憲法革命前後
−ヒューズ第11代長官の時代−
甲斐素直
[はじめに]
タフト(William Howard Taft)は、1930年2月3日に、健康状態の悪化を理由に連邦最高裁判所長官を辞職した。その5週間後、3月8日に死去した。わずかの違いではあるが、現職のまま死去しなかったのは、第3代長官エルスワースが病気で辞任して以来、はじめてのことであった。
後任として、1930年2月13日に第11代連邦最高裁判所長官の地位に就いたのは、ヒューズ(Charles Evans Hughes, 1862 - 1948)である。
彼は、1884年にコロンビア大学ロースクールを卒業し、弁護士を開業する。その傍ら、コーネル大学ロースクール教授(1891-1893)やニューヨーク大学ロースクール講師(1893-1900)をつとめていた。ニューヨーク大学ロースクール時代の教え子にウィルスン(Woodrow Wilson)がいたのは有名なエピソードである。優れた弁護士活動の結果、1907年にはニューヨーク州弁護士会の会長に就任している。
公的経歴は、その1907年にニューヨーク州知事に、共和党から当選したことに始まる。1910年に連邦最高裁判所陪席判事に、大統領時代のタフトによって任命されている。しかし、1916年に、共和党の大統領候補となるため、最高裁判事を辞職する。これはウィルスン大統領の二期目にあたる選挙である。ヒューズは、ルーズベルト元大統領の進歩党(Progressive Party)の支援も受けたので、元教え子のウィルスンとの公認争いは激戦となったが、結局は惜敗している。その後は大統領選挙に出馬しようとはせず、弁護士を務めていた
しかし、1921年にハーディング(Warren G. Harding)大統領の依頼で、国務長官に就任する。これは、1921年11月に開かれたワシントン軍縮会議(Washington Disarmament Conference)で、米国の主席代表を務めるためであった。
第一次世界大戦が終結した後、戦勝国となった連合国側は、どこも海軍力(特に戦艦)の増強を進めたが、そうした軍備拡張に伴う経済負担は各国の国家予算を圧迫した。例えば、日本の場合、八八艦隊計画(戦艦8隻と巡洋戦艦8隻を根幹とする艦隊整備計画)を推進していたが、当時の日本の歳出総額が15億円であったのに対し、仮にこの艦隊がすべて建艦できた場合には、その年間維持費だけで6億円と、総歳出の3分の1以上をつぎ込む必要があるという、財政的には不可能に近い軍拡計画であった。
同じような状況は、どの国にも存在していた。そこで、ハーディング大統領の提案で開催されたのがこの会議で、無用の軍拡競争を避けるため、第1次大戦の戦勝5ヶ国が、同時に軍縮を行うこととしたのである。会議の結果、1922年に締結された海軍軍縮条約により、条約は建造中の艦船を全て廃艦とした上で、米・英・日・仏及び伊の保有艦の総排水量比率を5:5:3:1.75:1.75と定めた。
ヒューズの、この主席代表以外の国務長官としての主要業績には、1916年以来、米国の占領下にあったドミニカ共和国の独立を認めた(1922年)ことがある。
ヒューズはハーディングが死亡した後は、副大統領から昇格したクーリッジ(Calvin Coolidge)大統領の下でも国務長官を務めたが、クーリッジが再選した1928年に辞任している。同年、ハーグの国際司法裁判所判事(Court of International Justice)に就任する。
フーバー(Herbert Hoover)大統領がヒューズを連邦最高裁判所長官に任命したことは、彼の、このような法曹としての履歴を見れば不思議ではないが、実際には強い反対に直面した。一方において、ヒューズは弁護士時代に大企業の代理人を務めることが多かったために進歩派からの反対があり、他方、進歩党の支援を受け、思想的にはニューリベラルに属するところから、保守派からの反対も強かった。しかし、上院は52対26の多数で、彼の任命を承認したのである。
一 憲法革命とは
(一) 大恐慌(The Great Depression)
第一次世界大戦後、1920年代の米国は先に紹介したとおり、空前の経済的好況を手に入れた。その結果発生したバブルから、ダウ平均株価は5年間で5倍に高騰し、1929年9月3日には、ダウ平均株価は381ドル17セントと史上最高の価格を記録した。市場はこの後、様々な理由から調整相場的な様相を示した。
しかし、1929年10月23日木曜日、理由は全く判らないが、突然売り注文が殺到し、株式価格は暴落した。
「午前11時ごろ、いきなりボストン、ブリッジポート、メンフィス、タルサ、フレズノなど全国の遠い場所から大規模な売り注文が入った。主要銘柄の株価は勢いよく下がりだした。それから一時間、主要指標は20%下落し、投機銘柄の指標のようなRCAは35%以上も下がった。さらに泣きっ面にハチで、嵐によって通信網がかく乱され、電話は混み合ってつながらず、大勢の投資家が証券会社に注文を通せなくなった。」[1]
この日だけで1,289万4,650株が売りに出されてしまった。これが暗黒の木曜日(Black Thursday)と呼ばれる事件である。
その週末に、全米の新聞が暴落を大々的に報じたため、翌週の28日月曜日にはさらに大幅な下落が起こった。
「この日の終わりには900万株が売買されて、ダウは40ポイント、ほぼ14%下がった。一日の下げ幅としては歴史上最大で、アメリカ株の価値の140億ドル分が消え失せた。」[2]
この日は、暗黒の月曜日(Black Monday)といわれる。投資家はパニックに陥り、翌火曜日になると株の損失を埋めるため、様々な地域・分野から資金を引き上げ始めた。これにより、銀行倒産が連続し、米国の金融システムが停止してしまった。この日は悲劇の火曜日(Tragedy Tuesday)と呼ばれる。
こうした大恐慌に対し、1929年11月13日、フーバー大統領はアダム・スミスの古典経済学の理論に従い、神の見えざる手が自由に働くよう、政府の活動を可能な限り縮小するとともに、前年に成立したばかりの1928年所得税法(Revenue Act of 1928)よりも、所得税を一律1%(160百万ドル)削減する減税法案を議会に提出した。議会は、それを速やかに、その年の内に承認した[3]。
他方、1920年代においては、世界的には貿易の自由化が叫ばれていたが、米国内ではむしろ農産物を中心とする国内産業を外国産品から守るために、関税を高めるべきだという議論が盛り上がった。そこで、大恐慌前の1929年4月頃、ホーリー(Willis C. Hawley)下院議員は、関税法引き上げ法案を議会に提案し、下院は5月28日に可決した。スムート(Reed Smoot)上院議員もこれに協力し、1930年6月14日に法案は議会を通過し、フーバーもこれにサインした。このスムート・ホーリー法(Tariff Act of 1930=Smoot-Hawley Tariff Act)のために、米国の平均関税率は40%前後まで引き上げられた[4]。
これにより、米国の輸入は抑えられたので、海外へのドルの流出は止まった。これに対し、大暴落とは関わりなく、第1次大戦後、世界の工場となっていた米国には、金本位制の下における貿易の結果、大量の金(Gold)が流入し続けており、この当時においては、世界の通貨準備としての金の40%は米国に集中し、また、フランス中央銀行にも少なからぬ金が集中する結果となっていた。
欧州各国は、金本位制を維持するためには、国内に一定量の金を確保する必要があった。
ここに、FRB(アメリカ連邦準備制度理事会)とフランス中央銀行の金融政策のミスが重なった。普通であれば、国際市場でドルが買われれば、ドルの為替レートが強くなる。しかし、FRBは、その非中央集権型の構造から発生する内部対立から、無策であった。また、フランス中央銀行は、むしろ金が集まることを歓迎した。
このため、金の流出に苦しんだ各国は、自国からの金の流出を抑えるために、自国の国内景気とは無関係に、貸し出し金利を引き上げざるを得なくなった。こうして、各国の国内景気も、米国に歩調をそろえて悪化することとなり、本来であれば、米国の国内的な恐慌に過ぎなかったものが、世界恐慌へと発展していった。
1931年9月、金の流出に耐えきれなくなったイングランド銀行が、金本位制を放棄した。それをきっかけに英連邦諸国が金本位制を放棄し、さらに連鎖的に北欧諸国など、英国と緊密な経済関係にある国々による金本位制の放棄が続いた。
これにパニックを起こした人々が、米国が金本位制を放棄することを恐れて、一斉に持つドルを金に兌換し始めた。こうして米国からの金の流出が始まった。
「金の流出は、春にシカゴで始まった銀行倒産の波にさらわれかけていたアメリカの銀行制度にとって、とりわけ重大な局面で生じた。〈中略〉英国の金本位制離脱からわずか1ヶ月で、アメリカでは522の銀行が破産した。年末には預金総額17億ドルに上る2294行、10行に1行が事業を停止していた。[5]」
大恐慌が進捗すれば、税収が落ち込むのは当然である。それに対して、この当時の米国は、小さな政府であるため、政府歳出は、多くが人件費でしめられているので、減少しない。その結果、1930年になると、早くも財政収支は赤字に転じ、その後、上記のような理由から急速に悪化した。
やむを得ず、フーバーは、1932年になると増税をせざるを得ないことになった。この増税は、最低課税率は、それまで1.125%であったものを4.0%に上げ、10万ドル超の所得のある者に課せられる最高税率に至っては、25%であったものが、一挙に63%にはね上がるという大幅な増税であった[6]。
不況時に大幅増税を実施するのであるから、その結果が最悪のものになるのは当然で、不況は急速に深刻化していった。1933年には工場労働者の25%、そして農場労働者の37%が完全に職を失っていた。
1932年の大統領選挙は、現職の共和党フーバーと、民主党のルーズベルト(Franklin D. Roosevelt)が戦った。厳しい不況下で、何ら効果のある対策を打ち出せていない現職に対し、ルーズベルトは、具体的な内容は明らかにしないながら、新規まき直し(New Deal)を叫んだ結果、当時48あった州のうち、メイン、ニューハンプシャー、バーモント、コネチカット、ペンシルベニアの5州以外のすべての州で勝利し、全選挙人数の89%を獲得するという地滑り的大勝利を上げた。
また、同時に行われた上下両院選挙でも、民主党は上院では過半数を超し、下院でも大幅に勢力を伸ばした。つまり、ルーズベルトは三権のうち、二権の掌握に事実上成功したのである。
(二) ニューディール政策
1933年3月4日に大統領に就任すると、ルーズベルトは、それまでアメリカの歴代政権が取ってきた、市場への政府の介入も経済政策も限定的にとどめる古典的な自由主義的経済政策から、政府が市場経済に積極的に関与する政策へと、政策の歴史的転換を敢行した。内容的に言えば、これは3つのR、すなわちRelief(救済), Recovery(回復), Reform(改革)の実現を図った政策である。これにより、失業者や貧困層を救済し、元のレベルに経済を回復し、そして不況に対して金融システムが誤った対応をしないように改革しようとしたのである。
その主たる手段としては、大企業や銀行を援助し、農産物を買い上げて農民を保護し、また、テネシー渓谷開発公社(TVA)に代表される地域開発事業など公共投資の増加による私的資本の投資への刺激と失業対策を行い、労働者の生活を保障するとともに、景気の回復をはかろうとした。
ニューディール政策を支えた最も重要な法律として、全国産業復興法(National Industrial
Recovery Act of 1933=NIRA)がある。これは、一方で企業にカルテルや独占を許容することにより、各産業の生産量を規制して企業に適正な利潤を確保させ、公共事業計画を立案して過剰な労働力を吸収し、他方、労働者には団結権や団体交渉権を認め、最低賃金を確保させることにより、生産力や購買力の向上を目指そうとしたものである。その施行を管轄する行政機関として、全国復興庁 (National Recovery Administration=NRA)と、公共事業庁(Public Works
Administration=PWA) が設立された。それまで、日本で言う公共事業に当たるものは、陸軍工兵隊による軍事目的とされる事業しかなかったのに対し、この時初めて、米国で本来的意味の公共事業が行われたのである。
今ひとつの重要法律として、農業調整法(Agricultural
Adjustment Act=AAA)がある。これは、一方では農民に補助金を支払って作付け制限や過剰家畜の屠殺を行うことで農業生産を抑制し、これによって農産物価格を安定させ、農民の救済と購買力回復を目指したものである。その施行を管轄する行政機関として、農業調整庁(Agricultural
Adjustment Administration=AAA)が設立された。
これらの政策により、政府支出のGDPに占める割合は、4.5%(29?32年の平均)から9.5%(33?36年の平均)へと急拡大した。これは、今日の米国政府の占める40%内外の数値に比べれば、まだはるかに低いが、明らかに大きな政府への第一歩であった。
(三) 連邦最高裁判所の対応
連邦最高裁判所は、このニューディールという、米国史に残る大政治改革を前にして、それに賛同する進歩派(リベラル派)と、それに反対する保守派とが激しい対立を示した。
進歩派はブランダイス(Louis Brandeis)、ストーン(Harlan Fiske Stone)それにカードゾ(Benjamin Cardozo)の3判事で、マスコミは彼らを、デュマの小説をもじって、三銃士(Three Musketeers)と呼んだ。
それに対し、保守派はバトラー(Pierce Butler)、マクレイノルズ(James Clark McReynolds)、サザランド(George Sutherland)、ヴァン・デバンター(Willis Van Devanter)の4判事だったので、マスコミは彼らを、聖書の黙示録をもじって、四騎士(Four
Horsemen)と呼んだ[7]。
長官のヒューズとロバーツ(Owen J. Roberts)判事は、いわば中間派を形成した。すなわち、その時々の事件において、この二人がどちらの側に付くかで、判決は大きく左右に揺れることとなった。このため、この二人は振り子投票者(Swing Voter)と呼ばれた。もっとも二人の間にも若干の温度差があった。ヒューズは、進歩党から大統領に推薦されたことからも判るとおり、リベラル派である。これに対し、共和党員のロバーツは、どちらかといえば保守派だった。
ルーズベルト政権の初期においては、最高裁判所は三銃士と中間派が手を組んで、四騎士の反対を押し切ってニューディール立法を肯定した。しかし、1935年になると、四騎士が中間派と手を組んで、パナマ石油事件(Panama Refining Co. v. Ryan, 293 U.S. 388 (1935) )でニューディール政策の根幹とも言うべき全国産業復興法(National Industrial
Recovery Act=NIRA) の一部を違憲とし、さらにシェクター家禽社事件(Schechter Poultry
Corp. v. United States 295 U.S. 495 (1935) ) において、全国産業復興法全体について違憲とした。農業分野政策の根幹である農業調整法(Agricultural
Adjustment Act =AAA)についても、バトラー事件(United States v.
