ロックナー時代
−ホワイト第9代及びタフト第10代長官の時代−
甲斐素直
[はじめに]
(一) 長官人事
フラー第8代長官は、1910年7月4日に死去した。タフト(William Howard Taft)第27代大統領は、ホワイト(Edward Douglass White
jr.)を第9代長官に任命した。
ホワイトは、元連邦上院議員であったが、基本的には前二代の長官同様、ほとんど政治経歴のない人物であった。それ以外にも問題ある指名だった。第一にタフトは共和党の大統領だったのに、ホワイトは民主党員であった。政党が確立した第4代長官マーシャル以降、いずれも時の政権党に属する者が最高裁判所長官となった。そして、ホワイトの後も、今日に至るまで一貫して政権党員が長官に任命されてきている。したがって、これは米国史上唯一の例外人事なのである。第二に、第2代長官ラトリッジを除けば、はじめての陪席判事からの長官昇格であったという点でもきわめて例外的人事であった。
タフトが彼を任命した理由は、今日も不明である。ホワイトが当時65歳で太りすぎであったことから、タフトはホワイトが長くその地位にいないであろうから、自分がその後任となれる日が来ると期待したためと考える者もいる。実際、ホワイトが1921年5月19日に現職のまま死亡すると、ハーディング(Warren Gamaliel
Harding)第29代大統領は、タフトを後任の連邦最高裁判所長官に任命した。しかし、これは多分に結果論であろう。
タフト第10代長官は、行政、司法両府のトップに就任した合衆国史上唯一の人物である。タフトの経歴を簡単に紹介すると、1887年にオハイオ州最高裁判所判事に就任し、1890年には合衆国訟務長官*[1]に任命され、1891年には第6連邦高等裁判所判事に任命されている。これから見れば、彼は確かに連邦最高裁判所長官にふさわしい司法領域の人間である。
彼の行政職の経歴は、司法職に遅れて1900年以降に始まっている。同年マッキンリー大統領は彼をフィリピンの民政長官に任命する。この時点においては、フィリピン人民は米国の侵略に対して血みどろの抵抗をしていたから、これは大変困難な職であった。
マッキンリーが1901年9月に暗殺されると、ルーズベルト(Theodore Roosevelt)が副大統領から昇格した。ルーズベルトは、タフトがフィリピン統治に優れた業績を上げたとみたのであろう、1904年彼を陸軍長官(Secretary of War)に抜擢した。さらに、2度目の任期が終わった1908年に、ルーズベルトは、タフトを自らの後任者に指名し、タフトはその年の選挙で圧勝して大統領となった。
しかし、その後、ルーズベルトとタフトとの間に対立が生じた結果、1912年の大統領選では、ルーズベルトはタフトを押しのけて自らが共和党候補の指名を得ようとした。タフトが共和党候補に決まると、ルーズベルトは革新党(Progressive Party)という新しい政党を結成し、それを背景に大統領選挙に立候補した。その結果、1912年の選挙戦は、民主党のウィルスンとタフト及びルーズベルトの三つ巴の戦いとなり、ウィルスンが当選、ルーズベルトが二位、タフトは三位と破れる。それを期に、タフトは公職を退き、自ら設立した平和執行連盟(League to Enforce
Peace)を通じての世界平和の追求に時間を費やした。
その彼を、ハーディングは最高裁判所長官に任命したのである。以後、タフトは、1930年、すなわち世界大恐慌の直後までの期間を最高裁判所長官として過ごすことになる。
(二) 激動の時代
1905年のロックナー判決[2]から、1937年のウェストコーストホテル判決(West Coast Hotel Co. v. Parrish, 300 U.S. 379 (1937) )までの期間を、憲法判例史ではロックナー時代と呼ぶ。ホワイト及びタフトが長官であった時代がほぼその中心と言える。
この時代は、米国社会が史上もっとも激しく変動した時代であった。
社会が変動した最大の原因の一つは、第1次世界大戦が、1914年から1918年までの間、米国を巻き込んで戦われたことである。この世界大戦は、それまでの戦争の常識を一変させた。それまでの戦争は、戦場と呼ばれる特定の場所で、職業軍人が戦うのであって、一般の人びとには関係がなかった。ところがこの戦争は、人類史上最初の総力戦(Total War)、すなわち国家が国力のすべて、軍事力のみならず経済力、技術力、科学力、政治力等を、平時の体制とは異なる戦時の体制で運用して争う戦争となった。
南北戦争に総力戦の萌芽が見られる。総力戦を実施する手段として、リンカーン大統領は、初期段階においては議会からの授権無しに独裁権力を行使した。そのために、様々な憲法問題が起こったことは、別稿で紹介した*[3]。それに対し、第1次世界大戦では、ウィルスン大統領に対して、早い段階から議会から広範な権力の授権が行われた。その結果、ウィルスンの独裁権力は直接的な憲法問題は引き起こさなかった。しかし、総力戦がもたらした社会構造の変化から、様々な憲法問題が発生することになる。
その端的な表れが憲法改正である。ホワイトが長官を務めた10年ほどの短い期間に、何と四つの憲法改正が成立しているのである。逐次簡単に紹介する。
1 第16修正
第16修正は直接税を認めるものである。この修正は1909年に議会を通過していたが*[4]、その後における各州の批准はかなり難航した。1913 年に必要数の批准が得られて成立した。これが、第一次世界大戦で急激に膨張した財政費用を支えることになる。
2 第17修正
同じ1913年に第17修正が成立した。これは上院議員の直接選挙を定めたものである。
連邦議会においては、下院議員が全国民の代表であるのに対し、上院議員は、州代表である。そのため、連邦憲法は、上院議員は州議会で選ばれるとしていた。しかし、徐々にこの制度は問題を露呈し始めた。州議会という狭い範囲で行われる選挙であるため、贈収賄その他いかがわしい取引が横行するようになり、また、多数の州で州議会が上院議員を期限までに指名できないという事態が頻繁に発生した。
そこで、上院議員を一般選挙で選ぶという憲法改正案が連邦議会に提案されたが、なかなか連邦議会の受け入れるところとはならなかった。しかし、20世紀に入ると州レベルでの改革が急速に進行し、1912年までに29州で、上院議員は実質的に州民の選挙で選ばれるようになっていた。そのため1911年には上院で、1912年夏には下院で可決されて議会を通過し、翌13年には早くも必要数の批准を獲得して成立したのである。
3 第18修正
1919年には第18修正として、悪名高い禁酒法が成立した。歴史がピルグリム・ファーザーズに始まる米国では、伝統的に清教徒の影響が強く、アルコール飲料に対する強い批判が一貫して存在していた。その結果、1851年にメイン州で最初の禁酒法が制定されたのを皮切りに、20世紀初頭までに18の州で禁酒法が実施されていた。そこに第一次世界大戦に伴い、戦時の穀物不足を予防するという経済的な動機が出現し、全国的な禁酒法制定への機運が盛り上がった。ウィルスン大統領は、せめてアルコール度の低い酒は除外するよう、議会に働きかけたが、清教徒的使命感に駆られている議会には通用せず、1917年12月18日に第18修正は議会を通過した。そして、1919年1月16日には早くも必要数の批准が完了し、憲法修正条項が成立したのである。その時にはすでに,この憲法改正の大義名分であった第一次大戦は終了していたが、議会の勢いは止まらず、その実施法である全国禁酒法(National Prohibition
Act=通称ボルステッド法: Volstead Act)を制定し、1920年から全米で実施した。その結果、ギャングをはびこらせることになった。この禁酒法は、1933年に第21修正により廃止されるまで、米国社会を支配することになる。
4 第19修正
1920
年に成立した第19修正は、女性参政権条項である。南北戦争の結果、それまで奴隷であった黒人にさえ(少なくとも憲法的建前としては)参政権が与えられたのに、長らく女性に参政権は与えられなかった。その流れを決定的に変えたのが第1次世界大戦である。男性が兵士として欧州に送られた穴を埋めるべく、女性が社会のあらゆる場面で活動するようになったため、女性参政権に抗するのが困難になったためである*[5]。
第二の大きな変動原因は、資本主義の爛熟と産業革命である。それに伴い、労働者の搾取が、米国ばかりでなく世界的に大きな社会問題となり、労働者保護の必要性は世界各国に共通のものとなっていた。しかし、特定国だけが労働者保護を行った場合には、貿易競争において、その国は不利な立場に立たされる。さらに各国の労働組合の運動や、ロシア革命の影響で労働問題が大きな政治問題となっていたため、国際的に協調して労働者の権利を保護するべきと考えられ、ヴェルサイユ条約に条項が組み入れられ、国際連盟の姉妹機関として国際労働機関(International Labour Organization=ILO)が、1919年に同時に設立された。
米国は、ヴェルサイユ条約及び国際連盟の創立に大きな影響を与えたが、それと同様にILOの設立にも大きな影響を与えた。しかし、議会が国際連盟への加入を承認しなかったため、自動的にその姉妹機関であるILOにも当初は加盟しなかった。しかし、1934年、ルーズベルト政権下において、国際連盟には加盟しないままにILOには加盟した。それに伴い、ILO条約の批准も行われるようになった。
こうした社会変動に対して、在来型の行政機関では適切に対応できないことが認識され、独立行政委員会が次々と設立されていたことも、この時代の大きな特徴である。最初の独立行政委員会は、1887年に設立された州際通商委員会(Interstate Commerce
Commission=ICC)である*[6]。
それが良く機能したので、1914年には連邦準備制度(Federal Reserve System=FRS)が設けられ、その管理に当たる組織として連邦準備制度理事会 (Federal Reserve Board= FRB)がワシントンに設置された*[7]。これが以後、今日まで、他国であれば中央銀行の果たす機能を果たすことになる。
同じ1914年に設立されたのが、連邦取引委員会(Federal Trade
Commission=FTC)である。これは、連邦の独占禁止法と消費者保護法を管轄する組織である。FTCは、国内市場が競争原理に基づき運用されることを確保し、活発かつ有効で、不当な制限から自由な状況を確保することを目指して活動した。
つまり、戦争に伴う行政権力の拡大に加え、こうした準司法型の行政機関が次々と生まれたことにより、米国が、それ以前とは異なる行政国家に変身し始めたのである。
(三) 1925年司法権法
タフトが連邦最高裁判所に残した最大の業績は、司法権法の改正である。1925年司法権法(Judiciary Act of 1925)は、別名サーシオレーライ法(Certiorari Act)と呼ばれる。サーシオレーライとはcertiorareというラテン語の受け身の現在形で、裁量上訴と訳されている。すなわち、この1925年法237条b項の成立により、連邦最高裁は、連邦地方裁判所からの直接上訴が認められる、州裁判所が連邦法や条約を無効とした事件などごく限られた事件を除けば、上訴は裁量上訴の申立てによらなければならないとされた。
上訴の申立ては、慣行的に、9人中4人以上の判事が賛成した場合に認められる。通常、重要な憲法問題や国家的に重要な論点を含む事件にしか、連邦最高裁判所は裁量上訴を認めない。上訴される事件は,現在では年間7〜8,000件あるが、そのうち裁量上訴が認められ、判決が下されるのは100件ほどにすぎない。これにより、連邦最高裁判所の業務負担は大幅に軽減され、重要な事件に集中できるようになったのである。普通の最高裁判所長官であれば,このような劇的な法改正は困難であったろうが、元大統領という権威にものを言わせてタフトは、同法案を議会に通過させることに成功したのである。
一 コッパーズ対カンザス州事件
産業革命に伴う労働者搾取問題の一つの表れが、このCoppage v. Kansas, 236 U.S. 1 (1915)事件ある。ここでは、雇用者が、労働組合に参加しないという条件の雇用契約(黄犬契約=yellow-dog contracts)を締結する自由を州法が制限していることが問題となった。フラー・コートの時代に、連邦法で、黄犬契約を結ぶ自由を制約し、あるいはそれに基づいて処罰する規定を設けることが、第5修正から導かれる契約の自由を侵害し、違憲になる事は、アデア事件判決により確定していた*[8]。州法でそれを定めた場合について、アデア事件先例に従ったのがこの事件の判決である。
(一) 事件の背景
カンザス州では1903年に「従業員、召使い、労働者及び雇用を求める人の要件に対し強制したり影響を与えたりもしくは要求した場合に処罰する法律」*[9]を制定した。
同法1条は、個人またはすべての企業、代理人、公務員、会社などが従業員の任用に当たり黄犬契約を結ぶことを禁止し、2条はそれに違反した場合に軽罪として50ドル以上の罰金もしくは30日以上の拘留を定めていた。
1911年7月1日、ヘッジ(Hedges)が、セントルイス・サンフランシスコ鉄道会社に転轍夫として採用されたが、彼は北米転轍夫組合(Switchmen's Union of North America)という労働組織のメンバーだった。コッパーズ(T. B. Coppage)は、監督として同鉄道会社に勤務しており、その職務の一環として、彼は次の契約書をヘッジに示し、ヘッジがそれに署名しない場合には、会社は彼を採用しないと告げた。
「フォートスコット、カンザス、_____、1911年
フリスコ線、フォートスコット監督T. B. コッパーズ殿
私、署名者は、あなたの要求に従い、フリスコ社に勤務中は転轍夫組合から脱退することに合意します。
(署名)____________」
ヘッジはこの契約書に対する署名を拒否し、労働団体からの脱退を拒否した。そこで、コッパーズは、彼を解雇した。この行為が同法違反に問われた。
(二) 法廷意見
最高裁判事は6対3に割れた。多数意見をピトニー(Mahlon Pitney)判事が書いた。
ピトニーは、冒頭で、そもそもコッパーズは契約にサインするかどうかを尋ねただけで、何らサインを強制していないと述べた。そして、アデア事件判決を引用した上で、カンサス州法はコッパーズのデュープロセスに基づく権利を侵害しており、労使双方間における等しい交渉力を確保することは、政府の仕事ではないと判示した。
「被用者は、原則として、その労働力を売るための契約を行うに際し、それを買おうとする雇用者ほどに、財政的に独立し得ないことは常識の問題であるといわれる。疑いもなく、私有財産権が存在する限り、富の不平等は存在しなければならないし、存在するであろう。 ある人が他の人よりも財産を有していなければならないことは自明である。財産の不平等は契約の自由と私有財産の権利が存在することからもたらされる必然的な結果であるということを認識することなく、それらの権利を維持することは不可能である。」
ここでは、明確に自由放任主義の主張が打ち出されている。結論として交渉力の不均衡をもたらすことは、州のポリスパワーに属さないとする。
(三) 反対意見
ホームズ(Oliver W. Holmes, Jr.)、ディ(William R. Day)及びヒューズ(Charles E. Hughes)が反対意見を書いた。
ホームズの反対意見は、ロックナー事件における自分の反対意見を引用し、カンザス州法に違憲の点はないと述べた簡単なものである。
ディが書き、ヒューズが加わった反対意見は、通常の立法においては契約の自由を支持するが、この法律に関しては公共の福祉を増進しているかどうかを問題とすべきだとした。また、彼は多数意見に反対して、この契約は強制的なものであり、自由に契約されたものでは無いとして、「男は彼の人生や彼の自由、または彼の本質的な権利を物々交換はできない」としている。
(四) その後
この判決により、州法レベルでも、黄犬契約を禁止することはできなくなり、米国の労働運動は冬の時代に入ることになる。典型的なロックナー時代の判決である。
二 グイン対合衆国事件
同じ1915年に下されたGuinn v. United States, 238 U.S.
