米国奴隷制とドレッドスコット事件

−トーニー第5代長官の時代−

甲斐素直

[はじめに]

 ロジャー・ブルック・トーニー(Roger Brooke Taney, 1777 - 1864年)は、弁護士で、もともとは連邦党員としてメリーランド州選出下院議員に選出されたが、1824年の大統領選挙の際に民主共和党に入党し、ジャクソン(Andrew Jackson)の支持に回った。

 トーニーは1831年にジャクソン大統領からアメリカ合衆国司法長官に任命され、33年までその任にあった。トーニーは司法長官として第2次合衆国銀行の廃止を主張したジャクソン大統領を支援した。

 1933年、財務長官のマクレーン(Louis McLane)が合衆国銀行の存続を主張し、合衆国銀行から連邦政府の資金を引き出すことを拒絶すると、ジャクソンはマクレーンを更迭し、後任にデュアン(William John Duane)を任命した。しかし、デュアンもマクレーンと同様の態度をとったので、ジャクソンはデュアンも更迭し、トーニーをその後任としてに任命した。財務長官に就任したトーニーは速やかにジャクソン大統領の政策を実行し、第2次合衆国銀行に止めを刺した。

 上院は大統領による権限の強引な行使を非難し、トーニーの財務長官就任に異議を唱えた。財務長官もまた、国務長官同様、大統領が指名し、上院指名承認公聴会での質疑応答を経た後、上院本会議にて出席議員の三分の二以上の賛成多数をもって就任が承認される職である。その結果、トーニーは辞職せざるを得なくなった。しかし、司法長官に復帰する道を選ばず、メリーランド州に戻って弁護士を開業した。

 1835年、ジャクソンは、トーニーを合衆国最高裁判所陪席判事に指名した。しかし上院はトーニーを嫌い、再び異議を唱えて、その陪席判事就任を阻んだ。

 1836年、マーシャルが駅馬車の事故により、現職の連邦最高裁判所長官のまま死去した。そこで、ジャクソンは、その後任にトーニーを指名した。今度も上院の反ジャクソン派は猛反発したが、この時にはジャクソンの民主党が上院の多数を占めていたため、辛くも承認を得ることができたのである。

 このように、波乱の出発となったトーニ−コートであるが、トーニーの在任期間は1836328 - 18641012日と32年余に及ぶ。これはマーシャルの34年余に次ぐ長期記録である。その間、大統領は第7代ジャクソンから第16代リンカーンまで10人に達している。

 裁判官としてのトーニーは、ジャクソン大統領から任命を受けた他の多くの裁判官と同様に、州が強い権限を持つことを好んだ。これは前任のジョン・マーシャルとは異なる価値観であり、そのためしばしば、マーシャル時代に下された判決とは異なる判決が下されることがあった。その典型が、本稿が中心的問題とする1857年のドレッド・スコット対サンフォード事件である。この判決は南北戦争に至る原因を作ったという点で、連邦最高裁判所判決としてもっとも歴史に大きな原因を与えたものである。

 この事件もまた複雑な背景を有する事件で、判決の意義を理解するには、当時の米国の憲法その他の法律がどうなっていたか、また、それを取り巻く政治状況はどうなっていたか、というような背景を理解する必要がある。そこで、判決の説明に入る前に、まずその背景の説明から始めたい。

 

一 合衆国における奴隷制

(一) 合衆国法に見る奴隷条項

 米国の建国初期における指導者達と奴隷制度は密接な関係がある。初代大統領ワシントンから12代大統領テイラー(Zachary Taylor)までの12人のうち、奴隷所有者でなかったのは、2代のジョン・アダムズと6代のジョン・クィンシー・アダムズの親子二人だけである*[1]。それ位であるから、合衆国憲法そのものの中に、奴隷制を保障する規定が多数存在している。

 191項の規定はその典型である。

「連邦議会は、1808 年より前においては、現に存する州のいずれかがその州に受け入れることを適当と認める人びとの移住または輸入を、禁止することはできない。但し、その輸入に対して、1 人につき10 ドルを超えない租税または関税を課すことができる。」

 関税の対象となる「人びとの輸入」とは奴隷以外にあり得ない。また、拙稿『米国初期の憲法判例』(以下「第1稿」と呼ぶ)*[2]で述べたヒルトン事件(Hylton v. United States)に関連して紹介した123項にある「自由人以外のすべての者の数の5 分の3」と表現されている者も奴隷以外にはあり得ない。

 423項もきわめて重要である。

1 州において、その州の法律によって役務または労務に服する義務のある者は、他州に逃亡しても、その州の法律または規則によってかかる役務または労務から解放されるものではなく、当該役務または労務を提供されるべき当事者からの請求があれば、引き渡されなければならない。」

 ここにいう「その州の法律によって役務または労務に服する義務のある者」というのが、奴隷の婉曲な表現である事は明らかであろう。要するに、これは逃亡奴隷の返還義務を定めた規定である。そしてトーニ−コートの時代の連邦最高裁判所は、この規定を厳格に適用した。1842年にでたブリッグ対ペンシルヴァニア(Priggs v. Pennsylvania)事件は、その代表的なものである*[3]。この条項は、南北戦争後に制定される第13修正によって削除されることになる。

 もちろん初期においても、奴隷制度を否定する動きはあった。その端的な例が北西部条例(Northwest Ordinance)である*[4]*これは、1787713日に連合規約下のアメリカ合衆国連合会議で全会一致で可決された。第1稿で、連合規約のメリーランド州の批准が大変遅れた理由として、「バージニア州とニューヨーク州がオハイオ川渓谷の領有権主張を取り下げるまでは批准しないとしていたため」と説明した。そこでは「オハイオ川渓谷地域」と呼ばれていた地域を、この条例では北西部と呼んでいる。これは、今日のオハイオ州、インディアナ州、イリノイ州、ミシガン州、ウィスコンシン州及びミネソタ州の一部となる広大な地域である。

 英国は独立戦争を終わらせる1783年のパリ条約で、合衆国にオハイオ川の北およびアパラチア山脈の西のこの地域を割譲した。この地域に対し、バージニア、マサチューセッツ、ニューヨークおよびコネチカットの各州が領有権を主張した。これに反発したメリーランド州等に対する配慮から、ニューヨークは1780年に、バージニアは1784年に、マサチューセッツとコネチカットは1785年に領有権主張を取り下げた。この結果北西部地域の大半はどの植民地にも属さないで、合衆国政府に所有される公共の土地となった。そこで、その土地を管理するための法律が作られる必要があった。それが北西部条例である。

 拙稿『米国違憲立法審査権の確立』(以下、「第2稿」という)*[5]でマカラック事件(McCulloch v. Maryland)におけるマーシャルの判決に関連して、アメリカ法の父と呼ばれるデーン(Nathan Dane)という人物を紹介した。デーンは、この北西部条例の起草に当たり重要な役割を演じた。デーンは、起草の最終段階で北西部地域における奴隷制度の禁止条項を挿入したのである。それが、条例の第6条である。

 Art. VI. There shall be neither slavery nor involuntary servitude in the said territory, otherwise than in punishment of crimes, whereof the party shall have been duty convicted: Provided always, that any person escaping in the same, from whom labour or service is lawfully claimed in any one of the original States, such fugitive may be lawfully reclaimed, and conveyed to the person claiming his or her labour or service as aforesaid.