Butler, 297 U.S. 1 (1936))で違憲と判決した。また、四騎士はロバーツと手を組んで、違憲とされた全国産業復興法の炭鉱業分野における後継法を、カーター事件(Carter v. Carter Coal
Company, 298 U.S. 238 (1936))で違憲とするなど、徹底的に否定していった。また、例えばニューヨーク州における最低賃金法を、モアヘッド事件(Morehead v. New York,
298 U.S. 587 (1936))[8]で違憲とするなど、労働分野の立法でもその保守性を発揮した。
なお、三銃士といえども、絶対的にニューディール政策を支持していたわけではなく、上記シェクター事件に関しては、違憲判断に賛同している。
こうした連邦最高裁判所の一連の違憲判決により、ニューディール政策は機能不全の状態に陥ってしまった。これは、大統領および議会が大恐慌を克服しようと努力しているのを、四騎士達が妨げているとみられ、そのような姿勢はロックナー判決の延長線上にあるとみられた。この時期をロックナー時代(Lochner era)と呼ぶのは、これが理由である。
1936年の大統領選挙で、しかし、ルーズベルトは、一般投票で60.8%という空前の得票率を得、48州のうち46州を制するという地滑り的勝利を掴み、その結果、選挙人選挙ではわずか8票を逃しただけという、モンロー第5代大統領の二期目の選挙(事実上、共和党しか存在していなかった)という異常な例を除けば、空前の勝利を得た。
この国民の絶対的な人気を背景に、連邦最高裁判所の活動に対して、ルーズベルトは思い切った対策を考えた。それは司法手続改革法案(Judicial Procedures
Reform Bill of 1937)、またの名を裁判所抱き込み計画 (court-packing plan)と呼ばれるものである。
この法案の中心であり、最も物議を醸した規定は、70歳と6ヶ月以上の年齢の最高裁判事がいる場合には、最大6人まで、大統領は、別途、最高裁判所判事を任命する権限を有する、とするものである。
つまり、この法案は、9人の判事のこの時点における年齢が大きな要素となっていた。そこで、各判事の生年を紹介すると、四騎士は、バトラー1866年、マクレイノルズ1862年、サザランド1862年、ヴァン・デバンター1859年となっていた。したがって、ルーズベルトの第2期目の初年1937年という時点で切ると、四騎士は全員が70歳以上になる。
それに対し、三銃士は、ブランダイス1856年、ストーン1872年、カードゾ1870年であり、そして中間派はヒューズ1862年、ロバーツ 1875年となっているから、ブランダイスとヒューズは70歳を超えているが、他の判事は70歳未満である。つまり、この時点で70歳を超えている判事は6人おり、そのうち4人が四騎士だったのである。
したがって、この法案が成立すれば、大統領としては、四騎士を追い出すことができなくとも、ニューディールに好意的な判事を最高裁に送り込むことにより、四騎士の意見を相殺することが可能になり、最高裁判所の判決の流れを逆転できる。
ルーズベルトは、政策を国民に呼びかける手段として「炉端談話(Fireside chat)」と称するラジオ放送を好んで使っていた。この法案が公表されたのは1937年2月5日のことである。しかし、最高裁判事を含む一般国民がその内容を知ったのは、3月9日の炉端談話で、ルーズベルトはこの法案の必要性を国民に詳しく語りかけた時であった[9]。
当時、巷間で言われたことに依れば、この法案にもっとも衝撃を受けたのが、保守的中間派であったロバーツ判事である。その結果、彼は、放送後間もない3月29日に下されたウェストコーストホテル対パリッシュ(West Coast Hotel Co. v. Parrish)事件で、突如それまでの姿勢を替えた。彼の姿勢変更により、判決は5対4で、女性および年少者の最低賃金を定めたワシントン州法を合憲としたのである。これは、「アトキンス対児童病院事件(Adkins v. Children's
Hospital, 261 U.S. 525 (1923))」で確立されていた判例が、変更された瞬間であった[10]。この判決がロックナー時代の終わりを告げたとされるのは、このような事情からである。
彼のこの変心は、政治的圧力から最高裁判所の独立を救おうとの意図からと言われた。このため、「9人を救ったタイミングの良い転換(the switch in time
that saved nine)」と呼ばれる。
司法手続改革法案そのものは議会を通過しなかったが、このロバーツの転向をきっかけに、最高裁の判例の流れは大きく変わるのである。これ以前をオールド・コート、これ以降をニュー・コートと呼び、この事件を憲法革命(Constitutional
Revolution)と呼ぶほどの大変化が、この後の判例に起きることになる。
本稿においては、憲法革命の前後で、判例はどのように変化したのかを具体的に見ていきたい。
二 初期の重要判例
この時期には、当然のことながら、憲法革命には影響を受けなかった重要判例も数多く存在している。本節では、それらを紹介する。
(一) ニア対ミネソタ州事件
このNear v. Minnesota 283 U.S. 697 (1931)は、報道機関の報道の自由が問題になった歴史的に重要な判決である。ここで問題になったのは事前抑制禁止の法理である。
1 事件の内容
1927年に、ニア(Jay M. Near)は、ギルフォード(Howard A. Guilford)と共同で、ミネアポリスで「反カトリック、反ユダヤ、反黒人、反労働者(anti-Catholic, anti-Semitic, anti-black and anti-labor)」をうたい文句にした『サタディプレス(Saturday Press)』紙の刊行を開始した。
ヘネピン郡(Hennepin
County)検事であるオルソン(Floyd B. Olson)は、同紙の記事によって自分自身が誹謗されたとして、1925年公共迷惑防止法(the Public Nuisance Law of 1925)に基づき、ニアおよびとギルフォードに対して訴えを提起した。同法は、悪意や、スキャンダラスな記述や中傷が書かれている新聞を販売、配布、または公開することにより、「迷惑」を作りだした者に対して、永久的な差し止め命令を発することができるとしていた。このため、同法は別名ミネソタ言論統制法(Minnesota Gag Law)として知られている。オルソンは1927年9月24日から同年11月19日までの間に刊行された合計9記事で、彼及び記事中で名指しされたその他の公務員に対して、悪意のあるスキャンダラスな記事と中傷に専念した定期刊行物を発行し、回覧した結果、同法に違反していると申し立てた。
すなわち、記事中で、ニアは、次の様に述べていた。ユダヤ人のギャングがミネアポリス市内のギャンブル、酒の密造および強請行為を牛耳っており、それを取り締まるべき地位にいる官憲であるディヴィス(Charles G. Davis)とその部下達は、精力的にその義務を果たしているとは到底言えない。最大の責任者は警察署長であるブランスキル(Frank W. Brunskill)である。彼は、その義務を果たそうとは全くしないばかりか、ギャングと非合法な関係を持っており、その利益の分け前を得ている。そして、ヘネピン郡検事であるオルソンは、そうしたことを承知していながら、適切な措置を執っていない。市長のリーチ(George E. Leach)は非効率と職務放棄の廉で非難されている。そして、ヘネピン郡の1927年11月に大陪審を構成していた者の一人はギャングのシンパである。その他の者については、無能の故か、故意なのかはともかく、よく知られた犯罪行為、特にニアの共同発行人であるギルフォードがこうした記事が出た直後にギャングによって狙撃され、生死の境を彷徨っている事件について、その調査および起訴に失敗した。
また、少なくともサタディプレス紙に掲載された話のうち、顧客の服を損壊すると脅迫することで、地元のドライクリーニング店を脅迫していたバーネット(Big Mose Barnett) と呼ばれるギャングについては、記事が起訴につながった。
1927年11月22日に、ヘネピン郡地方裁判所のボールドウィン(Matthias Baldwin)判事は、被告がサタディプレスその他同種の記事を掲載する出版物を編集、出版、または回付させることを禁止した仮処分命令を発した。この仮処分命令は、被告に事前に告知聴聞を行う事なく、オルソンと裁判官の間での話し合いに基づいて発せられた。しかも、その禁止期間は、被告が、永久的にその新聞を公開禁止とするべきではないという理由を、裁判官に証明するための審理の日まで延長されることとなっていた。
聴聞は12月9日に開催された。ミネアポリスの次期市長ラティマー(Thomas Latimer)は、被告の活動は、合衆国憲法およびミネソタ州憲法によって保護されていたと主張し、訴えに異議を唱えた。しかし、ボールドウィン判事は異議を却下した。そこで、事件はミネソタ州最高裁判所に上告された。
州最高裁判所は、スキャンダラスな出版物は、多くの人びとの快適さと安らぎを危険にさらすものであり、密造酒販売所、売春宿、宝籤、犬や雑草と同様に「迷惑」を構成するものであるとした。また、スキャンダラスな記事は平和を乱し、攻撃を誘発する傾向があので、新聞は安全を危険にさらす可能性があるとした。
ミネソタ州憲法1条3項の下、報道の自由があるというニアとギルフォードの主張に対しては、州最高裁判所は、その権利は スキャンダラスな記事の公開を保護することを意図されたものではなく、正直、慎重かつ良心的な報道に対して保護を与えているのであって、人の誹謗中傷を言いふらす人のための盾になるものではなく、そうした人は、その虐待を甘受しなければならない、とした。
この後、事件は一端原審に差し戻され、再度州最高裁判所に上告されたが、ニアの主張は結局認められなかった。そこで、ニアは連邦最高裁判所に上告した。
2 判決の内容
連邦最高裁判所は、三銃士および中間派の5人対四騎士の5対4に分かれた。法廷意見はヒューズが執筆した。法廷意見は、報道の自由は歴史的に認められており、それに対する検閲は、わずかな例外を除き、違憲であるとした。
「以上の理由から、我々は、本法は、285条1項bが本件処分を認めている限度において、第14修正によって保障されている報道の自由を侵害するものと判断する。これに加え、我々は、特定の定期刊行物に掲載される記事の真実性の問題を考慮せずに、その運用と効果に基づいている本決定も違憲とする。この事件で、公務怠慢として名指しされた公務員が、無罪のように見えるということにより、本法が公表に対して制約を課していることの違憲性は解消されない。」
この判決は、このように、表現の自由を保障している第1修正ではなく、第14修正を根拠として示している点に特徴がある。いうまでもなく、第1修正の名宛て人は連邦であって州ではない。しかし、第14修正の適正手続き保障の内容として、第1修正をこの判決は読み込んだのである。この判決は、マスメディアに対する事前抑制は、憲法第1修正に違反するという事を明確にした最初の判例でもあった。これは、本来連邦のみを対象としていた第1修正から第10修正までの人権規定を、州法にも適用することにより、今日、権利章典と呼ばれるようになる、そのきっかけを作り出したという点において、きわめて重要な判決である。
但し、次のような例外を許容した点で、その保障を若干弱いものとした。
