米国違憲立法審査権の確立

−第4代マーシャル長官の時代−

The Establishment of Judicial Review in the United States

The Period of Marshall, the 4th Chief Justice― 

甲斐素直

[はじめに]

 初代および第3代連邦最高裁判所長官の時代にも、憲法判例と言えるものは、少数ではあるが、存在していたことは、「米国初期の憲法判例」(以下「前稿」という)に紹介したとおりである*[1]

 しかし、第4代連邦最高裁判所長官となったジョン・マーシャル(John Marshall)が、米国の連邦憲法裁判所を方向付け、今日に向けての礎を築いた偉大な人物であったことは疑う余地がない。本稿では、彼の代表的な判例であるマーベリ対マディスン事件 (Marbury v. Madison, 5 U.S. 137(1803)) 判決を、それを理解するのに必要な同時代史を紹介した上で、詳細にしたい。

 また、往々にして、マーシャルの業績としては、マーベリ対マディスン事件のみが紹介される。しかし、彼の業績はそれに尽きるものでは無い。マーシャルは、それ以外にも、今日まで影響を与える幾つもの重要な憲法判決を下している。本稿では、その中から、代表的な判決の概略を紹介したい。

 

一 マーシャルの最高裁判所長官就任までの略歴

 第4代連邦最高裁判所長官に就任したジョン・マーシャル(John Marshall)は、いわゆる建国の父には属さない第二世代である。

ウィリアム・ランドルフという人物がいる*[2]。バージニア州の植民地建設にあたって重要な役割を果たし、その妻と共にバージニア州のアダムとイブと呼ばれる。マーシャルも、そしてマーシャルと対立し続けるジェファーソンも、そのランドルフの子孫である。つまり、この、マーベリ対マディスン事件で敵味方に分かれて法的な死闘を演じた二人は親戚関係にある。

 マーシャルは独立戦争後に弁護士となり、バージニア州の連邦党組織結成のリーダーとなるが、あまり政治権力には魅力を感じなかった人らしく、公職に就くことは拒んでいる。1795年に、ワシントン大統領は司法長官(Attorney General)への就任依頼及びフランス全権大使への就任依頼を行っているが、彼はいずれも拒んでいる。

 しかし、1797年にフランスとの関係が紛糾し、疑似戦争と呼ばれる状態になると、アダムズ大統領の依頼に応じてフランスに赴き、XYZ事件に遭遇した(詳細は後述する)。

 1798年に、マーシャルはアダムズ大統領から連邦最高裁判所判事に就任することを依頼されたが、これも拒み、代わりにブッシュロッド・ワシントンを推薦している*[3]。ワシントンは、マーシャルの連邦最高裁長官に就任した後においては、その良き右腕となる。

 1799年に、担ぎ出されてマーシャルはしぶしぶ下院議員選挙に立候補した。リッチモンドを中心とする彼の選挙区は共和党の強い地域であったが、XYZ事件の知名度などがものを言って無事に当選した。

 その1799年にアダムズはマーシャルを国務長官に任命することになる。前任者であるピカリング(Timothy Pickering)が、対仏交渉を巡ってアダムズ大統領と激論になり、免職されたため、緊急に後任が必要になったためであった。

 そして、エルスワースが病気のため引退し、他に適任者がいないという理由から、アダムズはマーシャルを、国務長官兼任のまま、連邦最高裁判所長官に任命するのである。

 このように連邦最高裁長官への就任も含めて、この人の公務歴は、すべてなりたくてなったのでは無く、他に人がいないためやむを得ず、という傾向が強い。それにも関わらず、引き受けたからには誠実にその職務を果たすのである。

 

  大統領選挙の死闘

 米国における連邦最高裁判所の違憲立法審査権を明確に確立したといわれるマーベリ対マディスン事件は、1800年の大統領選挙の結果として発生した事件である。そして、1800年大統領選挙は、その前回の1796年選挙と密接な関わりがあるので、両選挙の概況をまず説明したい。そして、この二つの大統領選挙は、連邦党と共和党の激突の物語であった。

(一) 1796年大統領選挙

 初代大統領ワシントンは、2期大統領を務めたが、3期目の出馬は拒んだ*[4]。そこで、現職の副大統領アダムズ*[5]が連邦党の大統領候補となることになった。そして、トマス・ピンクニー*[6]を副大統領候補とした。

 これに対し、ジェイ条約を期に、連邦党と袂を分かって共和党を結成したジェファーソンは、同党の大統領候補として自ら出馬し、副大統領候補にバー*[7]を選んだ。

 この選挙には、この4人の他に、連邦党系の立候補者としては、エルスワース(合衆国最高裁判所長官)、アイアデル(合衆国最高裁判所陪席判事)、ジェイ(ニューヨーク州知事)、チャールズ・コーツワース・ピンクニー*[8]、ジョンストン*[9]の5人が立候補していた。また、共和党系の立候補者としてはサミュエル・アダムズ*[10]、クリントン*[11]、ヘンリー*[12]と計3人が立つという大乱戦となった。その他に立候補していないワシントンにも少なからぬ票が入った。この時が米国で本格的に大統領選挙が行われた最初の例となった。

 この選挙の時点では、合衆国憲法には、副大統領候補という制度はなく、すべての候補者が等しく大統領候補として扱われていた。すなわち、この時点における合衆国憲法33項は次の様に定めていた。(下線部が、この選挙で問題となった点)

「選挙人は、各々の州で集会して、無記名投票により2 名に投票する。そのうち少なくとも1 名は、選挙人と同じ州の住民であってはならない。選挙人は、得票者と各々の得票数を記した一覧表を作成し、これに署名し認証した上で、封印をほどこして上院議長に宛てて、合衆国政府の所在地に送付する。上院議長は、上院議員および下院議員の出席の下に、すべての認証書を開封したのち、投票を計算する。最多数の投票を得た者の票数が選挙人総数の過半数に達しているときは、その者が大統領となる。選挙人総数の過半数に達した者が2 名以上あり、かつ、得票数が同数の場合は、下院は直ちに無記名投票により、その中の1 名を大統領に選出しなければならない。過半数に達した者がいないときは、得票者一覧表の中の上位得票者5 名の中から、同一の方法で下院が大統領を選出する。但し、この方法により大統領を選出する場合には、投票は州を単位として行い、各州の議員団は1 票を投じるものとする。この目的のための定足数は、全州の3 分の2 の州から1 名または2 名以上の議員が出席することを要し、大統領は全州の過半数をもって選出されるものとする。いずれの場合にも、大統領を選出した後に、選挙人の投票の最多数を得た者が、副大統領となる。但し、その場合に同数の得票者が2 名以上あるときは、上院は無記名投票でその中から副大統領を選出しなければならない」

 このように、大統領を選ぶのは原則として各州が選出する選挙人である。選挙人から最高の票を得た者が大統領、次点が副大統領となる制度であった。このように定めている理由は、建国の父達が、政党というものは悪と考え、高い倫理に基礎づけられた国家では、そのようなものは出現しないと考えていたためであった。

 どのように選挙人を選出するかは各州の裁量である*[13]。この時の選挙で、選挙人をどのように選出するかについては、各州でかなりのばらつきがあった*[14]

 連邦党と共和党の勢力は伯仲していたので、連邦党はアダムズに、民主共和党はジェファーソンに、それぞれ投票を集中させた。その結果、選挙人総数264のうち、連邦党のアダムズが71票を獲得して大統領となったが、第2位には、連邦党の副大統領候補ピンクニーの59票を押さえて、共和党のジェファーソンが68票で入って副大統領となる、という皮肉な結果となった。

 この結果、連邦党の大統領の下に、共和党の副大統領がいるという呉越同舟状態が発生した。さらにややこしいことには、大統領のアダムズは、連邦党の事実上の党首であるハミルトンを、個人的に好まなかった。このため、ハミルトンは閣僚とならず、ニューヨークで弁護士を開業した。しかし、その他の閣僚については、ワシントン政権との連続性を強調するため留任させた。しかもアダムズは、往々にしてニューヨーク州の私邸に引っ込んでフィラデルフィアを留守にするという習慣を持っていた*[15]ため、閣僚達は、アダムズと相談する代わりに、ニューヨークにいるハミルトンの助言を求めるという奇妙な状態が発生した*[16]

 アダムズ政権下において、フランス革命政府との間に疑似戦争(Quasi-War)と呼ばれる武力紛争状態が発生した。フランスはイギリスに対する経済封鎖を名目にアメリカ船舶の取締りを強化したため、多くのアメリカ船舶が損害を被ったのである。そこでアダムズは、この情況を解決するために、マーシャル及びチャールズ・コーツワース・ピンクニーとゲリー*[17]3人をフランスに派遣した*[18]

 しかし、フランス外相のタレーラン*[19]は、外交交渉を個人的な利得の場と考える人物で、交渉を開始するに当たり、贈賄を公然と要求したため、交渉は、その開始以前の段階で決裂した。このタレーランの贈賄要求をアダムズに知らせたマーシャルの書簡が、有名なXYZ書簡である*[20]。アダムズが議会にこの書簡を公表したため、米国国内に反フランス的な世論が形成された。その結果、米仏間の交易は途絶し、フランスの私掠船は米国船舶を憚ることなく拿捕し始めた。そこでアダムズはフランスとの外交関係を一時的に断絶させる一方で17981月、海軍省の創設と陸軍を戦時体制に置くための資金を議会に求めた。その結果、430日に海軍省が創設された。このため、アダムズは米海軍の創設者とされる。179877日、議会によって米仏同盟は破棄され、米仏の決裂は決定的になった。

 当時、米国にはアイルランド系の移民が流入しつつあり、彼らは、フランスが英国と敵対していることからフランスびいきであった。そこで、連邦党は外国人・反政府活動取締法の制定に踏み切った*[21]。これに、フランスびいきの共和党は反発し、激しく非難した。これに対し反政府活動取締法による厳しい言論統制が行われたことから、連邦党の人気は急落することになる。

 この様な反フランス的行動にも拘わらず、アダムズは、1799年に独断でマレー*[22]を対フランス全権大使に任命して、再度フランスとの交渉に当たらせることにした。連邦党がこの独断に強く反対したので、妥協策として、アダムズは、特使としてエルスワースとパトリック・ヘンリー*[23]をマレーに同行させることには同意した。この交渉の結果、「1800年の協約(Convention of 1800)」と通称される条約が締結された*[24]。こうしたフランスとの交渉は、それに反対した国務長官のピカリング*[25]を、アダムズ大統領が罷免するという騒動に発展した。これが、連邦党を分裂させ、共和党のさらなる優勢を導くことになる。

 

(二) 1800年大統領選挙

 180011月に行われた合衆国大統領選挙は、時として「1800年の革命(The Revolution of 1800)」とも呼ばれる、歴史上の重大事件であった。

 戦いは前回と同じくジョン・アダムズとジェファーソンの戦いとなった。1796年選挙は、合衆国憲法に元々あった欠陥から正副大統領が対立党から選出されるという呉越同舟状態を生み出したが、この1800年選挙は、憲法の欠陥をさらに大きく露呈した。

