米国初期の憲法判例
−ジェイ第1代長官、エルスワース第3代長官の時代−
甲斐素直
[はじめに]
米国の憲法には、わが国憲法81条に相当する裁判所の憲法判断権が規定されておらず、連邦最高裁判所の判例を通じてそれが形成されてきたこと、そして、それを確立したのがジョン・マーシャル第4代連邦最高裁判所長官の主導によるマーベリ対マディスン事件である事もよく知られている。しかし、そのために、そのマーベリ対マディスン事件が最初の憲法判例であるかのように誤解されていることが多い。
本稿は、そうした誤解を払拭すべく、ジョン・ジェイ初代長官やオリバー・エルスワース第3代長官の時代にすでに裁判所による憲法判断は行われていたことを紹介することを意図したものである。また、裁判所による憲法判断権は、決して判例だけに依拠したものでは無く、憲法その他の成文法も若干ではあるが存在していた。そうした総合的情況も、本稿では併せて紹介したい。
一 米合衆国憲法の最初期
米合衆国憲法の条文の意味を理解するには、それが制定された経緯を知る必要がある。そこで、以下に簡単に合衆国憲法制定の歴史を紹介する。
北米大陸にあった13の英国植民地は、1776年に大陸会議(Continental Congress)を開いて英国からの独立を宣言した。それに引き続き、大陸会議は16ヶ月に及ぶ討論の末、1777年11月15日に連合規約(Articles of Confederation and
Perpetual Union)を採択した。連合規約は、各邦*[1]間の連合を緩やかなものとし、権限が非常に限られた連合政府を樹立した。防衛、国家財政、通商といった極めて基幹的な問題に関しては、連合政府は各邦議会の意向に従わなければならないとされていた。この規約は、1781年3月1日にすべての邦の承認を得て発効した*[2]。これがアメリカ最初の連邦憲法といわれる。
しかし、この連合規約にはいくつかの致命的欠陥があった。 第一に、連合規約には、行政府による法の執行や、連合の裁判制度による法の解釈に関する規定がなかった。第二に、立法議会が連合政府の唯一の機関だったが、議会には、各州の意に反した行動を強制する権限はなかった。議会は、建て前では、戦争を宣言し、軍隊を召集することができたが、各州に対して割り当てられた人数の兵士の動員や、そのための兵器・設備の提供を強制することはできなかった。第三に、州間の紛争が発生した場合、当時、州境を巡って未解決の紛争が多数あった議会は、調停役および裁判官の役割を果たしたが、州に議会の決定を受け入れるよう義務付けることはできなかった。
しかし、それらよりさらに大きな問題だったのが、連合政府は租税高権を持たず、各州の分担金で賄うこととされていたことである。独立戦争下において、各邦も厳しい厳しい財政状況にあったため、分担金は約束通り支払われず、連合は、予算の分担に応じない邦を罰する権限を持たなかった。このため、連合は厳しい財政赤字に見舞われ、ワシントン指揮下の兵士に給料を払うことさえ満足にできず、独立戦争のさなかに、軍が反乱を起こしたほどであった*[3]。
そこで、独立戦争に勝利すると、よりしっかりした連邦憲法を作ろうという気運が高まり、1787年5月25日にフィラデルフィアで憲法制定会議が開催され、互いの譲歩の中で新憲法の起草が行われた。しかし、この時も、各州の批准は大変難航した。その後の米国憲法の歴史にもっとも大きな影響を与えたのが、マサチューセッツ州の批准であった。マサチューセッツ州は、宗教・言論・報道・集会の自由、陪審による審理を受ける権利、不当な捜索や逮捕の禁止などに関し、計10項目について連邦の立法権を制限するという修正条項を追加する、という条件付きで憲法を採択したのである。多くの州がこれに追随した。そしてこの10項目の修正条項は1791年に第1修正から第10修正として合衆国憲法に追加された。その後の歴史の変遷の中で、この規定は個人の基本的人権の保障規定として重視されるようになり、今日では「権利章典(Bill of Rights)」と呼ばれるに到っている。
合衆国憲法*[4]は、その発効に全13州ではなく、9州の批准があれば足りるとされていた*[5]ので、1788年6月21日にニューハンプシャー州が批准した時点で成立した*[6]。
ニューヨーク州の批准はその後になされたが、米国憲法に別の重要な影響を与えた。すなわち、ニューヨーク州では合衆国憲法の批准に反対する者が非常に多かったので、憲法起草者のうち、ハミルトン(Alexander Hamilton)、マディスン(James Madison)、ジェイ(John Jay)の三人が協力し、憲法の解釈に関する一連の優れた論文を新聞紙上に発表したのである。そのおかげで、憲法は同州でも小差で可決・採択された。この論文が、その後まとめられて、『ザ・フェデラリスト』と題される論文集となった。今日、『ザ・フェデラリスト』は、制定当時の考え方を伝える最も重要な文書となっている*[7]。
(一) 1789年司法権法
1 司法権法を取り巻く情況
憲法そのものは、こうして難産の末成立したが、妥協に妥協を重ねて制定されたため、その条文には不明確な点が多く、その実質的補完は、第1回連邦議会における立法作業に委ねられることになった。
そうした立法の中でも、合衆国憲法3条1節(連邦裁判所)「合衆国の司法権は最高裁判所と連邦議会が随時制定設置する下級裁判所に属する。」を受けて、1789年9月24日に成立した連邦司法権法(The
United States Judiciary Act of 1789 (ch. 20, 1 Stat. 73))*[8] は、その後の連邦における司法活動の骨格を作り出したものできわめて重要である。
そもそも合衆国憲法が成立するまでは、司法機関は各州のものしかなかった。そのため、連邦司法制度を作り出すことの是非は、憲法の批准論議中で、すでに議論の対象となっていた。反連邦主義者達は、司法権を連邦による専制政治の潜在的な道具と、公然と非難していたのである。このため、憲法を批准した後においても、強力な司法を反対する派は、連邦裁判所のシステムは、最高裁判所以外には、地域的な海事裁判(local admiralty