347 (1915)事件は、オクラホマ州憲法の祖父条項(grandfather clause)の合憲性が争われた事件である。
(一) 事件の背景
オクラホマ州は、当初はその全体が「涙の道事件*[10]」などで、本来の居住地から追放されたインディアン部族を、強制移住させる目的で制定されたインディアン移住法(Indian Removal Act)に基づき作られた、インディアン準州(Indian Territory)であった。しかし、1890年5月2日、連邦議会はオクラホマ基本法(Organic Act of 1890)を成立させ、インディアン準州の西半分をオクラホマ準州(Territory of Oklahoma)として分離し、東半分だけをインディアン準州として、インディアン部族の支配下に残した。さらに、1907年11月16日には、この残ったインディアン準州さえも廃止し、オクラホマ準州と合わせてオクラホマ州とし、合衆国46番目の州に昇格させたのである。
州に昇格した際、その州憲法は合衆国憲法第15修正に準拠して、すべての人種の男性が平等に投票できるとする制度を採用していた。しかし、州として認められるとすぐ、州議会は次の様に、参政権条項を改正した。
「何人も、オクラホマ州憲法の任意の条項を読み書きすることができない限り、この州の選挙人として登録されてはならず、またこの地で行われるいかなる選挙において投票することを許可されない。いかなる者も、1866年1月1日またはそれより前の時点において何らかの形態の政府において投票権を認められておらず、または何らかの外国に居住しておらず、またはその者の直系卑属でない者は、登録して投票する権利を、本憲法の条項を読み書きする能力を有しない場合には否認される。選挙区調査官は、登録の際、登録の時点におけるこの条項を構成する権限を有する。登録を行うに当たっては、本条項は選挙区官吏によって強制されるものとする。」
持って回った表現であるが、要するに有権者となるには識字テストに合格する必要があると定めたのである。ただし、祖父が有権者であったか、外国市民であったことを証明すれば識字テストを受けることなく有権者と認められる。これが祖父条項である。その結果、文盲の白人は投票することができた。それに対し、黒人の場合、祖父はほぼすべてが奴隷だったので当然1866年前には有権者ではなかったため、識字テストを受けねば投票できないこととなった。そして、その識字テストは非常に恣意的に行われたので、実際には文盲でなくとも、黒人は識字試験に合格できなかった。
オクラホマ州は、このような改正により、文言的には第15修正に抵触することなく、その規制を潜脱することを目指したのである。オクラホマ州の憲法改正後、これに倣って南部諸州の多くが、州憲法に同様の祖父条項を設けた。
この改正は、1910年11月8日に実施されたオクラホマ州議会議員選挙の前に施行された。そして、その選挙期間中に選挙区官吏であったグイン(Frank Guinn)及びビール(J. J. Beal)は、黒人の投票権を認める第15修正及び第15修正に基づく投票権を保障すると定めているオクラホマ州法に違反して、故意に違法かつ不正に剥奪したことが、合衆国刑法の次の条項に違反したとして起訴された*[11]。
「2名以上の者が共謀して、合衆国憲法または合衆国法によって市民に与えられている何らかの権利または特権の自由な行使を、侵害し、抑圧し、脅かし、もしくは威迫した場合、〈中略〉5,000ドル以下の罰金及び10年以下の懲役に処すると共に、将来に向かって公民権が剥奪される。」
彼らは有罪判決を受けたので、連邦最高裁判所に上告した。
(二) 判決の内容
判決は1915年6月21日に、一人の反対意見も無く下され、ホワイト自身が申し渡した。ホワイトは、事実の概要及び関係法を紹介した後、自らに向かって次の様に問を発する。
「第一に、オクラホマ州の憲法改正は、有効に行われたのか?
第二に、憲法の任意の条項を読み書きできた場合を除き、オクラホマ州議会議員候補者に投票する権利ないし特権を、もしその様な規定がなければ有していた黒人合衆国市民から、1866年1月1日あるいはそれ以前の時点において、彼らが奴隷であったために、何らかの形態の政府において投票権を認められておらず、または何らかの外国に居住しておらず、またはその者の直系卑属でないという理由から剥奪することを試みたとして、その改正を無効とできるか。」
グイン側では、この点に対して、各州には自らの参政権を定める権限があり、この権限は第15修正によっても奪うことができないと主張した。
ホワイトは、その主張は原則としては正しいという。しかし、意図的に合衆国憲法の定める参政権の基準を歪めようとしている場合には問題が違って、州のその権限を行使する際の判断は、連邦裁判所の監督に服するとし、オクラホマ州憲法は違憲とした。黒人の投票権を正面から認めた点で、極めて進歩的な判例である。
(三) その後
その判決の結果、単にオクラホマ州ばかりで無く、メリーランド州、アラバマ州、ジョージア州、ルイジアナ州、ノースカロライナ州及びバージニア州憲法にあった同様の祖父条項はすべて違憲とされることになった。しかし、この判決の効力は短い時間しか続かなかった。なぜなら、州議会は直ちに州法を改正し、次の様に表記したからである。
「あらゆる人は、1914年に投票した者を除き、1916年に投票する資格を与えられるが、1916年4月30日から5月11日までの間に登録を怠った者は、病気のための欠席の例外を除き、永久に権利を奪われる。」
1939年になって、連邦最高裁判所はLane v. Wilson, 307 U.S. 268 (1939)により、この1916年オクラホマ州選挙法の祖父条項も第15修正に違反すると判決する。しかし、こうしたいたちごっこにより、せっかくの違憲判決の効力は削がれ続けたのである。
三 アダムズ対タナー事件
Adams
v. Tanner, 244 U.S. 590 (1917) 事件は、有料職業紹介事業に対する規制を違憲とした、典型的なロックナー時代判決である。
(一) 背景となる事実
民間職業紹介所には後述する大きな問題がある。そこで、1914年以前の15年間に、民間職業紹介所を規制しようとする試みが広範囲で行われていた。すなわち、24州は,法律により直接的に規制しようとした。それらの多くは地方自治体条例によって補完されていた。19州では州立の職業紹介所を作ることで、間接的に規制しようとした。7州では地方自治体による職業紹介所を作ることで間接規制をしようとした。その他、ボランティア等による無料の職業紹介所を作る試みもあった。しかし、こうした試みはいずれも不成功に終わった。民間職業紹介所は,そうした無料の職業紹介所が存在しても、しぶとく生き残ったのである。
1914年に公共職業事務所全米会議はその年次総会で、米国内で活動しているすべての民間職業紹介所を可能な限り速やかに撤廃することが好ましいとし、連邦議会連邦産業関係委員会(United States
Commission on Industrial Relations)及び諸州の立法機関に対し、その廃止を考慮するよう勧告する旨決議した。これに応えて、連邦産業関連委員会は、議会に対し、次の様に述べて民間職業紹介所の廃止勧告をした。
「規制を行う事により、民間職業紹介所による悪行を除去する試みが31州で行われているが、少数の例外を除いて、それはむなしいものである。ほとんどの場合、その業務における誠実さをより高い水準に向上させるために努力しているが、その制度それ自体が内包している害悪を除去できないでいる。州や市が監察官や苦情処理官のために多額の費用を投じている場合には、民間職業紹介所の活動にはかなりの改善がみられたが、この規制を担当している係官のほとんどは、こうした害悪はこの『ビジネスの本質』であり、問題を完全に排除することは決してできないと証言している。したがって、彼らは民間職業紹介所の全廃を適当であるとしている。また、これは労働者間で一般的な意見であり、いくつかの州では、試みはすでに法律でこれを達成するためになされている。」
こうした情況の中で、ワシントン州ではまず間接的な規制策を実施した。すなわち、地方自治体レベルにおける職業紹介所は、シアトルで1894年に市憲章を改正して設置された。同様に、タコマでは1904年に、スポケーンでは1905年に、そしてエヴァレットでは1908年にそれぞれ設置された。こうした公共職業紹介所の増加は、しかし他州同様に、民間職業紹介所を抑制する効果を示さなかった。逆にスポケーンでは、民間職業紹介所の紹介料が1ドルから2ドルに値上がりしたほどである。根本的な問題は、産業革命に伴う慢性的な失業の増加の前に、公共職業紹介所が十分な職を提供できない点にあった。
そこで、ワシントン州では、職業紹介所法*[12]を定め、その中で、 民間の職業紹介所が,人びとから手数料を徴収することを禁じ、それに違反した場合には100ドル以下の罰金か30日以下の拘留に処するとした。同法案は1914年に住民投票に掛けられ、162,054票対144,544票で可決成立した。
それに対し、スポケーン市で民間職業紹介所を所有するアダムズ(Joe Adams)等が、ワシントン州司法長官のタナー(W. V. Tanner)等を相手取って、同法は第14修正の定める適正手続き条項に違反し、その財産を侵害しているとして訴えた。
(二) 法廷意見
判決は、5対4の僅差で、同法を第14修正の定める適正手続きに違反し、違憲と判決した。判決文はマクレイノルズ(James C. McReynolds)判事が執筆し、結論として次の様に述べた。
「人が誠実な生計を営むための職業を見つけるために有償で代理を務める行為には、なんら本質的に不道徳な点も、そして公共の福祉に危険なものでも無い。それどころか、そのようなサービスは、有用であり、賞賛すべきものであり、そして大いに需要がある。」
(三) 反対意見
この事件で反対意見を述べたのは、マッケンナ(Joseph McKenna)、ホームズ、ブランダイス(Louis Brandeis)*[13]及びクラーク(John H. Clarke)の各判事である。反対意見は、ブランダイスが執筆し、他の3判事はこれに同意している。
この立法は,ワシントン州が単独で行ったものでは無く、連邦労働省(US Labor Department)の支援の下に行ったものであった。ブランダイスは、1912年に連邦議会連邦産業関係委員会へ提出された報告書を引用して次の様に述べている。
「有料の民間職業紹介所は、今日、全米のあらゆる都市に,あらゆる規模で存在している。その業務の性質は、可能な限り不道徳なものである。その利用者である男女はほとんどの場合、ほんの1〜2ドルを持つだけであり、それ以上稼ぐ機会を求めている。彼らはたいてい知的では無く、容易に騙される。これら紹介所が,そうした求職者をいかに騙したかという話はありふれている。これら紹介所が騙すのに使っているもっとも普通の方法は次の様なものである。第一は、料金は徴収するが、申請者に職を探す努力をしない。第二は、申請者に存在しない職を通知する。第三は、申請者に実際には何の仕事も無いか、満足な仕事のない遠隔地を通知するので、申請者は苦情を言うために戻ることができない。第四は、紹介所と使用者の馴れ合いで、申請者にはほんの数日の労働だけを与え、新しい労働者から新規に料金を徴収し、紹介者と使用者の間でその料金を山分けする。第五は、法外な手数料を徴収し、そのような手数料を支払った申請者にだけそれに見合う職を提供する。その他、職業紹介所が行う害悪としては、人びとを集めて博打その他の悪弊に誘導することである。時として紹介所の職員はそのためのサロンを施設内に設置している。〈中略〉
