南北戦争後の憲法秩序
−チェイス第6代長官の時代−
甲斐素直
[はじめに]
リンカーンは、トーニ−連邦最高裁判所長官が1864年10月12日に死去したことに伴い、その後任に財務長官であったチェイス(Salmon Portland Chase)を1864年12月6日に任命した。チェイスは任命当日に上院の承認を得ることができ、即日就任した。
彼が長官の時代、連邦議会は、南北戦争による社会混乱を鎮め、黒人の社会的地位を向上させ、さらに産業革命によって発生した社会階級間の対立を減少するために様々な積極的立法を行った。その頂点に立つのが、第13、第14、第15という3つの憲法修正である。
このまったく新しい憲法秩序の下で、裁判所はどう行動するべきか。チェイス・コートが迫られたのは、このような難しい判断であった。
もともと、チェイスは自由土地運動(Free Soil movement)という運動の指導者であった。この運動は、奴隷制度反対を目的とするもので、自由土地党(Free Soil Party)という政党を作って、大統領選挙に候補者を立てたりした。チェイス自身がオハイオ州選出の上院議員になったのも、この運動の指導者であったが故である。上院議員当時、彼は反奴隷制のチャンピオンとして、1850年の妥協にも、カンザス・ネブラスカ法にも強力な反対の論陣を張っていた。
結局、この運動は共和党に吸収されることになる。チェイスは、こうして最初の共和党員であるオハイオ州知事となった。州知事としては、女性の権利や教育の拡充、刑務所改革など、当時としてはきわめて進歩的な政策を展開した。
1860年の共和党大会では大統領候補の一人となるが、オハイオ州以外からはほとんど票が得られず、結局リンカーンの支援に廻り、リンカーンが当選した後は、財務長官となって、リンカーンが南北戦争を遂行するのを財政的に支えたのである。
チェイスはこういう人物であったから、連邦最高裁判所長官としても、トーニーとはかなり異なる行動をした。長官としてのチェイスの最初の行為の一つが、最高裁判所における弁護士資格をアフリカ系米国人弁護士であるジョン・ロック(John Rock)を承認した点に、その変化が端的に現れていた。
チェイス・コートがどういうものであったかを知るには、それに先行して三つの憲法修正がどういうものであったかを知る必要がある。
一 憲法修正
(一) 第13修正
リンカーンは、奴隷解放宣言(Emancipation
Proclamation)の第一部を南北戦争中の1862年9月に、さらに第二部を1863年1月1日に、それぞれ最高司令官の資格において発していた。しかし、北部の支配下にある奴隷州の離反を恐れて、メリーランド州とデラウェア州(連邦側から脱退しなかったため)、テネシー州(その時点では既に連邦側)、そしてミズーリ州とケンタッキー州(連邦側に忠誠)の州名は、いずれも意図的に解放宣言に記されなかった。そもそも大統領が、このような一片の宣言で、個人の財産権を侵害するのは憲法違反であった。
そこで、奴隷解放宣言を全国的に有効なものとするためには憲法改正を行う必要がある。その目的で、第13修正が、連邦議会により1865年1月31日に各州の議会に提案された。次の様な条文である。
「第1項 奴隷制および本人の意に反する苦役は、適正な手続を経て有罪とされた当事者に対する刑罰の場合を除き、合衆国内またはその管轄に服するいかなる地においても、存在してはならない。
第2項 連邦議会は、適切な立法により、この修正条項を実施する権限を有する。」
この第1項は、あきらかに日本国憲法18条に影響を与えている。
南北戦争の終結は1865年4月であるから、この修正はまだ完全に戦争が続いている時期に提案されたことになる。しかし南部諸州も、戦争終結後は奴隷解放に抵抗する意欲を失っていたらしく、同年12月には、当時の全36州のうち27州の議会により修正条項が批准されたことにより、修正は成立した。
これに基づき、連邦議会は積極的に様々な立法を行った。その代表とも言うべきものが、1866年4月に成立した公民権法(Civil Rights Act of 1866)*[1]である。
同法は、米国に生まれ、外国市民でないものは、人種、肌の色、もしくは以前に奴隷状態ないし非任意的召使い(involuntary servitude)であったか否かに関わりなく、合衆国市民の資格を与えられると宣言した。
また、いかなる市民も白人である市民と同一の権利を有し、それは、契約の締結、訴訟の提起もしくは提起されること、法廷で法廷で証拠を提出すること、相続し、購入し、リースし、販売し、保持し、不動産もしくは動産を諸有する権利を含むとも宣言した。さらにかつて奴隷であった者に、これらの権利を否定する者は、軽罪として有罪とされ、1,000ドルの罰金または懲役1年、あるいはその両方を課すとしていた。
連邦議会は、この法律を第13修正の第2項による権限として立法可能としたのである。
リンカーンは、この前年1865年4月14日に暗殺されていた。その結果、副大統領のジョンソン(Andrew Johnson)が第17代大統領に4月15日、昇格していた。
ジョンソンは、元来、南部連合に属して北部と戦ったテネシ−州選出の上院議員であり,自らも奴隷所有者であったから、当然に奴隷制の賛同者であった。しかし、南部諸州の連邦からの脱退には反対であった。脱退した11州選出の上院議員のうち、ワシントンにとどまったのは彼だけであった。その結果、リンカーンの主張する、南部の連邦からの脱退権否定の見本のような存在になったため、第二期において副大統領とされたのである。
そういう人物であるから、当然に、連邦政府による南部再建において、南部人に寛大な政策をとっていた。
そのジョンソンが、公民権法に対して拒否権を発動した。公民権法が、州ばかりで無く、その市民にも義務を課している点で、違憲と判断したためである。しかし、議会は彼の拒否権を3分の2の多数で覆し、同法を成立させた。これにより、ジョンソンと議会の関係はこじれることになる。
(二) 第14修正
南部諸州では、第13修正が成立し、公民権法が制定されたにも拘わらず、時が経つにつれて、解放奴隷の移動を制限したり、訴訟を起こしたり、法廷で証言したりすることを防げることを内容とする、いわゆる黒人法(Black Codes)を制定することで、以前の奴隷の状態とあまり変わらない状態に戻す試みが顕著になってきた。連邦憲法の規定は、連邦のみを拘束し、州を拘束しないと考える場合には、この様な立法には何の問題もない。そして、トーニーが死去しても、この時代はまだトーニー・コートを構成していた判事の多くは、そのまま在任していたことを考えれば、事件が最高裁判所に提訴されれば、それら黒人法では無く、公民権法の方が違憲と判断される可能性が高かった。
そこで、その様な主張を事前に憲法レベルで明確に封じる狙いから、第14修正が制定されることになり、1866年6月13日に連邦議会により提案された。これは、合衆国憲法の修正条項としては、質量ともに空前の大改正であった。
重要な改正なので、各項ごとに逐次見ていきたい。
1 第1項
「合衆国内で生まれまたは合衆国に帰化し、かつ、合衆国の管轄に服する者は、合衆国の市民であり、かつ、その居住する州の市民である。いかなる州も、合衆国市民の特権または免除を制約する法律を制定し、または実施してはならない。いかなる州も、法の適正な過程によらずに、何人からもその生命、自由または財産を奪ってはならない。いかなる州も、その管轄内にある者に対し法の平等な保護を否定してはならない。」
第1項1文は、先に紹介した1866年公民権法の1条とほぼ同一の書き出しであり、公民権法を合憲にする意図で制定されたものであったことは明らかである。この市民権条項(Citizenship Clause)により、黒人はもともと市民であったことは無く、立法で市民権を与えることもできないとする、ドレッド・スコットに対するトーニ−判決が、明文により否定されたことになる。しかも、「いかなる州も」と州を主語にしたことにより、連邦憲法の規定でありながら、州にその遵守義務を課することを明確にした点で、この一点だけでも、合衆国憲法の歴史を大きく転換させる大改正といえる。同時に、このように州に義務を課するにとどめた点が、将来に禍根を残すことになった。この点については次稿以下に説明する。
「合衆国内で生まれ」という文言は、合衆国国内で生まれた子供は、ほとんど例外なく*[2]合衆国市民であることを意味すると解釈されてきた。このようなタイプの保証は「出生地主義」とか「領土の権利」とか呼ばれ、ヨーロッパやわが国を含むアジアの大半には存在しないイギリス慣習法の一部である。
同項2文は、適正手続条項(Due Process Clause)と呼ばれる。連邦議会が不用意に設けたこの条項によって、連邦最高裁判所に、連邦議会の制定した法律に対して違憲と判断するに当たっての最大の武器を与えてしまったのである。これについて、詳しくは本稿第5節の屠殺場事件で述べる。この轍を踏まないため、日本国憲法31条の文言では、「法律の定める手続きによらなければ(except according to
procedure established by law)」と述べて、慎重に適正手続き(Due Process of Law)という表現を避けている。しかし、近時の通説は、それでもそこに適正手続きを読む方向に進んでいる。