judges)に限定するよう主張した。議会は、しかし、司法権法を制定することによって、各州内の国内法の執行のための、より広範な管轄権と連邦裁判所システムを確立したのである。
司法権法は、憲法修正1条から修正10条までの、今日権利章典として知られるようになった条項と表裏の関係にある。なぜなら、これらの10条のうち5箇条までが主に司法手続で対応するべき問題だからである*[9]。
司法権法と、権利章典の成立に、中心的な役割を果たしたのがエルスワース(Oliver Ellsworth)である。彼は、独立戦争前においては弁護士として活動していた人物で、合衆国憲法の草稿作成において重要な役割を担い、合衆国憲法に署名はしなかったものの、貢献が大きく、合衆国建国の父の一人に数えられている。
憲法成立後はコネチカット州選出の初代の上院議員として活躍した。エルスワースの提出にかかる司法権法は、上院における第1号議案であった。司法権法が上院で可決されると、エルスワースは権利章典の上院における承認を推進した。これは、下院において、『フェデラリスト』の執筆者の一人であるマディスンが推進していた。マディスンは下院で司法権法を提案した。つまり、司法権法と権利章典は、提案者達の頭の中で一対のものと考えられていた。司法審査権を確立することで連邦政府の権限を確保し、他方、権利章典によって、連邦政府が州と市民の権利を侵害することを防止することを保証したのである。
2 法律の内容
同法は、最高裁判事の数を6人とした。長官1名及び5人の陪席判事である。
同法制定当時は、まだ合衆国憲法を11州しか批准していなかったが、同法はそれを13の司法区(judicial district) に分けた。即ち、原則として各州がそれぞれ1司法区とされたが、例外としてバージニア州とマサチューセッツ州はそれぞれ2司法区に分けられた*[10]。
この法律は、各地区に高等裁判所(circuit court*[11])と地方裁判所(district
court)が設けられた*[12]。高等裁判所は、常設ではなく、その司法区の地方裁判所判事1名と最高裁判所判事2名で構成された。つまり、最高裁判事は、最高裁判事としての業務の他に、担当する高等裁判所を巡回(circuit)する義務を負っていたのである。高等裁判所の権限は、刑事事件では重罪、民事訴訟では訴額が500ドル以上の訴訟及び州が当事者となる訴訟である。それに加え、地方裁判所からの上訴審であった。
地方裁判所は、判事1名で構成され、海事事件、軽犯罪及び100ドル以上の民事事件を管轄した。
裁判においては、自ら訴訟を行っても良いし、代理人を立てても良いとされた。
その後の歴史の中で、特に重要な役割を担ったのが、同法第25条である。州の最高裁判所がアメリカ合衆国憲法と矛盾する法を支持する判決を下した場合に、連邦最高裁判所にこれを拒否する権限を与えたのである。また、州の最高裁判所で認められたあらゆる州や地方の法律は、連邦最高裁判所に上訴することができ、連邦最高裁判所が選択すれば、違憲だとしてそれを否定できる権限を与えられた。この規定は、当時としては州政府に対して連邦政府に唯一の実質的優越権を与えた。同条は、エルスワースが、わざと大変入り組んだ表現をとったため、審議当時、その精確な内容を誰も理解せず、看過されたため成立した、といわれる*[13]。
二 ジェイ・コート
1789年9月24日にワシントン大統領は司法権法に署名した。同日付で第1代連邦最高裁判所長官に、『フェデラリスト』の執筆者の一人であり、その時点で外務大臣(Secretary
of Foreign Affairs)であったジェイ(John Jay)を任命した。
ワシントンは、同時にブレア(John
Blair=合衆国憲法署名者)、クッシング(William
Cushing=マサチューセッツ州憲法批准会議副議長)、ウィルソン(James
Wilson=独立宣言署名者)、アイアデル(James
Iredell=ノースカロライナにおける連邦主義の指導者)及びラトリッジ(John
Rutledge=合衆国憲法署名者)を陪席判事に選んだ。
連邦最高裁判所判事の任命には、合衆国憲法2条2節2項により、上院の助言と承認(Advice
and Concent)を必要とする*[14]が、ジェイ・コートの6人の場合、9月26日には早くも承認が得られた。
こうして活動を開始した連邦最高裁判所であるが、連邦地裁等も同時に開設されたため、上告される事件は少なく、この結果、ジェイ・コートの活動はもっぱら様々な規則や手続きを定めることに費やされた。ジェイの任期中、判決はわずか4件だった。その4つの判決のうち、連邦最高裁判所の最初の合衆国憲法に関する判決は、1791年に判決が下されたウェスト対バーンズ事件(West v. Barnes, 2
U.S. 401 (1791))と、1793年に判決が下された、チザム対ジョージア州事件(Chisholm v. Georgia、2 U.S. (2 Dall.) 419 (1793))である。以下、順次、紹介したい。
(一) ウェスト対バーンズ事件
West v. Barnes, 2 U.S. 401 (1791)*[15]事件は合衆国連邦最高裁判所が下した最初の事件であり、口頭弁論が開かれた最初期の事例であり、そして顕在化はしなかったが、違憲立法審査権を行使が問題となった最初の事件として著名である。すなわち、この事件では、紙幣を債務の履行に使用することを認めるロードアイランド州法の合憲性と、1789年司法権法の上訴期間の合憲性の二つが問題になったのである。しかし、結論的に言うならば、裁判所は、いずれについても司法審査権を行使しなかったのである。立法府への敬譲から、といわれている。
1 事件の概要
