
(三) 対外的代表権の意義
[おわりに]
[問題の所在]
いわゆるロッキード事件丸紅ルートの最高裁判所判決(平成七年二月二二日大法廷判決/昭和六二年(あ)第一三五一号)は、事件当時のロッキード社コーチャン社長に対する嘱託尋問に関して、証拠能力を否定したことで、学界ばかりでなく、マスコミを始めとする社会の注目を集めた。
しかし、同判決の本当の焦点は、内閣総理大臣の指揮監督権の意義にあったといえるであろう。そのことは同判決に付された個別意見に明らかである。すなわち、同判決は、その判決書に名を連ねた一二名の最高裁判事全員が、単独あるいは連名の別こそあれ、補足意見ないし少数意見を付しているというきわめて異例の判決であるが、そのすべてが総理の職務権限を問題にしていたのである。それらの意見に示された職務権限に関する考え方は、かなり多岐にわたっており、注目すべき見解が多い。まさにこの点に関する考え方の縮図的様相を呈しており、ここに内閣総理大臣の権限の持つ問題性が端的に示されている。
このように多数の補足意見に見られる異なる見解を強引に一文に統合しようとした際の無理の現れか、判決本文の内閣総理大臣の権限に関するくだりは、どの個別意見とも異なる内容となっており、かつ、明らかに不当な結論を述べた文章となっている。
すなわち、「内閣総理大臣は、少なくとも、内閣の明示の意思に反しない限り、行政各部に対し、随時、その所掌事務について一定の方向で処理するよう指導、助言等の指示を与える権限を有する」と説く。傍線部を文字どおりに読むならば、明示の意思にさえ抵触しなければ、内閣の黙示の意思に反しての、指導・助言等を行う権限が、内閣総理大臣にあることになる。これは単純な誤記でないとすれば、内閣を行政における最高意思決定機関としている現行憲法の定める内閣制度の否定以外の何ものでもない。
それにも関わらず、これに対する憲法学界の反応はきわめて鈍かったといわざるを得ない(1)。本判決以降に出版された教科書でも、特に触れていない例が多い(2)。
私は、この内閣総理大臣の権限の問題は、その地位との関連で、把握しなければならない、と考える。すなわち、現代の法学において、権利とか権限というものは、常に、その主体となる者が、それに関わりのある法的関係中においてしめる地位の効果として把握されなければならない点については、特に異論のないことと思われる。
例えば、憲法四一条において、国会の持つ立法権の内包及び外延は、それ自体としては決定不可能である。そこで、国会が三権分立制の中で唯一の立法機関としての地位を占めていることの効果として、それを決定するべく、論ずるのが通例である。
それとまったく同様に、内閣総理大臣の権限もまた、内閣制度の中で、内閣総理大臣がどのような地位を占めているかを論じ、それとの関連においてでなければ、その権限の及ぶ範囲を確定することは不可能なはずである。しかるに、同判決において示された多数の意見のすべてが、この点に関する視点が明確なものとはなっていないのである。
以上のような問題状況に鑑み、本稿においては、内閣総理大臣の地位としてどのようなものが考え得るかを検討し、その効果として、内閣総理大臣の権限を把握してみたい。ここで述べることは、常識的な内容であると信じている。それにも関わらず、適切な問題意識が持たれていないために、明確な形で把握されていない点なのである。
一 行政の意思決定機関の一員としての地位
憲法六五条によれば、行政権は内閣に属する。すなわち、内閣という合議体が、わが国行政における最高の意思決定権を保有している。
憲法六六条一項は、この合議体を構成する者として、内閣総理大臣とその他の国務大臣の二者を予定し、うち、内閣総理大臣は「首長」たる地位を有する、と規定する。この首長という特殊な地位の理解に関しては、説の対立がある、とされる。その対立状況について、例えば、渋谷秀樹は次のように要約している。
「首長とはあくまで『合議体の主催者』を意味し、内部においては内閣の議長となってその事務を指揮監督し、外部に対してはこれを代表するのであって、憲法で特に認められた権限のほかは、合議体の一員として他の国務大臣と対等の地位を持つにとどまるという説と、他の国務大臣の上位に位置し、内閣を統率する地位にあるとする説がある」(3)
この説の対立は、しかし、同一の論点を巡ってのものではないことに注意する必要がある。すなわち、合議体の一員という点を見る限り、他に優越する表決権を内閣総理大臣に認めるという論者は、現行内閣制度の理解においてはいないからである。他方、他の閣僚の任免権を有するなど、その存立において、憲法が優越的な地位を認めていることもまた明らかである。つまり、この説の対立なるものは、内閣総理大臣の持つ異なる地位を混同した議論となっているのである。
すなわち、この説の対立で大切なことは、内閣の一員としての内閣総理大臣に対して、憲法は、二つの異なる地位を予定していることを明確に把握し、両者をきちんと識別して議論することである。その内閣総理大臣の持つ二つの地位とは、第一に、内閣における意思決定における内閣の一員としてしめる地位であり、第二に、内閣存立の基礎となる地位である。
(一) 意思決定における内閣の一員としての地位
内閣が意思を決定するための会議を「閣議」と呼ぶ(内閣法四条一項)。
憲法六六条一項の「首長」という言葉の意味は、内閣総理大臣の地位を、この、内閣における意思決定にあたっての言葉と理解する場合には、戦前の内閣制度におけるそれと同じく、同等者中の第一人者の意味で理解するほかはない。なぜならば、ある機関が合議体である、ということは、その意思決定に当たり、構成員は全員が等しい表決権を持つということを、自動的に意味するからである。合議体である限り、その中の特定の構成員に、合議体が特定の表決を行うように、他の構成員を強要する法的権限を持たせることはあり得ない。仮にその様な特権的な地位・権限を持つ構成員がいれば、その組織は、合議体ではあり得ない。その特定構成員に対する単なる諮問機関と考えるべきである(4)。
したがって、内閣が合議体であるという前提を認める限り、この関係で、内閣総理大臣に、他の閣僚に優越する地位を考えることはできない。