まじめに仕事をしようとしている多数の民間職業紹介所があるが、しかし、彼らは例外であり、規格外である。この仕事は詐欺の悪臭に満ちており、目に余るあらゆる種類の虐待が行われている。料金はしばしば提供される職の全額となっている。」
ブランダイスによる民間職業紹介所の弊害に関する記述はまだまだ続くが、以下は省略する。とにかく、その実態が、マクレイノルズ判事のいうような、賞賛すべきもので無かったことは確かである。ブランダイスは、弁護士時代、法のロビン・フッドと綽名されるほどに経済的弱者のために、報酬も求めずに戦った人だが、この記述にはそうした彼の態度が顕著に表れている。結論として彼は次の様に述べた。
「事実に照らすならば、マグナカルタが調印された日から今日に至るまで、法構造の改革は、たびたび行われてきており、それが今後は行われないと仮定することは不可能であり、法はそれ自身を社会の新しい条件、特に使用者と被用者の新しい関係が生じるにつれて、それに適応するよう強制されるのである。」
ブランダイスは、こう述べて、法廷意見の依拠している古い法的正義(レッセ・フェール)を正面から否定したのである。
(四) その後
ILOは2号条約で無料の公共職業紹介所を要求していたが、1933年に、34号条約として有料職業紹介所に関する条約(Fee-Charging Employment Agencies
Convention (No.34))を制定し、その原則禁止を定めた。前述の通り翌1934年に米国は、国際連盟非加盟のままでILOに加盟した。
連邦最高裁判所自身が判例を変更したのは、それより若干早く1928年のIn Ribnik v. McBride, 277 U.S.
350 (1928)事件においてである。この事件では、本件と同様の内容のニュージャージー州法が問題となり、ブランダイスの反対意見を連邦最高裁判所は全面的に支持したのである。
四 ハマー対ディゲンハート事件
Hammer
v. Dagenhart, 247 U.S. 251 (1918) 事件は、児童の就業規制を違憲とした。
(一) 事件の背景
産業革命に伴い、必然的に発生する問題が、児童の酷使である。生産の機械化は、それまでの生産の中心的担い手であった熟練工を不要とした。その結果、使用者は、それまで徒弟として熟練工を補佐していた低賃金の児童のみを雇用し、彼らを長時間酷使することで、利潤の最大化を図ろうとするのである。その事は、日本では女工哀史という形で現れ、わが国現行憲法27条3項は「児童はこれを酷使してはならない」と明記している。
米国においても、児童が産業で酷使される情況は日本と一緒であった。個々の州内の工場における労働時間等の規制は、州法でなければ行う事はできない。しかし、州で規制法を制定することは、様々な理由から、当時は困難であった。
連邦議会は、そこで、州際通商条項を活用し、児童を酷使して生産した製品を、州境を超えて流通させるのを禁じるという間接的な手段により、児童労働の規制を行うことを工夫した。それが1916年児童労働法(Child Labor Act of 1916)である*[14]。同法は14歳未満の児童が雇用されていたり、14歳以上16歳未満の児童が1日8時間以上若しくは1週6日以上労働していたり、午後7時過ぎに、ないし午前6時前に就労している工場の製品の州境を超えた流通を禁止した。
ディゲンハート(Roland Dagenhart)はノースカロライナ州シャーロットの精綿工場に、その二人の息子(一人は14歳未満、一人は14歳以上16歳未満)と共に雇用されていたが、この法律は違憲であると訴えた。連邦地方裁判所は、同法が違憲であると判決したので、連邦地方検事のハマー(W. C. Hammer)が、連邦最高裁に上告した。
ディゲンハートの提起した論点は三つあった。第一に、これは州際通商の規制対象となる問題では無い、ということである。第二に、第10修正に違反している、ということである。第三に第5修正に違反している、ということである。
(二) 判決の内容
この事件においても、連邦最高裁判所は、5対4の僅差で、1916年児童労働法を違憲と判決した。判決を執筆したディ判事は、結論として次の様に述べた。
「我々の見るところ、通常の商品の州際取引に伴う移送を禁じるという方法に依って生ずる本法に必要な効果は、各州内における工場や鉱山での児童労働時間を規制するというものであり、純然たる州の権限である。したがって、本法は二重の意味で、憲法に違反している。すなわちこれは、議会に委任された商業上の権限を踰越しているばかりでなく、連邦政府の権限を拡張することが許されない純粋たる地域の問題に、権限を及ぼしている。」
こうして、連邦議会は児童によって生産された商品の流通を規制する権限を持たず、従って1916年児童労働法は違憲であるとした。
(三) 反対意見
この事件で反対意見は、ホームズが執筆し、マッケンナ、ブランダイス及びクラーク判事がこれに同意している。
ホームズはこの事件に関する単純な疑問は、連邦議会が、児童労働法の定めているような規制を行う権限があるか否かである、と述べ、法廷意見には基本的に同意するとした上で、次の様にいう。
「しかし、もし法律が、連邦議会に授与された権限の範囲にあるとしたならば、間接的な効果があるとしても、それにより合憲性が阻害されることにはならない。しかし、明白なことは、そうした間接的効果はあるものであり、そうした間接的効果の故に無効とする自由を我々は持たない。」
その上で、今日では、連邦議会が州際通商を規制する権限自体はもはや疑いを入れないとした上で、間接的な効力の故に,本来は合憲な規制が違憲になる事はあり得ない、と論じるのである。
(四) その後
この最高裁判所判決で同法が無効になったので、連邦議会では、1919年2月に今度は児童労働で生産された商品には10%の課税を行うという法律を成立させた(Child Labor Tax Law of 1919)。その事件が最高裁判所に上告されたのは,タフト・コートの時代になってからであるが、やはり違憲とされた(Bailey v. Drexel
Furniture Co., 259 U.S. 20 (1922)) 。その判決はタフト自身が執筆し、ホームズやブランダイスなども賛同して、反対意見はクラーク判事1人であった。タフトが述べたことは、この児童労働税は罰金であって課税では無く、さらに同法は租税法では無く、事業の規制法だという点であった。
こうして児童労働を防止するための二つの法律が挫折したことから、連邦議会は、今度は児童労働を規制する憲法改正を企てた。しかし、必要期限内に必要数の州の批准が得られず、これも挫折した。しかし、多くの州では児童労働法を州法として制定するようになったので、結果として見れば、憲法改正が成功したのと同じような効果を、ある程度まで発揮した。
なお、ILOは、児童の酷使に対しては大変早い時点から防止努力をしてきた。すなわち、1919年の最低年齢(工業)条約(第5号)*[15]、1919年の年少者夜業(工業)条約(第6号)*[16]、1921年の最低年齢(農業)条約(第10号)*[17]、1921年の児童及年少者夜業(農業)勧告(第14号)*[18]、1921年の最低年齢(石炭夫及火夫)条約(第15号)*[19]が、この前後の時期に制定されている。いずれも、今日の感覚を基準とすれば、非常識なほどの長時間労働を許容しているが、当時においては、これでさえも使用者の権利の大幅制限だったのである。しかし、先に述べたとおり、米国は1934年までILOに加盟しなかったので、これらの条約は、当初は、米国の児童労働の抑圧としては機能しなかった。
1934年に米国がILO に加盟したことから事態が動き、1938年、連邦議会は公正労働基準法(Fair Labor Standards
Act)を制定し、その212条で「抑圧的児童労働」で生産された商品の州際流通を禁止した。連邦最高裁判所は、1941年にUnited States v. Darby Lumber
Co., 312 U.S. 100 (1941) によって、ディゲンハート事件判決を、1人の反対意見も無く変更し、同法を合憲とした。同判決は,ディゲンハート事件におけるホームズの少数意見を全面的に支持し、それを自明の理であるとした。
五 バンティング対オレゴン州事件
このBunting
v. Oregon, 243 U.S. 426 (1917)事件はオレゴン州法が、労働時間の制限と超過勤務に対する超勤手当の支給を定めたところ、その合憲性が問題にされた事件である。この事件では、ロックナー時代にも拘わらず、規制立法に合憲判断が下った。
(一) 事件の背景
1913年に制定された問題のオレゴン州法は、次の様に定めていた。
「何人も、いかなる製粉所、工場その他の製造設備においても、必要な修理を行うことに従事する従業員と警備員を除き、または生命や財産に差し迫った危険にさらされている緊急の場合を除き、いかなる日においても1日10時間以上の労働を行う条件で雇用されてはならない。ただし、被用者は一日に3時間を超えない残業において正規の賃金の1.5倍の割合で手当を支払うという条件で働くことができる。」
同法違反の行為は軽犯罪を構成するとされていた。バンティング(Franklin O. Bunting)は、製粉工場において、被用者を一日に13時間労働させ、しかも超勤手当を支払っていなかったため,起訴され、50ドルの罰金を科せられた。そこで、バンティングは、同法は第14修正に違反しているとして上告した。
(二) 法廷意見
この事件では、いつもはホワイト等と同調して行動しているディ判事やピトニィ判事が,ホームズ等と共に同法を合憲と判断した結果、珍しく合憲判決が出ている。
法廷意見はマッケンナが執筆した。マッケンナは第一に、1日10時間労働は世界の平均的なものだとした。すなわち立法府が依拠した統計に依れば、一日の労働時間はオーストラリア8時間、英国9時間、米国9時間45分、デンマーク9時間45分、ノルウェー10時間、スウェーデン、フランス、スイスでは10時間30分、ドイツでは、10時間15分、ベルギー、イタリア、オーストリアでは11時間、ロシアでは12時間となっている、として、不当に短く労働時間を設定しているという主張を退けた。
上告人の主張は、問題の法律は、立法府の恣意以外の理由無しに、製粉所や工場、製造所を差別し、市場価値の1.5倍の対価で商品、すなわち労働を購入しなければならないのに、他の人々は、公開市場で通常価格で労働を購入できるので、不利な立場に置かれることであった。これに対しては、法律は賃金ではなく、サービスの時間を調節しているので、その主張には理由が無い、として退けた。
六 シェンク対合衆国事件
このSchenck
v. United States, 249 U.S. 47 (1919)事件は、第一次大戦という異常環境下において、「明白かつ現在の危険」テスト(“clear and present
danger” test)を確立した有名な判決である。
(一) 事件の概要
1 徴兵制度
1917年5月、アメリカ議会は、選抜徴兵法(Selective Service Act of 1917)を可決し、ウィルソン大統領が署名して成立した。これに対し、第13修正の意に反する苦役条項ないし第14修正の適正手続条項に違反すると主張する多数の違憲訴訟が提起された*[20]。しかし、連邦最高裁は1918年1月7日、全員一致で、選抜徴兵制の合憲を宣言した。代表例としてArver v. United
States, 245 U.S. 366 (1918)を紹介すれば、合衆国憲法1条8節15項の定める民兵条項*[21]や、それ以来の合衆国を守るための様々な戦いの歴史を述べた上で、最後に次の様に述べて、選抜徴兵法は第13修正に違反しないと判決した。
