14修正と裁判所

−ウェイト第7代長官及びフラー第8代長官の時代−

甲斐素直

[はじめに]

 チェイスの後に続いた二代の連邦最高裁判所長官の選任は、いずれも難航した。第7代長官となったウェイト(Morrison Waite)は実に10番目の候補者であった。第8代長官となったフラー(Melville Weston Fuller)も2番目の候補者であったが、その上に、フラーは南北戦争中に軍役を回避していた等の問題があり、上院における彼の審査では揉めたが、辛くも承認されたのである。

 連邦最高裁判所長官は、最初の三人は建国の父だったし、その後は国務長官、財務長官、財務長官と、いずれも連邦政府の中枢に位置する有力な政治家が就任していた。それに対し、この二代の長官はいずれもほとんど政治経歴を持たない人物であった。ウェイトはオハイオ州下院の議員を1期務めたのが唯一の履歴で、連邦上院議員選挙には2回挑戦していずれも落選した、というあまり冴えない地方政治家に過ぎなかった。就任の時点ではオハイオ州最高裁判所判事を務めていた。フラーも同じく1期だけイリノイ州下院の議員を務めたのが唯一の政治履歴で、それ以上の政治活動は自ら拒み、就任の時点ではイリノイ州弁護士会会長だった。

 したがって、彼らは、それまでの連邦最高裁判所の歴史から見て、異例の人事であった。このように政治的には実績のない人物が長官候補に浮上した理由は、ウェイトの場合には、彼の弁護士としての卓越した成功にあった。特に、全国的にその名を高くさせたのが、アラバマ号事件に関する国際仲裁法廷で、米国を代表して英国と渡り合い、1550万ドルの賠償金を英国から勝ち取った事件であった*[1]。フラーの場合にはウェイトの先例が意味を持ったのであろう。

 この二人の長官は、こうした経歴のせいであろうか、その判決に政治的配慮がなく、その結果、法理論として見れば正しいが、結果としては時計の針を大きく過去に戻す判決を、特に本来は解放された黒人の権利保護の目的で制定されたはずの第14修正の解釈を通じて行うのである。本稿で紹介する判決のほとんどは、その結果、第14修正に関わるものとなっている。

 

一  合衆国対クルックシャンク事件

 ウェイト・コートにおける最重要な事件は、このクルックシャンク事件(United States v. Cruikshank - 92 U.S. 542 (1875))と言って良い。この判決は、その政治的影響において、合衆国の歴史を書き換えるほどに大きなものであった。

(一) コルファックス大虐殺

 この裁判となった事件は、コルファックス大虐殺(Colfax massacre)として知られる事件の後始末である。大虐殺事件は、ルイジアナ州のグラント郡(Grant Parish)の郡庁所在地であるコルファックスで 1873413日、イースターサンディに起きた。そこに到る経緯は、当時における南部の混乱を端的に示すものなので、以下、簡単に説明する。

 18684月、ルイジアナ州では連邦軍の後押しの下、共和党が政権を握った。この年から1876年までのルイジアナ州におけるすべての選挙では暴力と欺罔が横行した。

 1872年、その時点でルイジアナ州知事であった共和党のウォーモート(Henry Clay Warmoth)は、自由共和党(Liberal Republicans=南部再建法に反対する勢力)に転向した。ウォーモートは、民主党員を郡の選挙登録官に選任し、彼らは選挙人名簿に可能な限り多数の白人と、可能な限り少数の黒人が登録されるよう努力した。その手段として、例えば多くの登録官は、黒人に知らせること無く登録所を変更した。また、以前に奴隷であった者は出生証明書を持っていないことを承知の上で、21歳以上であることの証明を求める等の手段で黒人の登録を阻んだ。また投票箱の改竄も横行した。

 1872年のルイジアナ州知事選挙に、自由共和党と民主党の結びついた連合派(Fusionist)は、元南軍大隊長のマッケン(John McEnery)を知事候補に擁立し、州知事のウォーモートは、連邦上院議員候補に擁立することを決めた。これに対抗して、共和党ではルイジアナ州選出上院議員のケロッグ(William Pitt Kellogg)を知事候補に立てた。投票は1872114日に行われたが、両者が共に勝者宣言をし、両陣営とも就任パーティーを開催し、役職名簿を発表するという異常事態になった。しかし、連邦判事がケロッグの勝利と共和党が州議会の多数となるという判決を下し、グラント大統領がケロッグの政府を守るために軍を派遣したので、実質的にケロッグが勝利した。

 これに対し、マッケン派ではニューオーリンズ市中心部にあったジャクソン広場にある州の武器庫を襲撃した。しかし、ケロッグ派の民兵は逆にマッケン派の指導者多数を逮捕し、ニューオーリンズを支配下に置いた。逮捕を免れた者達は、マッケン派の民兵団を組織した。そして翌年3月、マッケン派はジャクソンスクエアの戦い(Battle of Jackson Square)を展開し、ニューオーリンズの州議事堂*[2]及び警察署を押さえた。しかし、連邦軍が到着する前に退却したのでマッケン派との正面衝突には至らなかった。

 こうした状況の中で発生したのが、問題のコルファックス大虐殺(Colfax massacre)である。事件の起きたグラント郡は、共和党政府によって新設された郡の一つで、そうした新郡は州内での地共和党政府に対する支持を作るための努力の一環であった。同郡人口のうち、2400人は黒人で2200人が白人であった。187211月の選挙では、グラント郡で選挙登録したのは黒人776人に対し白人630人であった。黒人は共和党に、そして白人は連合派に投票したが、連合派登録官は、連合派の圧勝を宣言した。

 グラント郡(Grant Parish)では、翌18733月になってもの保安官や治安判事の職を*めぐって、共和党と連合派の争いは続いていた。連邦政府の支援を得て、ケロッグ知事はルイジアナ州知事としての役職任命を行った。それにより任命された共和党の登録官は、郡都であるコルファックスにある裁判所を占拠した。そこが投票所となる予定だったのである。連合派が奪還することを恐れて、黒人達は裁判所のまわりに塹壕を掘り、3週間にわたり、それを保持していた。

 328日、連合派の登録官は裁判所を奪還するために武装した白人を召集した。共和党の登録官は、裁判所を守るために武装した黒人を召集することで対抗した。両派の間に散発的に武力衝突が何回か起こり、不安を感じた黒人女性や子供たちも、男達から保護されるために裁判所に集まった。

 ウォーモートによって任命されていた治安判事は、これは黒人の暴動であるとし、連合派の保安官であるナッシュ(Christopher Columbus Nash)にこの暴動を鎮圧し、裁判所建物を奪還するよう命じた。ナッシュは近隣の郡からも白人民兵を召集した。

 そして、問題の413日がやってきた。

 昼過ぎに、ライフル銃及び4ポンド砲で武装した300人以上の白人で組織された民兵団が、コルファックス裁判所を襲撃した。裁判所周辺にキャンプしていた女・子供を退去させた後に始まった銃撃戦は数時間も続いた。しかし、大砲が火を噴くと、黒人の一部はパニックに陥り、周囲の森に逃げ込んだり、河(Red river)に飛び込んだりした。白人側は馬で追跡して彼らを殺害した。さらに白人側は裁判所建物に火を放った。このため、黒人側は降伏し、武器を捨てて建物から出て行った。その際、何者かが建物の中から発砲したらしい。それがきっかけとなって、白人は一斉に黒人を射撃し、一方的な殺戮が開始された。それでも約50人が捕虜となったが、彼らも数時間後に殺害された。ネルソン(Levi Nelson)という黒人だけが、只一人この殺戮を生き延びた。彼はクルックシャンクから撃たれたが、何とか気づかれずに這って逃げるのに成功したのである。後の裁判において、彼は連邦政府側の中心的証人になる。

 414日に、ニューオーリンズからケロッグ知事の送った警官隊が到着し、さらに数日後、連邦軍2個中隊が到着した。その報告に依れば、彼らは3人の白人と105人の黒人の死体を識別した。また、15ないし20名分の識別不能な死体を河で発見した。それ以上、何名が殺害されたかは不明である。彼らは民兵隊メンバーを捜索したが、そのほとんどはすでにテキサス等に逃亡していた。

 結局、97人が逮捕されたが、検察官が起訴に持ち込めたのは9人だけだった。彼らは1件の殺人と、解放奴隷の権利に対する陰謀という1870年第14修正施行法違反で裁かれることになった。裁判は1874年になって行われた。最初の審理では、1人が無罪とされ、他の8人は審理無効(Mistrial*[3]が宣言された。再度の審理では、3人が黒人に対する陰謀その他15の訴因に対して有罪となった。

 控訴審は、1870年の第14修正施行法は違憲であるとし、全員に無罪を言い渡した。このため連邦側が、連邦最高裁判所に上告した。上記のような経緯から、この事件では、第14修正実施法の合憲性が問題となった。

(二) 判決の内容

 判決はウェイト長官自身が執筆した。評決は54というきわどいものであった。

 ウェイトは、起訴が妥当で無い理由を冒頭に6項目も挙げる。憲法学的に重要なのは3項目目と4項目目である。

 3項目目ではこう言う。

 「前述の16の訴因が基づいている犯罪は、議会制定法第6条が作り出したものであり、同法は、合衆国司法においては違憲であり、したがって問題は州裁判所においてのみ審理でき、立法権も憲法上、州に留保されている権限である。」

 4項目目ではこう言う。

「本件法律は、それが犯罪が作り出し、刑罰を科している限度において合衆国憲法に違反し、人びとの権利を侵害している」

 その理由として、次の様に説き起こす。

「市民は、彼らが所属する政治的共同体のメンバーである。市民は共同体を形成し、その能力に応じて、その一般的な福祉の増進と個々人の権利及び集団の権利の保護を受けるために、政府の支配に服している。保護を提供する政府の義務は、その目的のために有する権力によって常に制約されている。政府の形態は、人民がその嗜好に基づいて選択するところによって決定される。政府は一度形成されると、市民と人民の権利を、その権限の範囲で守るために、その有するすべての権限を行使でき、あるいはしなければならない。しかし、それ以外のことは許されない。政府の保護義務は、常に、その目的の為に有する権力によって制約されている。」

 ここからウェイトは合衆国の理念を説く。つまり、連邦はあくまでも連邦でしか達成できない目的を達成するために存在しているのだという。バラバラの邦のバラバラの政府では外国の脅威に十分に対抗できなかったので、連合規約を作った。そして、より完璧な団結を目指して合衆国憲法を作った。合衆国憲法の下で、連邦は、その目的の範囲内においては州の権限を上回る。しかし、目的外の処では権限はまったく持たない。合衆国憲法に書かれていない権限は、すべて州政府と人民に留保されているのである。この結果、合衆国人民は、連邦政府と州政府という2重の政府の下で暮らしている。この二つの政府は、異なる目的の下に異なる管轄権を有している。例えば、連邦保安官が州裁判所の審理の執行を妨害し、その妨害が州官吏に対する攻撃に協力するものであれば、合衆国の主権はその抵抗によって侵害されることになる。要するに、州内における殺人に対しては連邦裁判所は審査権を持たないというのである。この結果、連邦裁判所における審理の対象は、第14修正実施法だけになる。