この理を受けて、現行の内閣法は、かなり厳密に合議体としての基本原則を貫いている。すなわち閣議において、内閣を構成している国務大臣は、すべて対等の権限を有している。第一に、各国務大臣は、案件の如何を問わず、閣議を求めることができる(同三項)。これについて、内閣総理大臣は拒否する自由は持たない(5)。第二に、各国務大臣は案件の如何を問わず、発言し、表決することができる。その意味で、閣議の場においては、すべての閣僚は無任所大臣として考えればよい。
もちろん、合議体において、特定人に、合議体の表決を拒否する権限を与えることは、合議体としての性格を損なうことなくできる。その様な法制度を採れば、その者は、他の構成員に対して優越的地位に立つということができるであろう。例えば、国連安全保障理事会において、常任理事国に認められている拒否権がその典型である。この点について、内閣法は沈黙している。仮に、内閣総理大臣にだけ拒否権を認め、他の閣僚に関しては認めない、という制度を導入すれば、内閣総理大臣は内閣における意思決定の場においても、他に優越する地位を有する、といってさしつかえないであろう。
しかし、現行の閣議決定にあたっては、明治憲法時代以来伝統となっている憲法慣行に従い、全会一致制を採用している。このことを、閣議構成員の側からいえば、国務大臣の全員に拒否権を認めていることになる。この点、内閣総理大臣も、そうした閣僚と同様の拒否権を認められているに留まる。
仮に、首長という言葉が、閣議における意思決定の際に、総理が他の国務大臣に優越する地位を持つことを要求していると解するならば、少なくとも、全会一致制を戦前から引き続いて維持している内閣慣行は、当然に違憲と評価するべきであろう。この点について、そうした意見を表明する論者は、管見の限りではない。
結局、閣議において、内閣総理大臣だけが有し、他の国務大臣が持たない特別の権限は、現行内閣法上及び内閣慣行上、「閣議を主宰すること(同二項)」という一点に尽きている。しかし、ここで主宰という言葉は、要するに、閣議において議長として活動するだけの意味であって、それ以上、何ら特別の権限を意味するものではない。そして、議長職は、議事進行においてのみ優越する権限を持つのであるから、内閣としての意思決定にあたって、内閣総理大臣が閣議出席者の中で特に優越的、統率的な権限を有することを意味するものでは決してない。
したがって、この関係だけを見るならば、内閣総理大臣は同等者中の第一人者に過ぎない。このことを重視するならば、首長という言葉は、宮沢俊義のように戦前と同様に「内閣の首班」を意味すると理解するのが妥当ということになる(6)。
(二) 内閣存立の基礎となる地位
1 内閣総理大臣の閣僚罷免権の意義
現行憲法は、内閣総理大臣を、一方で合議体である内閣の一員に過ぎないとしながら、他方で国務大臣の任免権(特に罷免権)を与えている。
芦部信喜は、憲法調査会における次のような発言を紹介することで、端的に問題意識を示されている。
「内閣制度で最も重要なことは内閣の国会(国民)に対する責任である。総理大臣が意見の違う大臣をやめさせることができる、という制度のもとでは、内閣の統一性は保たれるが、連帯性は保たれず、連帯責任の原則が守られない。その点では、明治憲法時代の内閣官制のもとの内閣の責任の方が強かったといえる。現行憲法の下で責任政治が行われない理由は、内閣制度がちぐはぐになっている点にある」
これを受けて、宮沢俊義は、内閣が合議体である以上、総理大臣は明治憲法下の総理大臣と同じく「同輩者中の主席」であるのがむしろ自然であり、「その矛盾は、実際の運営において、関係者の実践的英知によって、解決されていくほかしかたがない」と述べていたという(7)。
宮沢俊義は、これを受けて結論的に、首長という用語を、前述のとおり、明治憲法下の総理大臣と同様に単に「内閣の首班」という意味しか持たないと理解する。しかし、それはこの閣僚罷免権の導入という憲法上の重要な変更を全く無視するものであって、妥当とは思われない。
内閣総理大臣は、内閣を存在させるという一点に関しては、疑う余地無く、他の大臣に優越する地位を有している。すなわち、国会は内閣総理大臣だけを選出し、他の国務大臣として誰を選ぶかは、その裁量に委ねている。憲法は、その点に関する限り、わずかに文民であること(六六条二項)及び大臣の過半数が国会議員であること(六八条一項但書)というたった二つの制約を課しているにすぎない。そしていったん成立した内閣において、国務大臣の誰かが欠けても内閣は必ずしも総辞職をしなくとも良い(しても構わない)のに対して、内閣総理大臣が欠けた場合には、内閣は必ず総辞職しなければならないと定めて(七〇条)、その内閣存続の要としての重要性を明らかにしている。ただし、上記の点の多くは、現行憲法が確認的に定めたのであって、戦前の政党内閣においても「憲政の常道」という言葉の下に、当然のこととして認められていた。
その限りでは、現行憲法の最大の特徴というべきものは、内閣総理大臣に、意見の合わない閣僚を罷免する権利が認められたことである。これは、議院内閣制の根幹と言うべき責任内閣制の観点からする限り、宮沢俊義が問題視するとおり、確かにかなり奇妙な規定といわざるを得ない。行政は一体的に執行されるべきであるから、内閣のような均質の小集団の中にあって、行政に関する意思決定に克服しがたい意見の対立が発生したような場合には、閣内不統一の責任をとり、内閣は常に総辞職をして、いずれの判断が正しいかの裁定を国会(国民)に求めるのが本来の姿というべきだからである。しかるに、この規定があるがために、内閣を改造して延命を図ることが可能となっている。換言すれば、連帯責任の原則を破っていることになるからである(8)。
このような異質の規定が入ってきたのは、まさにこのような延命策を制度的に許容する意図からと解する。すなわち、先に述べたとおり、わが国の内閣制では、戦前から一貫して閣議の全会一致制を採用している。戦前においては、このために、一部閣僚の拒否権の発動により、閣内不統一ということで、内閣がしばしば崩壊の危機にさらされることになった。正確に言えば、このすべての閣僚に倒閣権があることを背景として、個々の閣僚が内閣全体を恫喝することが可能であった。この結果、政府が弱体であったことが、軍部のファッショに道を開く結果となったということができる。このような脆弱性をカバーするために、閣僚の拒否権に対して罷免権で応戦し得る力を内閣総理大臣に与え、拒否権の濫用を抑止する方策を導入したのがこの権利である。