 連邦党は、上述のとおりジョン・アダムズ政権下において大きく人気を落としていたために、この選挙では、選挙戦そのものは共和党の圧勝であった。しかし、なんと、共和党の大統領候補のジェファーソンと、その副大統領候補であるバーが、共に選挙人数73票となって、同点となったのである*[26]。この結果、大統領を決定するのは、合衆国憲法32文の定めるところにより下院の手に委ねられることとなった。

 1800年に行われた下院議員選挙では共和党は大統領選挙以上に圧勝していて、共和党65議席、連邦党41議席となっていた。しかし、大統領を決定する権限を有しているのは、共和党が優位に立つ改選後の下院ではなく、1798年の下院議員選挙により連邦党が優位に立つ任期満了直前の、死に体状態にある下院であった。大統領の決定に当たっては、下院は個々の議員が投票するのではなく、選出母体となった州ごとに1票を持つ。当時は当初の13州から3州増えて16州だった*[27]ので、過半数を取るためには9州以上の支持が必要だった。

 ジェファーソンが大統領候補であり、バーがその副大統領候補であることは周知の事実であった。しかし、連邦党は、党派の敵であるジェファーソンに投票することを渋った。この結果、連邦党の支配する8州のうち6つまでがバーに投票したのである。これに対し、共和党の支配する7州はすべてジェファーソンを選んだのに加え、連邦党の支配するジョージア州がジェファーソンに票を投じたので、ジェファーソンは8州を獲得することになった。211日から217日まで下院では実に35回の投票が繰り返されたが、毎回、ジェファーソンの獲得州は8州と、絶対多数に1つ足りないままであった。

 この混乱に終止符を打ったのは、デラウェア州代表のバイアード(James Asheton Bayard)だった。それまでバーに投票をしていたデラウェア州は36回目の投票で白票に転じたのだ。これに引きずられて、それまではバーに投票していたサウスカロライナ州が同じく白票に転じた。さらにメリーランド州およびバーモント州で州の意思を決めるに当たって連邦党議員が棄権したため、それまで白票だったこの2州がジェファーソン支持となった。この結果、36回目の投票でついにジェファーソンが104で勝って大統領となり、バーは副大統領に決まった*[28]

 この事件で、合衆国憲法23項に深刻な欠陥がある事が明らかになったので、1804年に合衆国憲法第12修正が批准された。これにより、先に紹介した23項の下線部に対応する箇所は、それぞれ次の様になった。

 第一の箇所:大統領として最多数の投票を得た者の票数が選挙人総数の過半数に達しているときは、その者が大統領となる。

 第二の箇所:副大統領として最多数の投票を得た者の票数が選挙人総数の過半数に達しているときは、その者が副大統領となる。

 この修正により、今日では選挙人は大統領と副大統領の候補をはっきりと区別して投票することとなった。

 

三 司法権法の2度の改正

 初代連邦最高裁判所長官のジェイは、その職にありながら、外交活動に忙しかったことは前稿に紹介した。エルスワースも同じような立場にあり、上述のとおり、1799年から1800年に掛けて渡仏していた。エルスワースは、この大西洋を渡る旅が原因で重病に罹り、180012月、アダムズ大統領に辞職を申し出た。

 そこで、アダムズはジェイに、その後任として再就任を依頼したが、拒絶された。先に説明したとおり、エルスワースが締結に関わった条約を巡って、国務長官のピカリングを罷免していたアダムズは、その後任にジョン・マーシャルを起用していた。適当な人物を見つけられなかったアダムズは、マーシャルを、国務長官在任のまま、連邦最高裁判所長官に任命することを決断した。この当時は、ジェイやエルスワースが連邦最高裁判所長官のまま外交官職務を果たしていたことからも判るように、今日と違って、兼職の禁止と言うことが喧しく言われなかったのである。

 前稿で、エルスワースとマディスンが、その成立に大きな役割を果たした1789年司法権法(Judiciary Act of 1789)について説明した。同法には、一つの大きな欠陥があった。連邦最高裁判所判事は、長官も含め、常に各地に存在する高等裁判所を巡回して高等裁判所審理に参加する責務を負っていたのである。当時の合衆国は、北米大陸の東海岸に沿って、日本列島に匹敵するほど南北に長く展開していた。したがってこれは、老齢にある最高裁判事にとって肉体的負担が大きかった。さらに、多くの最高裁判事が、常に最高裁判所を留守にしているため、最高裁の審理がはかどらない、という問題を生じさせていた。そこで、最高裁判事の高裁への巡回を廃止し、最高裁判所と高等裁判所を明確に分離するべきだ、という事が常に言われていた。エルスワースの辞任も、最高裁判事の職が激務であることに原因の一つがあった。

 そこで、アダムズは、18012月に、司法権法の改正法(the Judiciary Act of 1801)を制定することとした*[29]。この新法は、最高裁判事の巡回任務を解くと共に、定数を6名から5名に減らすこととしていた。高等裁判所については、従来は3カ所に巡回裁判所があったものを、倍の6ヶ所に常設裁判所として設けることとし、ここに16名の専任の裁判官を任命することとした。これ自体は、誠に妥当な法改正であった。

 問題はそこから先にある。先に述べたとおり、1800年の選挙で、連邦党は大統領選挙で敗れただけではなく、同時に行われた上下両院選挙でも大敗していた。そこでアダムズ大統領は、この司法権法の改正を利用して、司法府に連邦党の勢力を存置しようと考えた。すなわち、上述した欠陥是正のための改革に加え、ワシントンD.C.に高等裁判所を新設すると共に、地方裁判所も再編成し、人口の増加に応じて既存の地方裁判所を分割したり、オハイオ地裁を新設したりした。高等裁判所の権限も強化した。そして大統領が必要と認めるだけの数の治安判事、執行官、事務官等の職の新設を認めることとした。そこに、連邦党員を任命することとしたのである。

 法律が成立してから、ジェファーソンが就任するまでに19日間あったので、その間を利用して、アダムズは可能な限り迅速に、同法によって新たに創設された16名の連邦高等裁判所判事と、42名の連邦治安判事(Federalist justices of the peace)の任命を進めた。これらの判事は、真夜中の判事(the Midnight Judges)の異名で知られる。なぜなら、アダムズは判事の任命をジェファーソンが就任する前日の真夜中まで続けたと言われたからである(実際には前日に発令されたのは3名の辞令だけであった。)。

 政権を引き継いだジェファーソンの方では、この様な政党本位の人事を認めるつもりはない。そこで、この人事を否定する手段として、まず同年331日に1801年司法権法を廃止する旨の立法を行った。これにより、自動的に1789年司法権法が復活した。

しかし、1789年法は時代の要請に合わなくなっていることは事実なので、1801年司法権法の改正にも着手した。それが1802年司法権法(Judiciary Act of 1802)である*[30]。同法は、1801年法の導入した連邦裁判所システムの再構成を、改めて再構成する。この法律は、1801年法に基づいてアダムズが新規に任命した連邦党の判事の職を奪うことが目的で制定されたから、1789年法の欠点を除去し、あるいは人口の変動に対応するという観点から見た場合には、完全に改革に逆行するものであった。

 すなわち、同法も、高等裁判所を6ヶ所にした点は1801年法と一緒であるが、そこに、その時点で在職していた6人の最高裁判事を一人ずつ任命することとした。したがって、1801年法と違って、それらの高裁では、新しい高裁判事職は生じないのである。そのおかげで最高裁判事は、自分の担当する区域において、地方裁判所判事と共に、1年の大半の期間を、再び「馬に乗っての巡回裁判“riding circuit”」をする羽目になった。また、1801年法が設置したケンタッキー、テネシー及びメイン等の高等裁判所は、新判事の任命を防ぐため廃止された。

 地方裁判所に関しては、ノースカロライナ地方裁判所の地域をアルベマール、ケープフィア、パムプティコの3地区に分割し、またテネシー州についても東西2地区に分割した。しかし、ここでも新たな判事職は創設されず、ノースカロライナ州とテネシー州の地区の地方裁判所判事は、巡回裁判をすることになった。

 この改正の結果、高等裁判所はわずか名の裁判官で構成されることになったので、同法は、二人の意見が一致しない法律問題については最高裁判所に問い合わせる権利を認めた。また、地方裁判所判事は、自分自身が担当した事件の控訴審については担当できないこととなった。この結果、その種事件については、最高裁判所からの巡回判事が一人で決することとなった。

 そのことを逆から言うと、控訴審法廷を開くには只一人の判事しか必要ないということになる。その結果、最高裁判所判事は、しばしば地方裁判所判事に控訴審を委ねることが可能になった。結果として、最高裁判所判事は、多くの場合に、控訴審の開廷を地方裁判所判事に頼ることになった。従来最高裁判所判事にとって非常に大きな負担であった馬に乗っての巡回を行わずに済ませられることになったのである。この規定は、1840年に、この巡回裁判制度が消滅するまで、最高裁判所判事を“riding circuit”の激務から救う上で、大きな重要性を持つことになった。

 この様な改正により、ジェファーソンは、1801年法が作り出した新規の司法官職を消滅させてしまったのである。しかし、この改正法が成立したのは、真夜中の判事たちが就任してから1年以上も経ってからであった。

 合衆国憲法312項は「最高裁判所および下位裁判所の裁判官はいずれも、非行なき限り、その職を保持することができる。」と定めている。したがって、一度判事として任命されれば、例え法改正によって、その職を行うべき法廷が消滅しても、辞任しない限り、任期一杯はその職を保持することが出来る。そして、治安判事は5年の任期の間、20ドルの報酬を受けることが出来るとされていた。ここにマーベリ対マディソン事件が発生する理由がある。

 

四 マーベリ対マディソン事件

(一) 事件の内容

 本件における原告マーベリ(William Marbury)は、1801年司法権法に基づき、アダムズ大統領により、ワシントン特別区における連邦治安判事の一人に任命された。連邦判事の任命は上院の同意により成立する。同意はすべて正規に得られていた。その後、辞令(commission)はすべて、アダムズ大統領により正規に署名され、正規の合衆国の封印がマーシャル国務長官によって張られた。ただし、任命の発効には辞令が任命された者に送達される必要がある。辞令の送達はマーシャル国務長官の責務であった。しかし、数名の者については任期内に辞令の交付に至らず、その送達は後任の国務長官であるマディスンに委託された。

 ジェファーソンは大統領に就任すると、35日にマサチューセッツ選出の下院議員リンカーン(Levi Lincoln)を司法長官に任命すると共に、国務長官となる予定であったマディスンがワシントン特別区にいなかったため、マディスンが正式に国務長官に着任した180152日まで国務長官代行に任じた。ジェファーソンは、同時にリンカーンに、残っていた辞令を送達しないように命じた。これは1789年国務省設置法1条が明確に定める辞令の送達義務に違反しており、違法な行為である*[31]

 先に述べたとおり、共和党は1801年司法権法を廃止した結果、1789年司法権法が復活した。同法13条に次の規定がある。

The supreme court shall also have writs of mandamus, in cases warranted by the principles and usages of law, to any courts appointed, or persons holding office, under the authority of the United States.