 第6条 前記地域では、犯罪の処罰により有罪判決を受けて義務づけられた場合を除き、奴隷制及び意に反する隷属は存在しない。ただし、原初諸州のうち、労働やサービスが合法的に課せられている州であって、逃亡者の合法的返還請求が定められている州から逃亡したいかなる人物も、彼または彼女の労働またはサービスを主張する人に常に提供される。

 これが米国において奴隷制という言葉が、法制上で明確に使用された最初期の例である。以後、北西部地域に属した諸州は奴隷制を認めない自由州として発展し、奴隷制に経済の基礎を置く南部諸州との対立が徐々に深まっていく。

 1803年、ジェファーソンは、ナポレオン一世から仏領ルイジアナ(French Louisiana)を購入した。これは、現在のルイジアナ州以外に、アーカンソー州、アイオワ州、カンザス州、ミネソタ州、ミズーリ州、モンタナ州、ネブラスカ、オクラホマ、ワイオミング、サウス・ダコタ、ノース・ダコタにまたがる広大な地域で、これを合衆国は1500万ドルで入手した。しばしば史上最大の不動産取引と言われるが、価格についても1エーカーあたり約3セントという破格のものであった。合衆国大統領の権限として、このような購入が可能かは、特にジェファーソンの持論であった州権中心主義からすれば、憲法上疑問のあるところであったが、ジェファーソンは敢えて踏み切った。これにより、合衆国の西部に向けての発展に弾みがつき、北西部及びこの旧仏領ルイジアナ地域から、次々と新しい州が生まれ、合衆国に加盟していくことになる。

(二) ミズーリ妥協

 連邦党は1800年の大統領選挙以降、急速に衰退した。共和党のマディスンが第4代大統領となった1808年の大統領選挙では、選挙人175人のうちマディスンは122人をとったのに対し、連邦党のチャールズ・コーツワース・ピンクニーは47人しかとれなかった。同じく共和党のモンロー(James Monroe)が第5代大統領となった1816年選挙では217人の選挙人(19)からモンローは183票(16州)を獲得したのに対し、連邦党が支持するキング(Rufus King)は、3州から34票を獲得したに過ぎなかった。さらにモンローの2期目となる1820年の大統領選挙では、連邦党は事実上消滅し、モンローは235人の選挙人(24)から231票(24州)を獲得した。モンローは投票人の死去による無効票の3票を除けば、あと1票でワシントンと同じく全会一致で大統領に選出されるという栄誉を手に入れることができた*[6]

 こうして共和党は絶頂期を迎えるのであるが、その足下に落日が迫っていた。南北対立が激化し、連邦分裂の危機が迫っていたのである。

 大統領選挙の2年前である1818年に、ミズーリが奴隷州としてアメリカ合衆国への加盟を申請した。

 そこで、その時点における奴隷州と自由州が、それぞれ何時連邦に加入したかを見よう。

 

Slave States

Year

Free States

Year

Delaware

1787

New Jersey

1787

Georgia

1788

Pennsylvania

1787

Maryland

1788

Connecticut

1788

South Carolina

1788

Massachusetts

1788

Virginia

1788

New Hampshire

1788

North Carolina

1789

New York

1788

Kentucky

1792

Rhode Island

1790

Tennessee

1796

Vermont

1791

Louisiana

1812

Ohio

1803

Mississippi

1817

Indiana

1816

Alabama

1819

Illinois

1818

出典=http://en.wikipedia.org/wiki/Slave_and_free_states

 このように、ミズーリ州が加盟申請した段階で、翌年正式加盟が認められる予定のアラバマ州を含めると、奴隷州と自由州の数が等しく11州ずつに分かれていた。ここで、ミズーリ州を奴隷州として認めることは、各州2人ずつの議員を出している上院で奴隷州の議員数が多くなるためにバランスを崩すことに繋がる。この理由で北部自由州は、ミズーリ州と抱き合わせの形で、メインを自由州として昇格させることを望んだ。結局奴隷州と自由州の妥協が成立し、メイン州の州昇格及びミズーリ州の住民が州憲法を作成する権限を与えるという法律が成立した。この法律は182035日に成立し、36日にジェームズ・モンロー大統領が批准した。この法律がミズーリ妥協(The Missouri Compromise)と呼ばれる*[7]

 この法律のポイントは、その第8条にある。次の様な条文である。

 Sec. 8. And be it further enacted, that in all territory ceded by France to the United States, under the name of Louisiana, which lies north of thirty-six degrees and thirty minutes north latitude, not included within the limits of the state, contemplated by this act, slavery and involuntary servitude, otherwise than in the punishment of crimes, whereof the parties shall have been duly convicted, shall be, and is hereby, forever prohibited: Provided always, that any person escaping into the same, from whom labour or service is lawfully claimed, in any state or territory of the United States, such fugitive may be lawfully reclaimed and conveyed to the person claiming his or her labour or service as aforesaid.

 第8条。そして、それはさらに次の点を制定する。すなわちルイジアナの名の下にフランスから米国に割譲されたすべての地域のうち、北緯3630分の線の北にある地域においては、ミズーリ州の地域を除き、本法により、犯罪の処罰により有罪判決を受けて義務づけられた場合を除き、奴隷制及び意に反する隷属は、永遠に禁止される。〔以下略〕*[8]

 これが、先に紹介した北西部条例6条とほとんど同一の表現であることが判ると思う。これにより、将来合衆国に加盟するであろう北緯3630分(ミズーリ州の南側境界線にあたる)以北の州は、自動的に自由州になる事が約束されたのである。

 この妥協は、その後しばらくの間,次の表のようにうまく機能する。

 

Slave States

Year

Free States

Year

Missouri

1821

Maine

1820

Arkansas

1836

Michigan

1837

Florida

1845

Iowa

1846

 

(三) テキサス加入問題

 メキシコ人は主権在民、三権分立、奴隷制廃止等を叫んで独立戦争を行い、ついに1821年にスペインからの独立に成功した。テキサスは、当初は今日のメキシコと共にスペイン領であった。テキサス地域には、合衆国南部の住民が,奴隷を伴って入植していた。このため、メキシコの奴隷制廃止と衝突することになった。そこで、1836年、白人のテキサス入植者はメキシコからの独立を宣言した。これに対して攻め込んだメキシコ軍は、アラモ伝道所(Alamo Mission)の攻略には成功したが、その後、テキサス主力軍に撃破され、メキシコ大統領サンタ・アナ(Antonio Lopez de Santa Anna)自身が捕虜になるという壊滅的敗北を喫して,テキサスの独立を承認することになる。

 テキサスは合衆国への加盟を希望したが、自由州が新たな奴隷州の加盟に反対したため、ひとまずテキサス共和国となった。

 1843年、第10代大統領タイラー(John Tyler)は、テキサスを合衆国に加入させる条約を上院に提出したが、1635の大差で否決された。

 第11代大統領ポーク(James Knox Polk)は、西部への拡大の強力な信奉者で、テキサスの併合を是非実現したいと考えた。そこで、1844年、上院に条約の承認を求める代わりに、両院の共同決議(joint resolution*[9]という手段を執ることにした。これにより、テキサスの併合は無事に認められた。翌1845年、テキサスは州として合衆国に加入した。加入時点で独立国であった国が、州となった唯一の例である。当然、奴隷州となった。

 

(四) 1850年妥協

  1846年?1848年に米墨戦争(Mexican-American War)が起こった(墨とはメキシコ(墨西哥)の意味である。)。

 テキサス州を併合した合衆国は、テキサスとメキシコの国境をリオ・グランデ川 (Rio Grande River)と主張した。それに対し、メキシコはグランデ川の北を流れるヌエセス川 (Nueses River) を国境と主張した。第11代大統領ポークは米国領を確保するよう軍に命じ、軍がこれに応えてヌエセス川の南にブラウン砦 (Fort Brown) を築いたことから1846424日に両軍は戦闘状態に入った。そこで米国側は513日にメキシコに宣戦を布告し、これを受けてメキシコは523日に米国に宣戦を布告した。

 米軍はその後、素早くカリフォルニアを占領し、さらにメキシコ軍を撃破してニューメキシコまでも占領した。他方海上からはベラクルスに上陸して、メキシコの中心部チャプルテペック城(メキシコシティ)も攻め落とした。184822日に調印されたグアダルーペ・イダルゴ条約(Treaty of Guadalupe Hidalgo)により、メキシコは 合衆国の国境線がリオグランデ川であることを認め、さらに1825万ドルの現金及び325万ドルの債務の免除と引き換えに、今日のカリフォルニア州、ネバダ州、ユタ州、アリゾナ州、ニューメキシコ州、ワイオミング州及びコロラド州に相当する地域を米国に割譲した。この割譲により、メキシコは国土の 1/3 を失った。

 こうして獲得した広大な地域をどうするかをめぐって様々な問題が発生していた。その時発生していた問題は、具体的には次の様なものであった。

 第一に、上述のとおり184822日にメキシコから割譲されたカリフォルニアで、その直前、1848124日に金鉱が発見されており、以後、ゴールドラッシュが起こって爆発的に人口が増加していた。彼らは、合衆国政府の承認を待たずに、自由州とする憲法を制定し、州知事や議会議員、さらには連邦議会議員まで選出していた。しかし、ミズーリ妥協の南に位置する州であるため、奴隷州側がその自由州としての加入に反対し、南カリフォルニアを奴隷州として加入させるように主張していた。

 第二に、奴隷州であるテキサスはリオグランデ川以南の土地をすべて自らの領地と主張していた。これに対し、カリフォルニアとテキサスの間にあるニューメキシコは、テキサスに抵抗し、そこを自らの土地と主張すると共に、カリフォルニア同様自由州としての加入を臨んでいた。また、テキサスはエルパソの領有も主張していた。