この罷免権は、憲法六九条が認める内閣の衆議院解散権とパラレルな性格のものと理解することができると考える。
すなわち、現行憲法は、議院内閣制を採用し、内閣の存在を議会の信任に依拠せしめる法制を採用している。しかし、この原則を純粋に貫くと、議会による内閣不信任権の濫用という問題が発生する。そこで、この濫用を抑止するための武器として、法的効力を有する不信任権を衆議院のみの権限にとどめるとともに、内閣側にそれに対抗する武器として衆議院解散権を認めている(憲法六九条)。
それと完全にパラレルの問題が、個々の国務大臣と内閣総理大臣の間にも発生するということが、ここでの問題となる。内閣総理大臣に閣僚罷免権が認められれば、特定の論点において自説を貫こうとする国務大臣がいる場合、内閣総辞職をする代わりに、その特定の国務大臣を罷免することで内閣として延命をはかることが可能となる。したがって、個々の閣僚としては安易に拒否権を発動できなくなる。これは、このように、政権に安定性を与え、特定の主張に全体が引きずられるのを防ぐために内閣総理大臣に与えられた権限である。
この権限の存在を重視するならば、内閣総理大臣は、内閣の中において、明らかに、他の国務大臣に比べて上位の地位にあるということができる。しかし、このことから、さらに進んで、内閣の意思決定そのものにおける内閣総理大臣の優越性を引き出そうとする立場がある。例えば、「罷免を恐れる各大臣は、(内閣総理大臣の指揮監督権に)従うことになる」から「法律上はともかく、実際上は内閣総理大臣の意思即内閣の意思であると見てさしつかえない」と立論するのがそれである(9)。
しかし、この考え方には大きな疑問を呈さざるを得ない。第一に、憲法が、内閣としての意思決定における内閣総理大臣の意思の優越を肯定したいならば、もっと単純に、全会一致性の慣行を否定し、代わって上述のとおり、内閣総理大臣にだけ拒否権を認めるという方法により、はるかに強力な優越性を肯定できたはずである。それを行っていない、ということは、意思決定そのものにおける法的な優越性は与える意思がない、ということの端的な表明と見るべきである。
第二に、この見解は、法的側面よりも、実際面を重視しているように見える。しかし、罷免権が存在している、ということと、それを実際に行使すると言うことの間には、相当の隔たりがあることも注意しなければならない。過去において、実際に罷免権が行使されたことは三回しかない(10)。これを多いと見るか、少ないと見るかは、その依って立つ説によって異なることは言うまでもない。しかし、少なくともこの説を前提とする場合、著しく少ないと評価せざるを得ないのではあるまいか。
実際問題として、内閣総理大臣が罷免権を行使する必要に迫られるほどに閣内不統一をさらけ出した内閣は、政治的求心力を失い、そのまま存続を続けることは政治的に困難である。本当の意味で深刻な閣内不統一に見舞われた内閣は、戦後においても、いずれも総辞職に追い込まれている。例えば、第五次吉田茂内閣では、吉田茂が衆議院を解散しようとするのに副総理格の緒方竹虎が一人反対し、当初吉田は緒方を罷免しようとしたが果たせず、結局内閣総辞職に追い込まれている。その意味で、これは内閣の衆議院解散権と同じく、これは伝家の宝刀であって、抑止力として存在することに意味があるのであり、現実に抜くことはあまり予定されていないといえる。
要するに、内閣の一員としての内閣総理大臣の地位を、単なる同等者中の第一人者と見る説も、他に優越する地位とする説も、ともにその一面の真実を捉えたものであって、あらゆる場合に通用する説ではない、ということを、看過してはならないのである。
2 首長としての権限
ここで、この罷免権等を中心とする内閣存立の基盤としての首長という地位から、どのような権限が発生するかを検討したい。菊井康郎は、この首長としての地位から、指示、調整、指揮監督及び罷免権という四つの権限が生ずると説く(11)。すなわち、憲法七二条に基づく指揮監督権とは別に、指示権という権限があるとする点に、菊池説の特徴がある。
ここに指示権とは、「首相が内閣の首長としての地位(六六条一項)において他の国務大臣に対してなす指導、要望、助言、注意、激励、警告、叱責等の類を指す」とされる。そして首長としての地位における指導助言であるため、法律の明文による法認を認めない、内閣による授権も必要としない、公的な性格を帯びている、というような特徴を帯びている、とされる。
確かに、内閣総理大臣に罷免権を背景として生ずる首長としての優越的な地位を承認する場合には、このような一般的な権限の存在を認められることは確かである。問題は、その射程であろう。ここまで論じてきたように、首長としての地位は、内閣の基盤としての立場に基づいていることを考えると、それはあくまでも内閣という枠内での法律上の優越性の現れとしてしか行使できないのである。個別具体的な行政の権限を、この指示権の行使として考えることはできないものというべきである。実際、菊池説でも、七二条の指揮監督権は、「首長たる地位から当然に発するものではない」としている(12)。
それにも関わらず、菊池説では、指揮監督権を結果として首長としての権限として把握している。私見に依れば、それは、内閣意思の執行機関としての地位における権限であって、首長としての権限として把握するのは誤りと考える。この点については後述したい。
なお、調整権を指示権と別個に考える必要は、あまりないのではないかと考える。指示権そのものが、その法的輪郭のはっきりしない権利であるから、どこまでが指示権で、どこからが調整権という議論をしても実益がないからである。
結局、首長としての権限は、罷免権と指示権という二つの点に尽きると見るべきであろう。
二 ロッキード事件最高裁判所判決における個別意見
以上のように考えると、ロッキード事件で問題となった内閣総理大臣の権限は、内閣という合議体の一員としての権限ではなく、行政の執行機関としての地位に基づく権限と理解されるべきことになる。
冒頭に述べたとおり、ロッキード事件最高裁判所判決は、判決に関与したすべての判事が、憲法七二条の定める内閣総理大臣の権限について意見を表明しいてる。それは、実際には四つの意見という形に集約されて表明されている。以下にそれぞれの七二条の解釈に関係する意見を紹介し、その当否について上記の立場から、検討したい。