 以上を前提にウェイトは第1修正に言及する。第1修正は、他の権利章典の規定と同様、本来連邦政府の権限を制約しているのみであって、州政府が、その人民の権利を制約する場合に付いては触れていない。この点について、ウェイトは数多くの判例を引用して論証する。さらにウェイトは、第1修正に述べられている権利は、この修正によって生じたのでは無く、人民の本来保有している権利を確認したものだという。

「人民が平穏に集会する権利および苦痛の救済を求めて政府に請願する権利*[4]及びその他これに関連する連邦政府の権限や義務は、国家の市民権の属性であり、合衆国の保護と保障の下にある。?共和国政府形態という理念は、その権利を意味し、その侵害は、米国の主権の侵害である。」

 つまり、第14修正実施法が述べている犯罪、すなわち陰謀目的の集会というのは、合法的な目的の集会を禁止する性格を有しているが故に違憲というのである。ここで言われていることは、今日の憲法訴訟の用語で言えば、曖昧性故に無効の法理というのに該当することになる。

 ついで、第2修正に議論は移る。武器を携帯する権利である。これについても、州が制限するのはともかく、連邦政府による制限は認められないとウェイトは述べる。そして、これらに対する侵害の根拠を、第14修正に求めることはできないと述べる。

「第14修正は、州が、法の適正手続きなしに生命、自由、または財産をすべての人から奪い、あるいは、その管轄内にある者に対し法の平等な保護を否定することを禁止しているが、しかし、それは一人の市民の、他の市民に対する権利に何にも加えてない。それは単に社会の一員としてすべての市民に属する基本的権利に対する州からの侵害に対して、追加の保証を供給しているだけである。平等権を享有することに関して、すべての市民を保護する義務は、本来は州を想定しており、それは依然として存在している。合衆国に課された唯一の義務は、州が権利を否定しないことを確認することである。それが修正条項の保障の内容であり、それ以上のものでは無い。中央政府の権限は、この保障の実施に限定されている。」

 こうして、第14修正の意味を厳しく制限し、本件実施法や公民権法のように、州を飛び越えて直接市民を拘束する立法を違憲とし、わずかに拘束されていたクルックシャンク達はすべて無罪が確定したのである。つまり、全米を震駭させた大虐殺事件でありながら、その総指揮官のナッシュも含めて、誰も刑事責任を問われなかったのである。

(三) その影響

 この判決は、連邦議会共和党急進派が推進してきた、軍事的圧力の下に南部を再建するという一連の立法をすべて違憲と宣言したに等しい判決である。この結果、南部の黒人達は、連邦法による救済を失い、急速に敵対性をましている州政府の慈悲にすがるほかは無くなったが、その州政府は彼らを守ろうとする努力をまったくしなくなった。ルイジアナ州に関して言えば、民主党が1870年代後半に州の政権を握ると、黒人を選挙登録から閉め出すための、より複雑な手続きを定めた立法を行うようになった。

 黒人の権利を擁護するための南部再建計画は、結局、19代大統領ヘイズ(Rutherford B. Hayes)の命により、1877年にルイジアナ州とサウスカロライナ州から連邦軍が撤退したことを最後に、すべて終了するのである。

 ウェイト・コートは、それ以降も、共和党政権が黒人保護のための行った立法について、次々と違憲の判決を下していくことになる。代表的なものとして、次のものがある。

  1 公民権法事件(The Civil Rights Cases, 109 U.S. 3 (1883))と呼ばれる判決は、5件の同種の事件を一括して判決したものである*[5]。この判決で、最高裁判所は、連邦議会は、第14修正実施法として、私人ないし私的組織による人種差別を規制する憲法上の権限を持たないとした。

  2 合衆国対ハリス事件(United States v. Harris, 106 U.S. 629 (1883))判決*[6]はクー・クラックス・クラン判決とも呼ばれる。この事件は、4人の男性が、ハリス(R. G. Harris)保安官率いる19名のグループによってテネシー州クロケット郡の刑務所から連れ出されたというものである。4人は殴られ、うち1名は殺された。1871年第14修正実施法(クー・クラックス・クラン法)は、州が行動しない場合にのみ、州の活動に適用されるとしていた。この判決で、連邦最高裁判所は、同法が、襲撃や殺人を連邦犯罪としていることは違憲だとした。州にのみ、その様な犯罪を処罰する権限はあると宣言したのである。そこでは、この種犯罪が南部で人種的動機で犯されているという事実はまったく無視されているのである。

  3 白人種と有色人種間の婚姻を禁止する法律(anti-miscegenation statute)が、1750年までの間に、すべての南部諸州並びにマサチューセッツ州及びペンシルヴェニア州で制定された。その第14修正違反をめぐって争われたペース対アラバマ州(Pace v. Alabama, 106 U.S. 583 (1883))は、アラバマ州が制定した異人種間婚姻禁止法を合憲と判決した。この結果、同種立法は全米に拡大し、1960年代までには41の州にその種立法が存在したという。この判決は1964年のマクラフリン対フロリダ州事件(McLaughlin v. Florida 379 U.S. 184 (1964), )及び1967のラヴィング対ヴァージニア事件(Loving v. Virginia, 388 U.S. 1 (1967), )判決に至って、ようやく覆されるのである。

 こうして、この判決以後、南部の黒人にとっては暗黒時代が訪れることになる。

 

二 マイナー対ヘイパーセット事件

 この時代、女性は参政権を有していなかった。Minor v. Happersett, 88 U.S. 162 (1875)は婦人参政権を第14修正の平等条項から読めないとして、憲法論的に否定した歴史的判決である。

(一) 事件の背景

 マイナー(Virginia Minor)は、ミズーリ州の婦人参政権運動の指導者であった。彼女は、18721015日にミズーリ州セントルイス郡で選挙人登録をしようとしたが、州登録官のヘイパーセット(Reese Happersett)に、女性であることを理由に阻まれたので、彼を相手に選挙権確認の訴えを提起した。当時のミズーリ州憲法は、男にだけ選挙権を認めていたが、これが合衆国憲法、特に第14修正の「特権または免除」条項に違反すると主張したのである。

 ミズーリ州は、連邦最高裁判所に、たった3文からなる異議申立書を送っただけで、代理人も送らなかった。

(二) 判決の内容

 判決は、ウェイト自身が申し渡した。

 ウェイトは、市民という言葉は通常、国家の構成員という概念を示すものとして使われるとし、その意味では、市民である両親の子に生まれ、合衆国の管轄内にある者は、常に合衆国市民と考えられ、その意味では第14修正の市民も同じであると述べた。

 しかし、参政権については次の様に述べた。

「参政権は、第14修正の批准以前において、市民権の特権または免除の一つである必要は無く、この修正は何ら新たな特権または免除を加えたものでは無い。それは単に市民が既に有するそれらの保護に対し、追加的な保障を与えたものである。」

 そして、既存の市民権の中に参政権は含まれていないとして、上告を退けたのである。

(二) その影響

  1 第19修正

 この判決が先例となった結果、米国の婦人参政権運動家たちは、憲法改正に活路を求めざるを得なくなった。その運動は、19世紀の間は全く成果を上げなかった。しかし、第1次世界大戦により、銃後における女性の社会的役割が増大したことが大きな転機となった。191819日、ウィルソン大統領は、この修正条項に対する支持を表明した。翌日、下院に提出された修正条項は1票差というきわどさながら可決された。しかし、上院では930日に2票差で否決された。10月までは討議に掛けることすら拒否した。10月に上院が再度投票を行ったときも、3票差で否決された。翌1919210日には1票差で否決された。そこで、大統領はこの修正動議のための特別会期を開くことを提案した。1919521日、動議は下院を304票対89票で可決し、2週間後の64日、最終的に上院も同調し、56票対25票で可決した。ついで各州が批准をはじめ、1920818日、テネシー州が36番目の批准州となって発効した。次の様な条文である。

「合衆国またはいかなる州も、性を理由として合衆国市民の投票権を奪い、または制限してはならない。

 連邦議会は、適切な立法により、この修正条項を実施する権限を有する。」

 この第19修正の成立により、マイナー事件判決の婦人参政権に関する部分は失効したことになる。

  2 レッサー対ガーネット事件

 女性参政権反対派は、この憲法改正そのものが無効であるとして法廷闘争を行ったのである。そのレッサー対ガーネット事件(Leser v. Garnett, 258 U.S. 130 (1922))で、反対派が無効と主張する理由は次の三点であった。

 第一に、憲法修正権力は、その性格から、このような修正権を含んでいない。

 第二に、批准した州のいくつかは、その州憲法で女性参政権を禁止しており、したがって、その批准は無効である。

 第三に、テネシー州及びウェスト・バージニア州の批准は、その州の批准手続きに従っていないために無効である。

 これに対し、連邦最高裁判所は全会一致で否決した。

 第一の点に関しては、既に黒人参政権を認める第15修正が50年以上も前に認められているという先例がある。

 第二の点に関しては、州議会が修正条項を批准したとき、彼らは、合衆国憲法によって与えられた連邦機関としての権限は、「州民によって課せられるいかなる制限も超越した(transcends any limitations sought to be imposed by the people of a state)」役割であるとした。

 第三の点に関しては、この問題は、その後にコネチカット州及びバーモント州が批准した時点で争う価値がなくなっている(moot)。また、テネシー州等の批准の有効性は、国務長官がそれを受け入れた時点で、もはや司法審査の対象から外れていたとした。

  3 一般の参政権

 このマイナー事件判決は、選挙における性差別以外の差別、すなわち1票の格差に対しては、1960年代に連邦最高裁判所が、ベーカー対カー事件(Baker v. Carr, 369 U.S.186 1962))、グレイ対サンダース事件(Gray v. Sanders, 372 U.S. 368 1963))、レイノルズ対シムス事件(Reynols v. Sims, 377 U.S. 533 1964))という一連の判決で、判例変更をするまで、先例として存在し続けた。これらによりようやく第14修正にの定める「法の平等な保護(equal protection of the laws)」条項により、連邦最高裁は司法判断を行うことができることが明らかとされ、このマイナー判決が覆えされたのである。

 

三 マン対イリノイ州事件

 このMunn v. Illinois, 94 U.S. 113 (1877) 事件におけるウェイトの意見は、本稿で紹介する判例では例外的に、議会が持っていた時代に対する感覚を正当に評価した点で、優れたものである。本稿第7節に紹介するロックナー判決に始まる時代にあって、この判決は、ニューディール政策を推進した者達からは、聖典のように扱われた。

(一) 事件の背景

 1870年に採択されたイリノイ州憲法に「第13条 倉庫」という規定がある。

 その第1節は「報酬を得て穀物その他の資産を保管するサイロ(elevator)または貯蔵所(storehouse)はすべて、資産を分離して保管するか否かを問わず、公共倉庫と宣言する」と規定している。以下、そのような倉庫の管理者に課せられる義務が第6節まで詳細に定められ、最後の第7節は「州下院は、穀物の生産者、船積み業者、受領者及び生産の保護のため、穀物を査察する法律を定めるものとする。」と規定していた。

 これを受けて、イリノイ州下院は「公共倉庫及び倉庫保管料を規制し、穀物を検査し、及び州憲法13条を実効化するための法律」という名の法律を1871425日に制定した。同法第1条は、公共倉庫を、ABCという3ランクに区分する。それを受けて第2条は次の様に規定する。