 第三に、1849年にソルトレイクに入植していたモルモン教徒が、そこを中心とするディザレット州(State of Deseret)という州を作り出し、合衆国への加入を希望していた*[10]

 こうした問題を解決するために考え出されたのが、1850年妥協(Compromise of 1850)である。

 これは、ミズーリ妥協の様な単一の法律ではなく、5つの法律の総称である。基本的にはホィッグ党*[11]のクレイ(Henry Clay)が発案したものであるが、成立させるのに失敗した。そこで民主党の、後にリンカーンの好敵手として活動するイリノイ州選出の合衆国上院議員ダグラス(Stephen Arnold Douglas)が、これを5つの法律に細分化し、個別に審議させることで、成立させるのに成功したのである。

 5つの法律とは、それぞれ次の法律である*[12]

  1 テキサス州は、従来から主張してきたリオグランデ川東側の土地の領有を放棄し、そこにニューメキシコ準州の設置を認める法律*[13]

  2 カリフォルニアを自由州として合衆国加入を認める法律*[14]

  3 ユタ準州*[15]を認める法律。

  4 1850年逃亡奴隷法*[16]

  5 ワシントンD.C.における奴隷取引を禁止する法律*[17]

 この妥協により、南北間の緊張は、4年間だけ緩和された。

 この第一及び第三の法律に現れた人民主権(popular sovereignty)理論は重要である。すなわち、その地域の住民の投票によって、自由州となるか奴隷州となるかを決することができると言うことが、これらの法律には定められていた。これはダグラス上院議員の持論であり、それがこの時、初めて合衆国の法律に明記された。これこそが、次に説明するカンザス・ネブラスカ問題の最大の原因となる。

 

(五) 流血のカンザス

 仏領ルイジアナ地域のうち、今日、カンザス州及びネブラスカ州として知られる地域は、元々は合衆国とインディアン部族との条約上、シャイアン族(Cheyenne)及びアパラチ族(Apalachee)の居住するとされている地域だった。しかし、1850年以前に白人は不法にその土地に侵入し、やがて、その地域全体を開拓のために開放することを声高く要求した。間もなく幾つかのアメリカ陸軍の砦がその地域に造られ、西方へ向かう道の旅人の護衛という名目の下にインディアンを圧迫し始めた。

 その流れの末に、カンザス・ネブラスカ法(Kansas-Nebraska Act*[18])が1854526日に制定された。その中心となったのは、1850年妥協の中心人物であるダグラス上院議員である。彼は,自分の選挙区であるイリノイ州シカゴを拠点とする大陸横断鉄道を夢見ていたが、そのためには,鉄道の路線となる地域が合衆国領土になる必要があったのである。しかし、問題は、その地域がミズーリ妥協の線の北にある事である。そこに新州を単純に作ると、自由州と言うことになり、南北バランスを崩す。そこで、ダグラスは、その地域を北のネブラスカ(Nebraska)と、南のカンザス(Kansas)とに分割し、それぞれに準州を創設して白人移住者に新しい土地を開放することをもくろみ、法案を作成した。おそらく、ダグラスの意図は、北のネブラスカが自由州に、南のカンザスが奴隷州になる事であったのだろう。

 この法律が問題になったのは、ミズーリ妥協及び1850年妥協の、この地域における実質的廃止が盛り込まれたからである。それを明記しなければ、カンザスを奴隷州にすることは不可能で有り、そのために、ダグラスは、南部の要求に屈して、それを規定する必要があったのである。この法律は37条で構成されているが、問題の規定は、14条の末尾にさりげなく挿入されている。次の文言がそれである。

That the Constitution, and all Laws of the United States which are not locally inapplicable, shall have the same force and effect within the said Territory of Nebraska as elsewhere within United States, except the eighth section of the act preparatory to the admission of Missouri into the Union, approved March sixth, eighteen hundred and twenty, which, being inconsistent with the principle of non-intervention by Congress with slavery in the States and Territories, as recognized by the legislation of eighteen hundred and fifty, commonly called the Compromise Measures, is hereby declared inoperative and void; it being the true intent and meaning of this act not to legislate slavery into any Territory or State, nor to exclude it therefrom, but to leave the people thereof perfectly free to form and regulate their domestic institutions in their own way, subject only to the Constitution of the United States: Provided, That nothing herein contained shall be construed to revive or put in force any law or regulation which may have existed prior to the act of sixth March, eighteen hundred and twenty, either protecting, establishing, prohibiting, or abolishing slavery.

 憲法、及び地域には適用できないものを除くすべての合衆国法は、合衆国の他の地域と同様、前記ネブラスカ準州においても同一の効力と効果を有するが、ただし、182036日に制定されたミズーリの州昇格法8条が定める州及び準州における奴隷制に対する連邦議会非介入原則と矛盾している条項、及び1850年の、通常、妥協策と呼ばれる法律は、ここにおいては機能せず無効と宣言される。何らかの地域または州において奴隷制を制定し、もしくはそれを除外することは、本法の真に意図するところではないが、人民に、合衆国憲法に従うことを唯一の例外として、自らの地域制度を形成し、規制する完全な自由を与えるものである。ただし、ここに記載されている何も、1820年の法律に先行するいかなる奴隷制を保護し、確立し、禁止し、または廃止する法や規制を復活させたり、強制したりするものと解釈してはならない。

 ダグラスは、南部諸州は南のカンサス準州に奴隷制を拡張できる可能性があり、他方、北部諸州は北のネブラスカ準州で奴隷制を廃止する権利があるために、こうした立法で、北部と南部の間の関係を和らげられると期待したのである。

 しかし、法案の反対者は南部の奴隷勢力に対する譲歩だと言って非難した。この法案に反対し、奴隷制の拡大を止めることを目指して、同法成立後まもない185476日に結党されたのが、今日の共和党(Republican Party)である。共和党は、間もなくホイッグ党を吸収して北部で支配的な勢力として台頭することになる。

 事態は、ダグラス上院議員の甘い予想に反し、きわめて殺伐たる経緯をたどった。北側のネブラスカ準州が自由州になることは、ミズーリ妥協から当然に予想されたから、焦点になったのは南のカンザス準州であった。

 まずカンザス・ネブラスカ法が成立した数日後に、隣接するミズーリ州から何百人もの住人がカンザス内に流入し、この地域すべてを奴隷制擁護地域とする意図で集会を開いて、志を同じくする仲間の団結を図った。北部や東部の自由州から最初の移民が到着する前に、ミズーリ川沿いのめぼしい場所は、ミズーリ州西部からの移住者によってすべて抑えられたのである。そして、自由州から来た移民を,その線を通過させずに追い返した。

 これに対し、ミズーリ妥協の北に奴隷州を許すまいと決意していた北部側では組織的に大量の移住者を送り込み、彼らはミズーリ川の線を迂回してカンザスの奥深くに移住し、ローレンス等の町を建設した*[19]。彼らは自由州派(Free-Staters)と呼ばれた。これに対して奴隷制推進派は奴隷州派(Pro-slavery settlers)と呼ばれた。東部からの移住者が流れ込むと共に、急速に自由州派の人数が奴隷州派よりもはるかに多くなっていった。

 1855330日にカンザス準州議会議員の選挙が行われた。この選挙では「国境の悪漢(Border Raffian)」と呼ばれた奴隷州派の活動家がミズーリ州から大挙してカンザス準州内に入り込み、武力で選挙の公正を害した。この結果、議会では奴隷州派が圧倒的な多数を占めた。このため、この議会は自由州派からは幽霊議会(Bogus legislature)と呼ばれた。同議会は71日に開会し、悪名高い黒人法(Black law)と呼ばれる一連の立法を行って奴隷州としての既成事実を積み上げていった。

 これに対抗して自由州派は814日に、最初の自由州会議(Free-state convention)を開催し、自由州制憲議会議員選挙を実施して対抗した。そして1023日には、トピーカで、トピーカ憲法(Topeka Constitution)と呼ばれるものを採択した。同憲法は1215日に住民投票に掛けられ、1,73146で承認された。当然、奴隷州派はボイコットしたわけである。こうして、自由州派と奴隷州派は、それぞれ知事を選出するなど,対立を深めていく。

 1121日に、自由州派の一人が奴隷州派に依って殺害された事をきっかけに、カンザス準州内やミズーリ州との州境では奴隷州派移民と、自由州人との間で数々の暴力沙汰が続き、「流血のカンザス」(Bleeding Kansas)*[20]と呼ばれるほどの騒擾状態になった*[21]