同項3文は、平等保護条項(Equal Protection Clause)である。合衆国憲法には、日本国憲法14条に相当する包括的な平等権条項が存在しておらず、例えば男女の平等は今日に到るも、連邦レベルでは憲法的保障の対象では無い*[3]。そうした状況下では、これがもっとも包括性を持つ規定であり、例えば一票の格差の禁止など、その後における多くの最高裁判所判決の基礎となった。
2 第2項
「下院議員は、各々の州の人口に比例して各州の間に配分される。各々の州の人口は、納税義務のないインディアンを除き、すべての者を算入する。但し、合衆国大統領および副大統領の選挙人の選出に際して、または、連邦下院議員、各州の執行部および司法部の官吏もしくは州の立法部の議員の選挙に際して、合衆国市民である州の男子住民が、反乱またはその他の犯罪に参加したこと以外の理由で、投票の権利を奪われ、またはかかる権利をなんらかの形で制約されている場合には、その州の下院議員の基礎数は、かかる男子市民の数がその州の年齢21歳以上の男子市民の総数に占める割合に比例して、減じられるものとする。」
この第2項は、合衆国憲法1条2節3項の改正である。すなわち、従来は、各州の下院議員数は、自由人の人口に奴隷の人口の5分の3を加えたものであった。その奴隷条項を削除したのである。単純に削除すると、しかし、南部諸州に配分される下院議員数が多くなり、連邦議会の多数を占めることになって、改革に逆行するおそれがある。そこで、南部諸州が黒人の参政権を制約している限り、下院議員数の増加は認めないという趣旨である。ただし、21歳以上の選挙権を否定した場合にアメリカ合衆国下院議員の数を減らすという規定は一度も実行されなかった。
3 第3項
「連邦議会の議員、合衆国の公務員、州議会の議員、または州の執行部もしくは司法部の官職にある者として、合衆国憲法を支持する旨の宣誓をしながら、その後合衆国に対する暴動または反乱に加わり、または合衆国の敵に援助もしくは便宜を与えた者は、連邦議会の上院および下院の議員、大統領および副大統領の選挙人、文官、武官を問わず合衆国または各州の官職に就くことはできない。但し、連邦議会は、各々の院の3 分の2 の投票によって、かかる資格障害を除去することができる。」
この第3項は、南部の反乱に参加した者の公民権喪失規定である。1898年に、連邦議会はこの制限の一般解除法を3分の2の多数で議決したので、以後、事実上空文となった。もっとも、反乱の指導者達は同法の例外として公民権は回復しなかった。そのため、南軍の最高指揮官リー(Robert E. Lee)将軍については1975年に、南部連合のディヴィス(Jefferson Davis)大統領については1978年に、それぞれ公民権制限回復の議決がなされている。したがって、憲法学的な意味はほとんどない規定である。
4 第4項
「法律により授権された合衆国の公の債務の効力は、暴動または反乱の鎮圧のための軍務に対する恩給および賜金の支払いのために負担された債務を含めて、これを争うことはできない。但し、合衆国およびいかなる州も、合衆国に対する暴動もしくは反乱を援助するために負担された債務もしくは義務につき、または奴隷の喪失もしくは解放を理由とする請求につき、これを引き受けまたは支払いを行ってはならない。かかる債務、義務または請求は、すべて違法かつ無効とされなければならない。」
第4項は、直接には奴隷解放という財産権の侵害に対して、国家補償を否定した規定である。また、南部連邦の負債を拒絶する意味もある。すなわち、南北戦争中に、いくつかの英国及びフランスの銀行は莫大な金銭を南部連合に、北軍と戦うための資金として貸し付けていたのであるが、本項が連邦政府がその支払いを拒絶する根拠規定である。
5 第5項
「連邦議会は、適切な立法により、この修正条項の規定を実施する権限を有する。」
憲法実施法条項である。これは、第13修正や第15修正にも同一の規定が存在する。これ以後、憲法修正条項の多くで同様の規定が設けられることになる。この第14修正の場合、1870年及び1871年に実施法(Enforcement Acts)と呼ばれる一連の法律が作られたことが重要である。すなわち第一のそれは、黒人の選挙権行使を守るためのものであり、第二のものは南部の選挙に対し、北部の監視を行うものであった。1871年に作られた第三のものはクー・クラックス・クラン法(Ku Klux Klan Act)と通称され、過激な白人が黒人の投票を妨害する行為を取り締まるものであった。それらの行為を連邦犯罪とすることにより、州が自ら解放奴隷を守らない場合には、軍が介入することを予定していた。なお、1866年公民権法は、そのままでは合憲性に疑問が持たれたことから、1870年実施法第18節で、再度同一内容が立法された。これらが引き起こした問題については、次稿に取り上げる予定である。
* * *
連邦議会は、この第14修正を、南部諸州に連邦議会に復帰するための踏み絵として突き付けたのである。これに対して、南部諸州は激しく抵抗し、その批准は第13修正に比べると大幅に難航した。
南部が期待を掛けたのは、奴隷制支持者であったジョンソン大統領が政局を支配すれば、このような屈辱的な修正案を受諾しなくとも済むのでは無いかということであった。結局、この修正条項は、次に述べるジョンソンの弾劾騒動が終結した後、南部諸州が批准するようになった結果、1868年7月9日になって、ようやく28州の批准を得て成立することになる。
(三) ジョンソン大統領の弾劾
南部諸州は、ジョンソンに期待を掛けるため、修正条項の批准を躊躇う態度をみせた。これに怒った議会共和党は、ついにジョンソンの弾劾に踏み切ることにした*[4]。ジョンソンに対する弾劾は1868年2月24日に下院を通過した*[5]。弾劾法廷は同年3月5日に上院で組織された。チェイスが、その弾劾法廷で裁判長を務めた*[6]。上院での弾劾決議採決では賛成35票・反対19票(賛成率64.8%)で、弾劾されるには票が1票足りなかったので、辛うじてジョンソンは大統領の座を保つことができた。しかし、この一連の騒動により議会とジョンソンの対立の溝は決定的なものになり、政権のレームダック化は免れなかった。1869年3月4日に任期満了に伴いジョンソンは退任した。
ここに到って、南部諸州も、第14修正を批准して連邦議会に復帰する道を選ばざるを得なくなったのである。すなわち、ルイジアナ州は1867年2月6日に一旦拒絶していたが、1868年7月9日に批准した。そして、サウスカロライナ州も1866年12月20日に一旦拒絶していたが、ルイジアナ州と同じ1868年7月9日に批准した。この批准により、同修正条項はこの日に発効したのである。
(四) 第15修正
議会は、第14修正2項により、間接的に強制することで黒人に選挙権を与えるように南部諸州を誘導したつもりであった。しかし、その程度の強制では、現実問題として、黒人に対する参政権の付与は遅々として進まなかった。そこで、端的に黒人に投票権を与えねばならない、という憲法修正を行うことが考えられた。次の様な条文である。
「第1項 合衆国またはいかなる州も、人種、肌の色、または前に隷属状態にあったことを理由として、合衆国市民の投票権を奪い、または制限してはならない。
第2項 連邦議会は、適切な立法により、この修正条項を実施する権限を有する。」
1869年2月26日に提案された。ジョンソンの弾劾騒動により抵抗の意欲を南部諸州が失っていたので、1870年2月3日と1年に満たない期間で発効した。
二 テキサス州対ホワイト事件
このTexas v. White*[7],
74 U.S. 700 (1869) という事件は、1867年に訴えが提起され、1869年に判決が下されたもので、決して時系列的な意味でチェイス・コートの最初の判例では無い。しかし、内容的には、南北戦争を色濃く反映したものなので、最初に紹介することとした。
(一) 事件の背景
この訴えが注目を集めたのは、その時点において、当時議会における共和党とジョンソン大統領が、南部の再建をめぐって激しく対立していたためである。
リンカーンが南北戦争を行った理論的根拠である、州は連邦から脱退する自由を持たないという主張からすれば、南部諸州は脱退を取りやめさえすれば、そのまま無条件で連邦議会に復帰できるはずである。ジョンソン大統領はリンカーンのこの立場を継承し、1865年夏に南部諸州に対し暫定的な知事を任命した上で、戦争の目的は、国家の統一を維持することであり、奴隷制が廃止された以上、南部再建は既に完了した、と宣言していた。しかし、議会共和党は、このジョンソンの主張を退け、南部諸州が選出した議員を受け入れ
なかった。
その翌年、この訴えの前年にあたる、1866年に北部だけを対象として行われた下院議員選挙において、共和党は前回選挙に比べて37議席を増やして計173議席となり、全議席の77.2%を保有するに到った。それに対して民主党は9議席を減らして47議席となり、議席は21.0%に低下していた。
1 南部再建法
この圧倒的多数を背景に、共和党急進派(Radical Republicans=これは彼ら自身がそう自称した)は、1867年に、南部再建法(Reconstruction Acts)と総称される一連の法律を、ジョンソンの拒否権を覆して成立させた*[8]。その最初の法律は、次の様に書き出している。
「合法的州政府ないし人命や財産に対する適切な保護が、反乱を起こしたバージニア州、ノースカロライナ州、サウスカロライナ州、ジョージア州、ミシシッピ州、アラバマ州、ルイジアナ州、フロリダ州、テキサス州及びアーカンソー州に現在存在しておらず、合衆国に忠実で共和主義に立つ州政府を合法的に確立することができるまでの間、そこでは平和と適切な秩序が強制されねばならない。