「仮に事前抑制が常に禁止されるものとみなされた場合、事前抑制であることに基づく免責という原則はあまりに広汎に認められと言う異議が申し立てられている。それは疑いもなく正しい。事前抑制に対する保護は絶対無制限ではありえない。しかし、その制限は例外的な場合にのみ認められる。『国家は、戦時においては、平和時と異なり、その戦争のための努力を妨害されることに耐えられないので、人が戦っている限り、いかなる法廷もあらゆる憲法上の権利が保護されると言うことはできない』(シェンク対合衆国事件)。何人も、政府が行う兵の募集業務に対する実際的妨害、輸送船の航行データや軍隊の数及び所在地の公開を抑制する事に疑問を呈することはないであろう。同様の理由により、良識の要求からわいせつな出版物に対して実施される場合がある。日常生活の安全性は、平穏な政府を暴力で転覆することを扇動する行為から保護される要がある。」
ヒューズは、この点を補足して次の様に述べている。
「報道の自由が悪用されるかもしれないという事実は、事前抑制禁止の保障を報道機関から除外して良いという理由にはならない。〈中略〉公務員が自らに関する話が公開されるか否かを決定できれば、より深刻な悪が生じる。」
これに対する四騎士の反対意見は、当然、第14修正に第1修正等を読み込むことはできない、というものである。
3 その後
ギルフォードは、この後も同種刊行物の発行を続けてミネアポリス市の犯罪の摘発を続けたが、1934年に再び狙撃されて死亡した。
この判決は、報道の自由に関する重要な先例として存在し続け、New York Times Co. v.
Sullivan, 376 U.S. 254 (1964) や、Hustler Magazine, Inc. v.
Falwell, 485 U.S. 46 (1988) 等に受け継がれていくことになる。また、わが国における北方ジャーナル事件などの判例も、この判決の延長線上にある。
(二) パウエル対アラバマ州事件
このPowell v. Alabama, 287 U.S. 45 (1932)事件は、スコッツボロ・ボーイズ事件と呼ばれ、小説「ものまね鳥を殺せば」(ピューリッツア賞受賞)[11]、映画「アラバマ物語」(アカデミー賞を主演賞等3部門で獲得)[12]、ミュージカル「ザ・スコッツボロ ボーイズ」[13]などの素材になった、米国では、きわめて有名な事件である。
1 事実の概要
1931年3月25日に、アラバマ州で、一緒に列車で旅をしていた9人の黒人少年が、同じ列車内にいた2人の白人女性(Ruby Bates及びVictoria Price)を強姦したとして起訴された。
当時のアラバマ州法では、黒人が白人女性を強姦すると死刑とされていた。裁判は、当初、アラバマ州スコッツボロ(Scottsboro)で行われた。裁判所の外には、リンチをしようと多数の白人が集合し、被告人を守るために118名もの警官が動員されるという異常な環境下の裁判であった。
4月6、7日に開催された裁判で、ノリス(Clarence Norris=事件当時19歳)及びウィームズ(Charlie Weems=16歳)に死刑判決が下った。7、8日の裁判で、パターソン(Haywood Patterson=18歳)にも死刑判決が下った。8、9日の裁判で、モントゴメリー(Olen Montgomery=17歳)、パウエル(Ozie Powell=16歳)、ロバースン(Willie Roberson=16歳)、ウィリアムズ(Eugene Williams=13歳)及びアンドリュー・ライト(Andrew Wright =19歳)にも死刑判決が下った。ロイ・ライト(Roy Wright=12歳)は、陪審員団の評決が死刑11、無期1と割れた結果、唯一死刑判決を免れた。
この、弁護士に相談する暇もない異常に早い審理、被告の若さ、そして極刑に、全米の世論はアラバマのでっち上げ事件と、激しく反応した。米国共産党の法律部門である国際労働防衛機関(International Labor Defense=I.L.D. )が支援に乗り出した。被告はアラバマ州最高裁判所に上告し、その判決が出るまでの間、死刑の執行は差し止められた。
翌1932年1月になって、被害者の一人、ベイツ(Ruby Bates)がボーイフレンドに宛てて書いた、彼女らは強姦されていないという手紙が公表された。
3月24日、アラバマ州最高裁判所は6対1の評決で、8人の死刑判決のうち、7人については上告を棄却して判決を確定させたが、13歳のウィリアムズ(Eugene Williams)については、少年であるとして差し戻した。死刑判決を確定させることに、ただ一人反対したのは長官のアンダーソン(John C. Anderson) であった。被告が、公平な陪審員団、公平な裁判、有効な弁護活動を拒否されたことが理由であった。
そこで、死刑判決となったパウエル等4人[14]が、その裁判は第14修正の保障する適正手続き条項に違反するとして、連邦最高裁判所に上告した。
1932年3月27日、連邦最高裁が、この事件を聴聞することに決定した。
2 判決の内容
判決は、1932年11月7日に言い渡された。7対2となった。多数意見を執筆したのはサザランド判事である。少数意見は、バトラー、マクレイノルズ両判事であった。
サザランドは、被告人は、判決によって有罪と宣告されるまでは、無罪と推定されているので、彼らが公正な裁判を受ける権利を否定されることがないよう、配意するのは裁判所の義務であるとする。サザランドは、アラバマ最高裁のアンダーソン長官が、次の点を指摘していたことを引用する。
「彼らはこの地の住人ではなく、二つの他の州に散らばっている自分の家族や友人と連絡をとる時間も機会もほとんど与えられず、また、評決直後に、又はその後ほどなく現れた弁護人の活動から判断して、裁判が適切に遅延させられていれば、彼らは有能な弁護人によって代理されていただろうことは明らかである。」
そして、英国と異なり、米国では建国以前から、諸邦の憲法で、裁判で弁護士を代理人として使うことは認められてきたと、数多くの例証を示しつつ述べる。その結果、第6修正も規定されたのである。
そして、次の様に述べる。
「被告人が無知で文盲であり、年少で、死刑が求刑されているという環境下にある場合、そして、収監され、軍の監視下に置かれており、彼の友人や家族は他州におり、連絡は困難であることに加え、彼らが生命の危機に立っていたことを考えると、彼らに適切な時間と、弁護人を確保する機会を与えることなく裁判が行われたという過ちは、適正手続の明白な否定であると考える。」
この記述は、この事件の描写としては極めて正しいものであるが、同時に後世に禍根を残すものとなった。なぜなら、ここに述べられているような特別の条件の存在が、弁護士依頼権を裁判所が認めねばならない場合の条件と考えられて、一人歩きしてしまったからである。
サザランドの、次の一般的な記述は、その結果、長いこと無視されてしまうのである。
「主張を聴取される権利は、多くの場合、弁護士に相談する権利を包括しない場合には、ほとんど役に立たないであろう。知的で教養のある者であっても、素人は法律学ではわずかな技能しか持っておらず、ときには全く持っていない。犯罪で起訴された場合、普通の人は、起訴が良いのか悪いのかを、自分自身のために決定することは不可能である。彼は証拠法に慣れていない。弁護士の助けを借りずには、彼は適切な保護も無しに裁判にかけられ、不当な証拠や、問題とは無関係、あるいは排除されるべき証拠によって、有罪判決を受けるであろう。彼は無罪であっても、自らを防御する技能と知識の両者を欠いているからである。彼は、自らに対する刑事手続のあらゆる段階で弁護士の導きの手を必要としている。それ無しには、例え無罪であっても、自らの無実を確立する方法を知らないので有罪判決を受ける危険に直面している。」
3 その後
裁判はアラバマ州の下級審に戻って再開された。
1933年1月、I.L.D.は無償で少年達のために弁護を引き受けて入れるよう弁護士のリーボウィッツ(Samuel Leibowitz)に依頼し、彼はそれを受諾した。
パターソンから裁判は行われた。裁判は、今度はアラバマ州ディケィター(Decatur)というクー・クラックス・クランの勢力の強い町で行われた。陪審員団は依然として白人だけだった。
4月6日、リーボウィッツは、被害者のベイツを被告側証人として喚問した。彼女は、友人のプライス(Victoria Price)と車内で行動を共にしたが、二人とも強姦はされていないと証言した。事件直後に二人を診察した医師も、二人に多数人から強姦された痕跡はなかったと証言した。他方、プライスはそれまでの証言を変えなかった。
4月9日、陪審員団は有罪として電気椅子による死刑を宣告した。
これに対し、判事は事態の沈静化のため、時間をおき、6月22日になって、審理無効を宣言し、再度の裁判を行うこととした。
11月20日、少年刑務所に移送された年少の二人を除く7人が裁判所に出廷した。三度、パターソンに対して、死刑が宣告された。そこで、パターソンはサーシオレーライを求めて連邦最高裁判所に上告した。
11月30日に、ノリスに対する再度の裁判も開始された。裁判は同様の経過をたどり、12月5日、陪審員団はノリスに対しても死刑を宣告した。そこで、ノリスも連邦最高裁判所に上告した。
パターソンからの上告を連邦最高裁が受理して下ったのが、Patterson v. Alabama,
294 U.S. 600 (1935)である。判決は1935年4月1日に下った。多数意見をヒューズ長官が執筆した。同日に連邦最高裁判所はノリスに関するNorris v. Alabama,
294 U.S. 587 (1935)判決も、同じくヒューズ長官が下した。
パターソン判決の原文を入手できなかったので、ノリス判決で代替すると、その内容は基本的には、パウエル判決と同一内容であるが、重要な点は、陪審員団の構成を問題にした点である。ヒューズは、いくらジョンソン郡の様なところでも、黒人の陪審員候補がいなかったわけではなく、教育委員会のメンバー、黒人校の管理責任者その他、資産所有者や住居保有者等もいたのに、ジャクソン郡における『良い黒人(good negroes)』として『健全な陪審員(sound judgment)』としての資格が欠如しているとして、すべてを欠格としたことを問題とした。そして、黒人が起訴された事件で、黒人を体系的に大陪審及び小陪審から排除したのは、第14修正の保障する平等保護条項に違反すると判決した。
この結果、パターソン事件は再びアラバマ州の下級審に戻された。1937年1月23日、4度目の判決において、パターソンは強姦罪を以て75年の刑を宣告された。南北戦争後、黒人が白人女性を強姦したとされながら、死刑が宣告されなかった最初のケースとなった。1937年6月にアラバマ州最高裁が下級審判決を承認し、ここに判決は確定した。
同年7月15日、ノリスには死刑判決が下った。同じく22日、アンドリュー・ライトには99年の刑が下った。 25日、ウィームズには105年の刑が下った。
しかし、この辺りから流れが変わり始める。
パウエルは、これより先、刑務所内で看守と争い負傷させ、彼自身は顔を撃たれて、脳に恒久的な障害を負った。彼に対しては、この看守襲撃に対する20年の刑期が宣告された。強姦罪については、司法取引の結果、州側が訴状から落としていた。パウエルは、1946年には刑務所から釈放された。
残り4人の被告、すなわちモントゴメリー、ロバースン、ウィリアムズ及びロイ・ライトについては、州側は強姦罪で訴追することを断念した。
10月、連邦最高裁判所は、パターソンの上告を棄却する。翌1938年6月、アラバマ州最高裁は、ノリス、アンディ・ライト及びウィームズの判決を確定する。しかし、7月に、アラバマ州知事グレーブズは、ノリスの刑を終身刑に減刑する。こうして、死刑判決はすべて消えたことになる。この結果、強姦罪で有罪となり、服役することになったのは4人だけとなった。
同年11月、ウィームズは仮釈放となる。
1944年1月、アンディ・ライトとノリスは仮釈放となる。しかし、同年9月、仮釈放条件に違反してアラバマ州をでたことから、仮釈放は取り消され、ノリスは10月には再び収監された。ライトは1946年10月になって収監された。
1946年6月、パウエルが仮釈放となる。