「結論として、我々は人民の偉大な代表機関が宣言した戦争に起因して生じる、国家の防衛に寄与するという市民の権利と名誉という崇高にして高貴な義務の遂行を、第13修正の禁止に違反する意に反する苦役であり、政府による強制とするいかなる理論も想像できず、我々は、その主張は、単にその文言に基づいて論破されているという結論に至らざるを得ない。」
2 防諜法
防諜法は、米国が第1次世界大戦に参戦した直後、1917年6月に発効した法律で、その後、多くの改正をされてきたが今日も有効である。
同法の最初の改正は1918年5月に行われた「扇動法(The Sedition Act of 1918)」と呼ばれる法律によるもので、合衆国政府、国旗ないし軍隊に対して「不忠誠、不敬、下品ないし誹謗的言語(disloyal, profane,
scurrilous, or abusive language)」を用いることに対し、5年〜20年の刑を科するとしていた。同法は、また、そうした文書の郵送を禁じ、郵便局長に対し処罰されるべき内容の郵便物の配達を拒絶する権限を与えていた。同法は、大戦中に限っての時限立法で、1920年12月13日には廃止された。
3 シェンク事件
米国社会党
(Socialist Party of
America)は、1901年に設立された。同党は、第一次大戦中、戦争に反対する方針を打ち出し、党総書記であるシェンク(Charles Schenck)は、徴兵資格のある者に向けて15,000枚のリーフレットを印刷・配布し、徴兵制度への反対を訴えた。このリーフレットは、基本的に兵役は、第13修正の禁止する意に反する苦役に該当するとの見地から、「脅迫に屈するな」「貴方の権利を主張せよ」「もし貴方が権利を主張し支持しなければ、合衆国の全ての市民と住民が保持する厳粛な義務である権利を否定し、軽んじることに手を貸していることになる」と呼びかける声明が入っていた。
これが合衆国の徴兵業務を妨害した点及び郵送を禁じられている文書を郵送した点において、防諜法に違反するとして起訴された。これに対し、シェンクは、防諜法が第1修正の保障する表現の自由を侵害していると主張して争った。
(二) 判決の内容
判決は全会一致で下された。ホームズ判事が執筆した。
「我々は、多くの場所で、そして通常の時であれば、被告人が回状で主張することは、彼の憲法上の権利に含まれるものであることを承認する。しかし、すべての行為の性格は、それが行われる事情に依存する(判例引用略)。言論の自由をもっとも厳格に保護したとしても、劇場内で偽って火事だと叫んでパニックをひきおこすような人を保護しないだろう。それは、あらゆる強制力ある差し止め命令に違反して発言する人を保護することもない(判例引用略)。問題は、使用される言葉が、議会が防止する権限を有する実質的害悪をもたらす明白かつ現在の危険(clear and present
danger)をつくり出すような状態で述べられたかどうか、かつそのような性質のものであるかどうかである。それは近接と程度の問題(question of proximity
and degree)である。」
その上で、その劇場内で偽って火事と叫ぶのに比すべき状況として、第一次世界大戦という総力戦の最中であるということを指摘し、次の様に述べる。
「国家は、戦時においては、平和時と異なり、その戦争のための努力を妨害されることに耐えられないので、人が戦っている限り、いかなる法廷もあらゆる憲法上の権利が保護されると言うことはできない。」
(三) その後
9対0という判決の結果としてシェンクは監獄に6ヶ月間収監された。
明白かつ現在の危険テストは、この後、様々な紆余曲折を経ながらも長期にわたって絶対的なものとして維持され、それに対する疑問の提起は、ウォーレンコートにおけるBrandenburg v. Ohio,
395 U.S. 444まで待たねばならない。
七 バルザック対プエルトリコ事件
ここからはタフト・コートの判例である。
プエルトリコ島は、カリブ海で、イスパニョーラ島(現在、ハイチ共和国及びドミニカ共和国に分かれている)の東方に浮かぶ島である。スペインの植民地であったが、1898年4月に勃発した米西戦争で米軍に占領され、その戦争を終結させたパリ条約により米国の領土となった。1900年にフォラカー法 (Foraker Act)が制定され、プエルトリコに自治政府設立と一定の自治権を認めた。しかし、米国連邦法のすべてがこの島にも適用されるとしつつ、島民はプエルトリコの市民権を持つが、これは米国市民権とは異なるとされるなどの差別規定が設けられた。
その後、1917年に制定されたジョーンズ法(Jones Act)によって島民は米国市民権を得たが、合衆国大統領選挙への選挙権は、依然として与えられなかった。制定時期で判るとおり、ジョーンズ法は島民を徴兵の対象とするための手段であり、第一次世界大戦では二万人のプエルトリコ人が徴兵され、米軍兵士として戦った。
つまり、この時代には,プエルトリコは米国領土であり、その住民は米国市民ではあるが、連邦に編入されていないという奇妙な地位にあったのである。この結果、プエルトリコの他、フィリピンやグアム島など、米西戦争の結果、米国が新たに獲得した島々の住民には、どの範囲で合衆国憲法が適用になるかが問題になった。De Lima v. Bidwell,
182 U.S. 1 (1901) 事件判決を嚆矢とした一連の島嶼事件(Insular Cases)と呼ばれる判例において、連邦最高裁判所は、合衆国憲法中の特定条項は、連邦に編入されていない地域には適用にならないと判決し続けた。このBalzac v. Porto Rico,
258 U.S. 298 (1922)事件は、そうした島嶼事件判例の締めくくりとも言うべきものである。
(一) 事件の背景
バルザック(Jesus M. Balzac)はプエルトリコで発行される新聞El Baluarte(堡塁)の編集者であった。彼は、同紙に書いた記事の中でその当時の植民地知事であったイェーガー(Arthur Yager)に間接的に言及した。これが当局によりイェーガーに対する名誉毀損になるとして判断されて起訴された。プエルトリコの刑法は軽犯罪に関しては陪審を保障していなかった。そこで、バルザックは、ジョーンズ法により米国市民として認められているにも拘わらず、陪審裁判を受ける権利を保障した第6修正に基づく彼の権利が侵害されたと主張して争った。プエルトリコ最高裁判所は、権利章典の規定は、ジョーンズ法の成立後であってもプエルトリコには適用できないと判示して、彼の主張を退けた。そこで彼は連邦最高裁判所に上告した。
(二) 法廷意見
連邦最高裁判所は全判事の一致により,訴えを退けた。判決はタフト長官自身が申し渡した。タフトの判決文を要約すると、次のとおりである。
1898年の米西戦争終結後、プエルトリコは米国の統治下にあるが、その領域は州としての地位を有してはおらず、連邦議会は合衆国憲法のどの条項が適用になるかを決定する権限を有する。一部の憲法条項は、市民権に基づいてでは無く、その所在地に基づいて適用される。プエルトリコは、米国に占領される以前、400年以上にわたってスペイン法の下にあったので、その住民は陪審裁判になじんでいない。その結果、地方政府は、自らの法を決定しなければならない。
「議会は、フィリピン人やプエルトリコ人のような、陪審制度を持たない司法制度の下で、簡素で昔ながらの社会に暮らし、明確に自らの習慣と政治概念を持つ人びとは、どの程度まで、そして何時、アングロサクソン流の制度を適用したいと考えるかを自ら決定することを許容されなければならない。〈中略〉憲法中の基本的な人権に対する保障、例えば何人も、法の適正な過程によらずに、生命、自由または財産を奪われることはないという保障は、あらゆるフィリピン人やプエルトリコ人に完全に適用になる。そして、我々の司法制度でもっとも実り豊かなこの条項は、当然にプエルトリコにおける同様の争訟に適用になる。」
(三) その後
この判決により、島嶼事件に関しては、必ずしも合衆国憲法の人権条項が適用にならないことが完全に確定した。ただし、裁判所はこの判決中で、人権を、基本的なものとそうでないものとに分けたが、何が基本的人権としてプエルトリコ人にも適用になるかについては明確にしなかった。その結果、米国の海外植民地における人権は、極めて流動的な状態に置かれることになった。
プエルトリコでは1930年代以降、独立運動が激化し、島内の様々な町で蜂起や反乱事件が続いた。こうした事態を重く見た連邦政府は1952年には米国のコモンウェルスとして内政自治権を付与し、今日に至っている。
1979年に、バーガー・コートにおいて、トレス(Torres v. Puerto
Rico, 442 U.S. 465 (1979))事件判決が下された。この事件は、プエルトリコ政府が1975年に、プエルトリコ警察に米本土から来る者の荷物を検査する権限を与えた法律を制定したことが問題となった。トレス(Terry Torres)はフロリダ州の住民であるが、マイアミから空路プエルトリコの首都サン・フアンに降り立った際、トレスの挙動に不審な点があるとして警察が荷物を検査した結果、1オンスのマリファナと25万ドルの現金を所持しているのが発見され、3年間の懲役が宣告された。
トレスは、プエルトリコ法は、第14修正の定める適正手続きに違反して無効であると主張してプエルトリコ最高裁判所に上告したが、同裁判所は上告を退け、下級審判決が確定した。そこで、トレスはさらに連邦最高裁判所に上告した。連邦最高裁判所は、プエルトリコ法を第4修正に違反し、違憲と判決した。判決文の中で、バーガー長官は第4修正が直接適用になるのか第14修正を通して適用になるのか明確にしなかったが、ブレナン(William J. Brennan)判事は補足意見中で、島嶼事件判例は、1970年代には既に時代錯誤なものとなっていると述べた。
八 アトキンス対児童病院事件
このAdkins
v. Children's Hospital, 261 U.S. 525 (1923)は、女性及び年少労働者に限定して最低賃金を定める法律を違憲としたもので、ロックナー時代の典型判決の一つである。
(一) 事件の背景
1918年、連邦議会は、ワシントンD.C.における女性及び子供の最低賃金を定める法律を制定した。同法は、使用者、被用者及び公益代表の3人からなるワシントンD.C.最低賃金委員会 (the Minimum Wage
Board of the District of Columbia)を設置した。
同法は、委員会に「(1)ワシントンD.C.内の雇用場所の相違に応じ、女性及び年少者の賃金を査察し、(2)女性及び年少者である被用者の賃金問題に何らかの形で属するか、関係するあらゆる書類、支払い帳、ないし記録を委員会委員ないしその代理人が調査し、(3)雇用者にその雇用する女性及び年少者に対して支払われた賃金の完全かつ真実の記録を要求する」権限を与えていた。
それに基づき、委員会に「(a)ワシントンD.C.内の任意の職場における女性のための最低賃金の標準、及びそれを下回る賃金は、そのような女性労働者に、良好な健康状態を維持し、その道徳を守るために生活に必要な費用を供給するには不十分であること。(b)ワシントンD.C.内の任意の職場における年少者のための最低賃金の標準、及びそれを下回る賃金が年少労働者に不合理に低額であること」を定める権限を与えていた。
そして、上記標準を下回る賃金しか支払われていない場合には、委員会に雇用者及び被用者の代表からなる会議を招集し、その賃金が妥当なものかどうか勧告させる権限を与えていた。勧告を受けて委員会は適正賃金額を決定する。その決定に対しては当事者に異議申し立て権がある。最終的に決定された賃金を支払わない場合には,軽犯罪として罰金または拘留に処せられた。
(二) 事件の内容