最高裁判所は…法の原則と慣行により認められた場合には、職務執行令状を、合衆国の権限下に設置されたすべての裁判所ないしは官職にある者に発する権限を有する。

 そこで、この辞令交付の拒否という事態に当たり、任命される予定であったマーベリ等は、同条に基づき、マディスン国務長官を相手方として、辞令の交付を命じる職務執行令状(writ of mandamus)の発付を求めて、合衆国最高裁判所に訴えを提起した*[32]

 この結果、この訴訟では、ジョン・マーシャルは前国務長官として証言すると共に、合衆国最高裁判所長官として判決を書いている。これも今日であれば考えられない。

この判決は、判決形式という点でも画期的なものとなった。前稿で述べたように、ジェイ・コートからエルスワース・コートまでは、英国の判決形式の伝統を引き継ぎ、判決に関与したすべての判事が、その席次の順に自分の意見を書いていく形式だったので、判決の結論はどういうものかということが判りにくかった。マーシャルは、この判決で、今日の判決に見られるように、まず多数意見に基づく意見を書くという形式を確立したのである。

 この事件で、マーシャルは非常に難しい立場にいた。既に述べたように、ジェファーソンは法律を無視して辞令の交付を行っていないのである。したがって、法律に従えば、職務執行令状を出さねばならない。しかし、令状を出してもマディスンが辞令を交付するとは考えられない。ジェイが下したチザム対ジョージア州事件判決と同じように、判決を被告人から無視されたのでは、連邦最高裁判所の権利は失墜する。さりとて、法律を無視して令状を出さないと決定し、違法行為の追認をしたのでは、やはり連邦最高裁判所の権威は失墜する。つまり、令状を出しても出さなくても、権威の失墜を招くという情況に置かれていたのである。

 その難しい局面で、マーシャルが選んだ第三の道が、違憲立法審査だったのである。

(二) 判決の内容

 マーシャルは、アダムズの任命行為そのものは完了していた、と認定した上で、上述した1789年司法権法13条の解釈を行う。

 そこで問題となるのは、司法権に関する憲法の規定である。その点に関して、合衆国憲法322項は次の様に定めている。

「大使その他の外交使節および領事にかかわるすべての事件、ならびに州が当事者であるすべての事件については、最高裁判所は、第一審管轄権を有する。前項に掲げたその他の事件については、最高裁判所は、連邦議会の定める例外の場合を除き、連邦議会の定める規則に従い、法律問題および事実問題の双方について上訴管轄権を有する。」

 つまり、この規定によると連邦最高裁判所が第一審裁判所になれるのは外交関係か、州関係の事件だけである。それなのに、1789年法は、それに加えて令状の交付に関する第一審裁判所としていたわけである。

 マーシャルは言う。

「憲法は最高裁判所及び議会が時に応じて制定し、設立する下級裁判所に、合衆国全体の司法権を授与している。この権力は、明示的に合衆国の法に基づいて生じたすべての事件に及び、その結果、何らかの形で、本事件の上に行使することができる。なぜなら、主張された権利は、合衆国の法によって与えられたものだからである。

 仮に立法府の裁量に基づいて司法権を最高裁判所と下級裁判所との間で配分することが意図されていた場合には、司法権とそれに基づくべき裁判制度を定義することは無用だったであろう。若しそのように構成されていた場合には本節以降の部分は、単なる余剰で、完全に無意味である。仮に議会が、憲法が本法廷を第1審と宣言したものに関し上訴裁判とし、憲法が上訴裁判と宣言したものに関し第1審裁判権を与える自由を有するならば、憲法が行った司法権限の配分は実質を持たない形式に過ぎない。

 したがって、公務員に職務執行令状を発行するという、合衆国司法制度を創設する法律によって最高裁判所に与えられた権限は、憲法で保証されていないように見えるので、司法権にそのような権限を授与できるか否か検討する要がある。」

 ここから、マーシャルは憲法の理念を説く。

「人々は将来の政府のために原則を定立する固有の権利を有している。彼らの意見によれば、人びとの幸福を最も良く導くであろうその原則が、すべての米国の構造が樹立されている基礎である。この固有の権利の行使は、非常に偉大なる活動であり、しばしば繰り返して行使されることは出来ず、行使されるべきでもない。それ故にそのようにして樹立された原則は、基本的なものとみなされる。そして、彼らに由来する権力は最高のものであり、めったに行使されることはなく、永久的なものとして設計されている。

 この固有かつ最高の意思が政府を組織し、各部門に、それぞれの権力を割り当てている。それは、それらの部門が止まるべき所を示し、ないし踰越することの出来ない限界を創設している。

 合衆国政府に関しては後者の記述がある。立法府の権力は定義され、限定されている。そしてそれらの限定は、誤解されたり、忘れられたりすることのないように、憲法に記述されている。もし、それらの限界が、立法府が制限しようと意図すればいつでも立法できるのであれば、何の目的で権力は限定され、その限定が記述されているのだろうか? もしそうした限定が責務を課せられた人を制限せず、また、もし法が禁止し、あるいは許容することが義務の違いをもたらさないならば、政府の権力の限定と無限定の区別は廃止されることになる。

 この選択肢の間に中間的折衷の余地はない。憲法は、超越的で最高の法であり、通常の方法では改正できないものであるか、あるいは通常の立法府の法律であって、他の法律と同様、立法府が改正したいと望めば改正しうるものであるかのどちらかである。

 もし前者の選択肢が真実であるならば、立法府の制定した法律で、憲法に違反するものは法では無い。もし後者が真実であるならば、成文憲法は権力の本来的無限性を制限しようという、人々の不合理な試みの一つである。

 間違いなく、成文憲法で枠組みを作ったすべての人びとは、国家の基本的かつ最高の法を制定するに当たって、この問題を熟考した。結論として、あらゆるそのような政府に関する理論は、憲法に抵触する立法は無効であるという事であらねばならない。」

 こうして、わが国憲法で言えば、981項に相当する結論を理論的に導いたわけである。問題は、それを裁判所が言うことができるか、という点にある。言えれば、裁判所は違憲立法審査権を有するか否かが問題になる。

「憲法に反する議会の法律が無効である場合、その無効にかかわらず、裁判所を拘束し、その効力を認める義務があるだろうか。言い換えれば、それが法では無いにも関わらず、それがあたかも法であるかのように取り扱われるべき規範を構成しているのだろうか。

 これは、実際、一見した限りでは主張の不条理さが大きすぎ理論的に確立されたものを実際に転覆する、と思われる。しかしながら、そう言うにはさらに多くの検討を必要とする。

 何が法であるかを言うことは、明らかに司法部の範疇に属し、その義務である。特定のケースに規範を適用する者は、必然的に規範を説明し、解釈しなければならない。仮に二つの法が互いに抵触する場合には、裁判所は、それぞれの機能を決定する必要がある。

 したがって、法が憲法に反している場合、もしも法と憲法の両者を特定事件に適用した場合には、裁判所は、法に従って憲法を無視するか、あるいは憲法に従って法を無視してその事例を判断する、いずれかの必要があるので、裁判所は、その事件を支配するこれらの競合する規範のいずれに依るかを決定する必要がある。これは司法の義務の絶対的本質である。

 裁判所は憲法を尊重しなければならず、憲法は議会の制定する通常の法律よりも優越するとするならば、それら両方が適用される事件では、それら通常法律ではなく、憲法がその事件を支配しなければならない。

 憲法は裁判所において最高法であると考えられるという原則を否定するということは、裁判所が憲法に目を閉じ、法のみを参照して法廷を維持する必要性に還元される。

 この教義は、あらゆる成文憲法の基礎を覆すであろう。それは、我々の政治体制の原則と理論によれば完全に無効である法律が、それにも拘わらず、実際には、完全に強制力を有すると述べていることになる。それは、議会が明示的に禁止されていることをあえて行う場合にも、そのような法律は、明示的な禁止にもかかわらず、現実には有効なであると述べていることになる。それは、議会に、その権限を狭い範囲に制限しているのと同じ限度で、実行上、実質的に全能を与えることになる。それが記述している限界は、任意に踰越しうることを宣言している。

 こうして、それは私達が政治制度上の大きな改善と判断したもの、すなわち成文憲法を無に帰し、成文憲法をあれほど畏敬の念を持ってみた米国において、その構造を否定するに他ならない。しかし、合衆国憲法の独特の表現は、その否定を支持する補足的議論を提供する。

 合衆国の司法権は、憲法の下で生じたすべての事件に拡張される。

 憲法を検討するべきではない、という事が、この権力を与えた人々の意図でありうるだろうか? 憲法の下で発生する事件を、それが発生した手段を調べることなく決定されるべきなのだろうか?

 これは余りにも無駄というものである。

 ある事件では、したがって、憲法が裁判官によって検討される必要がある。そして、彼らがそれをそもそも行うことができるとするならば、そのどの部分が、彼らが読み、あるいは従うことを禁じられているのだろうか?」

こうして、マーシャルは違憲審査を行うのが正義だと論じる。問題は、日本国憲法と違って、合衆国憲法には違憲審査を許容する明文の規定が存在していないことである。しかし、マーシャルは、黙示的に違憲審査を予定している規定が合衆国憲法中に多数存在していると説く。

 第一にマーシャルが取り上げたのは、合衆国憲法1条9節5項である。

「憲法は『各州から輸出される物品に対して、租税または関税を賦課してはならない』と宣言している。綿、煙草ないし小麦粉に対する課税があり、それを取り戻すための訴訟を考えてみよう。この事件で、裁判所は判断を放棄すべきだろうか。裁判官は憲法に目を閉じて、法律のみを見るべきだろうか?」

 第二にマーシャルが取り上げたのは、合衆国憲法第1条第93項である。

「憲法は、『私権剥奪法*[33]または事後法を制定してはならない。』と宣言している。

 しかしながら、もしも、そのような法案が通過されるべきであり、ある人がその下に起訴される場合に、裁判所は、憲法が守ろうと努力している、それらの犠牲者に対し死刑を宣告しなければならないのだろうか?」

 第三にマーシャルが取り上げたのは、後にバーがジェファーソンから反逆罪で訴えられた際、彼の身を守ることとなった合衆国憲法332項である。

「憲法は『何人も、同一の外的行為についての2 人の証人の証言、または公開の法廷での自白によるのでなければ、反逆罪で有罪とされない。』と宣言する。

 ここでは、憲法の文言は、特に裁判所に宛てたものである。それは、直接裁判所に対し、採用すべきでない証拠に関する規則を規定している。仮に、議会がその規則を変更し、証人は一人で、もしくは法定外における自白で足りると宣言した場合、憲法上の原則は議会の法律に屈しなければならないのだろうか?」