(一) 園部逸夫、大野正男、千種秀夫、河合伸一各判事の補足意見
園部逸夫、大野正男、千種秀夫、河合伸一各判事の補足意見(以下「園部等意見」という。)は、かなり長文なので、以下にその要旨を紹介しつつ、論評したい。
園部等意見は「内閣総理大臣は、憲法七二条に基づき、行政各部を指揮監督する権限を有するところこの権限の行使方法は、内閣法六条の定めるところに限定されるものではない」と主張される。換言すれば、指揮監督権は、閣議による意思決定がなくとも行使可能と主張する。
その根拠として、次のように述べる。内閣総理大臣の指揮監督権限は、
「行政権の主体たる内閣を代表して、内閣の統一を保持するため、行使されるものであり、その権限の範囲は行政の全般に及ぶのである。そして、行政の対象が、極めて多様、複雑、大量であり、かつ常に流動するものであることからすると、右指揮監督権限は、内閣総理大臣の自由な裁量により臨機に行使することができるものとされなければならない。したがって、その一般的な行使の態様は、主任の国務大臣に対する助言、依頼、指導、説得等、事案に即応した各種の働き掛けによって、臨機に行われるのが通常と考えられ、多数意見が『指示を与える権限』というのは、右指揮監督権限がこのような態様によって行使される場合を総称するものと理解することができる。」
指揮監督権の性格に関するここまでの論理は、特に異論はない。膨大な行政活動の全般にわたって、閣議が巨細にわたり、具体的な決定を下すというようなことはできることではないからである。閣議にできることは、主任の国務大臣が、具体的な行政活動を行うに当たり、その依るべき基本となる指針ないし事項を決定するに止まるのは、その性質上当然といえるであろう。その場合、流動する状況に応じた臨機の判断が、個々の主任の国務大臣に要求されることになる。しかし、個々の主任の国務大臣が相互に完全に独立してその裁量権を行使する場合には、内閣としての統一的な行政が破綻するおそれがある。そこで、内閣総理大臣として内閣としての統一性を保持するため、随時、臨機に指揮監督権を発動することが許されると考えられる。
しかし、このことから直ちに次のように述べる点において、園部等意見には論理の飛躍があると考える。「内閣総理大臣の指揮監督権限が右のような通常の態様で行使される場合、それは、強制的な法的効果を伴わず、国務大臣の任意の同意、協力を期待するものである。これに対し、内閣総理大臣が、内閣法六条の定めるところにより、閣議にかけて決定した方針に基づいて行政各部の長たる主任大臣を指揮監督する場合には、主任大臣はその指揮監督に従う法的義務を負い、もしこれに従わない場合には、閣議決定に違反するものとして、行政上の責任を生ずることとなる。このように、内閣法六条は、内閣総理大臣が憲法七二条に基づく指揮監督権限の行使について右のような法的効果を伴わせる場合の方法を定めるものであって、本来前項で述べたような性質を有する憲法上の指揮監督権限を制限するものではなく、もとより制限できるものでもない。」
すなわち、この後半の段階では、「内閣を代表して、内閣の統一を保持するため、行使される」はずの指揮監督権が、突如として、内閣の意思とは関係なく、内閣総理大臣の個人的な意思の発現手段に変質しているのである。そして、その様な個人的意思の発現としての指揮監督権には法的強制力がないのに対して、内閣を代表して行使される指揮監督権、すなわち閣議決定に基づくものは法的強制力がある、と主張している。このような説を採る場合には、内閣としての統一的な意思とは別に、閣議に諮ることのない内閣総理大臣としての個人的意思を、内閣総理大臣としての公的立場から自由に主張することが可能になる。しかし、それは、内閣を行政の最高意思決定機関と定めた憲法六五条に違反する主張というべきである。
実際、園部等意見でも、このことは明確に認めている。
「憲法上、国の行政権は内閣に属するものとされているが、内閣が一体となって行政権を行使するために、内閣法は、内閣の職権行使は閣議によるとし(内閣法四条一項)、内閣総理大臣が閣議を主宰するものとし(同条二項)、行政各部は、行政について統合調整の責任を有する内閣総理大臣の指揮監督の下に置かれる(同法六条)としている。これは国家行政組織法二条の規定とあいまって、内閣の統轄の下に、国の行政機関がすべて一体として行政機能を発揮すべきことを保障しているものである。」
このように考える限り、内閣とは別に内閣総理大臣の意思を考える余地はないといわねばならない。そして、園部等意見の文中には、その主張である内閣総理大臣の意思の肯定という点に関する限り、不思議なことに直接的な理論的根拠は、一つも見いだすことができないのである。
(二) 尾崎行信判事の補足意見
尾崎行信判事の補足意見(以下「尾崎意見」という。)もまた非常に長文なので、以下にその要旨を紹介しつつ、論評したい。
尾崎意見によると、内閣の意思とは別に、内閣総理大臣の意思の自由が認められ、それに基づいて主任の国務大臣を指揮監督する自由がある、と主張している点においては、園部等意見と変わらない。異なるのは、指揮監督権は、内閣総理大臣の本来的権限であり、内閣法六条は、その憲法の付与した権限に対する制約と理解している点である。
「この指揮監督権限は憲法七二条によって付与されたものであって、内閣総理大臣からこの権限自体を奪うことは憲法に違反して許されない。しかし、その権限行使の方法について合理的条件を付することは許される。この権限は内閣を代表して行使されるものであるから、内閣法六条のように内閣の統一された意思に沿って行使されるよう内閣総理大臣が自己の賛成を含む合意である閣議決定に従って行使することとするのは合理的であり、しかも、罷免権によって最終的には内閣総理大臣の意見を優先させる方途があるのであるから、かかる条件は憲法七二条に反するものではない。内閣法六条は、指揮監督権限の行使方法を定めたにすぎず、権限そのものの範囲を消長させるものではない。この権限は、憲法に由来するのであって、閣議決定がある場合に初めて発生するものではない。」
この見解によれば、わが国行政権は内閣ではなく、内閣総理大臣に帰属していることになる。したがって通常の場合には、行政の進め方を閣議にかける必要はなく、随時、内閣総理大臣が主任の国務大臣に指揮監督すればよいことになる。すなわち、