最高裁判所に上告された事件は二つあって、一括して判決が下されたが、ここでは、便宜上児童病院についてのみ紹介する。上告人は、ワシントンD.C.の子どもたちのために病院を経営する企業であった。同病院は、様々な職種に極めて多数の女性を雇用しており、彼女たちは病院と賃金や手当が十分なものであることに合意していたが、いくつかの職種では,同法に基づき委員会の制定した規則に定められた最低賃金未満になっていた。同病院が雇用している女性はすべて成年で、何ら法的無能力状態には無かった。そこで、同法が第5修正の保障する適正手続きに違反しているかどうかが問題となった。
こうした理由から、児童病院は、委員会を構成するアトキンス(Jesse C. Adkins)その他の委員を被告として訴えを提起した。
(三) 法廷意見
この事件では、ブランダイスは審理に加わっておらず、8人の判事により審理された。評決は5対3で、同法を違憲と判決した。判決はサザランド(George Sutherland)判事が執筆した。サザランド判事の判決は、ミュラー対オレゴン州事件*[22]及びバンティング対オレゴン州事件、ロックナー事件を前例として引用している。
サザランドは、このミュラー事件は、女性の労働時間の上限を定めたものであるのに対し、本件法律は最低賃金を問題にしているとして、先例性を否定した。最長労働時間については,本件法律とは異なり、賃金とは無関係に交渉することが可能である。さらに最低賃金は、人為的に雇用者の側だけを制約している。もし、立法者が最低賃金法を定めることが許されるならば、彼らは最高賃金法を定めることも許されるはずであるとした。
さらにサザランドは、ミュラー判決以降の大きな客観情勢の変更点として、憲法第19修正の存在を指摘している。彼はミュラー事件等では、男性と女性のための特別な保護を正当化するような女性との違いを強調していたと指摘している。第19修正によって生じた女性の契約上、政治上の、そして、市民の地位の変更は、そうした男女差がほとんど消滅していることを示しているとした。
こうしてミュラー事件の先例性を否定し、ロックナー事件に従って、同法を違憲としたのである。
(四) 反対意見
タフト長官、ホームズ及びサンフォード(Edward T. Sanford)両判事は反対意見を執筆した。ここでは、普段はロックナー時代判決の支持者であるタフトが、どのように反対意見を述べたのかを見ておこう。タフトは、最低賃金法と最長労働時間制限法には、両者が共に契約に制約を加えているという点において、なんら法的差異はないとする。そして、彼はロックナー事件の先例性はミュラー事件及びバンティング事件によって覆されていると主張している。
(五) その後
この判例は、その後、ウェストコーストホテル事件(West Coast Hotel Co. v. Parrish,
300 U.S. 379 (1937) )によって覆されることになる。通常、このウェストコーストホテル事件判決が、ロックナー時代の終わりを告げる判決とされる。
九 シカゴ市商品取引所対オルセン事件
このBoard
of Trade of City of Chicago v. Olsen, 262 U.S. 1 (1923)は、その前年、1922年
に下されたヒル対ウォーレス(Hill v. Wallace, 259 U.S. 44 (1922))事件判決を事実上覆した判決である。この二つの判決は、いずれもシカゴ商品取引所における穀物先物取引に課税する二つの法律の合憲性が問題となった事件である。
(一) ヒル対ウォーレス事件
この事件では、穀物の先物契約(Future Contract)*[23]に対し,課税を行うことを定めた先物取引法(Future Trading Act of
1921)*[24]の合憲性が問題となった。この当時、小麦は1ブッシェル*[25]あたり1ドル以下で取引されていたが、先物取引法は、先物取引される穀物1ブッシェルあたり20セントの課税を行う事を定めていた。ただし、シカゴ市商品取引所会員の場合には課税対象外とされた。したがって、この課税は事実上、シカゴ市商品取引所会員以外の者による取引を禁止する機能を果たしていた。
ここから、連邦最高裁判所は全会一致で、これは課税では無く、罰金であるとした。そしてこの罰金で、(1)証券取引所のメンバーになることを適正手続きに依らずに強制しており、これは法の適正手続きによらずに個人の財産を奪う行為であって、第5修正に違反し、(2)それは、外国ないし州際通商ではなく、完全にイリノイ州内部の穀物取引を規制している点で、州際通商規制権限を逸脱しており、(3)イリノイ州の権利を侵害している点において第1修正に違反しているとしたのである。
(二) 事件の背景
先物取引法に対する違憲判決からわずか2週間後に、連邦議会は穀物先物法(Grain Futures Act)を成立させた。連邦議会は、前法に対して違憲判決が下ったのは、前法の段階では先物取引の機能を連邦最高裁判所が正確に理解していなかったことに原因があると考えたらしく、この法律では実際の機能について詳しく説明を盛り込んでいる。
判決文からその要点を紹介すると、シカゴ商品取引所は1859年に制定されたイリノイ州法によって設立された機関で、1600人の会員がおり、理事会は18名で構成され、理事のうち一名が総裁(president)である。取引所法の定めるところにより、商品交換所そのものは、穀物の売り買いをすることは無く、商品の交換を仲介する事務所であるに過ぎない。その会員は州際取引に従事しているが、取引所自体としては、いかなる意味でも州際取引機関ではない。ただし、通常の業務時間中に、取引場内において、現金あるいは先物取引でその初値を付け、あるいは価格の変更を行い、そうした価格情報を、電報会社を通じて会員等に伝達する業務を行っている。
同じく、商品取引所は、会員の入会金2万5000ドルと年会費によって維持されている。年会費は、毎年度、その業績評価に応じて変動する。取引所はこれらの資金を蓄積し、それによって取引場の為の巨大な施設と事務所を運営している。
同法は、先物契約に関わる一切の取引は、取引所理事会の定める規則に従い、シカゴにあるイリノイ州から公共倉庫業務を行う許可を得ている計1300万ブッシェルの容量を有する12の倉庫から発行された穀物倉庫領収書を交付することによってのみ行うことが可能なこと、穀物は他者の所有に属する穀物と混合保管されているので、領収書保有者は領収書が発行されたときに保管されている穀物を取得したのではないこと、等を定めている。
先物取引の大半は、穀物商人、製粉業者などによって穀物の価格変動に対して自身を守ることを目的として行われ、その販売、出荷、または製造のための出荷と相殺取引することで決済される。しかし、同法の述べるところによれば、先物取引の別の大きな部分は、価格に影響を与える市場環境を研究し、将来価格を予想して財産上の利益を得ようと試みる、いわゆる投機家によって行われている。そのような投機家の一部は市場に有意的な影響を与えられるほどの資本を持ち、大規模な単一の購入を行う。国内の先物取引の7分の6はシカゴで行われているが、過去15年間、同取引交換所規則の強制及びシャーマン反トラスト法の効果により買い占めは実行されていないこと等を述べている。
この法律でも、交換所の会員で無いものや、現物を有しない者の取引には、1921年先物取引法と同様に、やはり1ブッシェルあたり20セントの課税を行っていた。
(三) 法廷意見
連邦最高裁判所は、8対2で同法を合憲とした。法廷意見はタフトが執筆した。
その要点を紹介すると、
@
穀物先物法は、州際取引に対する規制であるので、先物取引を課税権の行使により規制することは合憲ではないとするヒル対ウォーレス判決の効力は及ばない。
A
すなわち、穀物の流通経路は、まずシカゴ市場に他州から搬入され、暫定的に保管され、シカゴ商品取引所で売却され、再びその大半は他州ないし外国に搬出されるので、これは連邦議会の有する州際取引事項である。
B
穀物が西部諸州から東部諸州に搬送され、その過程でシカゴにおいて、それを保管し、検査し、計量し、等級付けし、混合し、所有者・荷受人若しくは方向を変更し、しかる後に同一契約、同一料率の下に搬出されることは、シカゴにある間に地方が課税を行う事を妨げるものでは無いので、連邦議会が権限を有する州際取引規制権の外にあるとする必要は無い。
(四) その後
1936年に同法は、穀物以外の先物取引も対象とした商品取引法(Commodity Exchange
Act )に改正された。さらに1974年に商品先物取引委員会(Commodity Futures Trading
Commission)が設置された。1982年には業界の自治機関である全米先物協会(National Futures
Association)が設置された。
一○ キャロル対合衆国事件
このCarroll
v. United States, 267 U.S. 132 (1925) は、警察が、令状無しに自動車の捜索を行うことの合憲性が第4修正との関係で問題となった事件である。
(一) 事件の内容
連邦覆面捜査官は、密造酒取扱業者であるキャロル(George Carroll)を騙して酒を買う契約を結んだが、酒を受領できなかった。捜査官はその後に、定期パトロールの途上、キャロルとキロ(John Kiro)がハイウェイで車を走らせているのを発見した。捜査官はこれを追跡した。そして、令状無しに、キャロルの自動車を捜索した結果、後部座席の後ろに違法な酒が隠匿されているのを発見し、禁酒法違反で起訴した。
令状無しに捜索したのは、全国禁酒法が次の様に定めていたからである。
「26条:禁酒法委員、助力者、捜査官その他の官憲が、法に違反して、酒を何らかのワゴン、バギー、自動車、船舶、航空機その他の乗り物で輸送しているところを発見した場合には、法律に反して輸送されているすべての酒を発見することは、その義務である。不法に酒を輸送し、または所有していた場合には何時でも官憲によって押収される。官憲は、自動車、ボート、船、航空機その他いかなる手段を問わず搬送に使用される物を押収し、その任に当たっていた者を逮捕しなければならない。」
そこで、キャロル達は、禁酒法が令状に依らない逮捕・捜索を禁じた第4修正に違反していると、連邦最高裁に上告した。
(二) 法廷意見
連邦最高裁は8対2で,禁酒法の同条項を合憲とした。法廷意見はタフトが執筆した。
裁判所は、禁酒法が建物と自動車等の乗り物を区別して、令状の有無を定めている点に注目した。すなわち、同法25条は、酒の違法な販売のために使用されている民間住居(private dwelling)に限り、捜索令状の発行を認めていた。この違いは、自動車等は速やかに捜査官の管轄区域の外に移動することができるため、そのような状況下では,捜索令状の発給を強制するのは実用的ではないとしたのである。同時にタフトは、その権限の限界を次の様に述べた。
「禁酒法取締官が,仮に酒を発見するために、ハイウェイを合法的に使用しているあらゆる車両を停止させ、捜索する権限を付与されていると解釈した場合には、それは耐えがたく、又不合理である。〈中略〉仮に官憲が令状なしに自動車を捜索し、または酒を押収し、その後その事実が非難と没収の判決として正当化されない場合には、官憲は、その押収が合理的可能性を有していたことを示すことによって、押収によって与えた損害賠償を免れることができる。その押収の適法性の基準は、捜索官憲が停止し、押収した自動車が違法に酒を輸送していると信じるための合理的な、または可能性のある原因を持たなければならないということである。」
これは、キャロル・ドクトリンとして知られる。
(三) その後
1948年、連邦裁判所はUnited States v. Di Re, 332 U.S.