 第四にマーシャルが取り上げたのは、合衆国憲法63節が定める裁判官の宣誓義務である。同節は、次の様に定めている。

「この憲法に定める上院議員および下院議員、州の立法部の議員、ならびに合衆国および各州のすべての行政官および司法官は、宣誓または宣誓に代る確約により、この憲法を擁護する義務を負う。但し、合衆国のいかなる官職または信任による職務に就く資格条件として、宗教上の審査を課してはならない。」

 この宣誓義務は、日本国憲法で言えば、99条が課している公務員の憲法忠実義務に相当するものということができるであろう。

 この規定について、マーシャルは次の様に説明する。

「これらの規定及びその他多くのものから、憲法起草者が、裁判所の統制ばかりでなく、議会統制の道具として憲法を考えていることは明らかである。

 そうでなければなぜ、それは裁判官にそれを擁護することを宣誓するように指示しているのだろうか? この宣誓は、確かに彼らの公的性格に応じて、その行為に特別な方式でなされる。もし、彼らが自ら擁護すると宣誓したことを侵害するための道具として扱われるべきであるならば、道具であることを知っている彼らにその義務を課することは何と不道徳的なことであろうか。

 就任時の宣誓は、これも又議会によって課せられているのであるが、この問題に対する議会の見解を完全に示している。それは次の言葉である。

『私は厳粛に、私が人に関係なく正義を管理し、貧しき者にも富める者にも等しく権利を認めることを誓う。そして、私は忠実かつ公平に私の能力と理解の最善を尽くして合衆国の憲法と法律にしたがう。』*[34]

 もし憲法がその統治のための規範を形成していないならば、なぜ裁判官は合衆国憲法に従って彼の義務を遂行すると誓うのだろうか? もしも彼には禁じられ、彼によって審査することが許されない場合に?」

 このように、成文憲法上、あきらかに違憲審査を予定していると認められる規定を列挙した上で、マーシャルは言う。

「国の最高法でなければならないと宣言するには、米国の法律一般ではなく、憲法それ自体が最初に言及されることに加え、法律が憲法の遂行として制定されるという階層をもっているとしない限り、それを遵守する価値は全くない。

 このようにして、米国憲法の特定の表現が確認され、あらゆる成文憲法において、憲法に反する法律は無効であるという原則が本質的なものとされるという原則が強化される。裁判所は、他の部門と同様、この法律文書に拘束されるのである。

 規範は守られねばならない。」

 こうして、マーシャルは、連邦最高裁判所は、合衆国憲法の述べている限られた場合にしか第一審として活動することはできないことを理由として1789年司法権法13条を違憲とし、それに基づき、マーベリ等の訴えを退けたのである。

 

 マカラック対メリーランド州事件

 このマカラック対メリーランド州事件(McCulloch v. Maryland, 17 U.S. 316 (1819))は、日本で紹介される米国憲法訴訟ではあまり取り上げないが、米国のその後の歴史に重大影響を与えた、きわめて重要な判決である。

(一) 事件の背景

 マーベリ対マディソン事件が、1800年の選挙を知らないと理解できないのと同様、米国中央銀行の歴史を知らないと、この判決の意味は理解できない。そこで、簡単に中央銀行の歴史を説明する。

 こんにちの米国には他国と違い、中央銀行は存在しないが、独立後間もない時期の米国には第1次合衆国銀行(First Bank of the United States)(1791年)及び第2次合衆国銀行(Second Bank of the United States)(1816年)として知られる中央銀行が存在した。マカラック対メリーランド州事件そのものは、第2次合衆国銀行に関する事件であるが、事件のベースになった中央銀行の合憲性の問題は、第1次合衆国銀行でも同一であった。

 これらはいずれも戦後処理のために設立された中央銀行である。すなわち、第1次合衆国銀行は、1791年に財務長官ハミルトンによって、イングランド銀行(Bank of England、正式名称はthe Governor and Company of the Bank of England)を模範として提案された。イングランド銀行は、名誉革命後の長期にわたる英国の戦争戦費を見事に支えたため、その制度は英国では財政革命(Financial revolution)と呼ばれる。第1次合衆国銀行は、それに倣って、基本的に独立戦争の間に合衆国が負担した膨大な債務を処理する手段として考案されたのである。

 しかし、国務長官のジェファーソンや議員のマディスンは、連邦が銀行を設立するというアイデアそのものに激しく反発した。「ジェファーソンに言わせれば、銀行とは、貧乏人から金を巻き上げ、農家を圧迫し、質素な共和主義を堕落させるぜいたく好きを生むための仕掛けだった。」*[35] そして、中央銀行の設立は違憲であると主張した。

 1787年にフィラデルフィアで開かれた憲法制定会議では、マディスンは、連邦政府が必要とする会社設立の権限を連邦議会に与えるように提案していたが、通らなかった。中央銀行設立の提案も検討されはしたが、州の反対を引き起こし、憲法の批准が危うくなることを恐れて議題にさえ載せていなかった。この結果、合衆国憲法には、どこにも中央銀行設立を許容する文言は存在していないのである。ジェファーソンやマディスンの反対の理論的な根拠はそこにあった。

「ジョン・マーシャルは著書『ワシントンの生活(Life of Washington)』の中で、アメリカの政党の始まりが、この合衆国銀行をめぐる怨恨に満ちた論争であったことを明らかにしている。彼に依れば、この議論によって『性格のまったく異なる二つの政党が明確に組織として完成した。権力をめぐるその長く先行き不透明な戦いにおいて、〈中略〉アメリカはこれら政党に芯まで揺さぶられた。」*[36]

 合衆国銀行設立法案は、ハミルトンの強い影響力で無事に上下両院を通過した。しかし、大統領のワシントンも、ジェファーソンやマディスン同様に農園主であったために、銀行に関しては消極的だった。これに対し、ハミルトンは大部の意見書を徹夜で書き上げ、ワシントンに提出した。

 ハミルトンが中央銀行を合憲と主張する根拠は憲法18節にあった。同節は、連邦議会の権限を個別に列挙した後、次の条文で締めくくっている。

「上記の権限およびこの憲法により合衆国政府またはその部門もしくは官吏に付与された他のすべての権限を行使するために、必要かつ適切なすべての法律を制定する権限。」(下線は筆者)*[37]

 この下線を付した「必要かつ適切(necessary and proper)」条項により、議会は必要と認められる機関を創設できるのだとハミルトンは主張したのである。ワシントンはこの主張を受け入れ、署名して中央銀行法は発効した。ハミルトンの意見書は、この後、連邦政府の権限の拡大に一貫して重要な役割を演じることになる。

 同法は、20年間の期間、銀行の存続を認め、その後は連邦議会の議決により更新可能とされていた。しかし、1811年に20年の期限が来たとき、議会は1票の差で更新を否決してしまい、第1次合衆国銀行は消滅する。

 第2次合衆国銀行を提案したのは、皮肉なことに、第1次合衆国銀行の設立に猛反対したマディスンであった。ジェファーソンの後を受けて第4代大統領となっていたマディスンは、1812年に勃発した米英戦争(2次独立戦争とも呼ばれる)*[38]の戦費を賄うためにどうしても中央銀行が必要になったのである。反対派の中心であったマディスン自身が提案したのであるから、法案はほとんど反対無く議会を通過し、第2次合衆国銀行は1815年に創設された。

 しかし、各州レベルでは依然として中央銀行の存在に対して反発が強く、いくつかの州は合衆国銀行の支店の営業を禁止したり、多額の課税を行ったりするなどの挙に出た。その一つがメリーランド州である。

 この当時、米国の紙幣は、個々の民間銀行がそれぞれの信用に基づいて発行していた。メリーランド州は、同州の公認ではないすべての銀行の紙幣に税を課すという法律を制定した*[39]。法律の文言による限り、それは一般的な法規であった。しかし、実際にはメリーランド州公認でない銀行で、メリーランド州内で紙幣を発行していたのは、第2次合衆国銀行の支店のみであった。つまり、州は、この法律により、合衆国銀行の運営を妨げようとしたのである。それに対し、合衆国銀行ボルチモア支店長マカラック(James William McCulloch)がその税を支払うのを拒絶したために裁判となった。

 

(二) 判決の内容

 この裁判では、メリーランド州側は、合衆国銀行の合憲性を問題とした。

  1 連邦最高裁判所の権限

 この事件では、連邦議会の制定した法律と州議会の制定した法律が真っ向から衝突している。そのような場合に、誰が決定権を持つのかがまず問題となる。マーシャルは、次の様に述べて、それは連邦最高裁判所であると宣言した。

「ここで問題となっている事件においては、被上告人である主権国家(a sovereign State)は、連邦議会によって制定された法の義務を否定し、上告人はその州議会が可決した法律の有効性を争っている。我が国憲法において、連邦政府とその構成員の権力の衝突は、その最も興味深く重要な部分であり、それに関する意見は本質的に政府の重要な活動に影響を与えるものなので、憲法の定めるところに従って考慮されなければならない。その決定に含まれる重要性と重大な責任の深い意味抜きで、この問題にアプローチできる裁判所は存在しない。しかし、それは平和的に決定されねばならず、ないしは対立する立法という、おそらくはさらに深刻な性質の対立を解決する必要がある。そして、もしそれがそのように決定されるべきものであるならば、本法廷のみが単独でその決定を行うことができる。合衆国最高裁判所に、わが国憲法は、この重要な任務を委譲している。」

 この場合、マーシャルは合衆国憲法をそのように解する根拠を、判決文中には何ら示していない。当然にマーベリ対マディスン事件判決を念頭に置いたものである。

 

  2 合衆国主権の意義

 この裁判で争点となった第一の問題は、連邦議会が中央銀行を設立する権限が憲法上存在しているのか、という事である。

 この質問を議論するにあたり、メリーランド州の代理人は、憲法は、人民から生じたものでは無く、主権を有する独立国の行為により制定されたと主張した。連邦政府の権限は州から委任されたものであり、州のみが真の主権国家であり、したがって合衆国政府は、唯一最高の支配権を持つ州に従属して、その権限を行使しなければならない、と主張した。

 これはきわめて重要な主張で、南北戦争時における南部政府側の、連邦脱退の根拠もこの主張にあった。

 これに対して、マーシャルは言う。

「その主張を維持することには無理がある。憲法を制定した会議は、実際、邦の議会によって選出された。しかし、憲法は、彼らの手から離れた時点では、何の義務も権利も伴わない単なる提案であった。それは、その時点で存在していた連邦議会に、『各邦議会の同意と批准のために、その人民によって選ばれた邦代表者の会議に提出される要求』*[40]として報告された。