Aクラスの公共倉庫には、倉庫、サイロもしくは穀倉(granaries)であって、穀物をばら積みで、異なる所有者の穀物を混合して保管し、異なるロットまたはパーセルの識別を正確には行えないもの、及び人口10万人以上の住民を持つ都市に位置している倉庫、サイロ、または穀倉をいう。Bクラスの公共倉庫は、穀物をばら積みで、異なる所有者の穀物を混合して保管している、それ以外のすべての倉庫、サイロ、または穀倉をいう。Cクラスの公共倉庫は、それ以外の何らかの種類の資産を保管する倉庫または場所をいう。」

 第3条では、Aクラスの倉庫の場合、その所在する郡を管轄する巡回裁判所(Circuit Court)から、保証金を積んだ上で営業許可を取ることを求めており、第4条では違反に対して1万ドル以下の罰金を定めている。第5条では、さらに許可を取らずに営業を続けた場合には、1日あたり100ドル以上の課徴金を徴収することを定めている。

 また、第15条では次の様に定めている。

Aクラスの公共倉庫を経営する倉庫業者は、その倉庫が所在する都市で刊行されている新聞(もし存在すれば日刊紙)1紙以上に、毎年1月の最初の週の間に、倉庫内の穀物の貯蔵の当該年度におけるレートの表または予定を公表し、そのレートは年間を通じて増額してはならない。その公表されたレートもしくは減額はその倉庫で保管するすべての人及び会社に適用する。いかなる差別も、直接であれ、間接であれ、穀物の貯蔵のためにその倉庫業者によって行われた料金に関して行ってはならない。」

 1872年に、マン及びスコット(Munn & Scott)が同法違反で起訴された。彼らは、その所有する北西サイロ(Northwestern Elevator)という名の穀物貯蔵庫で穀物をばら積みで保管するに当たり、異なる所有者の穀物を混ぜて保管していた。サイロはシカゴ市内にあり、シカゴは、その時点で10万人以上の人口があった。しかし、彼らは巡回裁判所からの許可を取ること無く、したがって保証金も積まずに違法に高い料金で営業を行っていたのである。二人は有罪とされ、100ドルの罰金を科せられたので、連邦最高裁判所に上告した。

 マン側は、同法が3点で合衆国憲法に違反していると主張した。すなわち

1. 合衆国憲法183項が連邦議会に「諸外国との通商、各州間の通商…を規制する権限」を定めている。

2. 同196項は「各州から輸出される物品に対して、租税または関税を賦課してはならない」と定めている。

3. 第14修正は「いかなる州も、法の適正な過程によらずに、何人からもその生命、自由または財産を奪ってはならない。」と定めている。

(二) 判決の内容

 ウェイト長官自身が判決を申し渡した。

 この事件の焦点は、イリノイ州が問題の法律を制定する権限を有するか否かである。

 ウェイトは、このうち、最後の第14修正の問題を最初に取り上げた。彼はマグナカルタ、合衆国憲法第5修正等を引用し、あるいは多数の判例を引用した上で、「私有財産が公共の利用に専ら供されている場合、それは公的規制の対象となる、という事は十分に示すことができた。」と結論し、「残る問題は、上告人の倉庫及び事業がこの原則の範疇に属するか否かである。」として、適正手続への違反の有無について、さらに詳細な検討を重ねた上で、西部の78州の生産物は東海岸に位置する45箇所の州を通過する必要があるので、シカゴの倉庫施設は事実上独占状態にある、と述べる。

「コモンローによって作り出された財産権は、法の適正な手続きによらずに剥奪することはできない。しかし、法それ自身は、行動原則として、憲法の制限内であれば、議会の意思により、あるいは気まぐれにより自由に変えてもよい。実際、成文法の大きな使命は、発展に伴うコモンローの欠陥を改善し、時代と状況の変化に適応することである。公的雇用または公共の利害に関わる資産の使用に供された事業のための利用料率を制限することは、従来から存在していた規制の変更に過ぎない。それは決して新たな法原則を作り出したのでは無く、単に古いものに新しい効果を与えたに過ぎない。」

 こうして、適正手続への違反はないとしたのである。

 ついで、議論は、マン側が主張した州際通商条項に関する議論に移る。マン側の主張について補足説明すると、これは休眠通商条項(Dormant Commerce Clause)と呼ばれる理論を主張しているのである。すなわち、連邦議会が敢えて州際通商に関する権限を発動していない場合には、それは禁止を意味するという意味を持つとする理論である。その結果、州際通商にあたる事案に関して、連邦法が規制していない場合に、州がそれを規制する立法を行うと、連邦法に反して違憲になるとされる。この理論は、すでにマーシャルコートにおけるギボンズ対オグデン事件(Gibbons v. Ogden, 22 U.S. 1 (1824)*[7]において、マーシャルが打ち出した州際通商条項(Interstate Commerce Clause)の解釈に既に現れているといわれる。すなわち、同事件でマーシャルは通商に関する連邦議会の権限は、州法にあらゆる局面で優越するとしたのであるが、そうであれば、その権限の不発動は、それに反する州の立法を禁止することになると解されるようになったのである。

 つまりマン側は、連邦法にイリノイ州倉庫法に相当する規定が存在していない状況下でも、イリノイ州倉庫法は、連邦権限を侵害し、違憲となると主張したのである。

 これに対し、ウェイトは、State Tax on Railway Gross Receipts, 15 Wall. 293という判例を引用して次の様に述べている。

「それは憲法の意義の範囲内で商業に影響を与えるすべての規制を意味しているのではない。この上告人の倉庫はイリノイ州に位置しており、彼らの事業は、イリノイ州の内で排他的に運営されている。彼らは州内だけでなく州際通商に従事する人々からもその道具として使用されているが、それは荷馬車やカートが通商の一部である以上の、あるいは穀物を他の鉄道駅から転送されるされる鉄道駅以上の必然性を持っているわけではない。時として彼らは州際通商に関わるかもしれないが、連邦議会がその州際通商との関わりを基準に立法するまで、それらの規制は、間違いなく州内の問題であるので、例え州がそうしたことで、それが間接的に州外の直接にはその管轄に服さない通商に機能するとしても、州はその全立法権を執行することが可能である。」

 合衆国憲法9条1項違反という主張については、実に簡単に片付けている。それは単に連邦議会の権限の制約規定であり、したがって州がその地域的問題を規制するのには関係が無い、というのである。

 結論として、ウェイトは本件イリノイ州憲法及びそれに基づくイリノイ州法は合憲と判決した。

(三) その後

 ウェイトはこのほか、鉄道許可事件(Railroad Commission Cases, 116 U.S. 307 (1886))でも類似の判断を示している。すなわち、州が鉄道会社に営業許可を下すに当たり、貨物や旅客の料金を定めるのは、州のポリス・パワーの範囲内であるとしたのである。

 

四 プレッシー対ファーガソン事件

 この事件からフラー・コートの判決となる。

 この事件の判決(Plessy v. Ferguson, 163 U.S. 537 (1896))は、ドレッド・スコット判決と並ぶ連邦最高裁判所最大の汚点と言って良いであろう。しかも、1954年のブラウン対教育委員会事件判決で最終的に否定されるまで半世紀以上の長きにわたって生き残こり、数多くの判決に影響を与え続けたという意味において、その流した害毒は、はるかに大きなものと言える。

(一) 事件の背景

 ウェイト・コートの一連の判例により、修正条項実施法の法的効力を奪われたため、再建のための法的手段を失い、結局1877年に連邦軍は南部から撤退し、北部の掣肘がなくなると、南部諸州の政府は、黒人が白人と同じ公共施設を使用するのを禁じたジム・クロウ法(Jim Crow law*[8]を積極的に制定しはじめた。こうした状況下で、なんとか黒人の権利を確保する司法判断を得ようとする努力の一環として、このプレッシー事件は起きたのである。

(二) 事件の内容

 1890年、ルイジアナ州は、車両分離法(Separate Car Act)を制定した*[9]。同法は、同州内で旅客を客車で運ぶ事業を行っている鉄道会社に、白人と有色人に対するもてなしとして、列車に2両以上の客車を連結することにより、または異なるもてなしを確保できるだけの障壁を客車内に設けることにより、平等ではあるが分離した車両を提供することを要求した。そして、いかなる人も客車内の自らが属する人種に割り当てられた座席以外に座ることを禁止した。その列車の車掌に、各旅客をその属する人種に割り当てられた客車もしくはコンパートメントに割り当てることを要求した。自らの人種に割り当てられた客車もしくはコンパートメントに行くことを拒んだ旅客に対しては罰金もしくは拘留が課せられた。列車の車掌には、自らに割り当てられた座席またはコンパートメントに座ることを拒んだ旅客に対しては輸送を拒む権限を与えた。旅客会社に対しては、その様な拒絶から*の自由を与えた。

 ニューオーリンズの著名な黒人、混血及び白人が、同法の廃止を求めてComite des Citoyens (市民委員会)というグループを組織した。委員会は、これまでも黒人の権利のために戦ったことのあるニューヨークの白人弁護士を雇った上で、30歳の靴職人プレッシー(Homer Plessy1862-1925)に、この法律に反対するために志願するよう説得した。

 プレッシーは8分の1黒人、つまり当時の表現で言えばオクトルーン(octoroon)であった。彼の曾祖母が黒人だったのである。そのため、肌の白さのため、通常は有色人とは思われなかった。彼が車両分離法に違反すれば、同法による差別を打破できると期待して、委員会は彼を送り出した。明確なテストになるように、委員会はあらかじめ、プレッシーが乗車することを東ルイジアナ鉄道(East Louisiana Railroad)に通知しておいた。鉄道会社も余計な負担を課するこの法律に反対していたのである。

 189267, プレッシーは一等車の切符を買って、ニューオーリンズ近郊の通勤列車に乗り込み、白人専用席に座った。車掌は予定通り、彼が有色人か否かを尋ねた。また、委員会では、プレッシーが確実に車両分離法に違反したことが判るように、彼を拘束し、列車から降ろす権限を有する私立探偵を雇っていた。プレッシーはオーリンズ郡の留置場に拘束されたが、翌日、委員会の予定したとおり500ドルの保釈金で出所した。

 プレッシー対ルイジアナ州の裁判は、事件の1ヶ月後に開廷された。プレッシーの弁護士は東ルイジアナ鉄道は修正第13条と第14条の下での彼の憲法上の権利を拒否したと主張した。しかし、この事件を担当するファーガソン(John Howard Ferguson)裁判官は、州の中だけで運営されている限りは、ルイジアナ州には鉄道会社を規制する権限があると裁決した。そしてプレッシーは、車両分離法への違反のために、300ドルの罰金を課せられたのである。プレッシーはルイジアナ州最高裁に控訴したが、州最高裁はファーガソンの判決を支持したので、連邦最高裁に上告した。

(三) 法廷意見

 9人の最高裁判事のうち、ブリュワー判事が参加しなかったので8人の判事による裁決となった。71の判決により、最高裁判所はプレッシーの訴えを退けた。

 判決はブラウン(Henry B. Brown)判事が書いた。判決は、まず同法が第13修正に違反しないと言うことは極めて明白だ、とする。“隷属servitude”という語は、その人の階級や名称が同あれ、あらゆる形態の非任意的奴隷制を禁止することを意味する。しかし、この規定では南部の州で制定された様々な法律から有色人種を守るためには不十分と、その当時の政治家によって見なされ、第14修正が考案された、という事を指摘している。