581, 68 S.Ct. 222, 92 L.Ed. 210 において、明らかに合法的に停車していた車両内の乗客を調べる場合には、このキャロル・ドクトリンを拡大することは拒否した。
キャロル・ドクトリンが争われた最近時の事件として2009年のArizona v. Gant, 556 U.S. 332 (2009)事件がある。
ガント(Rodney J. Gant)は、彼が自分の車を友人宅の裏庭に駐車させ、そこから歩み去った後に、一時停止違反及び運転免許証の不所持で逮捕された。ガントは、その後、パトロールカー内に身柄を拘束された。その状態において警官はガントの車を捜索し、武器及びコカインの袋を見つけたので、ガントを改めて武器及び麻薬の所持で起訴した。
この事件において、連邦最高裁のスティブンス(John Paul Stevens)判事によって述べられた法廷意見によれば、逮捕者が自らの車両に接近できる可能性があると信じられる場合にのみ、警察は令状なしで、その逮捕者の乗っていた自動車を捜索することができるとした。ガント事件の場合には、上述のように、彼の自動車で容疑者が移動するチャンスは無かったので、車両を捜索するには令状が必要なのである。このように、新しい条件が付加されているが、キャロル・ドクトリンは今も有効な基準である。
一一 マイヤーズ対合衆国事件
このMyers
v. United States, 272 U.S. 52 (1926)事件においては、大統領が、上院の助言と承認に基づき任命した合衆国行政府の官僚を、任意に罷免する権力があるかどうかが問題となった。この事件で問題となったのは、合衆国憲法2条2節の次の条項である。
「大統領は、大使その他の外交使節および領事、最高裁判所の裁判官、ならびに、この憲法にその任命に関して特段の規定のない官吏であって、法律によって設置される他のすべての合衆国官吏を指名し、上院の助言と承認を得て、これを任命する。」
(一) 事件の内容
マイヤーズ(Frank S. Myers)は、1917年7月21日に、上院の助言と承認を得てウィルソン大統領によりオレゴン州ポートランド第一級郵便局長に4年の任期で任命された。
1876年連邦法(19 Stat. 80, 81, c. 179 (Comp. St. 7190) )は、次の様に規定していた。
「第一級、第二級及び第三級の郵便局長は大統領が、上院の助言と同意を得て、任命し、及び解任されるものとし、それ以前に法に従い解任若しくは停職されない限り、4年間その職にある。」
1920年1月20日、マイヤーズはウィルソン大統領によって解任された。しかし、上院はマイヤーズの解任にあたり、助言と承認の決議を行っていなかった。そこで、彼は解任を受け入れることを拒んだ。同年2月2日、マイヤーズは、大統領の代理としての郵政長官により、郵便局から排除された。そこで、1921年4月21日、マイヤーズは、大統領には自由な解任権はないとして、解任されてから任期満了までの間の彼の俸給8,838ドル71セントの支払いを求めて訴えを提起した。
(二) 法廷意見
この事件では、最高裁は5対3に分かれた。法廷意見はタフトが書いた。
タフトは、憲法は、職員の任用については明言しているが、その解任については沈黙していると指摘した。タフトの文章は非常に長いものであるが、要点のみを紹介すれば、憲法制定会議の記録を調べたところ、この沈黙は意図的であることが示されたとする。すなわち、制憲会議は幹部職員の解任について議論したが、その結果、行政府の幹部職員は大統領の固有の権力の延長としての存在であるが故に、大統領が幹部職員を罷免する排他的な権力を有することを、憲法は暗黙のうちに承認していると信じられた。したがって、上述した連邦法が、解任にも上院の助言と承認を必要としていると定めていることは、行政および立法部門間の権力分立制に違反するため、同法は、違憲であるとした。
(三) 反対意見
三人の反対意見は、それぞれに興味深いので、簡単に紹介する。
1 ホームズ判事の反対意見
ホームズ判事は、議会の権力には、郵便局長の職を完全に廃止することも含まれていることに注目し、その職の給与と職務を設定することが含まれていることは言うに及ばないとし、彼は、議会はまたその地位にとどまる条件を設定することができることは問題が無いとした。
2 マクレイノルズ判事の反対意見
マクレイノルズ判事は、同様に制憲会議のメンバーの文書の徹底的な分析により、彼は、大統領にすべての任命された官僚を解雇する"無限の権力(illimitable power)"を付与されているとする文言を発見することはできなかったとしている。
3 ブランダイス判事の反対意見
ブランダイス判事は最高裁判所の権力の根本である、マーベリー対マディソン事件の次の言葉を引用して反対している。
「決定の基礎として、大統領は、単独で活動し、上院の同意により、固定的な任期で任命された下位の文官を罷免する権力を持たず、本事件は、以前に既にその様に決定されたものとみなされている。」
一二 合衆国対ゼネラル・エレクトリック社事件
このUnited
States v. General Electric Co., 272 U.S. 476 (1926) は、企業が特許を取得した製品を製造するために競合他社へ、価格拘束等の条件付きでのライセンスを付与した場合の契約が、反トラスト法違反に問われた際の判断を示した判例である。タフトというとこの判例が思い出されるほどに有名な事件である。
合衆国憲法は、その条文で明確に特許権の保護を行っている。すなわち、1条8節8項は、連邦議会の立法事項の一つとして次の様に定めている。
「著作者および発明者に対し、一定期間その著作および発明に関する独占的権利を保障することにより、学術および有益な技芸の進歩を促進する権限。」
これにより、合衆国は特許権を保護する義務を負うと同時に、特許権は、決して特許権者に私的利益を与える制度では無く、第一の目的は「学術および有益な技芸の進歩を促進する」ことにあることも明確にしている。すなわち特許制度は、産業上有益な技術の発明者に対して、一定期間その独占を認め、その期間経過後は、その発明を広く一般に使用させようとするものだからである。その意味で、一般国民の利益を追求しようとする反トラスト制度と本質的には同一の政策である。しかし、現代企業は、その特許権という排他的な権利を、他社との競争回避の合法的手段として利用する場合がある。それにどのように対処するかが問題となる。
(一) 事件の内容
ゼネラル・エレクトリック社(GE)は、タングステン・フィラメントを用いて近代的電灯を作成するためのあらゆる面に関する特許を所有していた。GE社は、白熱電球の製造・販売の市場シェアの69%を占めており、ウェスティングハウス社(WH)は16%を占めていた。GE社は、WH社がGE社の裁量によって決定される価格で販売するという条件の下に、WH社に対し、電球を製造・販売するためのライセンスを提供していた。
連邦政府は、GE社とWH社を反トラスト法違反で起訴した。政府側の主張は大きく二つあるが、憲法問題となるのは、GE社のWH社に対する特許権実施許諾上の販売条件および価格の制限が電灯の取引制限および販先独占の企図という目的を実現するためのものだという点であった。
(二) 法廷意見
全員一致で、政府側の主張を棄却した。判決文はタフトが執筆している。タフトは、まず、特許実施許諾契約上の制限条項一般について次のように述べた。
「特許権者は、特許製品の製造・販売にかかわる実施許諾に、いかなる使用料や条件をそれが特許権により与えられた特許権者の報償を合理的に確保する範囲内にあれば課してもよい」
その理由として、次の様に述べている。
「特許権者は、特許製品の製造に従事しつつ、同製品の製造・使用の実施権を、販売の実施権は留保しつつ、他者に譲与することができる。その場合、特許実施権者はその製品の長所を享受できる。彼はその製品を所有し、使用できる。しかし、彼がその製品を販売すれば、特許権者の権利を侵害することになる。彼は損害賠償を請求され、侵害行為を差止められるだろう。もし特許権者が一歩進んでその製品の販売権をも与えた場合、特許権者は販売条件や価格に制限を付することができるだろうか。我々は、もしその販売条件が、特許権者の独占の金銭的報償を確保するために正常かつ合理的に用いられているならば、そうしてもよいと考える。特許権者の排他的権利の価値的要素のひとつは、特許製品の販売価格設定から収益を得ることである。法外な価格でない限り、価格が高いほど収益も大きくなる。もし、特許権者が他者に製造・販売の実施権を与え、また、自らも同様の権利を留保して、自己のために製造・販売している場合、特許実施権者の特許製品の販売価格は、特許権者自らが販売する同様の製品の販売価格に必ず影響を与えるだろう。特許権者が自己の実施権者に次のようにいうことは全く妥当であると考える。『貴社は我が社の特許を利用して特許製品を製造販売してよろしい。しかし、それは我が社が自ら製造販売して得られる収益を損わない限りにおいてである』と」
要するに、タフトは、GE社のWH社に対する価格拘束を、特許権者の通常で合理的な報償に不可欠であるという論理を展開することによって正当化し、特許実施許諾契約の価格拘束に対しては、反トラスト法は適用にならないとしたのである。
(三) その後
次稿において詳しくは紹介する憲法革命の結果、特許実施許諾契約上の価格拘束条項に対する反トラスト法の適用という問題は、より厳しく審査されるようになった。その結果、この判決は、連邦最高裁判所の一連の判決によって、その適用範囲を限定されて行く。しかし、この判決のリーディングケースとしての先例性は、司法省反トラスト部の精力的な廃棄提唱にもかかわらず、辛くもではあるが、今日も維持されている。
一三 ラム対ライス事件
これまで、米国判例で問題となった人種差別と言えば専ら黒人差別で、若干インディアン差別事件があった程度であった。それに対し、このLum v. Rice, 275 U.S.