同年9月、ノリスは再び仮釈放となる。彼は再び保釈条件を無視してニューヨークに行き、そこで結婚して二人の子を設けた。1976年にニューヨークで発見されるが、全米有色人種地位向上協会[15]がアラバマ州知事ウォーレス[16]と交渉した結果、特赦が与えられた。彼は「The Last of the
Scottsboro Boys」という自伝を書き、1979年に出版した。1989年に死亡する。
1948年7月、パターソンは脱獄する。1950年、彼は「The Scottsboro Boy」と題する本を出版する。それがきっかけとなって、6月にFBIが彼をデトロイトで逮捕するが、ミシガン州知事は、彼をアラバマ州に移送する書類にサインするのを拒み、アラバマ州は彼の再収監を断念する[17]。
1950年6月、アンドリュー・ライトが再び仮釈放となる。彼はニューヨークに居住することを認められた。
こうして、死刑判決から全員が減刑され、さらに、その異常に長い刑期にも拘わらず、全員が早い時点で仮釈放されるという形で、この事件は一応幕を下ろしたのである[18]。
この事件により、刑事弁護を受ける権利及び適切な構成の陪審の裁判を受ける権利が確立した。この判決がこだまして、日本国憲法37条の文言となっている。
しかし、刑事弁護を受ける権利の真の拡充は、ウォーレン・コートにおけるGideon v. Wainwright、372 U.S. 335 (1963)判決まで待たねばならない。
三 憲法革命前夜
(一) パナマ石油精製会社対ライアン事件
1935年1月7日に判決が下された、このPanama Refining Co. v. Ryan, 293
U.S. 388 (1935) 事件(別名ホットオイル事件=Hot Oil case)は、連邦最高裁判所がルーズベルトのニューディール政策に対して一連の違憲判決を下す、その冒頭に位置しているという点に歴史的意義があるので、簡単に紹介する。
判例名にはパナマ石油事件だけが出ているが、正確には、Amazon Petroleum Co.
v. Ryanという事件との複合審理である。審理の対象となったのは、ニューディール政策の根幹とも言うべき全国産業復興法(NIRA)中の9条c項である。
1 事件の内容
1933年7月11日、ルーズベルトは大統領命令6199号「州際および国際貿易において、いずれかの州法ないし何らかの行政庁、委員会、係官その他正式な権限ある者により有効な規則または命令に基づき定められた限度を超える石油の生産品を輸送することの禁止令」を発した。
この大統領命令は、全国産業復興法9条c項を根拠としていた。同項は、上記大統領命令と同文の記述の後に、それに違反した場合には6か月以下の懲役または(及び)1000ドル以下の罰金を科することを定めていた。
要するに、国内需要を超えて過剰に生産された石油商品(これがホットオイルと呼ばれる)の州際及び国際取引を禁止したのである。これは、表向きは「密輸石油(contraband oil)」から国内産業を保護するために制定されたとしているが、実際には石油製品の価格下落を安定化するために、業界に官製カルテルを作らせるというものであった。
2 判決の内容
連邦最高裁判所は、カードゾ判事を唯一の例外として、他の判事の一致した判断で、同規定が、貿易等制限の権限を大統領に委任するに当たり、明確な定義をおいていなかった点が白紙委任にあたるとして違憲判決が下した。これに対しては、カードゾ判事だけは、規定の内容は十分に具体的であるとして、反対意見を書いた。
3 その後
ルーズベルト側は、これに対しては、1935年にコナリー・ホットオイル法(Connally Hot Oil Act
of 1935)を制定して、指摘された問題点を解消した上で、実質的に全国産業復興法第9項(c)を復活させた。同法は、当初は1937年6月16日に失効するとした時限立法であったが、結局法改正されて恒久法となった。
(二) シェクター家禽社対合衆国事件
1935年5月27日に下された、このA.L.A. Schechter Poultry Corp.
v. United States, 295 U.S. 495 (1935) は家禽産業に対する規制を、非委任の法則[19]及び連邦議会の通商条項に基づく権力の不適切な使用という理由に基づき、連邦最高裁判所が無効とした事件である。この事件では、連邦最高裁判所が、全員一致でニューディールの中核をなす全国産業復興法を違憲と判断した、という大事件である。
1 事実
ニューヨーク市は、生きた家禽に関する米国最大の市場で、合衆国全体の96%のシェアを有していた。家禽の4分の3は鉄道で市場に到達し、委託販売人または受取人によって取り扱われていた。委託販売人は荷主の代理人として取引の大半を行い、又、自らの名義で取引を行う。
シェクター家禽社(A.L.A. Schechter Poultry Corp.)は、鶏を屠殺し、鶏肉を小売商に販売するビジネスに従事していた。同社では、他州から船で市場に供給されていた生きた鶏を、市場における委託販売人から購入して自らの屠殺場に輸送した上で処理し、それを小売販売店に送って消費者の手に渡らせていた。そのような処理工程において、全国産業復興法3条に基づき大統領によって発された「ニューヨーク市内及び近郊の生きた家禽産業のための公正競争規則(以下「公正競争規則」という)」に従わなかったとして起訴されたのである。
申し立てられた違反は次のとおりだった。
@
従業員のための最低賃金と最長労働時間に関する規制を遵守しなかった。
A
顧客が特定の協同組合等から個々の鶏を選択することを可能にしなかった。
B
食用に適さない鶏を販売した。
C
地方自治体の検査規則を遵守せずに販売した。
D
検査規則において屠殺業者および販売業者としての免許を得ていなかった。
E
毎日の価格と販売量に関して虚偽の報告を行った。
これらの訴因の中でも最大の問題は、当然、食用に適さない鶏肉の販売および検査を経ていない鶏肉の販売である。
2 判決の内容
判決は全員一致で下された。ヒューズ長官が執筆した。それによると、大統領の発した「公正取引規則」は、憲法の定める権力分立制に違反し、行政府に対する立法権の委任であって許されないとし、また、全国産業復興法の規定は、通商条項の下で与えられている議会の権力を踰越していると判示した。
裁判所は、立法府が憲法に基づいて行使できる州際通商の直接的権限と、間接的な、したがって純然たる州法の権限である問題との区別を論じた。先に述べたように生きた家禽のほとんどは他州からニューヨークに送られるから、家禽の飼育と販売は州際通商問題と言える。しかし、その流れは、シェクター屠殺場が購入した段階で完全に止まる。それを買い手に販売する行為は州内の問題である。したがってシェクターに対する州際通商の効果は間接的であって、連邦政府の手は届かない、という論理である。
ヒューズは、連邦議会の権限を述べた憲法の規定を引用した上で、次の様に述べている。
「現在提示されている問題の側面は、パナマ石油精製会社事件の場合とは異なっている。その際には、法定禁止の対象を定義するという問題だった。〈中略〉全国産業復興法3条の下における『公正取引規則』に関してはより根本的な問題がある。
それは、この規則が対処すべき問題に対して、適切な定義があるのかという問題である。
同法で使用されている『公正な競争』とはどういう意味なのか? それは法律でカテゴリを確立し、それに従ってその範囲内で規則を制定しうることなのだろうか? そうではなくて、それは何であれ、法律が特定の貿易や産業のための規制を提案し、大統領が承認するかもしれないものは何でも含めることのできる便利な指定(一定の制限を受けるにせよ)なのではないのか、ないしは同法第1条で述べられているように、再建、是正および拡充という広い目的を達成できるように、大統領が、貿易や産業に対して賢明で慈悲深い規定を自ら処方できるように用いられるものなのでは無いのか?」
ここから、ヒューズは公正な競争という言葉について、明確な定義ができないかどうか様々に検討する。その上で次の様に述べる。
「以上を要約し、この点について結論を下すならば、復興法第3条は前例のない規定である。これは、いかなる貿易、産業や活動のための基準を一切提示していない。これは、適切な行政手続きによって決定された特定の事実状態に適用されるべき行動の規範を何ら定めていない。行動の規範を処方する代わりに、それらを処方するために規則の制定を認めている。その立法を行うために、第3条は何らの基準も設けておらず、別途第1条で述べられた再建、是正および拡充という一般目的の宣言があるだけである。その広範な宣言の範囲であれば、そして全国の貿易と産業の政治という性質上存在しているいくつかの制限はあるものの、大統領は事実上束縛されない。我々は、この規則制定権限の授権は、違憲である立法権の委任であると考える。」
3 その後
こうして、ニューヨークの一家禽屠殺業者が、病禽肉を販売したことを取り締まったという、信じられないような小さな事件で、全国産業復興法はあっさりととどめを刺され、制定後2年足らずで廃止されてしまうこととなる。
それでも議会は、以下に説明するように、同法に代わる様々な立法を行って、最高裁判所の違憲判断に抵抗を続けるのである。
(三) 合衆国対バトラー事件
この1936年1月6日に判決が下ったUnited States v. Butler, 297
U.S. 1 (1936)は、ニューディールの全国産業復興法と並ぶ柱であった1933年農業調整法(Agricultural Adjustment Act of
1933=AAA)が違憲判決を受けた事件である。
農業調整法は、主として綿花や煙草価格の暴落に苦しんでいた南部の農家を救うために、黄金時代と言えた1909年〜1914年の農産物価格を基準に、農産物価格標準(parity)を定めた。それを達成するためには余剰生産を排除しなければならないが、それを実現する手段として政府は農民と減反契約を締結した。農民は、契約の見返りとして減反をしなければ通常得られたであろう額の補助金を政府から得られたのである。その補助金の原資として、農産物の加工業者から加工税を徴収することとしていた。
1 事実の概要
この事件では、農業調整法第9条および第16条が問題となった。
第9条a項は、国家の経済的緊急事態であるために発生する臨時の費用にあてるため、以下に定める加工税(processing tax)を徴収することとし、農務長官(Secretary of
Agriculture)が、基本的農産物に関し、資金の貸与または支払いを行わなければならないと決定した場合には、長官は、その決定を公布するものとし、加工税を当該農産物に、その決定のあった市場年度[20]のはじめに遡って課するものとしていた。加工税は、その農産物が国内生産されたものか、輸入されたものかを問わず、国内において農産物の加工が行われた場合には、それに対して課され、徴収される。加工税は加工者が支払う。
また、b項は、加工税は、現時点における農産物の平均生産者価格と、公正交換価値の差に等しい税率となるように定めるものとするが、ただし、農務長官が、税額が余剰在庫の原因となり、あるいは農産物価格の暴落原因となると信じるに付き相当の理由がある時は、調査、告知及び聴聞の後、余剰在庫が蓄積及び農産物価格の暴落を防ぐように税額を再調整するものとする、としていた。
同じくc項では、農産物の公正交換価値とは、直接には農家が基準期間中に持っていたと同じ購買力を与えるような価格のことであり、農作物の公正交換価値及びその現時点における平均生産者価格は、農務長官が、農務省で利用可能な統計に基づき確定されるものとするとしていた。
同じく16条は、床税(floor tax)[21]は、加工税が課されることになった日付において加工が行われたとした場合に、農産物に支払い可能な額を考慮して、定められることとされていた。1933年7月14日に、大統領の承認を得て、農務長官は、彼が貸与ないし給付する金銭の支払いは、綿に関してなされるべきであると宣言し、その商品の市場年度は、1933年8月1日に開始したこととし、法律の定める条件に従って綿の加工税率及び床税率を算定し、確定した。