 そこで問題は第14修正にかかってくる。ブラウン判事は言う。

「この修正の適切な構造については、屠殺場事件が、最初にこの裁判所の注意を喚起した。しかし、この判決は人種差別の問題の代わりに排他的な特権の問題が含まれていた。この判例は、有色人種に対して特定の権利を確保するような、いかなる意見の表明も要求しておらず、その主たる目的は黒人の市民権を確立し、連邦と州の市民権の定義を与え、州の敵対的な法律から合衆国市民の特権と免責を保護することであると一般的に述べているだけである。」

 このように、第14修正の内容を限定した上で、さらに次の様に言う。

「修正の対象は、疑いもなく、法の下における二つの人種の絶対的な平等を強制することであるが、物事の性質から、政治的、平等的に、皮膚の色に基づく差別を廃止したり、社会に強制したり、ないしはいずれかに不満足な条件に基づいて二つの人種を混ぜ合わせたりすることを意図することはできないのである。彼らが接触しやすい場所で分離することを法が許容し、そしてさらに要求したとしても、それは、必ずしもいずれかの人種の劣等を意味するものではないし、一般的ではないとしても、州のポリス・パワーの行使としてその立法府の能力内と認められるのである。この最も一般的な例は、白人種と有色人種のための分離された学校を設立することに関わっている。有色人種の政治的権利が長いこと追求され、もっとも真摯に主張されている場所でも、米国の裁判所によってそのような立法権行使は有効とされているのである。」

 ここで、人種別学の合憲判決の例として、ブラウン判事が引用しているのは、マサチューセッツ州最高裁判所が1850年にくだした「ロバーツ対ボストン市事件(Roberts v. City of Boston, 5 Cush. 19)」判決である。

 この事件は、5歳のアフリカ系米国人であるサラ・ロバーツ(Sarah Roberts)が、アビエルスミス校(Abiel Smith School)という生徒全員が黒人の普通校に入学するよう、市教育委員会から指示されたことが問題になったものであった。この学校はボストン市内のサラの自宅から遠く、しかも一般にアフリカ系米国人が行くように指示される学校は一般に老朽化が激しく、設備も劣っており、安全上の問題もあった。そこで、サラの父で、同じくアフリカ系米国人であるベンジャミン(Benjamin F. Roberts)は、自宅近くの白人用の学校に彼女を入学させようとしたが、人種に基づいて拒否され、さらに実力でその学校からつまみ出された。そこで、訴訟となったが、州最高裁判所は、「分離すれど平等」は合憲と判決したのである。父親はしかし州議会に運動した結果、マサチューセッツ州は、1855年、州全体で分離された学校を禁止した。これは州で黒白分離校を禁止した最初の法律となった。

 つまり、ブラウン判事は、このロバーツ事件における最終的結果ではなく、途中経過に過ぎない州最高裁判所の判決だけをつまみ食いする形で引用したわけである。そのマサチューセッツ州最高裁判所のショー(Lemuel Shaw)判事の次の文章を、ブラウン判事はそっくり引用している。

「原告のために、学識深く雄弁な支持者によって述べられた偉大な原則は、マサチューセッツ州憲法及び法律により、すべての人は、年齢や性別、出生や色、種族や条件の区別なく、法の下に平等であるということである。……しかし、この大原則が社会における実際の様々な条件の人々に適用される場合には、男性と女性が法的に同一の市民的及び政治的権力を有しているとか、子供と大人が法的に同一の機能を有し、同一の取扱をうけるというという主張を認めるものでは無く、単に人びとが法によって定められ、起立されているところに従い、等しく父親的温情主義に基づく配慮と、その生存と安全のための法の保護を受けるを権利を有するに過ぎない。」

 これを一般化する形で、ブラウン判事は、年齢や性による別学、つまり、小学校や女子校までも分離教育として捉え、あるいは貧困や親の無関心により就学できなかった子供のための学校等を例に挙げて、分離教育の合憲性を主張しているのである。そして、このような分離教育が合憲とした州レベルの多数の判例を引用している。要するに、問題の法律は、そうした公的な施策の一環として2つの人種を分離したと主張したのである。

「こうして、これまでのところ、第14修正との抵触が懸念されるのは、この事件に関しては、ルイジアナ州法が合理的な規制であるかどうかの問題に限定され、この点については必然に立法府に大きな裁量権がある。合理性の問題を決定するに際しては、その用途、習慣、人々の伝統を参照しながら、それらの快適さと公共の秩序の保全の推進を視野に立法する自由がある。この基準で測るならば、公共輸送機関で2人種の分離を定め、要求することが、コロンビア特別区で有色人種の子供のために別の学校を必要とするという議会法ないし州議会のそれに対応する立法が憲法上疑問視されているように見える以上に第14修正に照らし不合理であるとか、不愉快であるという事はできない。」

 こうして、この判決は、問題になっているのは鉄道における座席の問題に過ぎないのに、それを正当化する手段として、教育における人種別別学までも合憲と述べているところに、その恐るべき問題性がある。

 さらにブラウン判事は最終的に、二つの人種の分離の強化が、白人より劣っているという刻印を有色人種に押すという仮定の上で行われているとする原告の主張は根本的に誤っている、と宣言した。仮に有色人種が州議会の支配的な力になっていることを想定し、正確に同様の条件で法律を制定した場合、それによって白人種が劣等の地位を有すると取り扱っていることになるのか、と反論したのである。また、法律によって社会的偏見を克服するように強制することはできず、両者の融和は自然の親和性、互いのメリットの相互理解、個人の自発的同意の結果でなければならないとした。

 ブラウン判事は、最後にプレッシーがほとんど白人と区別の付かない混血人種である点について、次の様に述べている。

「有色人種との混血している者を、白人と区別して有色人種を構成する者とする問題は、いくつかの州の間で意見の相違があることの一つであることは事実である;何らかの目に見える差異のある者だけを有色人種とする例 (State v. Chavers, 5 Jones [N. C.] 1);血液の優勢であるもので決する例 ( Gray v. State, 4 Ohio, 354; Monroe v. Collins, 17 Ohio St. 665);白人種の血が四分の三以上でなければならないとする例(People v. Dean, 14 Mich. 406; Jones v. Com., 80 Va. 544)がある。しかし、これは各州の法律が決定するべき問題であり、本件で申し立てられている点ではない。本件においては、ルイジアナ州の法律に基づけば、申立人が白人種に属しているのか、それとも有色人種に属しているかどうかだけが重要な点である。」

(四) 反対意見

 この判決に対し、唯一反対意見を書いたのはハーラン判事である*[10]。多数意見と同じく、数多くの判例を動員して議論をする点は、同じである。そして、最終的に次の様な印象的な表現で書き出す。

「わたしの意見では、今日、言い渡された判決は、ドレッドスコット事件において、この裁判所によって下された判決と同様に、非常に有害なものであることを、時が証明するであろう。」

 そして、結論として、黒人問題に関しては常に引用される次の言葉を述べるのである。

「憲法上の、法的観点から見ると、この国には優位に立つどのような支配階級も存在しない。カースト制度はここにはない。我々の憲法は色盲で、市民の間にいかなる階級も知らずまた許容しない(Our constitution is color-blind, and neither knows nor tolerates classes among citizens.)。公民権の点では、すべての市民が法の前に等しい。」

 もっとも、ハーラン判事も時代の子で、次の様に述べていることも記憶すべきである。

「アメリカの市民になることを可能としない、私たちと非常に異なる人種がいる。それに属する人は、わずかの例外をのぞけば、我が国から絶対に締め出される。私はそれを、中国人(黄色人種)と示唆する」

(五) その後

 18961月、プレッシーは違反の罪を認めて罰金を支払った。この裁判の余波として、「分離すれど平等」の主義は法的な根拠を与えられ、人種の分類に基づく分離は、施設が平等な品質である限りは合法であるとされた。しかしながら、南部州の政府は、プレッシー判決後の長い間、黒人に本当に平等な施設や資産を与えることを拒否した。これらの州は人種を分離するだけではなく、現実的に、品質の違いを確実なものとした。この後数十年、南部における人種分離法の制定は増殖していった。

 プレッシー判決は、より早くに南部で始められていた人種分離の慣習への移行を合法化した。黒人社会の白人社会からの分離を受け入れたこの同じ年に出されたブッカー・T・ワシントンのアトランタの和解と呼ばれる声明と共に、プレッシー判決はさらなる人種分離法を刺激した。続く10年間に人種分離法は増殖し、1910年代のウッドロウ・ウィルソン政権の間にはワシントンD.C.の連邦政府にまで達した。

 

五 ポロック対農民貸付信託会社事件

 この事件では第14修正は争点となっていないが、憲法改正に繋がったきわめて重大な判決であり、また、第14修正に関わる一連の判例と同様、連邦最高裁判所の、社会の変化に対する逆行性が顕著に表れているので、本稿で紹介する。

 合衆国憲法が、その租税条項に関して極めて弱体であり、そこから大きな憲法問題が発生したことについては、ヒルトン事件(Hylton v. United States, 3 U.S. 171(1796))及びマカラック事件(McCulloch v. Maryland - 17 U.S. 316 (1819))に関して、既に紹介したとおりである*[11]。それが明確に顕在化したのが、このポロック事件(Pollock v. Farmers' Loan & Trust Company, 157 U.S. 429 (1895))である。

(一) 事件の背景関税と所得税

 合衆国憲法による縛りから、連邦政府の財政は、基本的には関税収入に依拠するという状態が、建国以来一貫して続いていた。ヒルトン事件で問題になった諸税は、それを保管する役割を担っていたに過ぎなかった。所得税は、そうした諸税の一つと考えられていた。

 この当時は、直接税とは人頭税と「所有しているという理由で」財産に課される税金(一般に通常価格に応じた資産税)のみと考えられていた。したがって、所得税は、直接税ではない、と考えられていたのである。そして、直接税に該当しなければ、税金は(直接税のように)州の人口に比例して分配される必要はない。

 所得税が連邦レベルで始めて導入されたのは、南北戦争の戦費を賄うために、18618月に制定された歳入法(Revenue Act of 1861*[12]が嚆矢である。それは年収800ドル以上の収入があるものに対して一律に3%の課税を行うものであった。

 同じ1861年の3月、モリル(Justin Smith Morrill下院議員が提案したモリル関税法(Morrill Tariff of 1861)が制定されていた。その当初の立法意図は歳入の確保ではなく、鉄及び羊毛の関税を引き上げにより国内産業の保護を目指したものであった。このような保護立法は、それより前であれば、自由貿易により恩恵を受けていた南部諸州の反対により制定不可能な性格のものであった。これは、南北いずれにつくか、その動向が定まっていなかったペンシルヴァニア州をはじめとする西部諸州を北部側につなぎ止める目的で制定されたものである。しかし、南北戦争が開始されると、歳入確保の上で重要な機能を果たすことになった*[13]

 1861年歳入法の限度では南北戦争により急激に増大する歳出を賄うことができなかったため、翌年71日には1862年歳入法(Revenue Act of 1862)が制定された*[14]。同法は年収600ドル以上の収入に対して3%、1万ドル以上の者に対しては5%という、簡易なものながら累進課税を定めたものであった。関税法も186271日に改正され、関税率がさらに10%引き上げられた(Morrill Tariff of 1862)。