ウェスト(William West)はロードアイランド州シチュエートに住む農民であり、独立戦争時には民兵団の将軍であった。ウェストは、1763年に多量の糖蜜酒(molasses)を同州プロビデンスのジェンクス家(Jenckes family)から購入し、その際自分の所有する500エィカー(約2000ha)の農場を代金の担保とした。理由は不明であるが、ウェストはその糖蜜酒販売に失敗し、その後20年間にわたり債務の支払いを行い続けた。1785年に至って、残額を支払うために、彼の資産の一部を宝クジ方式で販売する許可を州に求めた。独立戦争中の彼の功績を評価し、州は彼に許可を与えた。この時期に、ロード・アイランド州は自らの財政問題を解決するために、紙幣を発行していた。この結果、その宝籤代金のほとんどは金貨や銀貨ではなく紙幣で支払われた。
ウェストはこうしてジェンクス家に対して融資を返済するのに十分な資金を得たので、債務残額を紙幣で支払おうとしたが、ジェンクス側では、その受け取りを拒絶した。
ロード・アイランド州議会は、紙幣での取引に対するこうした抵抗を予測し、1786年5月、債務者は州裁判所に債務金額を支払うことで債務を履行できるとする法律を制定していた。同法によれば、債務者が債務金額を裁判所に支払ったと判断された場合、裁判所は債権者に対し、支払いを受け取るために10日以内に出頭するように命じることができる。債権者が10日以内に出頭しなかった場合には、裁判官には、債務は履行されたという証明書を発行する権限が与えられていた。
そこで、ウェストは1789年9月16日に債務の全額を裁判所に支払ったが、ジェンクス側は出頭しなかった。
バーンズ(David Leonard Barnes)は、マサチューセッツ州在住の著名な弁護士であり、後に連邦判事になった人物であるが、その妻はジェンクス家の相続人であったところから、訴訟を担当した。バーンズは、債務の履行には金貨ないし銀貨による支払いが必要であり、紙幣を拒否できると主張して連邦裁判所に訴訟を提起した。異なる州の市民間の訴訟の管轄権は連邦裁判所にあるからである(合衆国憲法3条2節2文)。
ウェストは本人訴訟で奮闘したが、連邦高裁で負けた*[16]ため、連邦最高裁判所に上告した。1789年司法権法によれば、高裁判決から10日以内に上告する必要があった*[17]。そこで、フィラデルフィアの連邦最高裁判所書記官であるタッカー(John Tucker)に裁判記録その他の書類を送付した。
タッカーに送られた原本がどうなったのか、すなわちタッカーがそれを遅れて受け取ったのか、あるいはどこかに紛れ込ませて失ったのかは不明である。とにかく、ウエストの上告が正式に連邦最高裁判所の受理簿に記載される以前に、10日間が経過していた。
2 判決の内容
本来の事件の流れからすれば、この裁判における主要争点は、ロード・アイランド州法の合憲性になるはずであった。ところが、実際にはバーンズの巧みな法廷戦術により、その点が顕在化すること無く終わったのである。
裁判所は1791年8月2日にウェスト対バーンズ事件の口頭弁論を開催した。その際、バーンズは上告期間の徒過に狙いを絞って攻撃したのである。その結果、裁判所は、債務履行があったか否かでは無く、手続き上の瑕疵の問題に対処することを余儀なくされた。5裁判官(ラトリッジは出席していなかった)の全会一致の決定により、上告は期間徒過により無効であるとされた。
1789年司法権法が、この時代の交通事情の悪さというものを考慮せずに、あるいは高等裁判所と最高裁判所の間の距離を考慮せずに、一律に10日間の上告期間を設定した点に問題があったが、裁判所はその点を違憲とはしなかった。また、本来の論点であった紙幣による債務履行の合憲性という問題は、大きく遅れて、1870年のヘップバーン対グリスウォルド事件(Hepburn v. Griswold)にいたって、ようやく司法審査の対象となったのである。
3 事件のその後
1792年、バーンズはウェストとその家族を農場から立ち退かせようとしたが、地方保安官は、その要求に応じようとはしなかった。そこで、バーンズは改めて、ウェストに対して立ち退き訴訟を提起しなければならなかった。
1793年6月に、裁判所はウェスト敗訴の判決を下し、農場がバーンズの所有に属する事を認めた。さらに1794年に、陪審員は、バーンズに対して損害賠償90ドル、最高裁への抗告訴訟費用の59ドル90セントを認めた。
ウェストにとっては不運なことに、ウェストが紙幣を裁判所に供託したわずか3日後に、ロード・アイランド州は、問題の法律を停止していた。その結果、ウェストは、バーンズとの紛争とは別に、州から資金を回収する訴訟を提起せざるを得なくなった。
ウェストは、20年も債務の返還を行った末に農場を失い、資産を失い、貧困のうちに死亡したという。*[18]
(二) チザム対ジョージア州事件
1 判決の背景
このChisholm v. Georgia事件では、合衆国憲法第3条第2節2文の解釈が中心的問題となった。同文は、詳細に連邦裁判所の権限を定めているが、その中に、州と他州の市民との間の訴訟という文言は存在していないのである。
1792年、サウスカロライナ州で、ファークァ(Robert Farquhar)の資産の遺言執行人チザム(Alexander Chisholm)は、アメリカ独立戦争の間にファークァがジョージア州に供給した物資の補償を求めて、ジョージア州を最高裁判所に訴えた。被告のジョージア州は、州の「主権」侵害であるとして、同意しない自州に対する訴訟のために法廷に出頭する必要は無いと主張し、出廷しなかった。
2 判決の内容
最高裁判所は4対1の裁決で、原告有利の判決を下した(反対したのはアイアデル判事である)。
この判決で、ジェイは三つの論点をあげている。
第一にジョージアはいかなる意味で、主権国家か。
第二に、訴訟対象性(Suability*[19])はその様な主権とは相容れないのか。
第三に、憲法はジョージア州に訴訟を拒む権限を認めているか。
第一の点については、合衆国憲法前文が「われら合衆国の人民は…この憲法を制定し、確定する。」と述べていることなどを引用して、ジェイは言う。
「我々は人民が全国の主権者として行動しており、憲法が作り出した主権という語は、州政府を拘束し、州憲法はこれに適合しなければならないというのが制定者の意思であったことを示している。」