それ故に、アメリカ合衆国の上院と下院によって組織される議会は、上記反乱を起こした州は、以下に規定する軍管区に分割され、合衆国軍当局の管理に服するものとする。すなわちバージニア州は第1軍管区、ノースカロライナ州及びサウスカロライナ州は第2軍管区、ジョージア州、アラバマ州及びフロリダ州は第3管区。ミシシッピ州及びアーカンソー州は第4軍管区、ルイジアナ州及びテキサス州は第5軍管区をそれぞれ構成するものとする。」
この結果、南部諸州は連邦陸軍の軍事統治の下に置かれることになった。各軍管区の軍事指揮官は、その管内の各州の知事を任命した。
2 テキサス州保有の合衆国債
テキサス州は、1850年妥協の一環として1000万ドルの合衆国債を受け取っていた。その多くは徐々に売却されていたが、テキサス州が連邦からの離脱を宣言した1861年2月1日時点でもまだかなりの額が残存していた。テキサス州議会は北部と戦うための戦費を調達するため、これを売却することとした。当時のテキサス州法によれば、売却するすべての債券には、州知事の裏書きを要することとなっていた。しかし、連邦財務省が南部連合に属する州が売却した債券については承認を拒絶することが考えられ、その場合、売却価格が大幅に下がることが考えられた。そのため、その債券の出所を隠す目的で、テキサス州議会は知事の裏書きをしないことにした。
テキサス州内の連邦派は、合衆国債の売却前に、ニューヨーク・トリビューン紙に「大衆への警告(Caution to the Public)」と題する告示を掲載し、債券に南北戦争開始前のテキサス州知事ヒューストン*[9]の裏書きが無い限り、それは承認されないであろうという警告をおこなった。この警告により売却阻止を狙ったのであるが、それにも拘わらず、売却は実施され、136枚の債券(1枚あたりの額面金額は1000ドル)がホワイト(George W. White)とチルズ(John Chiles)の所有する証券会社によって購入された。この売買はおそらくは早期に実施されていたと見られるが、取引証明書は1865年1月12日になってようやく発行された。債券は、その間に数名の個人に転売され、そのうちの何名かは合衆国政府からの償還を受けていた。
戦争の終結と共に、ジョンソン大統領は暫定的知事としてハミルトン(Andrew J. Hamilton)を任命し、新しい州憲法を制定し、連邦に忠実な新政府を組織するように命じた。ハミルトンは州知事選挙を実施するよう命じ、その選挙の結果、新知事としてスロックモートン(James W. Throckmorton)が選出されていた。他方、南部再建法の規定により、第5軍管区の軍事指揮官であるシェリダン(Philip H. Sheridan)将軍は、ピーズ(Elisha M. Pease)を州知事に任命していた。このため、この時期に、テキサス州には同時に3人の州知事がいるという異常事態が発生した。
合衆国財務省は、この債券をめぐる情況を知ると、ホワイト及びチルズによって売却された債券に対する償還を拒否した。また、テキサス州暫定政府は、合衆国に対する反乱資金とするために債券は違法に売却されたと決定した。上記3名の知事は、この債券の所有権を主張し、債権の返還(既に償還を受けたものに対してその償還金額の返還)を求めて、合衆国憲法3条2節*[10]に基づいて、1867年2月15日に連邦最高裁判所に訴えを提起した。
共和党は、連邦最高裁判所が、上記南部再建法により、テキサスには合法的な政府は存在しないという理由から訴えを棄却することを期待した。
民主党は、それに対してテキサスに合法政府が存在していると判決されることを期待した。換言すれば、上記再建法が違憲と判決されことを期待したのである。
こうして、この訴訟は、南部再建法の合憲性が問題になるというきわめて政治的性格を帯びてしまったのである。
(二) 判決の内容
法廷意見は1869年4月12日に連邦最高裁判所長官チェイス自身によって述べられた。彼は、まず、州が訴えを提起する適格を備えていないという主張に対して大変な行数をつぎ込んで論じている。結論としては、3人の知事のいずれもが行政機能を果たしており、実際に州の行政部門を代表しているので、3人の知事のいずれによって訴えが提起されても、訴えは適法であるとした。そこで問題の判断に入る。
最初に取り上げたのは、南北戦争の法的性格である。チェイスは、連邦は、植民者達が現実的問題に直面した際の反応であったという。その最初の結果が連合規約であった。それは各州間の永続的連合として作られた。合衆国憲法が制定されたのは、この永続的関係を強化し、完全なものとするためであった。
「州の連合が純粋に人工的で任意の関係だったことはない。それは植民地間で生まれ、そして共通の起源を持ち、相互の共感や共通の原理、類似した利害と、地理的な関係から成長した。それは戦争の必要から確認され、強化され、連合規約により明確な形式と性格及び制裁権を与えられた。これらにより、連邦は厳粛に『永久的なもの』と宣言された。そして、この規約が国家としての緊喫の要求に応えるには不十分であることが判明したときに、合衆国憲法は『より完全な連邦を形成するために』定められた。これらの言葉によって、より明確により永続的な団結の理想を伝えることは困難である。」
このように、米国の起源について述べた後、チェイスはついでテキサスの連邦に対する関係を論じる。チェイスは、テキサスが単に他の州との契約によって連邦に加入した、という説(これが南部諸州が連邦から脱退した理論的根拠)を否定する。
「テキサスが合衆国の一部になった時、同州は永続的な関係に入ったのである。永続的連邦としてのすべての義務、そして連邦の一員としての共和政体の保障は、直ちにテキサスに与えられた。テキサスを連邦に加入させる法律は、契約以上の何かであった。そして、それは最終的なものであった。テキサスと他州の連合は、建国13州間の連合と同様に、完全で、永続的で、不可分のものであった。それを見直し、または失効させる方法は、革命によるか、あるいは諸州の同意による場合を除き、ありえない。」
リンカーンの下で閣僚を務めたチェイスらしく、ここではリンカーンの理念を見事に宣言している。このような理由から、テキサスは一度たりとも連邦の外に出たことは無く、したがって脱退を宣言したり、脱退を実現するために行われた行為はすべて存在せず、無効とした。テキサス人が合衆国市民として有する権利が損なわれていないのと同様に、州としての権利は損なわれてはいない、というのである。
「したがって、合衆国憲法の下における活動としては、脱退条例の制定議会における採択も、テキサス州の市民の大多数による批准も、そしてその実行を意図としてテキサス州議会が行ったすべての活動も、絶対に存在していない。それらは完全に法的手続きでは無かった。連邦の構成員としての州の義務は、そして米国市民としての市民の義務は、完全かつ不可侵に存在していた。州が州で無くなることは無く、市民が合衆国市民で無くなったことも無い。そうでなければ、州は外国にならねばならず、その市民は外国人にならねばならない。戦争は反乱の抑制のための戦争ではなく、征服のための戦争となってしまう。」
しかし、南北戦争前に存在した合衆国とテキサス政府間の関係から、第一に合衆国は反乱を鎮圧し、第二にテキサス州と連邦政府の間の適切な関係を再確立する必要があった。
「第一の行動のための権限は、暴動を抑制し、戦争を続けていく権力に見いだされる。第二の行動のための権限は、連邦内のすべての州に共和政体の政府を保障するという合衆国の義務から派生する。後者は、確かに、州政府が関与し、国家政府をその限界を超えて排除しようとする種の反乱の場合には、前者を補うものとして必要であろう。」
ここでチェイスが言っている共和政体を保障する義務というのは、合衆国憲法4条4節1文のことである。すなわち、
「合衆国は、この連邦内のすべての州に対し共和政体を保障し、侵略に対し各州を防衛する。」
この共和政体保障条項を根拠として、チェイスは、南部を軍事占領によって再建するという法律の合憲性を承認した。
そこで、今度は、訴訟の本体である、債券の所有権を有するのは誰か、という問題に移った。
「本件では、州政府の行為の有効・無効を一律に決定できる厳密に正確な定義を下す必要はない。おそらくは、その行為が平和と市民間における良好な秩序を維持するのに必要な程度の正確さであれば良いと言えるであろう。例えば、結婚や地域関係に対して制裁と保護を与え、相続過程を管理し、動産及び不動産に関する権利取得や譲渡を規制し、人や財産への損傷に対して救済する等の行為は、合法的な政府が行う場合には一般に有効とみなされるであろうが、しかし、事実上違法で、合衆国に対する反乱を促進し、助長するための行為、または市民の正当な権利をまさに侵害することを意図した行為、その他同様の性格を有するものは、違法で無効とみなされなければならない。」
こうして訴訟は、反対意見が1名あったものの、7対1でテキサス暫定政府側の勝利となり、法廷は債券の返還等を命じたのである。
三 ヘップバーン対グリスウォルド事件
Hepburn v. Griswold,
75 U.S. 603 (1870)は、チェイスの司法官としての良心を示している事件である。この事件で、チェイスは何と自らの過去の行政・立法活動を違憲と判断したのである。
この事件の意味を正確に理解するには、米国における通貨の歴史を理解する必要がある。そこで、最初にその概略を説明する。