合衆国政府は、法9条及び16条に従い、綿糸会社であるフーザック・ミルズ社(Hoosac Mills Corp)に対し、綿の加工税及び床税を徴収する旨告知した。これに対し、ミルズ社はそれに応じられないと回答したため、合衆国政府は地方裁判所に訴えた。地方裁判所は、税金は有効なものであるとして、その支払いを命じた。ミルズ社の控訴に対し、高等裁判所は判決を逆転させた。そこで、合衆国政府は連邦最高裁判所に上告した。
2 判決の内容
連邦最高裁判所では、四騎士に中間派が多数意見を構成し、それに対し、三銃士が少数意見となった。判決文は、中間派のロバーツ判事が書いた。
彼はまず、同法が定める租税制度について、簡単に紹介する。
「税は規制の計画に不可欠な役割を果たしている。農業調整管理者が述べたように、それは 『法の精神』であり、パリティ価格と農家の購買力という二つのことを同時に達成するために意図され手段である。農務長官が貸与または給付が必要であると判断した場合には、税は自動的に農産物に対して発動する。貸与または給付をやめる時には、自動的に消滅し、中止となる。税率は、作物在庫の減少と価格の引き上げをもたらすことを目的に決定されている。それは現在の平均農場価格と公正な交換価値の間の差と等しくすることである。余剰在庫の蓄積を防ぐことができるようにそれは変更することができる。」
この税制に対する様々な議論を紹介した上で、次の様に結論を下す。
「我々は、本法は農業生産を規制している立法であると結論する。税はその様な規制の単なる偶発事である。」
すなわち、裁判所は、同法に言う「税」は真の意味の税ではない、とした。なぜなら農家への支払いは違法かつ威圧的な契約に結合され、収益金は所定の条件を遵守する農民の利益のために充てられているからである。また、政府の、計画された作物の削減に対して農家へ補助金を支払うことは、国家政府の権限を踰越していると判示した。
ロバーツは言う。
「同法は国家に予定された権限を逸脱している。これは、農業生産を規制し、管理しようとする法定計画であり、それは、連邦政府に委任された権限を踰越している。税、ないし調達した資金の処分及びその支払いのための指示は、計画の一部に過ぎない。それはしかし、違憲な目的のための手段である。」
3 その後
連邦議会は1938年2月16日に、1938年農業調整法(The Agricultural Adjustment Act
of 1938)を制定した。これは、違憲とされた1933年法の問題箇所を修正したものである。すなわち、この法律では、減反のための資金は、連邦政府によって提供されるのであって、加工税や床税ではない点を除いて、以前の農業調整法の規定を復活させている。
(四) アシュワンダー対テネシー渓谷開発公社事件
この1936年2月17日に下されたAshwander v. Tennessee Valley
Authority, 297 U.S. 288 (1936)事件は、ニューディール政策の今ひとつの大きな柱であったテネシー渓谷開発公社(Tennessee Valley
Authority=TVA)の合憲性が問題となったものであるが、憲法革命前としては珍しく、合憲判決を受けた事件である。
しかし、この判決の重要性は、そこにあるのではなく、ブランダイス判事の補足意見中で、ブランダイスルールが明確に述べられたことにある。すなわち、米国における憲法訴訟史の中でも、憲法判断回避準則を明確に確定した、という点において、極めて重要な判決である。
1 テネシー渓谷開発公社とは
テネシー川(Tennessee River)は、テネシー州東部でホルストン川とフレンチ・ブロード川が合流した後の名称で、そこから川は、南西方向に流れてアラバマ州に入り、西にながれたのち北に向かってふたたびテネシー州に入り、ケンタッキー州パデューカ(Paducah)付近でオハイオ川に合流する、オハイオ川最大の支流である。そして、そのオハイオ川は最終的にはミシシッピ川に合流する。
この当時のテネシー川は、洪水が頻繁に発生し、また水深の差も大きく、河川交通には適していなかった。それを抜本的に改造したのが、テネシー渓谷開発計画である。その中心となったTVAの活動内容は、その設立根拠法の、ひどく長い正式名称に端的に示されている。すなわち「テネシー川の航行を改善し、治水、森林再生とテネシー川流域における限界耕作地の適切な使用、同渓谷の農業や工業の発展を提供し、国家防衛を提供し、アラバマ州マッスルショールズおよびその近隣地における政府財産を管理するための公社を設立するための法律」というものである[22]。
アラバマ電力会社(The Alabama Power Company)は、アラバマ州法によって設立された、発電事業及び同州内の顧客への送電を行う会社である。
1934年1月4日に、テネシー渓谷開発公社は、アラバマ電力会社と(1)同社の所有する送電線、変電所及びそれに関わる資産を購入することとし100万ドルを支払うこと、(2)同電力会社から一定の不動産を購入し、その代価として15万ドルを支払うこと、(3)水力発電によるエネルギーを交換し、公社より電力会社に、その余剰電力を売却すること、(4)電力販売サービスを提供される地域における相互の制限について契約を締結した。契約は1934年2月13日と5月24日に一部改訂され、特定の細部について補完された。
原告であるアシュワンダー等は、アラバマ電力会社の優先株式の保有者である。彼は、上記契約は、連邦政府の憲法上の権力を超えているものであるため、TVAとの契約は企業の利益に反すると考えた。そこで、彼らは電力会社の取締役会に抗議を提出し、TVAとの契約を破棄することを要求した。しかし、取締役会はこれを拒否した。また、コモンウェルス・アンド・サザン・コーポレーション(Commonwealth &
Southern Corporation)は、電力会社の全ての普通株式の保有者であるが、株主総会を招集するに必要な行動をとることを断った。
こうして、抗議が無益であったことから、原告は、契約の無効確認とその履行の差し止めを求めて本件訴訟を提起した。その訴訟に当たっては、原告は当面の訴訟物である、TVAに関する当該契約の問題にとどまらず、TVAの方針や計画を問題とし、それが憲法に矛盾していることを理由に、その活動の差し止め判決を求め、また、様々な関係におけるTVAの権利に関する一般的な宣言的判決を求めた。
高等裁判所は、訴訟物を1934年1月4日の契約の効力と有効性に関する議論に制限した。地方裁判所の確定したところによれば、その契約に基づいて購入された送電線はウィルスンダムで発電される電力の送電だけに使われ、他のダムや発電所には必要が無い。そこで、高等裁判所は、ウィルスンダム の建設に関する憲法上の権限を検討した。
ウィルスンダムは、第1次大戦中に陸軍工兵隊の手によって建設されたものである。したがって、それは議会の、戦争と州際通商権限に基づくものであるとした。
そこで、最高裁判所に上告された。
2 判決の内容
多数意見をヒューズ長官が執筆した。ヒューズは、法人における議決権付き優先株式を所有する少数株主は、その地位に基づき、合衆国機関と取締役がその名前で締結する契約は違憲であり、その履行は法人の利益に回復不能の損害を引き起こすという理由に基づいて、訴えを提起する権利を有する、とした。
しかし、「司法権は、抽象的な問題に対する決定にまで伸びることはない(The judicial power
does not extend to the determination of abstract questions. )」(P. 297参照)とした。
そして、マッスルショールズでテネシー川をせき止めている、ウィルスンダムの名で知られるダムは、1916年国防法という、連邦政府の憲法上の権限のために制定された法律に基づき、戦争目的の工業に電力を供給し、川の航行を可能にするために建設されたので、合憲であるとしたのである。
3 補足意見
この判決を有名にしているのは、TVAの合憲性が認められたという事よりも、その補足意見に書かれたブランダイス判事の、いわゆるブランダイスルールのためである。
「訴えの妥当性を考慮するに当たり、我々は、長期の判例に照らし、連邦議会法の合憲性を判断することは、我々の司法機能の適切な遂行にあたり、そうする義務がない限り、控えることが求められている(判例引用省略)。
私は長官が発表した憲法上の問題についての結論に反対しない。しかし、私の考えでは、高等裁判所の判決は、それについて判断することを見送る形で維持されるべきである。政府は、訴訟を通じて、原告が法律の妥当性に挑戦する資格がないと主張している。本件訴訟の適格性に関するこの異議は、決して法案に対するエクイティとしての申立てによっては克服されず、エクイティルール27の求める前提条件を遵守していない[23]。障害となっている問題は、手続き的なものではない。それは法の本質に内在するものであり、確立したエクイティのルールであり、そして立法の合憲性を伴う事件では実体法に内在している。地方裁判所によって確定された事実に基づく限り、訴えを却下するべきであった。」
以下、この事件に関する検討が延々と続き、その後に有名なブランダイスルールが書かれることになる。
(五) カーター対カーター炭鉱会社事件
1936年5月18日に判決が下されたCarter v. Carter Coal Company,
298 U.S. 238 (1936)事件は、1935年に成立した瀝青炭保全法(The Bituminous Coal
Conservation Act=Guffey
-Snyder Act又はGuffey
Coal Actと呼ばれる。)の合憲性が問題となった事件である。同法は、違憲判決を受けた全国産業復興法に代わるものとして、議会により急遽制定された法律の一つである。
新法は、違憲判決で概念が不明確とされた公正な競争基準、生産基準、賃金、就業時間、及び労働関係を明確なものとするために、炭鉱労働者、炭鉱所有者及び公益代表から組織される労働委員会を設けた。すべての炭鉱は石炭生産量の販売価格または市場価格の15%相当の税金を支払うように要求された。同法は炭鉱労働者の賃金、労働時間、労働条件等について規制していた。その規制の遵守は強制的なものでは無かったが、その規制を遵守している炭鉱には15%の税率の90%が返金された。
1 事実
カーター(James W. Carter)は、カーター炭鉱会社の株主であったが、炭鉱が政府の計画に加わるべきであるとは考えなかった。同社の取締役会は、会社には税金を払う余裕がないので、計画に加わって返還金を受け取る必要があるとした。そこでカーターは、炭鉱における石炭の採掘は州際通商に該当せず、したがって、連邦政府による規制に服する必要は無いと炭鉱会社を訴えた。
2 判決の内容
四騎士とロバーツが多数意見を形成し、ヒューズ及び三銃士が反対意見を述べた。
多数意見を要約すると、次のとおりである。
石炭が州境を超えて販売される場合に、それは州際通商に該当するが、その石炭がその州から移送される以前には、州際通商とは言えない。石炭の採掘は、決して州際通商では無く、地域的事業であり、従って州に管理及び課税の権限がある。
州際通商に関する最初の判例は、ギボンズ対オグデン事件(Gibbons v. Ogden, 9
Wheat. 1, 189, 190)で、マーシャル長官が下したものである[24]。その際、マーシャルは通商に関して、次の様に述べた。
「通商とは疑いなく交通(traffic)のことであるが、しかし何かがそれに加わる。それは交換(intercourse)である。」
多数意見はこれを引用して、「通商」という語は「取引の目的のための交流(intercourse for the
purposes of trade)」という語句と等価とした。石炭の採掘は、この定義に該当しない。労働委員会が有するのは、生産に関する権限であって、通商に関する権限ではない。そして、生産は純然たる地域的活動である。仮に、個人の石炭生産活動が州際通商に直接的効力を有しないならば、多数人による石炭生産活動も又、州際通商に直接的効果を持ち得ない。