合衆国が主権を持った州の連合体なのか、それとも合衆国それ自体が主権を有するのか、ということは、後に南北戦争を引き起こした米国憲法最大の論点である。ジョージア州は、前者と主張した。それに対し、フェデラリストの一人、ジェイは明確に合衆国こそが主権の主体であると述べたのである。各州の主権は、いわばその残余であるに過ぎない。
欧州においては、王は悪をなせず(King can do no wrong)といわれ、絶対王政の下においては王とは国家であるから、そこから国家無答責の原則が貫かれた。ジェイは、欧州において王に属する主権は、米国では人民に帰属すると説く。
「欧州の王は個人的に権力、尊厳、そして優越性を有している。それに対し、我々の統治担当者はそのいずれも持たず、単に職務としてその地位にあるに過ぎない。ないしはそうでなければ主権に関与せず、一般私人以上の何らの資格も有していない。」
このように論じて、州が訴訟対象性を有するとした。
第二の訴訟対象性と州主権の整合性については、合衆国憲法が州と州との訴訟を予定していることを指摘する*[20]。それは結局、ある州の人民と他の州の人民の間の訴訟である。したがって訴訟対象性と州主権は整合性がある。
「司法権のこのような拡張は、争訟を解決することであるため、適切である。したがって、基本的にそれは許される。州が原告である争訟だけではなく、被告となる場合も解決されるべきであるので政治的に賢明である。両方の場合がそれ故に司法救済の合理的な範囲であり、明白、平明、かつ文言通りの解釈は禁止されるべきではない。」
こうして、ジェイは合衆国憲法3条2節2文が、連邦裁判所には個人と州の間の論争を審問する肯定的権限があると認めた。
3 事件のその後
連邦最高裁判所は、他州の市民の訴えを州は受け入れることを求めたのであるが、ジョージア州はこれを拒否した。連邦最高裁判所の判決が公然と州によって無視されるという事件は、この後においても繰り返されるが、本事件は、最初の憲法判断であったと同時に、州に受け入れを拒否された最初の事件ともなった。
これにならって他の州も同様の権利を求めた。結局、議会は、1794年3月5日、第11修正を可決した。1795年1月23日にデラウェア州の批准によって修正条項は成立した*[21]。
第11修正は次のような規定である。
「合衆国の司法権は、合衆国の一州に対して、他州の市民または外国の市民もしくは臣民が提起したコモン・ロー上またはエクイティ上のいかなる訴訟にも及ぶものと解釈されてはならない。」
すなわち、これによりある州または外国の市民が他の州を訴える場合の連邦司法権を、明文により排除したのである。
三 ジェイ条約
ジェイは、最高裁判所長官として在任中に、ワシントンによりロンドンに特使として派遣された。すなわち、1789年に勃発したフランス革命が急進化し、1793年に革命政府がルイ16世を処刑するに至り、英国は対仏大同盟を結成して革命へ干渉する姿勢を鮮明にした。それに対して、合衆国はフランス革命に対して中立の立場をとり、フランスとの貿易を継続しようとした。この米仏間の貿易を英国が実力で阻んだことから、米英関係が緊張した。マディスンは英国との戦争を主張したが、ワシントンは戦争回避にむけてジェイを英国へ派遣して、両国関係の改善を図ったのである。この結果、1794年に英国に有利でフランスに敵対する内容の条約が締結された*[22]。同条約はジェイ条約(Jay's Treaty)の名で知られている。
この条約締結に怒ったマディスンは、ハミルトンやジェイと袂を分かち、ジェファーソンと結んで共和党(Republican)を結成し、ハミルトンを中心とする連邦党(Federalist)と対立するようになる*[23]。これが、マーベリ対マディソン事件の根本的な原因となる。
四 エルスワース・コート
1795年5月、ジェイは第2代ニューヨーク州知事に選出されたため、同年6月29日に連邦最高裁判所長官を辞任した。ワシントンは、第2代長官に、陪席判事の一人ラトリッジ(John Rutledge)を1合衆国上院が休会中に任命した*[24]。ラトリッジは1795年7月1日に着任した。
ところが、休会任命後間もない7月16日、ラトリッジは、英国との間に結ばれたジェイ条約を「このたわいもない文書に署名するくらいなら大統領は死んだ方が良い。それを採択するよりも戦争を選ぶ」*[25]と述べるなど、明白に共和党寄りよりの言動を示したため、連邦党が多数を占める上院は1795年12月15日にラトリッジに対する指名を拒絶した。その結果、ラトリッジに対する休会指名は上院会期の終わりに自動的に期限切れとなった。ラトリッジはアメリカ合衆国最高裁判所の歴史の中で唯一人、本人の意に反して職を追われた判事である。
そこでワシントンは第3代長官としてエルスワースを1796年4月4日に選任した。彼については問題なく上院の承認が得られた。
そのエルスワース・コートで最も重要な判決が、最初の立法に対する憲法判断と云うべきヒルトン対合衆国(Hylton v. United
States,3 U.S. 171 (1796))事件である。
(一) ヒルトン対合衆国事件
1 判決の背景
1796年に下されたこの判決は、米国連邦最高裁判所による、立法に対する最初の憲法判断として有名である。
事件はバージニア州に住むヒルトン(Daniel Lawrence
Hylton)が「乗用馬車に租税を課する法律」という連邦法*[26]に反し、その所有する乗用馬車(carriage for the
conveyance of persons)の台数に応じた租税(duty)計2000ドルを支払っていないとして、地方検事により起訴され、罰金刑を求められた、というものである。ヒルトンは、貸し馬車屋であったらしく、レンタル用の二輪馬車(chariots)を125台所有していたため、このような多額となっている。被告は上述の法律は違憲で無効であるとして租税債務の不存在を主張した。
2 判決の内容
この判決で問題になったのは、合衆国憲法第1条のいくつかの項の解釈である。同条は議会の権限を定めている。