「当初から内閣法六条に定める手続に従ってこれを行使し、権力的に強制するのではなく、それに先立つ代替的先行措置あるいは前置手続として、指導、要望、勧告等、これを『指示権(能)』というかどうかはともかく、これらによって内閣総理大臣の所期する方針を主任大臣に伝達し、任意の履行を求めるのが通例と認められる。そして、この指導等は、内閣総理大臣の指揮監督権限の行使の一態様であるが、内閣法六条に基づく場合とは異なり強制力を有しない。したがって、内閣総理大臣は、その指導等に主任大臣が従わない場合には、内閣法六条に従って閣議決定を求めることになる。その結果、閣議において、内閣総理大臣の所期する方針が合意されれば、これによって強制的な指揮監督権限を行使するし、期待する閣議決定が得られない場合(閣議決定は全員一致によるのが慣行とされている。)に内閣総理大臣があくまで自らの方針を貫こうとすれば、罷免権(憲法六八条二項)を行使してでも強行することとなる。このように、指導等は、右権限の強制的行使に至る道程として採られる先行的措置であり、この権限の内容の一部をなすものとみるべきで、憲法七二条に定める指揮監督権限に包摂され、内閣総理大臣の職務権限に属するのである。」
内閣総理大臣の首長としての地位及びそれに基づく罷免権というものを過大に評価すれば、その様な結論を憲法論上引き出しうることは確かである。しかし、その様に内閣総理大臣の権限を強大に理解する場合には、内閣を構成する国務大臣は、内閣総理大臣に対してのみ責任を負うのであって、内閣はもはや連帯責任を国会に対して負うことはない、と結論するほかはないのではあるまいか。すなわち、このような考え方は、憲法の規定中、六六条一項の首長としての地位と、六八条二項の国務大臣罷免権の二つの条文以外のすべての規定を無視することによってのみ成り立ちうる解釈というべきであろう。
尾崎意見は、上記のような前提の下に、内閣「法六条に基づく指揮監督権行使は実効を得るのが難しく、むしろこれに先行する指導や要望などの意見交換により説得する方が内閣統轄の実を上げる現実的な道であり、実情もこうした運営がされ、ほとんど同法六条に基づく行使の例がないと認められる。」とする。しかし、これは現実に開かれている多数の閣議の存在を無視する見解というべきであろう。また、ほとんど行使されたことのない罷免権を過大視するものであることは間違いない。
尾崎意見は、通常の行政活動に当たっては閣議決定が存在しない、という自分の主張を補強するために次のように述べる。
「閣議決定なくして指揮監督権限の行使が許されることは、内閣法自体も予想するところである。すなわち、同法八条は、内閣総理大臣が行政各部の処分や命令を中止させた上で、内閣の処置を待つことができると定めている。これは、いまだ閣議にかけて決定した方針が存在しない時点で中止を命ずる権限を認めるもので、中止要求という指揮監督の一機能が閣議決定の有無を問わず、むしろそれに先行して発動される場合があることを示している。更にさかのぼり、この中止命令に先立ち内閣総理大臣が指導や説得を行って意見の相違を解消し得ることは前述のとおりであって、それが閣議決定の存在しない状態の下で行われるのも自明である。この意味で、同条を先行措置としての指導等を認める一根拠とすることができる。」
この内閣法八条の読み方は、どう見ても逆転している。むしろ、閣議決定が存在しないような問題について、主任の国務大臣が自らの意思で行政を執行している場合には、内閣総理大臣としては、その中止を命ずることができるだけであり、それ以上に進んで、具体的な行政の執行方法を指揮監督することはできないと定めているものと読むのが、その文言にそった解釈というべきであろう。
(三) 草場良八、中島敏次郎、三好達、高橋久子各判事の意見
草場良八、中島敏次郎、三好達、高橋久子各判事の少数意見(以下「草場等意見」という)における七二条関連部分は比較的短いため、以下に全文を紹介する。
「内閣総理大臣は、憲法七二条に基づいて、主任大臣を指揮監督する権限(内閣法六条)を有するとともに、これと並んで、主任大臣に対し指示を与えるという権能を有している。すなわち、内閣総理大臣は、行政権を行使する内閣の首長として、内閣を統率し、内閣を代表して行政各部を統轄調整する地位にあるものであり、閣議にかけて決定した方針に基づいて行政各部を指揮監督する職務権限を有するほか、国務大臣の任免権(憲法六八条)や行政各部の処分の中止権(憲法七二条、内閣法八条)を有している。憲法上このような地位にある内閣総理大臣は、内閣の方針を決定し、閣内の意思の統一を図り、流動的で多様な行政需要に対応して、具体的な施策を遅滞なく実施に移すため、内閣の明示の意思に反しない限り、主任大臣に対し、その所掌事務につき指導、勧告、助言等の働き掛けをする、すなわち指示を与える権能を有するというべきである。」
この主張はあまりに短く、しかも文のつながりもはっきりしないため、その内容に不明な点が多い。すなわち、憲法七二条に基づいて、「行政各部を統括調整する地位」というものが発生するとし、この地位の効果として、内閣法六条に基づく「主任の大臣を指揮する権限(以下、「指揮権」と略する)」と「主任大臣に対し指示を与えるという権能(以下、「指示権」と略する)」の二つが発生する、と考えているのか、それとも七二条に基づいて発生するのは指揮権であり、それとは別に何かの根拠(例えば首長制)から、指示権が発生するとしているのか、よく判らない。また、指揮権は「権限」であり、指示権は「権能」であると、言葉が明確に使い分けられている。しかし、この使い分けが何を意味しているのか、あるいはそれによってどのような解釈論上の差異を引き出そうとしているのかは判然としない。
このように、説の内容に不明な点が多いため、草場等意見については、明確な形での批判をすることが難しい。しかし、全体として不当なものと考える。指揮権と指示権がともに七二条から発生すると考える場合には、なぜ二つに分かれるのかがはっきりしない。また、指示権が、先に紹介した菊池説のように、首長としての地位に基づいて発生するのであれば、それは内閣との関係にとどまると考えるべきだから、行政活動の内容に及ぶとするのは不当である。「内閣総理大臣の国務大臣の任免権は、内閣総理大臣の職務権限の範囲を決定することとは、直接関係のないこと」と考えるべきなのである(13)。