 歳入法は1864年にさらに改正された(Internal Revenue Act of 1864)。同法116条は、米国内または海外に居住するすべての米国市民の「利潤、収益または所得(the gains, profits, and income)」に対し、それが資産、賃料、利子、配当もしくは給与(property, rents, interest, dividends, or salaries)の別なく、またはどのような職業、貿易、雇用、または商売(profession, trade, employment, or vocation)の別なく、それが遂行されたのが米国の国内であると国外であるとを問わず、また他のいかなる源泉であるかを問わず、課税対象とした。税率は年収600ドル以上の者は5%、5000ドル以上の者は7.5%、そして1万ドル以上の者は10%と、1861年法に比べ一段と引き上げられ、累進制が強化された。また、所得税率の引き上げに加えて、同法はマッチや写真などに印紙税を新設した。この法律は、主として戦争時の状況に対する緊急措置法だったので、1873年に期限が切れた。

 関税法に関しては、1883年になって、ようやく戦時の高率関税率の引き下げが行われた(Mongrel Tariff Act)。しかし、議会の保護主義者は譲歩せず、関税の中には逆に上げられたものもあったりして、同法はかなり複雑かつ不明確なものとなった。ほとんどは3540%の高率に留まり、平均して1.47%下げられたに過ぎなかった。

 1890年に、保護主義論者マッキンリー(William McKinley)下院議員が主導権を握ってマッキンリー関税法が制定され、輸入関税率は平均49.5%にまで大幅に引き上げられた(Tariff Act of 1890McKinley Tariff*[15]

 これに反対したのが民主党バーボン派(Bourbon Democrat)である*[16]。バーボン派は企業利益を代表する集団で、共和党が主張する保護主義、すなわち企業や農民に対して補助金を出したり、競争から保護することには反対し、自由放任(laissez-faire)型の資本主義を推進することを主張したのである。彼らは、帝国主義及び米国の海外進出に反対し、金本位制を支持し、金銀複本位制に反対した。公務員制度改革とボス支配の打倒を叫んだ。そこで彼らは当然にマッキンリー関税法を改正し、鉄鉱石、石炭、木材、及び羊毛に関する関税率をゼロに下げることを選挙公約に掲げて戦ったのである。

 バーボン派では、1876年の大統領選挙では、ティルデン(Samuel J. Tilden)を擁立して戦ったが、大統領となったヘイズ(Rutherford B. Hayes)に惜しくも僅差で敗れた*[17]1880年の選挙でも民主党のハンコック(Winfield Scott Hancock)は、ガーフィールド(James Garfield)に敗れた*[18]。しかし、クリーブランド(Stephen Grover Cleveland)を擁することで、バーボン派は、ようやく22代大統領(1884年〜1888年)*[19]の座を獲得する。

 だが、次の23代大統領には、保護派であるハリソン(Benjamin Harrison)が就き*[20]1890年にシャーマン反トラスト法(Sherman Antitrust Act)を成立させている。これは、最初の反トラスト法、つまりわが国でいうところの独占禁止法であり、今日においても米国におけるその中心的な地位にある。これについては、詳しくは次節で説明する。

 クリーブランドは、しかし、ハリソンの失政を突いて、次の24代大統領(1892年〜1896年)に見事返り咲いた*[21]。つまり、クリーブランドは連続しない2期を務めた、米国史上唯一の大統領である。

 ここで、ようやくバーボン派はマッキンリー関税法を改正できる体制を握ることができた。その改正法は一般にはウィルソンゴーマン関税法(the Wilson-Gorman Tariff Act of 1894)の名で知られる*[22]。ウェストバージニア州選出の下院議員であるウィルソン(William L. Wilson)とメリーランド州選出の上院議員であるゴーマン(Arthur P. Gorman)という二人の民主党員の主導により成立した法律だからである。同法の最大の特徴は、関税率の大幅低減もさることながら、その関税の減税より不足する歳入の不足を、所得税を導入することで補完することを目指した点にある。5年間を限って年収4000ドル以上の者に対し、そのあらゆる収入(gains, profits and incomes)に対して2%の課税を行うというものであった。ちなみに課税対象は全所帯の5%未満にとどまったから、富裕者だけに狙いを絞った所得税といえる。この結果、関税法(Tariff Act)という名の法律で、米国史上最初の、平時における所得税が定められることになった。

 同法に基づき、ニューヨークの農民貸付信託会社(Farmers' Loan & Trust Company)が、その株主に対して課税があることを通告した。そこで同社の10株の保有者であったポロック(Charles Pollock)が、この税は直接税であり、したがって違憲であると訴えた。下級審では敗訴したので、ポロックは連邦最高裁判所に上告した。

(二) 判決の内容

 この事件では、最高裁判所判事の見解は激しく分かれた。多数意見は、フラー長官の他フィールド(Stephen J. Field)、グレイ(Horace Gray)、ブリュワ(David J. Brewer)、シラス(George Shiras, Jr.)の5名で構成された。これに対し、ホワイト(Edward D. White)、ハーラン(John M. Harlan)、ブラウン(Henry B. Brown)、ジャクソン(Howell E. Jackson)の4名が反対に回るというきわどい評決であった。

 判決は、189548日に多数意見を代表してフラー長官自身が申し渡した。

 フラーは、マーシャルのマカラック事件判決の引用を皮切りに、マーシャル、マディスン、ハミルトンなどの見解を幅広く引用し、最後に結論として、次の様に述べる。

「第一に、我々は既に公表されている判例に従う。即ち、不動産に対する課税は、議論の余地無く直接税である。同様に、不動産の賃貸料や不動産からの収入も直接税である。

 第二に、我々は個人資産に対する課税、または個人資産からの収入に対する課税は、同様に直接税であるという意見である。

 第三に、1894年法の、第27節〜37節によって課された税は、不動産収入及び個人資産収入に対するものである限りにおいて、憲法の意味するところの直接税であり、それ故に、違憲であり無効である。なぜならばそれは代表の割合に応じて課税されておらず、それらすべての節は、一つの課税スキームを構成しているが故に、必然的に無効なのである。」

 これに対し、反対意見の方は、ホワイト、ハーラン及びブラウンによってそれぞれ反対意見が書かれていることに示されるように、統一的なものでは無く、分裂した主張である。

 その代表としてハーランの主張を紹介しよう。

「この法廷が現在宣告しているように、連邦議会は個人の資産、あるいは不動産の賃貸から、または投資した個人資産、債権、株式およびあらゆる種類の投資のような個人資産から上がる収入について、州の人口に応じて徴収された総額を配分する場合を除き、関税あるいは税を課することができないと宣告するとき、両院の3分の2と州の4分の3が同意するという憲法の修正無くして、そのような資産や収入は連邦政府の支援に貢献できるようにはならないと事実上決めている。」

 つまり、これは憲法解釈論というより、この判決の影響からの議論である。

(三) 第16修正

 このポロック判決の結果、資産由来の収入に対しては、課税が不可能になった。それに対し、労働者の収入など資産によらない収入に対しては、ポロック判決の限りでは、人口比例での配分を考慮することなく課税が可能だった。しかし、資産家を無税で放置しておいて、労働者など、貧しいものに対してだけ、資産によらない収入として課税することは、産業革命後、労働者階級の力が強くなっている社会においては現実的なものとはいえなかった。全人種の成人男子への選挙権付与が連邦憲法第15修正により義務付けられる状態下で、そんな立法を行う事は、好んで選挙に落選しようとするようなものだった。

 1896年の選挙はアメリカ史で最も劇的な選挙戦の一つといわれる。政治学では、これを米国政界の再編成の選挙と見ている。マッキンリーは、実業家、専門家、熟練工場労働者および富裕な農夫を代表する連携を作り上げた。合衆国の北東部、中西部の北部および太平洋岸の州では最強だった。

 これに対し、民主党内で1893年の恐慌に続く経済不況からバーボン派は力を失い、代わって貧困に苦しむ一般大衆の支持を集めたブライアン(William Jennings Bryan)が民主党だけでなく、人民党[23] および銀共和党[24]の候補者となり、南部、中西部の田舎およびロッキー山脈の諸州で最強だった。複本位制、金本位制、銀の自由鋳造および関税といった経済問題が重要だった。

 共和党は350万ドルと、ブライアンの10倍もの選挙資金をかき集め、今日に続く多くの近代的選挙技術を発明した。この結果、マッキンリーは7112,138票、51.0%、選挙人数 271で、ブライアンの6510,807票、46.7%、選挙人数 176を圧倒して勝利した*[25]。この共和党政権の下で、強力な保護主義により富裕者層はさらに経済力を強めていた。このため、社会不安が高まっていった。

 こうした状況下で、ブライアンに率いられた民主党は、改めて1908年の党綱領で所得税の導入を提案した。これに対抗して、民主党のタフト(William Howard Taft)第27代大統領は1909616日の議会に向けた演説で、個人に対する連邦所得税を認め、「法人として事業を行う特権や、株式を所有する者が享受する一般の有限責任から自由であることの特権」に課税することを認める憲法修正を提案した。次の様な条文である。

「連邦議会は、各州に比例配分することなく、および人口調査または算定によることなく、いかなる源泉から生ずるものであっても、所得に対して税を賦課し徴収する権限を有する。」

 これにより、所得税額が各州の人口に比例して配分することを求めた合衆国憲法第1条第2節第3項及び直接税を国政調査と連動させることを求めた第1条第9節第4項は修正された。

 こうして、共和、民主両党が憲法修正に賛成した結果、第16修正は日の目を見るとこととなったが、各州の批准は決して順調ではなく、その年のうちに批准したのはアラバマ州のみだった。翌1910年になると、ケンタッキー州等 8州が批准した。1911年になるとオハイオ州を皮切りに計20州が批准した。1912年には批准はアリゾナ州等3州に留まり停滞したが、この年行われた大統領選挙では、3人の有力候補者のいずれも所得税の導入を提唱しており、批准の方向性は揺るがなかった*[26]。そして、191323日のニューメキシコ州の批准により、ようやく修正を成立させるのに必要な4分の3の州の批准を得ることができた。

 これを受けて、あらかじめ用意されていた1913年歳入法(Revenue Act of 1913)、別名アンダーウッド関税法(Underwood Tariff Act)が直ちに議会を通過した。同法の立法趣旨は次の様なものであった。

「共和党政権下で構築された保護関税システムは、貧富の差をいっそう拡大するように作用した。保護関税は『独占の母』と呼ばれており、それは貧者から富者に資金を移転している。共和党にとって保護関税は、アメリカの産業を競争から保護するためのものであり、政府活動に使われる税収は、たんに保護関税の結果としてあるにすぎない。他方、民主党は、関税については政府活動のための歳入を第一義とするものにし、同時に外国の工業がアメリカ国内のそれと競争することを可能にして、消費者の利益にしようとしている。」*[27]

 同法は所得税を再び導入すると共に、基本関税率を40%から25%に低減した。同法は所得税に関しては、同法はかなり明確な累進課税を採用していた。すなわち、個人所得税には基本税率(Normal Rate)と追加税率(Additional Rate)があり、基本税率は一律に1%であるが、人的控除が夫婦で4,000ドル、独身者で3,000ドル認められた。追加税率は、2万ドル以上の者は1%(したがって合計2%)、5万ドル以上は2%(同3%)、75000ドル以上は3%(同4%)、10万ドル以上は4%(同5%)、25万ドル以上は5%(同6%)、そして50万ドル以上は6%(同7%)となっていた。なお、事業費用・支払利子・納税額・災害損失等の控除が認められ、また個人の受け取り配当が普通税1%の課税ベースから除外され、法人所得税との二重課税が調整されていた。