(1) 直接税
ヒルトンは、まず馬車税は、合衆国憲法1条2節3項前半に違反すると主張した。次のような条文である。
「下院議員と直接税は、連邦に加わる各州の人口に比例して各州間に配分される。各州の人口は、年期を定めて労務に服する者*[27]を含み、かつ、納税義務のないインディアンを除いた自由人の総数に、自由人以外のすべての者の数の5分の3を加えたものとする。」*[28]
この条文は、連合の持っていた、租税高権を持たないという根本的な弱点をカバーする狙いで作られた。独立戦争のスローガン「代表なければ課税なし(No taxation without
representation)」を反映して、下院議員の議席数と課税額が連動するという世界でも珍しい規定である。
その結果、連邦が徴収しうる直接税は、各州の人口に応じなければならない。9節4項は、さらに「人頭税その他の直接税は、この憲法に規定した人口調査または算定にもとづく割合によらなければ、これを賦課してはならない。」と定めて、この点を強調していた*[29]。
人頭税(poll tax)が、そこにいう租税に該当することは間違いない。しかし、悪税として定評のある人頭税*[30]で、連邦財政をまかなうのは妥当ではない。人頭税以外には何があるかが問題となる。ヒルトンは、馬車税は直接税であり、人口調査に基づいて課税されているわけではないので、違憲だと主張したわけである。
エルスワース長官は、この判決では、この点についてしか意見を書いていない*[31]。それによると、馬車税は直接税ではない。直接税は人頭税と土地税(taxes on land)だという。この点は、他の判事の意見でも同じで、その結果、その後に残る重要な判例となった。
初代の合衆国財務長官となったハミルトンは、こうした憲法的制約から、必然的に間接税を、その税制の中心にせざるを得なかった。そこで彼が選んだのは、具体的には関税である。他の形態の租税と異なり、関税は連邦の専権事項となっていて州税との競合がないため、諸州との軋轢が無く、かつ少ない経費で徴収が可能であるためである。こうして、1789年関税法(the Tariff Act of 1789)が、米国最初の税法となる。その後、関税収入は、第1次世界大戦まで米国歳入の中心であり続ける。1913年の第16修正という形の憲法改正により、所得税法の正式導入が可能になって、ようやくその首座をゆずることになる。
この当時の連邦最高裁判所の判決文は、英国の判決の伝統に従い、それぞれの判事が自分の意見を順番に述べ、それがそのまま判決文となっていた。したがって、法廷の意見がどのようなものであったのか判りにくい。適宜、判事の意見を紹介する。
チェイス判事(Chase)のこの点に関する意見は興味深い。
「原告は、高等裁判所で、馬車への課税は直接税であったことを証明するために腐心したが、私は納得していない。私が思うに、それはかなり疑わしい。そして、疑問に過ぎない場合には高等裁判所の判決を維持するべきである。その決定は、連邦議会の判断(馬車税は直接税ではなく、Dutiesであると構成した)にしたがっている。私は馬車税は、憲法の文言からする限り直接税ではないと考える方向に傾斜している。」
ここには既に今日の違憲審査に関する自制説(疑わしきは同位の国家機関の判断に従う)の萌芽が認められるからである。
(2) 間接税
直接税でなければ、何かという事が次に問題となる。憲法的に問題になったのが、同条8節1項の冒頭の次のような規定である。
「連邦議会は、次の権限を有する。合衆国の債務を弁済し、共同の防衛および一般の福祉に備えるために、租税、関税、輸入税および消費税を賦課し、徴収する権限。但し、すべての関税、輸入税および消費税は、合衆国全土で均一でなければならない。」*[32]
国家である限り、徴税権を有していることは当たり前のように思う*[33]。しかし、国家の徴税権は国家権力の最も典型的な発動で有り、自由の敵であるから、こうした規定無しには徴税は不可能なのである。
この判決とは関係が無いが、本項に基づく課税権は「合衆国の債務を弁済し、共同の防衛および一般の福祉」という目的のためという制約の下にのみ行使しうると読めるという問題がある。
この点の解釈は、『ザ・フェデラリスト』の執筆者の間においてすら、意見の対立があった。すなわち、マディスンは、これを文字通り、厳格に理解する、という立場をとった*[34]。これに対し、ハミルトンは、課税・歳出権限は1条8節に書かれている議会の権限に対応して与えられたものであると主張した*[35]。連邦議会は、ハミルトンの説を採用して立法活動を行った。連邦最高裁も、後年、これを明確に支持した*[36]。
この事件で直接に問題となったのは1条8節の「taxes,
duties, imposts and excises」という言葉が何を意味するかであった。特に、直接税の概念に関連して、大きな問題だったことは、上述のとおりである。
ここでもチェイス判事の意見を紹介しておく。
「私は、乗用馬車の年次税は、議会に与えられたDutiesを課する権限内にあると考える。Dutiesという用語はTaxという用語に次いで最も包括的なもので、英国で実例があり(その用例から我々はtaxes,
duties, imposts, excises, customsなどの一般的な着想を得る)印紙税(taxes on stamps)、通行税(tolls for passage)等々を含み、輸入税に限定されない。
私には、消費(expence)に対する税は間接税と思える。そして私は、乗用馬車に対する年次税は、その種類のものと考える。なぜなら馬車は消費商品であり、それに対する課税は所有者の消費に対する課税になるからである。」
これに対して、他の判事は、定義が明確にできない以上、その言葉の意味を決定することは、連邦議会の権限だと憲法起草者は考えていたはずだとしている。
(二) ホリングワース対ヴァージニア州事件
エルスワース・コートで、今ひとつ、憲法判例といえる判決がある。それは1798年のホリングワース対ヴァージニア州事件(Hollingsworth v.