78 (1927)事件では、中国人に対する差別が問題になった事件である。
(一) 事件の内容
マーサ・ラム(Martha Lum)は、9歳の中国系米国人である。彼女の住むミシシッピ州ボリバール学区には中国系生徒のための学校はなく、しかもミシシッピ州義務教育法(compulsory attendance
laws)の定めるところにより、彼女は通学を義務づけられていた。それにも関わらず、同学区のローズデール中等学校(Rosedale Consolidated
High School)は、1924年、彼女が中国系であるという理由から入学を拒否した。
下級裁判所は、原告である彼女の父ゴン・ラム(Gong Lum)の請求を認め、学校の理事会に対し、彼女の受け入れを強制する職務執行令状(writ of mandamus)を発行した。
そこで、今度は学校理事長であるライス(Rice)等のが理事会メンバーが、ゴン・ラムを相手取って訴えを提起した。州最高裁判所は,下級審決定を覆し、マーサ・ラムを白人校から除外することを認めた。白人と有色人種の児童を分離した学校を維持することがミシシッピ州憲法の要求するところだからである。そこで、ゴン・ラムは連邦最高裁に上告した。
(二) 法廷意見
連邦最高裁は,全員一致で上告を棄却した。判決はタフトが執筆した。タフトは、プレッシー事件の先例に忠実に従い、次の様に論じた。
「ほとんどの分離教育は、白人生徒と黒人生徒のそれぞれに独立した学校を設立することを介して行われていることは真実である。しかし、我々は、この問題で何らかの差異があるとか、何らかの違う結果に達することができると考えることはできない。〈中略〉問題は白人生徒や黄色人種の生徒の間でも当然、同様に決定されるべきである。その決定は、その公立学校の調節状態に関する裁量の範囲内であり、憲法第14修正に抵触するものでは無い。」
(三) その後
この判決が覆されるのは、1954年のブラウン事件(Brown v. Board of Education, 347
U.S. 483)判決まで待たねばならない。
一四 オルムステッド対合衆国事件
このOlmstead
v. United States, 277 U.S. 438 (1928)事件は、電話の盗聴に関する米国で最初の判例である。
(一) 事件の背景
1914年まで、米国の司法制度では、刑事裁判における証拠の妥当性の問題に関しては、ほとんど問題にされず、証拠が得られれば、法廷でそれが得られたプロセスが問題になることは先ず無かった。唯一の制限要因は、警察官が、証拠を得るために法律を破ることはできないということであった。その結果、今日、違法な押収とされるものは、当時は普通に認められていた。
それを変えたのが、1914年に連邦最高裁判事が全員一致で下したウィークス(Weeks v. United
States, 232 U.S. 383 (1914))事件判決であった。この事件で、連邦最高裁は捜索令状無しに民間住宅を捜索して得られた証拠は、第4修正に違反すると判決した。そして、違法に得られた証拠を連邦裁判所で証拠として採用してはならないとした。その先例が存在する状況下で電話盗聴の証拠能力性が問題になったのが本事件である。
(二) 事件の内容
オルムステッド(Roy Olmstead)は、禁酒法に違反し、違法にアルコールを所有し、輸送し、販売したかどで有罪判決を受けた。この事件ではオルムステッドの他に計72人が起訴された、という大規模な事件であった。酒の輸送には海上船舶を使用し、シアトルには地下倉庫を備え、中央事務所には幹部の他、簿記係、セールスマン及び弁護士までが常駐していた。記録に依れば、売り上げは悪い月でも17万6000ドル、全体を平均すれば1年間に約200万ドルに達していた。オルムステッドは、この事業の総支配人で、利益の50%を受け取っていた。
この犯罪の証拠は電話の盗聴によって得られた。盗聴器は事務所のある建物のそばの道路や建物の基礎に設置されており、禁酒法事務局がオルムステッドその他の電話の盗聴設備を設置するに当たっては,いかなる法律にも違反していなかった。盗聴は数ヶ月にわたって続けられ、その記録は明白にオルムステッド及びその被傭者達の犯行を証明していた。会話に関して速記録が作成され、その正確さは政府官僚の証言によって基礎づけられた。
オルムステッドは、電話の盗聴を証拠として採用することは、第4修正及び第5修正に違反しているとして、連邦最高裁判所に上告した。
(三) 法廷意見
連邦最高裁判所の意見は5対4に分かれた。タフトが判決を執筆した。まず、次の様に指摘する。
「この事件に関しては第4修正がまず侵害されない限り、第5修正が適用される余地はない。被告人等が電話を通じて会話するよう誘導するよう強制された証拠はない。彼らは継続的かつ自主的に、盗聴されていることを知らずに、ビジネスを行っていた。したがって、我々の検討対象は第4修正に限定されねばならない。」
その上で、上述のウィークス事件判例に言及する。
「ウィークス事件の顕著な結論及びそれから導かれることは、それが第4修正に関する広範な宣言であるが、しかしそれは証拠を参照したり、法廷で証拠を利用したりすることを制限しているものではなく、実際には、官憲が修正条項を侵して証拠を入手した場合に、その採用を禁止しているものである。したがって、もし問題の証拠が適切なものであれば、それを得るための方法は重要ではなく、多くの証拠は通常のコモン・ローの下に適切であると想定される。〈中略〉第4修正のよく知られた歴史的な目的は、一般令状ないし援助令状に対して向けられており、それは政府の武力が、個人の住宅、身体、書類及び所持品を捜索するために使用されることを防ぎ、その意に反して押収されることを防ぐことにある。」
こう述べて、ウィークス事件を含むいくつかの判例を引用する。その上で、次の様に結論を下した。
「米国は郵送された封書のようには、電報や電話によるメッセージには配意していない。修正条項は、今回の行為は禁止していない。捜索は全く行われていない。証拠は聴覚の使用によって、そしてそれのみによって獲得されている。被告人の住居ないし事務所への侵入は行われていない。50年前に電話が発明され、そして会話を拡大する目的でそれを利用することにより、人は離れた場所の人と会話できる。
修正条項の文言を、被告人の家や事務所から到達できる全世界につながる電話線を含むように拡大解釈することはできない。電話の盗聴は、彼の家または事務所がハイウェイに沿って伸びているものでない以上、家や事務所の一部ではない。」
(四) 反対意見
この事件では、ブランダイス、ホームズ、ストーン、バトラーの各判事が反対意見を書いたが、ブランダイス判事の反対意見が極めて名高いので、それだけをここでは紹介する。
「修正条項によって保護が保障される範囲ははるかに広い。我が憲法の制定者は幸福の追求に有利な条件を確保することを約束した。彼らは、人間の精神的性質、その感性、及びその知性の重要性を認識した。彼らは、苦痛や喜び、そして人生の満足の一部だけが物質的なもので見出されることを知っていた。彼らは、米国人を、その信念、その思想、その感情、そしてその感覚に関して保護するように努めた。彼らは、政府に対して、一人でいられる権利(the right to be let
alone)という、文明的な人間にとって最も包括的かつ最も高く評価される権利を付与した。どんな手段を用いてであれ、個人のプライバシーに対する政府による不当な侵入は、第4修正の違反とみなさなければならない。そしてその様な不当な侵入によって得られた事実を刑事手続において証拠として採用することは、第5修正の侵害とみなされなければならない。」
こうして、電話線の盗聴はプライバシーの侵害であるが故に第4修正に違反し、それに違反して得られた証拠の利用は、第5修正に違反すると主張したのである。
(五) その後
このオルムステッド判決は、1969年になってウォーレン・コートにおけるカッツ(Katz v. United
States, 389 U.S. 347)事件判決によって変更された。
一五 ウィスコンシン州対イリノイ州事件
英米法の基礎には、コモン・ロー(common law)とエクイティ(equity)という二つの法準則があるが、このWisconsin v.
Illinois, 278 U.S. 367 (1929) 事件においては、連邦最高裁判所のエクイティ権限が問題になった。
コモン・ローは、本来、イングランドのコモン・ロー裁判所が下した判決が集積してできた判例法体系である。これに対し、エクイティは、大法官 (Lord Chancellor)、すなわち今日の法務大臣を頂点とする行政機関が行った個別的な救済が、雑多な法準則の集合体として集積したものである。
コモン・ローとエクイティとの間には、主に次のような違いがある。
1 コモン・ローは契約法、不法行為法、不動産法(物権法)、刑事法の分野を中心に発展してきたのに対し、エクイティは古来のゲルマン法が対応していなかったその他の法分野を規律する法体系である。
2 コモン・ローは民事事件の救済としては金銭賠償を主とするのに対し、エクイティでは差止命令(injunction)、特定履行(specific performance)など、機動的、実際的な救済手段を認める。
3 コモン・ローの訴訟では陪審審理が用いられるのに対し、エクイティの訴訟では伝統的に陪審審理が用いられない。
4 伝統的には、コモン・ローの訴訟とエクイティの訴訟は別々の裁判所で取り扱われてきた。そして、コモン・ローは厳格な手続を採用してきたのに対し、エクイティの訴訟では比較的柔軟な手続運営がされてきた。
このような歴史的差異のある両制度であるが、今日では、通常英米両国とも、両制度を同一の裁判所が取り扱うようになってきており、その訴訟手続きにも余り違いはなくなっている。それでも、英米法の中でコモン・ローとエクイティの違いは広く認識されている。
憲法訴訟という観点から見た場合、最大の差異は、エクイティ事件においては、上記2の差止命令や特定履行の命令を下すことが可能な点である。すなわち、憲法訴訟の最終段階において、争点になっているのが自由権の侵害の場合であれば、裁判所としてその侵害の違憲・無効を宣言し、残る被害があれば、それに対して金銭賠償を命じれば、問題は解決する。それに対し、それ以外の権利の侵害が問題になっている場合には、問題を除去するためには、何らかの救済法が必要となる。ブラウン事件におけるバス通学命令などはその典型である。
本事件においては、エクイティ裁判所としての連邦最高裁判所が、どの範囲で判決を下しうるかを明確にした点に、歴史的意義がある。
(一) 事件の背景
この事件で問題になっているのは五大湖の水利である。
イリノイ州及びシカゴ衛生区*[26]では、シカゴ市の汚水・汚物を、下水路を兼ねる運河に排出していたが、汚物の量が増大し、不衛生になった事から、五大湖から取水して運河に注水し、強制的に押し流すという方法を使用するようになった。それを許容する法的根拠は、河川港湾法(Rivers and Harbors
Appropriation Act, 30 Stat. 1121 (1899))にあった。すなわち、同法10条は、合衆国の航行可能な水域に関し、連邦陸軍長官(Secretary of War)*[27]に、航行可能な水域に架ける橋の免許や埠頭および海岸線の保守に関する広い権限を定めていた。これに基づき、連邦陸軍長官が取水許可を与えていたのである。シカゴ市の発展と共に汚物の量も増大したことから、衛生を保つため必然的にその取水量を大幅に増大し、この時期にはミシガン湖から、毎秒8,500立法フィートの取水を行うようになっていた。
この大量の取水に伴い、五大湖及びそれに接続する河川の水位が最大6インチも下がり、その水上航行に支障を来すようになった。そこで、イリノイ州以外の五大湖及びその接続水域に面するウィスコンシン、ミネソタ、ミシガン、オハイオ、ペンシルヴァニア及びニューヨークの諸州が、イリノイ州及びシカゴ衛生区を相手取って、その取水の差し止めを求めて提起したのがこの訴訟である。
他方、その下水路兼運河は、北米大陸の大分水嶺を超えて最終的にはミシシッピ川に繋がっており、これはミシシッピ川流域の諸州からシカゴへの重要な通商路として発展していた。したがって、取水制限が行われることになると、その運河の水位が下がって船舶の運航に支障が生じ、それら諸州は大きな経済的打撃を受ける恐れがある。そこで、ミズーリ、ケンタッキー、テネシー、ルイジアナ、ミシシッピ及びアーカンソーの諸州は、裁判所の許可により、イリノイ州側の共同被告となり、訴えの却下を申し立てた。
つまり、この事件では、事件名としては、二つの州名のみが上がっているが、それは紛争の当事者となっている州の筆頭になっている州名が上がっているだけで、実際には合計13の州が原告ないし被告として訴訟に参加しているという巨大訴訟であった。
この事件は、州と州との争いなので、合衆国憲法3条2節の定めるところにより、連邦最高裁判所が第1審裁判所である。
(二) 特別補佐官の活動
連邦最高裁は、ウィスコンシン州等の訴えに対し、専門家を特別補佐官(special
master)として選任し、調査に当たらせた。特別補佐官の見解によれば、シカゴ衛生区によって行われた毎秒約8,500立方フィートの取水は、湖及びそれに接続する水路の平均水位低下の原因となった。すなわち、ミシガン及びヒューロン湖では約6インチ、エリー湖とオンタリオでは約5インチ低下し、接続する河川および港でも同程度の低下が見られた。毎秒1500立方フィートの追加、すなわち全体で合計毎秒1万立方フィートの取水は、ヒューロン湖とミシガン湖でさらに約1インチの水位の低下を引き起こし、エリー湖とオンタリオ湖では1インチ弱の、そして接続水路内でもそれに対応する水位の低下の原因になる。
しかし、シカゴ市及びイリノイ州は特別補佐官の見解に反対し、問題の解決を遅らせたので、最高裁は1928年4月23、24の両日にわたって,裁判官全員出席の上、特別審理を行った。
(三) 法廷意見
タフトは、まず原告、被告両者の見解を整理した。
被告諸州は、本件取水は、州際通商権限に基づく連邦議会の立法の結果であり、侵害があるとしても、それは原告諸州に損害賠償が認定されない損害(damnum absque injuria)であると主張した。
これに対し、原告諸州は、第一に、合衆国憲法の定める州際通商権限に基づく規制は、その水を、大分水嶺を超えてミシシッピ流域に移送することにより、連邦議会が五大湖の航行能力を侵害する権限を定めたものでは決して無いこと、第二に、水の移送は、ある州の港の優先順位を他の港よりも上げることを禁じている憲法に違反していること、そして、第三に、原告諸州とその市民に対し、この侵害は適正手続き保障なしに、その財産権を侵害するものであり、連邦構成員としての主権を侵害するものである、と反論している。
もし、これらの問題のいずれかが原告諸州に有利に判定されるならば、判決は彼らの優位に下され、取水は制限されねばならない。
最高裁判所の選任した特別補佐官は次の様に述べた。
「転用は衛生を主たる目的としていることに疑いの余地はない。取水した水の、ミシシッピ河への水路への分水事業や、ないしその水路での航行に貢献する可能性という利益ということがいわれているが、本当は、イリノイ州及び衛生区によるシカゴの下水の処分し、向上させ、維持し、発展させることが支配的要因となっている。
衛生上の緊急性には劣後するものの、電源を開発するために運河の流れを利用する目的は、間違いなく存在している。これまでのところ、転用水は発電に使用されているが、この使用は単に偶発的である。」
タフトは、このような状況の下においては、最終的に連邦裁判所が介入するほかはないとし、次の様に述べた。
「前述の目的とその完了に必要な期間を達成するために必要な実際的な措置を決定するためには、そこに専門家の審査が必要となり、必要な法令の適切な規定は慎重な検討が必要になる。このような理由から、さらなる検査のための特別補佐官を任命することとする。彼は承認され、各当事者が提示する証人を聞いて、彼自身の選択の証人を呼ぶように指示される。
以上、命令する。」
(四) その後
翌年になって、最終的な判決が下された(Wisconsin v. Illinois, 281 U.S.