 制定に当たっては連合会議でも、連邦議会でも、邦議会でもこの手続方法が採用され、憲法は人民に提出された。人民が憲法に対し、安全かつ効果的で賢明に行動する唯一の方法、すなわち会議で組み立てるという方法がとられた。それはいくつかの邦で組み立てられたそれ以外にどんな方法があるというのか? いかなる政治的夢想家も、州を分ける線を破棄するというほど乱暴ではない。結果として、彼らが行動するときは、彼らは州の中で行動し、アメリカ人民を一般的集団として作り上げることになる。しかし、彼らは採用する手段は、その様なわけで、人民それ自身の手段であり、ないしは州政府の手段となるのである。

 これらの会議から、憲法の全権限が導かれる。統治は人民から直接導かれる。統治は、人民の名の下に『制定し、確定する』のであり、『より完全な連邦を形成し、正義を樹立し、国内の平穏を保障し、共同の防衛に備え、一般の福祉を増進し、われらとわれらの子孫のために自由の恵沢を確保する目的をもって』*[41]宣言されたのである。

 主権を有する各州の同意は、会議の招集では暗黙裏になされ、それ故に憲法は直接に人民に提出されている。人民にはそれを受け入れるか拒否する完璧な自由があり、彼らは終局的にそれを受け入れた。それは州政府による確認や否認を要しなかった。憲法は、こうして採択されたときに、完全な義務となり、各州の主権を拘束するものとなる。

 人民はすでに国家主権に対するすべての権力を放棄し、与えるべき何ものもなかったと言われてきた。しかし、確かに、彼らが政府に与えた権限を取り戻し、変更できるかという問題は、この国では定着し、疑問ではない。多くの一般政府の正当性は、国によってはそれを疑われるかもしれない。国家主権に委任された権限は人民自身によって行使されるのであって、人民によって作成された別個の、独立した主権によって行使されるのではない。かつての連合のような同盟の形成には、国家主権は確かに有能であった。しかし、『より完全な連邦を形成するために』は、この同盟を変更し、より効果的な政府にする必要があり、それは強大な主権的権力を保有し、直接に人民に働きかけ、人民に属する必要があり、その権力は人民から直接に導かれる、そのすべてが感じられ、認められるもので無ければならない。連邦の政府は、それ故に(この事件に関する事実に影響するものは何であれ)、絶対的かつ真に人民の政府である。その形式及び実質において、それは人民から発する。その権力は、人民によって与えられ、人民に直接行使され、その利益は人民のものである。」

 このマーシャルの主張こそ、南北戦争でリンカーン大統領が依拠したものである。特に、この末文には、リンカーンの有名なゲティスバーグ演説(人民の、人民による、人民のための政府)の原型が明らかに読み取れる。

 

  3 連邦の中央銀行設立権

 こうして、連邦には州とは別個独立に、州と同様に直接人民から信託された主権があるとした場合、この事件のように連邦と州の主権が衝突した場合には、問題はどのように解決されるべきだろうか。

 マーシャルはここで、合衆国憲法62節を引用する。次の様な条文である。

「この憲法、およびこれに準拠して制定される合衆国の法律、ならびに合衆国の権限にもとづいて締結された、または将来締結されるすべての条約は、国の最高法規である。すべての州の裁判官は、州の憲法または法律に反対の定めがある場合でも、これらのものに拘束される。」

 このうち、マーシャルは「この憲法、およびこれに準拠して制定される合衆国の法律…は、国の最高法規である」という部分を取り出して、次の様に論じる。

「この要求により、州議会の構成員並びに州の行政官および司法官は、合衆国憲法に対する忠誠を宣誓しなければならない。合衆国政府の権力には確かに制限があるが、それは最高であり、その法は、憲法の実現のために制定された場合には、『州の憲法または法律に反対の定めがある場合でも』国の最高法規である。」

 その上で、マーシャルは、銀行の設立が、合衆国憲法上、連邦の権限に属するか否かを検討する。

「憲法に列挙された権限中に、我々は銀行を設立し、または法人を設置する事に関する条項を見つけることはできない。しかし、合衆国憲法中には、連合規約のように、従属的または暗黙の権限を除き、信託された全てが明示的に細かく記載しなければならないとする規定はない。」*[42]

 ここで、マーシャルは第10修正に言及する。第10修正は次の様な条文である。

「この憲法が合衆国に委任していない権限または州に対して禁止していない権限は、各々の州または国民に留保される。」

 これが、州側のもっとも強力な形式上の根拠である。しかし、これに対してマーシャルは言う。

「興奮で過剰となった嫉妬を静める目的のために設けられた第10修正でさえも『明示的』という言葉を省略し、単に『合衆国に委任していない権限または州に対して禁止していない権限は、各々の州または国民に留保される』ことだけを宣言することにより、問題となった特定の権限が合衆国政府に委任され、または禁止されているかは、憲法全体の適正な構造に依存して判断されるように制定されている。この修正条文を記述し採用した人びとは、連合規約のこの単語の挿入に起因する混乱を経験していたので、おそらくそれらの混乱を避けるために、それを省略したのである。」

 この第10修正に関する議論は、相手側の論拠を否定する消極的なものである。それに対して積極的に中央銀行を設立する権限が存在することをマーシャルは論証する必要がある。憲法中に銀行設立に関する規定はないのである。

 もちろん、あらゆる国家の権限を憲法に記載することは無理であり、そこから銀行設立権を導くことはできる。問題は、その権限は連邦と州のいずれに属するかである。そこでマーシャルは、企業の設立は、それ自体が目的なのではなく、ある目的を達成するための手段なのだと説く。

 そこで登場してくるのは、ハミルトンが第1次合衆国銀行に関してワシントンに提出されたハミルトンの意見書で述べた憲法18節にいう『必要かつ適切』条項である。

 そこで、マーシャルはこの『必要』という語の意味について様々に検討をし、最終的に次の様に結論を下す。

「第一に、この語句は、議会の権力に関する規定中に置かれており、決してその権力の制限規定中に置かれているわけではない。

 第二に、その条項は政府に信託された権力を縮減する目的ではなく、拡大する趣旨である。それは、既に付与されている権限の制限ではなく、追加する趣旨である。連邦議会の裁量権を拡大する文言により、それを狭める意図を隠していると考える理由は無い。」

 この前提の下にさらに検討した上で、連邦最高裁判所は、合衆国銀行設立法は合憲であり、各州法に優越すると宣言する。

 

  4 各州の課税権

 次の論点は、中央銀行が合憲であるとして、各州はこれに課税する権限を有するのか、という点である。言うまでも無く、課税権は国家の本質的権力であり、連邦が課税権を有するからと言って、州の課税権が否定されることはあり得ない。

「各州によって合衆国銀行に課税することが、それを破壊することは否定できないことは余りにも明白である。しかし、課税権が、憲法に明示的に規定するもの以外のいかなる制限にも服しない絶対的な権力であり、他の主権に基づく権力と同様にそれを信託されたものの裁量に依存していると言われている。しかし、この議論が絶対的な条件は、課税権そのものも含め、州の主権は、合衆国憲法の下位にあり、それによって制御されているということである。合衆国憲法がどの限度まで制御するかは、その構造の問題でなければならない。合衆国憲法を制定するに際しては、何の原則も宣言されていないので、どこまで許容できるかは、最高政府の正当な運営を打破すると認められるかによる。それ自身の圈内にあるその活動に対するすべての障害を除去することは至上性の絶対的本質であるので、下位政府に帰属するすべての権力を、その活動に影響を与える限度で修正することができる。この効果は、文言で記述する必要はない。それは至上性の宣言に暗黙裏に含まれており、明示することでより明確にする必要は無い。憲法の解釈に当たり我々は、この視点を維持する必要がある。」

 こうした議論をさらに重ねた末、マーシャルは、メリーランド州法は違憲であると宣言する。今日であれば、連邦法は州法に優越する、といえば済むことであるが、それはこのような論理によって導き出された結論が憲法原理として確立した結果なのである。

 

(三) その後

 第2次合衆国銀行も、第1次合衆国銀行と同様、20年間の時限立法で設立されていた。それ故に1836年に免許を更新する必要があった。1828年の大統領選挙で第7代大統領に就任していたアンドリュー・ジャクソンは合衆国銀行の公認の更新について強く反対し、1832年大統領選挙の綱領では、合衆国銀行の廃止を公約として掲げていた(彼の有名な言葉に the bank is trying to kill me, but I will kill it”がある)。選挙に勝った翌18339月、ジャクソンは合衆国銀行に政府の資金を預託することを終わらせる執行命令を発した。これにより、合衆国銀行は実質的に中央銀行としての機能を失うことになる。

 さらに、1836年に、議会が合衆国銀行の期間更新の議決を行うと、ジャクソンはこれに対して拒否権を発動した。これは、史上最初の、合憲であることが確定している法案に対する拒否権の発動となった。議会は強く反発したが、反ジャクソン派は大統領の拒否権を覆すにたる3分の2の多数を確保できなかった。そこで、合衆国銀行は、州法銀行に転換して存続しようとしたが、ジャクソンのさまざまな政策によって最終的に破産に追い込まれた。その後は、1913年に連邦準備制度が成立するまで、米国には中央銀行に相当する機能を果たす組織すら存在しなかった。

 

六 その他の重要憲法判例

 本稿の紙幅も尽きてきたので、マーシャルの下した憲法判例で、同時代的な影響は軽微であったが、後世に大きな影響を残した判例をいくつか、簡略に紹介したい。

(一)ダートマス大学事件 

 ダートマス大学事件(Trustees of Dartmouth College v. Woodward, 17 U.S. (4 Wheat.) 518 (1819) は、合衆国憲法の「契約条項(Contract Clause)」を扱ったと言う点で、歴史的な重要性を持つ。

 契約条項とは、合衆国憲法1101項の一部である。次の下線部がそれである。

「州は、条約を締結し、同盟もしくは連合を形成し、船舶捕獲免許状を付与し、貨幣を鋳造し、信用証券を発行し、金貨および銀貨以外のものを債務弁済の法定手段とし、私権剥奪法、事後法もしくは契約上の債権債務関係を害する法律を制定し、または貴族の称号を授与してはならない。」

 すなわち、契約条項は、遡及的に契約上の権利を損なう法律の制定を州に対して禁止している。また、契約条項は、州の法律だけではなく、裁判所判決にも適用される。憲法起草者は、州が連合規約の下においてしばしば行われた特別法に対する恐怖を解消する目的で、この句を追加した。すなわち,当時の議会は、特定人(当然だが、有力者)の債務の緩和法を議決すると言うことをよく行ったのである。また、独立戦争中及び革命後に、多くの州は、外国債権者を犠牲にし、植民地の債務者に有利な法律を可決した。憲法起草者は、そのような行為は米国への外国資本の将来の流れを危うくすると信じていた。その結果、契約条項は、売上契約および融資契約の不可侵を保障することにより、外国商人に、米国との取引の損失のリスクを低くするという狙いがあったのである。