Virginia, 3 U.S. (3 Dall.) 378 (1798))である。この事件の事実関係については、この判決文に書いてある以外の情報がなく、判決文の中では簡単に触れられているのみであるので、どのような事件かよくわからない。触れられていることから推測すれば、ジョージア州が、不動産(Estate)に対する保障を行っていたのを、憲法を改正して廃止したため、その改正が無効だと争ったものであるらしい。
この事件で関連して問題になったのは、先に紹介したチザム事件判決に対して、合衆国憲法の改正が行われたという点である。
直接に問題になったのは、憲法修正案が,大統領に提出されていないことであった。すなわち、憲法改正も法案であり、そうであれば、「下院および上院を通過したすべての法律案は、法律となるに先立ち、合衆国大統領に送付されなければならない」のに、大統領の署名が行われていない点が問題となった。しかし、同文が大統領に与えている拒否権は、上下両院それぞれの3分の2の多数で議決されれば覆されることができる。
他方、憲法の改正を発議するには上下両院それぞれの3分の2の多数による議決が必要とされる*[37]。したがって、大統領として、憲法改正の発議がなされてしまえば、拒否権を発動する余地がない。したがって、憲法修正が有効に成立するのに、大統領の署名は必要ではない。それと同様に、ジョージア州の場合にも、知事の署名がなくとも憲法修正は有効である。
このような論理により、合衆国憲法の改正に、大統領の署名は要しない、という憲法判断を確定した点に、この判決の重要性がある。
[おわりに]
ここに紹介したとおり、米国では、違憲立法審査権は、確かにわが国憲法と違って、合衆国憲法レベルの明文の規定は存在していなかったが、決して立法レベルで予定されていなかったわけではない。そして、事実、連邦最高裁判所ができたばかりで、ほとんど上告事件がなかったジェイ・コートやエルスワース・コートの時点で、すでに憲法事件は提起され、裁判所もそれに正面から向き合って判決を下していたのである。このような流れの中で、マーベリ対マディスン事件は出現したのであって、決してゼロからの出現ではなかったことは、マーシャル・コートの活動を視る上で看過してはならない点と考える。
1 1778年2月5日 サウス・カロライナ
2 1778年2月6日 ニューヨーク
3 1778年2月9日 ロード・アイランド
4 1778年2月12日 コネチカット
5 1778 年2月26日 ジョージア
6 1778年3月4日 ニュー・ハンプシャー
7 1778年3月5日 ペンシルヴァニア
8 1778 年3月10日 マサチューセッツ
9 1778年4月5日 ノース・カロライナ
10 1778年11月19日 ニュー・ジャージー
11 1778年12月15日 バージニア
12 1779年2月1日
デラウェア
13 1781年3月1日
メリーランド
このように、その批准のために何年も掛かったのは、西部のまだ開拓されていない土地に関する各邦の領有権主張が収まっていなかったからであった。特に、独立宣言の中心的執筆者であり、後に第3代大統領になったジェファーソンが知事を務めるメリーランド州の批准が非常に遅れて最後になったのは、バージニア州とニューヨーク州がオハイオ川渓谷の領有権主張を取り下げるまでは批准しないとしていたためであった。この点については、別稿で詳しく論じる。
*[4] 本稿において、米国憲法の翻訳としては、米国の在日大使館ホームページ中にある次のものを使用している。
http://aboutusa.japan.usembassy.gov/j/jusaj-constitution.html
*[6] 各州の批准年月日とのその際の憲法制定会議に於ける賛否の票数は次のとおりである。
賛成 反対
1 1787年12月 7日
デラウエア 30 0
2 1787年12月12日
ペンシルベニア 46 23
3 1787年12月18日
ニュージャージー 38 0
4 1788年 1月 2日
ジョージア 26 0
5 1788年 1月 9日
コネチカット 128 40
6 1788年 2月 6日
マサチューセッツ 187 168
7 1788年 4月28日
メリーランド 63 11
8 1788年 5月23日
サウスカロライナ 149 73
9 1788年 6月21日
ニューハンプシャー 57 47
10 1788年 6月25日 バージニア 89 79
11 1788年 7月26日 ニューヨーク 30 27
12 1789年11月21日 ノースカロライナ 194 77
13 1790年 5月29日 ロードアイランド 34 32
ロードアイランド州は全米50州中最小の州で、日本だと滋賀県と同程度の面積しかない。同州は、中央集権化に反対し、1787年の合衆国憲法制定会議もボイコットした。合衆国成立後も憲法の批准をためらっていたが、連邦から外国と宣告され、他州との交易品に関税が課せられることの危機感から、他州から非常に遅れてしぶしぶ批准した。
*[7] 『ザ・フェデラリスト』(The Federalist Papers)は、計85編の連作論文である。これら論文のうち77編は、1787年10月から1788年8月まで「The Independent Journal」紙、「The New York Packet」紙、又は「the Daily Advertiser」紙に連続して掲載された。これに他の8編を加えて編集したものが、『ザ・フェデラリスト』と題されて1788年に2巻本でJ.