 185797日に、奴隷州派がルコンプトンの町で制憲議会(Lecompton Constitutional Convention)を開き、ルコンプトン憲法を採択する。1221日にルコンプトン憲法は住民投票に掛けられ、自由州派がボイコットする中、6,226469で可決される。

 この間の1056日に第2回の領土議会議員選挙が行われる。この選挙では、自由州派が勝利した。新しい議会は、ルコンプトン憲法を再度住民投票に掛けることに決め、185814日に行われた投票でこれを16210,226で否決する。そして、レーブンワースの町で制憲議会(Leavenworth Constitutional Convention)を開き、レーブンワース憲法を採択する。これは518日に住民投票により成立する。

 ところが、第15代大統領ブキャナン(James Buchanan)は、ルコンプトン憲法を支持し、カンザス準州を奴隷州として連邦に加盟させるように、というメッセージを付けて議会に送るのである。このため、全米を二つに割った大議論が巻き起こる。これが1861年に南北戦争が起こる最大の原因となる。この結果、今日、ブキャナンは南北戦争を招いた最悪の大統領として記憶されている。

 その後も両派がそれぞれに作った二つの憲法のいずれをとるかをめぐって紛争が続いたが、最終的に自由州派側の憲法と決まり、1861129日に、カンザス州は自由州として合衆国に加入した。後述するように、南北戦争の始まりとなる南部の連邦からの脱退は186012月には既に始まっているので、これは風雲まさに急を告げるなかでの連邦加盟であった。

 それに対して、ネブラスカは逆に自由白人男子だけが選挙権者であるという憲法を、南北戦争が終了した後の1866年に制定した。このため州昇格のための1866年権限付与法案は、議会では承認されたが、リンカーンの暗殺によって17代大統領となったアンドリュー・ジョンソン(Andrew Johnson)の握りつぶし拒否権(大統領が法案に10日間署名しない場合の間接的拒否権)の対象となった。連邦議会が1867年に再招集され、ネブラスカ憲法で選挙権条項を削除する修正を加えるという条件で、新たな州昇格法案が成立した。この法案もジョンソン大統領が拒否したが、議会はその拒否を3分の2の多数で無効にし、州への昇格がようやくなった。

 

二 ドレッドスコット事件

 この事件が起きたのは、流血のカンザス騒動の真っ最中であった。そのため、非常に大きな社会的反響を呼んだのである。

(一) 基本的な事実関係

 ドレッド・スコット(Dred Scott)は17951800年に、ヴァージニア州で、ピーター・ブロウ(Peter Blow)の所有する奴隷として生まれ、1820年に、ブロウに従ってミズーリ州に移住した。ブロウが1832年に死亡したので、その翌1833年に合衆国陸軍の軍医であるエマーソン少佐(John Emerson)が彼を購入した。エマーソンは彼をイリノイ州のアームストロング砦(Fort Armstrong)に伴い、1836年まで滞在した。イリノイ州は自由州であり、したがって1787年の北西部条例の定めるところに従い、スコットは自由となる資格を得た。

 1836年に、エマーソンはウィスコンシン準州(現在のミネソタ州)にあるスネリング砦(Fort Snelling)に転勤し、スコットもそれに従った。ここはミズーリ妥協により自由地域とされていた。さらにスコットが移転する2週間前に,合衆国議会はウィスコンシン権限付与法(Wisconsin Enabling Act)を可決していたが、同法は明確にウィスコンシン準州における奴隷制を違法としていた。スコットはここに2年半止まった。したがって、ここでもスコットはその自由を得る資格を有していた。

 そこにいる間に、スコットはハリエット・ロビンソン(Harriet Robinson)と、エマーソンの同意の下に法律上正式に婚姻した。このことは、スコットに今ひとつの自由人である根拠を与えている。なぜなら、南部諸州の法律では、奴隷に法律上の婚姻を行う権利は無かったからである。すなわち、第一に婚姻は法律上の契約であり、奴隷に契約を結ぶ権限はなかった。第二に、婚姻の法的性格を認識することは奴隷所有者の財産利益を損なう。第三に奴隷が婚姻すると、他者(奴隷所有者を含む)による攻撃から自分の妻を保護する権利と義務を生じる。しかし、この際にも、スコットは自由に関する何の試みも行っていない。

 1837年、合衆国陸軍はエマーソンに、ミズーリ州セントルイスの南にあるジェファーソン・バラックス駐屯地(Jefferson Barracks Military Post)に転勤するよう命じた。しかし、エマーソンは、スコットとその妻を賃貸にして数ヶ月間ミネソタに残しておいた。自由州において、スコットを賃貸にするということは奴隷制を意味し、明らかにミズーリ協定とウィスコンシン準州権限付与法および北西部条例に違反する違法行為であった。

 その年のうちに、合衆国陸軍はエマーソンをルイジアナ州ジェサップ砦(Fort Jessup)に転勤させた。そこで、18382月、エマーソンはエリザ・イレーヌ・サンフォード(Eliza Irene Sanford)と結婚し、スコット夫妻をミネソタから呼びよせた。スコット夫妻は、誰の監視も受けずにその旅行を行った。その旅行中、スコットの娘エリザ(Eriza)はアイオワ準州とイリノイ準州の間を流れるミシシッピ川を運行する蒸気船の上で生まれた。どちらの準州も自由州であったから、法理論的に言えば、彼女は、連邦法の下でも州法の下でも自由人として生まれたことになる。

 1838年末に,軍は再びエマーソンをスネリング砦に転属させた。1840年、エマーソンはセミノール戦争に従軍した。その間、エマーソンの妻とスコット夫妻はセントルイスに留まった。その間、スコット夫妻は再び賃貸された。

 1842年、エマーソンは軍を退役した。1843年、エマーソンは40歳でアイオワ準州で死亡した。エマーソンの妻は、スコットを含むエマーソンの資産を相続した。エマーソンの死後3年間、スコットとその家族は賃貸奴隷として働いていた。18462月、スコットはエリザ・イレーヌ・エマーソンから自分達の自由を購おうとしたが、彼女は拒否した。

 

(二) ミズーリ州裁判所における訴訟

 1846年、スコットは、奴隷解放運動家の助言を得て、ミズーリ州裁判所に、自ら,及び妻及び娘の自由を求める訴訟を、エマーソンを相手取って提起した。それにあたり、スコットは以前の所有者であったピーターブロウの息子から経済的援助を受けた。この訴訟中に次女リジー(Lizzie)が生まれた。

 1847年末に、スコットは、この訴訟に勝訴した。それに対して、1848年、エマーソン側はミズーリ州高等裁判所に控訴した。

 大火災やコレラの流行から、この上告審は18501月まで開廷されなかった。その間、スコット家族は、エマーソンからの奴隷賃借人であったセントルイス郡保安官の管理下に置かれた。控訴審の陪審員もスコットと彼の家族は自由であると判断した。

 しかし、エマーソン夫人はこの判決の受け入れを拒否して、ミズーリ州最高裁判所に上告した。この時点で彼女はマサチューセッツ州に転居したので、これ以降、彼女の兄、ジョン・FA・サンフォードに訴訟の遂行を委任した。

 185211月、ミズーリ州最高裁判所は、ミズーリ州の28年間にわたる先例を覆し、控訴審判決を破棄し、スコット一家は、法的には奴隷であると判決した。スコット一家が自由を得るには、自由州に居住している間に訴えを提起する必要がある、というのである。

 

(三) 連邦裁判所における訴訟

 1853年に、スコットは、今度は連邦裁判所に訴えを提起した。被告はジョン・サンフォードになった。彼は,この間に ジョンエマーソンの財産の執行者になっていたのである。連邦裁判所に訴えを提起した根拠は、サンフォードがニューヨーク州の住民であったことである。合衆国憲法第3条第2節が連邦の「司法権は異なる州の市民間の紛争に及ぶ」と定めているために、連邦裁判所の管轄になると判断したのである。

 1854年、連邦裁判所は、この訴えを受理したが、担当判事は陪審員に、自由の問題は、ミズーリ州法に依って処理するべきである旨指示した。上述のとおり、ミズーリ州最高裁はスコットは奴隷と判決していたので、陪審員はサンフォードの勝訴とした。これに対し、スコットは、連邦最高裁判所に上告した。

 