1 事件の内容

 ダートマス大学(Dartmouth College)は、ニューハンプシャー州ハノーバー市に本部を置き、1769年に、英国王ジョージ3世の勅許を賜って創立された私立大学で合衆国では13番目に古い。創立に当たって英国王の側近の政治家が出資しており、その代表者が、1772 年〜1775年に英国政府の植民地大臣(Secretary of State for the Colonies)を務めたダートマス2世伯爵(William Legge, 2nd Earl of Dartmouth)であったため、大学に彼の名がついた。ジョージ3世の勅許状(charter)には学校の目的が綴られ、それを支配する構造を設定し、大学に土地を与えていた。つまり、勅許状は同時に大学定款である。

 1816年、ニューハンプシャー州議会は新たに法律*[43]を制定して、ダートマス大学の勅許状を修正し、知事の手に大学理事の任命権限を与え、大学理事会の定員を12名から21名に増員し、さらに大学理事会の決定に対して拒否権を有する州監督委員会を設置しようとした。この委員会は、25名の構成員からなるが、そのうち21名はニューハンプシャー州上下両院議長等がその地位により就任することとしていた。これは実質的に私立大学から州立大学への変換を意味する。この法律を制定した狙いは、共和党系の州政府が、連邦党系の理事を大学から追放し、大学を共和党の支配下に置くことにあったという。

 そこで大学理事会が、議会の行動が違憲であるという宣言を求めて、州が任命した新たな理事会書記であるウッドワード(William H. Woodward)を相手取り、訴えを提起した。

2 判決の内容

 そこで争われたのは、この法律が契約条項に違反して違憲なのか否かである。上記の立法経緯からすれば、このような教育機関のような慈善事業は、憲法起草者の念頭になかったことはあきらかであるが、マーシャルは「熟議の結果、当法廷の意見に依れば、これは合衆国憲法に違反することなく侵害することのできない契約である。」と宣言し、ニューハンプシャー法を違憲としたのである。

 このダートマス事件判決により、連邦最高裁判所は、民間の契約の変更または取り消しは、合理的な理由が無い限り、州法や州憲法の改正という手段に依ってでも許されないことを確立した。

 歴史的に見れば、この判決は、契約条項を強化し、民間企業を含め民間の契約に国家が干渉することを制限する、最も重要な最高裁判決の一つとなった。

 

() コーエン対バージニア州事件

このCohens v. Virginia, 19 U.S. 264 (1821)事件は、被告人がその憲法上の権利が侵害されたと主張した場合において、連邦最高裁判所が、州最高裁判所の判決を再審査できるという判例を確立したことで有名な事件である。

1 事実関係

 連邦議会はワシントンD.C.内において宝籤を発行し、販売することを認める法律を制定していた。コーエン兄弟はこのD.C.宝籤をバージニア州で、同州の法律に違反して販売し、100ドルの罰金を科せられた。そこで、コーエン兄弟は連邦最高裁判所に、彼らの行為は連邦宝籤法により許容されていると主張して上告した。

 2 判決の内容

 その結果、主たる争点は、連邦最高裁判所は、バージニア州の法廷が定めた事に対する司法権があるかという点にあった。連邦最高裁判所は、合衆国憲法32節が「この憲法、合衆国の法律および合衆国の権限にもとづき締結された、または将来締結される条約のもとで発生するコモンロー上およびエクイティ上のすべての事件」と定め、何らの例外を述べていないことを根拠に司法権を有すると判決したのである。

 しかし、コーエン兄弟に対する告訴は支持した。連邦議会は、ワシントンD.C.の外で宝籤を販売することを意図しておらず、したがって宝籤販売を許可した連邦法と、宝籤販売を禁止したバージニア州法の間に衝突は存在していないとしたのである。

 

() ギボンズ対オグデン事件

 米国の歴史は、州に対する連邦権限拡張の歴史ということができるが、その大きな武器となったのが州際通商条項(Interstate Commerce Clause)であり、その最初の事件となったのが、ギボンズ対オグデン事件(Gibbons v. Ogden, 22 U.S. 1 (1824))において、マーシャルが打ち出した州際通商条項(Interstate Commerce Clause)に関する判例である。州際通商条項は、合衆国憲法183項が定めている。次の様な規定である。

「連邦議会は、つぎの権限を有する。〈中略〉

 諸外国との通商、各州間の通商およびインディアン部族との通商を規制する権限。」

 すなわち、この規定は、連邦議会の権限として、外国通商条項(Foreign Commerce Clause)、インディアン通商条項(Indian Commerce Clause)、それに州際通商条項を定めているわけである。

 しかし、連邦議会に州際通商を規制する権限があるといっても、それが具体的に何を意味しているのかは、この時まではっきりしていなかった。それを明確にしたのが、このギボンズ対オグデン事件判決なのである。

1 事件の内容

 蒸気船を発明したのは、フルトン(Robert Fulton)である。1777年のことであった。フルトンは、伯父のリビングストン*[44]と、蒸気船運航会社を興し、ニューヨーク州議会の法律によってニューヨーク州内の全水面で、蒸気船を運航する独占権を得ていた。フルトンとリビングストンは、後にこの権利をオグデン(Aaron Ogden)に譲渡した。

 他方、ギボンズ(Thomas Gibbons)は、連邦議会から、連邦の持つ沿岸貿易規制権限の一環として、ニュージャージー州エリザベスタウンとニューヨーク市を結ぶ蒸気船を運航する特許を得た。

 そこで、オグデンは、ギボンズの船の運航を差し止める訴えをニューヨーク州裁判所に提起し、勝訴した。そこで、ギボンズが連邦裁判所に提訴したのがこの事件である。

2 判決の内容

 マーシャルは、ギボンズに対して勝訴判決を下した。そこで決め手になったのが、州際通商条項である。

 この事件では、ニューヨーク州の法律と、連邦の法律のいずれが優越するかが問題となった。そこでの問題は、州際(among the several states)と通商(commerce)という言葉が、それぞれ何を意味するかである。

 マーシャルは、通商とは単なる交通(traffic)ではなく、商品取引(trade of commodities)ないし交換(intercourse)であるとした。その限界は航海(navigation)を含むという。また州“際”(among)とは、混ざり合う(intermingled with)ことだという。

 このように言葉を置き換えた結果、マーシャルは「通商という言葉が付け加えられていることにより、連邦議会が航海を規制する権力は明示的に授与されている」と結論した。この結果、通商に関する議会の権限は、州法にあらゆる局面で優越するとした。

「常に理解されているように、連邦議会の主権は、特定の対象に限定されてはいるが、その対象に関しては無条件に認められる。外国及び州際の通商権限は、あたかも単一の政府が有しているであろう処と同様に、絶対的なものであり、その権限の実施に対する憲法上の制約も、合衆国憲法が定めている場合においても同様である。」

3 その後

  これにより、州際通商条項は、連邦議会が制定する法律の権限を大幅に拡大するものとなった。もっとも、1935年にシェクター鶏肉加工社対合衆国事件(Schechter Poultry Corp. v. United States)判決では、鶏肉加工工場内の労働者の労働時間と賃金を規制する連邦法が鶏を生きたまま他州から仕入れているにもかかわらず、工場内の労働である加工と販売はニューヨーク州内で行っていることから、一つの州内のみに関わる事項であり、州際通商に当たらないとして違憲とされたことがある。

 

() ウースター対ジョージア州事件

 最後に、マーシャルが実質的に敗れた事件を紹介しておく。

 英国の植民地は、当初各地のインディアン部族と条約を結び、平和共存を図った。独立した米合衆国もこの政策を継承した。しかし、人口が増加し、西部開拓の圧力が増すに連れて、白人が条約を無視してインディアンの土地に勝手に入植する事件が増えていった。そこで、ジョージア州は、インディアンに対してその土地の割譲を迫った。さらにジャクソンが大統領に就任すると、連邦が,州のこうした政策を後押しし、インディアン部族を奥地へ強制的に移住させようとした。

 これに対するインディアンの対応は様々だった。チョクトー (Choctaw) 族は抵抗せず、自ら移住していった。これに対し、セミノール(Seminole)族は、武力を持って白人の侵略に対抗した。セミノール戦争は10年以上も続き、合衆国政府は莫大な戦費を負担することになった。

1 事件の概要

 チェロキー族(Cherokees)は,そうした圧力を、甘受すること無く、かつ武力ではなく、法的闘争で打破しようともくろんだ。チェロキー族の抵抗の一環として幾つも起きた裁判事件の一つが、このウースター事件(Worcester v. Georgia, 31 U.S. 515 (1832))である。

 ジョージア州にとって問題だったのは、白人宣教師がチェロキー族側の味方について活動することである。そこで、ジョージア州は、白人は州の許可無くチェロキー族の土地に入ることを禁じる立法を行った*[45]。ウースター(Samuel Worcester)等11人の白人宣教師はこの法律に違反したとして逮捕され、州裁判所において有罪判決を下されて収監された。

 ウースターは,このジョージア州法が違憲であると訴えて連邦最高裁判所に上告した。この刑事訴訟は、必然的に、それまでのすべてのジョージア州側のチェロキー族に対する侵略行為が争点となる。

2 判決の内容

 マーシャルは、チェロキー族と合衆国の条約が存在する以上、ジョージア州の一連の立法等による侵略行為は違憲であると宣言した。なぜなら、外国との交渉においては,州ではなく、合衆国こそが絶対的な権限を持っているからである。

 3 その後

 しかし、ジャクソン大統領は、この判決に対してこう言い放ったという伝説がある。

「ジョン・マーシャルが判決を下した。だから彼にそれを実施させろ!」*[46]

 実際にそう言ったかどうかはともかく、現実に、連邦政府もジョージア州もこの判決を完全に無視した。そして、マーシャルの違憲判決は、行政府がそれを尊重しない限り、実効性を持たなかったのである。

 万策尽きたチェロキー族は1830年に定められたインディアン移住法(Indian Removal Act of 1830)の下、1838年、17,000名のチェロキー族インディアン及び富裕なチェロキー族に所有されていた約2,000名の黒人奴隷が現在のオクラホマ州にある新たなインディアン居留地までのおよそ1,200マイル (1,900 km)の移住を徒歩で行った。チェロキー族の多くが、赤痢その他の病気のために移住の途上で命を落としたといわれる*[47]。これが「涙の道(Trail of Tears )」と呼ばれる事件である。チェロキー族の言語で、この出来事は、nvnadaulatsvyi(我々が泣いた道)と呼ばれている。この出来事を記念するためにアメリカ合衆国議会は1987年に「涙の道国立歴史の道」"Trail of Tears National Historic Trail," を指定した。

 

[おわりに]