 また、法人に対する所得税というものが設けられ、これは一律に1%とされた。経常経費・減価償却費・支払利子・租税に関する控除が認められた*[28]

 このように、一部の富裕者層への課税という意図から導入された所得税であったが、1917年にアメリカが第一次世界大戦に参戦することにより生じた急激な財政膨張を賄うため、急速に大衆課税手段へと転化していくことになる。

 こうして、ポロック判決は、憲法修正という手段によって無効化されたのである。

 

六 合衆国対E. C. ナイト会社事件

 この事件(United States v. E. C. Knight Co., 156 U.S. 1 (1895))は、別名「砂糖トラスト事件(Sugar Trust Case)」という別名で知られる。この事件でも第14修正は直接には問題になっていないが、裁判所の逆行性が端的に表れているので紹介する。連邦最高裁判所が、シャーマン反トラスト法に関して、合衆国政府の独占禁止活動を否定した事件である。

(一) 事件の背景

 前節に言及したとおり、1890年に米国議会はシャーマン法(Sherman act)を可決成立させた*[29]。その背景には金ぴか時代(Gilded Age)といわれる問題がある[30]。これは、限定的に使用する場合には1865年の南北戦争終結から1873年に始まった大不況中の1893年の恐慌までの28年間を指す。アメリカ資本主義が急速に発展をとげた時代である。この時期、米国の政治は腐敗し、国家の庇護を受けた資本家は急速に富を蓄え、鉄鋼王カーネギー(Andrew Carnegie)、石油王ロックフェラー(John D. Rockefeller)、金融王モルガン(John Pierpont Morgan)など名立たる富豪が輩出したが、下層の人々は貧困に喘いでいた。その原因は、大企業が中小企業を圧迫・吸収して経済力の集中を引き起こしたからである。

 こうした状況下で、シャーマン法が制定されたのである。シャーマン法の成立の当時の理論的基礎は、アダム・スミス経済学の現実への適用であった。すなわち、完全な競争が成立している社会においては神(あるいは市場の)の「見えざる手(invisible hand )」に導かれて、自ずと最適状態が実現する。しかし、「市場の失敗(market failure)」が発生すると、完全競争は阻害され、市場が麻痺することになる。そこで、政府が介入して、その市場の失敗を補完し、自由競争状態を復元させる必要が発生するのである。

 シャーマン議員が反トラスト法を提案した当時においては、トラスト、すなわち多くの業界において、競争関係にある多くの会社が、互いに株式を信託(trust)することにより、事実上企業を結合させ、競争の制限を図る弊害が顕著になってきていた。そこで、その様な信託行為を禁止することにより、自由競争を回復させようとする試みが、反トラスト法なのである。

 シャーマン法第1条は、「取引を制限する全ての契約、結合、共謀」を禁じている。ここで禁じられるのは、正式な契約書や覚書のように書面により取り交わされる合意だけではなく、口頭の合意や、黙示の合意(紳士協定)等も問題となる。第1条の文言上、禁止の対象は非常に広範なもののように読めるが、それがどの範囲なのかが問題になったのがこの事件である。

 事件は、ニュージャージー州に本拠地を置く砂糖精製会社アメリカ砂糖精製会社(American Sugar Refining Company)が、1892年に、競争関係にあるペンシルヴァニア州に本拠地を置くE.C.ナイト社等4[31]の株式を譲渡されることにより、全米の市場の98%まで独占する状態となったことから、当局はシャーマン法違反として、その株式譲渡の差し止めを求めて訴追した、というものである。しかし、第1審連邦裁判所は、この事実は州際通商に該当しないとして起訴を退け、高裁もこれを是認したので、連邦最高裁判所に上告したのである。

(二) 判決の内容

 1895年1月21日、連邦最高裁判所は、8対1の大差を以て、上告を退けた。フラー長官自身が判決を言い渡した。この事件でも反対意見を述べたのはハーランであった。

 フラーは、本件契約により、生活の必要に関わる品の製造に関して独占が発生したことは認めた。しかし、それをシャーマン法の規定により抑制することはできないと判決した。製造業、すなわちこの事件の場合であれば砂糖の精製は、地域的活動であって、連邦議会が取り締まることのできる州際通商には該当しないとしたのである。フラーはいう。

「砂糖精製事業を制御する権力は、合衆国人口の大半にとり、州際取引は必要不可欠となっている生活を楽しくする上で必要なものに対する独占であり、したがって、政府は、通商を規制する権力の行使として、直接にそのような独占を抑制し、それを生産している器具を除去することができると論ずる。しかし、この議論は、単に生活必需品に限定することはできず、一般的な消費のすべての品を含める必要がある。所与のものの製造を制御する力はある意味、それに対する処分を制御する。しかし、これは二次的なことであり、一次的なものではない。その力の行使は通商を管理することにつながるかもしれないが、それを制御することはなく、その効果は単に偶発的、間接的なものである。通商は製造につながるが、それの一部ではない。通商を規制する力は通商を統制するべき規則を制定する力であり、それは独占を抑制する力からは独立した力である。しかし、それは独占が通商によって支配される規則の範囲内に入れば、あるいは契約が通商の独占それ自体であれば、いつでも独占を抑圧するように作動できるであろう。

 通商権力とポリスパワーの独立性及びその間の境界確定が重要であるが、しかし、時には困惑するとしても、連邦の強力な絆を維持しつつも、他方、我々の政府の二重構造によって州の自律性の保全することが大切である事を常に認識し、監視するべきべきである。そして弊害を認識した場合、それがいかに深刻かつ緊急に見えようとも、それらを抑制する取みの中で、リスクを負担するよりも合憲性の疑わしい便法に頼ってそれを抑制する努力をするよりも、それを我慢することが増しである。」

(三) その後

 このナイト判決の下では、独占的生産に対するいかなる行動も個々の州によってなされる必要があり、その場合、州をまたがると認められる独占に対する規制は、その州内に関してだけでもきわめて困難になった。

 なぜなら、先にマン対イリノイ州事件で紹介した休眠通商条項(Dormant Commerce Clause)と呼ばれる判例理論がここでも問題になるからである。

 幸い、連邦最高裁判所は1930年代終わりになると、明示的にこの判例を変更することはなかったが、この判例の適用範囲を極めて狭く解釈するようになり、実質的には、この判例を覆し、連邦政府の反トラスト法に基づく活動を幅広く認めるようになった。

 

七 ロックナー対ニューヨーク州事件

 この事件(Lochner vs. New York, 198 U.S. 45 (1905))判決は、その後30年にわたるロックナー時代(Lochner era)の始まりを告げる重要判決である。この事件では、契約の自由(liberty of contract)が第14修正と絡んで問題となった。

(一) 事件の背景

 1895年、ニューヨーク州議会は、パン屋法(Bakeshop Act)を制定した。同法は、パン屋における衛生基準を定めると共に、パン屋で働く者の労働時間を110時間以内、もしくは週60時間以内に制限した。1899年、ロックナーパン店(Lochner's Home Bakery)の所有者であるロックナー(Joseph Lochner)が、彼の雇用する店員(an employee)に対し違法に160時間以上の労働を強いたとして起訴され、罰金25ドルが課せられた。さらに1901年には2度目の違反があったとして、州地方裁判所(County Court)から50ドルの罰金を科せられた。

 ロックナーは、この2度目の処罰に対して控訴した。しかし、ニューヨーク最高裁判所上訴部(Appellate Division of the New York Supreme Court)は、32の僅差であったが、有罪判決を支持した。そこで、連邦最高裁判所に上告したのである。

 ロックナーの上告理由は、パン屋法が合衆国憲法第14修正に違反しているというものだった。ドレッドスコット対サンドフォード事件(1857年)判決以降の一連の判決により、第5修正及び第14修正に定められているデュープロセス条項は、いずれも単に手続き的保証にとどまるものでは無く、実体的デュープロセスを保障したものが確立しているところ、「契約の自由」は、実体的デュープロセスに包含される権利の一つであったと主張したのである。

 契約の自由に関しては、この事件に先行して、アレゲイヤ社対ルイジアナ州事件判決(Allgeyer v. Louisiana, 165 U.S. 578 (1897))という連邦最高裁判所判決が存在している。次の様な事件である。

 1894年に、ルイジアナ州議会は、「法を遵守していない海上保険会社との取引により個人、法人や企業を防ぐための法律(An act to prevent persons, corporations or firms from dealing with marine insurance companies that have not complied with law)」を制定した。法律の目的は、表向きは州外の海上保険会社とのビジネスにより州の市民や企業が詐欺に遭うのを防ぐことだった。その結果、州外の海上保険会社は州内に正規の代理店を持つ必要があった。

 189410月、アレゲイヤ社(E. AllgeyerCo)は、綿の国際輸送に保険を付する目的で、ニューオーリンズからニューヨークのアトランティック相互保険会社に依頼を郵送した。これに対し同年12月、ルイジアナ州は、それを上記法律に違反したとしてアレゲイヤ社に罰金3000ドルを科した。これに対して、アレゲイヤ社は同法を第14修正に違反するとして裁判所に訴えたのである。ルイジアナ最高裁判所は訴因のうち二つは証明されておらず、一つだけが違反しているとして罰金を1000ドルに減額した。

 連邦最高裁判所は、全会一致でアレゲイヤ社を支持した。判決はペッカム(Rufus Wheeler Peckham)判事が執筆した。ペッカムは屠殺場判決等を引用して、次の様に述べた。

「第14修正に記されている『自由』は、投獄のような物理的な拘束から自由になる市民の権利だけでなく、その能力のすべてを楽しむ権利、すなわちそれらを合法的な方法で使用する自由、その望むところで生活し、働く自由、その生計を任意の合法的な手段で維持する自由、職業や趣味を行う自由、そしてそれらすべての目的の為に契約を行う自由は市民の権利を包含するものとみなされる。」

 問題は、この判決では、契約の自由だけが述べられていて、その限界がどこにあるかは不明だったことである。この結果、ロックナー事件では、この契約の自由の限界がまさに問題になったのである。

(二) 判決の内容

 連邦最高裁判所は、54の僅差でパン屋の労働時間を制限する立法はポリス・パワーの実行とは言えず、違憲であると判決した。ペッカム判事が法廷意見を執筆した。

 ペッカムは、第14修正は個人の「業務に関わる契約を締結する一般的自由(general right to make a contract in relation to his business)」を保障していると論じる。確かに権利は絶対的なものでは無いが、州の「何か漠然とポリス・パワーといわれるもの(somewhat vaguely termed police powers)」とは関わりが無いとする。すなわち、ポリス・パワーは一定の限界に服するのだと論じる。さもなければ、第14修正は無意味なものとなり、州はポリス・パワーという口実の下にいかなる法律を制定することも可能になるからである。ペッカムは、立法が「公正で、合理的で、州のポリス・パワーの適切な実行であるか、それとも…不公正で、不合理で個人の権利に対する一方的な干渉であるか」を決定するのは裁判所の義務であると主張する。そして、その個人の自由の重要な一環として、その労働に関して各人に適切と考えられる契約を締結する自由が存在するのである。