(四) 連邦最高裁判所判決

 連邦最高裁判決は、激化する南北対立という政治情勢の下に遅延され、185736日になって下された。判決は、トーニーの書いた法廷意見に加え、南部系の6名の陪席判事の補足意見と、2名の判事による反対意見から成り立っていた。

  1 スコットの原告適格

 トーニーはこの事件が連邦司法権に属するかを問題にした。先に述べたとおり、アメリカ合衆国憲法第3条第2節第1項は異なる州の『市民Citizen』の間の訴訟は連邦裁判所の管轄に属すると規定している。したがって、スコットが、ある州の市民でなければ,そもそも原告適格を有していない。

 トーニーは次の様に疑問を言い換える。

「質問は単にこういうことである。その祖先がこの国に輸入され、奴隷として売られた黒人が、合衆国憲法によって形成され、存在するに到った政治的社会の構成員たり得るか、そしてその様な者が、憲法によって市民に与えられているあらゆる権利、特権及び免責、特に、この事件において連邦裁判所に提訴する特権が保障されているか?」

 彼は、様々に論じた末、合衆国憲法は、次の様に解釈されるべきだと結論する。

「『市民』という言葉と『合衆国人民』という言葉は同義語であり、同じものを意味する。これらは、いずれも我々の共和国憲法によれば、主権を形成し、権力を握っている人とその代表者を通じて政治を行うものを述べている。彼らは、 我々が"主権者"といつも呼んでいるものであり、すべての市民は、この人民の一人であり、この主権の構成員である。我々が先に提起した質問は、上告人がこの人民の一部を構成する者であるか、そして主権者の一員であるかということである。我々は、彼らは憲法の用語である『市民』ではなく、それに含まれず、それに含まれることが意図されておらず、それ故に合衆国憲法が市民に提供し,確保されている権利と特権のいずれをも主張することはできないと考える。それどころか、その当時において、彼らは、支配的種族によって征服された、下位の、劣ったクラスの人間であり、解放されていると否とに関わらず、依然としてその権威の下にあり、権限を持つ者や政府が彼らに付与しようと考えたものを例外として、いかなる権利や特権も、有さない。」

 その様に考えるべきだとするならば、それ以前にミズーリ州の裁判所がスコットの訴えを受理し、最終的には最高裁判所までがこれを審理していたのはどうなるのか。この点についてはトーニーはこう答える。

「すべての州は、誰であれ、その望む者に市民の資格を授与し、それに伴うあらゆる権利を授与する権利を疑う余地なく有していた。しかし、この資格はもちろん、州の境界内に閉じ込められ、その者に、他の州の法律や米国の礼譲によって彼に保障された限度を超えた権利や特権も与えることはできない。また、いくつかの州は、合衆国憲法を批准するに当たり、これらの権利と特権を付与する権限を放棄している。各州は、依然として外国人その他その州が適切と考えた者ないしは任意の階級または人の行為に対してそれらを与えることができるが、そのものは合衆国憲法で使用される意味での市民ではなく、また、連邦裁判所のいずれかで訴訟を提起する権限を授与されたわけでも、他州において市民の特権及び免責権を有するわけでもない。彼が得た権利は、それらを与えた州に制限されている。合衆国憲法は、議会に帰化の統一ルールを確立する権利を授与しており、この権利は、明らかに排他的であり、当法廷でそうなるように取り扱われてきた。その結果、いかなる州も、憲法制定以来、外国人を帰化させ、その者に連邦政府の下で市民に対して保障された権利及び特権を授与することはできないが、しかし、その州だけに関わる限度においてなら、疑う余地無く、その州の憲法と法律でその資格に関連づけられているすべての権利及び免除を与えることができる。」

 要するに、自由州が法律で黒人を市民だと定めたからといって、それが合衆国市民になるわけではない、というのである。改めてトーニーは強調する。

「黒人は一世紀以上前から劣位の人間とみなされ、社会的または政治的関係において白色人種と交際するには完全に不適当とされ、彼らが劣位である限り、白人は尊重するよう拘束されない権利を持っているので、黒人は公正かつ合法的に黒人の利益のために奴隷に留まるのである。黒人は、それをすることで利益があると認められれば、何時でも買われ、売られ、商業取引における通常の商品として扱われた。この見解は、その当時、白色人種の文明の下においては確立し、普遍的なものだった。それは道徳の原理と見なされていただけでなく、誰も論争したり論争する必要があるとは考えないほどの政治的原理であり、社会のあらゆる階層と地位の人びとが、日常的に習慣的に、一瞬たりともこの意見が正しいことを疑うことなく、自分の私生活においても、公的活動においても、行動していたものである。」

 さらにトーニーは、英国でも奴隷制が認められていたことを引き合いに出す。

 また、トーニーは、独立前の諸邦や独立後の諸州で奴隷を正式に認めていた法律や判例をうんざりするほど大量に例示する。

 トーニーは、その一環として米国独立宣言までも例証として掲げる。その第2節は次の様に書き出している。

「我らは以下の諸事実を自明なものと見なす。すべての人間は平等につくられている。創造主によって,生存,自由そして幸福の追求を含むある侵すべからざる権利を与えられている。これらの権利を確実なものとするために,人は政府という機関をもつ。」

 この文章は、普通、文字通り『すべての人間は平等につくられている』と読む。しかし、トーニーは、これをこう説明する。

「上記の一般的な言葉は、人類全体を受け入れるように見えるし、今日の同種の憲法などで使用された場合にはそう理解されるであろう。しかし、それには奴隷にされたアフリカ人種が含まれることを意図しておらず、この宣言を作成し、批准した人民の一部を形成していなかったことはあまりに明白である。なぜなら、仮にこの言葉が、その当時において彼らを包摂するものと理解されていた場合には、この宣言を起草し、採択した偉人達の行動は、彼らが主張した原則と甚だしく矛盾し、彼らがそうも自信を持って訴えていた人類に対する共感の代わりに、彼らは当然、広く叱責と非難を浴びることとなっていたであろう。」

 確かに、独立宣言の中心起草者であるジェファーソンは奴隷所有者として知られているから、彼が人間の平等という言葉に言う人間に、黒人奴隷を含めていたとは思えない。だから憲法起草者においてもそれが違うわけがない、というわけである。

 トーニ−はまた、スコットの訴えを認めると、黒人は彼らが望むときに他の州に入る権利、公衆の場や私的な場で市民が話すような主題に付いて自由に話す権利、公衆の集会を開き政治的な問題を論じる権利、および彼らが行くところどこでも武器を所有し持っていく権利を与えることになると論じる。そんなことは、文明国の誰も望まないはずだと彼は言うのである。

 この結果、スコットはミズーリ州の市民ではなかったとした。それ故に連邦裁判所はこの訴訟について公聴する権限を欠いていた。その点を誤認して訴えを受理した連邦裁判所は致命的な誤りを犯した、とトーニーはいうのである。

  2 ミズーリ妥協の違憲性

 本当なら、上記のところで判決は終わっていいはずである。しかし、トーニーはさらに踏み込む。

「下級裁判所における誤りの訂正は、上訴審がその事件の記録をさらに検討する権限を奪うことはない。なぜなら、その判決が、下級裁判所によって判例として引用される可能性があるからである。確かに、上訴審がその様な権限を持つという問題についてはいかなる法も判例もないが。しかし、それは本法廷にとって、そしてすべての上訴審にとって、下級裁判所の判決を破棄し、判決記録に表れた誤りが何であれ、その意見の誤りを是正することはその日常業務である。上訴審は、裁判所の沈黙は、解釈の誤りや将来の訴訟において、その点はすでに判例にあると,当事者双方が法廷で主張する可能性につながるので、それを常に自らの義務としている。」

 そして、それを審査するためには、スコットが自由人であると主張した根拠であるミズーリ妥協の合憲性判断に踏み込まなければならない,としたのである。

「ここで我々が遭遇している問題は、連邦議会が制定したこの法律は、合衆国憲法によって与えられた権限のいずれかに該当するかということである。仮にその権限が憲法によって与えられていない場合には、それが無効であり機能しないと宣言することが当法廷の義務である。そして米国の何人かが所有している奴隷に自由を付与することは不可能である。」

 スコットの弁護人は、ミズーリ妥協のような立法の制定権については、合衆国憲法432項が根拠であると主張していた。次の様な条文である。

「連邦議会は、合衆国に属する領有地その他の財産を処分し、これに関する必要ないっさいの準則および規則を定める権限を有する。」

 これについて、トーニーは言う。

「しかし、本法廷の判断によれば、その規定は、現在の訴訟に関係がない。そこで与えられた権力は、それがなんであれ、限定されており、その当時米国に属していた地域、ないし米国が領有権を主張し、英国との条約によって解決された境界内に限定されることを意図されており、その後に外国政府から取得した領土には影響を与えないのである。それは、既知の特定の地域のための特別な条項であり、現在の緊急事態を満たすための何ものでもない。」