このように論理を展開して、次の様に結論した。
「連邦の規制権力は、州際通商の限界で終わる。そして、その権力は、州際の商業的交流が始まるまで連邦に帰属することはない。」
ここで、問題は、同法の労働条項は州際取引に該当しないが故に無効であるとしても、それ以外の部分はどうなのか、という点である。憲法訴訟論で可分性(separability)といわれる問題である。連邦議会は、全国産業復興法に対する違憲判決を経験した後でこの法律を制定しているので、最高裁判所が特定部分について違憲判決を下すことを想定して、予め同法第15条に、この法律の一部が無効であったとしても、他の部分はその影響を受けない旨の規定を設けていたのである。
しかし、四騎士達は、同条の効力を否定し、法律の可分性は、最終的には立法者の意図は何であったのか、というテストによって導かれるという主張を否定する。すなわち、基本的にあらゆる法律は不可分なものと推定される。その上で、不可分推定は『立法者は残っているもので満足した、という明白な蓋然性が存在する場合にのみ排除される』とし、この場合はそれに該当しないとして、法律全部を違憲とするのである。
3 少数意見
ヒューズ長官は、多数意見が、石炭の採掘は連邦権限に属さない、とした点については賛同し、それは違憲としたが、同法の労働条項と市場条項は分離して判断することが可能であるとした。多数意見の可分性に関する議論は、結局のところ憶測の問題となる。議会が可分と言っているか、不可分と言っているかが明白な場合にはそれに依るべきだというのである。
三銃士の一人、カードゾ判事の反対意見は、同法の価格決定条項は、連邦の権限に属している。なぜなら、それは州際通商に直接の関わりがあるからというものであった。ストーン判事及びブランダイス判事もこれに賛同した。
4 その後
議会は、1937年4月26日に、新法(The
Bituminous Coal Act of 1937=Guffey-Vinson Coal Actと呼ばれる。)を制定した。同法は、最高裁判所が違憲とした賃金や労働時間等の規制部分を、その指摘を回避する形に改正し、他のすべての条項を復活させたものである[25]。要するに、上記可分性の問題に、議会は明白に立法で回答したのである。同法の租税条項も、後に訴訟となったが、1940年に連邦最高裁判所は合憲と判決した[26]。
四 憲法革命後の判例
(一) ウェストコーストホテル対パリッシュ事件
先に述べたとおり、ロバーツ判事は1937年3月29日に下された、このWest
Coast Hotel Co. v. Parrish, 300 U.S. 379 (1937) 事件で、アトキンス事件で自らが採った意見を変更し、ルーズベルトによる干渉から最高裁判所を救ったと言われる。そして、これを境に、以後、ニューコートとなる。その意味で、歴史的重要性を持つ判決である。
1 事実の概要
パリッシュ(Elsie Parrish)は、彼女の夫と一緒にワシントン州のカスカディアンホテル(Cascadian Hotel=ウェストコーストホテル社が所有)で勤務していたが、ホテルを、彼女が支払われていた週あたり48時間労働で14.50ドルの賃金は、ワシントン州法に基づき、産業厚生委員会(Industrial Welfare
Committee)及び産業における女性監督官(Supervisor of Women
in Industry)の定める最低賃金との差額を求めて訴えた。第一審裁判所は、アトキンス事件を先例として使用し、被告勝訴の判決を下した。ワシントン州最高裁判所は、飛躍上告を受理し、第一審判決を逆転し、パリッシュ勝訴の判決を下した。そこでホテル側は、米国最高裁判所に控訴した。
2 判決の内容
最高裁判所は、三銃士及び中間派の計5人対四騎士に分かれた結果、パリッシュ勝訴判決を下した。判決はヒューズが執筆した。
ヒューズはミュラー対オレゴン州事件(Muller v. Oregon, 208
U.S. 412 (1908))と同様、コミュニティ、健康と安全、または弱者を保護する州法に対しては、契約の自由の制限が認められるとした。
3 その後
ロバーツ判事は、1945年7月31日に退職した。その退職に際して、カードゾ判事の後任として1938年に連邦最高裁判所判事に就任していたフランクファータ判事は、ロバーツの変心と呼ばれる有名な問題が真実なのか否か、メモを欲しいと依頼した。ロバーツは9月9日にフランクファータ判事にメモを手交した。ロバーツは1955年5月17日に死去した。そこで、フランクファータは、ロバーツメモ(Roberts Memorandum)を、メモを入手した経緯に関する説明も付して、ペンシルベニア大学ローレビュー1955年12月号に公表した[27]。
その文書の、ポイントの部分だけを紹介すると次のとおりである。
パリッシュ事件の上告を受理するか否かが1936年10月10日に評決された際、四騎士はアトキンス事件等の先例があることを理由に却下を求めた。それに対し、ロバーツは上告受理に賛成票を投じた。四騎士が驚いて、「ロバーツは一体どうしたんだ(What is the matter with Roberts?)」とささやきあったのをロバーツは聞いている。
「ストーン判事は、10月14日頃に病気になった。事件は12月16日と17日に、ストーン判事が欠席のまま審議された。その時、彼は、自宅で、昏睡状態で横たわっていた。12月19日に会議で検討される時が来た。私は、肯定する方に投票した。長官、ブランダイス及びカードソ判事も同様に投票した。他の4人は、反対に投票した。
もしも判決が、そのまま下された場合は、事件は賛否同数評決(divided Court)とされただろう[28]。その場合は不運な結果と考えられたであろう。法廷にいる誰もが、ストーン判事の見解を知っていたからである。そのため、事件はストーン判事が参加することができるよう、さらなる検討のために据え置かれるものとされた。ストーン判事は、1月は回復期で、1937年2月1日から裁判所の執務に戻った。私はパリッシュ事件が1937年2月6日に、ストーン判事が関与する会議で取り上げられたと記憶している。これにより、事件の割り当てを行うことが可能になった。下級裁判所判決を確定する判決は1937年3月29日発表された。」
サーシオレーライを採用している以上、パリッシュ事件が連邦最高裁判所に受理されるためには、最低4人以上の判事が賛成している必要がある。三銃士プラスヒューズ長官でこの4人に達しているが、その時点で、既にロバーツ判事は意見を変えていたというのである。そして、この判決が3月9日の炉端談話の後に下されることになったのは、その冬にストーン判事が重病であったためだというのである。このメモを信頼する限り、炉端談話をきっかけにロバーツ判事が変心したというのは、伝説に過ぎないことになる。
(二) 全国労働関係委員会対ジョーンズ・ラフリン鉄鋼会社事件
1937年4月12日に下されたこの判決も、パリッシュ事件同様、三銃士プラス中間派の5人が多数意見を形成し、四騎士を押さえた判決である。
賃金や労働時間等の労働条件に関する規制に関しては、全国産業復興法の違憲判決後である1935年7月5日に急遽、制定された全国労働関係法(National Labor
Relations Act)による規制対象となった。同法は、通称は起案した民主党のワグナー上院議員に因んで、「ワグナー法(Wagner Act)」と呼ばれる。
同法は、最低賃金、最高労働時間、労働者の団結権と代表者による団体交渉権を保障し、不当解雇、御用組合、差別待遇を禁じた。また雇用主による不当労働行為の禁止を規定した。不当労働行為とは、労働者の団結権や団体行動の自由に対して、使用者が侵害または干渉などの妨害行為を行うことである。この法律の遂行機関として、全国労働関係委員会(National Labor
Relations Board=NLRB)の設置を規定した。
NLRBは、独立行政委員会で、労働組合の代表者選挙及び不当労働行為を調査し、是正を有する権限を有している。NLRBは5人の委員で組織される委員会及び訟務検事(General Counsel)*[29]で構成され、彼らは上院の同意を得て大統領によって任命される。委員は、5年の任期で任命され、訟務検事は、4年の任期で任命される。訟務検事は検察官として活動すると共に、委員会の一員として活動する。
このNational Labor Relations Board
v. Jones & Laughlin Steel Corporation, 301 U.S. 1 (1937)事件では、全国労働関係委員会(NLRB)の合憲性が問題となった。この判決が、ニューディール政策における経済立法に対する連邦最高裁判所の否定的活動に終止符を打ち、これ以降、通商条項に基づく連邦議会の権力を増加させることとなる。
1 事実の概要
ジョーンズ・ラフリン鉄鋼会社(Jones & Laughlin Steel
Corporation)はアメリカ第4位の巨大鉄鋼メーカーである。同社のペンシルベニア州アリキッパ(Aliquippa)で働いていた従業員10人を、彼らが労働組合に加入しようとしたことに基づき、解雇したことが、不当労働行為として訴えられたのである。 NLRBは、会社に対し、再雇用と俸給の支払いを命じたのに対し、ジョーンズ・ラフリン鉄鋼会社は、全国労働関係委員会設置法が違憲であるという理由で、それに従うことを拒否した。
2 判決の内容
先に述べたように、判決は5対4で下された。
ヒューズ長官が多数意見を代表して、次の様に述べた。
「NLRBの活動は、ばらばらに考えた場合には、州内で行われているかもしれないが、その活動は州際通商と密接かつ本質的に結びついている。すなわち、そのコントロールは負担及び障害物から州際通商を本質的かつ適切に守ることであるので、連邦議会が権力を有することを否定できない。」
3 芦部信喜の評釈
芦部信喜は、この判決を、ブランダイスの第7ルールの典型的な例として評釈しているので、その主要部分を紹介する(『憲法訴訟の理論』有斐閣1973年刊、300頁)。
「ここでは、違憲性から『法律を救済する』ことと『重大な疑いを回避する』こととは、観念的には区別されている。前者は文字通りの『合憲解釈のアプローチ』であり、そこでは原則として合憲判断を行うことが前提とされている。ところが後者は、ある法令の条項について甲という解釈をとればその合憲性について重大な疑いが生ずるので、少なくともその解釈だけはとらない、というような場合を指すと考えられるので、そこでは右法条にたいする明確な合憲判断は原則として前提になっていない。甲という違憲になる可能性の強い解釈は排除されたが、そのほか、たとえば乙という解釈をとっても『重大な疑い』が生ずるのか、合憲解釈としては丙という解釈を採用しなければならないのか、しかし丙という解釈が合理的に成立する可能性がはたしてあるのか、というような点は原則として未解決の状態におかれ、したがって当該法令そのものの合憲・違憲については何ら触れられていないからである。」
4 その後
この日以降、短時日のうちに、次に示すとおり、多数の事件で合憲判決が相次いで下され、NLRBの合憲性を明確に確立することになる。
NLRB
v. Fruehauf Trailer Co., 301 U.S. 49 (1937)
NLRB
v. Friedman-Harry Marks Clothing Co., 301 U.S. 58 (1937)
Associated
Press v. NLRB, 301 U.S. 103 (1937)
Washington,
Va. & Md. Coach Co. v. NLRB, 301 U.S. 142 (1937)
こうした一連の判例により、NLRBの地位は確立し、今日に至る。
(三)
スチュワード機械会社対ディヴィス事件
このSteward Machine Company v.