そして最後に、判決本文にあって、私が冒頭に引用して問題とした「内閣の明示の意志に反しない限り」という表現が、この草場等意見に見られるからである。前述したとおり、この表現は、反対解釈をすれば、内閣の黙示の意思に反して指示を与える権能を内閣総理大臣に肯定すると論ずるのであり(実際その様な解釈を要求していると思われる。)、それは内閣を行政の最高機関とした六五条に明白に違反した解釈だからである。
(四) 可部恒雄、大西勝也、小野幹雄各判事の補足意見
可部恒雄、大西勝也、小野幹雄各判事の補足意見(以下、「可部等意見」という。)の七二条関連部分も比較的短いので、全文を紹介する。
「内閣総理大臣の行政各部に対する指揮監督権限の行使は、『閣議にかけて決定した方針に基づいて』しなければならないが、その場合に必要とされる閣議決定は、指揮監督権限の行使の対象となる事項につき、逐一、個別的、具体的に決定されていることを要せず一般的、基本的な大枠が決定されていれば足り、内閣総理大臣は、その大枠の方針を逸脱しない限り、右権限を行使することができるものと解するのが相当である。けだし、内閣総理大臣の指揮監督権限は、行政の統轄調整を図る手段として、内閣の首長である内閣総理大臣にのみ付与された憲法上の権限であって、それが機能するためには、内閣の意思として閣議決定された方針を逸脱しない限り、いかなる場合に、どのような事項について右権限を行使するかは、内閣総理大臣の自由裁量に委ねられていると解すべきであるからである。そして、このことは、『閣議決定に基づいて』と規定することなく、『閣議にかけて決定した方針に基づいて』と規定する内閣法六条の文理にも合致する。
したがって、内閣総理大臣は、閣議決定が一般的、基本的大枠を定めるものであるときは、それを具体的施策として策定し、実現する過程で生じる様々な方策、方途の選択等に関しても、閣議決定の方針を逸脱しない限り、適宜、所管の大臣に対し、指揮監督権限を行使することができるというべきであり、行使の対象となる具体的事項が閣議決定の内容として明示されているか否かは問うところではない。」
可部等意見は、判決文の掲載順序では、二番目であったが、最後に紹介した。理由は簡単で、私はこれが、少なくとも書かれている限りでは正しい意見だと考えているからである。以下、項を改めて、可部等意見に対する論評を交えつつ、私見を述べたい。
三 行政の執行機関としての地位
(一) 内閣と主任の国務大臣の関係
現行憲法は、行政における意思決定機関としての地位にある内閣についてもっぱら規定し、その決定された意思をどのような形で実施しうるかについてはほとんど規定していない。わずかに七二条に内閣総理大臣が内閣を代表して行政各部を指揮監督する、という言葉があり、また七四条に「主任の国務大臣」という言葉が登場することだけが、その執行面に関する規定となっている。このように、数少ない規定を根拠として、憲法が多数の規定を設けて定めている内閣の権限を極端に縮小し、内閣総理大臣の権限を過大視するのは明らかに不当な解釈手法というべきであろう。
このように、執行に関する規定が極端に少ない結果、意思決定機関としての内閣とその意思の執行機関としての主任の国務大臣の関係が、憲法上かならずしも判然としない。ロッキード事件最高裁判決において、上述のように、最高裁判事の間ですら内閣総理大臣の権限に関する見解が区々となっているのは、このような曖昧性の故に、執行機関としての国務大臣という地位と、内閣の一員としての国務大臣という地位との相違をきちんと把握できていないためであろう。
憲法は、主任の国務大臣について、特段の定義をおかず、基本的には憲法慣行に依存するという姿勢をとっている。これを受けて、内閣法では、旧憲法下における用語法に忠実に、主任の国務大臣を「別に法律の定めるところにより、行政事務を分担管理」する国務大臣のことと定義した(内閣法三条一項)(14)。別の法律とは、国家行政組織法五条のことである。同法によれば、この行政事務を分担管理するためにおかれている行政機関を、府又は省という(国家行政組織法三条三項)。すなわち府又は省というのは、独任制の国家機関であり(15)、主任の国務大臣の別称と理解される。
国務大臣は、一方において内閣という合議体の一員としての地位に基づき、行政府としての意思決定に参画するとともに、その決定された意思について、内閣を代表して特定行政領域に関して執行するものとしての地位を有するのである。この点、内閣総理大臣も同様である。ただ、内閣総理大臣には、これに加えて、行政各部の指揮監督権というものも予定されているところに特殊性がある。
憲法七二条は、内閣総理大臣の権限として、内閣を代表して行政各部を指揮監督する権限を有することを予定している。この言葉はそれ自体では意味を確定できない。が、上述のように、七四条に主任の国務大臣という言葉が登場することにより、この「行政各部」とは、具体的には、主任の国務大臣の意味であることがはっきりする。
七四条は通常、執行機関としての国務大臣の責任を明らかにするために、法律に署名を要求したものと理解されている。しかし、法律の執行機関としての地位を有するのが主任の国務大臣だけと考える場合には、法律の執行責任を明らかにするための署名者としては、主任の国務大臣だけで十分なはずである。しかるに、七四条は、それに重ねて内閣総理大臣の連署も要求している。この規定は、内閣総理大臣もまた、行政各部に関する執行責任を、主任の国務大臣と分担している、という前提をとらない限り、意味をなさない。このことから逆に、七二条が定める行政各部に対する指揮監督権とは、執行にあたっての指揮監督権を意味していることが明らかとなる。
(二) 行政各部の指揮監督者の意義
この執行機関としての活動は、閣議による意思決定を受けて行われなければならない、と考える。憲法が内閣制を採用している以上、合議体としての内閣が内閣総理大臣の上位に位置する機関であるという点は疑う余地がない。そして、合議体である以上、その意思決定は閣議という形式を踏む以外の方法で行うことはできないはずである。したがって、この点に関して、これと異なる見解を示す園部等意見、尾崎意見及び草場等意見は、その段階で否定されざるを得ない(16)。ただし、その意思決定は明示的に為される必要はなく、黙示であっても良い(17)。