 以下、延々と当時の歴史的状況について述べ、なぜそう解さなければならないのかを説明している。結論として次の様に述べる。

「連邦政府に、憲法が、合衆国の境界内に、あるいはそこから離れたところに、植民地を建設し、維持し、もしくは自らの利益のために支配し、統治し、あるいはその支配地域を拡大する権力は、新州の加盟の場合を除いて与えられていないのは確かである。新州加盟に当たっての権力は単純に与えられ、議会によってそれ以上の立法を必要とされていない。なぜならば、憲法それ自身が各州及び連邦政府相互の権利、権力及び州の義務を定義しているからである。しかし、その意味において恒久的に支配する地域を取得する権力は何ら与えられていない。」

 このことから、トーニーは次の様に結論を下す。

「以上のことからすれば、合衆国人民に属する地域に移住した米国の市民は、中央政府の意思に依存する単なる植民者として支配されることはなく、中央政府が適当と考えるいかなる法によって支配されることもないと確実に考えることができる。我々の統治が依存し、それ単独で存在し続ける原則は、州の連合であり、それ自身の境界内におけるその地方に関わる限度における主権と独立であり、米国領土内のすべてにおいて、州の人民によって信託された限定列挙された権限を有し、しかし、最高の権威を有する中央政府に一人民として共に拘束される。権力は、それが故に、中央政府が取得し保有する植民地においても、何ら拘束無く立法しうる独立地域においても現在の形における独自の存在とは矛盾するであろう。中央政府が取得するものは何でも、それを創造した各州の人民の利益のためである。中央政府は、州のために活動する受託者であり、連邦の全人民の利益を促進するため、特に授権された権限を担当するのである。」

 トーニーは、その具体的例として、第1修正の保障する表現の自由、第2修正の保障する武器を帯びる自由などをあげ、次の様に述べる。

「その他、ここに列挙する必要のないであろう、個人の自由と関連する権力は、表現的ないし積極的意味においては中央政府に認められないが、私有財産の権利は,これまでそれと同様に守られてきた。したがって、財産権は、個人の権利と結びつき、『何人も、法の適正な手続きによらずに、生命、自由または財産を奪われることはない』と規定している憲法の第5修正によって、同じ平面に置かれる。すなわち、合衆国市民は、米国内の特定の地域に自分の財産を運んだという以外には、何ら法律に違反する行為を犯していないのに、その合衆国市民の権利を剥奪する議会の法律は、法の適正手続きの名の下に無効である。」

 これは、その後、連邦最高裁判所の判例の上で大きな威力を発揮する、実体的デュープロセス(substantial due process of law)といわれる考え方の最初の判例となる。

 

  3 反対意見

 反対意見を書いたのはマクリーン(John McLean)とカーティス(Benjamin Robbins Curtis)である。

  (1) マクリーンの反対意見

  マクリーンは、「我々の憲法と正義の下に生まれた者は、帰化を要せず、市民となる」と述べる。そして市民という語のもっとも一般的で適切な定義は『自由人』だとする。したがって、スコットは市民だとする。

 英国に奴隷制があるという点については、英国高等法院の1772年の判決における首席判事マンスフィールド卿の次の言葉を引用する

「奴隷という状態は、道徳的または政治的ないかなる理由もで是認できない性質のものであり、唯一それを肯定する法は、それが制定された理由、機会、時それ自体が、記録から消去されて久しい。それは現存のいかなる法によっても支持することができない性質のものである。」*[22]

 憲法制定者の意思がどうだったかという点については、マディスンの文書等を抱負に引用して反論した。また、憲法の枠組みを作った者達は誰も、合衆国議会が連合会議によって制定された北西部条例を承知していたことを述べている。また、連邦政府の権限については、マカラック対メリーランド州事件判例をあげて反論している。

 ミズーリ妥協を無効とした点については次の様に述べている。

「この意見は、私の理解するところでは、主として、1787年の条例とミズーリ妥協の引いた線とを区別することに依存して成立している。しかし、その間にどのような違いがあるというのか。〈中略〉私には、この区別が理解できない。条例は、北西部地域の政府のために意図されており、その地域に限定されていたことが、認められている。それは議会の法律によって修正され、南部地域にまで拡張されて、北西部領土の一部とされた。しかし、条例が議会の法律によって効力を与えられていなければ、何の力も持たなかったであろう。私の意見では、ミズーリ妥協ラインと同じく、連邦議会の法律にその妥当性を依存しているのである。」

 第5修正の主張に対しても、先に挙げたマンスフィールド卿の言葉,及び多数の判例で対抗している。

  (2) カーティスの反対意見

 カーティスは、少し違う角度から反論する。この訴訟では、スコットが市民であるかどうかが争点であり、その様な訴訟はコモンローの一般原則として認められているというのである。

「私はそれがそのような申立てに適用されるコモンローの原則によって判断されるべきではない、といういかなる適切な理由も見いだし得ない。確かに高等裁判所の管轄は、当事者が市民であることに依っているのであり、それを証明することは市民権を主張する原告の義務であるが、彼がそうした場合には、被告はそれに裁判所が管轄権を持っていないという疑問を差し挟み、彼が申立ての真実を証明する責務があることを示している。」

 このように述べて、様々な判例や文献を紹介している。

 憲法起草者が、黒人を市民に数えたはずがない、という点については、次の様に述べている。

「憲法は米国人民により制定され、確立されたが、それは各邦の行為、または各州の法律により自分自身及びその邦の他のすべての市民を代表して活動する権限を与えられた人物の行為を通して行われた。我々が承知するとおり、いくつかの州では有色人がその目的の為に法律によって授権された人であった。これら有色人は、憲法がそのために制定され確立されている『合衆国人民』の本体に含まれているだけでなく、少なくとも5邦で、彼らは行動する権限を持ち、その参政権によって、憲法を批准するべきか否かという問題に対して、疑う余地無く行動していた。憲法が、それを確立した合衆国人民の一部から市民権を剥奪する何かを憲法が定めているとしたら、それは奇妙であろう。

 私は憲法中に、憲法が制定された時点において市民であった者、その批准後に自然の出生により市民であるべき者が、その憲法の力によりその市民権が剥奪するという規定を見いだすことはできないし、議会にいずれかの州の土地の上で生まれた人から権利を剥奪する権限を認めることもできない。私の意見に依れば、合衆国憲法の下で、国家の土壌に生まれたすべての自由人は、その憲法や法律の力によってその州の市民であり、また、合衆国市民である。」

  4条に対するトーニーの理解にも反論している。

 

(五) その後の経緯

  1 ドレッド・スコットのその後

 ドレッド・スコットの彼の元の主人であったピーター・ブローの息子は、スコットとその家族の訴訟を支援してきたが、最終的に敗訴したのを受けて、1857526日にスコットとその家族を購った上で解放した。スコットは、その14ヵ月後の1858917日に結核で死んだ。

 

  2 1860年大統領選挙

 トーニーはこの判決により、奴隷制の問題を落ち着かせることができると信じていたが、反対の結果を生んだ。それは北部での奴隷制に対する反対運動を強化し、民主党を派閥で割り、南部の奴隷制擁護者の中の脱退主唱者を勇気付けてさらに大胆な要求をさせ、また共和党の勢力を強めた。

 エイブラハム・リンカーンは、この判決を激しく批判した。

 これに対して「人民主権」の旗の下に1854年のカンザス・ネブラスカ法を作りだし、ミズーリ妥協を実質的に葬っていたダグラスは、最高裁判所判決に従うのが正義だと主張した。しかし、彼はドレッド・スコット判決のうち、準州議会が奴隷制制定権を持たないとした部分は傍論に過ぎず、最高裁判所の判断はまだ示されていないと主張したのである。

 ルコンプトン憲法の採否をめぐる議論の中で、1858年に展開された二人の論戦は全米的に大きな反響を呼び、地方政治家に過ぎなかったリンカーンが一躍全米に知られるきっかけを作った。