& A. マクリーンによって刊行された。わが国では1998年に福村書店より翻訳・刊行されている。
*[8] 1789年司法権法の正式名称は「An Act to establish the Judicial
Courts of the United States」で、The United States
Judiciary Actは通称である。
*[9] 直接には、修正5条(大陪審の保障、二重の危険の禁止、デュープロセス、財産権の保障)、修正6条(陪審、迅速な公開裁判、刑事被告人の権利)、修正7条(民事陪審) 修正8条(過大な保釈保証金及び残酷な刑罰の禁止)の4箇条である。しかし、修正4条(不合理な捜索、逮捕、押収の禁止)もまた、司法過程と密接な結びつきを有しているため、数えられる。
*[10] マサチューセッツ州の地区割りは、今日のメイン州とマサチューセッツ州に相当する。同様に、バージニア州の地区割りは今日のケンタッキー州と、今日のバージニア州及びウェストバージニア州を合したものに相当する。司法権法の地区割りは、その後における州の分割を先取りしていたのである。
*[11] わが国では、Circuit courtは、巡回裁判所と訳する例が多い。しかし、例えばハワイ州にはCircuit courtと呼ばれる、わが国の家庭裁判所に類似した機能を持つ裁判所が存在している。そうした紛らわしさを避けるため、本講では、地裁と最高裁の中間の上訴裁判所を意味する場合には「高等裁判所」と訳した。
*[13] 1789年司法権法25条の原文は次のとおりである。
That a final judgment
or decree in any suit, in the highest court of law or equity of a State in
which a decision in the suit could be had, where is drawn in question the
validity of a treaty or statute of, or an authority exercised under the United
States, and the decision is against their validity; or where is drawn in
question the validity of a statute of, or an authority exercised under any
State, on the ground of their being repugnant to the constitution, treaties or
laws of the United States, and the decision is in favour of such their
validity, or where is drawn in question the construction of any clause of the
constitution, or of a treaty, or statute of, or commission held under the
United States, and the decision is against the title, right, privilege or
exemption specially set up or claimed by either party, under such clause of the
said Constitution, treaty, statute or commission, may be re-examined and
reversed or affirmed in the Supreme Court of the United States upon a writ of
error, the citation being signed by the chief justice, or judge or chancellor
of the court rendering or passing the judgment or decree complained of, or by a
justice of the Supreme Court of the United States, in the same manner and under
the same regulations, and the writ shall have the same effect, as if the
judgment or decree complained of had been rendered or passed in a circuit court,
and the proceeding upon the reversal shall also be the same, except that the
Supreme Court, instead of remanding the cause for a final decision as before
provided, may at their discretion, if the cause shall have been once remanded
before, proceed to a final decision of the same, and award execution. But no
other error shall be assigned or regarded as a ground of reversal in any such
case as aforesaid, than such as appears on the face of the record, and
immediately respects the before mentioned questions of validity or construction
of the said constitution, treaties, statutes, commissions, or authorities in
dispute.
「大統領は、大使その他の外交使節および領事、最高裁判所の裁判官、ならびに、この憲法にその任命に関して特段の規定のない官吏であって、法律によって設置される他のすべての合衆国官吏を指名し、上院の助言と承認を得て、これを任命する。」
*[15] この事件の正式の判決は失われてしまっている。その結果、米国最高裁判所判決に関する公式出版物で、2 U.S. 401という番号には、現在では、OSWALD v. STATE OF NEW YORK - 2
U.S. 401 という翌1792年に判決が下された事件が掲載されている。それにも関わらず、この事件の詳細が今日判明するのは、この事件が連邦最高裁判所の最初の判決であったために、当時大きな社会的関心を呼び、新聞に詳細な報道がなされたためである。
*[16]その時のロードアイランド州連邦高裁判事はジェイ連邦最高裁判所長官、クッシング連邦最高裁判所判事及び地裁判事のマーチャント(Henry Marchant)の3名で構成されていた。高裁段階におけるウェスト側の敗訴理由は、記録が残っていないため、不明である。
*[17] 1789年司法権法23条は次の様に規定していた。
SEC. 23. And be it
further enacted, That a writ of error as aforesaid shall be a supersedeas and
stay execution in cases only where the writ of error is served, by a copy
thereof being lodged for the adverse party in the clerk’s office where the record
remains, within ten days, Sundays exclusive, after rendering the judgment or
passing the decree complained of. Until the expiration of which term of ten
days, executions shall not issue in any case where a writ of error may be a
supersedeas.《以下略》
*[18] この事件の紹介については、判決記録そのものが存在していないこともあり、記録により内容に若干の差異がある。この事後の情況については、主として次のものに依拠して記述している。
http://wiki.answers.com/Q/What_was_the_US_Supreme_Court_case_West_v_Barnes
*[19] この訴訟対象性という言葉は、ジェイがこの議論をするために作り出したものであるらしい。次の様にジェイは述べている。
"Suability" and "suable"
are words not in common use, but they concisely and correctly convey the idea
annexed to them.