(一) 合衆国通貨に関する憲法規定
合衆国憲法1条8節5項に、連邦議会の権限として、次の規定がある。
「貨幣を鋳造し、その価格および外国貨幣の価格を規制する権限、ならびに度量衝の基準を定める権限。」
合衆国の建国当時は、8進法のスペイン銀貨*[11]が標準的に使用されており、その他にイギリスのポンド紙幣、シリング銀貨、ペニー銅貨*[12]が使用されていた。
1784年、大陸会議の最高財務責任者であったモリス(Robert Morris)はジェファーソンやフランクリン、ハミルトンと貨幣制度について相談した結果10進法の貨幣制度導入が提起され、翌1785年の会議により合衆国の貨幣単位は1ドルであり、ドルは10進法に基づいて分割されるという決議が行われた。翌1786年には、1ドルの100分の1がセントと名づけられた。
1787年に合衆国憲法が成立し、合衆国が正式に誕生すると、連邦議会は1792年硬貨法(Coinage Act of 1792)を制定し、これにより、合衆国は正式に10進法の貨幣制度を採用した。同法の成立に伴い、1792年4月2日に国務省の内部組織として、造幣局(United States Mint)が誕生した。合衆国のもっとも最初期の政府機関である。造幣局の本部であるフィラデルフィア造幣局の建物は、合衆国憲法の下において最初に建設された連邦の建物でもあった。造幣局は1799年にいったん独立機関となり、その後1873年硬貨法により財務省の下部組織となった。
問題は、上記憲法条項が、「貨幣を鋳造する(coin money)」と述べている点にある。鋳造するという言葉が該当するのは硬貨であって、紙幣では無い。そこで、国が紙幣を発行するのは憲法違反では無いかという疑問が生じる。
合衆国憲法1条10節1項の規定も、この疑問を裏付ける。同項は次のように規定しているのである。
「州は、条約を締結し、同盟もしくは連合を形成し、船舶捕獲免許状を付与し、@貨幣を鋳造し、A信用証券を発行し、B金貨および銀貨以外のものを債務弁済の法定手段とし、私権剥奪法、事後法もしくは契約上の債権債務関係を害する法律を制定し、または貴族の称号を授与してはならない。」
この傍線部@は1条8節5項と同一の「貨幣の鋳造(coin money)」という表現である。そして、下線部Bでは州が「金貨及び銀貨以外のものを債務弁済の法定手段とする(make anything but
gold and silver coin a tender in payment of debts)」ことを禁じると表現していて、やはり硬貨だけを政府は使用できるように読める。同項は直接には州を名宛て人にしているが、同時に連邦の権限も制約していると考えられる。このように、連邦と州を共に拘束する規定を、同時権限(Concurrent powers)という。
このように、合衆国憲法が、紙幣を敵視したのには理由があった。すなわち、連合規約下の議会が非兌換紙幣を発行し、大きな問題を起こした前例があるためである。1775年に独立戦争が開始された以降、戦費を賄うために連合議会が発行した「コンチネンタル(Continental currency)」と呼ばれた紙幣がそれである。発行総額は最終的には241,552,780ドルに達した。この通貨は戦争中、価値の下落が激しく、最終的には通貨としては流通しなくなってしまった。その反省が法定通貨を硬貨に限定する硬貨条項を合衆国憲法に作らせたと考えることができる。なお、第一合衆国銀行の主要な任務の一つは、このコンチネンタル問題を解決することであった。
二つの傍線部の中間にある傍線部A「信用証券の発行(emit bills of credit)」という言葉も注目に値する。信用証券とは、政府によって発行され、お金として流通するように設計されている銀行券類似の書類をいう。北米の英国植民地では、金融危機に対処するために信用証券を発行し、繰り返しインフレを引き起こしたのである。憲法の起草者は、その事に鑑み、紙幣の発行を制限するばかりでなく、同様の機能を持つ信用証券の発行も、明示的に禁止したと考えられる。なお、建国前の信用証券は、民間債務のために法定通貨とみなされていなかったが、政府に対する税金等の債務の支払いには使用できた。
こうした憲法状況があったため、米国では、建国当初から、紙幣は、政府では無く、民間銀行が発行していた。第一及び第二合衆国銀行もマカラック事件に明らかなとおり紙幣の発行を行っていたが、合衆国銀行の法形式は、連邦政府が認可した民間銀行であった。
しかし、銀行の設置は、国ではなく、州が認可すべきだという意見が強かった。これが、二つの中央銀行に対する反対理由の一つであった。
では、州の銀行に対する認可は、どのような状況にあったのだろうか。
「州の認可は、最初は個々の申請に対して、特別法で与えられていたが、1838年のニューヨーク自由銀行法を皮切りに、一般法の下で認可されることになった。すなわち、誰でも一定の条件を満たせば銀行を開けることになったのである。こうして1830年代中葉に500行であった州法銀行は、1840年には900行に、1860年には1500行と増加したのである。」*[13]
この引用で、州法銀行と訳されているのは正確には州認可銀行(state chartered bank)の意味である。これらの銀行は、政府の発行した硬貨を準備した上で、それを引き当てに、自らの銀行名で紙幣を発行した。つまり兌換券である。兌換券であるが故に、債務の支払いのために州認可銀行が発行した紙幣を使うことは、合衆国憲法1条10節1項の「法定通貨(legal tender)」の要件を満たすことになる。
こうして、南北戦争までの間、紙幣は一貫して民間銀行によって発行されていた。
南北戦争が始まり、戦費が不足したことから、1861年7月及び8月、そして1862年2月に、合計6000万ドルの合衆国紙幣が発行され、要求があればそれで支払うことを認める法律が制定された*[14]。ついで、1862年2月25日、米国議会は「法定通貨法(Legal Tender Act)」を成立させた*[15]。同法は合衆国政府に1億5000万ドルを限度として、非兌換紙幣の発行を認め、硬貨に換えてこの紙幣を合衆国内における債務の支払いに使用することを承認するものだった。すなわち、先に言及した植民地時代の信用証券と違い、民間における債務の支払いにも、この合衆国紙幣を使用できるとした点に同法の特徴がある。この合衆国紙幣は、裏が緑色だったことから、グリーンバック(greenback)と呼ばれた。このグリーンバックの発行を担当したのは財務省であり、これらの法律を制定させる中心的役割を果たした人物は、当時財務長官を務めていたチェイスであった。そのため、グリーンバックの表面に掲げられている肖像は、責任者であるチェイスであった。また、裏面の中央上部に明確に「LEGAL TENDER」の文字がある。なお、南部連合の方は、戦争開始以来、非兌換紙幣の発行を行っていた。
翌1863年3月にも、政府に5億ドルの紙幣の発行を認める法律が制定された*[16]が、この法律で発行される紙幣については法定通貨とはされなかった。しかし、これについては、連邦財務省において硬貨との兌換に応じたから、実際には法定通貨だったことになる。これは南北戦争後の南部再建を支える資金となった。
(二) 国立銀行法
南北戦争中の1863年2月、連邦議会は1863年国立銀行法*[17]を制定している。この法律は、国家通貨法(National Currency Act)の通称で知られている。この法律は、州認可銀行によって紙幣が乱発されて経済が混乱している情況を解消する手段として、国全体に通用する単一の通貨を作り出すことを主たる目的としていた。この法律は中央銀行を設立し、その価値は合衆国財務省が支え、紙幣は合衆国自身が印刷する予定であった。銀行が発行可能な紙幣量は、銀行が準備している硬貨量に依って定まり、それは財務省に設置される通貨監督官(Comptroller of the
Currency)によって監視されることとなっていた。さらに、通貨の統制手段として、同法は、州や地方銀行の発行する紙幣に課税することを予定しており、最終的には連邦通貨以外のものは流通しないようにすることを目指していた。
同法に基づき、国立銀行協会(national banking
associations)により3億ドルの紙幣が発行された。この紙幣も合衆国紙幣と同様の効力を持つとされ、上述のようにその信用確保手段が講じられたが、法定通貨とは宣言されなかった。
しかし、ちょうど1年後に1864年国立銀行法*[18] が制定され、それに代わられている。新しい法律によれば、連邦による紙幣の印刷は行わない。それに代わって新法は、連邦政府の認可銀行(これを国立銀行national bankと呼ぶ)制度を設立した。州認可銀行の認可条件が正貨の準備額が1万ドル以上であったのに対し、国立銀行は5万ドルないし20万ドルを要求したので、銀行の健全性ははるかに向上した。新法下に、1,500以上の州認可銀行が国立銀行に転換した。
1866年7月に、同法はまた改正された。新法では、州認可銀行の発行する紙幣には10%の税金が1866年8月以降課せられることになった*[19]。かつて第2合衆国銀行をつぶすためにメリーランド州が採用したのと同じ手段を、今度は連邦が採用したのである*[20]。これにより、州認可銀行の紙幣は事実上流通から姿を消すことになった*[21]。
(三) 事件の背景
1860年6月20日ヘップバーン夫人(判決文にはa certain Mrs.