 1860年選挙で、結局民主党は候補を一本化することができず、分裂して北部民主党はダグラスを、南部民主党はブレッキンリッジ(John Cabell Breckinridge)をそれぞれ擁立した。また、ジョン・ベル(John Bell)がホイッグ党保守派によって、この年に急遽結成された立憲連合党(Constitutional Union Party)から立候補し、南北融和を叫んだ。こうした四巴の乱戦状況の中で、本来、本命であったはずのダグラスは、リンカーンとブレッキンリッジの南北対立に巻き込まれ、得票率では3割近かったのに、選挙人制度の魔術で、選挙人数ではわずか4%しか獲得できず最下位に沈んだ。逆にリンカーンは得票率では4割に届かなかったが、選挙人制度の魔術で、選挙人の6割弱を獲得して当選した。

 

政党名

 

大統領候補

 

得票数

 

得票率(%)

獲得選挙人数

獲得選挙人率(%)

共和党

エイブラハム・リンカーン

    1,865,908

   39.8

    180

    59.4

南部民主党

ジョン・ブレッキンリッジ

     848,019

   18.1

     72

    23.7

立憲連合党

ジョン・ベル

     590,901

   12.6

     39

    12.9

北部民主党

スティーブン・ダグラス

    1,380,202

   28.5

     12

     4.0

合計

 

    4,685,561

    100

    303

     100

 

  3 南北戦争と連邦最高裁判所

  (1) 南北戦争

 南部諸州は、この結果を見て、直ちに連邦の脱退に走った。すなわち同年1220日には早くもサウスカロライナ州が連邦からの脱退を通告し、24日にそれを宣言文の形で発表した*[23]。それを簡単に要約すれば、マカロック事件における州側の主張の繰り返しである。翌18612月までにミシシッピ州、フロリダ州、アラバマ州、ジョージア州、ルイジアナ州、テキサス州も連邦からの脱退を宣言した。24日にはこの7州が参加したアメリカ連合国(Confederate States of America)を結成、ジェファーソン・デイヴィス Jefferson Finis Davis)が暫定大統領に指名された。

 これに対し、リンカーンはその就任演説で、次の様に述べた。

「私は、普遍的法と憲法を熟慮した結果、これらの州よりなる連合は恒久的なものと考える。恒久性は、仮に明示されていなくとも、あらゆる国家政府の基本法に含意されている。正当ないかなる政府も、その組織法に,その終了に関する条項を持ったものは無いと断言してよい。わが国憲法の条項にしめされたあらゆる事を実施し続けるならば、連邦は、永遠に持続するのであり、憲法に書かれている条項に依らなければ、解体することは不可能である。

 繰り返す。もし合衆国が正当な政府ではなく、単なる州の契約による連合であるとしても、その契約を、それを締結した全当事者に依らずして平和裏に解約できるだろうか? 当事者の一方のみが契約を侵害する、つまり破棄することはできず、全員の合法的同意を要するのではないだろうか?」

 このように論じて、リンカーンは、全州の合意無く、一部の州に勝手に連邦から脱退する自由は、憲法上予定されていないと宣言したのである。

 南北戦争は、412日に南軍が連邦のサムター要塞(Fort Sumter)を砲撃したことで開始された。当時、連邦正規軍は1万数千人しかいなかった。これではとうてい大規模な反乱に対応することはできないので、リンカーン大統領は415日、北部各州から75000人の民兵を召集した。憲法は、各州の民兵を指揮する権限を大統領に与えているからである。*[24]

 南北戦争時、すべての奴隷州が、南部連合に走ったのではなく、メリーランド州、デラウェア州、ケンタッキー州、ミズーリ州、それにバージニア州の西部(後にバージニア州から「独立」してウェストバージニア州となる)は合衆国に残った。

  (2) 南北戦争と連邦最高裁判所

 リンカーンは、その就任演説の中で、連邦最高裁判所のドレッドスコット判決にもわざわざ言及している。

「私は、憲法問題は最高裁判所によって決定されるべきだと主張する者がいることを忘れてはいないし、いかなる事件においても判決が当事者を拘束するべきだと言うことを否定しないし、あらゆる同種事件においては政府の他の部門は、それらを大いに尊重し、考慮すべきである。その判決がある特定の事件において誤っていることが明白である場合にも、その判決の悪影響はその事件に限定されているのであるから、それが覆され、他の事件の先例にならなければ、他の行動をとることにより発生する害悪よりも耐えることができる。同時に、虚心坦懐な市民は、もしも全人民に影響を与える重要問題に対する政府の政策が、最高裁判所の判決によって決定的に確定されるのならば、個人的問題に関して当事者間で通常訴訟が提起されたその瞬間に人民は自身の決定権を失い、その統治を実質的に高位の法廷の手に委ねたことになることを認めねばならない。この意見は、決して法廷ないし裁判官を非難しているのではない。その義務は、その面前に適法に提出された事件に尻込みしないことであり、他の者がその判決を政治的に転用しようとしたとしても、それはその責任ではない」

 こうして、リンカーン大統領が、ドレッド・スコット事件判決を無視する姿勢を明確に打ち出したことから、以後、最高裁判所の権威は大幅に失墜する。その失墜を端的に示すのが、次の決定である。

  (3) メリーマン決定

 トーニ−長官は、南北戦争中、リンカーンの、憲法を軽視した強権的な行政執行に対して積極的に挑む。それがメリーマン決定(Ex parte Merryman)である。

 マサチューセッツ州民兵隊は、リンカーンの召集に応えてワシントンに行くために、メリーランド州を通過しようとし、ボルティモアで南部連合への同調者である市民との間で衝突が起きた。これがプラット通り暴動(Pratt Street Riot)と呼ばれる事件で、その結果、民兵隊兵士4名が死亡し、36名が重傷を負った。市民の側では12名が死亡し、負傷者数は不明である。サムター要塞への砲撃ではまったく死傷者は出ていなかったので、この事件が南北戦争最初の人的被害を伴う騒動となった。

 メリーマン(John Merryman)は、南北戦争が始まった時点においては、農園主であり、ボルティモア郡議会議員であり、同時にメリーランド州ボルティモア郡民兵隊で騎兵隊大尉であった。プラット通り暴動が起きたことから、メリーランド州知事ヒックス(Thomas H. Hicks)は、これ以上北軍がメリーランド州を通過して,こうした衝突事件を起こさないよう、メリーマン大尉に鉄道橋を破壊し、ワシントンとつながる電信線を切断するよう命じ、メリーマンはそれに従って破壊活動を行った。

 1861525日、メリーマンは自宅で連邦軍によって拘束され、マクヘンリー要塞(Fort McHenry)に収監された。これに対し、メリーマンは人身保護令状(habeas corpus)の発給を連邦裁判所に求めた。ボルティモア高等裁判所判事を兼ねていたトーニーは、身柄の拘束は裁判官の発した逮捕状無しではこれを行うことができないとして、人身保護令状を発給した。しかし、リンカーンは1862924日人身保護令状を停止する命令を下し、マクヘンリー砦司令官に、メリーマンの釈放を拒否するよう命じた。

 トーニーは、反乱時の人身保護令状の停止権限は議会に属するので、議会の議決無しにリンカーンが人身保護令状を停止したのは違憲であると裁定したが、無視された*[25]。トーニーは、命令不服従で、マクヘンリー要塞の司令官の勾引状を発行したが、連邦保安官は砦内に立ち入ることを拒否された。

 このメリーマン決定は,ドレッド・スコット判決を除けば、トーニーのもっとも有名は判決となった。

 トーニーは南北戦争中の18641012日に現職のまま死亡する。1777年生まれであるから、87歳であったことになる。

 



*[1] 13代以降の大統領で,在任中に奴隷所有者だった者はいない。ただし、17代大統領のジョンソン(Andrew Johnson)と、18代大統領のグラント(Ulysses S. Grant)は、南北戦争以前においては奴隷を所有していた。

出典=http://home.nas.com/lopresti/ps.htm

*[2] 米国初期の憲法判例:日本法学78291頁以下参照。

*[3] Prigg v. Pennsylvania, 41 U.S. 539 (1842):モーガン(Margaret Morgan)という黒人女性は、メリーランド州に住むアシュモア(John Ashmore)という男性の奴隷であったが、1832年、アシュモアは彼女をペンシルヴァニアに移送の上、自由にした。当時のメリーランド州では、所有者が正式に黒人奴隷を解放することができなかったからである。アシュモアの死後、その相続人は、モーガンが依然として奴隷であると決め、逃亡奴隷の捕獲を職業とするプリッグ(Edward Prigg)に彼女を連れ戻すことを依頼した。18374月、プリッグが指揮する4人の男たちはモーガン及びその子供達(その一人はペンシルヴァニア州で自由人として生まれていた。)をペンシルヴァニア州内で襲撃し、メリーランドに誘拐した。彼らは奴隷として売却された。プリッグはペンシルヴァニア州法に違反したとして起訴され、有罪となった。ペンシルヴァニア州法(An Act for the Gradual Abolition of Slavery)は、連邦の逃亡奴隷法(Federal Fugitive Slave Law of 1793)を排除し、逃亡奴隷と推定される者に対する保護を定めていたが、それに違反したと認められたのである。これに対し、プリッグは連邦最高裁判所に上告した。この事件では、連邦最高裁判所は、全員一致で、ペンシルヴァニア州法を違憲と判断した。