 ニューヨーク州の検事総長メイヤー(Julius M. Mayer)は、各州は市民を、その知識の欠如から守る権利があると主張した。この主張に対してペッカムは、パン屋はいかなる意味においても州の被保護者ではなく、州の保護がなくとも自分自身で自分の権利を守ることができる、とした。

 また、長時間労働はパン屋の健康を害するという主張に対しては、一般的理解に依れば、パン屋の業務は不健康なものとは考えられていないと切って捨てた。これに付け加えて、統計データに依れば、パンを焼くことは、他の一般的な専門職に比べて、平均して特に健康的とも不健康的ともされていないとした。

 これを受けて、ペッカム及びフラー長官、ブリュワ、ブラウン、マッケンナは、ニューヨーク州法は「被用者の健康に対し、何ら現実の、そして本質的規制ではない」として、同法をポリス・パワーの実行としては無効であるとした。その結果、ロックナーの処罰もまた無効となった。

(三) 反対意見

 反対意見を書いたのは、ハーラン、ホワイト(Edward D. White)、ディ(William R. Day)、そしてホームズ(Oliver W. Holmes, Jr.)の4人である。

  1 ハーランの反対意見

 ハーランの反対意見には、ホワイトとディが賛同した。

 ハーランの意見はペッカムのそれの正反対で、第14修正の下におけるデュープロセス条項から導かれる契約の自由は、州のポリス・パワーに服するという。そこで、本件のような立法が合憲か否かを判断する基準として、次の様に述べる。

「裁判所の立法行為を審査する権限は、一般的福祉に影響を与える問題で、『立法府が、その法規範が公衆衛生を、あるいは公衆道徳を、または公共の安全を守るために制定されたとしているのに、その規制が何ら現実のもしくは本質的な関係をその対象との関係で有していない場合、ないしは疑問の余地無く、基本法で保護された権利の単純、明白な侵害である場合に、その法規が該当する場合』のみ存在する。」

 そして、ハーランは立証責任は、その立法が違憲であると主張する側にあるとした。

 これは、今日の用語でいうところの、狭義の合理性基準(明白性基準)の最初期の主張例と見ることができる。

 そしてハーランは、「この法律が、パン屋や菓子屋で働く人々の身体的幸福を守るために制定されたことは明らか」であるとした。そして、多数意見がパン屋は特に不健康な職業ではないとした点に対しては、パン屋特有の呼吸器系の疾患に関する学術報告を引用して反論している。

  2 ホームズの反対意見

 ホームズの反対意見は比較的短いものであるが、しばしば引用される有名なものとなっている。「私はこの事件において判決に賛同することは不可能であり、反対意見を表明することは私の義務である」という印象的な文章で書き始められており、次の様に続いていく。

「この判決は、国のほとんどでは検討されてもいない経済理論に基づいて決定されている。もし、私がその理論に同意するかどうかということが問題であるならば、決断を下す前に、私は深く、長期にわたり研究することを願うべきである。しかし、私はそれは私の義務ではないと考える。なぜならば、私の同意もしくは不同意は、多数意見がその法に関する意見を具現化する権利とは何の関係もないと強く信じているからである。本法廷で様々な判決が、州憲法や州法が様々な方法で人生を規制していることを決着させてきた。そこでは、我々は、立法者としては無分別にも、あるいはそう言いたければ専制的にも契約の自由に干渉してきた。日曜日を休日とする法律や、高利貸しを規制する法律は、古い例である。近時においては宝くじの禁止がある。他人が同じことをするのに干渉しない限り好きなことをする市民の自由は、これは良く知られている作家の格言であるが、例えば学校法で、郵便法で、そしてあらゆる州または地方自治体の機関が、彼はそれを好きかどうかにかかわらず、望ましいと思うことに使うという方法に依り干渉されてきた。第14修正は、決してハーバートスペンサー氏の社会学を制定したものではない。先日、我々は、マサチューセッツ州の予防接種法を支持したのである。」

 スペンサー(Herbert Spencer)は、19世紀イギリスの哲学者・社会学者で、ダーウィンの進化論を社会学に応用して、「適者生存 (survival of the fittest) 」ということを言い出したので有名である。つまり、国家が余計な規制をしなければ、社会の中における生存競争で最適の者だけが生き残ると説いたのである。そしてホームズは、このロックナー判決の多数意見は、この適者生存という経済理論に従った誤ったものであると非難しているのである。

 最後に出てきたマサチューセッツ州予防接種法事件というのは、この判決と同じ1905年に下されたJacobson v. Massachusetts, 197 U.S. 11 (1905)という判決である。

 ヤコブセン(Henning Jacobson)はスウェーデンからの移民で、牧師であり、マサチューセッツ州ケンブリッジに住んでいた。1902年に天然痘が流行したが、ヤコブセンは、成人全員が種痘を受けるようにという町の命令を、種痘は彼を重篤な疾患に陥らせるおそれがあるとして拒絶した。その結果、5ドルの罰金に処せられた。彼はその支払いを拒んだが、マサチューセッツ州法廷は彼の主張を否定したため、連邦最高裁判所に上告されたのである。ヤコブセンは、マサチューセッツ州強制接種反対協会によって支援されていた。この当時、マサチューセッツ州は、予防接種強制法を持っていた11の州の一つだったのである。しかし、連邦最高裁判所は全員一致で、個人の自由は時として公共の福祉に服さねばならず、この問題はポリス・パワーに属すると判決したのである。

 ホームズは、このできたばかりの判例と、このロックナー判決は明らかに矛盾していると指摘しているわけである。それ以外にも、いくつかの判例を上げて、それらとの抵触を指摘している。例えば連邦最高裁判所は、炭鉱労働を8時間に限定している法律を合憲とした*[32]。それらを受けて、ホームズは次の様に述べる。

「これらの法律の一部は、裁判官が共有する可能性がある信念や偏見を体現している。一部ではないかもしれない。しかし、憲法は温情主義(paternalism)であろうと、国家への市民の有機的関係論であろうと、自由放任(laissez faire)論であろうと、特定の経済理論を具現化するものではない。」

 

八 アデア対合衆国事件

 このアデア事件(Adair v. United States, 208 U.S. 161 (1908))判決は、ロックナー時代判決の一つの代表であるので紹介する。労働組合に参加することを労働者を禁止した契約(黄犬契約"yellow-dog" contracts)禁止の合憲性が問題になった。この事件まで、ドレッド・スコット判決を別格とすれば、裁判所は州だけを適用対象とする第14修正のデュープロセス条項を使用して、契約の自由を制限する州法に対する規制を行ってきた。この事件で、実体的デュープロセス条項の理論が、第5修正を通じて連邦法を含むように拡張されたという点で、歴史的な判決である。

(一) 事件の背景

 1870年代においては、労働組合に参加しないという誓約を含む書面による契約は、一般的に「悪名高い文書(Infamous Document)」ないし「鉄の制約(iron-clad oth)」と呼ばれていた。その後、「黄犬契約(Yellow dog contract)」と呼ぶのが普通になっていった。黄色には卑劣というニュアンスがあり、犬という言葉には裏切り者というニュアンスがあるところから生まれた言葉のようである。

 1887年にニューヨークをはじめとする16の州が、その刑法典に労働組合に加入しないことを誓約させる契約は犯罪行為とすると規定した。これを受けて連邦議会では、鉄道会社の職員に関しては、州際通商条項を発動し、同様に労働組合非加盟制約を違法とする条項を定めたアードマン法(Erdman Act of 1898)を制定した。

 その第10条は、大変長い条文であるが、要約すると、この法律の適用対象の事業で、従業員に対して雇用条件として、書面か口頭かの別なく労働組合に加入しないことを定めたり、労働組合員であることを理由に解雇その他の不利益取扱をすることを禁止し、不当労働行為があった場合には、その個々の違反ごとに、違反者に対して100ドル以上1000ドル以下の罰金に処することを定めていた。

 1906年に、ルイビル&ナッシュビル鉄道の従業員を監督する地位にあった主任整備士のアデア(William Adair)は機関車火夫団(Order of Locomotive Fireman)という名の労働組合に所属していることを理由にコパージ(O. B. Coppage)を解雇した。アデアの行動は、アードマン法10条に直接に違反したとして連邦地方裁判所に起訴された。アデアはアードマン法は違憲だと主張したが、地裁は合憲だとし、100ドルの罰金を支払うよう命じられた。そこで、アデアは、連邦最高裁に上告した。

(二) 判決の内容

 判決は1908128日に言い渡された。連邦最高裁判所は62の多数で、アードマン法10条は違憲であると判決した。

 判決はハーラン判事が執筆した。ハーランは第5修正にあるデュープロセス条項は、ロックナー事件判決で連邦最高裁判所が第14修正に示した解釈と同様に、個人の契約の自由を保障しており、アードマン法はそれに違反しているという。

「雇用主と従業員は権利の平等性を有しており、この平等性を侵害するいかなる立法も契約の自由の侵害であって、いかなる政府も自由の国においてはこれを法的に正当化することのできない」

 この結果、契約違反を理由に解雇することに刑罰を与えることは許されないと結論を下した。

 また、政府側はアードマン法10条は州際通商条項の下では議会権限の有効な行使であったと主張していた。それまでの判例だと、州際通商条項は、その規制に採用される手段の選択等に当たって選択に大きな裁量権が認められていたからである。この点についてはハーランは次の様に述べた。

「明らかに、州際通商を規制するためのいかなる規制も、州際通商を規制するために議会が有する能力の範囲内である必要があり、規制しようとする通称との現実的ないし実質的な関連性を有していなければならない。」

 そして、ハーランは次の様に述べて、その様な関連性は存在しないとしたのである。

「法的に、あるいは論理的に可能ないかなる関係が、従業員が労働組織の構成員になる事と、州際通商を実施することとの間にあるというのだろうか? 労働組織それ自体として、あるいは法の目から見て、被用者がその労働力と業務に関わる通商に応じて、いかなる関係も見いだすことはできない。」

 このように述べて、議会の州際通商兼は労働組合の加入権にまで拡張することはできないとしたのである。

 ロックナー事件で反対意見を書いたことを考えると、この変身ぶりに驚くが、その理由は、ロックナー事件ではその立法権が州のポリスパワーに属すると考えたために、連邦裁判所の司法審査権が及ばないとしたのに対し、この事件では連邦法であるため、審査権を積極的に発動したところから来ている。ロックナー事件におけるホームズの反対意見が司法消極説に基づいていたのは基本的に異なるのである。

(三) 反対意見

 この判決に対して、反対意見を書いたのはマッケンナ(Joseph McKenna*[33]とホームズである。

  1 マッケンナの反対意見

 マッケンナは、議会の立法意図を強調した。すなわち、鉄道業界では労使双方の衝突が恒常的に繰り返されており、その改善への取組としてこの立法は行われたという事である。

「法律の規定は明確であり、それは紛争に対し仲裁や調停を行う事により管理者と従業員の間の紛争の解決のためによく調整された計画を提示し、それによってストライキを防ぎ、それによって公共に与える障害や混乱を防ぐことである。私は立法配慮や立法対象として、これ以上に有用な目的を提示できない。」

 このように述べて、マッケンナは、第10条を無効とすると、議会の意図を阻害し、効果的な調停を行うための効果的な公正は失われるとした。雇用者側の任意に解雇する権利に関しては、議会の設けた調停枠組みの中で保障されているとした。