696 (1930))。その概略を紹介すると、1930年7月1日から1935年12月31日までは、年間平均で毎秒6500立方フィートまでの取水は認める。1935年12月31日から1938年12月31日までは、毎秒5,000立方フィートまでの取水は認める。それ以降は毎秒1500立方フィートまでの取水しか認めない。このように一方において取水制限を徐々に強化しつつ、一定の過渡期を認め、その間にシカゴ衛生区に下水処理場の建設を行わせる。その場合、シカゴ衛生区は、裁判所書記に、1930年7月1日を第1回として、半年に一回ずつ、すなわち各7月1日と1月1日に、シカゴ衛生区によって提案されたプログラムで概説されていた下水処理場及びその設備の建設工事の進捗状況を記載した報告書を提出するものとし、それには稼働を開始した下水処理場の運転状況や効果を記載し、また、この判決の申し渡しからその報告までの期間中にミシガン湖から取水した平均水量も記載するものとする。原告または被告は、上述した報告の提出の提出にかかわりなく、この判決に従い、それ以上の行動または救済を申告することができ、当裁判所は、上記訴訟に関し、何らかの命令や指示、ないし本判決の変更または補足、その他本争訟の主題との関係で適切であると認められるあらゆる措置を執る権限を有する。
こうして、裁判所の監視下に、シカゴ市は近代的な下水処理場を建設することで、この巨大訴訟は決着したのである。
[おわりに]
この憲法判例史的にはロックナー時代(Rochner Era)と呼ばれる時代、社会が激しく変動するのに対応して、連邦議会はそれまでになかった様々な立法を行った。これに対して、連邦最高裁判所は、多くの場合にロックナー時代にふさわしく、社会の変化に抵抗するような保守的な判決を一般的には下している。しかし、本稿に紹介したとおり、社会変化を肯定する進歩的な判決もいくつか下しており、その意味で全体としての方向性が不明確である。
その原因は、直接には連邦最高裁判所が進歩派と保守派の微妙な均衡の上に立っており、そのためにディ判事やピトニィ判事のような中間派がわずかに意見を変えることで,判例が激しく揺れ動いたためである。しかし、より根本的には
(進歩的判決も)「その手法はホームズの消極主義と異なり、むしろ司法が積極的に州法の内容を吟味し、それが好ましいと判断すれば合憲とするものであった。したがって結果においては進歩的であっても、その手法はペカム判事などの古い世代のそれと,それほど変わらない。であれば、最高裁が何を好ましいと考えるかによって判決は左右される。保守的にも進歩的にも結果が揺れる可能性がある。」*[28]
つまり、基本的に司法積極主義を採用しているために、個々の判事の主観の揺れが、本稿に紹介した判例の揺れを導いたのである。
こうしたわずかの差異により判例が揺れ動き、迷走する現象は、この後いよいよ加速していくことになり、その影響を受ける米国民にとって耐えがたいものとなって、次稿で取り上げる憲法革命に至るのである。
*[1] 合衆国訟務長官(United States Solicitor General):1870年(グラント大統領時代)に創設された官職で、連邦最高裁判所で政府が関わる訴訟を遂行し、あるいは監督する。すなわち、訟務長官は口頭弁論を自ら、あるいは副長官等を通じて行うと共に、下級審に係属した事件のどれを連邦最高裁判所に上告するかを決定することなどを任務とする。今日、連邦政府が関わる訴訟は連邦最高裁判所に係属する事件の3分の2に達している。参照=司法省訟務長官ホームページ=http://www.justice.gov/osg
[2] ロックナー事件(Lochner v. New York, 198 U.S. 45 (1905))判決については拙稿「第14修正と裁判所−ウェイト第7代及びフラー第8代長官の時代−」日本法学79巻2号192頁以下参照
*[6] 当時の鉄道会社は、競争のない地域では運賃が高く、競争のある地域では非常に運賃が低く設定するなど、その権力を濫用していた。そこで、議会は待遇に差別を設けることを禁じ、適正な料金を決める権限をICCに与えたのである。なお、1995年、ICCの権限は陸上輸送委員会に移譲され、ICCは廃止された。
参照=連邦官報事務局ホームページ=
https://www.federalregister.gov/agencies/interstate-commerce-commission
*[7] 二つの合衆国銀行問題に明らかなとおり、米国には中央銀行制度に対して、非常に根強い否定的感情がある(この点についてはマカラック対メリーランド州事件(拙稿「米国違憲立法審査権の確立−マーシャル第4代長官の時代−」日本法学78巻3号138頁以下)参照)。そのため、第2合衆国銀行がジャクソン大統領によって潰された後は,個々の民間銀行が紙幣を発行してきた。しかし、1907年にロンドンでの米銀の手形割引拒否に端を発する恐慌が起き、アメリカ合衆国内の決済システムが混乱した。その対策として、連邦準備制度法(Federal Reserve Act=提案者の名によりオーウェン・グラス法の名で知られる)が提案されたが、依然として反対が強かった。しかし両院の間で妥協が成立し、まず下院が1913年12月22日に賛成298、反対60、棄権76で可決し、翌23日に上院が賛成43、反対25、棄権27で可決したので、その日のうちにウィルソン大統領が署名して、同法が成立した。連邦準備制度は、様々な妥協の産物で、単一の中央銀行を設立するのではなく、ワシントンD.C.に駐在する連邦準備制度理事会と12地区に分割された連邦準備銀行により構成される非中央集権化された中央銀行とでも呼ぶべきものである。
参照=FRBホームページ=http://www.federalreserveeducation.org/about-the-fed/history/
ワシントン法律図書館協会ホームページ=http://www.llsdc.org/FRA-LH
“An Act to Provide a Penalty for
Coercing or Influencing or Making Demands upon or Requirements of Employees,
Servants, Laborers, and Persons Seeking Employment”
5508,
Revised Statutes, 19 of the Penal Code [35 Stat. at L. 1092, chap. 321, Comp. Stat. 1913, 10183].
*[12] ワシントン州職業紹介所法の正式名称は次のとおりである。
“An Act
to Prohibit the Collection of Fees for the Securing of Employment, or
Furnishing Information Leading Thereto, and Fixing a Penalty for Violation
Thereof.”
*[13] ブランダイス(Louis Dembitz Brandeis)は、ブランダイス・ルールなど、米国憲法訴訟理論を代表する重要な判事なので、簡単に彼の略歴を紹介する。
彼は、1856年にユダヤ系移民の子としてケンタッキー州ルイスビルで生まれ、ハーバード・ロースクールに入学した。1890年に「プライバシーの権利(The Right to Privacy)」という論文をハーバード・ローレビュー(Harvard Law Review)に発表し、今日におけるプライバシー論の基礎を作り出したことは、あまりにも有名である。
大学卒業後、ボストンで彼が弁護士として活動した時代、ブランダイスは弁護士として、FCCに協力して鉄道の独占や労働者の権利侵害と戦い、FRBの創設を助け、またFTCに様々な助言を与えた。
そうした活動が評価され、彼は1916年に、ウィルソン大統領によって、ユダヤ人として最初の合衆国最高裁判所陪席判事に任命されることになる。この事件は、彼の就任後間もない時期の判決である。
*[14] この法律は形式上議員提案となっているが、実際の内容はマッケルウェイ(Alexander McKelway)率いる全国児童労働委員会(the National Child Labor
Committee (NCLC))の検討の成果物であり、また、その成立に当たっては、ウィルスン(Woodrow Wilson)大統領の強力なロビー活動が寄与していた。
参照=米国国立公文書記録管理局ホームページ=http://www.ourdocuments.gov/doc.php?flash=true&doc=59
*[16] 6号条約は、18歳未満の年少者の工業的企業における夜10時から朝5時までの少なくとも11時間の継続の労働を禁止している。ただし、ガラス工場等における工程の性質上必要な作業においては、16歳以上の年少者の夜間使用を認めるほか、夜間の定義において若干の柔軟規定が含まれている。
*[18] 14号条約は、農業的企業における年少者の夜間使用について、その生理的必要に応じ、14歳未満の場合は継続する10時間以上、14歳以上18歳未満については9時間以上の休息時間を確保するよう取り締まる措置を講じることを求めていた。この程度の内容でさえ、勧告という形でしか出せなかった点に、当時の世界的状況が偲ばれる。
*[20] 一連の判決は、選抜徴兵法事件(Selective Draft Law
Cases)の名で知られている。一括して審理したが、判決は、その原告がどの憲法条項に依存して違憲を主張したかに応じて分けて下された。ホワイトがいずれについても判決文を執筆した。
*[22] Muller v. Oregon, 208 U.S. 412 (1908)とは、オレゴン州の女性の労働時間制限法の合憲性が争われた事件である。最高裁判所は全会一致でオレゴン州法を支持した。この事件では、弁護士時代のブランダイスが作成した上告書類が、その後の模範となるような優れたもので、ブランダイス・ブリーフと呼ばれることでも有名である。
*[23] 先物契約とは、将来における特定の商品を特定の価格で売買する事を取り決めた契約のことである。企業は、穀物を長期にわたり安定して供給を受ける必要がある。ところが、穀物価格は季節等により乱高下する。そこで、決済期日前に反対売買することでそうした変動を相殺し、同一価格での供給を受けることが可能になる(ヘッジという)。しかし、そのためには、先物取引の担保金は少額に抑える必要がある。この結果、比較的少ない資金で多額の投機を行うことが可能となるため、投機家にとっては現物市場などよりも利益を得やすい。なお、世界最初のきちんと整備された穀物先物市場は大阪の堂島の米会所で、享保15年8月13日(1730年9月24日)に開設された。
*[24] これは、先物取引を規制する合衆国で2番目の法律である。最初のものは1864年対金先物取引法(The Anti-Gold Futures Act of
1864 (13 Stat. 132))で、これはグリーンバッグと呼ばれた紙幣の、市場価格の下落を防ぐために制定された。しかし、その制定自体がグリーンバッグの市場価格の暴落を引き起こしたので、わずか2週間で廃止された。
*[26] シカゴ衛生区(Sanitary District)は、1889年イリノイ州法=衛生区権限付与法(Sanitary District
Enabling Act)に基づき1890年に設立された特別地方公共団体である。米国における特別区は,区内全域の資産価値を従価方式で課税評価したものを財源とし、受益者負担原則に基づき、運営される広域行政機関である。通常、米国の特別区は、利用料収入を財源とするが、シカゴ衛生区の場合には、この特別法により課税権が認められていた点に特徴がある。それは、当初185平方マイルの面積を管轄した。その後の法律で、それはシカゴ周辺の都市圏全体に拡大し、さらにイリノイ州の南東の州境から北のクック郡の北の境界にまで伸びる、およそ438平方マイルの地域に増加し、この訴訟の時点では計54市町村で構成される組織となっていた。今日ではMetropolitan Water
Reclamation District of Greater Chicago (MWRD)と改称され、129地方自治体(Municipality)、30地域(Township)を含む組織となっている。
[27] Secretary of War:直訳すれば戦争長官である。米国には当初、陸軍しか存在しなかったため、軍全体を統括する役職で、閣僚であった。しかし、1798年に海軍長官(Secretary of the Navy)が閣僚に加えられたことで、陸軍に関する責任のみを負うこととなった。わが国のような社会国家と異なり、米国は自由国家(消極国家)であるため、わが国の国土交通省に相当する国家機関は存在していない。それに代わって公共事業を掌るのは陸軍工兵隊である。その結果、国土交通省が有するような許認可権は、陸軍長官に帰属するのである。
なお、1947年に国家安全保障法(National
Security Act of 1947)が施行され、国防長官 (Secretary of Defense) が設置されて閣僚となった結果、今日では陸軍長官は名称をSecretary of the Armyに変更され、国防長官の下に置かれることになっている。