このように、執行機関としての活動は、必ず内閣の意思決定を受けて行わねばならないと考える場合には、閣議による決定がない場合には、どう考えたららよいか、という問題が起きてくる。答は簡単で、意思決定がない限り、執行活動を行うことはできない、と考えるべきである。このことは、単に主任の国務大臣ばかりでなく、内閣総理大臣の指揮監督権についてもいえることである。
ただし、特定の問題について、閣議による意思決定があるかないかは、実は必ずしも明確ではない。なぜなら、可部等意見のいうとおり、閣議決定というものは、「逐一、個別的、具体的に決定されている」ものでは必ずしもなく、むしろ「一般的、基本的な大枠」を決定して、それを受けての詳細は、個々の主任の国務大臣に委ねる、という方法を採るのが通常だからである。その結果、個々の主任の国務大臣としては、授権の範囲内で活動していると判断して意思決定を行っている場合に、他から、特に内閣総理大臣として見ると、それは授権の範囲を逸脱している、と思料される場合が発生してくるのは当然予想されるところである。
閣議決定の内容について、内閣総理大臣と個々の主任の国務大臣との間において理解が異なる場合には、内閣総理大臣には、自らの意思を主任の国務大臣に強制する手段はない。内閣法は、内閣総理大臣に対して自由に指揮監督する権限を認めていない。その八条は、単に、問題となっている行政活動の中止を命じる権限を認めるにとどまる。最終的な決着は、内閣による討論を通じて下される閣議決定に委ねることになる。
このように、内閣総理大臣の権限を限定的に理解しても、行政活動には特段の支障は発生しない。
それは、第一に、内閣が常設機関である、という点にある。国会のように、会期と呼ばれる期間を除いては活動能力を喪失し、また、臨時に開会するのも容易なことではない機関との大きな相違点である。したがって、閣議決定が必要な事態が発生するれば、随時機動的に対応することが可能な機関なのである。実際、定例閣議以外にも、臨時閣議や持ち回り閣議という弾力的な意思決定方法が存在している。
第二に、閣議決定の内容に関して、内閣総理大臣と主任の国務大臣の解釈が一致している限り、一々閣議を開くことなく、変化する情勢に対応した、柔軟な行政執行が可能となる。すなわち、内閣総理大臣の指揮監督権とは、主任の国務大臣の独走を押さえつつ、同時に機動的に行政執行を行うための手段と考えることができる。
逆に言うと、内閣法六条の閣議決定に基づく指揮監督と内閣総理大臣が主張する場合にも、主任の国務大臣としては無条件で従う必要はない。その指揮監督の内容が、閣議によって授権されたところと違うと考える場合には、随時閣議の開催を求め、そこで最終的に意見の調整を図ることが可能だからである。
このように理解する場合、内閣総理大臣は、第一に、ロッキード事件最高裁判決と異なり、明示・黙示を問わず、内閣の意思に反する行動はできないというべきである。第二に、可部等意見に述べられているとおり、ロッキード事件で問題になったのは、閣議決定が不存在の事項ではなく、内閣から運輸大臣に対して包括的に授権されている事項である。その様な事項に関して、内閣総理大臣に指揮監督権があることは当然である。したがって、この指揮権行使が内閣の意思に反していないことは明らかといえる。
(三) 対外的代表権の意義
七二条の定める対外的代表権を、首長としての地位からでてくる、と論ずるのが通説ということができるであろう。しかし、この説は次の理由から誤っていると考える。
第一に、六六条一項は明らかに意思決定機関としての内閣に関する規定である。仮に、六六条全体が執行機関としての個々の国務大臣に関する規定と読めるならば、個々の省庁の執行に関して問題が発生した場合にも、六六条三項により連帯責任とならなければおかしい。そのような判断から七二条そのものを内閣の連帯責任を確認したと解する説がある。しかし、連帯責任ならば、第一に全員が署名を要求されなければおかしい。内閣総理大臣の署名で全員の連帯を示すというのなら、逆に主任の国務大臣の署名を要求されているのがおかしい。したがって同条はあくまでも、そこに署名を要求されているものだけが執行責任を負担していることを示すものと理解すべきである。
また、そのような見解をとる場合には、執行段階における不祥事の責任をとるという観点からの個々の閣僚の辞任は、それ自体、憲法違反と評価すべきであろう。なぜなら、連帯責任である以上、全閣僚が責任をとるべきだからである。内閣総理大臣の閣僚罷免権こそが、この連帯責任原則に対して憲法がもうけた唯一の例外だからである。
第二に、七二条は、内閣総理大臣が内閣を対外的に代表して活動する場合をきわめて限定的に定めている点に注意するべきである。すなわち、議案の国会への提出、国務及び外交関係についての国会への報告及び行政各部の指揮監督という三つの場合に限って、内閣総理大臣は内閣を対外的に代表するのである。
しかし、それ以外の場合にも、内閣を代表する活動は行われなければならない。具体的には、行政の各分野において、内閣の決定した内容を、内閣を代表して具体的に実施に移すという意味での対外的代表の問題がある。その点に関する代表権を有するものこそ、主任の国務大臣である。すなわち、すべての主任の国務大臣が、代表権をその担当領域に関して有していると解される。我々国民に対する国の行政活動が、主任の国務大臣名で行われるのはそのことを示している。また、条約の締結に当たり、内閣総理大臣ばかりでなく、外務大臣の場合にも、全権委任状が不要とされる(条約法条約七条二項参照)が、これも、外交という領域に関する主任の国務大臣である外務大臣が、当然に内閣を対外的に代表する権限を有しているところから生じていると解するべきである。
[おわりに]
ロッキード事件判決がでてから既に二年以上が経過している。それに関係する論文を今頃発表するというのは、随分遅れたものだ、と思われる方も多いと思う。私自身、今になってこれを発表することには、少々躊躇うところがあった。実をいえば、当初は、この問題に関して、私は自分がごく通説的な理解を持っていると考えていたので、したがってわざわざ一文を著すほどの必要はない、と考えていたためである。ところが、冒頭に述べたとおり、この問題を巡る議論が意外なほど低調に推移していることに加え、私としては当然議論の中心になるべきである、と考えていた内閣総理大臣の地位との関連を巡る議論が、これまでにあらわれたわずかの議論においても、全く考慮されていないように見えることから、発表の必要を感じるに至ったのである。