「もし管理者が一時の気まぐれや我が儘で解雇権を行使することで、紛争を持ち込んだり友好的な調停を妨げるならば、どうやって業務の深刻な中断もしくは中断の危険をもたらす論争(私は法の文言を換言している)を回避し、援助を与えることができるだろうか?」

 多数意見の理由付けに見られる明らかな懲らしめの意図に対して、マッケンナは「自由は魅力的なテーマであるが、全くの反感から行使された自由は、正しく評価できない」と警告を発している。マッケンナは、本件立法は議会の有する州際通商権の限界内にあり、第5修正に関していえば、境界線は民間部門と公共事業の間に描かれるべきであるという。

「我々は、準公共事業の実施を取り扱っており、そしてそれ故にその目的は公共の利益を管理することである。」

  2 ホームズの反対意見

 ホームズの反対意見は簡潔なものである。彼は本法は明らかに合憲であると冒頭に述べている。ホームズの見解に依れば、第10条は契約の自由に対する本質的に非常に限られた干渉だという。また、この判決は、過去の判例に抵触しているとも述べている。マッケナ同様に、ホームズも、議会がストライキを防止し、効果的な調停の枠組みを作るには十分に正当化できる立法だとしている。

 

[おわりに]

 ウェイトコート及びフラーコートの時代、連邦最高裁判所は、社会の変化を基本的に理解していなかったと言って良い。本稿に紹介した各判決は、大きな歴史の流れから見るときには、それと逆の方向に向かっての抵抗であり、いずれも後の時代に覆されることとなる。特に、マイナー事件及びポロック事件は憲法改正という手段によって覆される。

 フラー以前の連邦最高裁判所長官が、いずれも連邦政府の中心で活動していた人物であったのに対し、ウェイトやフラーは政治経歴が短く、法曹として成功した人物であったことが、このような結果を引き起こしたものと思われる。

 しかし、同時に、彼らの判決は、同時代の人びとには優れたものと思われていたことも重要である。グラント大統領がスキャンダルにまみれて二期目を終えた時、共和党ではウェイトを、その次の大統領候補に担ぎ出そうとしたほどである。しかし、ウェイトは最高裁判所長官の職に固執したので、共和党はヘイズを候補者として指名し、彼が19代大統領となる。また、いずれの問題判決も、覆されるまでには長い時間を必要とし、その間においては、むしろこれら判決の影響下に逆行的な立法も数多くなされた。このような事実を考えるとき、この時代の判例を歴史への逆行と単純に捉えるだけでなく、米国にはこういう一面があることも理解する必要がある。



[1]* 南北戦争中、英国は表面上は中立という姿勢をとったが、実際にはアラバマ号に代表される通商破壊艦を何隻も建造し、南部連合に提供した。こうした通商破壊艦の活動で北部側は大きな損害を蒙ったので、その賠償を英国に求めた。

[2]*  ルイジアナ州の当初はニューオーリンズが州都だったため州議事堂もここにあった。1849年に州都がバトンルージュ(Baton Rouge)に移った。しかし、南北戦争中にニューオーリンズ市が再び州都になり、1882年にまたバトン・ルージュが州都になった。そのため、この時点では州議事堂はニューオーリンズにあった。

[3]* 審理無効:本来は手続き上の過誤による無効審理を意味するが、本文のように米国で用いられる場合には陪審員の意見不一致による未決定審理を意味する。

[4]* この文は、第1修正の一部を引用したものである。

[5]* 公民権法事件判決を書いたのは、ブラッドリー(Joseph P. Bradley)判事である。

[6]* ハリス事件判決を書いたのは、ウッヅ(William B. Woods)判事である。

[7]* ギボンズ対オグデン事件判決の詳細については、拙稿「米国違憲立法審査権の確立−マーシャル第4代長官の時代−」日本法学783150頁以下参照。

[8]* ジム・クロウ法:1876年から制定されはじめ、1964年まで存在していたアメリカ合衆国南部の州法の総称。ジム・クロウという名は、ミンストレル・ショー(Minstrel Show=白人が黒人に扮して歌うコメディ)の1828年のヒット曲、『ジャンプ・ジム・クロウ(Jump Jim Crow)』に由来する。差別の対象になったのは黒人だけで無く、「黒人の血が混じっているものはすべて黒人とみなす」という人種差別法の「一滴規定(One-drop rule)」に基づいており、黒人との混血者に対してだけでなく、インディアン、ブラック・インディアン(インディアンと黒人の混血)などの、白人以外の「有色人種」(Colored)も含んでいた。196472日に制定された公民権法(Civil Rights Act)により、南部各州のジム・クロウ法は即時廃止となった。

[9]* 判決文には“The statute of Louisiana, acts of 1890, c. 111”とあるだけで、この法律の正式名称は不明である。内容となっている条文は判決文に引用されている。

[10]* John Marshall Harlan (1833 ? 1911) :ケンタッキー出身で、したがって彼は南北戦争前は奴隷所有者であった。しかし、戦後においては考えを改め、公民権事件判決(1883)でも、この事件同様、ただ一人反対意見を書いている。ただし、Pace v. Alabama (1883) 事件においては、異人種間婚姻禁止法が合憲であるという判決を支持している。なお、ウォーレン・コートで、ウォーレン長官の右腕として活躍したことで有名な、同名のハーラン(John Marshall Harlan II)判事の祖父に当たる。

[11]* ヒルトン事件については拙稿「米国初期の憲法判例」日本法学782102頁以下参照。マカラック事件については、同じく拙稿注9引用書138頁以下参照。

[12]* 1861年歳入法の正式名称は次のとおりである。

 An Act to provide increased Revenue from Imports, to pay Interest on the Public Debt, and for other Purposes

[13]* 前年の1860年迄の時点での米国の関税率は20%内外で、当時の世界で最も低かった。それに対し、モリル関税法は26%36%という高率となり、さらに戦争の進展と共に引き上げられていった。ちなみに徳川幕府が米国公使のハリスの圧力に屈して1858年に締結した日米修好通商条約(Treaty of Amity and Commerce (United States?Japan))では、米国の必要とする漁具、建材、食料などは5%の低率関税を押しつけられていたが、それ以外は20%であり、イギリスが主力輸出品とすることを目指していた酒類は35%の高関税とされていた。

[14]* 1862年歳入法の正式名称は次のとおりである。

 An Act to provide Internal Revenue to support the Government and to pay Interest on the Public Debt.

[15]* マッキンリー関税法は、またあらゆる米国への輸入品にその原産国を表示するように求めた。今日、様々な製品にMade in Japanなどと英語での表示があるのは、このマッキンリー法の影響である。なお、後にマッキンリーは大統領になった際に1891年法を上回る最高52%の高関税を定めた「ディングレー関税法(Dingley Act of 1897)」を制定させている。この空前の高関税時代は1909年関税法(Payne-Aldrich Tariff Act of 1909)の制定まで続くことになる。

[16]* このバーボン派というのは、1876年から1904年までの間に存在した民主党自由主義派に対する通称である。ケンタッキーのバーボン・ウイスキー(bourbon whiskey)と、フランス大革命でいったんは倒されながらも1830年の7月革命まで反動的な支配を続けたフランスのブルボン王家(Bourbon Dynasty)とを引っかけたダジャレなのである。

[17]* この大統領選挙は、米国大統領選挙史上もっとも白熱した選挙といわれる。バーボン派の擁立したティルデンは得票率でヘイズを破り、選挙人投票でも184票を獲得してヘイズの165票を上回った。しかし、残り20票をどう取り扱うかで選挙人の間で激しい議論となり、最終的にすべてヘイズの得票とされた。この結果、ヘイズが185票を獲得して大統領となった。この決着の裏には、南部がヘイズの当選を黙認する代わりに、共和党は南部から連邦軍が引き上げることに同意し、南部再建を終了させるという取引(1877年の妥協と呼ばれる)があったと、多くの歴史家が信じているという。

[18]* この選挙では共和党のガーフィールドは一般選挙でわずか2,000票、民主党のハンコックを上回っただけであったが、選挙人選挙では全369票のうち214票を獲得して容易に当選した。

[19]* この選挙では民主党のクリーブランドが一般投票で4874,621票で48.5%を獲得したのに対し、共和党のブレインは一般投票で 4848,936票、48.2%という僅差であった。しかし、ニューヨーク州でわずか1,047票差でクリーブランドが勝ち、36人の選挙人すべてを獲得した結果、選挙人数でいえば、クリーブランドが219人に対しブレインは182人となって選挙の行方を決した。

[20]* 1888年の大統領選挙では、現職のクリーブランドが一般選挙では5534,488票、48.6% と最高票を得たが、共和党の挑戦者ハリソンは、一般選挙では5443,892票、47.8%と敗れていたが、選挙人選挙では233票を獲得し、168票のクリーブランドを破って大統領に選ばれた。なお、ハリソンは、第9代大統領William Henry Harrisonの曾孫である。

[21]* この選挙ではクリーブランドは一般投票で5553,898票、46.0%と勝ち、さらに選挙人選挙でも277人を獲得して、ハリソンの 5190,819票、43.0%、選挙人数145人を圧倒して問題なく勝利した。

[22]* ウィルソンゴーマン関税法の正式名称は次のとおりである。

 An act to reduce taxation, to provide revenue for the government, and for other purposes

[23] People's Party1891年に設立され、合衆国南部の貧しい白人綿花農家等を支持基盤とした

[24] Silver Republican Party:金本位制を支持した共和党に対し、銀本位制を主張する勢力が離党し旗揚げした

[25]*  マッキンリーは、大統領となったのち、米西戦争を行って、フィリピン、グアム、サイパンを奪取し、またクリーブランド時代にはその独立を支援していたハワイを米国に併合した。1901年、マッキンリーは暗殺され、副大統領のルーズベルト(Theodore Roosevelt)が昇格した。彼は42歳と米国史上最年少の大統領であった

 また、バーボン派は、1904年に、ウッドロー・ウィルソンが、その政敵であるブライアンと妥協することにより歴史的役割を終えて消滅することになる。

[26]* 1912年の選挙では、現職大統領タフトは共和党の保守派の支持で党候補に再指名された。しかし、第26代大統領のセオドア・ルーズベルトは共和党の指名獲得に失敗した後、独自に党員集会を招集し新しく進歩党(Progressive Party)を創出して、自ら指名された。他方、民主党は、ウッドロウ・ウィルソンに一本化した。この共和党の分裂選挙のおかげで、ウィルソンは一般選挙での得票率は42%に過ぎなかったが、漁夫の利を得て選挙人数では圧倒的多数を占めて当選に成功した。

[27]* 渋谷博史『20世紀アメリカ財政史[T]』渡橋大学出版会2005年刊、39頁より引用

[28]* 前掲注渋谷42頁参照。

[29]* シャーマン法の正式名称は、次のとおりである。

An Act to protect trade and commerce against unlawful restraints and monopolies

[30] 金ぴか時代の名は、マーク・トウェイン(Mark Twain)の同名の小説に由来する。

[31]  他の3社は、Franklin Sugar Company Spreckels Sugar Refining CompanyDelaware Sugar Houseである。

[32]* Holden v. Hardy, 169 U.S. 366 (1898),

[33]* Joseph McKenna (1843 ? 1926) は、三権のいずれにも地位を占めたという珍しい経歴の人である。すなわち、まず下院議員となり、ついでマッキンリー政権において司法長官となり、最後に最高裁判事になったのである。