Hepburn とあり、名は明らかでは無い)はグリスウォルド(Henry Griswold)に対し、1862年2月20日に11,250ドルを支払う旨の約束手形を振り出した。
しかし、手形の期日が到来した時点においては、債務の支払いに正式に使用できる法定通貨を所持していなかったため、支払いができなかった。
手形期日の5日後に、議会が前述の法定通貨法を制定した。同法は、同法に基づき発行される紙幣は、合衆国の課する租税等支払いに使用できるだけで無く、民間における債務の支払いにも使用できる法定通貨であると定めていた。
そこで、ヘップバーン夫人は、満期後の利息も上乗せした12,720ドルを、このグリーンバック紙幣で支払おうとした。しかし、グリスウォルドはその受領を拒絶した。そこでヘップバーン夫人はルイビル衡平法裁判所(Louisville Chancery
Court)に訴えた。裁判所は、疑わしき場合は議会の判断に賛成すべきである、として支払いを有効と宣言した。
そこでグリスウォルドはケンタッキー州高等裁判所に控訴したところ、裁判所は原審判決を覆し、再審理を命じた。これに対し、ヘップバーン夫人は連邦最高裁判所に上告した。
(四) 判決の内容
この事件でも、チェイスは自ら判決を言い渡した。
彼はまず通貨とは硬貨(Coin)のことだと言う。すなわち、1862年の法定通貨法制定前における私人間の金銭の支払いを対象とする契約では、特に同意がない限り、硬貨による支払いを予定していると考えるべきである。なぜなら、紙幣や約束手形は、所有者が望めば硬貨に直ちに兌換できるもので無い限り、何か異常な条件下でない限り流通するものではないことは広く知られている法則である。同様に広く知られている法則は、紙幣は大量に発行されるに連れて、その交換価値は額面価格を下回ることである。法律で紙幣を法定通貨と定めたからと言って、この法則を変えることはできない。このことは合衆国における紙幣の歴史が端的に示している。
グリーンバック紙幣の場合、1862年3月に発行が開始されたが、1864年7月には紙幣2ドル85セントが金貨1ドルとされるまでに下がったが、その後持ち直して判決時点では紙幣1ドル20セントが金貨1ドルと交換されるようになっていた。したがって、交換価値が最低の時点では、1,000ドルの硬貨を受領する権利を有する者は、紙幣だと2,850ドルを支払われない限り、損失を蒙ることになる。
このように考えると、同法施行前の私人間の契約にまで遡って、同法が適用されるとしているのは、合憲性に問題がある。以下、チェイスは過去の同種事件の最高裁判所判例の検討を行っている。
他方、チェイスは合衆国憲法6条2節の「この憲法、およびこれに準拠して制定される合衆国の法律、ならびに合衆国の権限にもとづいて締結された、または将来締結されるすべての条約は、国の最高法規である。」という点を引用して、連邦議会の制定する法律は国の最高法規であるが、それはあくまでも憲法「に準拠して制定される」場合に限るのだとする。その上で、次の様に宣言する。
「事件が司法的判断を求めて提起され、判決が憲法と立法の規定にある矛盾の疑惑に依存する場合、その法律と憲法を比較することは、最高裁判所の明白な義務であり、公平な解釈の結果、前者と後者が調和できない場合には、立法よりも憲法に有効性を与えねばならない。」
この事件で問題になっているのは私権である。ここで、チェイスは合衆国憲法の二つの規定の解釈が問題になるという。第一は合衆国憲法1条8節18項が定める連邦議会の「必要かつ適切なすべての法律を制定する権限」の解釈である*[22]。第二は、第10修正の定める「この憲法が合衆国に委任していない権限または州に対して禁止していない権限は、各々の州または国民に留保される。」の解釈である。つまり、前者からすれば、議会は黙示的権限を含む広範な立法権を有するし、後者からすれば議会の権限は限定的である。ここで、チェイスは、マカラック対メリーランド州事件におけるマーシャルの判決を参照した上で、次の様に結論を下す。
「憲法中において明示的に授与されている『必要かつ適切なすべての法律を制定する権限』という言葉は、絶対的に必要では無いが、実際に適切であり、明白に合憲かつ正当な部門に適用され、それは禁止されているどころか、憲法の文言と精神に合致しているという法的文言と等価である。法律は実際に政府に信託された対象に効果を与えるように計算されているからである。」
グリーンバック紙幣の場合、その発行には戦争遂行の必要性が存在していた。合衆国紙幣を合憲とする説は、そこに憲法上の根拠を求めている。しかし、チェイスはその点に疑問を表明する。
「適切で、明白に妥当であり、憲法の精神と矛盾せず、また、その文言によって禁止されていない手段の中から、議会は無制限の選択を行う。しかし、いかなる権力も、そのような法が憲法の記述から導けない限り、立法権から黙示的に導くことで、それを実施する手段として法律を制定することはできない。」
ここでチェイスは、その時期に、グリーンバック以外にも合衆国紙幣が発行されており、また、国立銀行協会からの紙幣発行もあったが、それらはいずれも法定通貨とは宣言されなかったことを指摘する。それらの事実は、紙幣を法定通貨としなくとも、紙幣発行は可能であったことを示していると論じる。
「紙幣や信用証券を製造し、既存の債務の支払いのための法定通貨とすることは、決して適切かつ明白な適用では無く、あるいは議会に帰属するすべての明示的な権力を実施すべく計算されたものでは無く、憲法の精神と矛盾しており、憲法で禁止されている。」
こうして最終的な結論が導かれることになる。
「1862年及び1863年の法律の、合衆国紙幣を公的・私的を問わず、あらゆる債務の支払いに使用できる法定通貨とする規定は、本法の施行以前に契約された債務に適用される限度において、憲法に違反している。」
(五) その影響
この判決以降、米国は一貫して兌換紙幣制度をとり続ける。それが終わりを告げたのは、ニクソン・ショックの時である。すなわち、ニクソン大統領(当時)は、1971年8月15日に合衆国政府が、それまでの固定比率によるドル紙幣と金の兌換を停止すると発表した。これは、ドルと金の固定に依存していた当時の世界経済の枠組み(ブレトンウッズ体制という)を終わらせるという劇的な事件であった。
この判決の理論からすれば、ニクソン・ショックは違憲と言うことになる。連邦議会議員の中にもそのように主張する者がいるが、現在までの処、憲法訴訟は提起されていない。
四 ミリガン決定(Ex parte Milligan)
チェイスは、決してマーシャルやトーニーのような指導力のある長官では無かったので、彼が少数意見に留まった事件も数多い。以下、その様な判例を紹介したい。この事件では、5対4の僅差であるが、チェイスは少数意見となった。
この決定を紹介する狙いは、リンカーンが戦争遂行の過程で個々人の人権を無視した活動をしたのに対し、連邦最高裁判所がそれを阻止しようと努力したという点において、トーニー長官のメリーマン決定*[23]と好一対をなすものであり、また、この決定はメリーマン決定と違って連邦政府に無視されなかったからである。
(一) 事件の背景
米墨戦争の頃、奴隷制支持者達の間で「黄金の輪騎士団(Knights of the Golden
Circle)」という名の秘密結社が作られていた。これは、メキシコなども奴隷制国家に脱皮させることを目指すものであったらしい。南北戦争期間中、北部に居住するこの騎士団の団員が、リンカーンの支配に対して反対するのは当然である。騎士団のリーダーの一人、ミリガン(Lambdin Purdy
Milligan)は、オハイオ州ベルモント郡(Belmont County)の住人で、弁護士であるが、公然と南部連合に対する戦争に対する反対運動を行っていた。
ミリガンは1864年10月5日に連邦軍の命令により身柄を拘束され、24日に軍事法廷に引き出された。ミリガンは,その前年8月くらいから丹毒という病気にかかり、同年8月くらいからは寝たきりになっていた。ミリガンを拘束するに当たっては何の令状もなければ証拠も示されなかった。そして朝4時に彼を自宅で拘束するに当たり、彼は、抵抗すれば射殺するといわれ、また、自らの無罪を証明する義務があるといわれた。
ミリガンの罪状は、連邦政府に対する陰謀、連邦政府の反逆者への協力、反乱の扇動、不忠実な活動、戦争法の違反というものであり、特に他4名の者と共謀して連邦の武器を盗み、南軍捕虜に渡す事を計画していた、というものであった。彼らは12月10日に有罪判決を受け、絞首刑を宣告された。
宣告後、彼の足は動かない状態であるにも拘わらず、杖も無しで監獄まで歩くことを強いられた。彼が投獄された監獄は屠殺場のそばにある不潔な施設で、彼の足は完全に麻痺し、獄中で彼は発熱した。しかし、連邦は彼を冬の冷たい隙間風の吹き抜ける監房に閉じ込め、食事は不潔な床に投げ与えられた。
南北戦争終了後、死刑執行の2日前に、彼はアンドリュー・ジョンソン大統領により終身刑に減刑された。
1866年4月3日, ミリガンの弁護団(その構成員には、後に第20代大統領となったガーフィールド(James A. Garfield)や後にインディアナ州知事となったポーター(Albert G. Porter)などを含む)は、連邦最高裁判所に人身保護令状の発行を求めた。
(二) 決定の内容
法廷意見はディヴィス(David Davis)判事が書いている。
トーニー判事のメリーマン決定と異なり、この決定は、リンカーンの人身保護令状の停止は合憲とする。