 1835年の春、マーシャルの乗っていた馬車が転覆してマーシャルは負傷し、フィラデルフィアで治療を受けていたが、76日に現職のまま死亡した。享年79歳。

 彼の連邦最高裁判所長官在任期間は180124日から、彼が死亡する183576日まで、実に34年余に達する。彼は合衆国が始まって以来、はじめて長期にわたって長官職を勤める人物となったのである*[48]。その間、大統領は第3代ジェファーソンから第7代ジャクソンに及ぶ。しかも、その間、本稿に紹介した数多くの重要な判決を下すことにより、連邦最高裁の権威を大いに高め、第三権としての地位を確立したのである。彼は、米国において最も尊敬される裁判官といわれる。

 わが国では、往々にしてマーシャルの名は、マーベリ対マディスン事件とのみ結びつけて紹介される。しかし違憲立法審査権の確立は、そのような、本稿に詳しく紹介したとおり、ある意味において苦し紛れの、たった一つの判決によって可能になるものでは無い。マカラック対メリーランド州事件その他、連邦と州が対立した幾多の紛争において、連邦最高裁判所が行使する違憲立法審査権こそが、その紛争の最終的な解決手段として有用であることを、繰り返し証明したからこそ、その判決が尊重される伝統を確立することに、マーシャルは成功したのである。最後に上げたウースター対ジョージア州事件において、マーシャルの判決が尊重されなかったのも、この観点からすれば容易に理解できる。その事件では、連邦と州の間に対立は存在していなかったのである。



*[1] 日本法学78291頁以下参照

*[2] William Randolph1650?1711年。南北戦争で南軍の司令官を務めたリー(Robert E. Lee)も、彼の子孫である。

*[3] Bushrod Washington (1762?1829):ジョージ・ワシントンの弟、ジョン・ワシントンの子である。彼は伯父の援助によりウィリアム・アンド・メアリー大学(College of William & Mary; W&M)を卒業している。この大学は1693年にイングランド王ウィリアム3世と女王メアリー2世による認可に基づき創設された、ハーバード大学に次いで米国で2番目に古い歴史を誇る大学である。ジェファーソンや第5代大統領になったモンローもこの大学の出身である。米国の大学では、優秀な学生にファイ・ベータ・カッパという組織を作らせるという事が行われるが、それを創設したのがこの大学であり、ブッシュロッドはその第1回メンバーであった。なお、ジョージ・ワシントンの住まいであったマウント・バーノンは、その死後ブッシュロッドが相続した。

 彼はアメリカ植民地協会(American Colonization Society)の設立を支援し、1816年にその初代会長になった。この組織は米国内の解放奴隷である黒人をアフリカに帰還させることを目的としており、その活動により1820年から実際の帰還が始まる。帰還した黒人によって1847年に建国されたのが現在のリベリア共和国である。

*[4] ワシントン自身は前例を作る意思はなかったが、その後第3代大統領ジェファーソン及び第5代大統領モンローが、伝統を作る意思で、2期で勇退したことから大統領は2期までという伝統が打ち立てられ、フランクリン・ルーズベルトによってそれが破られるまで続くことになる(ルーズベルトは4期当選する)。そこで、1945年にルーズベルトが死去したのを機会に、大統領の三選禁止を明定した第22修正が提案され、1951 年に成立した。この結果、今では憲法的に2期までに制限されている。

*[5] John Adams1735年−1826年):建国の父の一人である。大陸会議にはマサチューセッツ湾植民地の代表として出席し、1776年に大陸会議がアメリカ独立宣言を採択するときには、ジェファーソンと共に起草委員会の一員となって指導的な役割を果たした。初代の副大統領(1789年−1797年の2期)である。なお、第6代大統領ジョン・クィンシー・アダムズ(John Quincy Adams)は彼の息子である。

*[6] Thomas Pinckney1750年−1828年)1787年から1789年までサウスカロライナ州知事の任にあり、同州の合衆国憲法批准会議で議長を務めた。1791年にサウスカロライナ州下院議員を務めたのち、駐英全権公使など外交官として活躍した。

*[7] Aaron Burr1756年−1836) 1784年−1785年ニューヨーク州議会議員、1791年−1797年連邦上院議員、1798年−1801年ニューヨーク州議会議員

*[8] Charles Cotesworth Pinckney(1746年−1825):サウスカロライナ州出身、独立戦争では軍人として活躍し、合衆国憲法制定会議の一員であった。トマス・ピンクニーの兄である。

*[9] Samuel Johnston1733年−1816):大陸会議でノースカロライナを代表し、後に同州選出上院議員となり、第6代知事となった。

*[10] Samuel Adams1722年−1803年);建国の父の一人である。イギリスの植民地支配に反対する論客の一人として最初期から活動し、1773年のボストン茶会事件を組織化し、大陸会議に出席し、第二次大陸会議で独立宣言の採択を主導した。1794年からはマサチューセッツ州知事となる。

*[11] George Clinton1739年−1812)1777年−1795年ニューヨーク州初代知事。1800年−1801年州下院議員。1801年−1804年第3代知事。ジェファーソン大統領の第2期及びそれ続くマディスン大統領の下で、1805年からその死去まで、連続して8年間副大統領を務めた。彼は在職中に死去した初の副大統領である。なお、42代大統領ビル・クリントン(William Jefferson "Bill" Clinton)とは縁戚関係は無い。

*[12] John Henry(1750年−1798) 1777年−1790年メリーランド州議会議員。その間、大陸会議の代表を務める。1789年−1797年メリーランド州選出上院議員。

*[13] 合衆国憲法32項は次の様に定める。

 各々の州は、その立法部が定める方法により、その州から連邦議会に選出することのできる上院議員および下院議員の総数と同数の選挙人を任命する。但し、上院議員、下院議員および合衆国から報酬または信任を受けて官職にあるいかなる者も、選挙人に選任されることはできない。

*[14] この選挙の際の制度を紹介すると、次の様にきわめて区々となっていた。

@       選挙人は州議会で指名するという州が、コネチカット州、デラウェア州、ニュージャージー州、ニューヨーク州、ロードアイランド州、サウスカロライナ州、バーモント州と7州あった。

A       州を選挙人選挙区に分割し、その地区毎の選挙で1人の選挙人を選出するという州が、ケンタッキー州、メリーランド州、ノースカロライナ州、バージニア州と4州あった。

B       州全体の投票で選挙人を選出するという州が、ジョージア州とペンシルベニア州の2州あった。

C       州に割り当てられた選挙人のうち、2人の選挙人は州議会で指名し、残りの選挙人は下院議員選挙区毎に上位2名の得票者リストの中から州議会で選定するという複雑な制度をマサチューセッツ州は採用した。

D       各選挙人は州全体の投票で選定するが、過半数を獲得した候補がいない場合には、州議会が得票数上位2名を指名するという制度をニューハンプシャー州は採用した。

E       州を選挙人選挙区に分割し、その中の各郡が一般投票で選挙人代議員を選出し、この代議員が各選挙区あたり1人の選挙人を選出するという間接選挙方式をテネシー州は採用した。

出典=http://en.wikipedia.org/wiki/United_States_presidential_election,_1796

*[15] アダムズが大統領に就任した当時、アメリカの首都はフィラデルフィアであった。当時の大統領官邸はフィラデルフィアのロバート・モリス邸であった。しかし、アダムズ政権の末期、1800111日、アダムズ大統領はワシントンの大統領官邸に入居した。ワシントンが8年の在任期間中に政庁所在地から離れていた日数は合計で181日間であったが、アダムズはその半分の在任期間にも拘らず、合計385日も政庁所在地を離れていた。

出典=http://www.american-presidents.info/johnadam12.html

*[16] ロン・チャーナウ著『アレグザンダー・ハミルトン伝』下巻日経BP2005年刊46頁以下参照

*[17] Elbridge Thomas Gerry1744 - 1814年。独立宣言および連合規約の署名者の一人である。その後マサチューセッツ州の知事に就任した。彼はその名が「ゲリマンダリング」(特定の政党が有利になるように選挙区を不当に設定すること)の元になったことでも有名である。1813年からその死まで第4代マディスン大統領の下で第5代副大統領であった。彼は在職中に死去した2番目の副大統領である。

*[18] 対仏3人委員会(three-member commission to represent the United States in France)と呼ばれる。

*[19] Charles-Maurice de Talleyrand-Perigord 1754年−1838年。すばやい裏切りにより、革命政府、帝政、王政という大きな政体の変革を乗り越えてフランス外交の中心にあり続けた人物で、メッテルニヒの主催したウィーン会議では敗戦国が戦勝国に要求を呑ませたことで敏腕政治家・外交家としての評価が高い。それ以後も首相、外相として活躍し、40年にわたってフランス政治の中心に君臨した。メートル法はタレーランの提案にかかるなど功績は多い。しかし、「タレーランは、金儲けに精を出していないときは、陰謀を企んでいる」と酷評されるほどに、人格的には悪評が高い。

*[20] マーシャルが、アダムズに対する書簡中でタレーランの贈賄交渉における代理人3人を、それぞれXYZと匿名で表記したため、この名がある。

*[21] これは正確には、連邦党が1798年の第5回連邦議会で成立させ、アダムズ大統領が署名した4つの法律の総称である。

 第一は帰化法(the Naturalization Act=正式名称はAn act supplementary to, and to amend the act to establish a uniform rule of naturalization; and to repeal the act heretofore passed on that subject; ch. 54, 1 Stat. 566)で、これは1795年帰化法(the Naturalization Act of 1795)を改正し、外国人が米国籍を得るための滞在期間を5年から14年に延長するものだった。

 第二は外国人法(the Alien Act=正式にはAn Act Concerning Aliens; ch. 58, 1 Stat. 570) で、これは大統領に、「合衆国の平和と安全に害があると認められる“dangerous to the peace and safety of the United States”」いかなる外国人も 国外追放する権限を与えた。

 第三は敵国人法(the Alien Enemies Act=正式にはofficially An Act Respecting Alien Enemies; ch. 66, 1 Stat. 577) で、同じく大統領に、米国内に居住する外国人を、その祖国が米国と交戦中であれば、敵国人として国外追放する権限を与えた。なお、この法律は今日も修正されず存続している。当時はこれによりフランス系外国人の追放を狙った。

 第四が反政府活動取締法(the Sedition Act=直訳すれば扇動法。正式にはAn Act in Addition to the Act Entitled "An Act for the Punishment of Certain Crimes against the United States"; ch. 74, 1 Stat. 596)で、それは政府ないし特定の公務員に対して「虚偽、スキャンダル及び悪意による記述」を交換することを犯罪とするものであった。

*[22] William Vans Murray1760 ? 1803。当初はメリーランド州下院議員で、後、メリーランド選出連邦下院議員となった。1793年からオランダ駐在の米国大使に任命されていた。

*[23] Patrick Henry1736 - 1799年。独立戦争を強く主張して「自由を与えよ。然らずんば死を(give me liberty or give me death! )」という名文句を吐いてイギリスに対する抵抗運動を扇動したことで知られる。独立戦争勃発後はバージニア邦憲法の起草に参画し、1776年から1779年までバージニア邦の初代知事を務め、権利章典の制定に与ったと言われる。