Davis, 301 U.S. 548 (1937)は、1935年社会福祉法(Social
Security Act of 1935)の合憲性が問題となった事件である。
アメリカのような自由主義の国では、本来は、社会福祉法は許されない。しかし、大恐慌下における社会的弱者救済のために、1935年に制定されたのがこの法律で、連邦老齢年金制度を確立するとともに、高齢者、視覚障害者、肢体不自由児、母子福祉及び公衆衛生を規制するとともに失業補償法規定を設けた。そうした支出の原資として、同法は雇用主への課税を定め、その管理に当たる機関として社会保障委員会(Social Security Board)という独立行政委員会を設けている。
この事件では、同法の規定のうち、失業者救済規定が問題となった。
1 事件の内容
1935年社会保障法の失業補償規定は、その原資として雇用主への課税を定めていた。但し、州がそれとは別途に失業補償制度を確立している場合には、納税者に、連邦税の90%に相当する額の控除を認めている。このように、同法は、州が資金調達や失業補償金の支払いのための一貫した法制度を導入するよう誘導する目的で、その課税構造を定めていた。
スチュワード社は、連邦が、税金という手段によって州に社会保障制度の導入を強制しており、したがって連邦議会の権限から逸脱していると主張して、納税を拒否した。
2 判決の内容
判決は、1937年5月24日に下された。例によって三銃士に中間派が加わった5人が多数意見を形成し、少数意見の四騎士と対立した。判決はカードゾ判事が執筆した。
「問題は、便宜的に導入された手法が権力の限界を踰越しているか否かである。法を問題視する人は、その主たる目的・目標は、州議会を失業補償制度よる経済的圧力という鞭の下で駆り立てることであると言う。」
その鍵になるのは、法がそれを消費税とみなしている点である。
「消費税は憲法第10修正の禁止する州への強制では無く、連邦制度による暗黙の制限に違反したものでもないので、無効ではない。」
このように述べて、判決は、連邦議会の立法は憲法の範囲内にあるとした。裁判所は、次に、税とその控除の組み合わせは、強制の武器では無く、州の自律性を破壊したり損なったりするものではない、とした。
「脅迫と誘導との間に理性的に線を描くことは、今では常識事項である失業問題に対して対応する必要があるからである。」
こう述べて、全国的な経済状況について触れた後、裁判所は次の様に言う。
「速やかに明らかになった事実は、州が必要な救済を与えることができなかったということである。問題は、今や領域(area)においても大きさ(dimension)においても全国的となった。人々が餓死しかかっている場合には、国家による救済が必要である。寛容の精神で話を聞くには、現在の危機は極端で、失業者とその扶養家族の負担を軽減するためには、一般的な福祉の推進よりも狭い何らかの目的のために、国家資金の使用が必要である。」
そして、申立人の主張について論じる。
「申立人の主張の問題点は、動機と強制力とを混同していることである。すべての税金は、ある意味において規制の尺度である。ある範囲内においては、他の者が課税されていないのと比較すれば、課税活動は経済的障害となる。あらゆる租税の払い戻しと同様に、租税措置のあるものは誘導的である。しかし、動機や誘導が、強制とみなしうるものであるためには、法律を無限の困難さに直面させる。」
3 その後
1939年に、行政庁再組織法(Reorganization Act of 1939 (P.L. 19, 76th Cong., 1st sess.))により連邦保障局(Federal Security Agency)という、やはり独立機関が設立され、社会保障委員会は合衆国公衆衛生局(United States Public
Health Service)、食品医薬品局(Food and Drug
Administration )、市民保全部隊(Civilian Conservation
Corps)、教育局(Office of Education )とともに、その下部機関とされた。
1946年に、社会保障委員会は社会保障局(Social Security
Administration)へと改称された。1953年に、また大きな行政組織改革が行われて、連邦保障局は廃止され、代わって保健教育福祉省(Department of Health,
Education, and Welfare)が設けられ、社会保障局は、その傘下機関となって独立性を失った。保健教育福祉省は1980年に改組されて保健社会福祉省(Department of Health
and Human Services)になる。しかし、1994年にクリントン大統領は、社会保障局を、再び元の独立行政機関に戻した。
(四) 合衆国対キャロリーヌ社事件
このUnited States v. Carolene
Products Company, 304 U.S. 144 (1938)事件は、1938年4月25日に下された。判決本体は、連邦議会による通商条項の発動に対して、完全に無批判となってしまっているもので、むしろニューコートの恥部とでも言うべきものである。それにも関わらず、この判決が重要なのは、二重の基準論の判例法的根拠と言うべき、脚注4が書かれているが故である。
判決は、ストーン判事が執筆し、ヒューズ長官、ブランダイス、ロバーツ及びブラックの各判事が賛成し、バトラー判事が補足意見を書き、マクレイノルズ判事のみが反対意見を書いている。
1 事件の内容
ここで問題となったのは1923年に制定された添加ミルク禁止法(Filled milk act)である。添加ミルクとは、脱脂粉乳に、牛乳以外の何かからとった脂肪、通常は植物油、を添加して再構成されたミルクのことである。一般的には風味が悪く、そのままでは飲料には適さないが、コーヒー用のミルクや調理用には十分に使用に耐える。キャロリーヌ社は、20世紀初頭に、添加剤として椰子の実油(ココナッツオイル)を使用したものを、ミルナッツ(Milnut)という商品名で発売してヒットした。当時はフィリピンが米国統治下にあったため、椰子の実油は、極めて安価にフィリピンから輸入されていた。この頃は、普通の牛乳を冷凍輸送したり貯蔵したりすることが困難なため、ミルナッツは、広く利用可能な乳製品として急速に普及していった。
そこで、ボーデン社等既存の乳製品業者は、議会に運動して添加ミルク禁止法を制定させたのである。これは、脱脂ミルクに乳脂肪以外の脂肪や油を混入してミルクに類似させた添加ミルクは、公衆の健康を損なう不純食品であって、その販売は公衆に対する詐欺であり、州際通商に載せることを禁ずるという趣旨のものであった。幾つかの州でも同様の法律が制定された。
キャロリーヌ社は、この連邦法に違反して、起訴された。
2 判決の内容
ストーン判事は次の様に述べた。
「その文面に照らし、連邦議会の委員会報告を含む裁判所にとり明白な事実から、同法は州際取引及び適正手続きに関する議会の規制権限の中にあると推定される。起訴状に対する異議は却下する」
3 脚注4
原文は長文であるが、以下に、その中心的な部分を紹介する。
「立法が、憲法の特定の禁止に文面上該当すると思われる場合には、合憲性の推定の作用の範囲は狭いものかもしれない。例えば、はじめの10箇条の修正条項のような場合であり、これらは、修正第14条の中に包摂されると判断された場合にも、等しく特定的と考えられる。<参照判例略>
望ましくない立法の廃止をもたらすことが通常期待されうる政治的プロセスを制約する立法が、修正第14条の一般的な禁止の下で、他の種類のほとんどの立法よりも、より厳格な司法審査に服すべきか否かを、今検討することは必要ではない。<参照判例略>
また、特定の宗教的少数者<参照判例略>、あるいは出身国から見た少数者<参照判例略>、若しくは人種的少数者<参照判例略>に向けられた法律の審査に類似の考慮が働くかどうか、切り離され孤立した少数者に対する偏見が、少数者を保護するため通常は頼りになる政治的プロセスの作用を著しく制約する傾向を持ち、それ故、相当したより厳格な司法審査を要求するかもしれない特別の条件かどうかについても検討する必要は存しない。<参照判例略>」[30]
4 その後
連邦法としての添加ミルク規制法は、州際取引を禁止しているだけなので、この判決後も、キャロリーヌ社は、イリノイ州など、州内におけるこの商品の販売を規制していない州で、ミルナッツの販売を継続した。その後、第2次大戦により椰子の実油の輸入が止まったので、使用する植物油を大豆油に変更し、商品名をミルナッツからミルノット(Milnot)へ変更した。
1941年、同社の社長ハウザー(Charlie
Houser)等は、ミルノットを、州境を越えて販売した罪により、ウェストバージニア州連邦裁判所で起訴された。
ハウザーは事実関係については争わなかったが、添加ミルク規制法は違憲であるが故に無罪であると主張した。しかし、地方裁判所は1938年最高裁判所判例を引用して同法を合憲とし、ハウザー等に懲役1年、その後2年間の保護観察と罰金1000ドルを言い渡した。第4巡回区高等裁判所もこの判決を支持した。
最高裁判所は上告を受け付け、リード(Stanley Forman Reed)判事が判決を書いた(Carolene Products Co. v. United States - 323 U.S. 18 (1944) )。この事件で裁判所が審理したのは、添加ミルク規制法が第5修正の適正手続条項に抵触していないかという点である。リード判事は様々な検討を行ったが、しかし結論としては1938年判決を維持した。
ハウザーは服役したが、大統領の特赦により出獄することができた。以後、同社は生産拠点のある州内の販売に特化した。1950年にキャロリーヌ社はミルノット社(Milnot Company)に社名を変更した。
1972年になって、同社は、イリノイ州地方裁判所において、ついに添加ミルク規制法は第5修正の適正手続条項に違反し、違憲とする判決を勝ち取ることができた(Milnot Company v. Richardson, 350 F. Supp. 221 - Dist. Court, SD
Illinois 1972)[31]。この判決に対して、連邦政府は上級審に上告しなかったため、1973年、同法は違憲であることが確定した。
これをきっかけに、州法で添加ミルクを規制していた11の州は、いずれもその法律を廃止した。ハウザーは裁判所の判決後の1976年に94歳で死亡した[32]。
[おわりに]
わが国では、芦部信喜等の紹介により、一般に、二重の基準は、自由権に関する審査基準であるとされる。しかし、本稿に示したロックナー判決から憲法革命までの判例を、そして憲法革命によって変更された判例を見ると、ロックナー事件がパン屋労働者の労働時間制限法であり、パリッシュ事件が女性労働者の最低賃金法であることに端的にしめされているように、そのほとんどは労働権の擁護に関連する社会法の領域に属する問題である。あるいは反トラスト法などの経済法領域の問題である。したがって、わが国の感覚で言うならば、経済的自由権の問題と言うより、社会権が問題になったという方が正しい。
また、本稿冒頭に憲法革命に影響を受けなかった重要判例として紹介したニア事件は報道の自由、すなわち知る権利に奉仕する権利の問題であり、スコッツボロ・ボーイズ事件は刑事基本権というように、文字通りの精神的自由権というよりは広い概念である。
こうした社会権領域に属する立法に対する違憲審査が、自由権の審査という形式を取ってしまうのは、一方において米国議会が資本主義の爛熟に伴って発生する社会問題に真摯に取り組んでいるのに対し、連邦最高裁判所が、世界最古の憲法が適切な修正を受けないままに、そうした新しい社会立法に対して判断を下すことを求められた結果発生した苦闘ということができる。
したがって、我々としては、米国法との比較を考えるに当たり、二重の審査基準と社会権との関係を、より慎重に検討する必要があるであろう。