人身保護令状の停止を合憲としたのは、時期的問題がある。すなわち、リンカーンが人身保護令状の停止命令を出したのは、1862年9月24日である。議会はこれを約6ヶ月遅れて1863年3月3日に人身保護令状停止法(Habeas Corpus Suspension Act)を制定して追認した。メリーマン事件は、この議会の追認以前を問題としていたのに対し、ミリガンの拘留はこの時点以降だったのである。
しかし、と法廷意見は言う。
「兵役に服しておらず、また通常裁判所が開廷し、円滑に機能している地域に居住する市民は、人身保護令状の特権が中断されている場合でも、通常裁判所以外の裁判所により有罪判決を受けたり刑を宣告されたりすることはできない。」
すなわち戦場から離れた地域において、民間人を軍法に基づき軍事法廷で裁判するのは、憲法の保障する裁判を受ける権利を侵害し、違憲であるという。この点が法定意見と少数意見の相違点である。
(三) その後
ミリガンは、彼の拘留を命じた司令官を相手取って50万ドルの損害賠償訴訟を提起した。ミリガンは勝訴したが、判決が認めた損害賠償金はわずか5ドルだった。この訴訟では、被告の弁護人に後に23代大統領となるハリソン(Benjamin Harrison)がなった。
五 屠殺場事件
このSlaughter-House Cases,
83 U.S. 36 (1873)は、第14修正そのものの憲法判断を行ったものとして有名である。この判決は、ルイジアナ州最大の都市であるニューオーリンズ市における屠殺場設置規制の合憲性を論点とした3件の同種事件を一括して審理判決したものであるため、通常の訴訟のように訴訟の両当事者名では無く、単に屠殺場事件と呼ばれている*[24]。この事件でも、チェイスは少数意見に留まった。
(一) 事件の背景
ニューオーリンズは、メキシコ湾にそそぐミシシッピ河の河口からは169kmほどをさかのぼった、ミシシッピ河が作り出したデルタ地帯に位置している。ミシシッピ河を基準にすれば、それほど上流であるにもかかわらず、地図を見れば明らかなとおり、ニューオーリンズは事実上メキシコ湾岸に位置しており、市域は海抜−2m〜+6 mという低地に展開されている。市の南部はミシシッピ川に、そして北部はポンチャートレイン湖(Lake Pontchartrain)と接しているという幅の狭い地域である。蛇行するミシシッピ川に沿う地形から「クレセントシティ (三日月の街)」との愛称がある。このように海岸沿いの低地にあるため、市創設以来、水害に悩まされて続けており、1インチ(約2.5cm)以上の降水量があれば、何時でも容易に水害が発生するといわれる。2005年のカトリーナ台風(Hurricane Katrina)で甚大な被害を受けたのはそのためである。
19世紀半ばのニューオーリンズは、屠殺業者の存在に悩まされた。市からミシシッピ河を1.5マイル遡った所に、約1000の屠殺業者がおり、年間30万頭以上の家畜を屠殺していた。業者は、動物の内臓、血液、糞、尿等を処理せずに放棄していた。この地域をニューオーリンズの水道用水路は通過していたので、動物の糞尿等は、当然ニューオーリンズの飲料水に混入していた。その結果、1832年〜1869年の間に、ニューオーリンズの街では11回もコレラが流行したという。
その対策として、ニューオーリンズ大陪審は屠殺場を南(つまり、市から見てミシシッピ河の下流)に移転することを勧告したが、屠殺場の多くは、当時のニューオーリンズ市の範囲外に所在していたため、大陪審の勧告は事実上無視された。
そこで、市は、州議会に屠殺場問題の改善を訴えた。その結果、1869年、ルイジアナ州議会は、「ニューオーリンズ市の健康を守るため、家畜陸揚げ場及び屠殺場の設置並びにクレセントシティ家畜陸揚げ及び屠殺場会社の設立に関する法律」*[25]を可決した。この法律は、屠殺場を担当する企業を設立し、そこで一元的に衛生的に屠殺を行わせるというものであった。この当時、すでにニューヨーク、サンフランシスコ、ボストン、ミルウォーキー及びフィラデルフィアでは、すべての屠殺業者を一箇所に集中させ、衛生管理を徹底することにより、家畜の糞尿によって水道水が汚染されることを防ぐようになっており、この法律はそれに倣ったものである。
同法は、クレセントシティ家畜陸揚げ及び屠殺場会社(以下「クレセントシティ社」という)に25年間の期間で、屠殺場事業を行う唯一かつ排他的な特許を与え、先に大陪審が勧告したように市の南部のミシシッピ川の対岸に屠殺場を設置させることとしている。クレセントシティ社は、それ自体としては屠殺業は行わず、屠殺業者に適切な料金で、屠殺を行うためのスペースを提供する会社である。同法はすべての家畜は同社の陸揚げ場で陸揚げしなければならず、かつその陸揚げした家畜は、その屠殺場で屠殺されなければならないと定めた。その違反に対しては罰則がある。また蒸気船会社の最大の費用と各家畜の陸揚げ費用は固定的に料金が定められている。既存の屠殺場はすべて強制的に閉鎖され、屠殺業者はクレセントシティ社の屠殺場の利用を強制されることになる。
同時に、同法は、クレセントシティ社に対し、いかなる屠殺業者にもスペースの提供をする義務を課し、違反した場合には厳しい罰則を定めて、同社が特定の業者だけを優遇することを禁止した。また、同社の敷地内にあるすべての家畜は、州知事によって任命された官吏によって検査される*[26]。
同法のこのような内容は、わが国の現行「と畜場法(昭和28年法律114号)」と基本的には同一である。このような制度によらない限り、屠殺場の存在による環境汚染を防止し、食肉の衛生を確保することはできない。
しかし、逆から言うと、それまで周辺環境を守るための費用を負担せず、動物の糞尿を垂れ流しにしてきた既存の屠殺業者からすれば、莫大な利潤を失うことを意味する。そこで、彼らはクレセントシティ社の独占を阻むために数多くの訴えを提起した。
しかし、下級裁判所では、すべての訴えでクレセントシティ社側が勝訴した。連邦最高裁判所に6件が上告された。
彼らの弁護士キャンベル(John A. Campbell)は、元連邦最高裁判所判事であったが、南部への忠誠から、辞職して弁護士となっていた人物である。彼は、第14修正の成立に反対していたが、それが成立したこの時点において、第14修正が、屠殺業者の既得権擁護の武器として使えるのでは無いかと考えついた。すなわち、その第1項は、狙いは南部の解放奴隷の自由を守ることにあるのは明らかであるが、文言としては解放奴隷に限定せず、一般的に「いかなる州も、合衆国市民の特権または免除を制約する法律を制定し、または実施してはならない。」となっているから、いかなる人種の屠殺業者であれ、その「労働を通じて自らの生活を維持する(sustain their lives
through labor)」権利というものは、第14修正1項で保障されている「特権または免除(privileges or immunities)」に該当すると論じたのである。
最高裁判所は、上告された6件のうち、類似性の高い3件について一括審理を行った。
(二) 判決の内容
上告されたのは1870年であったが、連邦最高裁判所判決は1873年4月14日に下った。この審理期間の長さが、この判決の特殊性を示している。この事件の評決は5対4の僅差であった。多数意見を代表してミラー(Samuel Freeman Miller)判事が判決を言い渡した。
実を言うと、上記のように屠殺業者は、公衆の犠牲の下に既得権益を守ろうとしている事件なので、結論として訴えを退けるべきだという点については判事の間で争いは無かった。論述の順序は前後するが、その点に関し、判決は次の様に述べている。
「本法は、単に独占を形成し忌むべき排他的な特権を、ニューオーリンズ社会の大半を構成する人びとの負担で、少数の人びとに与えるばかりで無く、市民に大きな功績ある階級、すなわち街の肉屋のすべてが、その営業を遂行する権利を、彼らが訓練されてきた事業を、彼ら自身とその家族を支えるための事業を奪うものであり、そして肉屋事業が制限無く行使されることが街の人びとの日常生活に必要であると主張している。
しかし、厳格に同法を検討した結果、これらの主張はほとんど正当化されない。」
その理由は、簡単に言えば、屠殺場の設置は州のポリス・パワー(Police power)*[27]に属し、連邦裁判所の管轄に属する問題では無い、というに尽きる。
判決が下されるのに長期を要した原因は、キャンベルの、第14修正は黒人の権利擁護以外にも使用できるという主張をどう取り扱うかにあった。すなわち、連邦最高裁判所の条文解釈の義務に関して、判事の間で激論になった。判決の冒頭近くに、その間の事情が忌憚なく書かれている。
「我々は、この義務が我々に課した大きな責任を隠蔽しない。結論に到達し、波及させる上で、これほどまでに、この国の人々に極めて興味深く、そして合衆国との関係、州の相互関係、州の市民に対する関係、そして市民と合衆国の関係の方向付けに重要である問は、現在のメンバーの公的生活の間に、この法廷にある事は無いだろう。我々は法廷で本格的審理のためにあらゆる機会を与えた。我々はそれを自由に議論し、相互に見解を交換した。我々は慎重な審議のために十分な時間をとった。今、我々はこれらの条文の構成に関して形成された判断を、我々の前に存在する事件の判決に必要な限度においてのみ発表するのであって、その限度を超える意図も無く、権利も無い。」*[28]
このように非常に持って回った前書きの後に、衝撃の見解が次々と表明される。