*[24] 1800年の協約:正式には“Convention Between the French Republic and the United States of America”という。内容の大略を紹介すれば、差し押さえた資産を元の持ち主に返却すること、通商に特別な規制を課さないこと、フランスは貿易において最恵国待遇を与えられること、輸出入禁止品目を明確に規定するというものであった。1800930日に締結され、米国上院は2ヶ月間にわたって討議し、180123日、条件付で批准した。

*[25] Timothy Pickering1745 ? 1829。元々は軍人で、独立戦争で活躍した。ワシントン大統領下で、1971年〜1795年に郵政長官、1795年に陸軍長官、そして同年に第3代国務長官となり、アダムズ大統領に罷免される1800年まで同職を務めた。閣僚として通算9年間在職したことになる。

*[26] 連邦党の大統領候補アダムズ65票、副大統領候補のチャールズ・コーツワース・ピンクニーは64票であった。多数が立候補して乱戦となった前回と異なり、それ以外の候補者は,今回はジェイ一人で、彼が得た票は1票だけであった。

*[27]  当初の13州に加え、バーモント州が17913月に、ケンタッキー州が17926月に、テネシー州が17966月に、それぞれ加盟していた。

*[28] ロン・チャーナウ著『アレグザンダー・ハミルトン伝』下巻日経BP2005年刊271頁参照。

*[29] The Judiciary Act of 1801は通称で、正式名称は"An Act for the more convenient organization of the Courts of the United States”という。1801213日に成立している。

*[30] 前注同様に、同法の正式名称は“An Act To amend the Judicial System of the United States”という。1802429日に成立している。

*[31] 国務省設置法の正式名称はAn act for establishing an executive department, to be denominated the department of foreign affairsである。

 その第1条は次の様に定めている(下線は筆者)

Section 1.  Be it enacted by the Senate and House of Representatives of the United States of America in Congress assembled,  That there shall be an Executive department, to be denominated the Department of Foreign Affairs, and that there shall be a principal officer therein, to be called the Secretary for the Department of Foreign Affairs, who shall perform and execute such duties as shall from time to time be enjoined on or intrusted to him by the President of the United States, agreeable to the Constitution, relative to correspondences, commissions or instructions to or with public ministers from foreign states or prices, or to memorials or other applications from foreign public ministers or other foreigners, or to such other matters respecting foreign affairs, as the President of the United States shall assign to the said department; and furthermore, that the said principal officer shall conduct the business of the said department in such manner as the President of the United States shall from time to time order or instruct.

*[32] 具体的には、William Marbury, Dennis Ramsay, Robert Townsend Hooe, 及びWilliam Harper4人である。

*[33] “bill of attainder”という語に対し、わが国では従来から私権剥奪法という訳語が用いられ、米国大使館の行っている合衆国憲法の翻訳でもこの訳語が用いられているので、ここでは、それに従っている。

 確かに、attainderの本来の意味は、公権喪失とか私権剥奪という意味で、もともとはコモンロー裁判所で有罪が確定した者に対し、議会が付加刑として没収を宣言する立法のことであった。しかし、合衆国憲法の場合には、内容から意訳すれば「特定私人処罰法」とでも訳するべき特殊な立法を意味する。すなわち、本来、処罰は、法律に従って裁判所が判決という形で行うべきであり、本来の私権剥奪法もその例外では無い。しかし、合衆国憲法の場合には、裁判所をまったく経由することなく、議会が特定人に対し、その者の行為を犯罪とする立法を行い、あるいはその容疑者に対し、事実調べもなしに有罪を宣言し、その者に対する刑罰まで定める立法を意味している。いわば、議会が立法者、検察官、裁判官、陪審員の四つの役割を演じるのである。これは英国において1530年代以降において、ヘンリー8世が、彼に敵対する者を合法的に処刑する手段として発展させた立法形態である。

 この型の私権剥奪法は英本国だけでなく植民地にも広く適用され、これに対する植民地人の怒りが米国を独立に駆りたてる要因の一つになった。独立戦争中は、逆に独立派自身が王党派に対して私権剥奪法を連発し、王党派の弱体化に大いに利用された(有名なものとして1779年のニューヨーク州議会によるParker Wickham 事件がある。)。

 そうした不幸な歴史から、私権剥奪法の禁止を、この条文はうたっているのである(フェデラリスト第44章参照)。今日まで5件の法律が私権剥奪法とされた。最近時のものは1996年に制定されたElizabeth Morgan Actで、2003年にワシントンD.C.控訴院によってMorganの前夫に対し、子への面会謝絶を子の同意がない限り認めた点が私権剥奪法に該当するとされた。

*[34] 連邦公務員のうち、大統領の宣誓文言は、合衆国憲法218文に明記されている。これに対し、判事の宣誓文言は、憲法自身は定めていなかったので、それは議会の決定に委ねられていると考えられた。そこで1789年司法権法が、判事に関する宣誓文言を規定した。この宣誓文言の原文は次のとおりである。

I do solemnly swear that I will administer justice without respect to persons, and do equal right to the poor and to the rich; and that I will faithfully and impartially discharge all the duties incumbent on me as according to the best of my abilities and understanding, agreeably to the Constitution and laws of the United States.

 これは、1789年〜1861年に使用されていた(ただし、この末尾に“So help me God”という文言が、宣誓時には付加されていた)。

 1861年の南北戦争の勃発と共にリンカーン大統領の命令により、すべての連邦公務員に宣誓義務が課され、それに伴い1860年代に宣誓文言は数回変更された。最終的に1868年に次のものになった(5 U. S. C. § 3331)。

I, _________, do solemnly swear (or affirm) that I will support and defend the Constitution of the United States against all enemies, foreign and domestic; that I will bear true faith and allegiance to the same; that I take this obligation freely, without any mental reservation or purpose of evasion; and that I will well and faithfully discharge the duties of the office on which I am about to enter.  So help me God.

 但し、裁判官については1990年に司法部改革法(the Judicial Improvements Act of 1990)が制定された結果、現在は次の様な文言とすることになった。

I, _________, do solemnly swear (or affirm) that I will administer justice without respect to persons, and do equal right to the poor and to the rich, and that I will faithfully and impartially discharge and perform all the duties incumbent upon me as _________ under the Constitution and laws of the United States.  So help me God.

 最高裁判事に任命された者は、この宣誓に続いて一般連邦公務員用の宣誓文言を唱える合体型の宣誓を行うことも多いという。

参照=http://www.supremecourt.gov/about/oath/textoftheoathsofoffice2009.aspx

*[35] ロン・チャーナウ著・注16引用書203頁より引用。

*[36] 前注引用書212頁より引用

*[37] 合衆国憲法18節末項の原文は次のとおりである。

To make all laws which shall be necessary and proper for carrying into execution the foregoing powers, and all other powers vested by this Constitution in the government of the United States, or in any department or officer thereof.

*[38] 米英戦争:18126-181412月の間、米国と英国の間で戦われた戦争。当時欧州はナポレオン戦争の最中で、英陸軍の主力はスペインでの半島戦争に取られており、英海軍は欧州の海上封鎖を強いられていた。そこで、米国がいわば火事場泥棒的にカナダにある英国植民地を侵奪する目的で開始した戦争である。この戦争では、両軍ともインディアンと結びついて戦った結果、多くのインディアン部族が消滅寸前まで虐殺され、領土を奪われて散り散りとなった。特に英国側と結んで戦ったインディアンを追いだした広大な土地は、合衆国政府の植民地となった。これがその後の西部開拓の始まりとなる。このため、この戦争はインディアン戦争の別名で知られる。第7代大統領ジャクソンはこの米英戦争の英雄で、特にインディアンの虐殺で勇名をはせた。

*[39] メリーランド州法の名称は次のとおりである。

an act to impose a tax on all banks, or branches thereof, in the state of Maryland, not chartered by the legislature,

*[40] この引用文は、連合議会において1787926日にNathan Daneによって行われた動議の一節である。デーン(1752 ?1835)は、会議においてはマサチューセッツ州選出議員として活躍した。なお、デーンは“A general abridgment and digest of American law”という著作を1823年に発表した。これは、最初のアメリカ法の包括的な論文といわれ、法曹を志すものなら誰でも目を通すものとなった。このため、デーンはアメリカ法の父(Father of American Jurisprudence)と呼ばれる。

*[41] この引用句は合衆国憲法前文である。全文を紹介すれば次のとおりである。

「われら合衆国の国民は、より完全な連邦を形成し、正義を樹立し、国内の平穏を保障し、共同の防衛に備え、一般の福祉を増進し、われらとわれらの子孫のために自由の恵沢を確保する目的をもって、ここにアメリカ合衆国のためにこの憲法を制定し、確定する。」

*[42] ここで、マーシャルが言及しているのは、連合規約とは、その第2条である。次の様な文章であった。

「各邦は、主権、自由、独立、および本連合規約によって連合会議に結集する合衆国に対して明文で授権されていないすべての権力、権限、および権利を有する。」(傍線は筆者)

*[43] 1816627に制定されたニューハンプシャー州の法律名は次のとおりである。

"An act to amend the charter, and enlarge and improve the corporation of Dartmouth College."

*[44] Robert R. Livingston1746 - 1813年):建国の父の1人である。すなわち、アメリカ独立宣言を起草した5人委員会の1人であり、連合規約下で外務長官を1781年から1783年まで務め、ニューヨーク邦憲法制定会議の代議員であった。1789430日、リビングストンはニューヨーク州裁判所首席判事として、当時アメリカ合衆国の首都であったニューヨーク市のフェデラル・ホールで、ジョージ・ワシントン大統領の最初の就任宣誓を差配した。1801年から1804年までは駐仏公使を務めて、仏領ルイジアナ買収交渉を行った。

*[45] 立法の正式名称は次のとおりである。

"An act to prevent the exercised of assumed and arbitrary power by all persons under pretext of authority from the Cherokee Indians,"

*[46] ジャクソンの言葉の原語は次のとおりである。

 "John Marshall has made his decision; now let him enforce it!"

*[47] 涙の道の結果として死亡した者の数については、はっきりせず、様々な推測がなされている。アメリカ人の医者で宣教師のエリザー・バトラーは、一つの隊と歩んだ者である。彼女は、宿営地で2,000名、道中で2,000名が死亡したと見積もった。この合計4,000名という数字はよく引用される数字となっている。1973年の学者による人口統計調査では合計で2,000名が死んだとされた。1984年の別の調査では合計8,000名となった。

*[48] 連邦最高裁判所初代長官のジェイは1789926?1795629日までの約6年、2代のラトリッジはわずか半年、3代のエルスワースは179634?1800930日までの約4年であった。なお、現在の第16代長官のJohn Glover Roberts, Jr.までの間、マーシャルの在任期間は最長となっている。