[1] ライアカット・アハメド著(吉田利子翻訳)『世界恐慌』下巻114頁(筑摩書房2013年刊)より引用。同書は、2010年にピューリッツァ賞(歴史書部門)を獲得した“Lords of Finance: The Bankers Who Broke the World” by Liaquat Ahamed
(The Penguin Press)の全訳である。
[2] 注1紹介書117頁より引用。
[3] この1929年減税法は、正式名称を「Reducing rates of income tax for
the calendar year 1929」という。
この当時の所得税は基本税率と付加税率という二つの課税で成り立っていた。1928年法の場合、基本税率は年収0〜4000ドル以下のものは1.5 %、4000ドル超8000ドル以下の者は3%、8000ドル超の者は一律5%であった。付加税率は8000ドル以下の者にはなく、8000ドル超の者は5%、1万ドル超の者は6%と累進していって、10万ドル超の者は20%となっていた。したがって最高税率は5+20=25%であった。
この減税法は、基本税率の最低を上記1.5%から0.5%に、3%を2%に、5%を4%にそれぞれ引き下げた。また、法人税の基本税率も12%であったものを同じく1%下げて11%とするなど、広い範囲で、税率を一律1%引き下げるというものであった。
[4] 1930年関税法は、正式名称を「To provide revenue, to regulate
commerce with foreign countries, to encourage the industries of the United
States, to protect American labor, and for other purposes」という。2万品目以上にわたって、大幅に関税の引き上げを定めた法律であった。
[6] 1932年租税法(Revenue Act of 1932)では、基本税率は、年間所得が0〜4000ドル以下のものが4%、4000ドル超の者が一律8%となっていた。付加税率は、6000ドル未満の者は0%で、6000ドル以上の者は1%、8ドル以上の者は2%というように累進していって、10万ドル以上の者は55%となる。したがって10万ドル以上の者の税率は8+55=63%となる。この結果、年収4000ドルの者を例にとると、1929年減税法の下では20ドルであったのに、1932年には160ドルと一気に8倍の増税となった。
[7] 黙示録の四騎士:新約聖書の最後にあるヨハネの黙示録に書かれている四人の騎士のことで、四騎士はそれぞれが、支配、戦争、飢饉、死を象徴していると言われる。したがってこの四騎士という表現は、決して好意的なものでは無い。
[8] モアヘッド事件(Morehead v. New York, 298 U.S. 587 (1936))は、基本的にロックナー判決と同一論旨のため、本稿では個別判例には取り上げていないので、ここで簡単に注記する。ニューヨーク最低賃金法は、労働規制立法に対する連邦最高裁判所の狭い許容範囲に備えて、州労働委員会にサービス分野ごとに固定賃金を修正する権限を与えるという工夫をしていた。しかし、それでも連邦最高裁判所は、第14修正の保障する契約の自由を侵害するとして違憲とした。
[9] ルーズベルトが、この日の炉端談話で語った内容の詳細は、次のサイト参照。
http://www.wyzant.com/resources/lessons/history/hpol/fdr/chat/
[10] アトキンス対児童病院事件については、拙稿「ロックナー時代−ホワイト第9代及びタフト第10代長官の時代−」日本法学79巻3号参照。
[11] 小説「ものまね鳥を殺せば」は、日本リーダーズダイジェスト社が1962年に邦訳を刊行した際の表題である。残念ながら絶版となっている。Harper Lee著“To Kill a Mockingbird”が原書で、1961年ピューリッツァ賞小説部門受賞作である。これはGrand Central PublishingのReprint版 (1988/10/11)が入手可能である。
[12] 映画「アラバマ物語」というのは邦題で、原題は“To Kill a Mockingbird”で、前注に紹介した作品の映画化である。1962年度アカデミー賞を主演男優賞(グレゴリー・ペック)、脚色賞、美術賞の3部門で獲ったほか、同年度ゴールデングローブ賞でも、主演男優賞及び作曲賞を獲った傑作である。
[13] ミュージカル“The Scottsboro Boys”は、ニューヨーク・ブロードウェイで上演された作品で、2010年度トニー賞でミュージカル作品賞等計11部門にノミネートされたという傑作であるが、不運にも、一つもトニー賞を取ることができなかった。
[14] 連邦最高裁に上告したのは、Ozie Powell, Willie Roberson,
Andy Wright及びOlen Montgomeryである。
[15] 全米有色人種地位向上協会(National Association for the Advancement of Colored People= NAACP)は、1909年2月12日に設立された、米国で最も古い公民権運動組織の一つである。ちなみにこの創立日は、リンカーン生誕の100年目に当たる。後のブラウン事件等で中心的な役割を果たす団体である。NAACPの歴史及び活動については、次を参照。
http://www.naacp.org/pages/naacp-history
[16] George Corley Wallace Jr.は、アラバマ州知事を4度務め、1968年にはアメリカ合衆国大統領選挙に候補として立候補した政治家である。彼がアラバマ州知事に当選した時のスローガンは「今日も人種隔離を! 明日も人種隔離を! 永遠に人種隔離を!」(I say segregation
now, segregation tomorrow, segregation forever)というもので、骨の髄までの人種差別主義者であった。その彼でさえ、特赦を与えた点にこの事件の特徴が表れている。彼の有名なスローガンを含む演説は、次に収録されている。
http://web.utk.edu/~mfitzge1/docs/374/wallace_seg63.pdf
[17] 1950年12月に、パターソンは別件で、殺人罪で告発され、1951年9月6年〜15年の不定期刑を宣告される。1952年8月、癌のため死亡。
[18] スコッツボロ・ボーイズの、連邦最高裁判決後の運命については、多数のサイトがあるが、互いに若干の矛盾がある。本文の記述は、基本的には次の二つのサイトに依存しているが、矛盾する点については、他のサイトも参照し、多数の一致するところに従って記述している。
http://www.pbs.org/wgbh/amex/scottsboro/timeline/timeline2.html
http://en.wikipedia.org/wiki/Scottsboro_Boys#Final_decisions_and_aftermath
[19] 非委任の法則(doctrine of
nondelegation)とは、国家のある権力府は、他の権力府に属する機関に対して、憲法上自らに託された権力を委任することは許されない、という法則である。それを認めては、権力分立制は無意味なものとなるからである。
[20] 市場年度(Marketing year)とは、特定の商品に関して行われる年度を意味する。農産物の場合には、通常、その収穫期から次の収穫期までを1市場年度とする。
[21] 床税(Floor tax)とは、倉庫に格納されている商品に課される租税を言う。
[22] テネシー渓谷開発公社法の法律の正式名称を英語で示す。
An Act To improve the
navigability and to provide for the flood control of the Tennessee River; to
provide for reforestation and the proper use of marginal lands in the Tennessee
Valley; to provide for the agricultural and industrial development of said
valley; to provide for the national defense by the creation of a corporation
for the operation of Government properties at and near Muscle Shoals in the State
of Alabama, and for other purposes.
[23] 本文でブランダイスが言及しているエクイティルールとは、The Federal Equity Rules のことと思われる。これは、連邦裁判所に係属するエクイティ訴訟に適用するため、連邦議会の授権法に基づき連邦最高裁判所によって作成され、議会の承認によって成立したものである。1822年に最初に制定され、その後数次の改正を経た後、1938年にFederal Rules of Civil Procedure に全面改正された。このため、この判決当時のルール27が正確にどのような内容なのか、把握できなかった。
[24] ギボンズ対オグデン事件については、拙稿「米国違憲立法審査権の確立
−マーシャル第4 代長官の時代−」日本法学 78巻3号150頁参照。
[25] 新法の詳しい内容については次を参照。
http://www.nber.org/chapters/c2882.pdf
[26] Guffey-Vinson Coal Actを合憲としたのは、次の判決である。
Sunshine Anthracite Coal Co. v.
Adkins - 310 U.S. 381 (1940)
[27] ロバーツメモが掲載されたのは、the University of Pennsylvania Law Reviewの1955年Decemberの巻頭である(通算303頁)。
[28] 連邦最高裁判所の表決において、欠席者がいるために賛否同数となった場合には、判決はそれで確定するが、判決としての拘束力は無く、status quo ante(原状どおり)とされる。その判決には、判事の意見は付されず、ただ1行「判事は、賛否同数評決と決した」とのみ記述される。
[29] General Counsel:訟務検事と訳したのは、それが司法省に属する検察官としての身分を有し、通常、各省庁または政府関係機関で勤務しているという点で、わが国訟務検事と類似しているからである。しかし、本文にも述べたように、個別の組織ごとに任命され、任期制である点で、わが国の訟務検事とは異なっている
[30] キャロリーヌ事件判決の脚注4については、松井茂記『二重の基準論』有斐閣1994年刊、18頁より引用
[31] この事件は、立法の違憲確認訴訟であり、被告であるElliot Richardsonは、連邦健康・教育・福祉省長官(Secretary of Health, Education and Welfare of the United States)で、その職責が本件添加ミルク規制法を含む食品や薬品を管轄しているところから、職責として被告となったものである。
[32] 本稿で記述したハウザーに関係する細かな事実関係は、次のサイトに依存している。このサイトの筆者Josh Blackmanは、南テキサス法科大学(South Texas College of Law)の准教授である。
http://joshblackman.com/blog/2012/09/06/constitutional-faces-carolene-products-defendant-charles-hauser-returns-to-the-supreme-court/