「次の所見は、本事例における弁護人の見解よりも重要である。すなわち、合衆国の市民権と州の市民権の間の区別が明確に認識され、確立されている。
人は州の市民にならずに合衆国の市民であることはないが、しかし、重要な要素は、前者を後者に移行させる必要があるかであろう。人は州市民となるためには、彼を市民とする州内に居住する必要があるが、しかし、合衆国市民となるのに必要なことは、彼が合衆国で生まれるか、合衆国に帰化しなければいけないということだけでなのである。
したがって、合衆国市民権と、そして州市民権が存在しており、それらは互いに異なっているが、その違いは個々人の特性や状況に依存していることは、極めて明らかである。」
その上で、裁判所は、憲法第14修正の「特権または免除」条項は、「合衆国市民の特権または免除(privileges or
immunities of citizens of the United States)」と定めているから、合衆国市民の権利にのみに影響を与え、州の市民権には関わりが無いと判示した。したがって、肉屋の第14修正の権利が侵害されたというキャンベルの主張は退けた。しかし、それで議論が終わったのではなかった。それで終えたのでは、キャンベルの提起した、第14修正は黒人保護以外にも使用できるという論点に対する答えが出て来ない。そこで、強引に次の様に論じる。
「控訴審において控訴人は、ただ合衆国市民の特権及び免除についてのみ主張し、州市民の同種のものについては述べていないが、我々は、この修正条項の同じ項の次の文が示しているこの区別及び明白な認識は、この議論において大いなる重要性を持つと考える。しかしながら、原告の有利に考えると、議論は、この条項で保障されている市民権は同一であり、特権と免除も同一と主張していると全面的に仮定する。」
すなわち、「特権または免除」条項に次にある適正手続条項、すなわち「いかなる州も、法の適正な過程によらずに、何人からもその生命、自由または財産を奪ってはならない。」という文に彼らは注目したのである。
当時、裁判所では、適正手続については、実体的(substantive)にではなく手続き的(procedural)なものと捉えていた。唯一の例外は、ドレッド・スコット判決でトーニーが、第5修正の適正手続条項の解釈で示したものであった*[29]。第14修正でも、トーニーが述べたのと同じように、実体的な解釈は可能だろうか。これが冒頭に述べられた激論の正体である。
多数意見は、それを肯定的に捉えた。この結論を打ち出したことにより、その議論は、判決の結論にはまったく影響を与えなかったにも拘わらず、この判決は、重要な先例となったのである。それに対して反対意見は、それを否定的に捉えたという差である。
判事達の意見が鋭く対立したことは、判決に書かれている意見に見事にしめされている。 すなわち、多数意見はミラー判事が書き、これにクリフォード(Nathan Clifford)、ストロング(William Strong)、ハント(Ward Hunt)及びディヴィス(David Davis)の各判事が賛同した。
反対意見はフィールド(Stephen J. Field)判事が書き、チェイス、スウェイン(Noah H. Swayne)、ブラッドリー(Joseph P. Bradley)が賛同した。このうち、ブラッドリーとスウェインは、この反対意見にさらに補足意見を書いている。
(三) その後
この判決によって導入された、実体的デュー・プロセス論は、この後の最高裁判所の判決を、今日に至るまで支配することになる。さらに、この14修正を媒介として、本来連邦だけを名宛人にしている第1修正に始まる権利章典を、州を名宛人としても読むという技法を導入することで、連邦憲法裁判所におる人権保障の範囲を格段に拡大する道を開いた。その意味では、合衆国判例史上、最も重要な判例ということができる。
[おわりに]
リンカーンは、米国で最も偉大な大統領、少なくともその1人と言われることが多い。しかし、憲法という視点から見た場合、むしろ最悪の大統領というのが妥当であろう。
この当時はまだ、総力戦(Total War)という学術用語は誕生していなかったが、南北戦争は明らかに世界で最初の総力戦だった。最終的な動員兵力は北軍が156万人、南軍が90万人に達した。特に南軍の場合、それは南部の成人男子のほとんどすべてが動員されたことを意味している。その戦いの結果、両軍合わせて62万人もの死者を出し、これはアメリカがこれ以降、今日まで体験している戦役史上、最悪の死者数である。
米国憲法によれば、宣戦布告は議会の権限である(合衆国憲法1条8節11項)。しかし、リンカーンは、これは戦争ではなく、内乱であるとして、議会に諮ることなく軍を動員し、戦闘を行わせた。他方において、メリーマン決定やミリガン決定に見られるように、戦時下でもなければ認められる訳のない、法律に基づくことなき人権を侵害を平然と行った。その頂点に位置するのが本稿冒頭に言及した奴隷解放宣言である。
議会は、リンカーンの行ったこうした既存の憲法秩序の破壊行為を収拾するため、可能であれば立法で対応した。しかし、リンカーンの憲法秩序の破壊は極めて深刻なものであったため、それでは対応しきれず、第13修正に始まる一連の憲法改正を必要とした。それらの修正条項は、決して年月を掛けて慎重に検討された文言ではなかったために、屠殺場事件に見られるような、起草者のまったく予見しなかった新しい憲法秩序までも生み出してしまったのである。
チェイスは、リンカーンの良き支持者として、財務長官としては違憲の立法を敢えて行い、他方、連邦最高裁判所長官としては、その違憲性を明確に宣言するという勇気を見せたという点において、良き法曹であったと言えよう。同時に、屠殺場事件に見られるような、起草者の予想しない憲法解釈に反対する点に、良き政治家としての面も見せている。 チェイスは屠殺場判決から間もない1873年5月7日に、ニューヨークで現職のまま死亡した。
*[1] 同法の正式名称は、“An Act to protect all Persons in the United in their Civil
Rights, and furnish the Means of their Vindication”という。
*[2] 「ほとんど」という語を付したのは、例外が存在することが当然に予定されていたからである。合衆国内で生まれたにも拘わらず、例外として市民権が与えられなかったのは、米国原住民である。本修正が連邦議会において議論されている段階において、すでにこの文言に原住民は含まないことは予定されていた。なぜなら彼らはその種族の規範を維持しているが故に、外国大公使の子弟と同様に外国人だからである。
このことは、Elk v. Wilkins, 112
U.S. 94 (1884)事件において、問題となった。原住民であるエルク(John Elk)は、あるインディアン居留地(Indian reservation)で生まれたが、後にネブラスカ州の、居留地では無い地域に移住した。そのエルクが、1880年に行われた選挙で選挙人登録をしようとして拒否されたという事件である。連邦最高裁判所は7対2で、インディアン種族は合衆国内に居住しようとも、厳密に言えば外国であり、明確に異なる政治社会であるので、彼らは出生に伴う市民権を有しないとした。
原住民が連邦議会から合衆国市民権を与えられたのは、ずっと遅れて、1924年インディアン市民権法(Indian Citizenship Act of 1924)によってである。
なお、それ以外の外国人の場合には、米国で出生すれば、市民権が与えられる。このことは、連邦最高裁のUnited States v. Wong
Kim Ark, 169 U.S. 649 (1898)判決によりほぼ確立した。この事件は、米国内で出生した中国人の市民権が争われたものであった。
*[3] 連邦レベルでは、男女平等修正(ERA=Equal Rights Amendment)は、1923年に起草され、1972年に連邦議会で可決されたが、1982年までに成立に必要な全州の4分の3(50州のうち38州)の州議会の批准を得られず、不成立となった。これに対し、州レベルの憲法では、過半数の州が男女平等条項を持っている。
「大統領、副大統領および合衆国のすべての文官は、反逆罪、収賄罪その他の重大な罪または軽罪につき弾劾の訴追を受け、有罪の判決を受けたときは、その職を解かれる。」
*[6] 弾劾裁判所の設置は、上院の権限である。すなわち1条3節6項は次の様に定める。
「すべての弾劾を裁判する権限は、上院に専属する。この目的のために集会するときには、議員は、宣誓または宣誓に代る確約をしなければならない。合衆国大統領が弾劾裁判を受ける場合には、最高裁判所長官が裁判長となる。何人も、出席議員の3 分の2 の同意がなければ、有罪の判決を受けることはない。」
これにより、連邦最高裁判所長官が、弾劾裁判における裁判長になるのである。なお、「宣誓に代る確約」とは、宗教上の理由などから宣誓できない場合に、これに代えて行う宣誓同様の陳述を意味する。
*[7] 通常使用されている略称で意味がよく判らないが、正式な訴えの名称は次の様になる。
The State of Texas,
Compt., v. George W. White, John Chiles, John A. Hardenburg, Samuel Wolf,
George W. Stewart, the Branch of the Commercial Bank of Kentucky, Weston F.