*[22]この条約の内容を簡単に紹介すれば、@ミシシッピ川を英国に開放する、A英国の敵国(つまりフランス)の私掠船に対する補給を禁止する、B独立戦争以前の米国人の英国人に対する負債は支払う、というものである。
*[23] この共和党は、今日の米国の政党である共和党(Republican Party)とは関係がない。共和党は1820年に分裂し、ジャクソン(Andrew Jackson)を中心とするグループが民主共和党(Democratic-Republican
Party)となのる政党を結党し、1828年大統領選挙でジャクソンを第7代大統領に押し上げた。それが1830年に民主党(Democratic Party)と改名してなって今日に至る。これに対し、今日の共和党は、むしろ連邦党の後裔で、黒人奴隷制反対を掲げて1854年に結成され、リンカーンを第16代大統領を押しあげたのである。この現在の共和党と区別するため、1796年や1800年の大統領選挙においても、民主共和党という書き方をしている例が多いが、厳密には間違いである。
*[24] これを休会任命(Recess Appointment)という。休会任命は合衆国憲法の第2条第2節により認められている。「大統領は上院の休会中に生じうるすべての空席を、次の会期末を期限として任命により埋める権限を有する」。休会任命された場合には、したがって次の会期末までに上院により承認される必要がある。
“He had rather the President
should die than sign that puerile instrument”
and that he “preferred war to an
adoption of it”.
*[26] 原名はAn act laying duties upon
carriages for the conveyance of persons(The act of Congress
of June 5, 1794)である。同法第1条は次の様に定めていた。
“Be it enacted by the Senate and
House of Representatives of the United States of America in Congress assembled,
That there shall be levied, collected and paid, upon all carriages for the
conveyance of persons, which shall be kept by or for any person, for his or her
own use, or to be let out to hire, or for the conveying of passengers, the
several duties and rates following, to wit: For and upon every coach, the
yearly sum of ten dollars;?for and upon every
chariot, the yearly sum of eight dollars;?for and upon every
phaton and coachee, six dollars;?for and upon every
other four wheel, and every two wheel top carriage, two dollars;?and
upon every other two wheel carriage, one dollar. Provided always, That nothing
herein contained shall be construed to charge with a duty, any carriage usually
and chiefly employed in husbandry, or for the transporting or carrying of
goods, wares, merchandise, produce or commodities”
*[27] 「自由人以外のすべての者の数の5 分の3 」とは、奴隷は5分の3と数えるという意味である。すなわち、南部諸州は、連邦における発言権を確保する目的から奴隷も人数に含めるべきだと主張し、北部諸州はこれに反対し、その妥協として決まった。
*[30] 人頭税とは、その人の経済能力に関係なく、全ての国民1人につき一定額を課す税金である。所得の無い人にも課税する税という点では消費税と同様であるが、消費税の場合、消費能力に比例して課税額が増えるので、ある程度累進制をもっている。それに対して、人頭税の税額は一律なので、所得の少ない人の負担が最大になる税制であるため、悪税とされる。英国でサッチャー首相が1990年に導入したが、国民世論の反発が強く、その年のうちに同首相は辞任に追い込まれ、1993年に廃止された。
*[32] この訳は、米国大使館の翻訳を紹介したため、Dutiesという語の訳語が関税と固定されていて、この事件での用語法とは整合していない。そこで、条文の原文を紹介しておくと、次のとおりである。
The Congress shall
have power to lay and collect taxes, duties, imposts and excises, to pay the
debts and provide for the common defense and general welfare of the United
States; but all duties, imposts and excises shall be uniform throughout the
United States;
*[33] 松井茂記『アメリカ憲法入門』〔第5判〕有斐閣刊、50頁は「この課税権限が問題になることはあまりない」とあっさり述べているのは、そうした観念に基づくものと思われる。しかし、本講で紹介している判例に代表されるように、歴史的に見れば、膨大な量の憲法訴訟がこの条項を巡って起こされている。
*[35] ハミルトンが『ザ・フェデラリスト』中で、税制に関して述べている箇所は非常に多い。特に、「第30篇 課税権」141頁以下、「第31篇 無制限課税権の不可欠性」146頁以下、「第32篇 専属的課税分野と重複的課税分野」150頁以下、「第33篇 必要にして適当条項と最高法条項」153頁以下、「第34篇 連邦と州の共同課税管轄権」156頁以下、「第35篇 輸入関税に限定した場合の不公平」161頁以下、「第36篇 代表者数と国内税」165頁以下、の各篇は集中的に税制について論じている。本文に述べたことは、直接には、「第33篇 必要にして適当条項と最高法条項」に依拠しているが、ハミルトンの主張は、上記すべての論考を通じて把握される必要がある。
*[36] United States v. Butler, 297
U.S. 1 (1936)
ニューディール政策の中心となった法律に農業調整法(Agricultural
Adjustment Act of 1933)がある。この訴訟では、同法の特定の条文の合憲性が問題となった。法は、特定の農産物の価格を、生産量を減らすことで引き上げるという狙いから、その作付けや生産を減少させようとする農民に対し補助金を支払い、その原資を得るために、農業製品の加工業に租税を課するというものであった。
最高裁判所は、ここにいう税とは本当の税ではなく、農民の収穫量を減らすという目的の租税の賦課は、政府の権限を逸脱していると判決したのである。
連邦議会は、両院の3 分の2
が必要と認めるときは、この憲法に対する修正を発議し、または、3 分の2 の州の立法部が請求するときは、修正を発議するための憲法会議を召集しなければならない。いずれの場合においても、修正は、4 分の3 の州の立法部または4 分の3 の州における憲法会議によって承認されたときは、あらゆる意味において、この憲法の一部として効力を有する。いずれの承認方法を採るかは、連邦議会が定める。但し、1808 年より前に行われるいかなる修正も、第1 章第9 条1
項および4 項の規定に変更を加えてはならない。いかなる州も、その同意なしに、上院における平等の投票権を奪われることはない。