*[4] 北西部条例の正式名称は、「オハイオ川の北西部におけるアメリカ合衆国の領土の統治に関する条例(An Ordinance for the Government of the Territory of the United States, North-West of the River Ohio)」である。

*[5] 米国違憲立法審査権の確立:日本法学783号 頁以下参照

*[6]残りの1票はニュー・ハンプシャーの選挙人の1票である。その選挙人は後に第6代大統領となったジョン・クインシー・アダムズに自分の票を投じた。その理由は、全会一致で大統領に選出されるという栄誉をワシントンだけに限りたいと考えたからという。

*[7] 法律の正式名称は次のとおりである。

 An Act To authorize the people of the Missouri territory to form a constitution and state government, and for the admission of such state into the Union on an equal footing with the original states, and to prohibit slavery in certain territories.

*[8] 略した箇所は、北西部条例第6条と、事実上同一の文章である。

*[9] The Annexation of Texas Joint Resolution of Congress March 1, 1845。この共同決議という方法はハワイを州に昇格させるときにもとられた。

*[10] モルモン教の正式名称は「末日聖徒イエス・キリスト教会」という。しかし、キリスト教とは関係の無い宗教である。ディザレットという名前は、モルモン教の聖典である「モルモン経(The Book of Mormon)」の中で、ミツバチを意味する言葉から採られたという。ディザレット州は、ユタ州とネバダ州のほぼ全域に加え、カリフォルニア州とアリゾナ州の大半、コロラド州、ニューメキシコ州、ワイオミング州、アイダホ州、およびオレゴン州の一部に跨っているという実に広大な地域であった。現実問題として、その地域は他に権威を持つ機関が存在しないため、実質的にこの州政府が支配していた。

*[11] ホイッグ党(United States Whig Party):第7代大統領になったジャクソンによってそれまでの共和党が分裂し、ジャクソン一派が今日の民主党を結党した後に、その政策に反対するために共和党と連邦党の残存勢力が結集して1933年に結党された政党。第9代大統領ハリソン (1841)、第10代大統領タイラー (1841 - 1845) 12代大統領テイラー (1849 - 1850)及び第13代大統領フィルモア (1850 - 1853) がホイッグ党出身の大統領である。1853年に解党した。それに代わって、1854年に現在の共和党ができる。

*[12]  この5つの法律は、次のサイトで一覧できる。

http://legal-dictionary.thefreedictionary.com/An+Act+for+the+Admission+of+the+State+of+California+into+the+Union

*[13] 正式名称は、Proposing to the State of Texas the Establishment of her Northern and Western Boundaries, the Relinquishment by the said State of all Territory claimed by her exterior to said Boundaries, and of all her Claims upon the United States, and to establish a territorial Government for New Mexico.September 9, 1850)。この法律はテキサス州に、領土主張放棄の代償として1000万ドルの補償を受け、ニューメキシコ準州(今日のアリゾナ州に相当する地域を含む)の設置を認め、人民主権原理の下に自らの組織を構築する権利を与えた。

*[14] 正式名称は、An Act For the Admission of the State of California into the Union.September 9, 1850)。カリフォルニア州を自由州として合衆国に加入することを認める内容である。

*[15] 正式名称は、An Act To establish a Territorial Government for Utah. September 9, 1850

 ユタ準州はディザレット州の北部に限られていたが、この法律はニューメキシコ準州同様、人民主権原理の下に自らの組織を構築する権利を与えたので、モルモン教徒は一応満足し、185123日、モルモン教徒の指導者であったブリガム・ヤング(Brigham Young)はユタ準州の初代知事に就任した。44日、ディザレット州議会は州を解散する決議案を可決した。104日、ユタ準州議会はディザレット州の法律と条令を取り込み執行することを票決した。この時点ではユタ準州はモルモンの宗教国家だったのである。その後、非モルモン教徒の数が州内で増えると共に、その性格は失われていった。

*[16] それまであった1793年逃亡奴隷法(Fugitive Slave Act of 17931つの州から他の州へあるいは公有の領土へ逃亡した奴隷の返還を規定するものである)を改正し、強化したもので、Fugitive Slave Act of 1850と通称される。である。 正式名称はAn Act To amend, and supplementary to, the Act entitled An Act respecting Fugitives from Justice, and Persons escaping from the Service of their Masters, approved February twelfth, one thousand seven hundred and ninety-three. (September 18, 1850)という、大変長いものである。

*[17] 正式名称は、An Act to suppress the Slave Trade in the District of Columbia, 1850。この法律は、首都における奴隷売買を禁じるのであって、奴隷制を廃止するものでは無い。

*[18] カンザス・ネブラスカ法の正式名称は次のとおりである。

An Act to Organize the Teritories of Nebraska and Kansas

*[19] 東部の自由州からカンザスに移住者を大量に送り込むための組織は幾つも作られた。最大の組織はタイアー(Eli Thayer)によって作られたニューイングランド移民援護会社(New England Emigrant Aid Company)で、少なくとも2,000人の移住者を送り込んだ。その成功からWorchester Country Emigrant Aid Society等、同様の性格の会社が設立された。ローレンスという町の名は、ニューイングランド移民援護会社の総務部長(Company secretary)であったAmos Lawrenceからとられている。

出典=http://www.kshs.org/p/cool-things-new-england-emigrant-aid-company-sign/10231

*[20] 「流血のカンザス」は、ニューヨーク・トリビューンの名編集者グリーリ(Horace Greeley)の命名による。

*[21]  流血のカンザスと呼ばれる事件は、大規模なものだけに限定しても次の様なものがある。

185511月〜12月:Wakarusa War(ミズーリ州から侵入した奴隷派の軍がローレンスの町を包囲攻撃した)

1856524日:Pottawatomie Massacre(フランクリン郡)

同年62日:Battle of Black Jack(ダグラス郡ボールドウィン近郊)

同年64日〜5日:Battle of Franklin(ローレンス近郊)

同年816日:Battle of Fort Titus(ダグラス郡ルコンプトン近郊)

同年830日:Battle at Osawatomie(マイアミ郡)

同年913日:Battle of Hickory Point(ジェファーソン郡オスカローサ北部)

1858131日:Battle of the Spurs(ホールトン近郊)

同年519日:Marais des Cygnes Massacre(リン郡)

出典=http://www.territorialkansasonline.org/~imlskto/cgi-bin/index.php?SCREEN=timeline

*[22] 1772年、ロンドンで、ジェームズ・サマーセット(James Somerset)事件が起こった。所有者はサマーセットをジャマイカで働かせるために送ろうとした。サマーセットは人身保護令状の救済を受け裁判となった。高等法院(Court of King's Bench)主席判事のマンスフィールド(William Mansfield)卿は、同年622日、本文に述べたとおり、それを認める法がないことを理由に「この黒人は放免されなければならない」と判決した。この結果、奴隷という身分はイギリスの法では存在しないこととされ、国内にいた1万人から14千人の奴隷は解放された。ただし、この判決はジャマイカや米国などには効力を持たなかった。奴隷貿易の廃止は1807年の奴隷貿易法、そして植民地を含む全面的な廃止は1833年の奴隷制度廃止法まで待つ必要があった。しかし、ドレッド・スコット事件の時点では,イギリス及びその植民地の全域で完全に廃止されていた。

*[23] 南カロライナの脱退宣言は次の文書である。

The Declaration of the Immediate Causes Which Induce and Justify the Secession of South Carolina from the Federal Union

*[24] 合衆国憲法221項は次の様に定めている。

「大統領は、合衆国の陸軍および海軍ならびに現に合衆国の軍務に就くため召集された各州の民兵団の最高司令官である。」

*[25] 議会の権限を定めた合衆国憲法1条の、92項は次の様に定めている。

 人身保護令状の特権は、反乱または侵略に際し公共の安全上必要とされる場合を除いて、停止されてはならない。