Birch, Byron Murray, Jr., and Shaw
すなわち、訴えを提起したのはテキサス州暫定政府であり、訴えの対象になったのは、問題となったテキサス州の保有していた合衆国債券を保有しているすべてのものであるため、このように長い。
*[8] 南部再建法は、単一の法律では無く、南部再建を目的とする4つの一連の法律の総称である。成立日別に、個別にあげると次のとおりである。
@
1867年3月2日
An act to provide for the more efficient Government of the Rebel States(39th Congress, Sess. 2, ch. 153,
14 Stat. 428)
A
1867年3月23日 An
Act supplementary to an Act entitled "An Act to provide for the more
efficient Government of the Rebel States," passed March second, eighteen
hundred and sixty-seven, and to facilitate Restoration (40th Congress,
Session 1, chapter 5, 15 Stat. 2)
B
1867年7月19日 An
Act supplementary to an Act entitled "An Act to provide for the more
efficient Government of the Rebel States," passed on the second day of
March, eighteen hundred and sixty-seven, and the Act supplementary thereto,
passed on the twenty-third day of March, eighteen hundred and sixty-seven(40th Congress, Session 1,
Chapter 30, 15 Stat. 14)
C
1868年3月11日 An
Act supplementary to an act entitled "An act to provide for the more
efficient government of the rebel states," passed March second, eighteen
hundred and sixty-seven, and to facilitate restoration.(15 Stat. 25)
*[9] Samuel Houston:1793年 - 1863年 バージニア州で生まれ、テネシー州に移住する。1827年、テネシー州知事となる。その後、テキサスに移住し、テキサス総督となる。1836年サンジャシントの戦い(Battle of San Jacinto)で、ヒューストン率いる800名のテキサス軍は、サンタ・アナ率いる1600名のメキシコ軍を撃破し、テキサスの独立を勝ち取る。その後、初代および第3代テキサス共和国大統領を務め、テキサスが合衆国に加わった後は州選出上院議員となり、最後はテキサス州知事を務めた。しかし、テキサス州が合衆国を脱退すると、彼は南部連合への忠誠を拒否して知事を辞職し、ハンツビル(Huntsville Texas)に引退し、南北戦争中にそこで死去した。なお、テキサス州ヒューストン市は彼の名にちなんでいる。
「大使その他の外交使節および領事にかかわるすべての事件、ならびに州が当事者であるすべての事件については、最高裁判所は、第一審管轄権を有する。」
*[11] スペイン銀貨:16世紀以来数百年にわたり、ヨーロッパ中でターラー(Thaler)という銀貨が使われていた。Dollerは、この言葉の米国訛りの発音である。スペインは、メキシコで、当時の世界の産出量の大半を占めるほどの豊かな銀山を発見し、それを原料に大量の銀貨を製造した。額面は8レアルであるが、米国において1ドル銀貨として通用したことからスペインドルないしメキシコドルと呼ばれるようになった。これが、世界的に貿易決済手段に用いられた。すなわち、ヨーロッパ諸国ばかりでなく、中国など東アジア諸国にも大量に流入し流通し、当時の世界標準通貨となった。中国および日本ではメキシコを墨西哥と表記するため墨銀とも呼ばれ、外国から流入した洋銀の主流的位置を占めた。日本ではドルラル、ドロ銀などとも呼ばれた。今日ドルを示す略号として$が使用されるが、これはスペイン銀貨の頭文字に由来している。
An Act to authorize
the Issue of United states Notes, and for the redemption or Funding thereof,
and for Funding the Floating Debt of the United States.
*[19] この法律には、前注のような略称が無く、次のものが正式名称である。
That every national
banking association, State bank or State banking association shall pay a tax of
ten per centum on the amount of notes of any person, State bank, or State
banking association, used for circulation and paid out by them after the 1st
day of August, 1866.
*[21] この10%の課税が合憲か否かをめぐって争われたのが、Veazie Banks v. Fenno
75 U.S. 533 (1869) で、やはりチェイスが自ら多数意見を書いた重要判例である。しかし、内容的には、マカラック対メリーランド州事件と同様のものなので、本稿では紹介しない。
*[22] この条項は、一般に「必要かつ適切条項(Necessary and Proper
Clause )」と呼ばれる。ハミルトンが合衆国銀行の設立に際して主張し、第2稿で紹介したマカラック対メリーランド州事件でマーシャルが認めて以来、連邦政府が合衆国憲法に書かれていない権限を、法律に基づいて行使する場合の定番の根拠規定である。
@ The Butchers' Benevolent
Association of New Orleans v. The Crescent City Live-Stock Landing and
Slaughter-House Company
A Paul Esteben, L. Ruch, J. P.
Rouede, W. Maylie, S. Firmberg, B. Beaubay, William Fagan, J. D. Broderick, N.
Seibel, M. Lannes, J. Gitzinger, J. P. Aycock, D. Verges, The Live-Stock
Dealers' and Butchers' Association of New Orleans, and Charles Cavaroc v. The
State of Louisiana, ex rel. S. Belden, Attorney-General
B The Butchers' Benevolent
Association of New Orleans v. The Crescent City Live-Stock Landing and
Slaughter-House Company
An Act to Protect the
Health of the City of New Orleans, to Locate the Stock Landings and Slaughter
Houses, and to incorporate the Crescent City Livestock Landing and
Slaughter-House Company
*[27] ポリス・パワー:米国憲法でポリス・パワーとは、住民の一般的な福祉の向上、モラル、健康、安全のために、自州内での行動を規制し、秩序を強制する州の権限を意味する。合衆国憲法第10修正により、ポリス・パワーは連邦政府に委任されず、それぞれの州または人民に留保されている。すなわち、ポリス・パワーのすべてを州が行使できるのでは無く、いくつかは人民に留保されている。ポリス・パワーの行使は、法を制定し、あるいは物理的ないし強制や誘因等の形態を通じた法的サンクションを通じて、これらの法律に服従することを強制するという形で行われる。
ポリス・パワーの概念は、連邦裁判所により、連邦裁判所が州憲法の解釈権を持たないことを説明する論理として使用される。
連邦議会は憲法が認めた限定された権限を持っているに過ぎないので、連邦政府は州政府と違って一般的なポリス・パワーを有していない。ただし、連邦政府の財産と軍事に関しては例外であり、また1887年州際通商法によって広範なポリス・パワーを付与された。