いったい、学界では、内閣総理大臣に関する地位と権限の関係を、どのように考えているのであろうか。この点については、本稿を書くにあたって改めて多数の文献に目を通したつもりであるが、明確に述べているものを見いだすことができなかった。国会の権限と異なり、内閣総理大臣の権限を考えるにあたっては、その地位論は不要と考えるのであれば、それは何故であろうか。こうした諸点に関連して、本稿に対し、ご意見ご感想をいただければ、まことに幸いである。
注
(1) この判決は、平成7年におけるもっとも社会的関心を呼んだ判決ということができるであろう。この判決は、ジュリスト平成七年度重要判例解説においても、行政指導に関するものとして行政判例に、そして内閣総理大臣の職務権限として刑法判例に、そして嘱託質問に関するものとして刑事訴訟法判例として、すなわち、三重に掲載されているが、しかし、驚いたことに、憲法判例としては収録されていないのである。憲法学界の反応の鈍さの象徴ともいうべき点である。
(2) ロッキード事件最高裁判決以降に出版された教科書で、この判決に論及しているのは数えるほどで、それも単に紹介するのみであり、内容を論評しているものは管見の限りでは皆無である。
(3) 学界における学説の対立状況に関して渋谷秀樹の行った要約は、『基本法コンメンタール[第四版]』別冊法学セミナー、日本評論社刊二八一頁より引用。
(4) 米国の大統領制の場合には、大統領は、文字どおり首長であり、閣議においても他の国務大臣の上位者として優越的地位に立つ。というより、そもそも閣議という概念そのものが厳密にいうと、同国の場合には存在しない。あるのは、大統領が、自らの意思を決定するために関係閣僚ないし大統領特別補佐官を集めて随時行うミーティングである。そこでは、閣僚達の意見はあくまでも参考意見であって、決定は大統領個人の権限である。その場にいる全員が反対しようとも、大統領はその好むところにしたがって意思決定をすることができる。これに対して、閣僚は黙ってその決定に従うか、辞職するかという選択の自由はあるが、決定を拒否する権利はないのである。
(5) 閣僚からの閣議召集要求に対して、拒否し得ないという点については、特に規定はないが、召集要求権だけを規定して、拒否権がない以上、このように解するのが、法文上自然であろう。
(6) 参照、宮沢俊義著=芦部信喜補訂『全訂日本国憲法』日本評論社刊一九七八年五〇五頁
(7) この憲法調査会での発言及びその後の宮沢俊義の意見は、芦部信喜『演習憲法[新版]』272頁より引用。ただし、芦部信喜によれば、宮沢俊義『日本国憲法』日本評論社刊がその出典とされているが、そこで引用されているページの前後にその様な文はなく、どこから引用したのかは不明である。
(8) 罷免権が、むしろ連帯責任を強化すると述べるのが、通説のように思われる(例えば、芦部信喜『憲法』新版二九二頁等)。しかし、自らの意思の及ばない事項について責任を問われることはあり得ない以上、首長としての権限の強化は、連帯責任を弱体化するという宮沢俊義の理解が正しいものと思われる。
(9) 括弧内に引用した見解については、山内一夫「内閣総理大臣の責任」清宮四郎外編『新版憲法演習3』[改訂版]有斐閣昭和六二年刊、一四六頁参照
(10) 内閣総理大臣による罷免権の行使は、片山内閣総理大臣による平野農林大臣の罷免(昭和二二年)、吉田内閣総理大臣による広川農林大臣の罷免(昭和二八年)、そして中曽根内閣総理大臣による藤尾文部大臣の罷免(昭和六一年)の三回である。
(11) 以下に紹介する菊井康郎の見解については、菊井「わが国の内閣制の展開」公法研究四九号三六頁以下参照
(12) 菊池説で、指揮監督権が首長たる地位から導かれないとする論述は、前掲同論文四九頁参照。
(13) 括弧内の引用については、林修三元法制局長官「内閣総理大臣の職務権限について」ジュリスト増刊『行政法の争点』一一八頁以下参照。
(14) 美濃部達吉は、旧憲法下における中央官制について次のように説明している。
「現行の中央官制は天皇の下に行政各部を各省に分配し、各省の長官はその主任事務に付き、一方には国務大臣として天皇を輔弼するの職務を有すると共に、一方には最高の行政官庁としての職務を有するものたらしめ、別に内閣総理大臣を置きて国務大臣の首班となし行政各部を統一するの任を当たらしめ、国務大臣全体を以て内閣を組織し、重要の政務については閣議を経てこれを決せしむることを以て大体の主義と為す」美濃部『行政法撮要(上)』第三版、有斐閣昭和七年刊、一八九頁
(15) 憲法六五条において単に行政権が内閣に属する、と述べるのみで、立法権のように「唯一」とも、司法権のように「すべて」ともいっていないのは「行政については、内閣が最高の行政機関であり、そのしたに多数の行政機関が存在することを予定して(橋元公亘「ロッキード事件と最高裁判決」法学教室一九九五年六月号一三頁より引用)」いるためと理解される。しかし、この多数の行政機関とは、全国津々浦々の行政機関を意味すると考えては誤りであろう。それは内閣の下にいる主任の国務大臣だけを意味するのである。わずかに例外としては、会計検査院(憲法九〇条)を数えるのみというべきである。
(16) 同旨橋元前掲論文、樋口陽一=佐藤幸治=中村睦男=浦部法穂『注釈日本国憲法・下巻』一九八八年刊、一一九頁以下参照。反対西田典之「内閣総理大臣の職務権限」ジュリスト一九九五年六月一五日号四頁以下参照
(17) 斉藤信治は常に閣議決定は必要なわけではないとする。すなわち、「閣議決定を経るまでもない当然の方針も少なくない。〈中略〉むしろ『岐路』に立ったときに閣議決定が必要となる」と説く(斉藤「内閣総理大臣の職務権限」ジュリスト平成七年度重要判例解説一四四頁より引用)。その指摘は正しいと考える。本文に述べた黙示的な閣議による意思決定とは、広く、そのような特段の意思決定がなくとも内閣意思と認められる場合を含めての表現である。
もどる